親が育てられない子どもを匿名で受け入れる「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を設置する熊本市の慈恵病院は16日、日本テレビ系列で放映された児童養護施設が舞台の連続ドラマについて「養護施設の子どもや職員への誤解偏見を与え、人権侵害だ」として、放送中止を申し入れると明らかにした。  放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送人権委員会への審議の申し入れも検討している。  ドラマは、15日に第1回が放映された「明日、ママがいない」。  ドラマ内で「赤ちゃんポスト」に預けられた子に「ポスト」というあだ名が付けられており、慈恵病院は「預けられた子どもを傷つけ、精神的な虐待、人権侵害になる」と批判した。  養護施設の描写にも「職員が子どもに暴言を吐き、泣くことを強要するなど現実と懸け離れたシーンが多すぎ、誤解や偏見、差別を与える」と指摘。近く口頭と文書で、放送中止を要請するとともに、ドラマ制作経緯の説明を求める。  一方、日本テレビは「ドラマは子どもたちの心根の純粋さや強さ、たくましさを全面に表し、子どもたちの視点から『愛情とは何か』を描くという趣旨のもと、子どもたちを愛する方々の思いも真摯に描いていきたい」とのコメントを発表した。第2回以降も予定通り放送を続けるとし「ぜひ最後までご覧いただきたいと思います」とした。(共同)

出典:サンスポ・コム

[無賃乗車はやめてくれ]

ちょうどさっき朝ご飯のパンを食べながらワイドショーを見てて書きたくなったので書きますね。
「明日ママ」問題。
いま、話題ですよね。スポンサーがついに全社おりたとか?そうしたら番組作れなくなっちゃうので、おそらくゴールテープ切る前にリタイアってことになってしまうのでしょうか。

僕はちょっとそれはもったいないなぁと思ってる側の人間なんですね。

本当に僕個人的な話になるんですが、僕ってドラマ、ワンクールに一本しか見ないんですよ。
理由はね、単純に二本だとしんどいなぁ、って思うんですね。時間が重たいんです。
だから、僕は各ドラマがはじまるぞ、ってときに、今期は何を見るかってひとつ決めて録画してみるんです。だから僕は「半沢直樹」を選ばなかったから、見れてないし、当然、ミタさんについても何も知らないわけです。そのかわり僕は「サマーヌード」を見て、モテまくる山ピーに嫉妬をあらわにし、「独身貴族」をみて、終わりに近づくにつれ崩壊していく脚本にうんざりしていました。

でも僕は、今期はこれをみるって決めたものは、ものすごくつまらなかったとしても、なんだかんだ毎週楽しみにしてみてるんですね。

それで今期僕が選んだのは「失恋ショコラティエ」だったわけです。
だから僕はそのとき「明日ママ」を捨てたわけですよね。

でも見始めました。
じゃあなんで僕は「明日ママ」を見始めたかというと、話題になってるからどんなもんかみてやろう、って思いがあったのと、1話目がGyaoで無料配信されてたんですね。
僕は映画でもなんでも、シリーズものは、ひとつめからみないと楽しめないたちなわけです。なんか、もったいない気がするのよね、「一話目みてたらもっと楽しめてるんじゃないか」みたいな。半沢やミタにもそういうサービスがあったのかもしれません。でもどちらにせよ僕はそれらの一話目を見逃してしまったわけだからみなかったわけです。途中参戦は悔しいんですよ。

だから僕はGyaoのおかげで「明日ママ」を今期は特別枠としてみることにしたんですね。

感想としては、特別何がいいってわけではないですが、面白かったですね。
芦田愛菜はさすが「人生二周目感」や、「強くてニューゲーム感」や、「エスターなんじゃないか感」が半端じゃないですし、ストーリー的にも、一話完結っぽいし、ある種革命的なものも感じて楽しいですよね。

それでね、やっぱり僕はこんなに問題になってしまったのって、見る側に問題があるんじゃないかなって思うんですよね。
もちろん僕は赤ちゃんポストについて少しは知っていますから、それに関連してるんだなぁということくらいはわかります。
でもね、フィクションだってわかりきってみてる訳ですね。こんなことが本当に起きてるわけないじゃないですか。
確かに僕は、実際の養護施設がどんなものなのかは知りません。でもね、「こんなことが実際に起きてるんだって誤解されるからやめろや!!!」っていう訴えがある以上、僕はね、もう少し見てる人にそういう面で賢くなってもいいんじゃないかなって思いますね。

いや、もしかしたら、見てる人もフィクションとわかっているかもしれません。
そうだとすると、もう少しやっかいになってきます。
視聴者がフィクションと現実世界を混同してしまうようなバカな人間ばかりなら、三話もすれば段々内容がわかってきて、騒がなくなってきます。「これはフィクションなんじゃないか」って鼻をほじりながら気づきだすんですね。

ただね、僕はそんな人は実のところ少ないんじゃないかと思うんですよ。
本当はフィクションだってわかってるのに、視聴者が面白半分で今の問題にのっかってる恐れがあるんですよね。
僕は、病院側が訴えを起こす気持ちはわかるんですよ。本当に怒ってるかもしれない。ほぼ当事者みたいなものですから。そこはドラマ制作側がもう少し考えるべきところだとは思うんですが。
でも、その本当の怒りに乗っかって面白半分で無賃乗車してる輩が多い気がするんですよね。

病院側がお金払って、しっかり目的地までたどり着こうとしてるのに、たいした行きたいところも持たずに無賃乗車して、目的地つく頃に、パッと後ろみたら誰もいない、みたいな。
みんな好き勝手乗って、好き勝手降りていってる気がするんですよね。

そんな輩たちに踊らされて、このドラマが終わってしまうのは少しもったいないなぁと個人的には思います。なんせ特別枠をもうけてみてるドラマなんですから。笑

まあこんなことってよくありますよね。
メインストリームに巻き込まれて想像以上の大きさになってしまうこと。
たいした意見も無く、主張も無く、「明日ママ」をこきおろすぞー!っていう流れになってる人が多くありませんか?ちゃんとしっかりわかった上で、本気で「明日ママ」を打ち切りにしたいのならそれは全然問題ないと思うんですよ。病院側が訴えを起こしたように、彼らにとってはこのドラマは酷いものにうつったのかもしれない。やっぱりその両者でしっかり裁判なりして決めることであって、特に意思もなく強い流れに乗っかっている人が多いんであれば、僕は凄い怖いことだなって思います。

当事者同士でしっかり話し合って決まった上での打ち切りであれば僕はなんも文句はないです。第一そこまでこのドラマに熱入れてみてるわけではないですしね。
でも、やっぱり、なんか悪ノリしてる人が多い気がしてね。。それが拍車をかけて打ち切りになっちゃったら、最後までみたかった側の僕としてはなんか腑に落ちないんです。

メインストリームってのは結構怖いもので。
意思を持たずにメインストリームにいることがどれだけ怖いことかって僕は思いますね。
だったら無所属の方がよっぽどいいですよ。


