「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)

という本を教科書にして、

引き寄せの法則についてまとめてきました。

次のステップとして、

「お金と引き寄せの法則」(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)

という本があるので、こちらをご紹介したいと思います。

 

 

という記事の続きです。

 

誰でも明るくていい気分でいたいと思うが、
ほとんどの人は
周りのすべてが楽しくなければ
明るくていい気分にはなれないと
信じている。

事実、たいていの人の気分は、
そのときに目に見えるもので
決まっている。

楽しいことを見ていればいい気分だが、
目の前にあることが
楽しくなければ気分が悪い。

ほとんどの人が
いつもいい気分でいられないのは、
周りの条件が変化しなければ
明るくていい気分になれないと信じ、
でも自分には
条件を変化させる力がないと思っているからだ。

だが、どんな物事も実は
─望むことと、
望みが満たされていないということの─
二つの事柄だと理解できれば、
そのときに関心がある
どんなことについても、
肯定的な側面を見られるようになる。

実は「転換のプロセス」とは、
それだけのことだ。

関心を向けているのがなんであっても、
意図的に肯定的な側面を
─もっと明るくていい気分になれる見方を─
探すことである。

望まない状況に直面して
嫌な気分になっているとき、
意識して
「自分が何を望まないかはよくわかる。
それでは望んでいることはなんだろう?」と
問いかけてみる。

あなたという「存在」の波動は、
何に焦点を定めているかで
影響をされるから、
これで波動が少し変わり、
それによって引き寄せの作用点も変化する。

すると、
あなたが自分の人生について語る
ストーリーが変化し始める。

「いつもお金が足りない」
といういう代わりに、
「もっとお金があったら楽しいだろうな」と思う。

これは全然違ったストーリー
─全然違った波動であり、全然違った感情で、
それがやがては全然違った結果をもたらす。

変化のなかで全体を見通せる地点に立ち、
「わたしが望んでいるのはなんだろう?」と
問い続けていると、
やがてはとても楽しい場所にいることに
気づくだろう。

自分が望んでいるのは何かと
問い続けているのに、
引き寄せの作用点が変化しないわけがないからだ。

変化は漸進的だろうが、
このプロセスを続けていけば
ほんの数日で素晴らしい結果が生まれる。

「お金と引き寄せの法則」
(エスター・ヒックス+ジェリー・ヒックス著)より

 

”たいていの人の気分は、
そのときに目に見えるもので
決まっている。
楽しいことを見ていればいい気分だが、
目の前にあることが
楽しくなければ気分が悪い。
ほとんどの人が
いつもいい気分でいられないのは、
周りの条件が変化しなければ
明るくていい気分になれないと信じ、
でも自分には
条件を変化させる力がないと思っているからだ。”

とあります。

外側の状況で、自分が幸せかどうかが、

左右された状態になっています。

これを私は他人軸とお伝えしています。

 

引き寄せの法則の上手に活用する為には、

自分軸で生きる必要があります。

 

 

自分が世界を創っているんだから、

「彼は私を愛している」と設定をして、

彼=私と思えるようになると、

自分の中の不足感が満たされることで、

彼が私を愛している現実を、引き寄せることが出来るのだ、

だから、彼は自分を愛していると信じ込もうとします。
暗示に掛けるとも言えますね。
彼に愛されている自分の世界を中心に考えるなら、

自分軸になるから、

別に彼をコントロールすることではないのだ!と言います。
本当でしょうか?

 

 

 

他者をコントロールするというのは、
どういったことなのか?
自分軸というのはどういうことなのか?
 
自己中心的に生きるということが、
自分軸であるとは私はお伝えしていませんが、
自分が世界の中心であって、
自分が神で、
自分が望むことは全部叶うということが、
自分軸なのだと言う人もいます。
 
 
「ラー文書」一なるものの法則第一巻
(ドン・エルキンズ、カーラ・L・ルカート、 ジェームズ・マッカーティ著)
では下記のような、説明があります。
 
「一なるものの法」は
光や闇に対して投げかけるものではありません。
しかし、それは自己への奉仕にも
他者への奉仕にも使うことができるのです。
 
ただし、他者への奉仕は最終的には自己への奉仕に繋がります。 

そうしたわけで、 他者への奉仕という修練をとおして

知的無限の探究を行なおうとする存在たちのゆがみは、

その調和度において停滞するどころかかえって高まることになります。

 

