「ふきのとう」は、北海道札幌市の北海学園大学に在学中だった山木康世さん(1950年生)と細坪基佳さん(1952年生)が結成し、1974年(24歳・22歳)に「白い冬」でデビューしたフォークデュオです。

1974年と言えば、N.S.Pの代表曲「夕暮れ時はさびしそう」、チューリップの「青春の影」がヒットし、伊勢正三が「22歳の別れ」「なごり雪」を発表した年です。

「ふきのとう」は、当時、主に、地元の北海道と、なぜか沖縄でのみ、異常に人気が高かったグループです。

選曲は、私の独断と偏見によるものです。曲順は、発表年次順です。1974〜1981年までの発表曲から選んでいます。私が、「ふきのとう」の新譜を聴いていた期間にあたります。

「ふきのとう」の歌は、心の弱っている時のリハビリに聴くと良い歌が多いです。普段は放置してしまっている、心の片隅のやわな部分を突かれる感じがします。

 

 

①白い冬

作詞 工藤忠幸/作曲 山木康世

◯シングル(1974年発表/1st/14位)

◯アルバム「ふきのとう(1974年発表/1st/ー)」初収録。

「ふきのとう」のデビュー曲にして、グループの代名詞的な名曲。

「あなたを愛した秋はもう去って、迎えつつあるは、悲しい白い冬。もう忘れた、すべてあなたのことは、秋の枯れ葉の中に捨てた。」

 

②初夏

作詞作曲 山木康世

◯シングル(1975年発表/3rd/50位)

◯アルバム「ふたり乗りの電車(1975年発表/2nd/37位)」初収録。

珍しくアップテンポの曲。早いテンポで、でも、切ない。

「夏の初めの昼下がりは、とてもなじめず、寂しくなる。」

 

③やさしさとして思い出として

作詞作曲 山木康世

◯アルバム「風待茶房(1976年発表/3rd/65位)」初収録。

◯シングル(1980年発表/15th/84位)シングルバージョン。

「ふきのとう」の代表曲。発売当時は、北海道と沖縄以外では、まったく売れませんでしたが、それから5年ぐらいかけて、じわじわと全国的に知られる曲になっていきました。1980年代中頃には、よく有線やラジオから流れていました。

「もう、あなたの涙もろさや、人一倍の負けず嫌いなとこも、あなただけの優しさとして、帰らぬ思い出として。」

 

④朝もやの中

作詞作曲 細坪基佳

◯アルバム「風待茶房(1976年発表/3rd/65位)」初収録。

「ふきのとう」の曲の中でも、細坪さん作詞作曲で、爽やかな印象の名曲。

「新しいカバン、古いギター、そして、君のすました写真。僕のくらしが始まって、もう2年。思い出をボール箱につめて、明日この部屋を出てゆく。」

 

⑤メリークリスマス

作詞作曲 山木康世

◯アルバム「歳時記(1976年発表/ベスト/ー)」初収録。

ボーカルが山木さん!

「ほととぎす」と並んで、山木さん歌唱の代表曲。この暗さとわびしさがいい。

「石油ストーブに身体寄せて、僕はちぢこまって、めりいくりすます。」

 

⑥水色の木もれ陽

作詞作曲 山木康世

◯アルバム「風来坊(1977年発表/5th/ー)」初収録。

「ふきのとう」中期の代表曲。

「スケッチブックには、風がさらさら吹き、水色の木もれ陽が、あなたの瞳に。」

 

⑦雨はやさしいオルゴール

作詞作曲 細坪基佳

◯アルバム「風来坊(1977年発表/5th/ー)」初収録。

細坪さん作詞作曲の作品では、一番好きな曲です。

「古いオルゴールの優しさに似ているような、そんな雨音が聞こえる夜に、ふと君を思い出す。」

 

⑧春雷

作詞作曲 山木康世

◯シングル(1979年発表/13th/22位)

◯アルバム「人生・春・横断(1979年発表/7th/ー)」初収録。

がんで死期が迫っていたお母さんへ祈りを込めて、山木さんがつくった曲だそうです。

「春の雷に散るな、今すぐに。桜花吹雪、命つづくまで。」

 

⑨赤い傘

作詞作曲 細坪基佳

◯アルバム「人生・春・横断(1979年発表/7th/ー)」初収録。

これも、細坪さんらしい、リリカルな魅力にあふれる名曲。

「こんな夕暮れ、恋をした、あなたの傘の中。」

 

⑩ば〜じにあ・すりむ

作詞作曲 細坪基佳

◯アルバム「人生・春・横断(1979年発表/7th/ー)」初収録。

細坪さんの作品では、「雨はやさしいオルゴール」に次いで大好きな曲。

「気だるそうに椅子にもたれて、白い指にはバージニア・スリム。この街がとても似合うよ、そう、今の君になら。」

 

⑪柿の実色した水曜日

作詞作曲 山木康世

◯シングル(1979年発表/14th/87位)

◯アルバム「人生・春・横断(1979年発表/7th/ー)」初収録。

この曲がリリースされた頃、北海道では、札幌市地下街でのリクエストが圧倒的に多く、別名「ふきのとうの地下街」と、当時、呼ばれていました。

「覚えてるかな、逢った日の空と山の色。柿の実色した水曜日、初めて君を見た、初めて恋をした…。」

 

⑫青空

作詞作曲 細坪基佳

◯シングル(1979年発表/14th/87位)

◯アルバム「人生・春・横断(1979年発表/7th/ー)」初収録。

細坪さん作詞作曲の作品では、後に、もっとも世に知られるようになった名曲。湿っぽい曲の多い「ふきのとう」の曲の中で、珍しく乾いた印象の強い曲。

「ああ、なんて、今日はのどかな日だ。なんて幸せそうだろう。今日も、大空に絵を描くんだ。まずクレヨンで、そして絵の具で、吹き出す赤い血で、廃墟を塗りつぶしてしまえ。」

 

⑬羊飼いの恋

作詞作曲 山木康世

◯アルバム「D.S.ダルセーニョ(1981年発表/8th/ー)」初収録。

いかにも山木さんらしい曲。

「翠の蝶は、花から花へ、ひらひらそよぐ風に乗り、私の夢は、空から空へ、くるくるまわる羽根に乗り、君恋しやと呟けど、光の海に溶けていく。」

 

⑭メロディー

作詞作曲 山木康世

◯シングル(1981年発表/17th/ー)

