今日、僕が受けている「特別活動の研究」という授業ではとても興味深い議論がなされた。
ずばり、タイトル通り、
「『身体的体罰』に『教育的意味』はあるのか?」ということだ。
体罰問題が大きくニュースでとりざたされるようになったのは去年くらいからだと思う。
世間の人も体罰問題について考えるきっかけになったのではないだろうか。
前回の記事に引き続き、今回も教育関連の問題についてだが、教師の抱える問題は実に多様だなあと思う。
さて、今回議論した数点についてポイントを絞って僕の意見を述べたいと思う。
議論の中で「信頼関係」というキーワードがよく聞こえてきた。
①信頼関係があるからこそ体罰をするのだろうか?
という問題だ。
僕の答えは当然NOだ。
単純に信頼関係があるということは、相手の発言を信頼できるということだから、それならば暴力に頼る必要など、はなからないからだ。
信頼している人の話は、納得して聞くことができるし、それならば、まっとうなことを言っていると理解できれば、それだけで解決するのではないか。体罰には信頼関係があるからいいのだ、という主張は正直まったくの的外れだ。殴られるのが好きな生徒がどこにいる?
もちろん信頼関係がないからこそ体罰をする、というのも間違いだと思う。
そんな体罰に教育的意味はまるでない。生徒はただ憤りを感じるだけだと思う。
まとめると、信頼関係があるならば、体罰には教育的意味はありうるけれども、体罰に頼らずとももっと他に良い別の手段があるのだから、体罰を行う必要はないだろう、というのが僕の意見だ。
さて、次に、女性教師というのは世間的に指導力不足とみられてしまうことが多いそうだ。
それは生徒指導部長の性別を見ていけば一目瞭然のことらしく、
生徒指導部長として選ばれる人物は、つまり、指導力がある、ということだが、
一般的に、男性、ベテラン、体育会系、威厳のある、もしかしたら体罰があるのではないか、という緊張感。というイメージ。
だって、生徒をぶん殴る女性教師というイメージは想像に難いでしょう。
もちろん僕は指導力のある女性教師に何人にも出会ってきたし、指導力のない男性教師にも何人にも出会ってきた。結局は性別ではなく、その教師の人格だと思うのだが、とにかく現状としては、女性が生徒指導部長になりにくい、というのがあるみたいだ。
では、
②指導力がある人こそが暴力をするのだろうか?それとも、指導力がないが故に暴力に頼ってしまうのだろうか?
これは非常にいい議題である。同時に難しい問題である。
まず、簡単に言えることは、僕は指導力のある人には、もともと暴力なんて必要ないと思っているのだ。
というのは、僕は体罰を受けたことがない、といったが、「どうせ先生は体罰できないしな。なめてもオーケー。殴られたら訴えよう」などと思うすきもないくらいに恐ろしく怒られたことならある。
ひょっとしたら、体罰されるのではとまで思うくらいに恐ろしい先生だった。めちゃ怖い。足はがたがた震える。心臓は急速冷凍されたかのように冷たくなる。
たしかに、僕は体罰を受けていないが、泣きそうになるくらい怖い思いをしたのだ。
そんな威厳のある先生、つまり指導力のある先生に、体罰なんて必要ないのだ。
十分言葉だけで生徒をコントロールすることができると思う。
では、指導力がなければどうすればいいのだろうか。
もちろん僕は体罰反対だが、実は、最終手段としての体罰、ということに関してなら気持ちがわかる。
というのは、僕の母を例に出すが、
僕は反抗期のころ、とにかく親に迷惑をかけた。(ごめん)
母親をなめていたと思うし、基本的に母が何をしても怖くなかった。
母は最初は、言葉でうまく説き伏せてくれようとするが、それに対して僕は話を聞かないし、屁理屈をこねるし、挑発するしで、ひどい態度をとっていた。
そして、どうしようもなくなったときに、母は最終的に僕に手を出したことがある。
それでも僕はへらへらと笑っているサイコパスのような子供だったから、母親の当時の悩みの深さははかりしれないほどだ。
教育現場におきかえて、もし生徒が僕のような子供だった時にはたして指導力のない先生はどのように対処したらいいのだろうか。
最終的に手が出てしまうのもわかる気がするのだ。
しかし、僕が言いたいのは、あくまでも体罰というのはできるだけ避けなければいけないということ。
そして、最終手段として体罰があるんだ、という緊張関係をもっておくこと。
そしてなにより、最終的に体罰に至ってしまうまでに、どれだけ教師が言葉で粘れるか。ということなのだ。
これは非常に大切なことだと心掛けたい。
どんなにわかってくれない生徒に対しても、とにかく粘る。言葉で粘る。いろんな話をする。自分の気持ちを言う。相手の気持ちを聞く。とにかく粘り切って、でもダメだ、となったときに出る体罰、というのはそれなりにメッセージ性が違ってくると思うのだ。
僕が当時の母を振り返って、自分を反省することができるように、そんなどうしようもない生徒も、その場では更生できなかったとしても、将来、振り返って反省することができればいいではないか、と思う。
僕は、生徒が当時の先生を振り返った時に、「どうしようもないやつだったな」と思われるような先生になることだけは避けたいのだ。
だから、とにかく言葉で粘る。あくまで体罰はダメだ。
でも粘り切った最終手段としての体罰はときとして意味を持つ。ということがあるのではないだろうか。
①信頼関係があるからこそ体罰をするのだろうか?
②指導力がある人こそが暴力をするのだろうか?指導力がないが故に暴力に頼ってしまうのだろうか?
さて、今回はこの二点について、体罰について考察してきた。
たしかに難しい問題で、人によって意見はばらばら。
結局議論もまとまらない。
しかしながらひとつ間違いなく言えることがある。
共通していることは、先生の人柄しだい、ということだ。
どれだけ、先生としての人格を高めていけるか。それは信頼関係の構築につながり、指導力の向上につながる。
では、僕は将来そういった教員を目指すものとして、いま、どういう努力をしていけばいいのか。
いま、僕は自分を律するときであり、そろそろ本腰を入れて、教職について考えていかなければならない時期なのではないか、と強く危機感を持った最近であった。