[こんなのはどうでしょ]

そんな視聴者に対して、こんな作り方したらどうでしょって僕が思ったのがひとつ。

完全にホワイトな養護施設を物語上に登場させたら少しはマシになったんじゃないでしょうか。
芦田愛菜演じる子たちがいるところをもちろんメインに物語をすすめていくのですが、その対照的なものとしてめちゃくちゃホワイトなね、養護施設を出したら面白くないですか?いや、もしかしたらもうでてきてるかもしれません。まだ僕三話目みてないのでね。

そうしたら、芦田愛菜演じる側のブラック養護施設が、フィクションだってことが強まる気がするんですよね。

ホワイト側は、いっつも明るく日が差して、すっごくきれいなお姉さんが、おいしい料理を出したりして、読み聞かせしてあげてたりね。めちゃくちゃ豪華な施設にするって設定でもいいかもしれません。温泉プールがあったりだとかね。

まあ、ちょっと制作側が、挑発にとられるような作り方をしてしまったのは否めないかなって思います。人を怒らせるにはどっかにトゲがあるはずですからね。

僕としては、当事者でもなんでもないし、このドラマがフィクションだとわかりきって楽しんでみてるわけで、今のところ、精神的にどこか害された部分なんてみじんもないわけです。だから僕個人の意見としては、このドラマは打ち切りになる必要はまるでないと思ってます。でも、それに怒る人は現にいるみたいです。そういう人たちが訴えを出している以上、彼らで争って出た結果打ち切りなら僕はしょうがないかな、と思う訳です。ちょっと残念ですけどね、最後までみたかったな、ってね。でもやっぱり、第三者が流れに乗っかってそれに拍車をかけての打ち切りなら腑に落ちないですよね。それって僕は本当に怒っている病院側にも迷惑なことだと思うんです。
まあ、本当に怒ってる人がどれだけいるのかなんて他人なんですから知りませんが、あくまでそんなことって世の中多いよなってのを「明日ママ」を使ってちょっと語りたくなったんですね。

はい。あくまでいち視聴者として、こんなんどうでしょ、ってことでした。
最後まで僕は明日ママみたいですね。
久しぶりに小説を書きました。相変わらずショートショートですが。
長編はとてつもなくつらい作業に感じます。その点、ショートショートは三時間くらいで出来上がるから好きなのかもしれません。


『デートの終わりに』
「村上春樹とアメリカ文学と僕」か。
基本的にブログタイトルは記事を書き終えたあとに考えるものだが、今回は本当にこのことについて語りたかったので、とくにひねることもなく、そしてこのタイトル通りに書きたいと思う。

僕は現在大学二年生で、(しかしそれはもう終わったようなもの)
大学では英米文学を専攻している。
理由は、英語の教員免許がとれるところならどこでもよかったからだ。
たまたま受験校の選択の際に、今の学校が入り込んでいただけで、そしてそこにしか受からなかっただけの話だ。
何が言いたいかというと、僕は決して入学当初は、文学に興味がなかったのだ。

ところが、今ではこんな記事を書こうとしているぐらいなのだから、割と好きになったのかもしれない。
自分を理解することは難しいことではあるけれど、さすがにこのことに関しては確かなのかもしれない。
僕は自分が何が好きなのか、ということに関してはそれなりに自信を持って答えられるタイプなのかもしれない。
もちろん、僕はどんな女性が本当に好きなのだろうか、ということに関しては長年悩みあぐねいているわけだけれど。

さて、アメリカ文学、といえば誰を想像するだろう。
フィッツジェラルド、カポーティ、ヘミングウェイ、サリンジャー?
僕はこの作者を誰一人として知らなかった。
しかし、今は、アメリカ文学で好きな作家は?と聞かれればこの四人を答えるし、その中でもフィッツジェラルドが一番好きで、カポーティの短編はその次に好きだというと思う。

悔しい点は、僕がアメリカ文学に出会うのが遅かったことだ。
文学を楽しむのには時間がどうしてもかかる。
読むのは簡単かもしれない。だけれど、楽しむとなると、同じ本を何度も、そして今度は英語で読んでみたくもなる。
それにはどうしたって時間がかかるのだ。僕が大学に入って二年たつけれど、二年やそこらじゃ楽しむには短すぎる時間だ。
だから、僕は大学の授業で学んだ作家しか知らないし、正直なところ、客観的にみればミーハーの域を脱することはできていないはずだ。
それでも前述した通り、自分が何に興味があるのか、ということに関しては僕は自信を持っている。おそらく、そういったものに向くコンパスの針みたいなものの精度が優れているみたいで、一度好きになったものは、決して一時的なものではなく、飽きることなく今までもずっと続いてきている。
だからこそ、どうしてもこういうことを書きたくなってしまうし、そろそろ自分の中でも文という形で整理しておきたくなったのだ。

長い前置きになってしまった。

村上春樹は多くのアメリカ文学を訳している。
新訳にも多く挑戦している。
そして彼が訳す、すべての本は彼自身がとても好きな作品である。
つまり、僕がなぜ村上春樹とフィッツジェラルドが好きかといえば、それは実にうまく回っていることで、村上春樹がフィッツジェラルドを好きだから、僕もその両者が好きなのだと思う。
村上春樹は自身の小説に関して、いままで読んできた本の影響があることを否定しているが、やはり「喪失感」みたいなところで、アメリカ文学の多くの作品と共通点を見いだすのは難くない。
うまく説明するには専門的になってしまうし、それには僕は十分な学が足りないから簡単にいってしまうのだが、きっと僕はフィッツジェラルドと村上春樹、そのどちらを先に好きになっていたとしても、必ずいずれそのどちらも好きになったであろう、ということだ。
実際に僕はフィッツジェラルドを先に好きになったわけだしね。

やっぱりアメリカ文学に関して僕が思うことは、あまり手に取られないな、と思うのだ。
なんか、「読むべき本」として紹介はされるのだろうが、それでも日本人作家の最近の本の方が多く読まれ、アメリカ文学は後回しにされているのではないか。
それは当然といわれれば当然のことなのかもしれない。

だけれど、僕が読むアメリカ文学の多くは100年近く前の作品であることは確かでも、そのすべてが現在でも十分に読むに値する作品だし、むしろ最近読んだ日本人作家の本数冊よりは断然優れている気がする。

一般的にみると、アメリカ文学の作品は、気軽に手にとりにくい位置にあるのかもしれない。
僕はどうしてもその点に関していいたいのだ。
アメリカ文学を、日本人作家の小説を手にとるのと同じくらいに、気軽に読んでみて欲しいのです。
「そんなに昔の作品だなんて」とか、「難しそう」とかそういうイメージが先行しているのではないだろうか。
全然そんなことはなくて、なにせ、文学の魅力というものは時を経ても色あせないことにあるのだと思う。
もちろん文体や言葉使いはその時代性が出てきてしまうものではあるが、物語の根本的なところは決して色あせないであろうし、その意味で現代の作家の作品と十分に肩を並べることができるのは当然のことのはずなのだ。

