現在、語学学校の休みが始まってから丁度半分が過ぎたところである。高校生時代に戻ったかのように毎日あくせくして通っていた。自分の大学生活を振り返ってみると、日本の大学生はなんとも楽なものだなとため息を漏らさざるを得ない。ただ、僕は留学しているからといって、日本の大学がアメリカに比べてどう駄目だとか論じ始めるタイプの人間ではない。結局は日本の大学に帰るのだ。僕自体が何を思っても残念ながら何も変わらない。
アメリカの大学では、全ての授業が英語で行われることはもちろん、学生の意欲がとてつもなく高い。皆、毎日のように図書館に通いつめ、宿題をこなす。プレゼンの準備もこなす。うんざりするほど大変な時期もあるようだ。しかしながら、彼らはその対価として、高尚な知識と、非常な充実感を得るのだ。そして彼らは僕に「日本の大学はクソだよ。せっかく勉強しに大学入ってるんだから勉強しなくちゃ」と言って、スターバックスのコーヒーを僕にすすめたが、もちろん嫌だった。僕は怒って、目の前にあるベンティスターバックスラテを右手で払いのけ、その状況に驚きを隠せずにいる周りの客、一人ひとりの口いっぱいにスコーンを詰め込んで回った、というのはまったくの嘘だが、はっきり言って僕は日本の大学のシステムで全く構わないと思っている。
勉強したくない、というわけではない。正直なところ、僕は日本では模範的な文学部生であった。もちろん、あくまで僕の周りと比べれば、という範囲の話だけれど。
単純に宿題が嫌いなのかもしれない。なにせ、こちらの大学では、みんな「カダイカダイカダイ」と呟きながら歩き回り、人とすれ違った瞬間に「プレゼン」と言わなくてはいけない遊びが流行っていて、もし言い損ねた場合には、常時携帯しているピザを顔面めがけて投げられるのだ。
日本では、たしかに卒業するのはおそろしく楽に感じるし、場合によってはいくらでも大学生活を崩壊させるチャンスはあるわけだけれど、その反面、自分の好きな勉強を好きなだけできるといったメリットもある。やれと言われてやる勉強より、自らすすんでやりたい勉強の方が楽しいということだ。それが僕のライフスタイルである。福沢諭吉が予言し、僕が固めた。

そういうわけでこの10日間の休日というのは僕にとって福音をもたらすものであった。

ところで話は変わり、なぜ英語が喋れないのか、の原因について最近僕はひとつの結論を下した。気を使うからだ。結局のところ、気をつかうから英語がうまく喋られないのだと思った。
というのも、僕自身とても不思議だと感じていたことなのだが、英語のスピーキング能力にムラが出始めたのだ。ずいぶん調子良く喋れるな、というときと、僕の変わりにおもちゃのファービーでも用意した方がまだマシなのではないだろうかとまで思うほど喋れないときがあるのだ。「ファー…ブルスコ…ファー…ブルスコ…ファ-

例えば、初めましてのときなんか、全くと言っていいほど何を話したらいいかわからない。ましてや、日本語が喋れるもの同士でも、そういう事態は度々生じるではないか。日本でできないことが海外で簡単にできるわけない、というのが僕の留学におけるひとつのポリシーでもある。頭山満が餅をつき、北一輝がこね、僕が食べた。
または、ネイティブばりに英語が喋れる集団の中に取り込まれて、その中で一声を発するのはなかなか勇気のいることである。「俺らのスムーズな会話に変な英語でわりこむなよ」みたいな感じで場の空気が止まることを恐れてしまうのだ。結局そんなときはだんまりしがちである。

ところが、何回か顔を合わせて、お互いの緊張感がとれた頃合いになると、不思議と英語が喋れるようになる。もちろんそれは拙い英語である。だけれど何度も繰り返し言っていることだが、英語は伝われば勝ちだ。それでいいのだ。何回か言い直したとしても、伝わればそれでいいのだ。英語が喋れないとは、言い直す段階にすら至らないことをいうのだ。こいつと話すときはどれだけ変な英語を使ったとしても大丈夫だという自信が、関係を培えば培うほど強固なものになっていく。

こんな風に英語が喋れるときと、まったく喋れないときがあることに気づいて、そのムラは何が原因で生じているのだろうか、と考えたところ、やっぱり気を使っているかどうかにすぎないのだと気づいた。僕の今のところの結論である。
英語が喋れないのは、決して文法とかの英語的知識が多くの原因を占めているわけではないと思う。そのほとんどがメンタル的なもので、間違いを恐れるこころから生じているものだと思う。だからこそ、間違いをしてもいいんだ、と気を許せるような相手だと、心置きなく変な英語を使える、なんだかそんな気分である。

そういうわけで、僕は留学だからといって、むやみやたらに外国人に喋る、というのはあまり好きではなかったのだ。どうも彼らを道具のように利用しているような感じがして嫌いだったのだ。別にそんなに焦らずとも、いい関係の友人ができるタイミングは必ずやってくる。それは自らつかんだ物でも、向こうからやってきたわけでもなく、とても自然に生じるものだった。そしてそれは僕らが学生時代に出会ってきた友人たちとの出会い方とまったく同じだったのではないだろうか。四月にスパートをかけて、なんだか変な距離感の友人を大量生産して困ってしまうことがあったはずだ。結局、実際に仲良くなる友人というのはなんだか自然な出会いで自然に仲良くなっていたように思う。どうして留学だからといって特別なことをしなくてはいけないのだろう?と僕は周りからの変な圧力に当初から抵抗し続けていた。これはもちろん今だからこそ言えることのように感じる。
もしこれから留学を志す学生が僕の記事を読んでくれているのなら、僕の主張は常に「まあ、そんなに気にすんなよ」という点で一貫している。これほどまでにそのことに一貫しているものは高田純次と僕の記事くらいのものである。留学という奇妙な状況は人を簡単に変えてしまいがちである。僕はそのことが結構怖かったりする。どの学生も変なプレッシャーに一度は悩まされる。僕はそんなときに、ブログを読んでくれて、少し気が楽になってくれたらな、という思いである。まあ、そのプレッシャーをモチベーションとして働かせる人には無縁なのかもしれないけれど。
最後に、「まあ、そんなに気にすんなよ」という僕の思いは当然のことながら、僕が提唱し、僕が形にしたものである。
【ロンドン=小滝麻理子】スウェーデン・アカデミーは9日、2014年のノーベル文学賞をフランスを代表する作家の一人であるパトリック・モディアノ氏(69)に授与すると発表した。有力候補とみられた日本の村上春樹氏は受賞しなかった。(日本経済新聞)

別にこの記事のタイトルを「村上春樹について僕が語るときに僕の語ること」だとか、「もし僕らの言葉がすべて村上春樹だったなら」とかっていう風にしても良かったんですけど、まあ、正味気持ち悪いですよね
村上春樹さん、ノーベル文学賞を逃したみたいです。毎年常連だったみたいですけど。
というわけで、久しぶりにニュース記事です。
全然関係ないですけど、めっちゃ寒いです。こっち。もう手袋欲しい季節です。

実はノーベル文学賞逃したことについて今回語る気は一切なくて、単純に良い機会だからこのニュースにかこつけて、村上春樹について僕が思うことについて書きたいなと思っています。

