
過去に数回「ピノッキオ」考察を書いているが、今回、ミラノの社会協同組合(就労が困難な人々に働く場と訓練を提供する場所)の面白い記事を見つけたので、ご紹介。
「ピノッキオ」は、カルロ・コッロディ(1826年11月24日 - 1890年10月26日)の著書。なんと偶然にも今日が命日!
この作品は単なる子供向けの童話ではなく、人間の存在、父親との関係、自由、そして変わることの可能性について深く掘り下げた物語であると言われている。
『ピノッキオとは、私たち自身の姿なのだ。』
興味深いフレーズであった。
自由でありたいと願う人間こそが、過ちを犯し、道に迷うものであり、人生における出会いと困難を通じて、ようやく自分が何者であり、何のために生きる価値があるのかを見出すことができる…と書かれていた。
人間は、絶対的な自立の中に自らの完全な実現を見出すのではなく、自らの起源を認識すること、父との関係、そして幸せになれる可能性の中に、それを見出すと言う。
私たちは、自分の欲望を追い求めて一人で生きるようにはできていない。愛されるために、そして愛することを学ぶために、この世に生まれてきた、と思う。
救いは、人間の力だけで得られるものではない。
ピノッキオは、自分の力だけでは本物の子供になることはできなかった。
人間には、自分を超越する関係と、自分が創造された本来の姿になれるよう支えてくれる助けが必要なのだと言う。
著者のコッロディは、若い頃に神学校で神学を修めていたと言う。以前、コッロディは、賭け事に負け、お金が必要で、この物語を投稿した、と聞いていたので、意外であった。
しかも、初回連載では、狐と猫にだまされて木に吊るされてナイフを刺されたピノッキオが死んで物語が終わってしまうという、ショッキングなストーリー展開になっていたと言う。(さすがに読者の苦情が殺到し、慌てて再連載し、ピノッキオを生き返らせて、現在の物語のような話の流れになったそうだ。
話は基、私たちは過ちを犯したり、道を外れたり、自分を見失ったり、既にすべてを知っていると思い込んだりすることもある。しかし、かつての自分のままでいることを運命づけられているわけではない。
私たちはあらゆる絆から解放されたいのか、それとも愛し、愛されることができるようになりたいのか?
自分の存在を丸ごと受け入れてくれる人がいる、という実感、つまり愛されること、ということは、強い安心感をもたらす。また誰かを大切に思う事(愛すること)で、自分の人生に深い意味や価値を見出すことができるのではないだろうか。
つまり、人は他者を通じて、初めて本当の自分を深く知ることが出来る。とはいえ、「自由」(解放?)でもいたい。結局どちらも人間の根源的な願いであり、表裏一体なのかもしれない。
「自由」と「愛」は二者択一ではなく、自分自身が精神的に自由であってこそ、初めて誰かを健全に愛し、愛されることが出来るのだろう。
『ピノッキオとは、私たち自身の姿なのだ。』
自分勝手な生き方をしてきたピノッキオだが、造り主ゼペット爺さんは彼を見捨てることなく魚の中まで探しに来てくれた。まさに「放蕩息子の帰還」であり、神学的だったんだなあ。


