パリ大学病院の名誉教授が「ワクチン接種拒否の選択をした人は、集中治療室に入るのも辞退すべき」と発言して、賛否両論を呼んでいる。

マクロン大統領も「ワクチン接種拒否者は、無責任であり、もはや市民ではない」「彼らの社会生活を、めいいっぱい制限して、とことんうんざりさせてやる!」と、ワクチン拒否派に対する徹底した抑圧を宣言した。

フランスでは、繰り返される市民の激しい反対デモにも関わらず、1月24日から、飲食店・公共交通機関などの利用の際に接種証明書の提示を義務付ける、事実上の16歳以上のワクチン義務化の法律が施行される。イタリアでも、50歳以上にワクチンを義務化する方針である。

 

フランス国内では「ワクチン未接種で感染し重症化したコロナ患者に対して、怒りを感じる」とメディアに表明する救急医もいる。誰も、コロナで重症化したいとは思っていないのだが、件の医師は重症化した患者に「それ見たことか!」と言いたくなるのだそうだ。

オーストリアでは、18歳以上の成人のワクチン未接種者に3月中旬から最大で46万円の罰金が課せられる。ドイツのショルツ政権、アメリカのバイデン政権も、一般市民へのワクチン義務化を推進している。彼らの言い分は「ワクチン接種拒否者は社会を危機に陥れている」「ワクチン接種は市民の当然の義務である」というものだ。

 

では、「ワクチン接種拒否者は、自らの個人的なわがままによって、社会を危機に陥れている」という、これら一部の急進的なワクチン推進派の見解・主張は、本当に正しいのだろうか?

 

考察すべきポイントは「ワクチン接種拒否は、無責任でわがままで愚劣な態度であるとする判断は妥当なのか?」という問題と、「ワクチン接種拒否は、本当に社会を危機に陥れていると言えるのか?」という問題の2点だ。

 

まず、1点目、「ワクチン接種拒否は、無責任であり、個人的なわがままであり、非科学的であるのか」について考察してみたい。

「無責任である」という判断が成り立つためには、「自分のことしか考えていない」ように見える自己中心的で非科学的な行動に対する正当な批判であることが必要だ。

しかし、多くの人にとって、ワクチン接種拒否という判断は、自分の身体の健康や命の問題について、真剣に論理的に考えた結果である。大抵の人にとって、命のかかった問題に関して下した判断を自己中心的と批判されては立つ背がない。

具体的に考えてみよう。

たいていの人にとって、ワクチン接種拒否の理由は、大まかに考えて以下の3点に集約される。

 

ワクチンによる後遺症が怖い。

コロナの後遺症と同様に、仕事にも学校にも行けず、数ヶ月という長期に渡って非常に強い副反応(ひどい倦怠感や全身の痺れ、頭痛・発熱・吐気など)に苦しんでいる人も多いのだが、なぜかほとんどニュースにならない。医学的にも、ワクチンとの因果関係が、公的には認められず、無視されている状態だ。現実に苦しんでいる人たちが、ワクチンの後遺症を訴えると、ワクチン反対派の嫌がらせと思われて、冷淡に扱われるということもあるようだ。

また、ワクチン接種による人体への後遺症は、すぐに現れるものとは限らない。もしかしたら、数年後に現れるかもしれないし、その後遺症が、深刻なものであったり、致命的であったりする可能性もある。

はたしてこのワクチンを、3回も4回も打って大丈夫なのか?

5歳の子供に打って大丈夫なのか?

これに関して、これまでの世界の薬害の歴史の蓄積から、欧米の2〜3割の人は、製薬会社も大学も政府も信じていない。だから、彼らはワクチンを拒絶する。

特に、将来ある子どもたちに対してのワクチン接種は、若年層のコロナ重症化の可能性の低さもあり、はたしてリスクをおかす必要があるのか、と慎重にならざるを得ない、と考える人が多いのは当然であろう。

 

ワクチン接種後の死亡リスクを重視。

ワクチン接種後の死亡件数は、接種翌日から接種後3日目までに、極端に偏っており、一定でない。そこから、接種後の死亡とワクチンとの因果関係を推測できる。

コロナ感染による死亡リスクと比較して、どちらが上とは言えないが、各国政府も医師たちも、ワクチン接種と死亡・重篤化の因果関係をほとんど認めようとしないことから、各国のかなりの割合(2〜4割)を占める懐疑的な人々の間で、むしろ、ワクチンへの信頼より不信感が醸成されている。

