「村上春樹とアメリカ文学と僕」か。
基本的にブログタイトルは記事を書き終えたあとに考えるものだが、今回は本当にこのことについて語りたかったので、とくにひねることもなく、そしてこのタイトル通りに書きたいと思う。

僕は現在大学二年生で、(しかしそれはもう終わったようなもの)
大学では英米文学を専攻している。
理由は、英語の教員免許がとれるところならどこでもよかったからだ。
たまたま受験校の選択の際に、今の学校が入り込んでいただけで、そしてそこにしか受からなかっただけの話だ。
何が言いたいかというと、僕は決して入学当初は、文学に興味がなかったのだ。

ところが、今ではこんな記事を書こうとしているぐらいなのだから、割と好きになったのかもしれない。
自分を理解することは難しいことではあるけれど、さすがにこのことに関しては確かなのかもしれない。
僕は自分が何が好きなのか、ということに関してはそれなりに自信を持って答えられるタイプなのかもしれない。
もちろん、僕はどんな女性が本当に好きなのだろうか、ということに関しては長年悩みあぐねいているわけだけれど。

さて、アメリカ文学、といえば誰を想像するだろう。
フィッツジェラルド、カポーティ、ヘミングウェイ、サリンジャー?
僕はこの作者を誰一人として知らなかった。
しかし、今は、アメリカ文学で好きな作家は?と聞かれればこの四人を答えるし、その中でもフィッツジェラルドが一番好きで、カポーティの短編はその次に好きだというと思う。

悔しい点は、僕がアメリカ文学に出会うのが遅かったことだ。
文学を楽しむのには時間がどうしてもかかる。
読むのは簡単かもしれない。だけれど、楽しむとなると、同じ本を何度も、そして今度は英語で読んでみたくもなる。
それにはどうしたって時間がかかるのだ。僕が大学に入って二年たつけれど、二年やそこらじゃ楽しむには短すぎる時間だ。
だから、僕は大学の授業で学んだ作家しか知らないし、正直なところ、客観的にみればミーハーの域を脱することはできていないはずだ。
それでも前述した通り、自分が何に興味があるのか、ということに関しては僕は自信を持っている。おそらく、そういったものに向くコンパスの針みたいなものの精度が優れているみたいで、一度好きになったものは、決して一時的なものではなく、飽きることなく今までもずっと続いてきている。
だからこそ、どうしてもこういうことを書きたくなってしまうし、そろそろ自分の中でも文という形で整理しておきたくなったのだ。

長い前置きになってしまった。

村上春樹は多くのアメリカ文学を訳している。
新訳にも多く挑戦している。
そして彼が訳す、すべての本は彼自身がとても好きな作品である。
つまり、僕がなぜ村上春樹とフィッツジェラルドが好きかといえば、それは実にうまく回っていることで、村上春樹がフィッツジェラルドを好きだから、僕もその両者が好きなのだと思う。
村上春樹は自身の小説に関して、いままで読んできた本の影響があることを否定しているが、やはり「喪失感」みたいなところで、アメリカ文学の多くの作品と共通点を見いだすのは難くない。
うまく説明するには専門的になってしまうし、それには僕は十分な学が足りないから簡単にいってしまうのだが、きっと僕はフィッツジェラルドと村上春樹、そのどちらを先に好きになっていたとしても、必ずいずれそのどちらも好きになったであろう、ということだ。
実際に僕はフィッツジェラルドを先に好きになったわけだしね。

やっぱりアメリカ文学に関して僕が思うことは、あまり手に取られないな、と思うのだ。
なんか、「読むべき本」として紹介はされるのだろうが、それでも日本人作家の最近の本の方が多く読まれ、アメリカ文学は後回しにされているのではないか。
それは当然といわれれば当然のことなのかもしれない。

だけれど、僕が読むアメリカ文学の多くは100年近く前の作品であることは確かでも、そのすべてが現在でも十分に読むに値する作品だし、むしろ最近読んだ日本人作家の本数冊よりは断然優れている気がする。

一般的にみると、アメリカ文学の作品は、気軽に手にとりにくい位置にあるのかもしれない。
僕はどうしてもその点に関していいたいのだ。
アメリカ文学を、日本人作家の小説を手にとるのと同じくらいに、気軽に読んでみて欲しいのです。
「そんなに昔の作品だなんて」とか、「難しそう」とかそういうイメージが先行しているのではないだろうか。
全然そんなことはなくて、なにせ、文学の魅力というものは時を経ても色あせないことにあるのだと思う。
もちろん文体や言葉使いはその時代性が出てきてしまうものではあるが、物語の根本的なところは決して色あせないであろうし、その意味で現代の作家の作品と十分に肩を並べることができるのは当然のことのはずなのだ。

しかも、翻訳というのはその言葉使いの期限みたいなものにも十分に対応できることがわかるだろうか。
新訳を出せばいいのだ。
現在使われている新鮮な日本語で訳せばいい。当然、英語で読むのが、その作家の文体も味わうことができる点で良いのだが、日本人である以上なかなか難しい。
だけど、言語が違えど、物語の根本、作者の主張みたいなものは変わらないのだから問題はないはずだ。

だから、日本人作家と同等に扱われるべきなんだ。
書店の棚の隅っこに寂しくまとめられるような作品ではないのだ、決して。

村上春樹は、「翻訳夜話」や、自信のインタビューで
「フィッツジェラルドとカポーティには絶対にかなわない」という。「彼らは天才だから」という。

アメリカ文学が好きな身として、もっとフィーチャーしてもらいたい、というのが一つの思いである。

やっぱりギャツビーを読む度に、僕は自分の進む方向を修正できるし、勇気づけられる。

まとめに入るが、
僕は決してアメリカ文学と日本人作家の作品を比較して、どちらが優れているかをいいたいわけではなく(ただ、最近よんだ日本人作家の数冊が単純につまらなかっただけだ)
せめて同程度にあつかって欲しいのだ。
そして、アメリカ文学に限らず、イギリス、フランス、ロシアからも優れた作品がたくさんあるはずだ。

もっとそれらを同じ目線でみてほしくて、積極的に海外文学に手をのばしてほしいと思う。
海外文学は僕ら文学部生だけがレポートのために読む本では決してないのだ。

マーケティング、商業的な面があるから、書店が隅っこに海外文学をおいやるのはある程度しょうがないことかもしれない。
だけれど、読み手である僕たちがもう少し、視野を広げて、海外文学に変な偏見を持たず、気軽に手に取ってみてほしいのだ。
その多くは恐ろしく面白い本だ。なぜなら、多くの日本人に読んでもらいたくわざわざ翻訳されているのだから。(その分、日本人作家の作品よりも、面白い本に出会う確率は高いかもね)

良ければ、春休み、このブログをきっかけに何か一冊読んでみてくれたりなんかしたら僕はとてもうれしい。きっと僕はしっぽを振って、のたうち回りながら泡を吹くことだろう。

もし良ければ、『グレート・ギャツビー』(フィッツジェラルド)もしくは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(サリンジャー)を読んでみて欲しいと思う。
とても純粋になれるすてきな作品です。
そして『星の王子さま』(サンテグジュペリ)。これはアメリカ文学ではないですが、上記の二冊ととても相性の良い作品だと思います。

それでは、
「僕の話はこれでおしまい」

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