レゴランド特集
レゴランドの前日は、
イエリングのキャンプ場で
バンガローに泊まりました。
明日が楽しみです。
ワインで前夜祭、スコール(乾杯)!
レゴランドのあるビルンはすぐ近く。
いよいよレゴランドホテル到着です。
すでにレゴランドの気分でいっぱい。
レゴのおさるたちもお出迎え。
中に入るとレゴでできたドラゴンがいました。
チェックインして、部屋に向かいます。
窓の外はもうレゴランドです。
こまかな調度品もレゴ仕様。
ここで連泊して、
3日間思いっきりレゴランド三昧です。
ワクワクしながら、パーク内へいそげ。
レゴランドは最近、
絶叫系アトラクションも増えてきましたが、
基本は、子どもも楽しめるやさしいもの。
新アトラクションでは、
これが、面白かったですね。
海賊船に乗るライドなんですが、
乗っているあいだ中、
お客さん同士が、
大砲で水をかけあいます。
手回しポンプの水鉄砲なので、
そうとう体力も要ります。
船対船も、船対陸も、総力戦です。
びしょびしょになって、
大笑いしてます。
数々ある、どのアトラクションも、
最大でも30分も待てば乗れます。
それに、レゴランドの魅力は、
本来、アトラクションではありません。
ショーもコンサートもありますし、
なんと言っても、原点は、
レゴで作られた数々の作品です。
ミニランドと呼ばれるエリアは、
いろいろな町並みが再現されています。
たとえばバイエルンの景色とか。
もちろん、レゴでできています。
レゴランドの作品はすべて、
チーティング(ずるっこ)なしで、
ちゃんとした組み方で組まれています。
組み方の研究をしだしたら、
キリがありません。
たとえば、この教会の石壁も、
よく見るとちゃんとレゴで組まれています。
こちらがその中でも、最も古いエリア
いわばレゴランドの原点です。
「デン・ガンムレ・ビュー」
(古い町)
と言われている一角です。
こちらは、コペンハーゲンの名所
ニューハウンの再現です。
どこかのお店に入っていきたくなりますね。
建物だけでなく、
数々の乗り物も動いています。
船や列車も、ていねいに作られています。
船の曲面をどうやって作るかが、
非常に興味のひかれるところですね。
このフェリーには、
車が出入りしています。
車は地面の中に埋められた無線アンテナで
制御されて、自走しています。
レールもないのに、
ハンドルがきられて曲がっていく様子は、
いつまで観ていてもあきません。
飛行機は、さすがに飛びませんが、
滑走路を走る姿は、いかにも飛びそうです。
これは、スペースシャトルです。
轟音とともに、今、打ち上げです。
もう、観だしたら
時間がいくらあっても足りません。
ここにご紹介しているのは、
ほんの一部だけです。
日本のコーナーもありますが、
そのほかに、もう一つ、
大阪城もあります。
これはミニランドに日本コーナーのできる
もっと前からありました。
屋根の色も、今なら緑を使うでしょうが、
昔なので黒で代用してます。
有名人も、たまに出会えます。
ダースベイダーも、以前いたりしました。
インディジョーンズは年をとりませんね。
アナセン(アンデルセン)は、
やさしく子どもたちに語っています。
色んな人と記念写真をとるのもいいですね。
ぼくがレゴランドが好きなのは、
パーク内のレストランが、
けっこうおいしいからでもあります。
どこかの鼠の国なんて、
高いばっかりで、
クソまずい冷凍やレトルトものですもんね。
レゴランドは違います。
それにワインやビールも供給されます。
子どもも大人も楽しめるように
できているんです。
そうそう、人間ばかりでなく、
家族の仲間、ペットも一緒に
連れて行けます。
たくさんの人が、
ワンちゃんと一緒に楽しんでいます。
アトラクションもショーも
そして夜のカントリーコンサートも
目いっぱいに楽しんで、