リスクの大きさは、当然、個々人の体質や体調と深く関係するだろう。しかし、「体調や体質によっては死をもたらすが、事前に察知することはできない」というのは、多くの人々にとって見過ごせない脅威である。

予防のためにワクチンを接種して、重篤化したり死に至ることもある」と考えると、いかにその可能性が低いとはいえ、命に関わるリスクが明らかに存在するわけだから、接種には慎重にならざるを得ないのである。

 

ワクチンの効果を疑問視

「ワクチンは本当に感染防止に役立つのか?」という点について、いろいろなレベルで疑義がある。変異株、特にオミクロン株に関しては、ワクチン接種完了者と未接種者の感染率に大きな差はない。イスラエルからは「たとえ4回目ブースター接種をしても、予防効果は限定的であり、感染は起こっている」という報告がある。一年に3回も4回もワクチンを打って、それでも、やはり感染はするというのだ。

そして、ワクチン接種後の感染で無症状であっても、他者への感染は起こるのだから、ワクチン接種拒否者だけが、ウイルス感染を広めているとは言えない。ワクチン接種完了者も、そう変わらない割合で感染を広めていると考えるのが妥当である。

一方で、重症化率については、かなりの差があるようだ。一般にワクチン未接種者の方が、重症化率が高い。ところが、一方で、「一旦重症化してしまうと、むしろ、ワクチン接種回数の多い人の方が、致死率が高くなる」というデータもある。つまり、ワクチン接種者、未接種者、それぞれの重症者数を母体とした致死率は、ワクチン未接種者の方が低くなる可能性がある。

「ワクチンを打たなかったために重症化したが、ワクチン接種拒否したおかげで、死なずに済んだ」という可能性もあるわけだ。

少なくとも、数ヶ月の間は抗体が増えて、感染時の重症化を抑えられるとしても、5ヶ月程度で体内の中和抗体は半減する。そうすると、変異株が出てくるたびにブースター接種を繰り返すのかという問題もある。度重なるブースター接種で身体をワクチン漬けにしてしまっては、かえって免疫力の低下を招くのではないか、という恐れもある。

 

以上、三つの論点は、論理的・科学的に考えて、もっともなものである。ワクチン接種拒否の理由として、十分に理解できる。これは命のかかった切実な選択の問題であり、ワクチン接種拒否を、身勝手、わがまま、自己中心的、非科学的な判断と断じるのは、それこそ、ワクチン推進派による自己都合で一方的すぎる断定ではないか、と感じる。

なぜなら、ワクチン接種を受け入れた側の判断もまた、一義的には自らの健康と命を守るための最良の選択と信じて決断しているわけで、自分の命よりも周囲への義務を第一に考えて接種したという人は、それほど多くはいないはずであるからだ。

上記したように、たとえワクチンを接種したとしても、感染自体は防げないし、たとえ軽症・無症状であっても、自分が他者に感染させる可能性も減りはしないのだ。そう考えると、ワクチンを接種した人ほど、安心して活動範囲を広げがちであることから、その後、他者に感染させてしまう恐れは、むしろ大きいとすら言える。

 

一方で、「感染者急増時には、ワクチン未接種者のせいで重症者が増え、そのせいで医療が逼迫する」というワクチン推進派の主要な言い分は、正当なものとして成り立ちうる。

しかし、ウイルス自体(オミクロン株)の毒性(重症化率)が、パンデミック初期の株と比べて10分の1に弱毒化している現状では、それほど説得力のある言い分とも思えない。

また、人口比死亡率が、地域や国によって、あまりにも異なるため、ワクチン以外の未知の要因が大きすぎて、「ワクチン接種拒否者に重症者増加の原因を安易に押し付けていいのか?」という問題もある。

例えば、日本とアメリカでは、人口当たり累計死者数で17倍の差がある。一方で、ワクチン接種拒否者がアメリカに日本の17倍いるわけではない。

一般に、中国とその周辺の東アジア圏、赤道直下の中部アフリカでは、コロナによる人口比死亡率が、大まかに見て欧州や南北アメリカ大陸の10〜100分の1と、極端にコロナ犠牲者が少ない。感染率も低い。

そもそも、保健・医療が進んでいない中部アフリカの国々のワクチン接種率は、欧米に比べて非常に低いのだが、ワクチンを打っていないのにも関わらず、彼らは重症化しないのだ。だから、中部アフリカ諸国では、誰もワクチン接種に関心がない。