どうですかね、村上春樹。好きですか。読んだことありますかね。僕の印象では、そういう人は意外と少ないです。あくまで僕の周りに限ってですけどね。単純に僕らの世代が読書嫌いなだけかもしれません。文学部にいる人たちでさえ、ほぼほぼ本読みませんからね。レポートのときにしゃーなくスキミングするくらいの感じです。

人って共通点が生まれたとき、嬉しくなりますよね。僕はなります。別にそのことについて語り合うことまでは求めてないんです。ただ僕の好きなことを目の前にいる人も好きだ、というそんな事実だけで十分だったりするんですよね。というわけで、話は脱線しますけど、趣味は多趣味な方がお得だな、とか思いますね。ぶっちゃけ、こっちに来て、色んな外人の人にワンピースやらナルトやらについて聞かれますけど、僕アニメについてほぼ知らないですからね。ワンピースならぎりぎりついていけますけど、ナルトは本気でゼロですね。だいたい今の時代ラーメンにすら入ってないんですから知らなくてよくないですか。漫画のタイトル以外でナルトの存在価値ってなんなんですか。(半ギレ)

まあ、そんな感じで、きっと僕がめっちゃアニメに詳しかったら、彼ら外人も喜んでくれたのかな~なんて思ったら、色んなとこに手は伸ばした方が良いことあるな、なんてね思いました。
僕にとっては、やっぱり小説と映画ですね。共通の好きな映画とかあるだけで、めっちゃテンション上がりますね。あと、小説はかなりでかいですよね。なんか、これ結構偏見に近いものかもわかりませんけど、その人が小説読むんだ~っていう事実だけで、結構好印象というか。なんなら本読む人の方がマイナーな時代ですから、嬉しいんですよね。さらに、なんですか、「村上春樹」読んだことあるよ~とかだったらかなりきますよね。さらにさらに、「ノルウェイの森」とか言い出したときには、「うわ~~~~~、あの本めっちゃ射精するやん!!」って思ってテンションぶち上がりますね

まあ、冗談はおいといて。

村上春樹はほんとにそういう意味で、人と人の間の架け橋を共通点という名の下に作ってくれますよね。実はこれ、日本人同士だけの話じゃないんです。外国人と話すときにも村上春樹は共通点になります。意外と、向こうの人たち、読んでるんですよ!春樹を!!こんなに世界的な作家なんだな、と。ノーベル文学賞を毎年騒がれるのも納得だな、とちゃんと自分の目をもって実感しています。

ただ、まあ、僕もわりに村上春樹しっかり読んでる方ですが、ぶっちゃけなんのこっちゃよくわかってません。なんなんですかね。難しいんですよね。村上作品。メタファーが過ぎるといいますか。結局のところ、文体に流されるように読んでるだけな気がします。彼の作品はほんとに読みやすいんですけど、理解はしにくいんです。一見逆説的ですけどね。

だからこそ僕はリアリズムに徹した「ノルウェイの森」が比較的好きだったりするんですかね。現実世界にワタナベ君がいたら死んでも友だちになってないですけど。(ミドリは大好きです)

基本的によくわかってなくて読んでいます。でも何回も読み返します。それでなおかつわかった気にもなっていません。「なんだったんだこの話」って感じで本を閉じることも多いです。
多分、僕含めたそういう読者が村上作品には多いからあんまり気に食わないんでしょうね。「なんでわからんのに好きなの?」みたいな感じですかね。さらに言ったら、わかったふりする奴もいっぱいいるでしょう。まあ、それはただの嘘つきってやつです。でもまあ、わかったふりしたい気持ちもわかるんですよ。第一、お金と時間払って読むわけですから、なんかしらの得たものは欲しい、みたいな。それに、第二。これが一番大きいかと思います。評価されてるんだから面白いに決まってる。的なね。そういう、他人に踊らされたり、自分の意思がないところが、気に食わないのかもしれませんね。

ぶっちゃけわかんないですよ僕も。羊男ってなんなんですか。

僕だって村上春樹読み出したきっかけなんて好きだった子が村上春樹好きだったっていうだけのしょうもない不純な理由ですからね。なんとかその子と共通の話題作りたいぐらいのテンションで。でもまあ、それにしてはしっかり読んでいますし。

どうして僕は村上春樹を好きなんだろうと真剣に考えてみたわけです。きっかけはなんであれね。

ここからは本当に正直に話しますよ。嘘偽り一切ゼロです。

「村上春樹を読んでるおれ」感がめっちゃくちゃあります
だってそうでしょ、「重松清を読んでるおれ」感ってなんか違くないですかね。めっちゃ失礼ですねどうしましょう。

もともと本って知的なイメージありますけど、村上春樹はさらに知的な感じですよね。だからそこなんじゃないですかね。

あとはね、本を読んでいるという時間が僕はたまらなく好きなんです。これはほんとに個人的な感覚です。かっこつけとかではまったくなく、本を読んでいる時間というのは僕にとってすごいリラックスできる時間なんです。いやなこととかすっ飛ぶんですよね本を読んでいると。こう、完全に一人の世界に入り込めるんです。他人とかどうでもいいと思えるくらいの境地にまでなります。自分とこの本だけあればいい、くらいの気持ちにまで。
そういうときに、自然と村上春樹作品がフィットしたんだと思います。
作品の内容はほとんどよくわかってないですよ?伏線どこいったのよ!と首を傾げてばっかりですよ?でも、一番落ち着くんです。リラックスできるんです。

いっても、村上作品は謎が残るってだけで、作品のプロットとかはめっちゃ面白いですしね。面白くないというわけではないんです。ただもやっとするだけでね。

なんだか、他の本ではこういうことあんまりないんですよね。読み返すこと自体あんまりないですから。

みんなはどんな感じで村上作品と向き合ってるのかなと興味があります。がっつり解釈する人もいれば、いやらしいシーンで不純な用途に使う人もいるかもしれません。笑

きっとこれからも僕は村上作品をよくわからないまま、読み続けるのかもしれません。それは自分と向き合える僕の大事なリラックスタイムだからです。

何が言いたいかというと、こういう理由で村上春樹を読んでいる人もたくさんいるんだろうな~っていう感じで。
よくわかんないけど、いいよね」みたいな、なんだかそんな感想が僕は一番聞きたいことのような気がしています。
今日は天気がいいです。これから悪くなるみたいですけど。So far,so goodってことですかね。とりわけ、テスト近いんで、ほんとは勉強してなきゃいけないんですけど、不思議なものでそういうときほどなんか書き物したくなるんですよね。

前回記事読んでくれた方本当にありがとうございました。
僕のブログの中で一番反応があった記事でした。Facebookでも多くのいいね貰えたり、シェアしてくれた方もたくさんいました。僕のことを実際に知らないたくさんの方が記事を見てくれることにつながりました。やっぱり、それがブログだな、と思いますし、書いててよかったなと思える瞬間ですよね。中学生の日記みたいなこと書いてても、他人の一日の出来事読んでて面白い人なんて誰もいませんからね。「今日はたかしとジャスコ行って服みて、マック行って、ゲームした。たかしがドンキー使ったら、勝手に自滅してめっちゃ笑った。寝る」みたいな記事書かれてもね。寝ろや!ってね。

あとこれはほんとに関係ないことなんですけど、良かったら、留学生活以外の記事もね、読んでくれたらな、なんてね。。宣伝です。色んなテーマで記事書いているんで、テーマでカテゴリー検索してくれたら嬉しいです。映画のレビューみたいなことやってた時期もありましたね。全然もうやる気しないですけど。

