どうして人は、人を制御できると思ってしまうんだろう。
勉強して、教育を受けて、同じ価値観を共有している“はず”だから?
「こうあるべき」が通じる“はず”だから?
そんな“はず”に裏切られるたびに、私は勝手にイライラして、勝手に苦しくなる。
きっと誰かが決めた「枠」があって、
その中にハマれない人を「おかしい」と感じる癖が、
私の中にも、もう染みついてしまってるのかもしれない。
優しさのふりをした傲慢さに気づいた日
私たちは知らず知らずのうちに、
「教育」という名の正しさを刷り込まれて育った。
その正しさを、まるで当然のように他人にも求めて、
共有されなければ苛立ち、拒絶し、遠ざける。
でも、それって本当に正しいのかな?
……ただの傲慢なんじゃないかな?
風には怒らないのに、人には腹が立つ
風が吹いても、光がまぶしくても、誰も文句なんて言わない。
「今日は風が強いね」「天気が悪いね」って、ただそれだけ。
でも、人が自分の思い通りに動かないとき――
私は、どうしてこんなにも苛立つんだろう。
「どうしてそんなこと言うの?」
「もっと空気読めないの?」
「わざとやってるの?」
言葉にしなくても、心の中でそう責めてる。
風には何も思わないのに、
同じ“形のない”感情を持つ人には、こうして責めたくなる。
教えられた“正しさ”が、私を縛っていた
気づけば私は、「人はこうあるべきだ」と信じてた。
「わかるはず」「理解できるはず」「だって、教育受けてきたんでしょ?」って。
自分と同じように学んできた人なら、自分と同じ考えに至って当然――
そんな傲慢な前提を、当たり前のように持っていた。
でも、違った。
人は、同じじゃない。
正しさも、感じ方も、受け取り方も、全然違う。
違っていいって分かってるのに、
“分かり合えない”ことを前にすると、どうしてもモヤモヤする。
ああ、私はきっと、
「受け入れたい」んじゃなくて「支配したかった」だけなんだ――
そんな自分のエゴに気づいた瞬間、
何とも言えない苦さと寂しさに包まれた。
理解できない風は許せるのに、人は許せないのはなぜ?
風には「教育」がない。
だから、私たちは風に「期待しない」。
風をコントロールしようなんて、思わない。
でも、人には教育がある。
だから「できるはず」「わかるはず」と思ってしまう。
そこに期待して、勝手に裏切られた気持ちになる。
でも本当は、
教育を受けていても、同じではない。
教科書が同じでも、読み取る感情も、育ってきた背景も違う。
「理解できない人」に怒ってしまうのは、
その人に怒っているんじゃない。
“理解できるはず”という、自分の勝手な理想が壊されたことに腹を立てているだけ。
だから、苦しいんだ。
それはもう、人間関係じゃなくて、“理想関係”の崩壊だった。
それでも、私は風のように人を見てみたい
風を責めないように、人も責められたら。
「そういう人なんだな」「そういう日もあるよね」って、
その人の存在を、そのまま受け止められたら。
できない自分を責めるのも、
できない誰かを責めるのも、
もう、終わりにしたいと思った。
私は風じゃないし、光にもなれない。
だけど、風のように他人を見られる自分にはなれるかもしれない。
【シンプルフレーズ】
「風を責めないのに、人を責めてしまう――それは、期待という名のエゴだった。」