あっと言う間に時が経ってしまいます。
最終日は、お買い物です。
数々あるショップを廻って、
そこでしか売っていないグッズを
セレクトしていきます。
おもちゃだけじゃなく、
アパレル製品や日用品も
レゴ・ブランドでいっぱいです。
でも、ぼくはやっぱりブロックを。
ここでは、なんとパーツの量り売りを
しています。
ちょっと珍しい色や、
たくさん欲しかった細かいパーツ。
それらを自由に袋につめて、
1gいくらで、売っています。
レゴランドを離れるのは、
いつもとっても悲しいのですが、
しかたがありません。
おまけに、
レゴランドのとなりにある、
レゴの本社で
写真をパチリ。
偉大なレゴの発明者、
GKCのデンマーク的な思想よ、
永遠なれと願うのでありました。
書き忘れましたがレゴランドは、食べ物の持ち込みもOKです。
堅実なデンマーク人はお弁当やビールを持ち込んで、
それぞれのスタイルで、楽しんでいます。
かつて、中東の大家族、あきらかに服装でわかるのですが、
(多分第一夫人や第二夫人やいっぱい連れた様子)
かれらが、大勢で芝生に座り、
主人らしき男性が水パイプを吸いだしたのには驚きました。
いろんな楽しみ方があるものです。
イエリング・ルーン石碑とBluetooth
レゴランドに行く前の日、
イエリングに寄りました。
デンマークの歴史上
確認されている最古の王、
ゴーム老王(ゴーム・デン・ガンムレ)
のお墓と、ルーン石碑のある町です。
今の女王様マルグレーテ2世も
このゴーム老王の血統です。
ところが、このゴーム老王のお墓に
なんの囲いもなく、
観光客はどんどん登ることができます。
町には二つの墳丘に見える丘があり、
伝説では南の丘がゴーム老王の墓、
北の丘が王妃テューラの墓だと
思われていました。
ところが、
何世紀にもわたる研究により、
いろいろなことが解ってきました。
北の墳丘にゴーム老王は最初、
埋葬されたのですが、
後を継いだ息子のハーラル青歯王が、
デンマークを北欧神話の国から、
キリスト教に改宗した際に、
ふもとに作った教会に、
ゴーム老王を改葬したようです。
今も二つの丘の間には、
小さな教会が建っています。
教会は何度か建て替えられていますが、
場所はここのままです。
そしてその教会の横には、
有名なルーン石碑が二つ並んでいます。
小さい方の石碑には、
「ゴーム王が、
デンマークの誇りである
王妃テューラのために、
この墓碑を建てる」
と記されています。
これが「デンマーク」という名の
刻まれた最古の石碑で、
ゴームが「王」として君臨していた
ことの証しとなっています。
大きい方の石碑には、
「ハーラル王が、
父ゴーム王と母テューラのために、
この墓碑を建てる。
ハーラル王は、
デンマーク全土とノルウェイを征服し、
デーン人をキリスト教に改宗した」
と記されています。
この石はもともと彩色されており、
当時を再現したものが、
横の博物館にあります。
実際にすべての人々の信仰が、
キリスト教になっていくのには
さまざまな経過があったでしょうが、
石に刻まれた動かぬ証拠として、
教会に届け出のあった
「デンマーク国の出生証明」
と言われています。
(デンマークでは出生届は教会に出します)
では、南の丘は何なのでしょう。
南の丘には石室もなく、
ただ、ハーラル青歯王が、
教会の両側に丘を作って、
バランスをよくするために、
築かせたのだろうと言われています。
ごく最近の研究により、
ゴーム王の時代には、
この陵墓が建造された当初は、
全長350メートルにもおよぶ
巨大舟形墳墓であったらしいことが
解ってきました。
さて、デジタル機器の無線規格に
"Bluetooth"というのがありますね。
あれは、ハーラル青歯王から
名前をとっています。
みなさんの身近にも、
思わぬところにデンマーク王は
隠れていますよ!
