一年の計は元旦にあり 「クロノス」と「カイロス」 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

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新年あけましておめでとうございます。

大晦日は毎年恒例、友人宅に集い、新年を迎える。よく食べ、よく飲み、よく笑った。

何はともかく、一年の計は元旦にあり。何事も始めが肝心である。

ところで、今年も毎年元旦恒例である初ミサをサンタンブロージオにてあずかってきた。アンブロジアーノ典礼での今日の福音はルカ2:18-21の「イエスの命名」の箇所であった。「イエス」という名前は、イタリア語では「ジェズー」。ヘブライ語では「ヨシュア」(イシュア)といい、「神は救い(救う)」という意味がある。ちなみに初期キリスト教共同体の共通語がギリシャ語であったため、上記の言葉がギリシャ語化し、「イエスス」となり、日本語の「イエス」はそれをカタカナ化したもので、決して「Yes」ではない。

お説教の中で、「私たちは、主に救われます。生きましょう。救われた者のように。」とあった。また、「時間は人生の器のような”救い”である。」とも言われた。

「人生の器」か...それは過去から未来へと連続した時間であり、私たちの人生そのものである。そこで、ギリシャ神話にある「時」にまつわる2つの神を思い出した。連続した時を表す神「クロノス」と一瞬を表す神「カイロス」である。

つまり、「クロノス」は人間が作った時間であり、「カイロス」は神が備え給う時間だという。私たちに与えられた時間、人生は無限ではない。だから、大切にしなければならないし、生きること自体大事にしないと、生きることを無駄にすると言っても過言ではないだろう。けれど、ただ単に時間に追われ生きること、ひたすら予定をこなす事は、ある意味、ベルトコンベアーに流されることと同じことであり、大切なのは、時間管理だけにこだわるのではなく、いつ訪れるかわからない時を待つこと、見極めること、それが「カイロス」という時間を生きること、だと思う。

人にはそれぞれ時がある。生まれる時、死ぬ時、泣く時、笑う時...それは時計で計るような「クロノス」ではなく、人生にいろいろな意味を与える「カイロス」である。神との出会いは、恵の時。そして救いの時。

常に書くが、時間の使い方は命の使い方。人生という時間を大切にするためには、「クロノス」ではなく、神の時。「カイロス」を大切にして生きなければならない。

意識して生きよう。