しかも、翻訳というのはその言葉使いの期限みたいなものにも十分に対応できることがわかるだろうか。
新訳を出せばいいのだ。
現在使われている新鮮な日本語で訳せばいい。当然、英語で読むのが、その作家の文体も味わうことができる点で良いのだが、日本人である以上なかなか難しい。
だけど、言語が違えど、物語の根本、作者の主張みたいなものは変わらないのだから問題はないはずだ。

だから、日本人作家と同等に扱われるべきなんだ。
書店の棚の隅っこに寂しくまとめられるような作品ではないのだ、決して。

村上春樹は、「翻訳夜話」や、自信のインタビューで
「フィッツジェラルドとカポーティには絶対にかなわない」という。「彼らは天才だから」という。

アメリカ文学が好きな身として、もっとフィーチャーしてもらいたい、というのが一つの思いである。

やっぱりギャツビーを読む度に、僕は自分の進む方向を修正できるし、勇気づけられる。

まとめに入るが、
僕は決してアメリカ文学と日本人作家の作品を比較して、どちらが優れているかをいいたいわけではなく(ただ、最近よんだ日本人作家の数冊が単純につまらなかっただけだ)
せめて同程度にあつかって欲しいのだ。
そして、アメリカ文学に限らず、イギリス、フランス、ロシアからも優れた作品がたくさんあるはずだ。

もっとそれらを同じ目線でみてほしくて、積極的に海外文学に手をのばしてほしいと思う。
海外文学は僕ら文学部生だけがレポートのために読む本では決してないのだ。

マーケティング、商業的な面があるから、書店が隅っこに海外文学をおいやるのはある程度しょうがないことかもしれない。
だけれど、読み手である僕たちがもう少し、視野を広げて、海外文学に変な偏見を持たず、気軽に手に取ってみてほしいのだ。
その多くは恐ろしく面白い本だ。なぜなら、多くの日本人に読んでもらいたくわざわざ翻訳されているのだから。(その分、日本人作家の作品よりも、面白い本に出会う確率は高いかもね)

良ければ、春休み、このブログをきっかけに何か一冊読んでみてくれたりなんかしたら僕はとてもうれしい。きっと僕はしっぽを振って、のたうち回りながら泡を吹くことだろう。

もし良ければ、『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)もしくは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(サリンジャー)を読んでみて欲しいと思う。
とても純粋になれるすてきな作品です。
そして『星の王子さま』(サンテグジュペリ)。これはアメリカ文学ではないですが、上記の二冊ととても相性の良い作品だと思います。

それでは、
「僕の話はこれでおしまい」

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)/中央公論新社

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キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)/白水社

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星の王子さま (集英社文庫)/集英社

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まずはもともとのこのブログタイトルの由来について立ち返ろうと思う。

「sinking idea」である。(ABOUT:はかっこつけだ。)

sinking(沈みつつある) idea(考え)である。
このブログを開設した当初僕は小説というよりかは、ビジネス書や自己啓発本を読み漁っていた時期で、その本たちから得られたものはとても多くあった。今でも手に取り好きなページをパラパラと読む。

だけれど、僕がただ単に頭の悪い人間だからなのだが、どうも読んだ後一週間も経ってしまうと、結局何が書いてたかうまく思い出せなかった。
どんな感想を持っていたかうまく思い出せなかった。
つまり、印象の鮮度が落ちたのだ。

そこで僕は、文章という形で、その印象を記録していこうと思った。
記録していくことで、忘却の果てに沈みつつある考えを何とか繋ぎとめることができるのではないかと思ったのだ。
そして、そこから得たものを自分なりに思考して昇華するような場としてブログを作った。
だから、sinking idea. だし、thinking ideaでもある。

まあ、ブログタイトルの由来なんて本当にどうでもいい話なんだけど、久しぶりにこのタイトルに即した記事を書く予定だから前振りとして少し語った。

さて、この記事のタイトル。
「体罰ができないことを武器に反抗する生徒に僕はどう対応しようかな?」
教師は体罰をしてはいけないから、生徒がそれを教師の弱みとして反抗する場合があると思う。
もちろんめったにないことだけれど、きっとあると思う。
そうしたらどうしようかな?

という自問に今日自答した。

「僕が君に指導をしたその結果、君が僕にとてつもなく腹が立ち殴りたくなったとしよう。でもそれを実際にやってしまえば君の立場は一層悪いものとなる。なぜならば僕と君は立場が違うからだ。でも僕はそのことを武器に君と向き合うことはしない。とても卑怯なことだからだ。だから君もそんな卑怯な考えを持つのはやめなさい」


こんなことを言おうと思った。

僕は立場が強いものが弱いものに対して、その立場の違いを武器にして対応することは絶対に卑怯なことだと思う。
生徒が教師、または警察に殴ってしまえば、その生徒がどんな気持ちが理由でも処分を受ける。
親ならば子に「誰に今まで育ててもらったと思ってる!?」は絶対に言ってはいけない。

それと同様に学生が教師に対して体罰ができない弱みにつけ込むこともとても卑怯なことだと僕は思うんだ。

【村上龍の「69-sixty nine-」を読んで。】
そうです、わたすが昼夜逆転おじさんです。

びっくりした。
まさか自分が完全に昼夜逆転者となってしまうとは。
ここ4ヶ月くらいずっと日の出を見てから寝るような生活である。

日が出てから眠りにつき、太陽が最も高く上る頃に僕は目覚める。
月は僕の友達だ。

さて、なぜ昼夜逆転してしまったかというと、理由は単純だ。

"家が寒い"んだよ。まったくね。
聞いてくれよ、今日なんて息をはいたら何か白いもわもわしたものが僕の口から出たんだ。

目覚まし時計にはご丁寧に室温まで示してくれるわけでね、彼が言うには僕の住処は10度Cらしい。
コンビニ行ってお茶を手にとって裏をみてごらんよ。
「開栓後は10度以下で保存してください」って書いてある。
つまりね、僕は最近、冷蔵庫のコンセントを抜こうと真剣に考えてるわけなんだよね。

まあ、それはさておき気になるところは何故僕は暖房を付けないのか?ということだと思う。

それも答えは単純。
「なんか勿体無いんだよね」

一言言わせてもらうが、僕は決してケチなわけではない。節約家でもない。割り勘がわけわからなくなったときは、「これでなんとかなるやろ」とドヤ顔で千円札を取り出す。いいかい?僕は出すときには出す男なんだよ。(いろんな意味でね)

じゃあ、何故暖房をつけないのかと言えば、我慢できちゃうからなのだ。そして、手がヒンヤリして、自然と鼻水が垂れてくる感覚が意外と好きだったりするのだ。

ところでさぁ、冬場の暖房ってただでさえ乾燥してるところに追い打ちのようなものじゃない?
うちには加湿器なんて洒落たもん置くスペースはもうないんだよね。ラブホテルでもあるまいし。