例えば、コンゴ民主共和国では、ワクチン接種率が1%未満であるが、無料接種会場に接種希望者が集まらないので、各国から寄付されたワクチンの7割を返還している。というのも、人口比累計死者数は、日本の10分の1以下に過ぎないからだ。

また、例えば、南アフリカでは、医療もあまり発達しておらず、ワクチン未接種者が72%もいるのに、オミクロン株は医療逼迫をもたらすことなく、既にピークアウトしている。死者・重症者も欧米より若干少ない。ここでも、ウイルスに対する抵抗力の地域差が、ワクチン接種率の低さをカバーしているように見える。

それに対して、同一地域におけるワクチン接種の有無による重症化割合の個人差は3〜10分の1程度にとどまる。

したがって、医療逼迫の要因としては、地域間の差の方が、ワクチン接種の有無による個人差より、はるかに大きいのが現状である。「ワクチンを打っているか、いないかよりも、日本に住んでいるのか、アメリカに住んでいるのか、コンゴに住んでいるのかの方が、リスクの違いが大きい」ということだ。

 

百歩譲って、ワクチンのお陰で医療崩壊せずに済むのだとしても、それは過渡期の一時的な問題に過ぎないのに対して、ワクチンによる後遺症(ワクチン害)の話は、むしろ、これから長く数十年にわたって検証されなければならない問題である。

「人類全体が、猫も杓子も全員一致で、一方的にワクチン接種推進に向かうわけではない」という現状は、種の保存や生物多様性の確保の観点からも、むしろ、好ましいのではないだろうか。

ワクチンを打っていない人の身体が、将来、希少価値を持つ時代が来ないとも限らない」のである。

その意味では、ワクチン接種拒否者は、長い目でみて、人類に大きな利益をもたらす可能性がある。

はたしてワクチン接種拒否者が人類社会にもたらす害と利益のどちらが大きいか、我々は偏見抜きで冷静に考えなければならない。

 

私が非常に奇妙に感じるのは、普段であれば少数派意見の圧殺に対して「民主主義の危機だ!」「権力の横暴反対!」と猛反発して大いに憤るリベラルが、このワクチン問題に関しては、なぜか人口の7割を占める多数派のワクチン許容派を良識を持つ人々と信じ込み、人口の3割を占めるワクチン接種拒否派を〝脳がおかしい〟と上から目線で決めつけて、問答無用で圧殺する姿勢を露わにしていることだ。これは日本のみならず、欧米各国にも共通の傾向である。

本来なら少数派の味方であるはずのリベラルが、コロナに関しては、むしろ理性を失っているように感じる。特にジャーナリストがひどい。製薬会社のエージェントかと思われるほどに、ワクチン推進派支持に意見が偏っている。

こうして「ワクチン接種拒否派を追い詰めていくことが社会にとって良いことだ」という迷いのない信念を表明するのは、政治家であるマクロン氏としては問題ないのかもしれないが、学識者やジャーナリストとしては、あまりにもナイーブに過ぎるのではないだろうか。

上記の発言によってマクロン大統領の1月23日の支持率は、先月より4ポイント下落して37%になち、不支持率は60%に上昇した。バイデン大統領も、事実上のワクチン義務化法案を、連邦裁判所に違憲と判断され、取り下げることを余儀なくされ、バイデン大統領もの支持率も、就任丸一年の1月20日の調査では、就任以来最低の43%(ロイター)、41%(ギャラップ)などとなり、いずれも支持率を不支持率が上回った。

国民はむしろ、メディアや政治家よりも、公平・冷静に、このワクチンをめぐる問題と向き合っているのかもしれない。

学識者の権威を利用して、操作されたデータを振り翳して、反知性主義の本音を覆い隠しながら、科学の名の下に、最も科学的・論理的な思考を有する少数派の人々の口を封じて抑圧しようとする、唯我独尊のリベラルメディアとリベラル政治家たちが展開する『常に、より迅速に、より多くの人が、ワクチン接種を繰り返すのが正義』というワクチン・プロパガンダに騙されてはいけない」と、市井の人々の方が、よくわかっているのだろう。

 