自己への奉仕を行なうことをとおして

知的無限を探求する存在たちも、

同量のパワーを作り出します。 

しかし前にも申し上げたように、

その場合は分離の概念のせいで、

しばしば困難に直面することになります。

自己への奉仕の実践には、分離の概念がひそんでいます。

なぜなら、そこには

他者より優位に立とうとする権力の問題が含まれるからです。 

 

このことから、

オリオン・グループやオリオン・グループを構成する

社会的記憶複合体を要求するような心/身体/霊複合体によって

集積されるエネルギーは 弱体化し、

ついには崩壊していくことになります。 

 

次に述べる点は、ぜひ念頭に置いて慎重に考慮したうえで

受け入れていただきたいことです。

 

「一なるものの法」は、

ある目的の探求に努力することを決めているかぎり、

どんな社会的記憶複合体にとっても利用可能なところにあります。 


その目的が、他者への奉仕であれ、自己への奉仕であれ、

関係ありません。

 

そして「一なるものの法」の

主要なゆがみである諸々の法則が運用され、

自由選択のなりゆきが展開するための媒体として

空間/時間の幻影が用いられます。 

 

すべての存在は、探求目的のいかんに関わらず、

だれでもこのようにして学びます。

 

全員が同じことを学びます。

 

ただしある者は迅速に、

ある者はゆっくりと学ぶのです。

 

他者への奉仕と自己への奉仕という、

二つの立ち位置が出てきます。

 
どういうことなのか?
 
例えば「彼は私を愛している」という設定をすれば、
それを引き寄せるという、
相手の行動が自分にとって都合の良いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方の人と、

どんなに愛していても相手の行動に対して、

望みにしたり、引き寄せたりはしないで、

自分の行動が自分にとって都合の善いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方の人、

二つの立ち位置があります。

 

前者は他人軸で、自己への奉仕の人、

後者は自分軸で、他者への奉仕の人です。

 

”自己への奉仕を行なうことをとおして

知的無限を探求する存在たちも、

同量のパワーを作り出します。 

しかし前にも申し上げたように、

その場合は分離の概念のせいで、

しばしば困難に直面することになります。

自己への奉仕の実践には、分離の概念がひそんでいます。

なぜなら、そこには

他者より優位に立とうとする権力の問題が含まれるからです。

とありました。

 

例えば、あなたを含めた三人の人がいるとして、

自分が愛されているという設定をして、
それを引き寄せるという、
相手の行動が自分にとって都合の良いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方をしている場合、

何が起こるのか?

 

三人それぞれ、
自分を愛する様に他の二人をコントロールします。
やり方はそれぞれ違うでしょうけれども、
このコントロール合戦に勝たなければ、
自分が愛されている状態にはなりません。
もし負けたら、自分は愛されないけれども、
自分以外の誰かを愛することになり、
望んで引き寄せたいものは手に入りません。
自分が優位に立って支配することでしか、
幸せを感じることが出来ないのです。
これは他人軸であるので、
他者や外側の状況によって、
自分の幸せを決めようとしているからで、
幸せを感じる為に、
他者に自分へ奉仕させようとします。
これが自己への奉仕です。
 

”たいていの人の気分は、
そのときに目に見えるもので
決まっている。
楽しいことを見ていればいい気分だが、
目の前にあることが
楽しくなければ気分が悪い。
ほとんどの人が
いつもいい気分でいられないのは、
周りの条件が変化しなければ
明るくていい気分になれないと信じ、
でも自分には
条件を変化させる力がないと思っているからだ。”

という箇所と同じなんですね。
 
”他者への奉仕は最終的には自己への奉仕に繋がります。 

そうしたわけで、 他者への奉仕という修練をとおして

知的無限の探究を行なおうとする存在たちのゆがみは、

その調和度において停滞するどころかかえって高まることになります。”

とありました。

 

自己への奉仕の人は、

自分が愛されているという設定をして、

それを引き寄せるという、
相手の行動が自分にとって都合の良いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方をします。

 

他者への奉仕の場合は、

例えば、あなたを含めた三人の人がいるとして、

どんなに愛していても相手の行動に対して、

望みにしたり、引き寄せたりはしないで、

自分の行動が自分にとって都合の善いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方をしますので、

自分が他の二人を愛します。
自分をコントロールするのね。
私が他の二人を愛しているのだけれども、
他の二人も同様に私のことを愛してくれますので、
結果的には自己への奉仕も含むことになり、
望みとして設定はしていなくても、
自分が愛されている状態になります。
互いにそれぞれ愛し合うので調和しています。

