落ちのびた武将巡り | 豊臣秀頼の墓 -1 - 秀頼は大阪城で死なず?鹿児島で大酒飲 | 地図付 | 武るるん♪ 武将と城の旅。時々観光とグルメ(地図付き)
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落ちのびた武将たちをめぐる旅~豊臣秀頼の墓-1を紹介します。
これは、ドラマ真田丸で活躍した武将のその後を追う戦国ロマン企画です。
真田幸村の墓豊臣秀頼の墓-2木村重成の墓後藤又兵衛の墓明石全登-1明石全登-2もご覧ください。

武将名場所や施設名住所
豊臣秀頼谷山中央4丁目の民家の庭先鹿児島県鹿児島市谷山中央4丁目
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スマホで地図が表示されない場合、一度前の記事に戻ってもらい再度次の記事を読み込みすると表示されるようです。
豊臣秀頼の墓は谷山中央4丁目の民家の庭先にあります。個人宅なので間違っても無断で立ち入ることのないようにして下さいね。
発見難易度★★★☆☆
案内板がありますが、別方向からは全くありません。右地図を参考に訪ねるのが無難だと思います。
(私は鹿児島市役所谷山支所で教えてもらいました)

くるまr駐車場はありません。路地も細いので車は向いてないと思います。

大阪の陣が終わり、豊臣家は滅亡したと思われた矢先、京では、「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて退きも退きたり加護島(鹿児島)へ」という童唄が流行ったそうで
す。
当時、秀頼生存説は信じる人も多かったらしく、イギリス東インド会社の平戸商館長リチャード・コックスは、元和元年(1615年)の日記に、「秀頼様の遺骸は遂に発見せられず、従って、彼は密かに脱走せしなりと信じるもの少なからず」と記しています。
また、ひと月ほど後の日記には、「秀頼様は、薩摩或いは琉球に逃れたりとの報あり」と記しています。

江戸中期の上田秋成の書「胆大小心録」によると、島津家が京橋口から小舟で忍び込み脱出させたのだとか。
これは大阪方の武将・木村重成に仕えた女の娘から聞いたそうなので真実味が増すというもの。
揖宿や大隅の伝承によると和歌山方面から太平洋を通って鹿児島湾に辿り着いたらしいです。

鹿児島に着いてからの行動は「採要録」に書かれています。
要約すると、「谷山村に浪人が現れ住み始めた。島津家から屋敷、金子を与えられ何不自由なく暮らしていた。また浄門ケ岳の麓には山伏が住み始め、加治木浦には浪人が住み始めた。この3人はたまに集まっていた。」
というもので、谷山村の浪人が豊臣秀頼、浄門ケ岳の山伏は真田幸村、加治木の浪人が木村重成なのだそうです。

谷山犬の喰れ逃げ
谷山地域には以下のような言い伝えが残っているそうです。
秀頼は、6尺5寸(約2m)の大男で、酒好きで酒癖も悪く、その上、支払いもしません(城で何一つ不自由なく暮らしていたのだから仕方ない)でした。
島津家より大切に扱うようお達しがあったので、督促も出来ず大男が酔って暴れるのをただただ見守るだけで大変困ったと言います。
谷山村に残る「谷山犬の喰れ逃げ」という言葉はこの故事からきているようですよ。
(今も言うのかは不明ですが、少なくとも大正ぐらいまでは使っていたようです)

余談ですが、「薩摩風土記」には、「酒屋の娘に産ませた子供が天草四朗である」と書かれています。
戦国ロマンは尽きませんねにやりにやり

さて、豊臣秀頼の墓ですが、ネットで探しても正確な場所までは分からずとりあえず谷山中央へと向かいました。
たまたま鹿児島市役所谷山支所が近くにあったので、そこで訪ねたところ、分かる方を呼んでいただき、詳しく教えていただきました。
車では分かりづらく停める場所もないという事で、市役所支所に車を停めさせていただきました。
墓までは徒歩でほんの数分の距離でした。
墓は、個人宅の庭先にあります。
敷地に入らなくても外から覗けるようにしてくれていますが、正面から見るには立ち入る必要があります
お願いすると快く見せていただけました。
その方の話では昔は(裏?)山にあったそうです。なぜこのお宅にあるのかは数代前の話なので分からないそうです。


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豊臣秀頼の墓全景。
ここの家の方は、敷地に入らなくても見えるようにしてくれています。



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案内板。
谷山氏の墓って…。
夢がない(  ̄っ ̄)DASH!



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豊臣秀頼の墓。



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別角度から。
傘の部分と胴の部分は色も違うし別の石材ですね。年代が違うのかもしれませんね。
胴の部分は全体的にボロボロで戒名などは全くなくなっています。


豊臣秀頼の墓-2へ

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