謹賀新年 2018 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 
 
 
新年あけましておめでとうございます。
 
大晦日は毎年恒例、友人宅に集い、JSTVでNHK紅白歌合戦を見ながら新年を迎える。毒舌を語りながらよく食べ、よく飲み、よく笑い、紅組最後の石川さゆりの「津軽海峡冬景色」は皆で大熱唱した。
 
そしてカウントダウンと共に新年を迎えた。一年の計は元旦にあり。何事も始めが肝心である。
 
ところで、今年も毎年元旦恒例である初ミサをサンタンブロージオにてあずかってきた。もうここ何年も上記大晦日のメンバー数人と一緒にミサにあずかっている。
 
毎年12:15のミサが恒例。その前の10:30は微妙に早く、そしてラテン語。
 
アンブロジアーノ典礼での今日の福音はルカ2:18-21。ローマ典礼同様ABC年共通だが、ローマ典礼はルカ2:16-21と微妙に長い。
 
聖母マリアが「心に納めて」思い巡らすシーンだが, 今朝のミサでは、マリアの沈黙について言及された。
 

言葉はいつも忘却や無理解の危険にさらされる。だからといって、沈黙は言葉がないだけのことだろうか。以前、どの神父様またはシスターに言われた言葉だか忘れてしまったが、例えその時はわからない、理解を超えた内容であっても呑み込んでしまうことが大切。それはいつか理解できる時が来ると信じる行為だと。なるほどな..と思っていた。

 

新しい年を迎え、皆さんは心の中に、新しい決意や志望、つまり抱負を持たれていることでしょう。けれど、天の神様が私たちに与える使命を考えた際、それは神様のご計画であることを知ります。それには意味があり、価値があり、希望があるのです...と司式司祭。

 

昨日も書いたが、天が人間に与えた使命、つまり天命を知るとは、自分の生涯における使命を見極めることだ。

 

そして、沈黙とは、楽譜、音楽の休止符みたいなものだと司祭。音と音との間。場を仕切るところに沈黙があり、祈りのようなまた観想的な姿勢が見える。そこには神様が宿るのかもしれない。

 

今朝のパパ様のお説教の中でも、聖母マリアが沈黙のうちに心に納められたことに触れられたが、「心」は、人や愛情、人生の中心を見つめるよう招いているという。

 

私たちも、1年の初めに、中心から再出発し、過去の重荷をあとにし、大切なことから再び取り組みたいと思う。

 

その後、これから1年間守ってくれるという守護聖人の御絵をいただいた。

 

  聖アキリーノ

 

カードの裏の説明書きによると、聖アキリーノはミラノ、あるいはケルン(ドイツ)の聖アキリーノと呼ばれているようだ。ドイツのヴュルツブルグの裕福な家庭出身で、異端とされたカタリ派を攻撃する説教をして歩き、1015年頃、ミラノで殉教。ティチネーゼ門近くの下水道で遺体が発見され、近くのサン・ロレンツォ・マッジョーレ教会に運ばれたという。現在も彼の聖遺物をいれた壺が展示されている聖アキリーノ礼拝堂というのが、内部にあるらしいが、なぜ秋にサンロレンツォにいっているのに、見ていないのだ?と思ったら、そこは有料で撮影禁止になっているそうだ。ちっ。

 

今年も、サンタンブロージオのブックショップに寄り、メダイと自分用にロザリオを購入した。

 

 

 

今年も1年よろしくお願いします。

 

 

 

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