あと、極寒の空間でガチガチと布団にくるまって、その布団が段々と温まる感覚も好きだ。生きている感覚がするね。嘘だけど。

でもね、さすがにそんな部屋には長時間いたくないんだよ。結局のところ僕だって暖かい場所が好きさ。そう、今までのは全部大ウソ。僕はケチなんだよ。

まあ、真偽はさておいてね、僕は暖かい場所を求めに夜は家から離れるんだ。
行き先はマクドナルドかファミレスだ。どちらもよる遅くまで営業してくれる。
そこで僕はコーヒーもしくはドリンクバーを頼み、夜を明かすのだ。

結構勉強やら読書が捗るんだよ。本当さ。部屋の中ではそんなことはできない。凍えてペンを持ったところで、書く文字は麻薬常習者が書くみたいになっちまう。

そういうわけで僕は気づいたら昼夜逆転してしまった。太陽とバトンタッチして僕は1日を終えるのだ。

不思議なことも結構ある。
ホームレスばっかり見る。彼らは僕とは似て非なる状況ではあるだろうけれど、それでも毎回のように、いる。

昨日の話なんだけどね。いや、今日か。(昼夜逆転してるとめんどくさいね)場所はサイゼリヤ。
1時頃の話なんだけど、女のホームレスの1人が寝てしまったんだ。
ファミレスは寝てはいけない決まりになってる。(馬鹿馬鹿しい話だが目を瞑り続けるのはオーケーだ)

だから連れの、男のホームレスが、その寝てしまった女のホームレスを起こすんだ。
「ほら、起きないと注意されるよ」
彼は彼女の肩をゆすっていた。彼女はまるで起きる気配がない。
「ほら、起きないと注意されるよ」
怖いのは、彼のゆする場所が段々とずれてくることだ。
最後にはがっつり彼女のおっぱいをわしづかむようにしてゆすっていた。
「ほら、起きないと注意されるよ」
おいおい、勘弁してくれよ、ビンビンに起きてるのはおっさん、てめーじゃねーか、とか思ってコーヒーを吹き出しそうになった。

想像力たくましくされているところ申し訳ないけど、女のホームレス。とんでもないくらいの巨体だ。彼女のお尻は5歳児が1人ずつハンモックに身体を丸めて寝ているように、ドッサリと垂れていた。

マイノリティな時間帯を生きてると、マイノリティな人にたくさん出会う。直接会話したわけではないけれど、見る分には新鮮で楽しい。

そんな僕の昼夜逆転生活も、明日で一応のピリオドが打たれそうである。
母親が帰省で、北海道から帰ってくるのだ。母と会うのは3ヶ月ぶり。とても楽しみ。彼女と横浜に行って新年を迎える。

きっと僕は昔懐かしい、彼女の怒号で容赦無く朝、起こされるのだ。

中学時代。
「もう7時だよ!!」
と言われ、泣く泣く起きて時計を見るも時計の針はたいてい6時45分辺りを指していた。
「ふざけんなよ、全然7時じゃねーよ!」
そういってふてくされながらも、母のおかげで僕は学校に間に合う。

きっと母は変わらない。
いつまでたっても僕は子であり、彼女は母である。
変わらない、ということがどれだけ大切なことだろうか。
だから、新年を母と迎えられることは僕にとってとても安心することなのだ。

きっと母が帰ってしまっては僕はまた昼夜逆転してしまうだろう。
それでも僕は母といるときは朝に起き、夜に眠る。
だって親子だからね。

あ、いつものホームレスがやってきたみたいだ。
ここらで中継を終わります。
現場から中村がお送りしました。


今日、僕が受けている「特別活動の研究」という授業ではとても興味深い議論がなされた。

ずばり、タイトル通り、

「『身体的体罰』に『教育的意味』はあるのか?」ということだ。


体罰問題が大きくニュースでとりざたされるようになったのは去年くらいからだと思う。

世間の人も体罰問題について考えるきっかけになったのではないだろうか。

前回の記事に引き続き、今回も教育関連の問題についてだが、教師の抱える問題は実に多様だなあと思う。


さて、今回議論した数点についてポイントを絞って僕の意見を述べたいと思う。


議論の中で「信頼関係」というキーワードがよく聞こえてきた。

①信頼関係があるからこそ体罰をするのだろうか?

という問題だ。


僕の答えは当然NOだ。

単純に信頼関係があるということは、相手の発言を信頼できるということだから、それならば暴力に頼る必要など、はなからないからだ。

信頼している人の話は、納得して聞くことができるし、それならば、まっとうなことを言っていると理解できれば、それだけで解決するのではないか。体罰には信頼関係があるからいいのだ、という主張は正直まったくの的外れだ。殴られるのが好きな生徒がどこにいる?


もちろん信頼関係がないからこそ体罰をする、というのも間違いだと思う。

そんな体罰に教育的意味はまるでない。生徒はただ憤りを感じるだけだと思う。


まとめると、信頼関係があるならば、体罰には教育的意味はありうるけれども、体罰に頼らずとももっと他に良い別の手段があるのだから、体罰を行う必要はないだろう、というのが僕の意見だ。


さて、次に、女性教師というのは世間的に指導力不足とみられてしまうことが多いそうだ。

それは生徒指導部長の性別を見ていけば一目瞭然のことらしく、

生徒指導部長として選ばれる人物は、つまり、指導力がある、ということだが、

一般的に、男性、ベテラン、体育会系、威厳のある、もしかしたら体罰があるのではないか、という緊張感。というイメージ。

だって、生徒をぶん殴る女性教師というイメージは想像に難いでしょう。

もちろん僕は指導力のある女性教師に何人にも出会ってきたし、指導力のない男性教師にも何人にも出会ってきた。結局は性別ではなく、その教師の人格だと思うのだが、とにかく現状としては、女性が生徒指導部長になりにくい、というのがあるみたいだ。


では、

②指導力がある人こそが暴力をするのだろうか?それとも、指導力がないが故に暴力に頼ってしまうのだろうか?