奪い合うことがなく、与え合うので発展します。

 
相手の行動に対してどうこうしないというのは、
他者を尊重していて、
自他の境界線を引いているのです。
でも、他者という中には、自分が含まれているので、
全く反対のことを言うようですが、
自他の区別がなく、
自分も他者も同一です。
自分は愛されたら嬉しいので、
自分と同じ様にあなたを愛しましょう、
という気持ちになります。

 

逆に、

 

自分が愛されているという設定をして、
それを引き寄せるという、
相手の行動が自分にとって都合の良いようになることを、

望みにしたり、引き寄せようとしたりする生き方をしている、

他人軸の自己への奉仕の場合、

他者の自由意志を否定して、
自分の思う通りに動いて欲しいと願っていて、
自他の境界線が引かれていません。
自分=他者と言う時、
自分の所有物である他者になっています。
自分の中に彼がいるみたいな解釈ね。
自分の思う通りに動かせる操り人形の彼。
何故所有物になるのかというと、
自分と他者は別であって、
私は愛されたいけれども、
相手も尊重され愛されたいのだという様な想像力を、
働かせることはしていないのです。
自己中心的とも言えますね。
 
 
よく引き寄せ界隈の人で、
不倫を推奨していることがあります。
欲しいものは欲しいと言おう!
やっちゃいけないことなんて何もない!
自分が望むならその通りに現実はなる!
みたいな何でもあり!好き勝手できる!というノリです。
 
妻帯者を好きになって、
自分に振り向かせて不倫関係になるとします。
欲しい人を手に入れた。
彼が私を愛する現実を引き寄せた。
何でも願っていいのであって、
悪いことはなにもないのです。
 
それはあなただけではなくて、
他の人も同じってことだよね。
だから、
あなたが手に入れた妻帯者を、
別の誰かが好きになったとしても、
欲しいものは欲しいと言うし、
やっちゃいけないことなんて何もないし、
別の誰かが望むならその通りに現実はなるから、
自分がしたのと同じ様に、
略奪されるということも認める必要があるのです。
 
もし認められないとしたら、
これが通用するのは私だけ!
私の現実は私がルールを決めるから!
とやったとしても、
自分がされて嫌なことは、

否定していて悪い事だと自分が信じている訳だから、

やっちゃいけないと思う事を自分に許していますよね。

 
内なる自分と一致していないことを、
引き寄せよう引き寄せよう、
自己暗示に掛けてこれが幸せだーとやっているのです。
 
矛盾して整合性が取れていません。
 
本当に幸せになれるのでしょうかね?
 
内なる自分、宇宙、創造主は、
あなたと後から略奪しようとした別の女を、
区別していなくて全員、神の分霊であって、
優劣を付けていないんですよ。
あなただけ特別で許されたことなんてなく、
あなたが許されるなら、
他の別の女も許されるのです。
 

 

どちらが幸せな生き方なのか?というと、

 

人それぞれでしょう。
 
私は子どもの頃から競争が大嫌いで、
馬鹿馬鹿しいと思って来たし、
誰かと張り合うことよりも、
自分がやりたいと思うことをしたり、
誰かに評価されることよりも、
自分が満足することをしたり、
ということの方が重要だったので、
他者をコントロールしたい人の気持ちが、
正直、あまりよく分からないのです。
 
幸せなのかしら?と不思議に感じます。
 
でも、そう言っても、
競争することが好きで、勝つことで、
自分の価値を感じられる人は、
「負け惜しみでしょう?」とか、
「どうせ張り合っているんでしょう?」とか、
決めつけるのです。
 
そういう立ち位置でものごとを捉えると、
私のこともそう見えるのです。
私自身はそうではないけれども、
相手からはそういう人として、
相手の人生に出演しているらしいのです。
面白いですよね。
 
相手が自分を愛するかどうかで、
自分自身の価値を決めたりしないし、
私自身が自分を愛していればよく、
もし他者で愛せる人がいるのなら、
そういう人に出会えただけで幸せだなと思います。
鏡で投影なので、
好ましいと感じる人は、
自分自身の好ましいどこかの部分を相手に見ているのです。
 
 
彼が自分を愛するとか、
プロポーズされる、
告白される、
ということを引き寄せよう!としたら、
相手次第で自分の幸せが左右されてしまいます。
相手が自分の思う通りに動かなければ、
決して幸せになることが出来ないのです。
 
