最近・・・CMが流れるんです。

子供の夏休みの宿題を心配しているCM

一人でも、子供だけでも、誰も見ていなくても、

ちゃんと勉強できるよ!みたいなCMが・・・

 

なんの心配をしているんだろう?

なぜ、1人で家に置いていくことを心配しないんだろうか・・・

 

1人で居る時の、気持ちは・・・

孤独と偽善、そして人の終わり

 

  ■遠くから見守るなんて、聞こえのいい偽善だ

 

「そばにはいられないけど、応援してるよ」
「会えなくても、気持ちは届いてるからね」

そういう言葉は、優しく響く。
でも――どこかで思ってしまう。

「それは、関わりたくないという逃げ口上ではないのか」と。

遠くから見てるだけなら、見てないのと一緒だ。
“遠くから”という距離は、言葉よりも深い壁を作る。

 

  ■離れていても繋がっている…それはエゴだ

 

「心は繋がってる」
「距離は関係ない」

そう言えば、何か大切なことを守れている気がする。
けれど、それは本当だろうか?

どれだけ“思ってる”と言われても、
“触れられない”という現実は、心を冷たくさせる。

想いだけでは、人は救えない。
それを“繋がり”と呼ぶのは、自分のエゴを正当化する言葉に過ぎない。

  ■孤独は、誰かと一緒にいないことじゃない

 

本当の孤独は、“一人でいること”では生まれない。
孤独は、一人の時間が“空虚”になったときに生まれる。

スマホを見ても、動画を流しても、SNSで誰かと繋がっていても、
それでも心が冷えたままのとき、
人は「私はひとりなんだ」と静かに理解する。

そして、そこから生まれるのが――


「後悔」だ。

 

  ■言葉も映像も、孤独を慰める飾りにすぎない

 

「気にかけてるよ」
「また会おうね」
「ずっと忘れないよ」

その言葉が本物だったとしても、
ひとりで過ごす夜を暖めるには足りない。

映像は目を騙せても、
心の穴は、気配がなければ埋まらない。

だから、孤独は静かに育っていく。
まるで、熱のない太陽のように。

  ■孤独が積み重ねるのは、後悔の地層

 

時間が過ぎるほどに、孤独は重さを持ち始める。
それは、誰かに会わなかった後悔。
言えなかった言葉、触れなかった瞬間。

孤独は記憶の中にだけ残る人間関係を、何度も何度も巻き戻す

「あのとき、私はちゃんと向き合えただろうか?」

その問いが、人を“人”にしていくようでいて、
同時に、“人でいること”に疲れさせていく。

 

  ■孤独は、人であることを諦めさせる

 

孤独の一番残酷なところは、
「人間でありたい」という願いを、ゆっくりと奪っていくこと。

誰かに触れられることもなく
声をかけられることもなく
誰の記憶にもいないような時間が続くと

自分が“人”として扱われていない感覚が生まれる。

「もう、私である必要なんてないんじゃないか。」

そう思った瞬間に、
孤独は“感情”ではなく、“破壊”へと変わる。

 

  ■それでも、孤独に意味を持たせたいと願うなら

 

孤独に意味はあるのか?
多分、ない。
でも、それを経験した人だけが、誰かに触れようとする優しさを持てるのかもしれない。

だから私は、こう考えることにしている。

孤独に意味はない。
でも、孤独を生き延びた人の存在には、意味がある。

 ■ シンプルフレーズ

「孤独が人を壊すのは、人でなくなることを、静かに許してしまうから。」

人はきっと、
真っ暗な夜に一人で歩いていても、
遠くに誰かの灯りが見えるだけで、
「まだ人としてここにいる」と思える。

その灯りが、言葉なのか、後悔なのか、
それともただの錯覚なのか――
それは、もうどうでもいいのかもしれない。

孤独は、人を“人”でなくしていく

 

人間らしさってなんだろう?

優しさ? 理性? 愛情?