〈参考〉

国名    ワクチン接種拒否 1日の死者数   総人口  人口比累計死者数

韓国       16%                33人    5178万人      115人

デンマーク    19%                16人        583万人      570人

日本       21%                11人     1億2580万人      146人

カナダ      21%              111人    3801万人      798人

イタリア     24%              346人    5955万人    2292人

フランス     25%              231人    6739万人    1906人

台湾       27%                  0人    2357万人      36人

ドイツ      28%              157人    8324万人    1353人

オーストリア   28%                10人      892万人    1522人

イギリス     29%              268人    6722万人    2182人

イスラエル    34%                26人      922万人      885人

アメリカ     37%            2168人   3億2950万人    2556人

インド      50%              485人   13億8000万人      345人

ロシア      52%              671人       1億4410万人    2149人

南アフリカ    72%              116人    5931万人    1515人

コンゴ民主共和国 99%                53人    8956万人      13人

※2022年1月14日現在のワクチン接種完了していない人の割合

※2022年1月23日現在の7日平均死者数

※2022年1月6日現在の100万人あたり累計死者数

オール電化のキッチン、とりわけ、IHは、家庭料理を滅ぼす元凶である。

ところで、IHってなんの略なんだ?

International Hisociety とか、か?

つまり、「ワンランク上の生活を目指す貴方に」「時代はIHです!」というわけだ。

 

だが、そのおかげで、家庭料理の劣化は甚だしいことになっている。

IHの問題点は、例えば、フライパンの調理機能が恐ろしく限定されてしまうことだ。

炎の制御を必要とする中華料理はもとより、ステーキなども、美味しく作れない。

それどころか、目玉焼きや卵焼きすらも、ぜんぜん上手く作れない。

ガスレンジで調理したものに比べると、格段に不味い。

IHで調理すると、卵焼きや目玉焼きなど、ゴムのような奇妙な食物と思えぬ物体が出来上がる。同じ材料から、どうしてこれほど不味いものが出来上がってしまうのか、不思議である。

 

IHは、フライパンを傾け、炎の熱を自在に操る、長年磨いてきた個人の技量そのものを拒絶する。

IHでは、料理の技能を振るう余地がない。

それは、ある意味、「料理の死」である。

 

こうして、生まれた時から、オール電化の家で暮らしている子供は、まともな料理を知らずに育つことになる。これは「家庭料理の喪失」である。

人類は、有志以前から炎を用いて調理してきた。炎を操ることに料理の喜びがあるのだ。

それを、今になって、捨てようというのか?

 

それは、どうも、間違った道であろう。

ヒトにとって、炎を御すことを忘れてしまうのは、知恵を捨てるに等しい。

オール電化は、人類滅亡の道かもしれぬ。

 

 

浜比嘉島は、沖縄本島の勝連半島と橋で繋がっている島の一つです。浜比嘉島は、さらに、平安座島、宮城島、伊計島とも橋で繋がっています。

 

この4つの島が、沖縄本島と繋がったのは、本島と平安座島の間にある広大な干潟に、全長4.75Kmの「海中道路」と呼ばれる埋め立ての道を通したことによります。

この「海中道路」開通の条件は、平安座島に、石油備蓄基地を建設することを島民が受け入れることでした。開発当時、島は、賛成派と反対派に分かれて激しく対立しました。反対闘争は長く続きました。しかし、今になってみると、海中道路のない生活など、島民には考えられないでしょう。実際、道路ができる前には、干潟を歩いて渡る島民が、満ち潮の渦に巻かれて、よく亡くなったそうです。

当時、平安座島の石油備蓄基地建設反対運動に関わった人たちは、その後、石垣島の新空港建設反対運動などを経て、辺野古基地建設反対運動に加わっていきます。

「海中自体は、今では観光名所の一つになっている感があり、クリスマス・シーズンにも、寒空の下、パラセーリングを楽しむ若者が集まります。

 

さて、浜比嘉島への道順ですが、沖縄本島の東海岸にある勝連半島から「海中道路」を通って、まず最大の島である平安座島に入ります。平安座島は、巨大な石油備蓄基地がある島です。平安座島からは、2つの島に橋が架かっています。そのうち島の最奥にある橋の一つは、四つの島の中で最も小さい宮城島へと繋がります。そして、宮城島はさらに橋で伊計島へと繋がります。伊計島には、橋のすぐ近くに伊計ビーチ、奥へ進んだところに大泊ビーチと、2つのビーチがあります。そのうち、大泊ビーチには、姓名判断で有名な占い師の方がいて、予約が半年先まで埋まっているそうです。それから、伊計島の一番奥には、お客さんがほとんどいないことで有名な巨大な〝幽霊ホテル〟があります。

宮城島、伊計島は、観光客がほとんどいない静かな島です。

この4島だけに限った話ではなく、一般に、沖縄本島の東側の海岸は、観光地としての開発が、ホテルや店舗が乱立する西海岸に比べて、あまり進んでいません。その分、落ち着いた佇まいを見せてくれます。