次回はいよいよレゴランドの予定。
お楽しみに。
スカムリングの丘
ユラン半島の中部、
リレベルト海峡に面した
スカムリングの丘は、
デンマーク人の心のふるさとです。
おおざっぱな言い方をすれば、
デンマークのナショナル・アイデンティティは
「反ドイツ」。
そうでないと、地理的にも文化的にも
近い位置である彼らは、
経済力や軍事力を用いられれば、
ドイツに併吞されてしまいかねないからです。
経済的にも法的にも統一が進み、
人も物流もさかんに行き来する
EU統合の流れの中で、
小国のナショナル・アイデンティティは
今も、たいへん重要なことです。
しかし、
「反ドイツ」といっても、
決して軍事力でまさろうというわけでもなく、
経済的に孤立しようとするわけでもありません。
彼らは文化的に、
国語的に、
そして、国民意識的に、
「デンマーク!」
を鼓舞することで、
その独立を保っているのです。
近代国家形成の過程で、
かつてドイツ、デンマークの国境をめぐって
紛争がありました。
スリースヴィ=ホルスティーン両公国が、
デンマーク王国に帰属するか否かが
争点でした。
現在ホルスティーンと、
南部・中部スリースヴィは
ドイツ領シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州に、
そして、北部スリースヴィだけが
デンマーク領となっています。
詳しく綴ればあまりに長くなるので
ここでは省きますが、
とにかく、国境問題をめぐって
国際対立が深まっていく中、、
デンマーク人たちはこの丘に集まり、
デンマーク語での集会を開いたのです。
その2回めの集会(1844年)のさい、
N.F.S.グロントヴィも演台に立ち、
北部スリースヴィに住む
デンマーク語を母語とする人々の歴史について
語りました。
以上、前説が長くなりました。
今まで訪れたことがなかったので、
このたびスカムリングの丘に行ってきました。
丘の上からはリレベルト海峡をへだてて、
フュン島が低く見えます。
小さな資料館もあって、
自然や歴史、もちろん集会のことも、
いろいろと展示されています。
この展示された地図の赤い部分に、
スカムリングの丘はあります。
丘の頂上には記念碑が立ち、
そばに大きなダネ・ブロー(デンマーク国旗)が
はためいています。
人々が集まり演説を聴いたという場所は
その横にある、丘の斜面です。
いわば天然の半円形劇場です。
このくぼんだところに石をならべて、
簡単な演台をこしらえたのです。
この演台の足元には、
グロントヴィの名前も刻まれています。
それにしても簡素なものです。
演台に立って、観客席をみあげて…、
しばし、当時の人々の姿を想像し、
瞑想にふけります。
そこで、ぼくは感じたのですが…、
「集会をするのに、大きな施設を作らずに、
天然の丘の斜面を利用する。
立派な演台を造らずに、
ほとんどまるで天然石をならべただけ。
高いところに立つ演者を見上げる形で
演説を聴くのではなく、
聴衆は演者を見下ろす形。」
これって、ヒトラーがニュルンベルクの
ツェッペリンフェルトでやったことと
まるで正反対のことですね。
そこにあらためて北欧の、
精神的なアイデンティティを
感じることができました。
心のふるさとスカムリングの丘、
今も、訪れる人は絶えません。
またまた仕事が忙しくて、遅くなりましたが、
みなさまからのコメントを心の支えに、
なんとか今日じゅうにアップすることができました。
北欧の精神を少しでもご紹介できたら幸いです。
グロントヴィの悲恋
8月1日。
コペンハーゲンでばったり出会った
かつての同僚、レスリーのお家に行きました。
家の中は、どこもいつも片付いてますね。
キッチンも、今日はゴタゴタしていたはずなのに、
こんなふうにサッパリしてます。
中庭もある古い農家の家を買い取ったそうです。
中庭の片隅にバラが咲いています。
ランチをとりながら一緒に楽しく会話。
