昨今、近親者間の殺人や遺体バラバラ事件が多発している。
今、公判継続中の3つの事件。
いずれも精神鑑定が争点となっている。
・秋田の実子と実子の友達の幼子の命を奪った被告
・渋谷で夫を殺害した遺体バラバラ事件
・(場所は忘れたが)女性4人と結婚・同居していた男が前妻を殺害した遺体バラバラ事件
台場でフィリピン人女性を殺害した遺体バラバラ事件も起きた。
前者3つの事件では1つめが無期懲役、2つめが懲役20年、3つめが懲役10年だったと記憶している。
いずれも凄惨で身勝手な動機による殺人であり、殺人自体も異常であり、さらに殺害後、バラバラにするという行動は尚まさに異常だ。
いずれも情状酌量の余地はないのではないだろうか。
殺人も殺人後バラバラにする事も精神的に正常でないからそうした惨い事ができるのであってその際の精神状態がどうだったかなど関係ないだろう。
確かに精神異常で病気であるなら完治が期待できないわけではない、完治した場合、こうした事件を起こさない可能性がある以上、その点を重視しているのかもしれない。
被害者や遺族からすればこれは、戦争が正当化されると同じような苦痛を受けるんじゃないかな。
いずれも量刑が妥当なのか否かは判断が分かれるが、少なくとも量刑にこれほど差が出る事には大きな疑問がある。
他に加味される故意なのか過失なのか、故意なら計画的であったのか衝動的であったのか、情状酌量の余地があるのかないのか。
殺傷人数も参考にされるらしいが、それなら尚更戦争で虐殺すれば極刑だろう。
生命に数など関係ない。
1つの生命それぞれが尊いのであって、連続殺人犯に対して加味すればいいことであって少ないから刑を軽減、多いから重いという短絡的な判断には疑問が残る。
それから検事、弁護士のそれぞれの力量、事務所所属ならその事務所の力量、事務所や個人のその事件に取り組む際の力の入れ様(人間だからどうしても体調や精神状態により常に一定の状態を維持するのは実質無理だ)、国選なのか、そうでないのか。
また、事件に絡む人物によっては司法にはあってはならない圧力がかかるとか、司法取引とか。
さらに検察側と弁護側それぞれで解決能力を測る物差しとして原告、被告の勝訴、敗訴は、その後の事務所や検察、弁護人のキャリアに影響してくる。
並行していくつもの事件を担当できないことも多いため、比較的担当の中で重きを置いていない事件では早急に片付けたいという心理が働くことだってあるだろう。
報酬の差も心理に影響することもあるのではないだろうか。
そうなると長引かない為に落としどころを互いに見つけに行くこともでてくると考えられる。
事件に重いも軽いもないんだけど、検察官や弁護士も神でもなくロボットでもない人間なので様々な心理に100%影響されないなんて土台無理な話だからだ。
ただ、この時、人間の性としてなら、人道的、道徳的な両親に基づく力配分なら許容範囲でも、これが故意なら許されるものではない。
こうしたことによっても求刑や減刑の度合いが変わってくるのではないかな?
冒頭の3つの事件でも検察の求刑からしてはじめから差があったのではないのか。
今後、日本でも裁判員制度が導入される予定だけど、職業裁判官にしても、裁判員にしても、被告に対する検察側の求刑が短すぎる場合に是正されることは、ないと考えているんだけど、どうなんだろう?
あくまで検察側の求刑に対し、妥当性を検証するというのが今の裁判だと思われる。
そうだとすると裁判官の決定は、当然刑罰の差に影響はあるけど、それ以前に検察側の求刑に著しい差がある場合には、事件間の刑の決定においても大きなバラつきがでてくるだろう。
私は、幼い頃、単純に「検事は悪い人」「弁護士はいい人」と思っていた。
でも、大人になってみればそれが間違っていることにすぐに気づく。
このいい人、悪い人という幼稚で短絡的なイメージは、ケースによって立場が逆転してしまうからだ。
先日、詐欺で逮捕された元弁護士は、弁護士時代、裏社会の救世主と言われた人物だそうだ。
明らかな犯罪者や裏社会の悪事を弁護する弁護士は必ずしもいい人ではなく、事の真相を究明しようとする検察官がいい人ということもある。
逆に冤罪かどうかもそうだけど、告訴内容によっては、被告が必ずしも悪い人ではない場合、弁護士はいい人だろう。
8:2の法則をしばしば引用するけど、たとえば8割のいい人と2割の悪い人が世の中には、いるということだ。
同率だったり逆転現象が起こると世の中は壊滅していく。
ただ、犯罪数が増加、凄惨な事件が増加、犯罪の低年齢化、経済状態の変化も密接に関わっているとも思われるけど、明らかに心ない荒んだ世の中になってきている。
司法を預かる人々も例外なく人間だ。完璧な人などどこにもいない。
だからこそ1人でも多くの人が道徳的、人道的に心豊かになることができたら、安全と安心に包まれるんじゃないかな。
それが永遠のテーマだったとしても。
そうならなければ、そういう想いの人々が多くなれば地球自然環境に心底、心傾ける能動的な人が自然と増える。
そうでなければ、世の中の流れだから、環境はビジネスになるからとか、それに流されて仕方なく、受動的に日々を送ること(でその仕組みが確かなら知らないうちに、自然が回復してたらいいねという状態)になるんじゃないかな。
受動的なのが悪いわけではないんだけど、心の目で見ると感受性も豊かになると思うんだ。
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