現在、語学学校の休みが始まってから丁度半分が過ぎたところである。高校生時代に戻ったかのように毎日あくせくして通っていた。自分の大学生活を振り返ってみると、日本の大学生はなんとも楽なものだなとため息を漏らさざるを得ない。ただ、僕は留学しているからといって、日本の大学がアメリカに比べてどう駄目だとか論じ始めるタイプの人間ではない。結局は日本の大学に帰るのだ。僕自体が何を思っても残念ながら何も変わらない。
アメリカの大学では、全ての授業が英語で行われることはもちろん、学生の意欲がとてつもなく高い。皆、毎日のように図書館に通いつめ、宿題をこなす。プレゼンの準備もこなす。うんざりするほど大変な時期もあるようだ。しかしながら、彼らはその対価として、高尚な知識と、非常な充実感を得るのだ。そして彼らは僕に「日本の大学はクソだよ。せっかく勉強しに大学入ってるんだから勉強しなくちゃ」と言って、スターバックスのコーヒーを僕にすすめたが、もちろん嫌だった。僕は怒って、目の前にあるベンティスターバックスラテを右手で払いのけ、その状況に驚きを隠せずにいる周りの客、一人ひとりの口いっぱいにスコーンを詰め込んで回った、というのはまったくの嘘だが、はっきり言って僕は日本の大学のシステムで全く構わないと思っている。
勉強したくない、というわけではない。正直なところ、僕は日本では模範的な文学部生であった。もちろん、あくまで僕の周りと比べれば、という範囲の話だけれど。
単純に宿題が嫌いなのかもしれない。なにせ、こちらの大学では、みんな「カダイカダイカダイ」と呟きながら歩き回り、人とすれ違った瞬間に「プレゼン」と言わなくてはいけない遊びが流行っていて、もし言い損ねた場合には、常時携帯しているピザを顔面めがけて投げられるのだ。
日本では、たしかに卒業するのはおそろしく楽に感じるし、場合によってはいくらでも大学生活を崩壊させるチャンスはあるわけだけれど、その反面、自分の好きな勉強を好きなだけできるといったメリットもある。やれと言われてやる勉強より、自らすすんでやりたい勉強の方が楽しいということだ。それが僕のライフスタイルである。福沢諭吉が予言し、僕が固めた。
そういうわけでこの10日間の休日というのは僕にとって福音をもたらすものであった。
ところで話は変わり、なぜ英語が喋れないのか、の原因について最近僕はひとつの結論を下した。気を使うからだ。結局のところ、気をつかうから英語がうまく喋られないのだと思った。
というのも、僕自身とても不思議だと感じていたことなのだが、英語のスピーキング能力にムラが出始めたのだ。ずいぶん調子良く喋れるな、というときと、僕の変わりにおもちゃのファービーでも用意した方がまだマシなのではないだろうかとまで思うほど喋れないときがあるのだ。「ファー…ブルスコ…ファー…ブルスコ…ファ-」
例えば、初めましてのときなんか、全くと言っていいほど何を話したらいいかわからない。ましてや、日本語が喋れるもの同士でも、そういう事態は度々生じるではないか。日本でできないことが海外で簡単にできるわけない、というのが僕の留学におけるひとつのポリシーでもある。頭山満が餅をつき、北一輝がこね、僕が食べた。
または、ネイティブばりに英語が喋れる集団の中に取り込まれて、その中で一声を発するのはなかなか勇気のいることである。「俺らのスムーズな会話に変な英語でわりこむなよ」みたいな感じで場の空気が止まることを恐れてしまうのだ。結局そんなときはだんまりしがちである。
ところが、何回か顔を合わせて、お互いの緊張感がとれた頃合いになると、不思議と英語が喋れるようになる。もちろんそれは拙い英語である。だけれど何度も繰り返し言っていることだが、英語は伝われば勝ちだ。それでいいのだ。何回か言い直したとしても、伝わればそれでいいのだ。英語が喋れないとは、言い直す段階にすら至らないことをいうのだ。こいつと話すときはどれだけ変な英語を使ったとしても大丈夫だという自信が、関係を培えば培うほど強固なものになっていく。