庭や畑を散歩して、ヒュッゲな時を過ごしました。
レスリーの家を出発してから、
「冷戦博物館Koldkrigsmuseum」の横を通りました。
冷戦時代の基地を、博物館にして
ミサイルやレーダー施設を展示してます。
(嘉手納が博物館になるのはいつの日かしらん)
以前、ミュンス・クリントの記事
で少し触れた
ステウンス・クリントStevnsklintの白亜の崖です。
どれがイリジウムの層なのか確認できませんでした。
崖はどんどん海に侵食され、
崖の上の教会は、
1928年にアプシス(後陣)部分が崩落しました。
崖の上、ぎりぎりのところに、
アプシスの崩れた教会が、建っています。
さて、その翌日。
南シェランのホームタウンをしばし離れ、
ユラン(ユトランド)半島に向けて出発です。
ファルスタ島、ロラン島を抜けて、
フェリーでランゲラン島に渡ります。
目標は、イーイルゲEgelykke荘園。
大学を卒業して、若き日のグロントヴィは、
この荘園に住込みの家庭教師としてやってきました。
ところが、そこで
領主カール・スティーンスン=レトの奥方である
コンスタンセ夫人に
許されぬ恋を抱いてしまいます。
若きグロントヴィは悩み、
そして、その実らぬ恋を昇華させます。
その熱情は、以後の彼の文学作品に
大きく影響を与えたと言われています。
そのときの苦悩が、
出納陽一著『グロントウィ伝』では、
次のように綴られています。
「1806年5月6日の日記に彼が
『夫人に対する愛情をさらに高い
内生活に向けられないだろうか』と記し、
更に2ヶ月後の日記に
『私の恋愛は盲目的な汚辱に
ならずに済んだことは、
誠に有難いことであった』と記し、又
『私は問題が解決したと思った』
と記しているのを見ても、
いかにグルントウィが
夫人との恋を切り抜けるのに
努力したかが判るのである」
彼が悲恋に悩んだ荘園、
そのお邸に行ってみましょう。
おやおや、入り口には
立入禁止の看板が……、
でもデンマーク語とドイツ語なので、
アホな日本人が判らなかった顔をして、
こっそり侵入してみます。
本館の表側、お庭の方にまわって、
写真をパチリ。
誰か人が出てきてくれたら、
何かしらお話が聴けたかもしれないのに、
幸か不幸か、この侵入者は、
誰にも発見されずに、出てきました。
ここも、ずっと訪れたかった地でした。
それからフュン島へ橋で渡り、
有名なイーエスコウEgeskov城に行きました。
以前、このお城へは何度も遊びに来ていました。
これは今からもう11年も前、
1999年にイーエスコウを訪れたとき、
お城でばったり会った城主さまと
一緒に写真を撮らせてもらったものです。
でも、なんだか昔にくらべて今は、
入場料もやたら高くなったようです。
それに、すみずみに商業主義が感じられ、
以前のもっとのんびりした感じが、
だんだん失われつつあるのかと、
少し悲しく思ったりしたのでした。
観光客が増えると、どうしても商業主義に傾いていく。
デンマークの田舎でさえ、そんな気がして、悲しいです。
ベオウルフのヘオロットを訪ねる。
古英語で書かれた「ベオウルフ」が、
はじめて近代語に翻訳されたのは、
グロントヴィによるデンマーク語訳であった。
(“Bjovulfs Drape”という題名で、
1820年「ダネ・ヴィアケ第2巻」に発表)
「ベオウルフ」は、
スウェーデンの英雄ベオウルフが、
デンマーク王フロースガールの王宮に来て、
毎夜、王宮を襲うという魔物グレンデルを退治。
復讐に来たグレンデルの母親(巨人)も退治。
やがて老王となったベオウルフは、
民を襲うドラゴンと戦って、勝ちはしたものの、
重傷をおい、そのまま絶命するという話。
大英博物館に写本が残っているが、
グロントヴィは1829年に、
このオリジナル手稿の調査もしている。
さて…、
フロースガール王King Hroðgarとは?
また、彼の王宮とはどこか?
