(『新・人間革命』第7巻より編集)
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〈操舵〉 17
(つづく)
そして、その機会を考えていたところ、ある有力な民間人を通して、アメリカのケネディ大統領から、個人的に会いたい旨の要請があり、会見が具体化していました。
ところが、日本の政界から横槍が入ったのです。
・・・ 。
しかし、遅かれ早かれ、世界の民衆に、全世界の指導者に、この『原水爆禁止宣言』の思想を訴え抜いていかなくてはなりませんが、皆さんも、私とともに、全情熱を込めて、語り抜いていっていただきたいのであります」
会見の機会を逸した伸一とケネディは、遂に見(まみ)えることはなかった。この約十か月後、ケネディは銃弾に倒れるのである。
この二月は、学会伝統の折伏の月であった。
その淵源は、昭和二十七年の二月、山本伸一が蒲田支部の支部幹事として活動の指揮を執り、当時としては未曽有の、一支部で二百一世帯という弘教を成し遂げたことにあった。
それが突破口となり、戸田が願業とした、会員七十五万世帯への流れを開いたのである。
その「伝統の二月」とあって、同志の布教への意気は高まっていた。
なかでも、婦人部の活躍は目覚ましかった。
彼女たちが、友を笑顔で包みながら、懸命に、幸福への道を語り説くと、温かな暖炉のような、ほのぼのとした人間性の温もりが漂った。
そして、かたくなに閉ざされていた友の心も、いつしか開かれ、共感への調べが広がっていくのである。
婦人部は学会の太陽であるー というのが、山本伸一の確信であった。
彼は、その婦人部に、感謝と敬意を込めて、未来への希望となる指針を贈りたいと思った。