ただ、まあ、本当に無責任なことに、何も推敲せずいつも一息で書ききるので、それなりにぼろがでてきてしまいます。なので、前回の記事に少し、補足といいますか、コメント欄でも指摘あったので訂正させてください。

お金が無くて留学いけない人もいる、っていう観点は確かにスルーしてました。多分そういう人が読んだら気分悪いですよね。すみません。でもそういう意味で書いたわけではないです。そう読み取れるってだけで、僕のミスなんですが。僕は多くの学生に留学を志してほしい、と書きました。つまりそういうことです。金銭面のような現実的な話ははなからするつもりはなく、あくまで視点の話です。あの記事読んで、留学行ってみようかな、と思ってくれる人が生まれるのが僕の一番の思いです。それに一年間とかの結構重めな留学をすすめてるわけでもないです。一ヶ月くらいの留学でも、「英語は完璧じゃなくても伝わるんだ」ということを身をもって実感できるのに十分な期間だと思います。
これね、実感するのと、知識として知ってるのじゃほんとに月とスッポンくらい違うんですよ。はい、松任谷由実とまずそうなウニくらい違うんですよね。
英語の先生とかよく同じ台詞いいますよね。でもそれだけじゃだめだと思うんです。「へ~」みたいなこと思いますけど、実際に体験する環境がほぼ無いですし、あったとしても日本人同士のなれ合いだったり、ALTの先生がめっちゃベラベラ喋るなか、学生全員だんまりみたいな授業じゃないですか。
留学したら全然違います。はっきり言って僕はうんざりしました。なんなら即帰国したいと思いました。つまりそれくらいメタメタにへこんだんです。自分の英語のできなさ具合に。でもね、なんだかんだ一週間くらいたつと、皆とやんわり友だちみたいな感じになってくるんですよ。そのくらいの関係が築けるとね、まったく間違えを恐れなくなります。何回も言い直しますよね。汚い英語で。そんなんでも意外と、簡単に伝わったりするんですよね。「あ、伝わるんだ」っていう実感じゃないですか、大事なのは。それからですよね、「伝わればいいじゃん」って考えになったのは。しょうがないですよ。もし多少失礼な感じになっても。僕たちインターナショナルですからね。ボビーオロゴンみてくださいよ。あいつめっちゃ失礼でしょ?
でも、めっちゃ無口なボビーオロゴンの方が嫌じゃないですか?(なんなんこの話)
まあ、そういうことかな、とおもいます。笑
そんなことに気づくことができるのは、留学ならではだし、その分うんざりすることもたくさんありますけど、うんざりしないと気づけないこともたくさんあった気がしますしね。
そういう意味で、是非できるだけ多くの人に行ってもらいたいなと思いました。ということです。一ヶ月でも全然いいと思います。それなら金銭面でも多少楽になりますからね。

続いて、日本の英語教師について書いたことについて補足。というか謝罪ですかね。なんなんですかね、あの文。見返したら、ほぼDisってる域にはいってますよね。違うんですよ。違うんです。なんか変に僕がイキっちゃったんですよ。「俺が書かなかったら誰が書くねん!」ぐらいの勢いで。ほら、僕自身が英語教師目指してるわけですから、ついあのぐらい書いても許されるかな、ぐらいのね。すみませんでした。
ただ単に、いまの日本の環境だとちょっとスピーキングの授業とかやるのしんどいんじゃないの?ってこと言いたかっただけです。たしかにもうちょい言い方ありますよね。
僕自体ももっとカリキュラムのこと良く知って、なんとか、なんとか、英語教育もっとうまい方向にもっていけたらな、と思っています。

そんな感じです。それでも多くの人が共感してくださってほんとに嬉しかったです。これからもちょくちょく書くので読んでくれたら嬉しいです。


さて、話は変わって、もうすぐ10日間の休みが始まります。語学学校の第一タームみたいなのが終わるんですね。第二タームが始まるまでのちょっとした休みってことです。
いや~、ディズニーランドとかね、ニューヨークとかいろいろね。せっかくの休みなんで、なんなら観光ぐらいのことだってしたっていいわけじゃないですか。もう飛行機もとってありますしね。ちなみに2席です。彼女ができたんでね。まあ、いつも通り全部嘘ですけどね

本当は何も予定ないです。もしかしたら、サイクリングいくかもしれません。それはめっちゃ楽しみです。サイクリング好きなんでね。あとは何しよっかな~~~~~~~なんて考えています。周りの人は、それこそ、ほんとにディズニーとかNYとかシカゴとか行くんですよ!!まじで!!この10日間はFacebookをアンインストールしておこうと半ば本気で考えております。

まあ、いつも通り、本読んだり映画みたり、ですかね。
あとは英検の勉強ちゃんとしようって感じです。受験生くらい勉強したら100時間くらい詰めれるんでね。絶対しないですけど。英検についてはまた書きたいと思います。

ではでは。今回はこんな感じのゆるい文体で書きました。学校いきたくありません。(にっこり)

別にこのブログを週に一回更新しなくてはいけないという義務もないのだが、不思議とこのぐらいのスパンでブログを書きたくなるのだ。それにね、全く新しい環境で生活をしてれば、一週間も経つとネタも増えてくるものなのだ。この一週間に関してもとても充実していて、鬼のように楽しかった。だけれど残念なことに、「僕がひょんなことから、本場アメリカのマクドナルドで一日限定で店員として働いて、お客さんにコーラをぶちまけた話」や、「パツキンのチャンネーをバーでひっかけたらサクッとしっぽりいけちゃった話」は今回の記事では一切語らない
「野球のボールが急に飛んできたものの、天才的な反射神経でそれをキャッチしたところ、周りのギャラリーから、『イチロー』コールが鳴り止まなかった話」も今回はおあずけだ。もちろんこれらの話は全部嘘だからだ

今回の記事ではタイトル通り、日本の英語教育について語る。できれば僕が英語教師になることを目指している前提も加味してもらえると嬉しい。わりに英語教育について考える機会が多い環境なのだ。
これから語ることは僕の今のところの私見である。まだ1ヶ月とちょっとしか経ってないために、この考えがまったく正反対の方向に変わることも考えられる。ただ、今の段階で言えることは、「日本の英語教育はやっぱしょうもない」ってことだ。

「知ってた」。そんな声が聞こえてきそうだ。高校を卒業すれば一般的な学生は最低でも英語を6年間学習したことになる。大学に入ってTOEICや英検の資格を取ろうと思えば、さらにその期間は伸びることになる。中にはその学習期間を十分に活かして英語をコミュニケーションツールとして使えるようになるまで上達する人もいるだろう。だけれど、英検準一級を持ちながら、注文のプロセスを恐れて、約三週間サブウェイ(in America)を敬遠し続けた男がいることもまた事実である。僕の話である
やっとこさ、買い物を臆することなくできるようになったのも、つい最近の話で、最初の頃は「How are you?」でさえも勘弁してくれと思っていたほどだ。クエスチョンマークがお尻につくことはそれすなわち、答える義務が発生することになる。その瞬間、日本人の得意技「愛想笑い」が禁じられる。頼むから何も僕に問わないでくれ、そう思った時期も留学期間中、少なからずあったことは事実だ。

どうしてこの記事をこのタイミングで書くかといえば、僕自身がこの生活に安定し、慣れたことが大いに要因としてある。日本の英語教育について生意気にもの申すぐらいの余裕が生まれたということだ。とはいうものの、今回の記事のメインポイントは決して日本の英語教育を否定するものではない。僕の焦点は、多くの日本の学生に留学を志すようになって欲しい、というところにある

