「武るる 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の銅像めぐり、木曽義仲の銅像の紹介です。
人物名 | 銅像設置場所 | 住所 |
---|---|---|
木曽義仲 | 義仲館 | 長野県木曽郡木曽町日義290−1 |
入館料 300円
月曜休
駐車場があります。
朝日将軍、威風堂々の入京
木曽義仲は源義賢の子です。
義賢は源頼朝の父・義朝と兄弟ですので、源頼朝と木曽義仲は従弟にあたります。
義賢は武蔵国・大蔵に居し、勢力を拡大しますが、兄・義朝と対立し、義朝方に討たれてしまいます。
義仲は辛くも木曽に逃れ、木曽次郎と名乗り再起を図ります。
治承4年(1180年)、以仁王が平家打倒の令旨を発すると、それに応じて義仲は挙兵。 北陸に勢力を伸ばします。
平家は平維盛を総大将とし、10万の大軍を差し向けますが、義仲は倶利伽羅峠でそれを撃破。
その勢いで入京を果たすと、朝日将軍と称され、京に滞在します。
しかし、飢饉と略奪により京の治安は悪化し、義仲は面目躍如のために再び平家との戦いに身を投じます。
しかし、有力武将を失うなど、戦果は芳しくなく、苦戦を強いられてしまいます。
ライバル・源頼朝の快進撃と権力掌握
そのころ、ライバル関係にあった同族の源頼朝は快進撃を続け、弟・義経が京を目指して進軍してきました。
後白河上皇はその報を受け、義仲よりも義経を選ぶ動きを見せたため、両者は対立していくこととなります。
後白河上皇は、御所に堀や柵を巡らし兵を集めたため、 義仲は御所を襲撃。後白河法皇を幽閉し、一時的に権力を手にしました。
木曽義仲の最期
実権を掌握し、征東大将軍にまで任じられた義仲でしたが、平家との戦いで兵は激減しており、 その上、義仲の専横を快く思っていなかった者も多かったために兵の士気は上がりませんでした。
進撃してきた源範頼・義経軍の大軍に太刀打ち出来ず、惨敗してしまいます。
義仲は近江国まで落ち延びましたが、最期、深田の薄氷が割れ身動き取れなくなったところを、敵将・石田次郎の矢を受けて討死してしまいした。
銅像のある義仲館
木曽義仲に関する展示館です。
木曽義仲を知りたいならば、ここに行くことをお勧めします。
入場料 300円。
月曜休。
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