最近の研究によってそれが明らかになりつつある。
イギリスでフロースガール王と伝えられているのは、
デンマークの伝説の王、
第11代ロルボ・クラキHrolf Kraki
(6世紀のころの王)
のことであろうと推察されている。
また、雄ジカの宮を意味する
彼の王宮ヘオロットHeorotは、
古来、ロルボ・クラキの王宮のあったと伝えられている
ライラLejreにあったと推定されている。
しかも、そのライラの町からは、
全長50mを越す、ロングハウスの遺跡が3棟も、
1986-88年と、2004-05年に発掘されるにおよび、
伝説は確信あるものへとなりつつあるのである。
前説(まえせつ)が長くなりました。
そんなわけで、ライラにヘオロットを求めて
行ってみました。
(ロスキレ大聖堂)
ライラは世界文化遺産のあるロスキレの
南西約8kmにある小さな町です。
訪れたのは、「伝説の地ライラ」という時代村です。
石器時代や鉄器時代、そしてヴァイキング時代の
生活が再現されているという体験型ミュージアムです。
入場料が1人125DKK(約2000円)もするわりに、
中は、何もない自然のまんまの公園です。
立っているのは遺跡でもなんでもなく、
ただの道しるべです。
自然の中をただ歩いて、歴史や伝説を感じとる
ってそんなところのようです。
丘の上は一面の花。
この花はヒュルデブロムストHyldeblomst、
英語名elder、日本名ニワトコです。
デンマークではこの花を摘み、
砂糖とともに煮出して冷まし、
ジュースとして飲みます。
夏のさわやかな飲み物です。
3日前に訪れたインゲ先生のおうちでも、
庭に生えていたこの花で、ジュースをつくって
飲ませていただきました。
少し歩くと、丘のふもとに村落が…、
近寄って行ってみましょう。
これは鉄器時代の村の再現だそうです。
中に入ると、鉄器時代のランチも再現してました。
このおせんべいみたいなパンを、男の子が配ってくれました。
鉄器時代の味、けっこうおいしかったです。
鉄器時代の親子がボート遊びを始めます。
伝説の人々のくらしはこんな感じだったのでしょうか。
こちらは勝手にライフジャケットをつけて、
勝手に自己責任で遊びます。
このほかにも、石器時代の地区などもあるのですが、
とても広くて、基本的に自然があるばかりです。
時代村には関係ないですが、
カラフルなフエルト製品が目を惹きました。
自然の中で、しばし、ありし日のヘオロットを想い、
感慨にひたった、「伝説の地ライラ」でありました。
さて、帰りにはクーイKøgeの町にちょっと寄って、
それから以前にもお伝えした、
海辺のレストランで食事をして、
日も暮れかかる頃、ヨットハーバーのある、
わがホームタウンに帰って来ました。
ただいま。
今回はライラの遺跡の発掘現場はつきとめることはできませんでしたが、
これからも情報収集を心がけ、伝説と歴史のつながりについて、
考察を続けたいと思います。
それはさておき、今日は重陽ですね。
菊花酒でも呑みますか…。
デンマークのショッピング・モール
もう、1月以上も前のことになります。
7月の終わりの金曜日には、
買い物に出かけました。
その前に、長男の親友のおうちに、ちょっと寄って、
一緒にパナケーエpandekageを食べました。
パナケーエは、英語ではパンケーキですが、
ホットケーキのようにふくらませてません。
かといって、クレープほど薄くはありません。
それにジャムやクリーム、砂糖なんかを乗せて
巻いたり、たたんだりして食べます。
朝から、長男の親友のステーフンがひとりで、
たくさん焼いて、待っててくれました。
ステーフンは技術専門学校に通う18歳です。
将来、彼の父や兄のように電気工事屋さんに
なりたいのだそうです。
こちらがステーフンのおうちの中です。
デンマーク人の家はいつも、キレイに片付いています。
こちらがステーフンのおうちの庭。
ここは普通の住宅街の、一戸建ての家です。
さて、それから、買い物によく行っていた、
ネストヴィズNæstvedの街にある
ショッピングモール に行きます。
通いなれた道を30キロほど、走ります。
外は小雨模様ですが、日本の猛暑のことを思えば
「雨もまた良し」です。
ショッピングモールの中をカートを押して歩きます。
セレッソのシャツ着てるのは、うちの次男です。
日本のスーパーカー・ブームの時代なら、
これだけでも大騒ぎでしょうね。
左は電機屋さん、右は雑貨屋さんですね。
通路も広々としています。
Wickedむけの緑のマネキンもいますねwww。
大型の水槽もあって、水族館のように子どもも見入ってます。
カートがけっこう大きいので、乗せている子どもの位置も高く、
大人と視線があわせやすいというのも、いいと思います。
では、モール内最大のスーパーをご案内しましょう。
広いので、全部はご紹介できませんが、ほんの一部。
まず、目指すのはレゴのコーナー。
スーパー内のおもちゃ売り場の中でも、
かなりの面積を占めてますので、
遠くからでもすぐに見つけられます。
ときどき安売りもするので、そんなときは見逃せません。
ずっと飛ばして、次は食料品売り場の中の
チーズのコーナーへ。
チーズ売り場は、こんなに広いです。
(この写真に写っていないところにもずっと続いてます)
そして、デンマークのチーズが、またおいしいのです!