たしかに、この留学を通して、やはり「日本の英語教育はしょうもない」という感想が生まれたのは事実である。いや、はなからそのことには気づいていた。日本にいても、英語を話す機会はあったわけで、その度に、「なんであんなに英語勉強したのに、こんなに喋られんのじゃ」と首を傾げることも何度もあったからだ。
その原因の多くは日本の英語教育の目指す方向性にあったのだろうと僕は考える。文科省が何をつべこべ言おうが、今の英語教育が目指す方向性と、僕たち学生が英語教育に期待する物とは、明らかに月とスッポンほどの違いがある。いや、魔女の宅急便と謎の卓球部員くらい違う。
先ほど、僕は日本の英語教育を否定したいわけではない、といった。それにはこういう訳がある。日本の英語教育のおかげで僕らは結構リーディングとグラマーは上手だよね。これは僕が語学学校に通って結構思ったことで、語学学校の10段階の内、ほとんどの日本人はレベル7以上に割り当てられている。周りのインターナショナルたちと比べても、日本人はリーディングとグラマーは良く出来ている印象がある。
「当たり前だ」
という人もいるかもしれない。だけれどその当たり前の考えこそが大事なところである。リーディングが上手であることに僕たちは自信と喜びを持つべきである。たった6年間の英語学習で、ハリーポッターくらいの洋書ならなんとか読めるようになるというのは、なかなか素晴らしいことではないか?だって俺たち、ゼロから英語を学んでるんだぜ。

ただ、僕たちが英語教育に期待しているのは、コミュニケーションツールとしての英語である。皆が英語を聞けるようになりたい、話せるようになりたい、と思っている。そして、残念ながら、いまの英語教育だけではその期待に答えることはかなり厳しいように僕は感じる。前述したように、英語教育カリキュラムと僕たちの期待には乖離があるからだ。今の英語教育はリーディングをがっつり伸ばすことはできても、スピーキング能力を伸ばすことはあまりに不都合である。

第一に、英語教師が9割素人だからだ。これはなかなか挑戦的な文句だが、まあ聞いてほしい。今の英語教師の何割がネイティブだ?帰国子女だ?ほとんどの英語教師が僕たちと同じ、義務教育から英語を始めた組じゃないか。言ってしまえば、彼らが知ってる知識は全て知ったかぶりだ。よく考えればそうだ。今の日本の英語教育は知ったかぶりで成り立っている。よくできた伝言ゲームである。参考書で学んだ知識を、英語教師は知ったかぶりで、生徒に伝えていく。その繰り返しである。何が悪いというわけではない。その知識は決して間違いではないのだから。だけれど、彼らと、自分の実体験から英語を語れるネイティブたちとは雲泥の差があることはわかるだろうか。

第二に、リーディング、グラマーに重きを置いた英語教育の弊害である。それは、僕たちが英語完璧主義になってしまうということだ。文法で頭でっかちになり、完璧に推敲されつくした立派な文献を読むことによって、僕らの英語に対する印象は、「文法間違っちゃいかん。文法間違ったら外人に伝わらん」になりがちである。実際に英語を話す機会があまりに用意されていないために、僕たちは「英語は文法間違っていても伝わるのだ」という事実を学ぶことはできない。
ここで一つ例をあげたいと思う。
「吾輩は猫である」という有名な台詞がある。「こころ」であの泥沼三角関係を描いたことで知られるあの作者の本からの抜粋である。
この台詞、「猫。我輩」とだけ言われたとしよう。いや、そう聞き取れたとしよう。
だけれど僕たちはそれが何を意味しているのか推測できるよね?「ああ、この人もしかしたら吾輩は猫であるって言ってるのかな」と。
たしかに、「猫。我輩」は文法がめちゃくちゃである。主語も動詞も順序もぶっ飛んでいる。だけれど僕らには伝わる。なぜかといえば、「猫」「我輩」という単語が聞こえたからだ。これは僕が留学中に身をもって感じた事実なのだが、単語が持つ情報量は文法が織りなす情報量よりはるかに多い、ということだ。もちろん、文法も合っている方が望ましいが、必要な単語さえ言葉に出してしまえば、伝わるのだ。
昨日だって僕はイアン君に、買ったスウェットが10日間で股が破けた話をした。
そのとき僕はこう言った。
ヘイ、イアン、リッスン。マイスウェット、ディスパート(この部分)、ブレーク!!フォア10デイズ!!
はっきり言ってファッキングラマーである。アメリカの空を飛ぶ鳥の方がまたまともな英語を喋りそうだ。
だけれど、イアンからこう返ってくる。
「ワオ!!10デイズ!!What'ワーユードューイング!?ウォーキング??」
伝わっている。
「ノーノーノー。ジャストsit。オーマイゴッシュ!!」と僕は言った。

これでいいのだ。
いったい「なにボンのパパ」だろうか。これでいいのだ。伝わるんだから。それで笑いが生まれているのだから。どっかの歌手が「きっと世界の共通言語は英語じゃなくて笑顔だと思う」とか言っていたけど、まあ綺麗すぎて癪に触る歌詞だけれど、その通りじゃないかと思う。

そして非常に残念なことに、いまの日本の英語教育ではこの環境を造り出すことは非常に難しい。これについて語ろうと思えば、あと一万字くらいは書けそうなほど、いまの英語教師に求められるハードルは大変なことになっている。この環境を変えようと思えば、ほんの二、三年では不可能だ。カリキュラムを変えれば、教師が変わらなくてはならない。そして試験を変えなくてはならない。入試試験全体を巻き込むほどの大きな出来事である。その試験システムにも無理がある。一体マーク式テストの力を借りずしてどうやって何万人もの英語能力を確かめればいいのだ。

はっきり言って無理。白旗ブンブン丸である

だからこそ、主張。僕たちが英語に期待しているものをかなえる一番手っ取り早い方法は留学なのだ。話す機会、聞く機会が泡のように溢れている。
ただし、過剰な期待はしてはいけない。「一年いたらネィティブみたいに喋れるようになる」そんなんはっきり言って嘘だ。でっち上げだ。勘弁してほしい。

いいかい。「ジャングリッシュ(Janglish)」で構わない。美味い英語である必要はない。
日本の学生が留学することにおいて、一番学ぶべきことは、「英語」ではなく、「下手な英語でも、伝わるんだ」ということなのだ。その事実に気づくことが留学だ。そして、それに気づくことができれば、文法完璧主義からも抜け出すことができ、より英語の能力は伸び、結果的に「ネイティブ並の英語」に近づくことができるのだと思う。

というわけでここまで猛烈に一息で書ききったわけだが、僕の現段階での考えはうまく表すことができたと思う。「日本の英語教育では限界があるから、それ以上のものを学びたければ、今の時点では留学が手っ取り早い。そうすれば、今の日本の学生に一番足りない大事な事実に気づくことができる」これが簡潔な僕の主張だ。

さあ。きっとこのブログ史上最長の記事になったかと思う。
ここまで読んでくれた方ははたして存在するのだろうか。もし何かあったら反応くれたらシッポを振って口から泡を吹きながら喜びます。
人を見た目で判断してはいけない。