これは非常にいい議題である。同時に難しい問題である。

まず、簡単に言えることは、僕は指導力のある人には、もともと暴力なんて必要ないと思っているのだ。

というのは、僕は体罰を受けたことがない、といったが、「どうせ先生は体罰できないしな。なめてもオーケー。殴られたら訴えよう」などと思うすきもないくらいに恐ろしく怒られたことならある。

ひょっとしたら、体罰されるのではとまで思うくらいに恐ろしい先生だった。めちゃ怖い。足はがたがた震える。心臓は急速冷凍されたかのように冷たくなる。

たしかに、僕は体罰を受けていないが、泣きそうになるくらい怖い思いをしたのだ。


そんな威厳のある先生、つまり指導力のある先生に、体罰なんて必要ないのだ。

十分言葉だけで生徒をコントロールすることができると思う。


では、指導力がなければどうすればいいのだろうか。

もちろん僕は体罰反対だが、実は、最終手段としての体罰、ということに関してなら気持ちがわかる。

というのは、僕の母を例に出すが、

僕は反抗期のころ、とにかく親に迷惑をかけた。(ごめん)

母親をなめていたと思うし、基本的に母が何をしても怖くなかった。

母は最初は、言葉でうまく説き伏せてくれようとするが、それに対して僕は話を聞かないし、屁理屈をこねるし、挑発するしで、ひどい態度をとっていた。


そして、どうしようもなくなったときに、母は最終的に僕に手を出したことがある。

それでも僕はへらへらと笑っているサイコパスのような子供だったから、母親の当時の悩みの深さははかりしれないほどだ。


教育現場におきかえて、もし生徒が僕のような子供だった時にはたして指導力のない先生はどのように対処したらいいのだろうか。

最終的に手が出てしまうのもわかる気がするのだ。


しかし、僕が言いたいのは、あくまでも体罰というのはできるだけ避けなければいけないということ。

そして、最終手段として体罰があるんだ、という緊張関係をもっておくこと。

そしてなにより、最終的に体罰に至ってしまうまでに、どれだけ教師が言葉で粘れるか。ということなのだ。


これは非常に大切なことだと心掛けたい。

どんなにわかってくれない生徒に対しても、とにかく粘る。言葉で粘る。いろんな話をする。自分の気持ちを言う。相手の気持ちを聞く。とにかく粘り切って、でもダメだ、となったときに出る体罰、というのはそれなりにメッセージ性が違ってくると思うのだ。


僕が当時の母を振り返って、自分を反省することができるように、そんなどうしようもない生徒も、その場では更生できなかったとしても、将来、振り返って反省することができればいいではないか、と思う。

僕は、生徒が当時の先生を振り返った時に、「どうしようもないやつだったな」と思われるような先生になることだけは避けたいのだ。


だから、とにかく言葉で粘る。あくまで体罰はダメだ。

でも粘り切った最終手段としての体罰はときとして意味を持つ。ということがあるのではないだろうか。




①信頼関係があるからこそ体罰をするのだろうか?

②指導力がある人こそが暴力をするのだろうか?指導力がないが故に暴力に頼ってしまうのだろうか?

さて、今回はこの二点について、体罰について考察してきた。


たしかに難しい問題で、人によって意見はばらばら。

結局議論もまとまらない。


しかしながらひとつ間違いなく言えることがある。

共通していることは、先生の人柄しだい、ということだ。

どれだけ、先生としての人格を高めていけるか。それは信頼関係の構築につながり、指導力の向上につながる。




では、僕は将来そういった教員を目指すものとして、いま、どういう努力をしていけばいいのか。

いま、僕は自分を律するときであり、そろそろ本腰を入れて、教職について考えていかなければならない時期なのではないか、と強く危機感を持った最近であった。


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最近湊かなえの「告白」という本を読んだ。

この本は映画化されていて、実は本を読む前にもともと映画を見ていたのだ。

原作がある映画というのは、いい意味でも悪い意味でも楽しみやすい。

というのは、原作クラッシャーとなるようなひどい映画になる場合もあれば、うまい具合に映像化し、さらに、見た人に、じゃあ原作も読んでみようかな、といった、動機づける映画になる場合があるからだ。


そういった意味で、この「告白」という映画は、原作よりも先に映画を見たほうがいい、とまで称されるほど優れた出来であった。


さて、この「告白」を皮切りに、今回は一人称小説の深みについて映画と関連付けながら語りたいと思う。


「告白」。原作小説の構成はこうだ。

五章にわかれていて、各章それぞれが登場人物の語り。

つまり、一章はA氏の告白文が、二章にはB氏の告白文が、といった風だ。

それはまるで読み手が、法廷で証人の供述を聞いている裁判官のような気分になれるような構成である。


ここで注目したいことは、当然ながらこの小説は一人称小説である、ということだ。


小説には二種類ある。

一人称小説と、三人称小説だ。


一人称小説は、語り手は、登場人物の「僕」だったり、「私」だったりする。

例「――と僕は言った。すると田中は驚いた顔をして――と言った」


それに対して三人称小説の語り手は「作者」だ。

つまり、作者の視点に立つから登場人物はすべて名前で書かれる。

例「――と佐藤は言った。すると田中は驚いた顔をして――と言った」


近くに本があるなら手にとってみてほしい。

「僕」「私」がいれば一人称小説。いなければ三人称小説だ。簡単だね。


とりわけ例だけ比べると、「僕」だったものに「佐藤」という名前がついただけじゃないか、と思われる。

しかし、この両者はアフリカ象の鼻とフランスパンくらい違うものなのだ。


先に言ってしまえば、実は一人称小説は簡単に読者に嘘をつける、ということだ。

考えてみれば、もちろんそうだ。

あなたがもし、人に見せるような文章を書く。誰かに手紙を書くといったことでもいい。

そこには書きたくないことがあるのではないだろうか?間違いなくあるよね。


グレートギャツビーというアメリカ文学の傑作の本がある。これは一人称小説だ。

語り手はニックキャラウェイというが、もちろん文章では「僕」とあらわされている。

物語内でニックには、ジョーダンという恋人ができる。

しかし、この話の中で、ニックとジョーダンのセックスシーンは一度も出てこない。

もちろん、ニックは本当にセックスしなかったのかもしれない。その可能性はある。

だけれど、僕が言いたいのは、もしセックスしていたとしても、ニックがそのことを文章にしたくなければしないことが可能なのだ。さらに言えば、実際にしていても、「僕はジョーダンとはセックスしなかった」と嘘をつくことも可能なのだ。これは極論だけどね。


セックスといえば、とっさに村上春樹が思い浮かんでしまう。

別に失礼ではないと思う。村上春樹のセックスシーンについてゼミ合宿してまで解釈している友達が僕にはいるからだ。


しかし、村上さんはセックスシーンを描くが、至って単調に簡潔に描く。

「その夜、僕は彼女と寝た」それだけだ。むしろそればっかりだ。

僕もレコード流れるBARでピーナツを食べながら、「世界中のトラが溶けてバターになってしまうくらい君のことが好きだ」とでもいえばセックスできるのだろうか。それならば僕はトラだけでなくライオンもキリンもおまけに溶かしてしまいたいくらいだ。


単純に村上さんが書く「僕」にとって性描写はこの小説に必要ないと思ったから書かなかったのだ。


もし、一人称小説で「彼の熱いものが私の中に入っていった――」とかうんぬん書かれていたらその作品の「私」はド変態である。性描写を語りたくてしょうがないキャラ、ということになる。