次は野菜のコーナーへ行ってみましょう。
必要なぶんだけ、自分で袋に入れます。
生でパクパク食べます。
アナセン(アンデルセン)の作品にも、
「5つぶのえんどうまめ」や
「えんどうまめの上に寝たお姫さま」など、
エンドウマメの登場するお話がありますね。
これもできるだけ身の詰まってそうなのを選んで、
量り売りです。
パックに入ったコーナーももちろんあります。
エノキはenokiと書かれてパックで売られてます。
デンマークで、こんなに野菜が豊富になったのは、
政事・軍事・経済の多方面にわたるEU統合と、
1998年のシェンゲン協定加盟国内のパスポート検査撤廃、
以後のこと。
けっこう新しいんです。
デンマークの食生活も大きく変貌しつつあります。
冷凍食品コーナーにこんな表示も。
お醤油もこんなに種類が置かれるようになりました。
お米も、かなりの種類が売られています。
パエリアむきも、サフランライスむきもいろいろあります。
スシパックも売られていました。
もちろん、
デンマークに日本人がたくさん住んでいるということは
ありません。
また、デンマークを訪れる日本人もそんなに多くありません。
それに、多く訪れるのは、
コペンハーゲンやオーゼンセ、オーフスくらいです。
こんな観光都市でもない町で、しかも生鮮食品、
売れなければ、当然廃棄になるはずなのに、
これだけ並べているということは…、
かなりスシがデンマークに浸透しているということですね。
こっそり内緒にしたかったくらいですが…、
ここだけの話…、
デンマークは、とっても住みよい国です。
食生活も工夫すれば、毎日日本食だって食べられます。
以上、今回はデンマークのショッピング(一部)ご紹介でした。
デンマークにご転勤の方、ご留学の方などいらっしゃいましたら、
何が入手しやすくて、何が入手困難か…など、
いろいろアドヴァイスさしあげることもできます。
どうぞお気軽にお問い合わせください。
クベンハウンは、コペンハーゲンのこと。
デンマークの伝説でちょっとまわり道しましたが、
リングステズの町にあった
プルサ(ソーセージ)スタンドで昼食。
それから、大急ぎでホームタウンに戻って、
約束していたインゲ先生とバウンさんのおうちに向かいます。
インゲ先生がドアの前に立って出迎えてくれています。
実はこのおうち、古いようで新築です。
というより建てかけです。
インゲ先生とバウンさんが、自分たちで建てたのです。
デンマーク人は、しばしば自分の家を、
自分で建てたりします。(オドロキです)
夢をふくらませながら、よく考えて、
少しずつ、何年もかけて建てていきます。
8年前にぼくたちがいたときに、
着工しだしたと言ってた家です。
広いお庭も、少しずつ整備中で、
資材の石もゴロゴロしてます。
少しずつですが、コツコツと、
楽しみながら完成させていきます。
ここで、ヒュッゲな時間を過ごしてから、
その日は、ホテルに帰って行きました。
さて、翌日はコペンハーゲンです。
第一の目的は古本屋さん。
旧証券取引所の前に車を停めて、
まず、情報集めに、グロントヴィ協会のある
これはヴァートウにあるグロントヴィの像です。
なんとか、古本屋をさがして、用件を済まし、
国立博物館で相当時間を費やしたあと、
コペンの街をウロウロします。
ホイブロという広場には、フィスケコーネの像があります。
魚おばさんという意味ですが、
昔は、この辺りで、こんな風にして魚を売っていたのでしょう。
今日は、魚料理を食べることにしましょう。
コペンハーゲンのレストランでおすすめは、ここ。
ペダーオクセPederoxeというお店です。
落ち着いた店内です。
コペン価格なので、少しお高めですが、味は満足です。
もうちょっと、コペン散策を続けましょう。
この人はご存知でしょうか?
