原発避難地域での家畜の殺処分が決定された。既に餓死している家畜の消毒や放れている牛の確保も同時に進められるそうだ。
去年も今年も家畜にとって何たる悲劇の日々か。
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ある酪農家の被災の様子を紹介したい。
石巻市の牡鹿半島で陸の孤島化したある酪農家である。
3月11日、堆肥の運搬作業をしていたSさん(56歳)は、突然激しい地震に見舞われた。
65頭の乳牛も立ち騒ぐ。
隣町の鮎川で看護師をやっている奥さんは非番で家にいた。
病院へ集合する決まりですぐに出かけた。
牛舎の被害は搾乳機のパイプラインが外れる程度だったし、牛舎は高い場所にあるので津波は心配ない。停電したので「発電機」を借りるために近所へ出かけた。
「なんだこれは!」
眼下の鮎川の見慣れた街が跡形もなく消え去っているではないか。
奥さんの病院は港の近くだが高台にある。
電話するが通じない。
津波が来る前に病院へいけただろうか。祈るばかりであった。
奥さんの消息が分かったのは2日後。
息子が瓦礫を潜り抜け何とかバイクで病院にたどりつき無事を確認したという。
電気と水道が止まり、固定電話も携帯も通じない。交通は途絶して、こちらからも農協などの先方からも連絡は取れない。まさしく「陸の孤島」
2日間は、停電で全く搾乳は出来なかった。搾乳できない牛は乳房が張り痛々しい鳴き声を上げる。このまま放置すれば乳房炎に罹り牛も命の限界だ。
やっと、近くのブロイラー農家の発電機を借りることが出来た。
だが、燃料が少なく1日2回の搾乳は1回しかできない。
飼料もなくなってくる。
水道は途絶しているので、沢から水を汲んで来るしかない。
搾った牛乳は集乳がないから捨てるだけ。
空しくヘトヘトの労働の毎日が続く。
1週間後、水は鮎川の水源地からトラックで運べるようになった。
電気が復旧したのは4月5日。
しかし、搾乳だけは出来るが、搾乳機の洗浄、殺菌ができないから牛乳の出荷はできない。
水道が復旧していないから圧力が足りないのだ。
水中ポンプでの圧力を利用すること思いついて、パイプラインの洗浄が出来るようになり、なんとか出荷が出来るようになったのは4月16日。
地震から37日目だった。
Sさんの場合は、家族の人命が失われず、牛も数頭病気になる程度だったし、施設の被害もなかったので、被害は、牛乳の廃却と人と牛の消耗程度の最小限ですんだので、むしろ、不幸中の幸いだったといわねばならないが、悪夢のような1ヶ月余の日々であったろう。
地震津波で酪農家本人や家族なくなったり、原発災害で避難したため牛が放置されたり、牛乳を廃棄したり、水やエサがないために家畜が疲弊し病気になり死ぬなど、悲惨な状況がなお残っている。原発避難地域での家畜の殺処分も始まった。
原発災害の対象であったり、地震や津波で死んだり家や設備が流された場合は今後の補償はあるが、Sさんのような場合は、政府による被害補償や義援金の配分があるのだろうか。
全国の酪農団体では、とも補償基金の利用や全国の乳代からキロ当り数十銭の拠出をして被害に遭った酪農家を援けようという動きが始まっている。やはり、酪農家の結束は固い。