そういうわけで、一人称小説というものは、その文体や内容に「僕」「私」の性格、キャラクターが存分にでてくる。


しかし、三人称小説はそういうわけにはいかない。

語り手は作者だから冷静にそのシーンを描かなければならない。

もちろん性描写だって作者が書きたければ書いてしまえばいい。しかし、嘘はつけない


神の視点となって、どの登場人物の心情も容易に把握できるような三人称小説。

三人称小説のいい点はいろんな同時期に起こっているさまざまなシーンを描くことができる点だ。

映画で考えるとわかりやすい。または海外ドラマの「24」。

A地点での出来事が描かれているが、そのときB地点ではこういうことが起きている、といったことが簡単に描ける。語り手が神の視点なのだから。


しかし一人称小説は、「僕」「私」が実際に目にしたものしか描くことはできない。

A地点に「僕」「私」がいればそのことは描けるが、そのときB地点で何が起きていたのかは、本人が知らないのだから、語ることができないのだ。


それをうまく避けたのが「告白」の手法。

いわゆる一つの事件について、それぞれの地点にいる人物が告白していくのだ。

A地点にいる「僕」がそのことにしか描けないのなら、じゃあ視点を変えてB地点の「私」に語らせればいいのだ。うまいやり方です。(これをフォークナーは「響きと怒り」でそうそうとやってのけたのだからすごい・・・)


しかし、「告白」の面白いところはここからだ。

それぞれの告白文をよく見比べると、多少の齟齬が出てくるのだ。

当然である。それぞれが自分に都合のいいように語るのだから。

そして極めつけは、嘘を言っているのではないか、という部分まで見えてくる。


つまり、「告白」では、森口という人物が「私は爆弾を仕掛けた」と語るのだが、僕はどうも彼女は爆弾を仕掛けてない。嘘を言っていると思うのだ。


しかし、その正解は用意されていなかった。面白いよね。

三人称小説は行動を正確に描かなければならないから、爆弾をしかけた動作を描けば、それは爆弾を仕掛けたことになってしまうのだ。嘘を言えない。

そういう意味で、一人称小説は深みができやすい。解釈の余地があるのだ。

だから、僕は一人称小説のほうが好きだ。語り手に魅力があればなおのこと好きだ。


とはいえ、一人称小説と三人称小説には、結局は「僕」が「佐藤」になってしまうくらいの違いしかない、というのも実情である。三人称でもうまい具合にミスリードさせれば深みを生むことができるし、あえて書かない、ということもできる。(ヘミングウェイの氷山理論)


だけれども、僕が言いたいのは、一人称小説のなによりの魅力は、語り手が目の前で自分に話しかけているような錯覚に陥ることだ。喫茶店で長々とお話を聞いている感覚。

やっぱり三人称小説はどこか他人事のような気がしてならない。

だからこそ、一人称小説において、あえて書かない、といった部分は、「僕」「私」のキャラクターに共感すればするほど、ああ、言いたくないよね。ごめんね。無理しなくていいよ。といった感覚になる。


それに、あー、いい話だったな、と本を閉じても、また「僕」とお話がしたいな、と思い本を開くのだ。

一人称小説を再読するときの僕の感覚はまさにそんな感覚なのだ。また「僕」のお話を聞いてみたいな、といったような。


こんな小説の楽しみ方ができるようになった今、僕はますます小説から離れられなくなった。

ただ、小説は影響力があるのも事実だ。

間違っても彼女と寝る時があったとして、彼女の胸を見ながら「君のレーゾン・デートルは相変わらず素敵だね」などと言わないようにしなくてはね。

レポートを書く作業がつまらなさすぎるから、息抜きにブログを書くことにした。

レポートはそれなりに文体に気を遣わなくてはならないし、さらにいうと、文字指定とか、論じる内容に注文がつけられる。非常に窮屈なものだ。勘弁してほしいね、まったく。

それでもブラインドタッチ(最近いつの間にかできていることに気付いた)を習得したので、時間的な意味でそこまで書くことには苦労しない。

だけど、やっぱり興味のないことについて書くことは途方もなくしんどいことだ。


さて、途方もなくしんどい、というと、僕は最近長距離のサイクリングをした。

その距離、片道で35キロ。往復で70キロ。

マラソンのイメージがあるから、それに比べて自転車ということを考慮すれば、たいした数字じゃないように一見見える。しかし、そんなことは全くない。

サイクリングは、とんでもなく、つらく、そして、突き抜けるほど楽しい。


片道で、3時間かかった。途中の水分補給を入れて。

35キロで3時間だ。

確かに、僕の自転車は近くのサイクルショップで購入した8990円の折りたたみ自転車。

色は赤。ハンドルは鹿の角みたいなタイプ。タイヤの大きさは、ピザのLサイズくらい。

同じ速度を走ろうものなら、ママチャリよりずっとあくせくしてこがなければならない。


しかしだ。

35キロで3時間。

少なくとも僕は42.195キロを二時間台で走り切った人物をテレビで見ている。自分の足だけで。


彼らはすごい・・・・・・。






出発は早朝5時の池袋だった。

目的地はみなとみらい。横浜だ。


なぜみなとみらいかというと、それは実に単純なもので、そこで乃木坂46の握手会があったのだ。

僕は生駒里奈ちゃんが好きです。はい。


一瞬だけ嘘を言うが、僕はイヤホンを耳につけて、ラジオを聴きながら走行した。


さて、嘘はやめて、これからの話は本当のことを語っていくが、サイクリングは改めてとても気持ちのいいものだった。

実のところ、これほどの長距離を走ったことは初めてで、いままで最長はせいぜい10キロ前後だったように思う。10キロが余裕だったから、70キロも余裕だろう、という僕の単純明快な思考プロセスを評価してもらいたいものです。


もちろん5時の時間帯はまだまだ真っ暗闇だった。ちなみに明るくなり始めたのは6時半ば過ぎ。(さみしい季節だ・・・・・・)

人通りは当然のことながら少なく、すれ違う人々はみな酔っぱらっていた。

水買うぞ、と叫んで、そのまま自動販売機にもたれたまま動かなくなってしまった人もいた。


酔っぱらいをよそに一組だけゲイカップルを見た。

男同士で手をつないで歩いているだけで、ゲイカップルと判断するのは、少し考えすぎなのでは、と一瞬考えてしまうくらいには、自分の価値観が広がった証拠なのだろうか。


彼らの行先はさておき、僕の行く道はよこはまみなとみらいだ。まだまだの距離である。


山手通りを15キロほど行く。山手通りは道が広くて気持ちいのだが、非常に高低差が激しいのがわかった。とにかく鬼のように坂道を登れば、天国かのように、自動ですーっと降りれる下り坂がある、しかし、すぐに現実に引き戻される。また鬼の登場。その繰り返し。


ところで、おなかがすいてきた頃であった。朝ごはんを食べずに出発したので、7時前は十分に空腹を感じていたのだ。いつしか、僕の行先は、みなとみらい近くのマクドナルドに変更。朝マックだ!朝マックを食べたい!久しぶりの朝マックだ!!!