もし100人中100人が「あいつの名前はボブだろう」と思うほどに僕がボブの顔をしていたとしても、僕の名前はボブではないし、僕の母国語は日本語である。
僕が筋骨隆々でたくましい胸板を持ち、タンクトップを着こなし、チリチリの髪の毛で、右肩にラジカセを背負って歩いていたとしても、決して僕の名前はボブではない
つまりはそういうことだ。

なんとも興味深いことに、僕の留学先の大学では、日本語を喋る外国人が結構いる。もちろん僕が日本人文化交流サークル、みたいなところに所属しているからなのだけれど。
彼らは明らかにトニーっていう顔をしているし、クリスって顔をしている。だけれど口を開けばペラペラと日本語を喋ってしまう。もちろん母国語は英語だ。

僕は今、そういう人たちに大いに助けられて生きている。
買い物に一緒に行ったり、宅飲みをしたり。

僕が彼らと会話をするときは基本的には英語だ。だから当然、うまく伝わらないこともある。
普通ならば、それで終わりだ。「はぁ?」って顔をされて終わりだ。(トラウマに近いものがある)
だけれど、彼らは違う。なぜなら日本語がわかるから。僕がサル並みの英語でぐだぐだやっていると、なんとかジェスチャーで感じ取ってくれて、「あ~ソバのことね」とガチの日本語で伝わってくれる。
これほど会話していて心強い外国人はいない。
困ったときのライフラインが用意されている。

それに彼らと会話していて、一番嬉しいことは、スラングを学べるということだ。
shit だとか suck だとか fuckだとか、まああんまり大きな声で言わない方がいいような言葉のことだ。だけれど、若者たちの間ではそんな言葉が結構な頻度で飛び交うし、スラングこそネイティブの証、みたいなところもあるのはまた事実。
彼らはスラングをしっかりと日本語に置き換えて説明してくれる。

「あ~それは、うんこ、ってことね」

「suckってなに?」って英語で聞いたら、「サイテーって意味」とガチの日本語で返ってくる。

そういえばクリスが「マクドナルドは、うんこ」と言ってたのを思い出した。

彼らの中には村上春樹が好きな奴もいて、めちゃめちゃ感動したのを覚えている。村上春樹に感謝である。村上春樹が僕らの間に共通の話題を造り出したのだから。

彼らも日本語を勉強していて、僕らは英語を勉強している。
つまり、僕らが会話することはこれ以上ない相乗効果を生むのだ。

彼らは本当にいかにも英語しか喋れないような顔をして、ペラペラと日本語を話しだす。本当に人は見た目で判断してはいけない。いいかい、アメリカではそれはナンセンスなんだ。

時間は果たして本当に有限なのだろうか、と思わず首を傾げてしまうほどに、このオハイオ州ケントではゆったりと時が流れる。一応今は火曜日になった瞬間ぐらいの時間なのだけれど、僕のまぶたは未だに閉じる気配をみせないし、隣の部屋のサウジ三人組の宴会もまさに今からピークを迎えるといった感じである。いいかい、レオパレスどころの騒ぎじゃないんだ。完全に音節が識別できるほどに、彼らのアラビア語が明確に聞こえてくる。第一に、なぜアラビア語かと確信をもっていえるかというと、壁に近づけて録音した動画をオーマーに聞かせて判明したことだからだ。もう一度いう。レオパレスどころの騒ぎじゃないんだ

とはいえ、僕はこの自分の部屋が結構気に入っている。キッチンが無いのは非常にうんざりするポイントではあるけれど、それでもその分、東京で一人暮らししていた時の部屋に比べれば、幾分か広くなった。テレビやゲームが無いからこれといった誘惑も無い。ただ、こうしてPCで何か物を書くか、本を読むか。アメリカの家ではそんな生活をしている。

決まった寝る時間というものは無い。眠くなった時間というのが、寝る時間だ。
決まった起きる時間というものも無い。自然と目覚めた時間というのが、僕の起きる時間だ。それでもだいたいは7時間くらいで自然と目覚めるものだ。どうせ同じ7時間の睡眠時間ならば、起こされるのではなく、自分で自然と起きたい、それが一番健康的だろう。結構寝てしまったな、という日はそれだけ前日疲れていたんだな、と思うようにしている。

なぜこんな生活が可能なのかといえば、単純な話、授業の始まる時間が午後3時20分からだからだ。その時間から始まり、7時20分に終わる。50分授業が4つで構成されている。科目は、リーディング、グラマー、リスニング、ライティング。それぞれ担当の先生がやってきて、50分の授業をして帰る。
ところで、50分授業はなんて素晴らしいのだろうとつくづく思う。大学の90分制なんてものはきっと大学側の都合で決まったに違いないはずだ。教員の割当がうまくいかないからだとかそんな理由で。(それにしても駿台予備校はすごいね……)

僕が通う語学学校のことをESLとアルファベット三文字で表記する。これはEnglish as a Second Languageの略だとかそんな話はどうでもよく、僕ははっきり言ってこのESLが好きである。Superだと思っている。Goldenだ。Marvelousだ。まったくもってAwesomeである。

どの先生も最初の授業で「間違いを恥ずかしがるな。ここではどれほど間違えてもいい」と言ってくれた。

いまから話すことは留学を通して痛感したことなのだけれどね。
あくまで僕の私見だけど、英語力の優劣は人間関係に大きく関わってくる。同年代に限った話だが、英語ができる奴と、英語ができない奴が話せば、ほぼ間違いなく英語ができる奴の方が立場が上になってしまうのだ。英語が話せない側は、基本的に後手後手になってしまうからだ。思っていることがあってもうまく表現できないために。
まさか僕は留学を通してこれほど自分の英語力の無さにコンプレックスのようなものを抱くとは思ってもいなかった。いや、もうコンプレックスと言い切ってもいいだろう。相手が何を言ってるかよくわからんために、愛想笑いで乗り切るときほど、うんざりすることは無い。(愛想笑いというのはつまり大概にしてそういうことなのだと思う。)
19歳なのだけどめちゃめちゃ英語喋れる奴と行動するときなんか、その全てをリードされる。こいつは本当に年下なのかと思う。そして自分は本当に22歳なのかと思う。唯一僕が22歳だとなんとか自我を保てるのは立ち振る舞いにおいてのみである。この状況というのは実際に味わってみないことにはうまく言葉では伝わらないかもしれない。とにかく、惨めで情けない気分になる。英語がもっと喋れれば、絶対もっと仲良くなれるのに。
僕にだってユーモアのひとつやふたつくらい言える能力はあるのだ。だけれど、それが違う言語になると話はまったく別物、ということになるわけだ。

そんなこんなで、いまでこそまだ気分的にマシにはなったものの、ESL入りたての頃の僕の気分と言ったらそれはもう信じられないほどにマントルに向かって突っ走っていた。そんな気分の中、彼ら先生がかけてくれた、「間違いを恥ずかしがるな。ここではどれほど間違えてもいい」という言葉がどれほど当時の僕にとって救いになったことだろうか。
それからというもの、僕はESLでなるべく積極的に発言するように心がけて、なんだか本当に頭のおかしいことを喋っているような気がしていても、間違いを恐れず、英語を使ってみている。なにも恥ずかしくなんかない。周りもみんなめちゃくちゃなんだから。英語ができないのなんて、僕だけじゃないんだ。

これが僕がESLを好きな理由の一つ。ある意味、大学内で唯一ストレスを感じない場所である。それぐらい留学というのはストレスフルなのだよ。英語力というのは、ひとつの特技である。得意不得意の尺度が存在するからね。つまり、毎日毎日、自分は劣っているのだ、ということを実感させられるのだ。解釈次第だが、こんなに恐ろしい場所ってのはなかなか無い。