◯アルバム「D.S.ダルセーニョ(1981年発表/8th/ー)」初収録。

「ふきのとう」の楽曲中で、おそらく唯一の明るいラブソング。1990年代にも、ラジオのリクエストで流れていました。

「あなたをいつしか愛していた。燃えるその心に照れながら、言葉はいらない、そばにいれば。」

 

⑮雨々降れよしめやかに

作詞作曲 山木康世

◯アルバム「D.S.ダルセーニョ(1981年発表/8th/ー)」初収録。

童謡「シャボン玉」を連想させる、幼くして亡くなった女の子への葬送曲。

「風、風、吹けよ、柔らかに、あの子が寒くないように。この世に神がいるのなら、今頃、深い海、あの子は貝。今頃、高い空、あの子は虹。」

 

伊勢正三(1951年生)の名が、フォーク・グループ「かぐや姫」のメンバーとして「神田川」のヒットによって、一気にメジャーになったのが、やはり1973年(22歳)のことでした。「かぐや姫」が1975年に解散した後、正やんはフォーク・デュオ「風」として活動しました。1979年には「風」が活動停止し、それ以降はソロでの活動がメインでした。

ここでは、1973〜1993年の期間に発表された曲の中で、独断と偏見に基づくベスト21曲を、年代順に並べました。

前半10曲は、1970年代のフォーク・グループ「かぐや姫」「風」時代の曲で、後半10曲は、1980年代以降のソロ活動の時期に発表されたAORあるいはシティポップと言っていい感じの曲です。そして、最後の一曲は、1990年代の曲。

 

①22才の別れ

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「三階建の詩(1974年発表/かぐや姫4th/1位)」初収録。

◯シングル(1975年発表/風1st/1位)

「かぐや姫」時代のアルバム収録曲ですが、「風」のファーストシングルでもあり、正やんにとって生涯最大のヒット曲で、世間にもっとも知られている正やんの代表曲です。

「あなたの誕生日に22本のロウソクを立て、一つ一つが、みんな、君の人生だねって言って、17本目からは、一緒に火をつけたのが、昨日のことのように。」

 

②なごり雪

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「三階建の詩(1974年発表/かぐや姫4th/1位)」初収録。

イルカの代表的なヒット曲として世に知られている名曲中の名曲ですが、「かぐや姫」時代の正やんの歌唱も良いです。

「動き出した汽車の窓に顔をつけて、君は何か言おうとしている。君の唇がさようならと動くことが、怖くて下を向いてた。」

 

③海岸通

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「風ファーストアルバム(1975年発表/1st/1位)」初収録。

これもイルカのヒット曲として知られています。イルカへの提供曲としては、他に「雨の物語」などがあります。この曲も、正やんの歌声で聴くと、また異なる魅力があります。

「あなたが海を選んだのは、私への思いやりだったのでしょうか。別れのテープは切れるものだとなぜ、気づかなかったのでしょうか。」

 

④あいつ

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「風ファーストアルバム(1975年発表/1st/1位)」初収録。

正やんの歌詞には、雪山がよく出てきます。この曲も、雪山登山で恋人を失った女性に語りかける歌です。シングルカットはされていませんが、多くのファンにとっては、「風」を代表する名曲のひとつです。

「雪の中、ひとりの男が、山に帰っていった。ただそれだけの話じゃないか、慌ただしい季節の中で。」

 

⑤お前だけが

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「風ファーストアルバム(1975年発表/風1st/1位)」初収録。

伊勢正三の歌う、素朴でストレートで情熱的な、永遠のラブ・バラードです。私の一番好きな正やんの歌です。

「たとえ世界中で一番綺麗な人がぼくを好きだと言っても、たとえこの宇宙で一番綺麗な星をぼくにくれると言っても、ぼくは何もいらない。お前だけが、いてくれたらそれでいい。夜がとても短すぎて愛を語り尽くせない。」

 

⑥あの唄はもう唄わないのですか

作詞作曲 伊勢正三

◯シングル(1975年発表/風2nd/24位)

根暗で地味なフォークソングの失恋歌ですが、それだけに、当時のファンとしては、思い入れが強い人気曲です。

「去年も独りで誰にも知れずに一番後ろで見てました。あの唄もう一度聴きたくて。私のためにつくってくれたと、今も信じてる、あの唄を。」

 

⑦北国列車

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「時は流れて…(1976年発表/風2and/1位)」初収録。

失恋の悲哀を抱えて、独り、夜汽車に揺られて、春まだ遠い季節の北国へ、というイメージの曲。

「君を忘れるため、長い旅に出て、旅の終わりにこの街を選んだ。去年の今頃、汽車に乗り、二人で旅した北国の、あの雪の白さがなぜか忘れられずに。」

 

⑧ささやかなこの人生

作詞作曲 伊勢正三

◯シングル(1976年発表/風3rd/16位)

正やんは、「人生の応援歌」的な歌を、意外と歌っています。この曲は、その代表曲。

「風よ季節の訪れを告げたら、寂しい人の心に吹け。そして、めぐる季節よ、その愛を拾って、終わりのない物語をつくれ。」

 

⑨君と歩いた青春

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「WINDLESS BLUE(1976年発表/風3rd/3位)」初収録。

歌詞がすごくよくできている。イメージ喚起力が半端じゃない。甘酸っぱい青春の失恋ソングの決定版。太田裕美さんも歌っていましたが、私としては、断然、正やんの声がいい。

「本当はあいつらと約束したんだ、抜け駆けはしないとね。ばちあたりさ、ぼくは。だけど、ほんとさ、愛していたんだ。きれいな夕焼け雲を覚えているかい。君と初めて出会ったのは、ぼくが一番最初だったね。」

 

⑩Bye Bye

作詞作曲 伊勢正三

◯シングル(1978年発表/風6th/52位)

◯アルバム「MOONY NIGHT(1978年発表/5th/2位)」初収録。

ニヒルで孤独な男の歌。〝ペテン師〟とかもそうだけど、こういうタイプのクールな歌も、正やんには似合う。「風」活動停止前の最後のシングルでした。

「人は誰でもみな、愛し愛されて、悲しい恋の終わり、知りすぎてるのに、いつかその傷跡、右手で隠して、左手でまた誰かを、抱くことがなぜできたりする?」

 

⑪Moon Light

作詞作曲 伊勢正三

◯シングル(1981年発表/ソロ2nd/ー)

