「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」
お城めぐりの旅、大阪城の紹介その4です。
城名(別名) | 住所 | 関連する人物 |
---|---|---|
大阪城(錦城、金城、大坂城) | 大阪府大阪市中央区大阪城1-1 | 豊臣秀吉、豊臣秀頼、淀君、徳川秀忠 |
豊臣秀吉が築き、後に徳川秀忠によって再築されました。
近隣に有料駐車場があります。
100名城スタンプは天守閣内1Fにあります。
天守閣は博物館になっています。
開館:9:00~17:00
休館日:12月28日~1月1日
※江戸時代まで大阪は大坂と表記されていましたが、下記は現在の表記の大阪とします。
織田信長が戦略的に高く評価した大阪城の前身・石山本願寺
石山本願寺は織田信長を相手に10年にも渡って戦いを繰り広げました。
その拠点となっていたのが石山御坊と呼ばれた大阪の本願寺でした。
信長は長く苦しめられた石山御坊の立地を高く評価。
安土に代わる西国制覇の拠点として大阪に居城を築く予定であったと言います。
しかし、本能寺の変によってその夢は叶わぬものとなってしまいました。
豊臣秀吉、大阪城を築城
天正11年(1583年)、羽柴(豊臣)秀吉は大阪城築城を開始します。
それと共に大名屋敷、城下町も整備し、総延長2kmにおよぶ惣構えの大城郭を完成させます。
秀吉は大阪城を居城とし全国制覇を成し遂げていきました。
なお、関白となった秀吉は天正15年(1587年)に京の聚楽第に移り住んでいます。
大坂の陣による大阪城の破却
秀吉亡き後、大阪城は秀吉の遺児・秀頼とその母・淀君 が居城としていましたが、慶長19年(1614年)、徳川対豊臣の合戦・大坂冬の陣が勃発します。
巨城・大阪城を前に20万の徳川勢も攻めあぐね、以後一か月の攻城戦が繰り広げられました。
後に和睦が成立しますが、徳川家康は豊臣方と取り決めた講和の条件を無視し、惣構えをめぐる外堀を破壊し、二の丸と三の丸の堀も埋め、同時に櫓や門も打ち壊してしまいました。
それにより、大坂城は内堀と本丸を残すのみの状態となってしまい、翌年の慶長20年(1615年)、大坂夏の陣にて大坂城は落城。 秀頼、淀君は自刃し、豊臣家は滅亡してしまいました。
徳川秀忠、大阪城を再築城
豊臣家滅亡の後、城は松平忠明に与えられますが、元和5年(1619年)、忠明は転封となり、大阪は幕府の直轄地となります。
徳川秀忠は元和6年(1620年)に大阪城の再築城を開始。
全国の大名を動員し、9年の歳月をかけて城を完成させました。
なので、今日残る大阪城は徳川秀忠の手によるものです。
天守閣の再建
徳川の権威を見せつけた荘厳な天守閣は寛文5年(1665年)、落雷が原因で焼失。以降、江戸時代を通し再建はされませんでした。
現在の天守閣は、昭和6年(1931年)、鉄筋コンクリートによって再建されました。
徳川秀忠の造った天守台の上に豊臣時代の天守閣が再建されています。
小天守台から天守閣内博物館まで
大阪城その4では、小天守台から天守閣内博物館までを紹介します。
辿ったコースは下記。
金明水井戸と井戸屋形
国重文。
豊臣秀吉が井戸水の毒気を抜くために大判小判を敷き詰めたとの伝説が残る。
現在の井戸は寛政元年(1624年)に造られたもの。
水面までの深さ33m。
井戸屋形は寛政3年(1626年)建立。
天守閣
昭和6年(1931年)再建。
博物館になっています。
館内、三階、四階は撮影禁止。
号砲
全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm。
青銅製。
文久2年(1863年)製造。
明治3年(1870年)から時刻を知らせる号砲として用いられた。
天守閣内、博物館へ。
三階、四階以外は撮影できます。
次回、その5 姫門から山里丸までへ続く。
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