武将の墓 | 淀君並びに殉死者の墓 - 大阪城!男達の権力争いに運命を翻弄され露と消ゆ| 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)

「武るるん♪ 日本全国の武将と城の旅。ときどき観光とグルメ」武将の墓めぐり、淀君並びに殉死者の墓の紹介です。

 

人物名 墓のある施設 住所
淀君並びに殉死者 大阪城山里丸 大阪府大阪市中央区大阪城

 

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淀君並びに殉死者の墓は大阪城山里丸にあります。
発見難易度★★★☆☆
ちょっと分かりづらいです。
添付地図を参照下さい。


くるまr大阪城周辺に有料駐車場があります。


幼少期に二度の落城を経験
淀君は豊臣秀吉の側室で秀頼の母です。
永禄12年(1569年)生れか?
母は織田信長の妹・お市。父は浅井長政です。
近江の小谷城で生まれ育ちますが、父・浅井長政は織田信長に反旗を翻し、天正元年(1573年)に攻め込まれて自刃。
母・お市と共に城を落ち、信長のもとへと戻ります。
天正10年(1582年)、本能寺の変後に母・お市は信長の重臣・柴田勝家と再婚。
しかしその翌年、柴田勝家は羽柴秀吉に攻められ、お市と共に自刃して果てます。
その際、淀は二人の妹を連れ、城を落ち延びました。

年頃になった淀は秀吉に見初められ、天正17年(1589年)、鶴松を産みました。
しかし、その2年後に鶴松は死去。
文禄2年(1593年)に第二子・拾(秀頼)を産みました。

三度目の落城戦。大阪の陣にて秀頼と共に自害
秀吉が亡くなると、次の天下人・徳川家康との間で軋轢が生れます。
慶長19年(1614年)、大阪の陣が勃発。
徳川と豊臣との決戦が大阪城にて繰り広げられます。
一時講和が結ばれるものの、翌年に再び勃発。
淀君は秀頼と共に大阪城山里丸にて自害して果てました。

 

 

淀君並びに殉死者の墓全景。

 

 

墓アップ。

 

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