◯アルバム「渚ゆく(1981年発表/ソロ2nd/ー)」初収録。

それまでのフォーク調とはまったく違うシティポップのサウンドへの移行期つくられたソロの名曲。この曲を含むアルバム「渚ゆく」でバックバンドを務めた〝森一美とターゲット〟のサウンド作りのセンスと完成度が秀逸過ぎて、いつ聴いても時代を超えて新しい。

「愛しきものは去りゆく日々、手を差し伸べて、新しい時のおとづれ待てば、古びた駅が取り壊され、その街並みも、変わりゆく時のはかなさ。長い年月を過ごした二人には、心の中までも透き通るような季節。」

 

⑫マリンタワーの見える街

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「渚ゆく(1981年発表/ソロ2nd/ー)」初収録。

「渚ゆく」は、ともかく一番好きなアルバムで、アルバム・タイトル曲の「渚ゆく」を入れるか、森一美のキーボードが印象的な「青春の一ページ」を入れるか、など、選曲にかなり迷いましたが、ここは、独断と偏見で、自分の好きな曲を選びました。何というか、〝永遠〟を感じさせる佳曲。

「生まれ変われるなら、もう一度どこかの星の世界にそっと現れ、その星のどこか、きっと海辺の街だと思うけど、また君と出会い、君を愛して、見つめた、その時から、同じ夢を見て、同じ涙を流して、そこから先は知らなくていいと、思うほどに今は、流れる時、飲み干せば、したたかに酔いしれる。」

 

⑬冬暦

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「渚ゆく(1981年発表/ソロ2nd/ー)」初収録。

これも、正やんらしい雪山がテーマの曲ですが、明るく、テンポがよく、リズムに乗った、心地よい洗練されたサウンドが大好きです。

「冬の日に出会う人は、温もりを胸に秘めてる、かじかんだ指先にも。その人に出会う時は、突然のすれ違いでも、幾つもの夢を見る。」

 

⑭白いシャツの少女

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「Half Shoot(1982年発表/ミニアルバム)」初収録。

傑作ミニアルバム「Half Shoot」の出だしの一曲目の曲で、メッセージも、サウンドも、アルバム中、もっとも力強い、乾いたハードボイルドな歌い方が印象的な人気曲。

「熱く男が燃えるなら、海に女はなればいい。愛はきっと、おとづれよりも、過ぎる時に姿見せるもの。」

 

⑮夜のFM

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「Half Shoot(1982年発表/ミニアルバム)」初収録。

これもアレンジが秀逸。シティポップの佳曲。

「そういえばあの日、君が見つめていたのは、沖行く船の灯り。夜のFM、ずっと聴き流したら、突然、思い出して。」

 

⑯9月の島

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「Half Shoot(1982年発表/ミニアルバム)」初収録。

正やんにしては珍しく、サウンド、メロディー、歌詞と、全面に明るさと解放感が表現されている良曲。

「コバルトの空が海に溶けて、世界中、愛しい。もう誰もいない9月の島は、なんだか最高さ。そう、君が、いつも、そばにいてくれる。本当に最高さ。」

 

⑰シャワー・ルーム

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「ORANGE(1983年発表/ソロ4th)」初収録。

当時、ファンの間では、非常に評価の高かったアルバム「ORANGE」の中で、私が一番大好きな曲。前半の〝静〟から、後半の〝動〟への展開が見事な、メロディーの美しさが際立つ佳曲。

「そのシャワー・ルームに落ちる滴が響くだけの静けさ。独りでいると、もう過ぎ去った、むなしい想い出、せめて夕闇溶ければ、紛れる心。そして、書きかけの小説、一コマ進めて、やすらぐ時。」

 

⑱青い10号線

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「ORANGE(1983年発表/ソロ4th)」初収録。

アルバム「ORANGE」の中で、Cape117と並んで、ファンの人気が高い曲。これも、どちらを入れるか、かなり悩みました。どちらもとても雰囲気のある曲です。悩みに悩んだあげく、結局、両方、入れてしまいました。

「海に沈んだ島が見えるよう、走る、国道、北へ。あの頃のままで、身体が道を覚えてるバイパス。」

 

⑲Cape117

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「ORANGE(1983年発表/ソロ4th)」初収録。

この曲は、正やんが、このアルバムの中で、一番思い入れのある曲なのだそうです。やはり、落とせない。

「岬をまわれば途切れる街並みの中で、目を引くネオンの文字が、サイドボードからこぼれ、小さなカジノのようで、そのカフェにいると、あの頃、あの日の場面、通り過ぎてゆく、Cape Town。」

 

⑳NAKASHIBETSU

作詞作曲 伊勢正三

◯アルバム「HEART BEAT(1984年発表/ソロ5th)」初収録。

アルバム「HEART BEAT」の中で、私が一番気に入っている曲。北海道の道東の中標津空港に降り立った男が昔の恋を思い出している。

「命まで凍えると笑いながら、吐く息を掌に集めて、乗り込む飛行機。長くのびる滑走路、悲しみに濡れて、『いつかきっと帰るから』と、振り返らず、先急いだ、別れの後で。面影が雲間に浮かんで消えてく。」

 

㉑ほんの短い夏

作詞作曲 伊勢正三

◯シングル(1993年発表/ソロ8th)

1990年代の正やんの曲の中では、もっとも知られている佳曲。

「どこかに意地悪なもうひとりの君がいて、本当の気持ちだけを隠してしまうよ。こんなに好きなのはわかっているはずなのに、いつものように『送って』とは言わないの?」

 

 

 

 

 

独断と偏見によるチューリップ(TULIP)の名曲ベスト15の紹介です。

順位は、おすすめ順ではなく、正確に曲の発表年時順にしました。今回は、敢えておすすめに順位はつけていません。ところが、不思議なことに、この順番で聴くと、素晴らしいアルバムになっているんですよね。

それぞれのグループのリーダーの年齢は、財津和夫さん(1948年生)の方が、天野滋さんより5歳上ですが、チューリップの全盛期は、N.S.Pの全盛期と、ほぼ重なります。

共に、最初にブレイクしたのが1973年(25歳)で、音楽性の頂点が1981年(33歳)頃。私の選曲も、この時期のものになります。

 

 

①心の旅

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1973年発表/3th/1位)

◯アルバム「TULIP BEST 心の旅(1973年発表/初のベスト)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.2(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

