「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、織田信雄の墓-1の紹介です。
人物名 | 墓のある施設 | 住所 |
---|---|---|
織田信雄 | 大徳寺 総見院 | 京都府京都市北区紫野大徳寺町59 |
発見難易度★★☆☆☆
※通常非公開。
秋季などに特別公開されます。
有料駐車場があります。
織田信長の次男として生まれる
織田信雄は永禄元年(1558年)、織田信長の次男として生まれました。
母は吉乃。
幼名は茶筅丸。
永禄12年(1569年)、幼くして伊勢の北畠具教(きたばたけとものり)の養子となり、天正3年(1575年)に北畠家の家督を継ぎます。
翌天正4年(1576年)、北畠一族は信長の命により粛清され、信雄は名実ともに北畠家の実権を握りました。
その後は、兄・織田信忠の指揮のもと、雑賀攻め、木津川口の戦い等に参戦しています。
伊賀攻めの大失態
天正7年(1579年)、信雄は信長の意を得ないまま、伊賀へと攻め込みます。
しかし、結果は信雄の惨敗に終わり、殿を務めた家老の柘植保重(つげやすしげ)は討ち死にしてしまいました。
その報を受け、信長は大激怒し、信雄宛の手紙で「親子の縁を切る」とまで言っています。
それから2年後の天正9年(1581年)、信雄は大軍を率いて再び伊賀へと攻め込み、ようやく伊賀平定に成功しました。
かつての臣・秀吉に仕える
本能寺の変後、賤ヶ岳においては羽柴秀吉方として参戦します。
小牧長久手の戦いでは、徳川家康とともに秀吉に対抗しますが、後に単独で秀吉と和議を結びます。
その後は織田家の当主としてふるまうものの、天下はもはや織田家から羽柴(豊臣)家へと移っており、信雄にはなすすべもありませんでした。
信雄は結果的にかつての臣・秀吉に仕える身となります。
幻の駿河の太守、そして御咄衆となる
天正18年(1590年)の小田原北条征伐にも従軍します。
戦後、秀吉は、北条の領地・関八州を家康に与え、空いた家康の旧領(駿遠三甲信)を信雄に与えようとします。
しかし、信雄はこともあろうかそれを固辞てしまいます。
その返答に秀吉は激怒。信雄の領地であった伊勢・尾張は召し上げられてしまいました。
翌天正19年(1591年)、秀吉の勘気も解け、御咄衆(おとぎしゅう)として再び秀吉に仕えることとなりました。
関ケ原の後に改易、大阪の陣の後に大名に返り咲く
秀吉没後の関ケ原の戦いでは、石田三成の誘いに乗るものの、どっちつかずの状態で、参戦しないまま関ケ原が終結してしまいました。
そのため、信雄は改易となり、従兄妹の淀君を頼って大阪へと居を移します。
大坂の陣が起こると、大坂を脱出し徳川方につきます。
大阪では信雄を総大将にする案があったとか無かったとか。
戦後、徳川方についた功により、大和国宇陀郡、上野国甘楽郡など5万石を与えられ、大名に返り咲きました。
羽柴秀吉が後継者としての力を見せつけた大徳寺の大法要
大徳寺は今でも26の塔頭(たっちゅう)が建ち並ぶ大寺院です。
信雄の墓はその塔頭の一つである総見院にあります。
羽柴秀吉は信長の死後100日後に大徳寺にて大法要を行い、その後敷地内に信長の菩提寺総見院を建立しました。
総見院には信長の墓をはじめ一族の墓があります。
その他、織田信長公坐像、堀秀政寄進の鐘楼、加藤清正が朝鮮から持ち帰ったとされる井戸などが残っています。
寺は明治の廃仏棄釈により荒廃し、寺宝は消失してしまいましたが、大正になって再建されました。
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