理由の二つ目は、これは僕特有のものだろう。
授業内容がめっちゃ参考になるのだ。本場の英語の授業、ということだ。
僕は将来的に英語の教員になって、生徒たちに英語を教えていくだろう。そうなったときに、このESLの授業ほど参考になる授業はないのだ。なぜならば、ESLの先生たちはプロ中のプロなのだから。
そういう面でいってしまえば、日本の英語の教員なんてほとんどはズブの素人なのかもしれない。だって、彼らが英語を教えるときの元の知識ってのは、ほとんどがまた聞きじゃないか。参考書に書いてあることを言う、なんてのもある種また聞きである。嘘を言っていたとしても、嘘を言ってることにすら気づけない。
それに対して、ESLの先生は、まさに実体験の言語だ。だから、説明もより実践的なものになるし、例文も一瞬で思いつくし、言葉の説明も完璧だ。
向こうの文法書も結構参考になることが多い。難しいことはいえないけれど、日本の文法書とはまるでアプローチが違う。

こういうわけで、僕はESLを楽しんでいる。
理由の二つ目に関しては、本当に僕は教員になりたいんだな、とか割と客観的に自分のことを見てしまった。半年でESLを卒業して、もう半年は正規の大学の授業をとれるみたいなのだけれど、別に一年間ずっとESLでも全然悪くないな、と結構本気で考えている。。。
札幌市南区 2万1000世帯に避難勧告
9月11日 3時28分

札幌市は土砂災害の危険が高まっているとして、札幌市南区の芸術の森と、石山、
藤野、それに簾舞の合わせて4つの地域の2万1000世帯4万5000人を対象に
避難勧告を出しました。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140911/j66149210000.html



これは僕の故郷の話だ。
まさか、自分が留学をしている間に、我がふるさとがこんなに大変なことになっているとは。
そしてよもやそれとほぼ同時に僕自身も留学先のアメリカでトルネード警報を受けるとは。

時刻は今日の午後五時頃に遡る。
いつも通り、陽気な外人ジェイソンの授業を受けていた矢先、突然、教室中にけたたましい音のサイレンが鳴り響いた。僕の隣に座っていたオーマーの携帯も、まるで日本でいう、緊急地震速報を受けたかのごとく、激しく不快な音を出して震えていた。

これが何の事態なのかがわかったのは、先生の言葉から『tornado』という単語が聞き取れた瞬間だった。
おいおい!!まじかよ?トルネード来たんかいな!!
と、一度はテンションが上がってみたものの、いまいちトルネードが何かよくわかっていなかった僕は、仏像のような顔をしたまま、状況が明らかになっていくのを待っていた。

教室内はお祭り騒ぎであった。
なにせ、警報が鳴った瞬間、僕たちは丁度テストを受けていたところだったのだから。当然、テストは中断し、教室の皆は、「BONUS!! BONUS!! BONUS!!」と大合唱。
ところで突然だが、僕はフアンという、中国人の女の子が結構好きだ。クラスの女子の中で唯一話す人なのだが、どう表現すべきか、彼女にはなんともいえない魅力があるのだ。つまりは、テスト中に堂々と携帯を出して単語の意味を調べたり、僕に問題の答えを聞いてきたり、さらには宿題をやってこなかったりする。そういう場合に僕と目が合ったときの『内緒だよ』と聞こえてきそうな、悪戯っ子特有の憎めない表情が僕はたまらなく気に入っている。もちろん恋愛的にどうだとかいう話では全くないのだが、オーマーに加え、彼女とわりかし仲良くできていることが結構嬉しかったりする。
いやはや、日本語というのは非常に便利である。 こんなこと普通は書けないからね。
話は戻るが、実はその「BONUS!!」の合唱の戦陣を切ったのは紛れもなく、フアンに他ならなかったのである。
さすが、奴だな。と一度は思ったものの、いくらなんでも常識的に考えてそんなことを先生に要求するのはいささか無礼ではなかろうか。僕だって塾講師をやっていたから先生の気持ちは少しくらいわかる。何時間も考えて、こんな問題を出したらどうだろう、と生徒のことを第一に思って一つのテストを作るのだ。そんなテストに対して、さらなる要求を出すだなんて、まったくもって考えられない。僕はそんな人間と仲良くしていくつもりはない。
というわけで、フアンが一声目を発したその直後には、僕も大声を出して『BONUS!! BONUS!! BONUS!!』と右手を高く天井に突き上げていた。「BONUS!! BONUS!! BONUS!!」 (というか、BONUSって何だ?)

結局のところテストは完全に中断され、回収。翌日に持ち越しとなった。そしてしてやったりのフアンの表情。最高だぜ。
とまあ、冗談はこのぐらいにしておいて、予定より二時間ほどはやく帰れることになり、ラッキーな気分で帰路につこうとしたのだが、どうやらアメリカのトルネードに対する感覚というのは、僕の感覚とは全く違うものらしい。

なにせ、僕はトルネードのことを台風のことだと思っていたのだから、もはや世紀末少年である。
トルネードは竜巻のことだ。台風ではない。 Wikipediaで調べたところ、結構な頻度でアメリカでは死者が出ているとのことだ。中でも、

2011年
4月14 - 16日、観測史上もっとも多い241の竜巻が14州で発生、45人が死亡した。サリー原子力発電所への電力供給が遮断され、原子炉2基が一時停止した(April 14–16, 2011 tornado outbreak)。
4月25 - 28日、アラバマ州を中心に米国の南部および東部の各州で425以上の竜巻が発生。5月4日現在、死者は少なくとも354人に達し1936年以来の大災害となった。ブラウンズフェリー原子力発電所が外部電源を喪失し、ディーゼル発電機により冷温停止した(April 25–28, 2011 tornado outbreak)[1]。
 (Wikipedia)

この2011年のトルネードは読むだけでことの重大さが伝わってくる。
無知は怖い。
結局、わりかし平気に家に帰ることができたのだが、ずっとサイレンは鳴りっぱなしなわけで、僕以外に外を歩いている人はほとんどいなかったし、それこそまるで、あのゲームの『サイレン』の世界に入り込んだ感覚である。おそらく、タイミングが良かっただけの話で、今となっては外は常に大雨が降り続いているし、トルネードそのものは見ることはなかったものの、やはり警報が鳴る当たり、それなりに死の危険性はあったのかな、と思っている。

つまりはこれが僕のトルネード初体験である。

そして同時期に僕のふるさとでは大洪水が発生。何万人もの人々に避難勧告。豊平川の恐ろしい反乱。

いったい僕になんの恨みがあるのだ。
もし僕がオセロの駒だったら、いったいどういうひっくり返り方をすればいい。

ともあれ、サイレンの鳴り響く中、オーマーが僕に向けて言ったひと言が今でも印象に残っている。
「今日は、僕がヒーローになる日だ」

帰るときに彼の姿を探したのだが見つからなかった。きっとヒーローになっているんだろう。うんうん。
別に僕だってあんなに暗い記事を書きたい訳じゃない。
そりゃいくらか留学に対して考えることはあるけれど、毎度のようにあんな暗い記事が続くようでは僕自身でさえこのブログのことが嫌いになりそうだ。というわけで、楽しい記事を書こう。