テュコ・ブラーア(ティコ・ブラーエ)という
デンマークの天文学者です。
彼の集めたデータを解析して、弟子のケプラーが、
有名なケプラーの法則を発見しました。
デンマークのヴェン島という島に、
「星の城」Stjerneborgという名の、
テュコの天文台があったのですが、
彼の死後、取り壊されてしまいました。
その代わりに、新しい天文台として建てられたのが、
このロネトーン(円塔)Rundetårnです。
コペンハーゲンのランドマークの一つになっています。
完成したのは1642年、日本では徳川家光の時代です。
もちろんてっぺんまで上がることはできるのですが、
このときは、明るくても時間は夜の9時をすぎてます。
もちろん、営業時間外です。
前の本屋さんのショーウィンドウをちょっと覗くと、
日本のデザインを紹介した本がありました。
ジャパニーズ・ポップ・カルチャーなのだそうです。
たぶん、ドイツの出版社だと思います。
そのとなりには、
浮世絵の本も並べてありました。
日本文化への関心度はかなり高いようです。
また、ストロイエまで戻ります。
すると、ロイヤル・コペンハーゲンの店の前に人の列が…、
すると、iPhone4の発売日なのだそうです。
列の先に行って見ると、なるほど、
iPhone4のお店がありました。近寄ってみてみましょう。
たしかに今日の夜10:00からと書いてありますね。
でも販売はどうやら深夜12時のよう。
日英米独仏では6月にすでに発売されています。
それに続く17カ国での発売日なのだそうです。
楽しみに待つ人の列を、
遠くからフィスケ・コーネが見つめていました。
このあと、暮れかかってから、
人魚姫を確認に行ったときのことは、
すでにご報告しましたね。
あゝ、なんだか、オチのない話ばっかり…
まだまだ題材は山ほどあるのに、なんだかダラダラしてますね。
あ、そうそう、このときパーキングに戻ったときに、
いきなり「スキップ!」と声をかけられました。
見ると、昔の同僚のレスリーとお子さんたちがいます。
いくらデンマークが田舎だからといっても、コペンは都会です。
メールでデンマークに行くことは伝えておいたのですが、
偶然に出会うなんて、とっても珍しいことです。
「電話をするつもりだったよ」
「いつか家に来てちょうだい」
「今度の日曜ならまだ空いてるけど」
「じゃあ、日曜のお昼に来てちょうだい。一緒にランチをしましょう」
といって、そのときは別れました。
ダウマー姫の十字架
ハグバルド王子とシグネ姫の伝説の地にほど近く、
リングステズというちょっとした町があります。
この町には、大きな教会もあり、
前にはヴァルデマー大王の銅像も立っています。
今回のお話は、このヴァルデマー大王の息子、
ヴァルデマー勝利王(在位1202-1241)にまつわるお話です。
ヴァルデマー勝利王は、エストニア遠征の大成功により、
勝利王という愛称で呼ばれるようになった、有名な王です。
しかし、そればかりでなく、その戦争よりも前、
彼の最初の妃ダウマー姫とのロマンスでも有名です。
ヴァルデマー勝利王は、
王妃はスカンディナヴィアの王族から娶るという
それまでの慣例を破り、
遠く、南方のボヘミアから若いダウマー姫を妃に選びました。
30歳を越すヴァルデマー王のもとに嫁いで来たときの
彼女はわずか14歳です。
彼女は、ボヘミア王の血をひく姫でしたが、
家の事情から、いわばなかば政略結婚として、