 

平安座島から橋が架かっているもう一つの島が浜比嘉島で、浜比嘉島へ向かう浜比嘉大橋は全長900mで、この4島を結ぶ橋の中でも最長の美しい橋です。

浜比嘉島は周囲6.5Kmほどの小さな島ですが、島には二つの集落があります。橋を渡って浜比嘉島に入るとT字路になっていて、右に向かうと浜、左に向かうと比嘉という集落に着きます。

比嘉集落の港付近には、沖縄開闢の祖とされる女神アマミキヨ(アマミチュー)の墓があり、さらに奥に向かうと、アマミキヨが男性神シルミチューと過ごしたとされる「シルミチュー」と呼ばれる霊所があります。「シルミチュー」は、沖縄本島の東西南北を司る四つの霊所のうち、『東の霊所』にあたります。

「シルミチュー」は、大きな鳥居をくぐり、108段の石段を登った先にある岩の洞窟です。この洞窟に、今日も、沖縄中のユタなど、多くの人々が〝ウガン(御願)〟に訪れます。

 

霊場の多い沖縄県の中でも、浜比嘉島は特別な島の一つです。また、有名な霊所やスピリチュアルなパワー・スポットが、比嘉集落に多いので、観光客も浜よりも比嘉に向かう人が多いです。

ところが、歴史的には、浜の方が古く、浜の人に言わせると、『浜には600年前から人が住んでいましたが、比嘉の方は400年前に島外から人が集まってきて生まれた寄留民の部落で、よそ者の集落なのだ』と言うのです。そのため、今でも、浜と比嘉では、言葉のイントネーションも違うし、交流も少ないそうです。顔立ちも、集落によって、それぞれ少しづつ異なっているように思います。

それにしても、こんな小さな島の中で、400年経っても二つの集落の人がほとんど婚姻などで混じらない、交流がない、仲が悪い、というのが、いかにも沖縄らしいというか、普通に考えると、逆にすごい話だと思うのです。

宮城島と伊計島など、隣の島の人同士も、基本的にあまり仲が良くないと聞きます。内地から移り住んだ人が、『「小国寡民」という面もあるのでしょうが、それよりも、むしろ、ここ沖縄は〝差別の島〟ですねえ』と言うのも、無理はないと言うか、住んでみての実感のこもった話です。

 

浜比嘉島の浜集落には、比嘉集落のように目立った有名な霊所はありませんが、向かいの平安座島が望める海岸線は非常に美しいです。夕陽の綺麗なのんびりとした浜辺です。

集落のはずれには、ふるさと海岸と名付けられたビーチがあり、12月後半に入った今も、大勢の人がテントを張ってキャンプを楽しんでいます。ビーチへの入場料もなく、テントを張るのも無料なので、家族連れなどが集まります。

沖縄のビーチは、ホテルや地主に囲い込まれて、一般の人が気安く立ち入れないところが増えています。その中で、この浜比嘉のビーチは、誰でも遊べる自由な場所として、すべての人に開放されています。

クリスマスにもお正月にも、内地から来ている若者たちが、気温21度のポカポカ陽気の中、ハンモックでうたた寝、気温15度の曇り空の下であっても、ウィンドサーフィンやジェット・パックを楽しんでいます。ダイビングに訪れる人もいます。

浜集落に入ると、沖縄の田舎特有の時の止まったような雰囲気に包まれて、癒される気もします。よそ者が、集落の一員として認められ、受け入れられることは、永遠にないでしょうが、だからこそ、ここでは「時が止まっている」のかもしれません。

 

比嘉集落では、内地から移り住んだ若い女性が、アマミチューの墓の向かいあたりでパーラーを営業しています。塩分控えめの自家製油味噌を使用した特製のポーク卵おにぎりと地元特産のもずく入り手作りクラムチャウダーがオススメです。また、比嘉集落に向かう途中の道沿いでは、これも、内地から移り住んだ若い夫婦が、見晴らしの良いロッジで「空とコーヒー うきぐも」というカフェを営んでいます。こちらも自家製ツナやチキンのサンドイッチが美味しいです。総じて県外から来て商売している人が多い印象です。

対照的に、浜集落では、地元の男性が、自宅でフレンチレストラン「むいにー亭」を営業しています。自家製の無農薬野菜を使ったサラダが美味です。それから、浜の港では、地元の女性が、沖縄天ぷら屋を営んでいます。もずく入りコロッケが美味しいです。