アメリカに留学して三週間が経った。学校が始まって二週間が経った。
今思い返せば恐ろしく早く時間が過ぎたように思える。どんなことがあったか思い出す作業だけでも半日はかかりそうなくらい、色んなことがあった。もちろんうんざりすることもあったけれど、相対して楽しい気分でこの三週間を過ごしてこれたように思う。

僕が通う学校というのはすなわち、語学学校のことである。
語学学校で行われる授業は全て英語についてだ。リーディング、ライティング、リスニング、グラマー。この四つの授業を受ける。そのため、生徒は全て、英語が第二言語である者が集まる。大体が、僕たち日本人、中国人、そしてサウジアラビア人でクラスは構成される。

今回はそのサウジアラビア人たちについて語る。
日本語というのはとても便利だ。誰にとっても、よくわからない日本人に「サウジアラビア人について語ろうと思う」と言われていい気分になる人はいないだろうからね。

もちろん、僕の知っているサウジアラビア人についてだ。
そう、オーマー君。(19歳)

彼とはグラマーの授業で仲良くなった。彼が教科書を忘れたから僕が見せてあげたのだ。それからというもの、彼は僕の隣の席に座るようになった。そしてつい最近僕たちは二人で映画を見にでかけた。ごく自然の流れだった。

彼はパイロットになりたい、という。18歳で単身アメリカに留学し、語学学校に通ってもうすぐ一年が経つ。いつも学校にはスケートボードに乗ってきて、首には必ず水色のヘッドホンをかけている。口髭がいつも綺麗にはえそろっている男である。ポロシャツが大好きな男だ。

そんな彼から影響を受けたこと。授業に対する積極性かな。
例えば、先生が答え合わせをするときに、「これわかる人?」とクラス全体に声をかけるときには必ずといっていいほど彼は手を挙げる。いや、むしろ半ばクイ気味に。手を挙げるより先に声が出てることの方が多いくらいだ。そして見事間違える
または、先生が一通り解説が終わったあとに、「何か質問ある人?」とクラス全体に声をかける。
日本ではこのフレーズほど儀式的なものはない
「何か質問ある人?」というフレーズは日本では実質的にほとんど意味をなさない。むしろ、先に進むよ、という合図に他ならない。なぜならば、誰も手を挙げないからだ。教師自体も、生徒の方を見向きもしない場合だってある。
それに対して、オーマーは結構な頻度で質問をする。僕にはなぜ彼がそんなことで疑問に思うのかわからないことの方が多いのだが、質問をすること自体、ある意味僕より理解度が高いような気がしてならない。

実のところ、これまで述べてきた出来事は、オーマーだけに限らず、クラスにいる他のサウジアラビア人にも当てはまることだ。僕のクラスでは、日本人中国人は沈黙し、サウジアラビアの独特のイントネーションが支配する。
サウジアラビア人が積極的だ、といいきるには、もちろんサンプルが少ないのだけれど、それでも彼らは僕らと明らかに授業に対する姿勢が違う。先生と積極的にやりとりをするし、ずばずばっと物事を述べる。それが正解であろうと、不正解であろうと。

なんだか見習わなきゃいけないな、と思い、せめてアジア人の中では一番発言できるやつになろうと、思っている僕である。

ただ、なかなか不思議なやつであることも確かである。オーマー君。
彼と映画に行ったのは彼が誘ってくれたからだ。
見始めるとき彼は、僕にこういった。
「間違いなく面白いよこれ」

そして、約二時間の映画が終わり、エンドロールが流れた瞬間、彼は僕に向かって
boring. (退屈だね)
と言ってのけた。
その潔さに僕は思わず爆笑してしまった。その後も彼はニコニコしながらboring boring boring ♩とつぶやいていた。

彼が自国の宗教的な話をしているときのことだ。あまり詳しくは知らないけれど、なんだかサウジアラビアの女性は婚前交渉がだめだとか、なんかそんな話をしてきて、結婚した夫の前でしか、露出することができないそうな、なんだか、大変だな~と思って聞いていたその瞬間、
Oh, She is very beautiful. (あの子めっちゃかわいい)」
とオーマーが見た先にはパイオツカイデーのパツキンのチャンネーがいたのであった。
とんだ思春期野郎である。

ともすれば、今日ふと彼の姿を見たのだが、彼は「プレイルーム」と言われるお祈り専用の部屋でしっかりと目を閉じて、お祈りをしていた。
僕はまったく宗教的なものは無いから、やはり本気で信じているひとは本気で信じているんだな、と半ばアホなことを感じてしまった。世界は本当に広くて、色んな国の人がいるのだな、と思ったり。

それでも数少ない友だちができたことは僕にとってとても嬉しいことだったし、これからも彼と仲良く付き合っていけたらいいな、と思う。話す言語が英語なために、全然面白い会話が出来ないのがとても悔しいのだが、それでも彼といると楽しい。
とりわけ、僕はそんな感じで外国人と付き合っている、ということでした。おやすみ。
僕はこのブログで自身の留学生活について書く。
もちろんそれは、人によってはふとした瞬間に切れる単四電池ほどに興味が無いことなのかもしれないけれど、単四電池にも小さいながらそれなりの存在価値はあるのだ。僕が日本から唯一持ってきた電池だって単四電池だ。テレビのリモコンにだって使える。それにしてもリモコンの電池はいつ切れるのだろうか?ずっと微力な電力を放出し続け、リモコンの中にあり続ける単四電池の人生というのは果たして充実しているといえるのだろうか。爆発的なエネルギーを放出し、一瞬にして寿命を終える電池とどちらが幸せなのだろう。もちろんそんなことは誰にも決めることはできない。結局のところ、世界には人々の様々な価値観で溢れている。

確かに僕はアメリカに留学をしている。見ての通りだ。日本中のどこを探しても僕はそこにはいない。大学の図書館、ファミレス、マクドナルド、池袋、札幌。どこを探しても誰も僕を見つけることはできないはずだ。とはいえ、僕はこうしてブログを更新しているわけだし、生きている。決して日本にいないからといって僕が死んだわけではない。
何がいいたいかといえば、何も留学することがそんなに特別なことではないということだ。
これは僕の個人的な感覚である。
正直なところ、僕は留学先でも何も変わらず生きている。心踊るほどに楽しいこともあれば、半日ほどベッドで寝転がりたいほどにうんざりすることもある。こちらでも学校には通ってるし、一日に何章かは必ず本を読む。相変わらず一日二食生活だし、夜は深夜三時に寝て、朝は十時前に自然と起きる。もちろんアラームは付けていない。(ちなみに学校はお昼から)
この部分だけ見れば、僕は日本にいるのか、アメリカにいるのか、まったくわかったもんじゃない。
たまたま、おととい、ナイアガラの滝を見て、水しぶきを頭から浴び、昨日は19歳のサウジアラビア出身のオーマー君と恐ろしくつまらない映画を見て、しまいにはお昼ご飯をおごってもらっただけである。
ただ、それが何も特別なことをしているという自覚は僕にはほとんどない。

つまりはナイアガラの滝を見に行くのだって、たまたま今僕がアメリカにいたからであって、日本の華厳の滝に見に行くことと何も変わらない感覚なのだ。年下に千円近くおごってもらうというのはたしかになかなか無い状況ではあるけれど、まあ、彼が単純に金持ちだったのだ。(結構びっくりした)