こんな風に英語が喋れるときと、まったく喋れないときがあることに気づいて、そのムラは何が原因で生じているのだろうか、と考えたところ、やっぱり気を使っているかどうかにすぎないのだと気づいた。僕の今のところの結論である。
英語が喋れないのは、決して文法とかの英語的知識が多くの原因を占めているわけではないと思う。そのほとんどがメンタル的なもので、間違いを恐れるこころから生じているものだと思う。だからこそ、間違いをしてもいいんだ、と気を許せるような相手だと、心置きなく変な英語を使える、なんだかそんな気分である。
そういうわけで、僕は留学だからといって、むやみやたらに外国人に喋る、というのはあまり好きではなかったのだ。どうも彼らを道具のように利用しているような感じがして嫌いだったのだ。別にそんなに焦らずとも、いい関係の友人ができるタイミングは必ずやってくる。それは自らつかんだ物でも、向こうからやってきたわけでもなく、とても自然に生じるものだった。そしてそれは僕らが学生時代に出会ってきた友人たちとの出会い方とまったく同じだったのではないだろうか。四月にスパートをかけて、なんだか変な距離感の友人を大量生産して困ってしまうことがあったはずだ。結局、実際に仲良くなる友人というのはなんだか自然な出会いで自然に仲良くなっていたように思う。どうして留学だからといって特別なことをしなくてはいけないのだろう?と僕は周りからの変な圧力に当初から抵抗し続けていた。これはもちろん今だからこそ言えることのように感じる。
もしこれから留学を志す学生が僕の記事を読んでくれているのなら、僕の主張は常に「まあ、そんなに気にすんなよ」という点で一貫している。これほどまでにそのことに一貫しているものは高田純次と僕の記事くらいのものである。留学という奇妙な状況は人を簡単に変えてしまいがちである。僕はそのことが結構怖かったりする。どの学生も変なプレッシャーに一度は悩まされる。僕はそんなときに、ブログを読んでくれて、少し気が楽になってくれたらな、という思いである。まあ、そのプレッシャーをモチベーションとして働かせる人には無縁なのかもしれないけれど。
最後に、「まあ、そんなに気にすんなよ」という僕の思いは当然のことながら、僕が提唱し、僕が形にしたものである。
アメリカの大学では、全ての授業が英語で行われることはもちろん、学生の意欲がとてつもなく高い。皆、毎日のように図書館に通いつめ、宿題をこなす。プレゼンの準備もこなす。うんざりするほど大変な時期もあるようだ。しかしながら、彼らはその対価として、高尚な知識と、非常な充実感を得るのだ。そして彼らは僕に「日本の大学はクソだよ。せっかく勉強しに大学入ってるんだから勉強しなくちゃ」と言って、スターバックスのコーヒーを僕にすすめたが、もちろん嫌だった。僕は怒って、目の前にあるベンティスターバックスラテを右手で払いのけ、その状況に驚きを隠せずにいる周りの客、一人ひとりの口いっぱいにスコーンを詰め込んで回った、というのはまったくの嘘だが、はっきり言って僕は日本の大学のシステムで全く構わないと思っている。
勉強したくない、というわけではない。正直なところ、僕は日本では模範的な文学部生であった。もちろん、あくまで僕の周りと比べれば、という範囲の話だけれど。
単純に宿題が嫌いなのかもしれない。なにせ、こちらの大学では、みんな「カダイカダイカダイ」と呟きながら歩き回り、人とすれ違った瞬間に「プレゼン」と言わなくてはいけない遊びが流行っていて、もし言い損ねた場合には、常時携帯しているピザを顔面めがけて投げられるのだ。
日本では、たしかに卒業するのはおそろしく楽に感じるし、場合によってはいくらでも大学生活を崩壊させるチャンスはあるわけだけれど、その反面、自分の好きな勉強を好きなだけできるといったメリットもある。やれと言われてやる勉強より、自らすすんでやりたい勉強の方が楽しいということだ。それが僕のライフスタイルである。福沢諭吉が予言し、僕が固めた。
そういうわけでこの10日間の休日というのは僕にとって福音をもたらすものであった。