あらゆるものごとには二極があるのにも関わらず、
相手に主導権を明け渡して、
自分の幸せが相手に握られています。
幸せか、不幸かどちらかしかない状態です。
私の幸せはこれだ、
こうでなければ幸せではない、
と決めていて、
その状態が相手の行動次第なのです。
 
私からするとなんて不幸なんだろう。
ギャンブルの様だなと思います。
 
私のガイドたちは、
どんなに不幸に感じる様な状態であっても、
祝福を見つけ出して、
今すぐ幸せになる様に伝えてきます。
状況が変わるまで待つ必要はないのです。
思考次第でいくらでも幸せを感じられる見方が出来るのです。
 
 
立ち位置が違うと、全てがひっくり返ってしまうので、
どうしてそのような発想をするのだろう?と、
驚くことが沢山あります。
 
「彼は私を愛している」と設定をすれば、
思考が現実化するのだから、
彼が自分を愛する様になるのだ、
その現実を引き寄せることが出来るのだ、
という様な手法を広めている人もいますが、
そもそも、そういう発想がないので、
それのどこが善くて幸せになれるのか?
何を望んでいるのか?というのがよく分からないのです。
 
彼が私を愛していないという現実を見ると、
それは不足に思考が向いているから、
彼が私を愛していると、
”ある”の方に思考を向ければそれが現実化する!
みたいな感じですよね。
 
まず、思考の方向を設定する時に、
外側の状況がどうこうという風にしないので、
根本的におかしいと感じるのです。
どうして、他人の気持ちをコントロール出来る、
という前提で引き寄せようとするのでしょうか?
だからゴリ押ししたり、媚びたり、
ストーキングしたりするんですよね。
「彼が私を愛している!」と、
必死で暗示に掛けないと、
それが本当だとは思えないから、
(当たり前です、他人の気持ちなのだから)
不安がいつまでも解消されません。
分からないものをなんで分かったことにしてしまうのか?
自分が創造主にでもなったつもりなのかな?
 
 

という記事で、

「Iメッセージ YOUメッセージ」というのをご紹介しました。

私を主語にして話すか、

あなたを主語にして話すかということです。

 

何かを伝える時に、

「私は〇〇したい」「私は〇〇だと思う」

という風に私を主語にするか、

「あなたは〇〇して」「あなたは〇〇だ」

という風にあなたを主語にするかで違います。

 

自分軸か?他人軸か?ということになるのだけど、

何かを解決する時に、

自分がこうしたいのだと考えるのか、

あなたがこうしてくれたらいいのにと考えるのか、

という感じです。

 

「あなたの態度が酷いわ!」ではなくて

「私は傷付いたわ」と言うとか。

「黙ってよ!」ではなくて、

「私は静かにしたいの」と言うとか。

 

自分の人生について、
自分の望みについて考えているのにも関わらず、
「あなたは」と、
他の誰かを主語にして考えている時点で、
おかしいんだけれども、
そこに気付かないし、
いっつもそういうひっくり返った発想をしちゃうから、
「私は」を主語にして望むことが思い付かない。
私が人生の主役!と言いながら、
脇役をやってて、
自分が現実を創ると言いながら、
「私は!」とはやれない。
 
矛盾し過ぎて笑うしかないと思うのだけど、
本人たちは全く気付いていないんですね。
そういうカウンセラーに相談していいのかな?と、
お金をドブに捨てていますよ!と、
危機感を感じますね。
 
勿論、自由意志が尊重されていて、
自己への奉仕の他人軸の人でも、
他者への奉仕の自分軸の人でも、
自由に宇宙法則は使えますよね。
宇宙の進化発展の道に進むか、
外れて遠回りするかの違いなので、
悪いということはないです。
お好きにどうぞ!という感じですが、
私はオススメをしていないので、
ここを悪用するのはやめて下さいね。
 
引き寄せの看板を掲げると、
人が集まって儲かるのだと思います。
 
でも、よく分かってもいないのに、
引き寄せの法則を教えようとしたり、
無理にこじつけて、
上手くいっている様に見せかけたりして、
執着している人が多い様に見えます。
思い切って、実際よく分かっていません!
と謝った方がいいのになと思います。
(まぁ、今までのお客さんは詐欺だ!と言うでしょうけど)
 
共に学びましょう、共有しますね!と言うのと、
教えてあげます、有料です!と言うのと、
全然違いますよね。
(霊的にも)