人はきっと、
真っ暗な夜に一人で歩いていても、
遠くに誰かの灯りが見えるだけで、
「まだ人としてここにいる」と思える。

その灯りが、言葉なのか、後悔なのか、
それともただの錯覚なのか――
それは、もうどうでもいいのかもしれない。

孤独は、人を“人”でなくしていく

 

人間らしさってなんだろう?

優しさ? 理性? 愛情?

違う。

 

それらは誰かに見せてこそ成立する性質で、
一人では確認できない属性だ。

鏡のない部屋に閉じ込められたら、私たちは「私」を忘れていく。


誰にも見られず、誰にも語られず、
孤独が深まると、
私たちは「人としての形」を失っていく。

だから人は孤独を嫌う。
それは、孤独が“自分を人でなくす”恐怖だから。

 

  ありがとうが重たく、大丈夫が苦しい日

 

「ありがとう」と言われて、私はなぜか息が詰まった。
そんな風に感じてしまう自分が、ひどく自己中心に思えて、また苦しくなる。

一方で、「ありがとう」がない日は、
「どうして誰も気づいてくれないの?」と勝手に拗ねる。

 

どちらにしても、私は自分の中に矛盾を抱えている。
 

そして、その矛盾に、ひとりで勝手に傷ついている。

「人は言葉に救われるのではなく、言葉に傷つく生き物だ。」

そんな言葉が、いつの間にか私の胸に居座るようになった。

  仮面を被る日常 ― ペルソナと欺き

 

「大丈夫」と言うたびに、本当は大丈夫じゃない私を隠す。
「大丈夫」と言われるたびに、本当は見捨てられたような気がしてしまう。

でも、言葉を交わさなければ繋がれない世界の中で、仮面は便利だ。

 

言葉を失えば、誤解も消える。
でも、繋がりも消えてしまう。

「仮面を外せば、自分を失い、仮面をつければ、人とすれ違う。」

そんな日々の中で、
“人として生きること”に、疲れていく。

 

  影に共鳴する ― 傷ついたもの同士の錯覚

 

言葉ではなく、後悔や影にこそ、私は共鳴する。

誰かの背中に、言葉にならない“痛み”を見つけたとき、
その人の「人らしさ」を、私は勝手に感じてしまう。

 

それは、私自身の“弱さ”と似ているからだ。

似た傷を持つ人に、安心してしまう。
それが依存だとしても、錯覚だとしても、
その一瞬に救われてしまう心があるのも事実だ。

 

  人らしい孤独なんて、ない

 

ここで、私は問い直す。

「人らしい孤独」って、存在するのか?

孤独の中で、「人間らしさ」なんて保てるのか?

“人間らしさ”は、他人の目があって初めて意識されるもの。
誰にも見られなければ、自分が人であるかどうかも分からなくなる。

 

「鏡のない世界で、人は“人であること”を失う。」

孤独は、心を閉ざすことではない。
人であることを疑い始める、深い深い闇の入り口なのだ。

 

  孤独を否定する ― 恐れと逃避としての孤独

 

私は正直、孤独を求めてきた。
人と関わるのが苦しいから。傷つきたくないから。
優しさが重くて、期待が痛くて、
「ひとりなら楽なのに」と何度も思ってきた。

でもそれは、「孤独を愛している」んじゃない。
孤独を“都合よく使っている”だけかもしれない。

本当はただ、人であることの苦しさから逃げたいだけなのに。

 

  それでも孤独に、意味を見出したい

 

それでも、私は思う。
孤独そのものに価値はない。
 

だけど、孤独を選んだ理由や、その中で何を見つけるかには、意味がある。

 

誰にも見られなくても、誰にも届かなくても、
自分だけは、自分の人間らしさを見ていてあげたい

自分の影を、否定しないで
後悔を、言葉にできなくても
その存在を、ちゃんと認めていくこと

それがきっと、「人であること」を失わずに、孤独を生きる唯一の方法だ。

と、言いたい私は弱いから

 

 ■ シンプルフレーズ

「孤独が怖いのは、人でなくなる自分を感じてしまうから。
でも、見失わなければ、“人としての孤独”に意味はある。」