山間に住む動物が人里に下りてくると危険だ、危ないといって駆除に走る人々。
最近では保護のため確保する動きもある。
でも、保護しきれているのだろうか?
ペットを捨ててしまう人もいる。
ペットですら飼い主を失い、保健所で引き取られても「処分」される動物も少なくない。
古く人類が行ってきた猟はその日食べる為の食糧確保が目的だった。
これは自然の摂理であり、生態系の仕組みだ。
古く人類が犬や馬を利用するのは生活の為だった。
例えば犬は主に狩猟、馬は移動手段。
その頃は、その犬や馬をむげに捨てたり、「処分」したりしたのだろうか?
昨今、動物たちは、人類によって切り崩された山々や伐採された木々が原因でその山や木々周辺に育つはずの植物や虫、小動物の生態系をも変えてしまい、動物たちが食べる食物がなくなった為、餌を探して人里に下りて来る。
動物が山を下りて人里にやってくるのは人に危害を加える為ではない。
お腹がすいて今まであったはずの周囲に腹を満たすものがなくなってしまったため、彷徨い歩き、人里に辿り着く。
動物たちは、人との間の人が決めたがるルールを理解することは難しい。
ただ、子ども達に餌を見つけてこなきゃ、自分が食べなきゃ、という自然の摂理、動物の生理現象として食べ物を探し回った結果、ようやくあったのが人里。
一体、誰が彼らの誰が彼らの子ども達の食料を奪ったのだろうか?
他ならぬ人だ。
元はそこに住む住民ではないだろう。でも同種の人類が思慮もなく思いやりもなく彼らの住処(すみか)や食料を奪った。
彼らと共存すべき場所、彼らの居場所と人の居場所を住み分けているはずなのに彼らが住んでいた場所を人類は奪った。
奪ったのが自分ではないという無関心ではいられない。
なぜなら、心無く奪うことになった理由は悪意を持って誰か一個人が行ったことではないからだ。
現代の経済社会の流れの中で一連の流れとしてまるで当たり前であるかのように人々が行ってきた。
この現代の経済社会の仕組みに生きる人々はいわば同罪ということだ。
人里に下りてきた動物たちは何も悪いことなんてしていない。
人が邪魔しなければ、人が彼らから住む場所や食料を奪わなければ、暗黙の了解の中、静かに共存できていた。
栃木県日光のいろは坂に大量に現れたサル、みかん畑に現れたという熊、街に現れたというイノシシ、街の街路樹や建物に巣を作っているハチ(東京銀座のビル屋上で養蜂されているケースを除く)、街や住宅街にたくさん集まるカラス・・・
危ないの、怖いのって、そうさせたのは、そうせざるを得ないほど彼らを追い込んだのは同種の人類であり、この現代社会。
挙げればキリがないけど、被害者は人々ではなく、加害者が人々なのであって彼らこそが人々によって住む場所や食料を奪われた被害者たちなんだよ。
山に登り、心無くゴミを捨てる輩。釣りをして心無くテグスや釣り針を捨てていく輩。
ゴミにつく残飯を餌としてしまう動物、土に還ることのないゴミを放置していく人の醜さ、愚かさ。釣り糸で傷つく鳥たち。
街ではゴミやタバコをポイ捨てする輩もいる。これだけ腐りきった世の中で地球自然に感謝して愛を持って思いやりを持って気づいて自然回帰することができるのか・・・と気が遠くなることも多いだろう。
山を切り崩し、趣味道楽の為にゴルフ場を造る。そこへ行くための道路を造る。ガソリンを燃やし、二酸化炭素を吐きまくって山を登り、そこで趣味に興じるために造られたクラブなどの道具でプレーする。
プレーする人々にサービスの一環としてレストランやカフェ、お風呂などがあり、ふもとから水や食料やあらゆるものをガソリンを燃やし、二酸化炭素を吐きまくって山を登り運び、ごみをおろす。
ゴルフ場の芝も緑だし、周囲に木々もちょっと残してあるし、いいじゃん。
・・・・・そうではない。芝は木々の代わりにはならない、木々の周囲に生息していたはずの動植物たちは駆逐されてしまうのだから。