◯アルバム「request〜TULIP FAN SELECTION BEST(2007年発表)」収録。

チューリップ最大のヒット曲にして、初期の代表曲です。チューリップの人気を決定づけた名曲。リードボーカルは、姫野達也さん。

「いつも、いつの時でも、ぼくは忘れはしない、愛に終わりがあって、心の旅が始まる。だから今夜だけは君を抱いていたい。明日の今頃は、ぼくは汽車の中。」

 

②青春の影

作詞作曲 財津和夫

◯アルバム「TAKE OFF(離陸)(1974年発表/3rd/ー)」初収録。

◯シングル(1974年発表/6th/46位)アルバムからシングルカット。

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.2(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

◯アルバム「request〜TULIP FAN SELECTION BEST(2007年発表)」収録。

誠実で丁寧で美しい、財津和夫バラードの代表曲です。

「自分の大きな夢を追うことが、今までのぼくの仕事だったけど、君を幸せにする、それこそが、今日からのぼくの生きるしるし。」

 

③ぼくがつくった愛のうた〜いとしのEmily〜

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1974年/7th/30位)

◯アルバム「ぼくがつくった愛のうた(1974年発表/4th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.1(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

これも、姫野さんが、リードボーカルを務めた、チューリップ初期の代表曲。ロンドンのアビイ・ロード・スタジオでレコーディングされたものです。

「今まで君が愛してた小さな木彫りの人形も、幼い頃のおもちゃの箱に、そっとしまってしまいなさい。」

 

④サボテンの花

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1975年発表/8th/19位)

◯アルバム「無限軌道(1975年発表/5th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.1(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

◯アルバム「request〜TULIP FAN SELECTION BEST(2007年発表)」収録。

数あるチューリップのヒット曲の中でも、もっとも長く愛され続けている代表曲。

「この長い冬が終わる前に、何かをみつけて生きよう、何かを信じて生きていこう、この冬が終わるまで。」

 

⑤風のメロディー

作詞 財津和夫/作曲 財津和夫・姫野達也

◯シングル(1976年発表/11th/27位)

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」初収録。

「虹とスニーカーの頃」と並ぶ、過ぎゆく青春の夏をテーマとしたチューリップ・ナンバーの佳曲。サウンドは、とてもビートルズっぽい。姫野さんがリードボーカルを務めた最後のシングル曲。

「燃え上がる太陽に戯れた君とぼく、濡れた髪かきあげて口づけた砂の上。消えた恋だけど、眩しすぎるほど、胸に焼きついた海辺の出来事。今はひとり街をさまよえば、夏の終わりを告ぐ風が吹くだけ。」

 

⑥ブルースカイ

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1977年発表/12th/25位)

◯アルバム「チューリップ・ガーデン(1977年発表/2ndベスト)」初収録。

歌の出出しにサビのメロディーを持ってくる、「心の旅」から「虹とスニーカーの頃」へと発展進化していく曲作りの、ちょうど中間点の試行が見られる曲。

これは、これで、歌として完成していて、ラジオのリクエストも多い。

「この空の明るさよ、なぜぼくのこの悲しみ、映してはくれない。」

 

⑦博多っ子純情

作詞 安部俊幸/作曲 姫野達也

◯アルバム「WELCOME TO MY HOUSE(1977年発表/8th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.1(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

とてもセンチメンタルで、哀愁漂う、美しい曲。姫野さんがリードボーカル。

シングルにはなりませんでしたが、ファンの間では、無強い人気のある曲。

「男たちはみんな見栄っ張りで気が強い、海の風に吹かれるから。だけどみんなすぐにもらい泣きするよなヤツ、酒を飲んで肩をたたく。」

 

⑧夕陽を追いかけて

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1978年発表/14th/36位)

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」初収録。

財津さんの詞とメロディが創り出す、雄大なイメージが印象的な名曲です。

「都会の星はとても遠いから、人はぼくを夢見るバカと言う。いつだって真剣にぼくは生きてきたはずだけど、でもいつも、そこには、孤独だけが残されていた。沈む夕陽は止められないけど、それでもぼくは追いかけていく。」

 

⑨虹とスニーカーの頃

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1979年発表/16th/6位)

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」初収録。

◯アルバム「We believe in Magic Vol.1(1997年発表/セルフカバー)リメイク版収録。

◯アルバム「request〜TULIP FAN SELECTION BEST(2007年発表)」収録。

心の旅に次いで売れた、チューリップ後期の代表的なヒット曲です。一時期衰えていたチューリップ人気の復活を印象づけた有名な作品です。

「白いスニーカー汚さないように、裸足で雨の中、ぼくらは歩いた。びしょびしょ濡れのトレーナーが乾くまで抱き合った夏の昼下がり。わがままは男の罪、それを許さないのは女の罪、若かった何もかもが、あのスニーカーはもう捨てたかい。」

 

⑩Someday Somewhere

作詞作曲 財津和夫

◯アルバム「Someday Somewhere(1979年発表/10th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

「虹とスニーカーの頃」発表から15日遅れでリリースされた、チューリップ初の2枚組アルバムなのに、「虹とスニーカーの頃」は収録されていない。そんなアルバムのタイトル曲にしてトリの曲。シンセサイザーを多用したアレンジが独特で、すでに後期の1980年代のチューリップ・サウンドっぽい。

「いつか、どこかに、きっと、誰かが君を待っている。今はただじっと窓を閉めて待つだけ、愛が君を連れて旅立つまで。」

 

⑪I am the Editor(この映画のラストシーンは、ぼくにはつくれない)

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1980年発表/17th/ー)

財津さんには珍しく、救いのない失恋の悲哀を歌った佳曲。イントロの長さが目立つ。

「行ってしまえよ、君なんて。最終電車はあと5分。白いTシャツに赤い口紅つけ直して、ぼくがもう一度、やりなおそうと言う前に。」

 

⑫さよなら道化者

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1981年発表/19th/ー)

◯アルバム「THE LOVE MAP SHOP(1981年発表/11th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

財津バラードの後期の代表曲。

「雪を破った陽射しのように、暗いぼくを明るく照らした、道化者の君がいなくなって、ぼくの部屋はまた夜になった。」

 

⑬Shooting Star

作詞作曲 財津和夫

◯アルバム「THE LOVE MAP SHOP(1981年発表/11th/ー)」初収録。

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」収録。

1980年代のチューリップを代表する名曲。シングルカットされていないのですが、ファンにとっては、とても思い入れのある一曲です。これも、非常に長いイントロが印象的です。

「宇宙を駆ける流れ星のように、心に翼つけて、今、旅立て。」

 

