「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、徳川家康の墓その1の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
徳川家康 | 日光東照宮 奥宮 | 栃木県日光市山内2301 |
順路通りに進めば難なくたどり着けます。
発見難易度★☆☆☆☆
拝観料:1,300円
![くるまr](https://emoji.ameba.jp/img/user/na/namida-egao/88449.gif)
人質として過ごした幼少期
徳川家康は天文11年(1543年)、松平広忠の嫡男として産まれました。
幼名は竹千代。
三河・松平家と接する尾張の織田、駿河の今川はいずれも勢力を誇っており、 竹千代は松平家の跡取りでありながらも小国であるがゆえに、天文16年(1547年)から2年間は尾張・織田家で、その後は駿河・今川家で人質として過ごすことを余儀なくされます。
天文24年(1555年)、元服し今川義元から偏諱を賜り元康と名乗り、義元の姪(築山殿)を妻に迎え、正式に今川家の傘下に入ります。
一度も綻びを見せなかった信長との同盟
永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいては今川家の先鋒として活躍しますが、大将・義元が信長に討たれたため、今川家からの独立を図り、翌永禄4年(1561年)に織田信長と同盟を結び名を家康と改めました。
以降、隣国の今川や武田と、または同盟者・信長の援軍として各勢力と戦い、領土を広げていきます。
信長との同盟は固く、信長が本能寺で討たれるまで一度も破られることはありませんでした。
豊臣政権下で一の実力者に
信長の死後、信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と手を結び羽柴(豊臣)秀吉と対立しますが(小牧・長久手の戦い)、後に和睦。
家康は秀吉の妹・朝日姫を娶り秀吉に属しました。
豊臣政権下では一の実力を誇り、五大老の1人に任じられています。
秀吉は死に瀕し、家康に子の秀頼を託しますが、秀吉が没すると、野心を露にし、関ヶ原の戦い・大阪の陣にて豊臣勢力を駆逐し天下を手中にしました。
徳川家康を祀る国宝・日光東照宮
日光東照宮は家康の死後、元和3年(1617年)に建立されました。
現在の荘厳な社殿は寛永13年(1636年)に3代将軍・徳川家光によって建立されたものです。
数多くの建物が国宝・重文に指定されています。
拝観料:1,300円。
家康のお墓は奥宮(奥社)にあります。
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