ところで話は変わり、なぜ英語が喋れないのか、の原因について最近僕はひとつの結論を下した。気を使うからだ。結局のところ、気をつかうから英語がうまく喋られないのだと思った。
というのも、僕自身とても不思議だと感じていたことなのだが、英語のスピーキング能力にムラが出始めたのだ。ずいぶん調子良く喋れるな、というときと、僕の変わりにおもちゃのファービーでも用意した方がまだマシなのではないだろうかとまで思うほど喋れないときがあるのだ。「ファー…ブルスコ…ファー…ブルスコ…ファ-」
例えば、初めましてのときなんか、全くと言っていいほど何を話したらいいかわからない。ましてや、日本語が喋れるもの同士でも、そういう事態は度々生じるではないか。日本でできないことが海外で簡単にできるわけない、というのが僕の留学におけるひとつのポリシーでもある。頭山満が餅をつき、北一輝がこね、僕が食べた。
または、ネイティブばりに英語が喋れる集団の中に取り込まれて、その中で一声を発するのはなかなか勇気のいることである。「俺らのスムーズな会話に変な英語でわりこむなよ」みたいな感じで場の空気が止まることを恐れてしまうのだ。結局そんなときはだんまりしがちである。
ところが、何回か顔を合わせて、お互いの緊張感がとれた頃合いになると、不思議と英語が喋れるようになる。もちろんそれは拙い英語である。だけれど何度も繰り返し言っていることだが、英語は伝われば勝ちだ。それでいいのだ。何回か言い直したとしても、伝わればそれでいいのだ。英語が喋れないとは、言い直す段階にすら至らないことをいうのだ。こいつと話すときはどれだけ変な英語を使ったとしても大丈夫だという自信が、関係を培えば培うほど強固なものになっていく。
こんな風に英語が喋れるときと、まったく喋れないときがあることに気づいて、そのムラは何が原因で生じているのだろうか、と考えたところ、やっぱり気を使っているかどうかにすぎないのだと気づいた。僕の今のところの結論である。
英語が喋れないのは、決して文法とかの英語的知識が多くの原因を占めているわけではないと思う。そのほとんどがメンタル的なもので、間違いを恐れるこころから生じているものだと思う。だからこそ、間違いをしてもいいんだ、と気を許せるような相手だと、心置きなく変な英語を使える、なんだかそんな気分である。
そういうわけで、僕は留学だからといって、むやみやたらに外国人に喋る、というのはあまり好きではなかったのだ。どうも彼らを道具のように利用しているような感じがして嫌いだったのだ。別にそんなに焦らずとも、いい関係の友人ができるタイミングは必ずやってくる。それは自らつかんだ物でも、向こうからやってきたわけでもなく、とても自然に生じるものだった。そしてそれは僕らが学生時代に出会ってきた友人たちとの出会い方とまったく同じだったのではないだろうか。四月にスパートをかけて、なんだか変な距離感の友人を大量生産して困ってしまうことがあったはずだ。結局、実際に仲良くなる友人というのはなんだか自然な出会いで自然に仲良くなっていたように思う。どうして留学だからといって特別なことをしなくてはいけないのだろう?と僕は周りからの変な圧力に当初から抵抗し続けていた。これはもちろん今だからこそ言えることのように感じる。
もしこれから留学を志す学生が僕の記事を読んでくれているのなら、僕の主張は常に「まあ、そんなに気にすんなよ」という点で一貫している。これほどまでにそのことに一貫しているものは高田純次と僕の記事くらいのものである。留学という奇妙な状況は人を簡単に変えてしまいがちである。僕はそのことが結構怖かったりする。どの学生も変なプレッシャーに一度は悩まされる。僕はそんなときに、ブログを読んでくれて、少し気が楽になってくれたらな、という思いである。まあ、そのプレッシャーをモチベーションとして働かせる人には無縁なのかもしれないけれど。
最後に、「まあ、そんなに気にすんなよ」という僕の思いは当然のことながら、僕が提唱し、僕が形にしたものである。