⑭ふたりがつくった風景

作詞作曲 財津和夫

◯シングル(1981年発表/20th/ー)

◯アルバム「チューリップ・ランド(1982年発表/3rdベスト)」初収録。

世間的には、チューリップの最後のヒット・シングル。「虹とスニーカーの頃」を、さらに磨き上げたような佳曲で、チューリップの音楽性の洗練の到達点を示す曲。これ以降、チューリップが、ラジオからよく流れて世間に馴染むようなヒット曲を、発表することはありませんでした。

「赤と緑の歯ブラシが、いつも仲よくコップの中、並んでいたね。雨風が強くて、傘の骨が折れたね、ずぶ濡れでも楽しかった、あの夜。」

 

⑮アルバトロス

作詞作曲 財津和夫

◯アルバム「2222年ピクニック(1982年発表/13th/ー)」初収録。

◯アルバム「request〜TULIP FAN SELECTION BEST(2007年発表)」収録。

発売に世間の注目が集まった、最後のチューリップのアルバムで、収録されているトリの曲。チューリップらしい、雄大で宇宙的なラブ・バラードです。このベスト15のトリを飾るにふさわしい隠れた名曲。

「風の中、君は踊った。動き優しいメヌエット、たった独りで。」

 

 

☆償いの日々

作詞作曲 松任谷由美

◯シングル(1987年発表/財津和夫with原みどり)

◯アルバム「City Suimmer(1987年発表/財津和夫ソロ)」初収録。

財津和夫さん、38歳の時の珠玉のバラード曲。この時、デュエットした相方の原みどりさんが、また、本当に歌が上手いんです。しかも、作詞作曲が、あの天才松任谷由実さんです。

素晴らしい名曲なのですが、長い間、なかなか手に入らない状態でした。2012年に、「City Suimmer」がリマスターされて再リリースされているので、現在は、直接、アルバムを購入して聴くことができます。

「誰でもひとつは持っている、心の片隅の部屋。自分でさえ開けられずに、鍵を探してさすらう。」

 

 

 

岩手県盛岡出身の天野滋(1953年生)、中村貴之、平賀和人で、1972年、高専在学中に結成された3人組フォーク・グループ、N.S.P(ニュー・サディスティック・ピンク)の独断と偏見によるベスト曲です。

本当に地味で目立たないグループで、同じ時期に、同じように〝叙情派フォーク〟と呼ばれた、北海道出身のフォークデュオ〝ふきのとう〟よりも、さらに地味だった気がします。

でも、〝ふきのとう〟と〝N.S.P〟のどちらを、今、聴きたいか、と訊かれたら、私は、断然、〝N.S.P〟が聴きたい、と答えるでしょう。

事実、ここに挙げた15曲は、今でも、よく聴く曲ばかりです。特に、ベスト5は、折に触れて頭の中で流れる脳内楽曲の中でも上位の曲目です。どれも、何度聴いても飽きないんですよね。

 

 

①チケット握り締めて

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「The WIND'S SONG(1981年発表/12th/ー)」初収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

この作品は、歌詞、メロディー、アレンジ、すべてにおいて、天野さんの音楽の到達点・集大成と言うべき最高峰の名曲だと思います。でも、世間では、ほとんど知られていないのが、本当に残念です。

「そこは、誰も、僕を知らない、もちろん、君を知る人もいない、君を路上で抱きしめた時に、季節の中に溶け込むさ。」

 

②浮雲

作詞 天野滋/作曲 平賀和人

◯アルバム「彩雲(1980年発表/10th/9位)」初収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

二葉亭四迷の浮雲を連想させる後期の名曲で、1980年代のN.S.Pを代表する一曲です。平賀さんのメロディーと天野さんの詩が、うまくかみあった曲。

「優しさだとか、思いやりだとか、わかったつもりでも、些細な事で傷つけあい、あいつと別れたなんて、告げたならば、笑うだろうか、ウブだ、若かったと。自分自身もおかしくて、笑みを浮かべてしまう。」

 

③夕陽を浴びて

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「天中平(1980年発表/11th/35位)」初収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

この曲は、当時、私の就寝曲でした。この曲を聴きながら眠りにつくと、安心して熟睡できました。

「ギター弾いていると、君が半分暗くなる、夕陽を浴びて。」

 

ここまでが、私の不動のベスト3です。

3曲とも、N.S.Pが時代の波に取り残されつつあった1980年代初頭の曲ですが、完成度が非常に高く、音楽性という点では、頂点を極めていた時期ではないか、と思います。

 

④青い涙の味がする

作詞作曲 天野滋

◯シングル(1979年発表/16th/61位)

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

70年代末の〝センチメンタル〟で〝ウブ〟な感性をストレートに素朴に表現した曲。シングル化されたこともあり、ベスト5の中では、世間の認知度は最も高い。N.S.Pの代表曲のひとつ。

「握手をしてもダメさ、頭を下げても無駄さ、心の距離を感じてしまう、青春なんて文字が、心の隅をつつく、傷口をまたつつく。」

 

⑤やさしい街

作詞作曲 中村貴之

◯アルバム「明日によせて(1977年発表/6th/10位)」初収録。

中村さんの代表曲。シングルにはなりませんでしたが、発表当時から話題曲で、よくファンのリクエストでラジオから流れていました。

「パチンコやって儲けて、あの角の茶店に入って、レコード聴いて、コーヒー啜るのが、あの頃のお決まりのコース。」

 

⑥見上げれば雲か

作詞作曲 天野滋

◯シングル(1980年発表/18th)

◯アルバム「天中平(1980年発表/11th/35位)」初収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

これも、純文学的な青春のテーマを歌った天野さんらしい作品。一度聴くと、忘れられない曲。N.S.Pとして珍しく、訴えかける迫力(インパクト)のある曲。

「それぞれ人は、その足元に、自分の影を引きずり続け、立ち止まる時、思い出すのは、愛しい人の笑顔じゃないか。」

 

⑦17歳の詩

作詞 矢吹夕子/作曲 天野滋

◯アルバム「2年目の扉(1975年発表/4th/14位)」初収録。

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション2 1973〜1986(2005年発表)」収録。

哀愁(ペーソス)に満ちた青春の名曲。発表当時、ファンレターの詩に曲をつけたと天野さんは言っていましたが、実は、奥様の詩だそうです。学校の国語の先生が、授業でこの詩を紹介して「本当に気持ちよかったんですかね」と仰っていましたが、堅物というか生真面目な先生でしたね。