広葉樹が植わっていた場所に針葉樹を植えてしまうと根元周辺の生態系はガラリと変わってしまうし、壊れてしまう。
自然に植わっていた木々の間隔を無視して大量に植えすぎると太陽光線がいき届かず、やはり根元周辺の生態系は換わってしまうし、太陽光線が不十分だとその木々自体枯れてしまう。
人はリラックスして空気の澄んだ緑の中でプレーするゴルフは贅沢で爽快で自然を満喫できる素晴らしいスポーツだ。なんていいだす。
贅沢のきわみと言わんばかりにゴルフ会員権が高値で取引される。金にモノを言わす人々がプレーに興ずる。
現代の経済社会はその空気をも汚し、緑や自然は不自然なものとして存在しているにも関わらず生態系を壊しておいて自己満足に浸る場所と化している。
住宅建設の為にそこに植わっていた植物の生態系を無視し、冷酷に伐採し、成長の早い杉に植え替え、住宅を作りまくる。
そんなに人口いたっけ?というほど住宅や大型ショッピングモールを作りまくる。
例えば国土の95%は元の自然を極力復元して残りの5%は人のわがままで利用させて頂いたらどうだろう。
苦肉の策でビルの屋上や壁面を緑化する傾向もある。
二酸化炭素吸収量を増やす、建物内の保温・保冷になるなどのメリットが謳われている。
不自然極まりない光景だが、考え方として後ろ向きではないことだけは確か。
でも、もし自分の生活圏が10階建てビルの屋上、広さはそう、約200㎡のみで他での生活が許されず階下に下りることができないとしたら、足元は全面土、買い物にも行けず、街に繰り出すことすらできず、恋愛もできず、家族も持てず、子孫も残せず、排便もできず・・・、他の人は地上で生活していて、コミュニケーションがとれないとしたら・・・。
人が生活するには無理があることにすぐに気づくはずだ。
人ができなくても木々や花や土はできるのだろうか?
答えは当然NO。
そんな環境では生命を維持することが、持続可能な生活圏を維持することができない。
遺伝子組み換え技術やクローン技術はどうだろう?
遺伝子そのものはこの不思議で神秘的な地球に存在するとしても、自然界ではあり得ないはずの遺伝子の組み合わせ構造だったら・・・
同じものは存在しないはずのDNAや遺伝子が複数存在したら・・・
いずれも生態系の破壊につながり、予測不明な悲惨な事態(これまで人類が知らずに???破壊してきた地球の変化を超えるような事態)になるだろう。
破壊し続けた人類は、元に戻そうとか復元しようとかいう意識がないため、住宅やビルや機械と違って設計図も見取り図も組み図も残ってはいない。
人が発明、発見、発案、研究する、そして造り出すすべての元は最初からこの宇宙にこの地球に存在するものそのものやそれらの組み合わせでしかない。
どんなに偉大な発見もその発見される偉大なものは既にこの宇宙に地球に存在していたものに過ぎない。
つまり、人が自然を作り出したり、調整したりすることはナンセンスということ。
人類にできる、そしてやらなくてはならないことは、できる限り、自然に元あった通りに復元(する努力を)して自然界の法則、メカニズムの免疫力、抵抗力によって自然治癒するのを待つ。
その為には自然界の法則に反するものは全て人畜無害にして自然界に迷惑をかけないように処理する必要がある。
北欧で昔、地引網漁によってさんご礁が傷つき、生計の礎である地引網をやめ、その漁師さんたちが、近隣諸国と政府の計画による、さんご礁を遮る予定の天然ガスのパイプラインを迂回させたという感動的な話があった。
この世の中で生活していく為、生きるためには仕方ないといわれる中、ただでさえ苦しい生活の糧である仕事を見直し、パイプライン自体は造られたものの、数カ国の政府を説得し迂回させ、さんご礁を守った。
地球温暖化により、海水温度上昇が顕著となり、これまで国の特産物だった魚介類が日本海域で獲れなくなっているという。
温暖な海域の凶暴な魚類が日本の海域で発見され、これまで食料としていた魚介類が食べられてしまうという事態も起きている。