途中、何度もコンビニと、松屋を通り過ぎた。(もちろんマクドナルドもだが、僕はみなとみらい店じゃないと行きたくないので、あまり見ないようにした)

この時間帯もフルで営業しているのは、そのくらいだった。偉大だ。

24時間営業というシステムを考え付いたものは、ノーベル賞をもらっていい。

なにせ、こんな暗闇の中、外灯以外の明かりを見ることのできるということは非常に安心することなのだ。


日が昇り、僕は二回ほど、川の上を渡った。

とてもきれいな眺望だった。雲は多かったが、やはり、土手沿いの広く開けた空間は癒される。解放感たっぷりだ。僕はしばし、そこで立って景色を眺めていた。不思議と風は穏やかだった。


何人ものロードレーサーたちと並行しては、追い抜かれた。彼らはとても速い。馬力が違う。

カブバイクみたいな見た目の僕の自転車、ダサいなぁ・・・・・・。


それでも日曜日の早朝。車以外は人の気配を感じない空間をノンストップで風を切って走る、というのはとても貴重な体験だった。


気付けば、もうそろそろ着く距離になる。三時間あっという間だ。


念願の朝マック!近所のマクドナルドがつぶれてからごぶさただったな!

うまい!うまいぞお!マフィン!グリドル!グリドルってなんか変な名前だなおい!

こんなにマクドナルドってうまいのか?

無論、達成感と空腹の調味料がうまくさせているのだ。よくわからない気分で、よくわからないお腹の空きで食べても何もうまくない。それがマクドナルド。


握手会は楽しかったです。


さて、ついて、アイドルと握手はしたはいいものの、僕は重大なことに気付いて震えがとまらなくなった。

帰り道があるのを忘れていた!


この瞬間、僕は登山は無理だとおもった。僕のときは、下山はヘリを用意してくれないか。


つまり、達成感もくそもなかったのだ。

真の目的地は僕の家であり、みなとみらいはあくまで通過点。

出発は僕の家で、到着も僕の家だったのだ。

それが、サイクリング。


正直に言うと、帰路はまったく楽しくない。

高低差激しい山手通りが後半戦に控えていたが、半ギレで坂を上っていた。
足は完全にパンパンだし、ペダルをこぐたびに左足の指がつりそうだった。

結局、無事家に着いたわけであるが、根本をたどれば、なんで僕はわざわざみなとみらいまで往復70kmの道を自転車で行こうと思ったのだろうか。
ちょっと記憶をたどって思い出してみた。

まったくの気まぐれだった。
バイト先に自転車でいつもどおり通っているときに、ふと思いついたのだ。
横浜は母方の実家もあるということで割りとゆかりのある場所だ。
だからよく横浜に行く機会はあるのだが、いかんせん電車だとお金と時間がかかる。
池袋からみなとみらいだと往復1200円だったかな。定かではないけれど。
それに乗車時間が一時間を越えるというのだ。

電車ですら一時間かけてそれに1200円もかけるのか。
と、少し考え、非常に合理的な思考プロセスを経て、僕は自転車で横浜に行くことを選択したのだと思う。


こんな風に、僕は気まぐれで思いついたことに、後からさももっともらしく理屈をつけるのがとても得意だ。

それでも得たものはある。
もう折りたたみ自転車ではサイクリングはしたくないけれど、ロードバイクなどの専門的なものなら100kmくらいの距離を走ってみたいなと思った。やはり気持ちいのだ。

あとはね、朝マックね。
僕は常々、物には固定価値などなく、その価値は本人しだいでいかようにも変化すると思っているから、まさにその意味で朝マックは典型的な例となったね。
だって、とてもおいしかったのだもの。220円しか払わなかったけど、2200円のよくわからない場所で食べるよくわからないつるつるしたものよりは断然うまかった。


たまに、バラエティ番組で、どこどこの○○を食べるためだけに、長旅をする、といった企画があるが、僕もそんなテンションだったのかもしれない。

結局はそれだけだ。
ところで、今書きながら思っていることがあるのだけど、
今僕はこの記事のまとめとして、サイクリングから得たものをもっともらしく書こうとしているのだが、やっぱり、別に何も得るものがなくてもいいと思った。

ぐぬぬ、この記事の締め方がまるでわからなくなったので、ここで小話をひとつ。



売れない自転車屋さんの店長が一言言ったってさ。

「いや~、まったく、自転車操業ですわ」

小説を書くという作業は僕にとって恐ろしく楽しい作業だ。

僕の生活が変わった時期、というのはおそらく9月頃からだ。
急に読書を始めた。
それも、村上春樹から。今まで彼の作品はノルウェイの森で、緑とワタナベが火事現場を見ながらキスをする場面までしか読まなかった。

それも高校生のとき。

高校生までの僕は、山田悠介から東野圭吾へとエスカレーター式に読んでいった類の人間で、
設定命!過程のハラハラ感命!ラストのどんでん返し命!!とか、そういう作風を好んでいたので、多分当時の僕は村上春樹の何が楽しいのかわからなかったんだと思う。


それでも文学部に入って色んなアメリカ文学をつまみ食いする度に、好きな作風が変わっていった。
そして、ようやく(世間よりはかなり遅め)村上春樹を読み始めた。

そこからの話は早くて、
一週間くらいで、ノルウェイの森、スプートニクの恋人、アフターダークを読み、
難解なラストに唸りながらも、次の作品をーー!といった感じに、ある種麻薬的に本を読んでいた。

今までは週に5本はみていた映画はこの時期月に2本とかにまで落ち込んでいた。
単純に映画より小説を優先させたというだけの話だ。

村上春樹の短編にまで手をつけて、ある程度ひと段落すると、今度は小説を書きたくなった。

本を読んで、そして今度は自分が書きたくなる、というのは自然の流れで、まさに僕もそれに違わなかったのだ。


それで、3つくらい小説を書いた。
全て、それぞれ直前に読んだ作品に影響されてるから文体と作風がバラバラ。
バラしてしまえば、「未来からきた嘘つきな俺と僕」は、村上春樹の影響。
「フライングエッグストーリー」は、ライ麦畑でつかまえてのサリンジャーの影響。
「煙に巻かれて」は西村賢太の影響。


そういうわけで、小説を読む行為は、書く行為に直結してしまっている。

だから僕は最近また小説を書いているのだが、今回はおそらく長編になるはずだ。
初めての長編小説。
まだ5000字だけど、ラストまでぼんやり頭に浮かんでるから、それを文章化するだけだ。

それで、どっかの賞に応募しようかな、とか思ってる。
僕の今までの短編は、長さが中途半端すぎて応募する対象がなかった。

新人賞というのは大体8万字~20万字なので、相当書かなきゃいけないんだけど、多分今回はイケる、気がする。

ちなみに前回3万字くらいまで書いていたものは途中でポシャってしまった。
そういうこともある。


なんとまあ、自分がなんで書いてるのかわからないし、なんで賞まで目指そうと思ってるのかわからない。不思議なものです。

(注・読み物として成立させるために僕はこの記事に限りとことん脚色をバカみたいにしてあります)