「嘘をついて、悪口言って、嫌われてしまえば、こんな気楽になるなんて知らなかった。」

 

⑧あの夜と同じように

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「黄昏に背を向けて(1977年発表/7th/15位)」初収録。

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

ミディアム・テンポでリズムの心地よい、N.S.Pとしては〝疾走感〟があると言ってもよい名曲。

「今年最初の雪が降る、お茶をふうふう飲みましょう、あの夜と同じように。」

 

⑨漁り火

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」初収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション2 1973〜1986(2005年発表)」収録。

オリジナル・アルバムには入っていない、幻の名曲。とても雰囲気のある曲です。

「ひとりじゃつらすぎるし、2人じゃダメになる。漁り火、海鳴り、二人の愛、いえいえ、みんな、まぼろし。」

 

⑩愛のナイフ

作詞 天野滋/作曲 細坪基佳

◯シングル(1979年発表/17th/94位)

◯アルバム「彩雲(1980年発表/10th/9位)」初収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

〝ふきのとう〟の細坪さんとの共作です。この曲が発表された1979年は、〝ふきのとう〟が、その音楽性の頂点を極めた傑作アルバム「人生・春・横断」がリリースされた絶頂期でもあります。

そういうわけで、この曲は、また違った魅力のある〝ふきのとう〟版もあるのですが、私としては、N.S.P的なアレンジのセンスが好きなのです。この曲には、より合っていたんじゃないかな。

「何が悲しいの? 何が寂しいの? 心、心、心を開く、愛のナイフが欲しい。」

 

⑪夕暮れ時はさびしそう

作詞作曲 天野滋

◯シングル(1974年発表/4th/11位)

◯アルバム「N.S.P.Ⅲ ひとやすみ(1974年発表/2nd/4位)」初収録。

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

言わずと知れたN.S.P最大のヒット曲。叙情派フォークという形容・表現(フレーズ)は、この曲によって生まれたのではないかと思います。

「こんな河原の夕暮れ時に、呼び出したりして、ごめんごめん、笑っておくれ、うふふとね、そんなにふくれちゃ嫌だよ、夕暮れ時はさびしそう、とてもひとりじゃいられない。」

 

⑫さようなら

作詞作曲 天野滋

◯シングル(1973年発表/1st/デモテープ版/46位)

◯Liveアルバム「N.S.P FIRST(1973年発表)」ライブ版収録。

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」新規スタジオ録音(リメイク)版収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

デビュー曲にして、N.S.Pの代表曲。1970年代の和製フォークを代表する一曲でもあります。

「やけに真っ白な雪がふわふわ、真っ裸の木を凍えさせ、蝉の子供は土の下、あったかいんだね、ゆっくり眠る。」

歌詞がとても印象的で、初めて聴いた時は衝撃的でした。

1973年のデビュー時の音源は、ライブ録音に近いデモテープ状態でスタジオ録音された荒削りなもの。デビュー・アルバムでは、これも荒削りなライブ音源。キチンと編曲され丁寧に編集されたスタジオ録音版(リメイク1)は、1978年に初めてつくられました。

 

⑬八月の空へ翔べ

作詞 天野滋/作曲 平賀和人

◯アルバム「八月の空へ翔べ(1978年発表/8th/10位)」初収録。

◯アルバム「青春のかけら達(1978年発表/初のベスト/19位)」収録。

◯アルバム「NSPベストセレクション 1973〜1986(2003年発表)」収録。

◯アルバム「NSPプラチナムベストBesTouch(2015年発表)」収録。

N.S.Pにしては珍しい、軽快なテンポの明るい朗らかな曲です。これも平賀メロディーの佳曲。

「八月の空はどこまでも続いた青い空、自然を愛する気持ちさえ、忘れていたようだ。僕は今、あの時の君に口づけた一人の少年。」

 

⑭You Love Me

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「天中平(1980年発表/11th/35位)」初収録。

天野さんがラジオに出演して「天中平」の宣伝をしていた時、この曲の解説で、「I Love Youじゃないのがイイんだ!」と力説していました。当時、「天中平」と同じ発売日(80年11月21日)に、オフコースのアルバム「We are」がリリースされて大ヒットし、少し遅れてシングル「I Love You」も大ヒットしたりしていたので、天野さんなりの〝負け惜しみ〟〝対抗意識〟だったような気もします。

 

⑮北斗

作詞作曲 天野滋

◯アルバム「天中平(1980年発表/11th/35位)」初収録。

暗く、重苦しいけれど、壮大な美しい曲。N.S.Pではお馴染みの夜空の星をテーマにした歌です。

ちょうど谷村新司さんの〝昴〟がリリース(1980年4月1日)された直後で、天野さんも刺激を受けたのかな。財津和夫さん(チューリップ)の「アルバトロス(1982)」とかも、〝昴〟の影響を感じるし。

 

 

アルバム「天中平」から、4曲も選んでしまいましたが、そう言えば、このアルバム名について、天野さんは、占いの「天中殺」からひねってつけたと、ラジオで言っていましたね。

N.S.Pが、まだ、それなりに人気を保っていた時期の最後のアルバムでした。

 

15曲をまとめて聴きたい場合、曲順としては⑮⑩⑤⑭⑨④⑬⑧③⑫⑦②⑪⑥①の順に聴くのがおすすめです。

 

人類の歴史において、ある局面を打開し、歴史を切り拓いてきたのは、その局面の持つ歴史的意味を知り、その分岐点の微細な空気の変化を肌で感じ取って、自ら決断を下し、果敢に行動した一人の人物であり、物事が動いたのは、そのたった一人の行動に、大衆が従った結果に過ぎない。

いつの世も、集団指導体制や、合議制が、歴史を動かしたためしはないのだ。

それからな。

怠惰で無能で無策極まる愚か者たちこそ、好んで核兵器を持ちたがるんだ。

本当に優れた者には、実は核など必要ない。

所詮、アメリカ人もイギリス人もフランス人もロシア人も中国人も、怠惰なバカものどもの集まりに過ぎん。

その点、優秀な日本人は、核を持っていないだろう?

 

1991年、湾岸戦争勃発時に、テロとデモで騒然となっていたパリの街のカフェで、ユダヤ人のおばさんがそう言った。

 

 

アメリカのどこに自由がある?