他に古民家食堂などもありますが、いずれも、地元の人が営んでいます。

 

 

ところで、内地からやって来る若い旅行者や移住者に、地元沖縄の人間が、驚かされることが、一つあります。沖縄天ぷらのお店では、天ぷら一袋500円とかで売っているのですが、内地の若い人は「天ぷら一つ」「天ぷら一個」という注文の仕方をするのです。本人は何も気づいていませんが、沖縄の人間からすると、失礼極まりない注文の仕方です。

30年ほど前、札幌の友人が「内地から来る観光客で、北海道のラーメンは量が多いからとか言って、お店に2人で入って一杯だけ注文する、本当に失礼な連中が増えた」と嘆いていましたが、「天ぷら一個」は、もっと酷い。それどころか「ゴーヤーチャンプルーを一つに、ご飯3つ」と3人で注文する若い子たちが普通にいるのです。

ケチというか、みみっちいにもほどがあります。30年経って、人間の質がさらに悪くなった気がします。自分のことしか考えてない。そういう身勝手な若いお母さんに育てられた子供たちは、さらに自己中心的な人間に育つでしょう。

100均、チェーン店ばかりが栄えて、個人商店が潰れていく。企業は生き残るが、個人がすりつぶされていく。

こうして、日本人自身が、日本経済をダメにしていくのです。自分で自分の首を絞めているのに、そのことに気づかない。

もっと相手のことを考えましょう。それが、実は自分の幸せに繋がるのです。
 

 

①ドラゴンヘッド(全10巻)作者望月峯太郎

平成の漫画ではあるが、昭和の雰囲気を色濃く感じさせる作風。

▶︎連載雑誌「週刊ヤングマガジン」(1994年10月〜1999年

世紀末(90年代)を代表する「地球大絶滅の物語(カタストロフ・ストーリー)」。奇しくも連載開始直後の1995年1月17日に起こった阪神淡路大震災を予言するかのような物語でもあった。

地球中心部の内核近くから表層に向けて、急激に上昇するマントル対流(スーパープルーム)が及ぼす地殻大変動によって、世界各地で火山活動の活性化と致命的な地表破壊が生じ、人類の文明が全面的に崩壊する。日本でも、富士山と関東平野を中心とするスーパープルームが、関東圏をまるごと呑み込む超巨大噴火口を出現させ、それによって東京大都市圏が壊滅し、国内のほとんどの国家的・組織的・社会的機能が消失する。

主人公の高校生テルとアコの2人は、修学旅行で東海道新幹線に乗っている途中、静岡で列車がトンネルに入った直後、富士山噴火に伴う巨大地震に遭遇した。列車は脱線し、トンネル内で横転して無惨にひしゃげた車両は、血まみれの乗客たちの阿鼻叫喚の地獄と化し、さらに、トンネルの出入り口は、瓦礫で埋もれてしまう。

7万5000年前に人類の総人口を数千人規模にまで減少させた破滅的な超巨大噴火による大絶滅「トバ・カタストロフ」に匹敵する、極限の天変地異のもたらすパニック状況の中で、偶然、生き残った2人の高校生が、その後の狂気の世界を生き延びていく、リアルでダークなサバイバルの物語。

「この世が終わりだったとしても、独りじゃなくてよかった。」

 

 

②最終兵器彼女(全7巻)作者高橋しん 

▶︎連載雑誌「ビックコミックスピリッツ」(掲載期間1999年12月〜2001年10月)

これも、世紀末を代表する地球破滅の物語(カタストロフ・ストーリー)。連載終了直前に起こった2001年の9.11同時多発テロを予言するような物語である。

北海道の小樽(?)に住む高校生の主人公シュウジの彼女ちせは、日本の自衛隊の誇る最終兵器にされてしまった。

常軌を逸した世界規模の巨大な政治的大変動によって、日本は〝敵〟の侵略に晒されることになる。突如、札幌の空は、〝敵〟の重爆撃機の編隊によって覆われ、無差別空爆によって街が破壊され、市民が虐殺されていく。この強大な敵を迎え撃つ自衛隊の切り札が、高度なナノテクノロジーの結晶であるサイボーグ兵器に生まれ変わった〝普通〟の女子高生ちせだった。

ちせは、自衛隊最強の進化する生体兵器として、国防の最前線で戦うことを強いられる。それを知りながら、ちせを愛し続けるシュウジ。ちせを気遣うシュウジと、シュウジの生活を守りたいから、世界最強の兵器として、世界各地の過酷な戦闘に身を投じるちせ。