はるか北方のデンマークの地に嫁ぐこととなりました。
彼女の本当の名前はドラゴミア。
ボヘミア調のその名前が親しみにくいので、
デンマーク語の「あけぼの姫」あるいは「朝日姫」という
意味の「ダウマー姫」と呼ばれるようになりました。
彼女のデンマークでの暮らしは、詳しく伝わっていません。
しかし、彼女はとても利発で聡明な少女として
語り継がれています。
そして、彼女の最期については、
バラッド(物語詩)が伝わっています。
彼女はユラン半島南部のリーベという町で病の床に伏し、
そのとき王はユラン中部スカナボーにいました。
彼女の病床の周りには、
デンマーク中から貴婦人たちが集められましたが、
なすすべもありません。
ダウマー姫は自分の死が近いのを悟り、
ヴァルデマー王を呼びに、呼びにやりました。
彼女の馬丁が、使者として馬に飛び乗り、
130キロの道のりを、スカナボーまで馳せつけたのです。
ヴァルデマー王は、すぐさま馬をしつらえて、
百人の家臣とともに、ユランの原野を南へと駆け抜けます。
あまりに過酷な騎乗であったため、
リーベの町の入り口にある橋にたどり着いたとき、
家臣はだれもついて来れず、
王の乗馬ただ一騎のみ、リーベに入っていきました。
それでも、王の到着は遅すぎました。
王が町の通りを駆け抜けているとき、
ダウマー姫は一人の貴婦人の腕の中で、
息をひきとります。
王は、その死の部屋に駆け込んで来て、
そこにいるすべての者に彼と祈るように命じました。
「私は断固として、ダウマー姫との別れを
許しはしない……」と。
そして、奇跡は起きました。
彼女が目をさましたのです。
しかし、彼女の目は血のように赤く、
彼女は最後のお願いに、ヴァルデマー王に
いとまごいを申し出ます。
そして、彼女は永遠の眠りにつきます。
その物語詩の繰り返し部分には、こう歌われています。
「あれに見えたるリングステズに、
ダウマー姫は眠れリ」
リングステズの町に彼女が埋葬されたというのは事実です。
18世紀のあるとき、教会のある司祭が、
ダウマー姫の墓所を掃除して、
その場所に自分の妻の棺を据えようとしましたが、
そのとき、美しい小さな黄金と七宝でできた十字架が発見されました。
それが今でも、
コペンハーゲンの国立博物館に展示されている
「ダウマー姫の十字架」です。
そして、こちらが裏側です。
今でも、このダウマー姫の十字架のコピーが、
洗礼式の贈り物として、
たくさんのデンマークの小さな少女たちの頸を飾っています。
この話には実は続きがありまして、ダウマー姫なきあと、
後妻としてポルトガル王女のビレンガーリア姫が迎えられましたが、
この名前がまた、デンマーク風にビーンゲアト姫と変えられました。
ところがその意味は「熊の飼育係」です。
彼女はとても美しい女性だったそうですが、
とても悪い人だったという伝えられています。
リングステズ教会からは、彼女の髪と頭骨が発掘されています。
髪は今も保存されており、教会に展示されています。
すでに灰色にしぼんでしまっていますが、
きっとゆたかに美しいものであったことが想像されます。
また頭骨は非常に均整のとれた、美しいものであったと言われています。
でも、デンマーク人には今でもダウマー姫の方が
よっぽど人気があるというのは、いかにも不思議ですね。
















