自由なんて、ごく一部の裕福で恵まれた運のいい連中の持つ特権に過ぎない。

アメリカの富の35%は上位1%の所有に帰するものであり、下位50%の人々は国全体の資産の4%しか持たない。

結局、アメリカでは、最低限度の生きる権利すら、国家は保障しないのだ。

生きる権利すらないのに、何が自由だ?

昔、ソ連には、どんな貧者でも、最低限、病院に行く権利ぐらいはあった。

 

旧ソ連時代を懐かしむロシア人がそう言った。

バイデンもゼレンスキーも、本当の貧乏を知らない。

プーチンは知っているんだ。

その違いは大きい、と。

 

 

 

2021年1月に「『ミンスク合意』を破棄する」と宣言した時、あるいは3月に「クリミアの奪還を目指す」と宣言した時に、既にゼレンスキーは「対露開戦も辞さない」と覚悟を決めていたのかもしれない。その背後には、戦争をしてでもロシアからの離反と自立を実現したいウクライナ西部の民族主義愛国者(反露派)たちの後押しがあったに違いない。彼らの戦略の〝かなめ〟は、この戦争にアメリカを巻き込むことであったはずだ。

また、このゼレンスキーの決断には、2021年1月、プーチンと個人的にうまがあった共和党のトランプ大統領が権力から転落し、以前からロシアを敵視し、ウクライナに肩入れが激しく、次男のウクライナ・スキャンダルをうやむやにしたい民主党のバイデンの政権が誕生したことが、密接に関係していただろう。

ゼレンスキーが『クリミア奪還』を宣言した直後、同年3月から、プーチンは国境に軍を増派して、ウクライナに圧力をかけたが、この時点で、ゼレンスキーは、対露開戦に向けて、アメリカに軍事支援を強く求めただろうし、アメリカとしても協力するにやぶさかでなかったはずだ。事実、アメリカ軍のウクライナ支援は、バイデン政権になって格段に手厚くなった。

バイデンからすると、「ウクライナには、是非とも対露戦を頑張って欲しい。しかし、大切なことは、アメリカが戦争に巻き込まれないことだ。何もプーチンのご機嫌をとって、戦争自体を止めようとする必要はない」というわけだ。

 

この「戦争が起きてもいいのでは?」というアメリカの傾向は、同年8月31日に、ベトナム戦争からの撤退並みのカオスを生じてバイデンからが赤っ恥をかいた、お粗末すぎる米軍のアフガン撤退騒動の外交的失策によって、ますます強まったろう。

タリバン政権が、米軍撤退とほぼ同時に首都を制圧した衝撃的ニュースは全世界を駆け巡り、アメリカの軍事力と外交的指導力への信頼は地に落ちた。この汚名を挽回し、同盟諸国の結束を図るためには、ロシアか中国が、近隣国に対して侵略戦争を始めてくれるのが、一番都合が良い。

同年12月8日、ミンスク合意を主導し、プーチンと個人的にも親しかったドイツのメルケルが首相を退任した。もはや、西側に、プーチンに影響を与え、侵攻を思い止まらせることのできる指導者はいなかった。

翌2022年2月、フランスとドイツは、ようやくことの重大さに気づき、ロシアとの交渉を始めたが、時既に遅しであった。

しかも、この時期にアメリカのバイデンは、ウクライナ軍の更なる増強に余念がなかった。当然、東部2州での紛争は激化した。そして、バイデン大統領とブリンケン国務長官は、繰り返し「ウクライナのNATO加盟はありうる」「今後、ウクライナで何が起こっても、米軍の派兵はない」と言い続けた。

これがプーチンへのゴーサインになった。

 

もちろん、これはプーチンの判断ミスであり、プーチンはアメリカの罠にハマったと言える。

バイデンとゼレンスキーは、入念に準備を整えて、プーチンの侵攻を待ち受けていたのだ。

戦争が始まってからも、アメリカとウクライナの連携は鮮やかだった。首都キーウに留まり、巧みに国民と世界を戦争に巻き込んでいくゼレンスキーの弁舌・手腕も見事だった。

「3日で首都キエフを陥し、2週間で戦争を終わらせ、ゼレンスキーに代わる親露政権を樹立する」というロシアの電撃作戦は水疱に帰した。

ゼレンスキーとアメリカの当初の目論見の通り、戦争は泥沼の長期戦になりつつある。戦争が長引けば長引くほど、ロシアの蛮行を世界に宣伝する機会は増える。ゼレンスキーとアメリカは、国際世論を味方に付け、長期戦を有利に展開することができる。そうすれば、徐々にロシアを追い詰めることができるだろう。

この長期戦計画は、これまでのところ、見事なまでに成功している。後は、経済的にも外交的にも、ロシアをじっくりと追い詰めていけばよい。

昔から言えることだが、戦争は勝者が総取りする容赦のないゲームである。したがって、勝てる戦争は、何としても勝たなければならない。決定的な勝利に至るまで、弱腰な譲歩や講和などもってのほかである。

急ぐ必要はない。時間は、ゼレンスキーとバイデンの味方だからだ。

 

ゼレンスキーとバイデンのタッグは、とても良いコンビだ。

ゼレンスキーは、アメリカの代理戦争を遂行することを引き受け、その一方で、ウクライナ民族派の野望・悲願であるウクライナのロシアからの離反と自立を成し遂げるつもりだ。ロシアの支配から脱する、ということだ。同時に、クリミア紛争でやられっぱなしだったロシアに一矢報いたいという思いもあったろう。

バイデンは、ゼレンスキーを全面的に支援し、ロシアに対して世界規模の経済制裁を続けることで、自らの手を血で汚すことなく、宿敵ロシアを徹底的に叩くことができる。同時に、このロシア叩きは、最大の敵である中国への牽制と警告にもなる。

そして、戦争が続けば続くほど、ロシアへの非難材料は増え続け、バイデン(とリベラル)の大好きな〝人道的な罪〟で、独裁者プーチンを追い詰めることができる。

アメリカでも、イラク戦争で、捕虜の虐待が常態化し、少なくとも八万人の民間人が、誤射・誤爆(?)で殺された。ロシア軍が、そのアメリカと同程度の民間人虐殺を行うことは、十分に期待できる。それを、今回は、大々的に報道し、ロシア非難の国際的な大合唱を作り出すのだ。

戦争が長引くほど、ロシアは孤立無援となり、ウクライナに支援は集まるはずだ。

まさに、理想的な状況である。

 