違う。

 

それらは誰かに見せてこそ成立する性質で、
一人では確認できない属性だ。

鏡のない部屋に閉じ込められたら、私たちは「私」を忘れていく。


誰にも見られず、誰にも語られず、
孤独が深まると、
私たちは「人としての形」を失っていく。

だから人は孤独を嫌う。
それは、孤独が“自分を人でなくす”恐怖だから。

 

  ありがとうが重たく、大丈夫が苦しい日

 

「ありがとう」と言われて、私はなぜか息が詰まった。
そんな風に感じてしまう自分が、ひどく自己中心に思えて、また苦しくなる。

一方で、「ありがとう」がない日は、
「どうして誰も気づいてくれないの?」と勝手に拗ねる。

 

どちらにしても、私は自分の中に矛盾を抱えている。
 

そして、その矛盾に、ひとりで勝手に傷ついている。

「人は言葉に救われるのではなく、言葉に傷つく生き物だ。」

そんな言葉が、いつの間にか私の胸に居座るようになった。

  仮面を被る日常 ― ペルソナと欺き

 

「大丈夫」と言うたびに、本当は大丈夫じゃない私を隠す。
「大丈夫」と言われるたびに、本当は見捨てられたような気がしてしまう。

でも、言葉を交わさなければ繋がれない世界の中で、仮面は便利だ。

 

言葉を失えば、誤解も消える。
でも、繋がりも消えてしまう。

「仮面を外せば、自分を失い、仮面をつければ、人とすれ違う。」

そんな日々の中で、
“人として生きること”に、疲れていく。

 

  影に共鳴する ― 傷ついたもの同士の錯覚

 

言葉ではなく、後悔や影にこそ、私は共鳴する。

誰かの背中に、言葉にならない“痛み”を見つけたとき、
その人の「人らしさ」を、私は勝手に感じてしまう。

 

それは、私自身の“弱さ”と似ているからだ。

似た傷を持つ人に、安心してしまう。
それが依存だとしても、錯覚だとしても、
その一瞬に救われてしまう心があるのも事実だ。

 

  人らしい孤独なんて、ない

 

ここで、私は問い直す。

「人らしい孤独」って、存在するのか?

孤独の中で、「人間らしさ」なんて保てるのか?

“人間らしさ”は、他人の目があって初めて意識されるもの。
誰にも見られなければ、自分が人であるかどうかも分からなくなる。

 

「鏡のない世界で、人は“人であること”を失う。」

孤独は、心を閉ざすことではない。
人であることを疑い始める、深い深い闇の入り口なのだ。

 

  孤独を否定する ― 恐れと逃避としての孤独

 

私は正直、孤独を求めてきた。
人と関わるのが苦しいから。傷つきたくないから。
優しさが重くて、期待が痛くて、
「ひとりなら楽なのに」と何度も思ってきた。

でもそれは、「孤独を愛している」んじゃない。
孤独を“都合よく使っている”だけかもしれない。

本当はただ、人であることの苦しさから逃げたいだけなのに。

 

  それでも孤独に、意味を見出したい

 

それでも、私は思う。
孤独そのものに価値はない。
 

だけど、孤独を選んだ理由や、その中で何を見つけるかには、意味がある。

 

誰にも見られなくても、誰にも届かなくても、
自分だけは、自分の人間らしさを見ていてあげたい

自分の影を、否定しないで
後悔を、言葉にできなくても
その存在を、ちゃんと認めていくこと

それがきっと、「人であること」を失わずに、孤独を生きる唯一の方法だ。

と、言いたい私は弱いから

 

 ■ シンプルフレーズ

「孤独が怖いのは、人でなくなる自分を感じてしまうから。
でも、見失わなければ、“人としての孤独”に意味はある。」

どうして人は、人を制御できると思ってしまうんだろう。
勉強して、教育を受けて、同じ価値観を共有している“はず”だから?
「こうあるべき」が通じる“はず”だから?

そんな“はず”に裏切られるたびに、私は勝手にイライラして、勝手に苦しくなる。

きっと誰かが決めた「枠」があって、
その中にハマれない人を「おかしい」と感じる癖が、
私の中にも、もう染みついてしまってるのかもしれない。

 

優しさのふりをした傲慢さに気づいた日

 

私たちは知らず知らずのうちに、
「教育」という名の正しさを刷り込まれて育った。
その正しさを、まるで当然のように他人にも求めて、
共有されなければ苛立ち、拒絶し、遠ざける。

でも、それって本当に正しいのかな?
……ただの傲慢なんじゃないかな?