フィリピンやマニラのある農村地域では3年に一度程度、竜巻で家々が吹き飛ばされるのだという。その度に死傷者を出すが、また復興してそこに住み続けるしかないのだそうだ。
アメリカではカトリーヌなど竜巻被害も顕著で人災、天災による山火事など大気汚染大国への天罰かとも思えるほどの被害が起きている。でも、これは天罰というより自然界を破壊し続けた結果、当然の如く起きた人災なのだ。
昔、アメリカはプランテーションを行うため、広大な面積の山々を削り、カウボーイで知られる放牧や農地拡大に乗り出した。
これも前述のゴルフ場同様、木々を芝や田畑にしただけで緑は残っているんだからいいじゃん。とか生きていくためには仕方ないじゃん。という理屈は通らない事態を招いた一例だ。
こうした考え方は市場経済、自由経済、資本主義社会における経済概念の中でも「規模の経済」がこうした広大な耕作面積を要した一因だ。
少量で儲からなくても大量なら儲かる、少量で単価高額では利益が少ないが、大量で単価低額ならより多く利益が見込めるといったいわゆる薄利多売の大量生産方式だ。
需要があるから大量生産され、大量消費されるが、需要超過や品切れを懸念して余分に大量に作ることになる結果、大量に捨てられた。
これが、対策が打たれる中、今も尚、性懲りもなく続く大量生産、大量消費、大量廃棄の時代だ。
豊作による単価低下を嫌った新鮮野菜の廃棄や何を基準に決まっているのか、それが妥当なのかもわからない消費期限切れ食料も、スピードを売りにするファーストフードのも商品ができて一定時間経過すると数時間で廃棄されてしまうバーガー類、衣類を買い増し、流行遅れだからとすぐに捨て、ほつれたくらいですぐに捨て、飽きたからとすぐに捨て、片付かないからとすぐに捨て、また買えばいいやとすぐに捨て、飲み終わったら捨てられて便利とペットボトルを愛し続け・・・
南米やフロリダやオーストラリア、アフリカなどでは、旱魃(かんばつ)被害も増し、オーストラリアでは大陸の東西で旱魃と洪水被害という両極端な被害が起きている。大陸が広いだけに洪水の地域から旱魃した地域に十分な水を送る手段はない。それぞれの地域はそれぞれに苦しみ、対策を検討する人々はその両極端な現状を指をくわえてみているしかない事が一番苦しいことだろう。
これら含め、こうした状況により、コアラやカンガルー、他国ではゾウなど日本でもお馴染みのかわいい動物たちが苦しんでいる。
朱鷺(トキ)やパンダも同じように滅亡し始めている。
ペンギンや白熊が氷が溶けていくことによって住む場所がなくなっている。
その他多くの動植物が絶滅危惧種として指定され保護を急いでいる。
でも、元を断たないと応急措置でしかなく、こうしたおぞましい現実が次々と押し寄せ、応急措置も追いついていない。
それもこれも人類のエゴと傲慢が招いた結果であり、人類の心をゆがませる原因にもなっているのが競争を煽る性質を持つ経済社会であり、その変化のスピードが速くなりすぎ、人の心もついていけなくなり、惰性に流されこの社会に生きているためだ。
くしくもゆとり教育が見直される中、以下はある意味逆行するが、ゆとり教育は「ゆとり」が失敗だったのではなく、その中身が失敗だっただけだろう。
この制度は、「中身をとにかく薄っぺらく、あったことを大まかに省略して時間を短縮しただけ」だった為、学力低下につながったに過ぎない。
そもそも「ゆとり教育」で求められる要件とは全く違う方向性だったから失敗したのだと思う。
その要件とは、時間短縮するために適当にいい加減に省くのではなく、自然と戯れ、その中から協力することを学び、知恵を絞って自然の中まさにそこにある木々などを使って何かを生み出すことによって協力する大切さや自分で考える知恵を身につけられるような仕組みとか星を見て星座を見て自分の星座と照らし合わせたり、知ることで宇宙への興味など科学的な素養を養うことや社会や街に出て高齢者と接したり、工場見学や商店見学をさせてもらったり、芋ほりや田植えなどを教えたりすることで自然や年代の大きく違う方への思いやりや配慮ができる人が育つような仕組みづくりが一番大切なんだと思う。