留学をするということで、初めのうち、とても大きなものが僕を縛り付けようとした。
それはうまく言葉では説明しきれないほどに大きなものだった。今でもそのことがたまに頭をよぎるし、肩に力が入る。だけれど、僕はどうも束縛されることに向いてないみたいだった。

声を大にしては言いにくいことだけれど、学生のほとんどが留学という、とてつもないプレッシャーに押しつぶされているように僕にはみえる。
もちろんそれが悪いといいたいわけではない。単純にそういうことが僕には向いていないだけなのだ。
英語を話さなくてはならない、だとか、一年間でペラペラになって帰ってこなくちゃ、だとか、ずっと外国人と一緒にいて会話の練習しよう!お金めっちゃかかってるしな~、とかそういう考えははっきり言ってとてもうんざりすることなのだ。

僕みたいにこんなことを言うことはもしかしたらとてつもなく贅沢なことなのかもしれない。「留学行きたくても行けない人もいるんだぞ!!」と僕にくってかかる人もいるかもしれない。

じゃあ、「留学するって何だ?」と僕は問う。

もちろん答えは無い。単四電池と同じだ。単四電池の生き方の善し悪しなど誰にも決められない。

だからこそ、僕はそのプレッシャーに対して強く抵抗しているのだ。

ここだけは誤解してほしくないことなのだけどね、
僕は、留学生の生き方に対して、自分のやり方を強く主張しているわけではないのだ。よくわからない外国人と積極的に話すわけでもないし、クラスでも友だちはオーマー君一人だ。学校の時間以外には基本的には本を読むか、寝転がるかだし、黒人のノリに合わせることなんて正直ごめんである。
そうではないのだ。
プレッシャーの存在に対して僕は怒っているのだ。

留学生のほとんどが一度はそのプレッシャーに苦しむ。そんなふざけたプレッシャーなど無くていい。留学することで生まれるノルマなんてものは無い。
もちろん僕は留学先で怠けることをおすすめしているわけではない。(もちろんわかってもらえるだろうけれど。)
ただ、今このテーマを扱うには僕の言葉が足りなすぎる気がする。今の段階では僕の言葉では、「そういうことじゃないんだ」と言うことしかできないみたいだ。

「そうなんだよ。そういうことじゃないんだよ。プレッシャーを生み出す人よ、そういうことじゃないんだ。プレッシャーなんてものはないし、造り出す必要もないんだ。留学して、皆同じような人間になって帰ってきたら気持ち悪くないか?だからといって留学先で自由に生きろってわけでもないんだけどさ。なんとかわかってくれるだろうか。そういうことじゃないんだ」
留学して一週間、はやいものである。まるで『急行、渋谷・横浜方面、副都心線・東横線・みなとみらい線直通の、元町・中華街行』に乗っているかのごとく日常が過ぎていく。もとはといえば、8月17日午前9時(日本時間)に出発し、8月17日午前9時(シカゴ空港)に着く時点から時空が歪んでいるのだから致し方ないことなのかもしれないが。
それでもなお、このスピードは収まるところをしらない。なぜかといえば、明日からついに授業が始まるからだ。語学学校という名のグローバル社会。そういえば、どこかの大手IT系会社が社内英語を義務化したとかしないとかで話題になったが、そこの会社では英語はたしかにそれなりに使われるものの、「ここからは大事なお話なので、日本語で話させていただきます」というフレーズが多用されるというらしいからなかなか滑稽である。もちろん僕が挑む場所はそんな逃げが存在するところでもなく、その話がどんなに大切であろうが、下らなかろうが、英語を使わざるを得ない。

この一週間、それなりに濃いものがあった。まずは部屋づくりである。アパートに住む、ということで、入ってすぐの部屋の状態は、まさに『どうぶつの森』の初期部屋である。その状態からいろいろと家具を揃える必要がある。ところがこの町は、異様に広く、歩けど歩けど、一向にそれらしき店は見当たらない。結局50分ほど歩いたところで、スーパーを見つけ、商品を手に入れる。会計はクレジットカードで払うつもりだったが、これもまた通せど通せど、一向に通じない。目の前の白人の店員姉ちゃんはほぼブチギレ状態である。最終的に現金で払うことにしたのだが、何故払えなかったのかが後に判明。僕が使っていたクレジットカードは天下のJCBだったのである。(JCBのJがなんのJなのかはお察し)
一応、マスターカードと、VISAも持ってきているので、今では会計は手慣れたものだが、あのときの白人姉ちゃんの顔はいまでも忘れぬ。

そうなのだ。基本的に白人姉ちゃんは怖い。まさか年下だとは信じられない。こないだも、白人姉ちゃんが僕のテーブルのところに荷物を置いてなんだかよくわからない言葉を投げかけてきたのだが、姉ちゃんのジェスチャーからして、『やあ、これあんたのもんかい?』と言われていると思い込んだ僕は、『NO(違うよ)』と言ったところ、これまたほぼブチギレ状態の顔プラス、両手をふり上げ、天井を見上げ、『わけわかんねーよ』ぐらいのジェスチャーをされたのである。僕はそれにいささか辟易してしまって、なぜこんな国籍が違うだけの年下姉ちゃんに、絨毯にこぼした牛乳をみるような目で見られなければならないのだろう?と小一時間考え込んだところ、あの姉ちゃんは単に、『ここにちょっと荷物置かせてもらっていい?』と言っていたことが判明した。それに僕は『あ、ごめん、無理』と日本でも一回もやったことない返答をしたのだから彼女のジェスチャーも納得である。それにしても英語が聞き取れないというのはいかに不便か、そして不利か、といったエピソードであった。

それでも僕たちは英語力を伸ばして、彼らと対等に立ち向かわなくてはならないのだ。明日から語学学校に通うため、そこにはネイティブたちはいないが、いずれはステージアップして、本場の英語に触れていくのが望ましいだろう。

僕が通う語学学校には多くの日本人が通う。少なくとも30人ほどは。そして僕はこの一週間でその多くの人たちと友だちになった。夜ご飯を一緒に食べたり、買い物を一緒にしたり。こんな異国の地で同じ日本人というだけで、お互いに素晴らしく通じ合うものがあるのだ。まるで、クラス替えのときの自己紹介で30人全員が誕生日と血液型が一緒であることと同じくらい、外国で日本人と話すことは嬉しいものである。
もちろん僕らは語学学校に通う訳で、英語を学びに来ている。
だけど、だからといって、僕らの交友関係を敬遠していく必要はまるでない、と僕は個人的に考えている。もしかしたら、日本人同士でさえも英語を使って話すべきだ、と考える人もいるかもしれない。だけれど、それはあくまで、日本人の他に外国人がいた場合の共通言語として英語を使うときの話であって、日本人同士だけであるならば、存分と日本語を使えばいいのだと思う。
たしかに、外国人の友だちができれば、語学力は伸びていくだろう。
だけれど、これだけは大事に心にとどめておきたいのは、決して彼らは僕らの道具ではないということだ。留学を機に、外人の友だちをたくさん作って、英語が話せるようになりたい、と思っている人はたくさんいるだろう。ただ、そのニュアンスを少しでも間違えてはならない。自身の英語力を高めるために、会話に付き合わされている彼らに失礼である。国籍は変われど、人対人ではないか。言語は変われど人対人ではないか。だからこそ僕は日本人であっても、人として向き合いたいし、外国人に対しても人として向き合いたい。そんな姿勢を持つことは、果たして留学生として間違っている姿勢だろうか。僕はそう思わないのだ。