Pinocchio 〜 その3 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
年末年始から「ピノキオ」」考察をしているが、とにかくディズニー映画の「ピノキオ」と原作(“ピノキオの冒険」)はかなり内容が違うので、ディズニー世代の私はえっ?と思うことばかりだった。
 
本来は、コオロギにはジミニーなどと言う名前もないし、物語の始めにハンマーで叩かれて殺されてしまう。妖精だって物語の中で少女から大人へ成長するが、始めのシーンは死人だった!お爺さんさんだってカツラ頭だったのだ!
 
ところで、先日、新聞に映画ピノッキオに関する記事が出て、イタリア語の授業でそれを読んだ。
 
「ピノッキオの冒険」の作者でもあるカルロ•コッローディこと、カルロ•ロレンツィーニは1881年、54歳の時、賭け事に負け、お金が必要だったため、「子供新聞」なる冊子に投稿したのが、この物語のきっかけだったという。しかも、「掲載してくれるのなら書き続けるからきちんと支払ってくれ!」とまで注文をつけたのだというから驚きだ。
 
そして、初回連載では、狐と猫にだまされて木に吊るされてナイフを刺されたピノッキオが死んで物語が終わってしまうという、ショッキングなストーリー展開になっていたという。さすがに、これには読者の苦情が殺到。慌てて再連載し、ピノッキオを生き返らせて、現在の物語のような話の流れになったそうだ。苦笑
 

ピノッキオは何度も失敗を繰り返す人間の子供そのものであり、その度に残酷とも思えるような仕打ちを受ける。「子供新聞」への連載ということもあり、教訓的な意味合いも濃かったのかもしれない。

 

ロレンツィー二はなんだかんだ2年かかって36章を書き上げたそうだ。

 

ピノッキオは操り人形だから老化せず、右往左往しながらも、本来、人間として、失われてはならないもの、存在の秘訣、というものを告げるために生まれ変わるという究極な物語に築かれていった。

 

ところで、授業ではFavola(寓話)とFiaba(童話)の違いについて説明があった。それは扱うテーマと対象にしている人が違うという。

 

寓話とは文字通り、寓意が込められた話しということ。寓意には色々な意味があるが、一般的には教訓や風刺の意味で使われることが多く、その登場者は動物や物体、自然現象など様々で必ず擬人化されている。そして、それらの登場者が日常に起こることを、身近な出来事を通して、教訓や風刺などを感じさせるような話になっているというのだ。(イソップ寓話がまさにそう!)

 

逆に童話は、文字通り、子供向けの話。そして、おとぎ話もあるが、これは、魔法やら娯楽でいっぱいの美しいファンタジー領域だろう。おとぎ話では善と悪の間にしばしば対立があるようだが、大抵、いつもハッピーエンド。

 
ピノッキオの話に戻れば、人間の人生も常に「冒険」であろう。人生の意味を探るために誘惑やリスクに出会う。それが全くなく、避けきって歩むというのは至難の技だ。
 
また、ラストシーンでは、ディズニー映画では、操り人形が人間に変容するが、原作では、部屋の片隅に人形が横たわっており、それをみたピノッキオが「僕が人形だった時は、なんて滑稽だったんだ!」と叫ぶのだ。これは、まさに変容ではなく、生まれ変わりであろう。自己奴隷(人形)が死に、自由な自己(息子)が生まれた。それは運命が果たされたということ。あらゆる人生の冒険は、愛のために生き生きとなることであり、それ自体に閉じ込められた自己の死を経て、異なる視点で人生を見つる...という物語。

自分の原点、そして使命を知ること。自分が愛されている存在であるということを知る時、常に生きており、自分も人形であったと笑える時が来るのだろうか。


 
 
 
ミラノの日常 - Pinocchio
その2