  風には怒らないのに、人には腹が立つ

 

風が吹いても、光がまぶしくても、誰も文句なんて言わない。
「今日は風が強いね」「天気が悪いね」って、ただそれだけ。

でも、人が自分の思い通りに動かないとき――


私は、どうしてこんなにも苛立つんだろう。

「どうしてそんなこと言うの?」
「もっと空気読めないの?」
「わざとやってるの?」

言葉にしなくても、心の中でそう責めてる。

 

風には何も思わないのに、
同じ“形のない”感情を持つ人には、こうして責めたくなる。

 

  教えられた“正しさ”が、私を縛っていた

 

気づけば私は、「人はこうあるべきだ」と信じてた。
「わかるはず」「理解できるはず」「だって、教育受けてきたんでしょ?」って。
自分と同じように学んできた人なら、自分と同じ考えに至って当然――


そんな傲慢な前提を、当たり前のように持っていた。

でも、違った。
人は、同じじゃない。
正しさも、感じ方も、受け取り方も、全然違う。

 

違っていいって分かってるのに、
“分かり合えない”ことを前にすると、どうしてもモヤモヤする。

 

ああ、私はきっと、
「受け入れたい」んじゃなくて「支配したかった」だけなんだ――
そんな自分のエゴに気づいた瞬間、
何とも言えない苦さと寂しさに包まれた。

  理解できない風は許せるのに、人は許せないのはなぜ?

 

風には「教育」がない。
だから、私たちは風に「期待しない」。
風をコントロールしようなんて、思わない。

でも、人には教育がある。
だから「できるはず」「わかるはず」と思ってしまう。
そこに期待して、勝手に裏切られた気持ちになる。

 

でも本当は、
教育を受けていても、同じではない。
教科書が同じでも、読み取る感情も、育ってきた背景も違う。

「理解できない人」に怒ってしまうのは、
その人に怒っているんじゃない。
“理解できるはず”という、自分の勝手な理想が壊されたことに腹を立てているだけ。

だから、苦しいんだ。
それはもう、人間関係じゃなくて、“理想関係”の崩壊だった。

 

  それでも、私は風のように人を見てみたい

 

風を責めないように、人も責められたら。
「そういう人なんだな」「そういう日もあるよね」って、
その人の存在を、そのまま受け止められたら。

 

できない自分を責めるのも、
できない誰かを責めるのも、
もう、終わりにしたいと思った。

私は風じゃないし、光にもなれない。
だけど、風のように他人を見られる自分にはなれるかもしれない。

 【シンプルフレーズ】

「風を責めないのに、人を責めてしまう――それは、期待という名のエゴだった。」

 

 

 

「今日を諦める罪と、私を信じる勇気」

すべての遅延は、ある種の自己不信に由来する。」
― セネカ(ローマの哲学者)

明日の私に任せる。
…それって、ただの“逃げ”じゃないか?
やらなきゃいけないことから目を逸らして、
今日という日に向き合うのをやめてしまっているんじゃないか?

私はずっとこの問いに縛られている。

「逃げたらダメ」
「先送りは怠惰」
「今の自分がダメなら、未来の自分もダメになる」

そんな言葉が、胸の奥で繰り返される。

 

でも――私は思うんだ。
本当に“今日”にすべてを背負わなきゃいけないの?
本当に“今”決めることが、私にとって最善なの?

苦しい。
情けない。
でも、それでも…私は、「今の自分を守りたい」と願ってしまう。

それはダメなのかな?

 

  「“ごめん”が言えない夜」

 

友人と喧嘩した。
些細なことだったと思いたいけど、感情は収まりきらない。
「謝った方がいい」なんて分かってる。
でも、私は…謝りたくない。いや、謝れないのかもしれない。

素直になるには、プライドが邪魔をする。
心を開くには、傷が疼く。
歩み寄るには、心の奥の怒りが静まらない。

だから今日だけ、沈黙を選んだ。
それが、いけないことだと分かっていても。

  「“やるべきこと”が溢れていく」

 

旅行の予定を立てなきゃ、
宿題が終わってない、
ルーティンが山ほど残っている。
「やらなきゃ」は、心の中で叫んでるのに、
身体はまったく動かない。

それでも私は思ってしまう。
**「明日の自分に任せよう」**と。

…無責任かもしれない。
…怠惰だと思われても仕方ない。

でも今の私は、もう限界なんだ。

 

  「投資か、逃避か」

 

未来の自分に投資するって、
綺麗な言葉に見えるけれど、
実際は“逃げ”との境界線が曖昧だ。

「今日をやり過ごせば、明日はどうにかなる」
そうやって期待して、裏切られて、また後悔して。
それを何度も繰り返してきたのに、
それでも、私はまだ自分に希望を託してしまう。

「私は私を信じていないけど、信じたい」
そんな矛盾に、ずっと苦しんでいる。

 

  「“今”答えを出さないという選択」

 

「答えを出すこと」が強さだと、誰が決めたの?
沈黙は臆病?
決断しないのは逃げ?