ただの無知で平凡な高校生であるシュウジとちせの目線で、不合理で非日常的で救いのない戦争体験が語られ、不気味で何も希望のない地球滅亡の物語が淡々と語られていく。2人には、日本を侵略する〝敵〟が、具体的には何なのか、すらわからない。

ただ、ありふれた日常が跡形もなく破壊されていく、親友が、幼馴染が、家族が、わけもなく死んでいく。そして、かつての平和な光景は、2度と取り戻すことはできない。そのことだけは、2人にもわかっていた。

圧倒的な絶望しかない状況の中、高校生シュウジとちせの純愛が、どんな結末を迎えるのか、ただそれだけを抒情的に描いていく。

救いも希望もない無機質な終末の世界に、まったくそぐわない〝かわいい〟という感覚を持ち込んだ先駆的な作品。世界の破滅と一個人の日常の極端すぎるギャップが印象的。

 

 

③がっこうぐらし!(全12巻)原作海法紀光/作画千葉サドル

原作者(ライトノベル作家)と作画者(漫画家)の二人三脚で作品を生み出すという、2010年代に最も一般的になった制作方式で創作されている。そして、物語の内容の深刻さ・悲惨さ・救いのなさと、絵やキャラクターのかわいらしさ・明るさ・萌えとの激しいギャップが、作品の大きな特徴の一つとなっている。

▶︎連載雑誌「まんがタイムきららフォワード」(掲載期間2012年7月〜2020年1月)

2011年の3.11東日本大地震後の日本を代表する人類滅亡の物語(カタストロフ・ストーリー)。連載末期2020年1月に始まったコロナ・パンデミックを予言するような物語にも思える。アメリカのホラー作家リチャード・マシスンの「地球最後の男(このオレが最後の人間)」にインスパイアされた作品でもあるようだ。

バイオテック企業「ランダル・コーポレーション」によって製造された生物兵器(細菌orウイルス)が、社員による不注意な流出によって、世界規模のゾンビ感染症によるパンデミックを引き起こす。その結果として、文明は崩壊し、社会は完全にその機能を止め、人類はほぼ壊滅状態となる。さらに、各地に点在する、ごく僅かな生き残りたちさえもが、変異ウイルスor細菌による空気感染によって、たとえゾンビと接触していなくても発症し、やがて死んでゾンビ化していく。

こうした世界規模の絶望的なカタストロフの最中、たまたま巡ヶ丘学院高等学校の屋上にいたために生き残った同じクラスの3人の高3生、ゆき、くるみ、ゆうりと、担任の女性教諭めぐねえの、その後のサバイバルの物語。

常に周囲を圧倒的な〝死〟に囲まれながら、孤立して生き続けるしかない救いのない世界で、ある者は、ただ、今日を生き残ることだけを考える。これまで続けてきた学校の日常の中に自らを埋没させ、現実から逃避することで、過去の幻想の中に救いをみいだそうとする者もいる。また、ある者は、誰もいない死の街で、それでも、呼びかけに応える人が現れることを夢見て、毎日、独りでラジオ放送を続ける。光のない暗闇の中で、命を削りながら、それでも希望と繋がりを求める子どもたち。

「生きるために、誰かを切り捨てることは間違っている。」

 

 

④裏世界ピクニック(既刊7巻)作者宮澤伊織/作画水野英多

▶︎連載雑誌「月刊少年ガンガン」(掲載期間2017年2月〜)

異界が、現実世界を侵食していく、2010年代に相応しい極限のホラー・ストーリー。ロシア(旧ソ連)を代表するSF作家ストルガツキー兄弟の名作「ストーカー(路傍のピクニック)」にインスパイアされた作品とも言われる。

廃墟や廃屋を1人で巡るのが好きな女子大生空魚が、ある日、異界への入り口を発見する。その異界で、空魚は、もう1人の少女鳥子に出会う。

この作品は、いまだ連載中で、結末が分からず、作品世界も、必ずしも「終末の世界」を舞台としているわけではない。今後のストーリー展開で「人類滅亡のカタストロフ」が待ち受けているかどうかも、予想できない。

ただ、なんとなく、感覚的に上記の3作品と並べてみたくなっただけだ。作品の醸し出す空気が似ているというのが、その理由だ。

3作品との共通点は、物語の始まり、あるいは終わりにおいて、主人公の家族・肉親が全員死んでいるところ、そして、どの作品においても、そもそも家族・肉親の存在感が非常に希薄なこと、特に父親(父性)の不在は顕著だ。