ただ、些細なことかもしれないが、バイデンとゼレンスキーの計画には、いくつかの問題点があるように思える。

その一つは、彼らの狙いである長期戦の実現によって、もっとも苦しむのはウクライナの国民である、ということだ。

もっとも、その責任は、すべてプーチンとロシアに押し付けることが可能であり、バイデンとゼレンスキー本人には実害(政治的な痛手)がない。

ゼレンスキーにとっては、ロシアの非道を宣伝し続けることで、国内の民族派の愛国心を鼓舞し、ロシアへの憎しみを燃え上がらせ、さらなる国際支援を得て、戦争継続への求心力を保つことができる。軍事力で正面からロシアを破ることさえ、夢ではない。

だが、依然として、ウクライナの民間人の生活と人生が破壊されていくという現実には変わりがないのだ。戦争が長引くほど、ウクライナの市民の苦しみは、耐え難いものになっていく。そして、この戦争が、早期に決着する見込みはまったくない。そもそも、バイデンも、ゼレンスキーも、初めから長期戦の泥沼化を狙っていたのだから、これで目論み通りなのである。

ある意味、「ウクライナの市民の命と人生と生活が、バイデンとゼレンスキーとウクライナ国内民族派の野望・願望を実現するための道具(犠牲)にされている」ようなかたちだ。

 

もう一つの問題は、我々にも関係がある。

追い詰められたプーチンが何をするか、という問題だ。

シカゴ大学の国際政治学者ジョン・ミアシャイマーは「悪いのはロシアを追い詰めた西側だ」「ウクライナ戦争の責任はロシアではなくアメリカにある」「これ以上、ロシアを追い詰めてはならない」と主張する。

また、現代言語学の第一人者で「知の巨人」と呼ばれ、今回のウクライナ侵攻を予測していたノーム・チョムスキーは、「ロシアの侵攻は重大な戦争犯罪であり、いかなる言い訳も通用しないが、先に裏切ったのはロシアではなくアメリカだったことは事実だ」「プーチンに逃げ道を用意しなければ、世界は想像を絶する悲劇を迎えることになる」「米露の対立が激化すれば、それは人類への死刑宣告になる」と主張する。

両者の主張を一言で言えば「ロシアをとことん追い詰めるのは危険だ!」という警告である。

それに対して、一般人の多くが考える典型的な意見は「侵攻したロシアに責任を取らせるべきだ」「侵略者プーチンに容赦する必要はない」「危険な独裁国家ロシアを徹底的に叩くべし!」というものだ。

 

確かに侵攻したロシアの罪は明らかで、誰にでもわかる明明白白のものだ。

その一方で、ゼレンスキーとウクライナは、侵攻された側であり、被害者である。

さらにバイデンは、派兵による戦闘行為を拒絶したという点で、戦争を拒絶している。自分(アメリカ)が、殺し合うことはしないと宣言したわけだ。

また、ウクライナは、自衛権を行使しているだけであるから、正義の側であり、そのウクライナに対して、アメリカが力の限り可能な支援を行うのは当然である。

このように大義名分が整っているゼレンスキーとバイデンの責任に言及し、表立って公然と非難するのは難しい。

その意味では、ゼレンスキーとバイデンの悪意は、巧妙に隠されている。おそらく、彼らは、自分自身に対してさえも、自らの〝悪意〟の存在を認めないだろう。

しかし、その隠された悪意が、人類に大いなる悲劇をもたらすかもしれないとすれば、やはり、我々は見過ごすことなく考えなければならないだろう。

そこに、ミアシャイマーとチョムスキーの言説の動機と使命感があるのだと思う。

はっきり見えているプーチンの大罪と、見えないバイデンとゼレンスキーの悪意が、世界を破滅に導くかもしれないのだ。

 

特に、日本の場合、ロシアと敵対するということは、NATO諸国と異なり、アメリカの存在感が低下した将来、東アジアで孤立し、中露ユーラシア連合と単独で向き合わなければならなくなる可能性が強まることを意味する。

その意味で、アジアで唯一、NATO諸国と足並みを揃えて、積極的にロシアに敵対的な態度をとる岸田政権の外交姿勢は、日本の生存戦略として、長い目で見ると、間違っていると言わざるを得ない。実に賢くない拙いやり方だ。

もともとロシア人は、ソ連時代から国民的に親日である。「日本は、かつてアメリカと真正面から戦った国だ」という親近感があるのかもしれない。

ロシア人は、たとえ反プーチンの人であっても、若者を除けば、プーチンよりアメリカの方が嫌いなのだ。

そして、ロシア人は、正邪を超えて、身内や味方には、非常に甘い。正義であるかどうか、などは関係ない。身内・味方は絶対的に保護し続けるし、最後まで決して見捨てない。

その反面、裏切り者は絶対に許さない。地の果てまで追いかけてでも、必ず、その報いを与える。敵に対しては、冷酷で残虐である。

プーチンにとって、ゼレンスキーが、スラブの〝裏切り者〟であるのと同様に、今、日本(岸田政権)もまた、〝裏切り者〟と見えているかもしれない。

 

我々人類は、自分自身の生存の問題として、この戦争を何とか早期の休戦・和睦に導かなければならない。

ロシアは絶対悪ではないし、西側は絶対善ではないのだ。戦争勃発の責任も、一方的に100%ロシアだけに帰されるべきものではない。バイデンにもゼレンスキーにも、開戦に至った責任はあるはずだ。

日本国民は、ロシアに対する過度な懲罰意識を持つべきではないし、西側の正義を盲信して「ロシアに対する一切の譲歩や妥協は許されない」と考えるのは誤りだ。

もっと言えば、ロシア側が「地上戦で決定的な勝利を掴むまで、停戦交渉が合意に向かって本格化する余地はない」と考えるのは誤りであるのと同様に、ウクライナやアメリカや西側諸国が「プーチン政権が弱体化して向こうから譲歩してくるまで、停戦交渉で、こちらが大きく譲歩する必要はまったくない」と考えるのも誤りなのだ。

ロシアにとって、選択肢が狭まることが、より過激な手段に打って出るきっかけとなるかもしれず、そして、その結果は誰にも予測できないからだ。

この先に、想像を絶する悲劇が待ち受けているとしたら?

戦場の、それを取り巻く世界の、人々の心の中に生じる報復意識や懲罰意識を、理性のタガから解き放ち、世界を憎悪で彩るのは、あまりにも危険な火遊びだ。

人類は、何度、同じ間違いを犯せば、学ぶのだろうか?