私は違うと思いたい。

 

だって、
沈黙もまた、思考の中にある選択のひとつ。
「今は分からない」っていうことを、
「分からないまま抱えておくこと」もまた、
立派な決断だ。

 

謝るか、逆ギレするか。
行くか、行かないか。
助けるか、断るか。

 

そんな二択に追い詰められる前に、
私は“まだ決めない”という自由を選びたい。

  「私はそんなに強くない。だから今は待って」

 

私は、私を責め続けてきた。
できない自分を、逃げる自分を、
「こんな自分じゃダメだ」と何度も罵ってきた。

 

でも、今日だけは言わせてほしい。

「私だって、助けてほしい」
「私はそんなに、強くなんかない」

だから、今は決めない。
逃げないために、今、決断を保留する。
私は私を守りたいから。

 🍀今日のシンプルフレーズ

 

「私は、“今”を手放すことで、“私”を見失わないようにしている。」

 

 シンプルフレーズ

 

誰かのために使う時間は、美しい。
でも、それが“犠牲”と感じたとき、私たちは救いを求めているのかもしれない。

 

後悔を積み重ねても、人と繋がることを望む。

 

時間は、平等で有限だ。
1日24時間。
その中で、仕事に8時間、睡眠に8時間。
残りは、生活に必要な雑務と、ほんのわずかな「自由時間」。

この「自由な時間」を、私は本当に自分のために使えているだろうか?
そう問いかける日がある。

何かを成し遂げたくて、
誰かを喜ばせたくて、
自分のためと思って行動しても、
気づけば誰かのためになっていることが多い。

それは、とても素敵なことのように思える。
実際、そうだと思う。

でも、その一方で――

  見返りと後悔は、いつも表裏一体だ。

 

「ありがとう」って言葉が欲しかった。
「すごいね」って認めてほしかった。

そう思っていたのに、何も返ってこなかったとき。


私は心のどこかで、
「やらなきゃよかったかも」と思ってしまう。

そんな自分を責めて、恥じて、
「私はそんなつもりじゃなかった」と言い訳を探す。

でも本当は、
誰かに喜んでほしかった。
私の優しさが、ちゃんと届いてほしかった。

それだけなのに。

 

  優しさは、心の余裕を消費する。

 

自分に余裕がある時しか、人に優しくなんてできない。
でも優しくした時に、それが報われないと、
優しさは「損失」に変わる。

 

それが続くと、
「こんな自分で良かったのかな」と思い始める。
「なんであんなことしたんだろう」と、後悔し始める。

優しさとは、
自分を信じた結果の行動。
でも、信じた自分を否定したくなる瞬間がある。

  自由なんて、幻想なのかもしれない。

 

自分で選んだつもりの行動も、
後になって後悔すると、
「あれは本当に自分の意思だったのか?」と思う。

 

その時は「自由に選んだ」と思っていたのに、
結果が報われなければ、
その自由さえも疑いたくなる。

だから、
“自由”という言葉は、終わってから自分を納得させるための言い訳なのかもしれない。

 

  何かを求めて行動した時、人は消費を意識する。

 

目的を持つから、
「時間を使った分、何かを得たい」と願う。

でもその願いが叶わなかった時、
私たちは“時間の無駄”と感じてしまう。

その思考が癖になると、
「最初から行動しない方がいい」
「どうせ無駄になる」
と、動く前にあきらめるようになる。

けれど、行動しないこともまた、後悔になる。

 

  じゃあ、自分の時間って何なんだろう。

 

好きなことに没頭する時間?
誰の目も気にせず過ごす時間?
何もせずにボーっとできる時間?

もちろん、それも大切。

でも、こうも思う。


「何かのために時間を使うかどうか」を考える時間こそ、
自分のために使う時間なんじゃないか。

考えることを放棄した時間は、
誰かに流され、ただ消費されるだけの時間になる。

選ぶために、立ち止まる。
その余白が、自分の時間なのかもしれない。

 

  それでも人は、人を求めてしまう。

 

傷ついても、見返りがなくても、
人はまた誰かに優しくしたくなる。

誰かに「ありがとう」と言ってもらえなかった日も、
明日は誰かのためにまた動こうとする。

それは弱さじゃない。
それが“人間らしさ”なんだ。

 シンプルフレーズ

 

人は後悔を積み重ねても、人と繋がることを望む。
だから、生きるって苦しくて、でも温かい。

 

後悔しない生き方なんて、たぶん存在しない。
でも、後悔したことを否定せずに
「それでも自分で選んだ」と思えるなら、
その時間は、無駄じゃなかったと思えるかもしれない。

あなたは、
今日という時間を、誰のために、何のために使いますか?