この作品では、物語の始まりの時点で、すでに空魚も鳥子も、家族は1人もいなく、友達もいなく、互いに完全にひとりぼっちである。また、2人にとって、死んだ母親には良い記憶イメージがあるようだが、父親は、控えめに言っても「いてもいなくても、どうでもいい人」「必要のない人」、悪く言ったら「生きていて欲しくない人」「邪魔な人」である。

加えて、作品内容において、上記3作品と同様に、『極限の世界で、生と死の狭間を生き抜く、生存者の物語』であることは確かだ。

 

コロナ中等症Ⅱのかなり重症の状態での20日間の酸素呼吸器付きの入院状態から、コロナ禍の最中、ベッドの空きがないからと、私は無理矢理退院させられ、その後、症状の重さを鑑みて、1週間、保健所管轄の自宅療養期間が続いたので、保健所からは7日間毎日電話が来た。
「調子はどうですか?」
「酸素ない生活は恐怖ですね」「実際、部屋の中で数十秒、立って歩いただけで、血中酸素飽和度は70台まで落ちますし、24時間、ベッドかソファーの上で、息苦しさとの戦いですよ」「精神安定剤と睡眠導入剤がなければ、夜も寝られません」と七日間必死に訴えてはみたのだが、結局は、入院していた病院の医師に、「病院にいらしても、対処療法しかできません」「空咳を止める咳薬とか」と言われ、「根本的な治癒方法は、本人の自然治癒力に委ねるしかない」「何もできないですよ」と言われると、病院を頼る気を無くした。
保健所の人には、「一応明日から解除になりますけど、一歩も外へ出れず、家事も一切できない状態は気になります」「苦しくなったら、我慢せずに、すぐに救急車を呼んでくださいね」と言われた。
私の酸素飽和度はベッドに安静にしている状態でも92%程度。苦しいかと聞かれたら、それは24時間、大抵は苦しい」「我慢しない生活って?」「一体いつの時点で、救急車を呼べというのだろう?」と、素朴に悩んでしまった。
こうして、「法令どおりですから」と、無情にも、保健所に、自宅療養観察期間を、退院後1週間で打ち切られてしまい、その後、更に2週間、私は自宅で何とか生き延びた。
しかし、数日前から、食欲がガタッと落ちて、何も食べる気がしない。加えて身体の怠さが増していた。体内の酸素欠乏が、いろいろな器官にダメージを与えていたのかもしれない。ある意味、自宅で低酸素症になりかけていたのだと思う。

それまで3週間、毎日、少し動いては、血中酸素濃度が70台まで落ちるということを繰り返していた。このまま、急激に酸素飽和度が落ちて死んでしまうこともあるらしいと後で聞いた。
そして、本格的に、これはまずいということで、退院からちょうど3週間を経て、私はもう一度、コロナ後遺症患者として、呼吸器外来を受診し、数日間、入院することになった。

この数日の入院の間に、自宅用の酸素製造器と酸素ボンベの使い方を、きちんと理解し、とうとう自宅で酸素吸入器を使う生活に入ることになったのだ。

病院の中で、酸素ボンベを看護師さんが持ち、私は5リットルの酸素を吸いながら6分間歩くことになった。最後の数十秒は、息ができず地獄だった。酸素飽和度は70台まで落ち、その場で椅子に座り込み、呼吸が整うまで10分ほど休憩した。

さらに翌日には、そのままの位置で足踏みを2分間、こちらも酸素5リットルを吸いながら、運動した。この2分程度の運動でも、酸素飽和度は85まで落ちた。

「座っている時で、酸素は2.5リットル、立って歩くときは5リットルですね。それでも、家の中で家事をする時、苦しくなったらすぐ止めること。今のところ、酸素5リットルで2分の活動が限界ですね。いずれ、連続30分間、家の中で動き回れるようになったら、今度は、ボンベを持って、外を5分ぐらいなら散歩できるようになります。それまでは、ボンベがあっても外に出ないこと」と、インストラクターの方の指導を受けた。

1人の看護師さんが「うちの父ちゃんも、コロナで退院した後、2カ月はボンベ引いて歩いていたから、皆んな、そんな簡単には、肺の機能は戻らないからね」と言っていた。

なかなか、道は長い。

実際、入院中も、まったく食欲はない。この3週間、低酸素状態で我慢し続けた反動かもしれない。