興味がなければ学習意欲は生まれない。これまでのゆとり教育もこのスピードの速い経済社会に煽動されて、親や自分が興味があれば、経済的にある程度潤っていれば、学習塾や早いうちから私立や中高一貫校などを選択する。
なぜかといえば働く社会には学歴社会が根付くよく残っているからだ。
そしてリベンジの利かない社会になってしまっているからだ。
一歩でも踏み外したら元の生活は望めないほど突き落とされるからだ。
それも困ったものだが、ただむしろそれに向かって生きている人よりも、そうでなく学習意欲や左脳ではなく右脳が冴え渡る方が幸せになれる人も多いはずだ。
だから自然や年代を超えた人々との出会い、触れ合いから学ぶ機会を増やしてあげることが夢見る子どもや才能が開花する子どもが増えることになのだろう。
国語・算数・理科・社会、現代文・古文・古典・英文法・英語・英会話・数学・基礎解析・微分積分・地理・世界史・日本史・地学・生物・化学・物理などなどそれぞれの配分は、学習意欲がない、興味関心がないうちはどんなに詰め込んでも意味がないし、誰もうれしくないはずだ。
だから詰め込みも必要だけど自然の中で生かされている事、生きていること、その喜びを知ることが第一、詰め込み教育は二の次でいいんだよ。
経済第一じゃなくて環境第一、経済は二の次でいいんだよ。
(「でいいんだよ」、というより、「でなくちゃいけない」し、「間に合わない」と言ってもいいかもしれない)
でも、そんなに急いでどこに行くの?将来働くことになるだろう(かもしれない)社会は自然環境を破壊する方向に向き、改善や対策も経済優先のため応急措置にすらなっていない状態。
議長国となった京都議定書の達成目標さえ程遠く、遵守するどころか目標スタートラインに立ってみたら増えちゃってました。どうしましょ。という議定書の重みも無視する大人気ない行動をする大人。
税金を着服したり、横領したり、無駄に使ったり、法外な報酬をもらったり、すべき仕事をしなかったり、汚い賄賂やリベートにまみれる太刀の悪い国家公務員や地方公務員の一部は、この日本を引っ張っていく「はず」の大人。
国民を敵に回した上に今度はそれでも間に合わないから道州制にあわせてそれまで着いてきた地方公務員をリストラする政府や中央官僚。
この日本を引っ張っていくはずの大人であり、身内をクビにすることでトカゲの尻尾きりのようなことをして何かをなし得たような顔をしようとしている大人たち。
未来の社会を担う子どもたちがそんなバカバカしい社会に埋もれることのないように、こんな国を、自然を省みない経済を本質を見極めて根本から変革してくれるような、変革が必要だと思うような愛情と思いやりと慈しみと発想と気づきをもって明るい未来を切り開くことができるような創造性を育めるようなそんな種になる教育が求められているのではないのかな。
そこを今の大人が間違えるから失敗したんだよ。
もっと心にゆとりを持てるスローなゆっくりと流れる時の中で自然と戯れ生きていく社会にならなければ、幼少時代の、親世代の、祖父母世代の、数世代前の大家族や自然から気づかないうちに教わる生活習慣や躾やマナーや思いやりや愛情や慈しみや気づきは生まれてこない。
ゆとりを間違えてはいけない。愛や思いやりや慈しみや気づきを忘れて無神経で無関心で残酷な卑劣な人になってはいけない。
物事の本質を見極めて冷静に判断できる大人になるために。
動物たちが人里に下りてくるのはなぜなのか、動物や植物たちの生態系が崩れたのはなぜなのか、何を誰が反省しなくてはならないのか、誰がどうしていかなくてはならないのか。
そういうことがわかる大人になるために。
豊かな心を持って育ってほしいな。