僕はすべてを恐れずに書くつもりだ。

それはまるで僕と世間との間にある有刺鉄線付きの壁を取り壊すかのように。

いま、僕はアイドルについて語るのだ。



僕は恋をした。

それは丘の向こうの遠くから、麦わら帽子をのせて吹く、夏の風のような恋だった。

その麦わら帽子の持ち主の名は、みさこといった。


彼女と出会ったのは、2010年のテレビの中であった。

NHKの当時はまだ深夜番組であった「ミュージックジャパン」という番組に彼女は映っていた。

彼女は神聖かまってちゃんというバンドでドラムを担当していた。


当時の僕は女性でドラムはめずらしいな、と思っていたくらいだったが、

なによりまず、彼女よりも、その音楽に魅了されてしまって、YouTubeで彼らの音楽を何度も聞くようになったのだ。そのときの僕の状態はまさしく「ロックンロールは鳴りやまないっ」だったわけなのである。


彼らは、ニコ生などを通して多くのネット配信を行っていた。

それらの過去の動画が、YouTubeに落とされていたので、僕は、神聖かまってちゃんに対する興味関心の枝をどんどんと伸ばしていくように、そういった音楽に関係のない動画もみていくようになった。



そこで僕は彼女の魅力にとりつかれたのだ。

彼女はまるで、僕の理想の女性を具現化したかのような存在だった。

見た目は完ぺきだった。

しかし、驚くべきことに性格も完ぺきそのものであったのだ。


僕は、ネガティブな人間は嫌いだ。

何を話しても、暗い内容しか語れない人間。他人の悪口や、評価、うわさなどで盛り上がろうとする人間は大嫌いだ。

だけど、ポジティブな人間が、たまにおちこんだときに見せる暗い部分は僕は大好きなのであった。

ポジティブな人間は、表面だけをすくってみると、非の打ちどころのない人間に思える。

そんな人間が、ふとしたときに暗い部分をみせると、それはある種僕は、その人に認められたのだ、と思えるような気がするのだ。

暗い部分を見せてもいい人間に選ばれたのだ、というような。



彼女はとんでもなく空気をよまないキャラだ。

とことん変な不思議なキャラだ。急に奇声を発することなどよくある。

それでも、実際は違う。彼女は空気を読んで、空気を読まないのだ。

彼女の配信は、アホなゆるゆるトークで一時間終えることもあれば、とことん真剣な配信のときもある。

僕はそんな彼女のギャップが好きだ。



そんな彼女が、2012年頃から「バンドじゃないもん!」というグループを結成して、活動していくことになる。

みさこはそこでも変わらずにドラムを叩くが、グループ名通り、決してバンドではない。

アイドルになった。


それまで、ライブに行っても、の子というカリスマギターボーカルの陰に隠れていた彼女は、アイドルへとジョブチェンジすることによって、活動の幅がとてつもなく広がっていった。

それこそ、まさに、握手会、サイン会、チェキ、などといったアイドル定番の活動だ。


池袋ではしょっちゅうそういった類の活動が行われていた、らしい。

しかし、僕は行かなかった。


なにか、気が進まなかったのだ。

それまで、ネットでみてきていた彼女の姿を実際にみることは、おそらくうれしいことなのだろうが、

なぜか気が進まない。

僕はそういったところでとことん保守的になってしまうのだ。

いままで、十分楽しめてきたのだから、それでいいじゃないか、といった。



あとはきっかけだけだった。

そういった意味で、今日のきっかけは完ぺきだった。

たまたま池袋を歩いているときに、ツイッターで20分後に池袋でイベントがあることを知ったのだ。

これだけのきっかけが用意されていて、家に帰るわけにもいかず、半ば、しょうがないか、といったテンションでかっこつけて僕はイベント会場に向かった。



気づいたら僕は2000円を支払っていた。

お金を出したときの記憶はあまり定かではない。とりあえず、僕の財布からは2000円が減っているはずだ。

しかし、目の前には、あこがれのみさこ!!と、その他バンもん!のメンバー。(実は名前を知らない)


神聖かまってちゃんのライブのときの、僕と彼女の距離は10メートルも離れていたものが、今日の僕とみさこの距離は1メートルにも満たなかった。

僕は、これほど近い距離でイベントをするのかと、結構驚いてしまっていた。


バンもん!のメンバーが自己紹介をしていく。

お客さんがのりのりで、コールに対してレスポンスをする。

僕は、彼女のコールに対するお約束のレスポンスをなにひとつしらない。

なんか、みんな右手をくるくる回していたが、僕はそれに対応できず、棒立ちだった。


フリートークみたいなことをしているとき、みさこと僕はおそらく一度も目が合わなかったと思う。

しかし、いよいよツーショット会の時間になった。僕は、もともといた位置も助かって、なんと先頭で並ぶことができた。

係りの人に、希望の方は、と聞かれ、みさこさん、と答えた。

みさこさーん、と係りがいう。


はーい!と両手を広げてこちらに向かってくるみさこ。

ありがとうございます~。と。

僕は一気に堕ちてしまった。


ずっとあこがれだった存在とツーショット写真を!


ぶっちゃけた話、バンもん!の中では、みさこはダントツの最年長だ。

7つくらい離れている気がする。

だから、お客さんのほとんどは、ほかのメンバーを指名する。

しかし、僕には自信があった。どんな古参よりも、僕のほうがみさこさんを応援している期間は長いのだ。

なぜなら、バンもん!が結成される二年も前から応援していたのだから。



感無量だった。

こんなにかわいい人間が世の中にいるのかと思った。

いや、いた。しかし、彼女だけだ。


自殺には、明るい自殺もあるのではないかと思った。

あの瞬間の僕は、これ以上の幸せは今後訪れないから、ピークのときに死ぬのも悪くないな、とまで思っていた。

チェキを握りしめて池袋を歩いているとき、だれか僕をひき殺してくれないだろうか、と思った。



AKBグループを筆頭にして、CDに握手券を付属させて売る商法には賛否両論ある。

しかしながら、僕は間違いなく賛成である。


会いにいけるアイドル、というものがどれだけ素晴らしいものか、ということだ。

こんなにも、一瞬ですべてを吹き飛ばしてしまうような恋の気分になれることが、ほかに何で代用できようか。

少なくとも僕は、今年中はこの幸せをおかずに毎日白米を食べることができるであろうし、僕がみさこさんと撮ったツーショットは、永遠に残るのだ。


アイドルに興味が無いひとたちには、自分が人類で一番かわいいと思った存在に直接目を合わせて写真をとってくれることの幸せを少しでも共感してほしいものである。


僕は間違いなく今日のできごとは一生の思い出になったであろうし、みさこさんは僕の中で最もかわいい女性という地位は今後ずっとゆるがないのであった。



東京ディズニーランド。

そう、まさにミッキーに魅了されることと同じなのだ、と僕は熱く主張したいのだった!