自分を嫌いになる時、人はたぶん、自分の本当の弱さを初めて見るのだと思う。
でも、その痛みを一人で抱え切れるほど、人は強くない。
だから私は、自分の中に「認めてくれる何か」を作ってもいいんじゃないかと思う。

自分の中にルパンを住まわせる生き方

最近の物語には、「冴羽獠」とか「ルパン」みたいな人の心を盗んでいくような人物がいないように感じる。

私は、シティーハンターとかルパン三世大好きなんですよね。

あの、ちょっと女性にだらしない感じも好きだし、決めるトコロを決めるのも好きだけど・・・

 

人の痛みを知っていて、それでいてそこに手を伸ばしてくれて・・・

なんだかんだあっても、見捨てなくてさ、絶対最後にニヤッて笑う感じでさ

そう思うと、「あぶでか」もそんな感じなんだけど

 

誰かのさ、人の悲しみや辛さや苦しさを決して目を離さず、そこを素敵だって言ってくれる。

自分で自分を嫌いになれる理由や原因を、知ったうえで助けるって言うか、好きって言ってくれるって言うか・・・

魅力だって、お宝だって言っている姿に憧れるんだ。

 

私も、そう生きたいと思うから・・・

  自分を嫌いになることは、終わりじゃなく入口なのかもしれない

自分を嫌いになることは、誰にでもあることだと思う・・・
出来なかったこと。
選ばなかったこと。
守れなかったこと。
届かなかったこと。
そういう事実の積み重ねが、ある日ふと、自分の胸に刺さる。

 

そして人は、「こんな自分は嫌だ」と思う。

でも本当に苦しいのは、自分を嫌いになることそのものじゃない。
嫌いな自分を見つけてしまうことと思う。

 

見ないふりをしていたダメな部分。
認めたくなかった情けなさ。
どうしようもない弱さ。
そこをちゃんと見てしまった時、人は苦しさと悲しさを知る。

 

けれど、たぶんそこが入口なんだろうね・・・

自分を好きになることは、最初から出来ることじゃない。


まずは、自分の嫌いな部分を見つめること。
その痛みからしか、始まらないこともあるのだと思う。

  人は、自分のためだけに生きられるほど強くない

よく「自分のために生きよう」と言う。


それはたしかに正しいのかもしれない。

 

でも私は、人ってそんなに強くないと思っている。

自分のためだけで立てる人ばかりなら、こんなに悩まない。
こんなに後悔しない。
こんなに、自分を嫌いにならない。

人は弱い・・・


だからこそ、何かが必要になる。

それは、誰かの言葉かもしれない。
好きだった人の記憶かもしれない。
守れなかった過去かもしれない。
まだ捨て切れない欲望かもしれない。
あるいは、美学かもしれない。

自分の外側にある何か。
でも同時に、自分の内側にも残っている何か・・・


そういう「何か」があるから、人は完全には崩れ切らずに済むのだと思う。

  後悔も、悲しみも、苦しさも、本当は宝なのかもしれない

ここで私は、ルパンの美学を思い出す。

ルパンの格好良さは、主人公を演じることじゃない。
上手に生きることでもない。
華やかに目立つことでもない。

人の心を盗むこと。

 

しかも、明るい感情だけじゃない。
後悔も、悲しみも、苦しさも。
本人が隠したいと思っているもの。
出来れば無かったことにしたいもの。
価値なんて無いと、自分で思い込んでいるもの。

 

そういうものを見つけて、
「それはお宝だ」
って言って盗んでいく。

そこが、私はたまらなく格好良いと思う。

 

人は、自分の痛みを恥だと思いやすい。
弱さだと思いやすい。
失敗の証拠だと思いやすい。

でも、本当は違うのかもしれない。

それだけ後悔しているということは、それだけ本気だったということ。
それだけ悲しいということは、それだけ大切だったということ。
それだけ苦しいということは、それだけ必死に生きたということ。

 

だったら、その痛みは、ただの傷じゃない。
ちゃんと生きた証拠なんだと思う。

  認めてくれるのか、認めるのか

ただ・・・ここで迷う。
大事なのは、誰かに認めてもらうことなのか。
それとも、自分で認めることなのか。

たぶん、どちらも必要なんだと思う。

他人との関係で出来た後悔や辛さは、自分一人では処理しきれない。
傷ついた場所が他人との関係なら、癒える時にもどこかで「他者の気配」が必要になる。

でも現実には、都合よく理解してくれる人なんていないことも多い。
謝ってくれる人もいない。
救ってくれる人もいない。
愛してくれる人もいない。

そんな時に、「じゃあ終わりだね」となるのは、あまりにも苦しい。

 

だから私は思う。
自分の中に、認めてくれる役割を作ってもいいんじゃないかと。

 

嫌いな自分がいる。
外に見せるペルソナとしての自分がいる。
必死に整えている自分がいる。
壊れかけている自分がいる。
諦めたい自分もいる。


それでもまだ、何かを捨て切れない自分もいる。

その中の誰かが、別の自分を見つける。


別の自分の痛みを見つけて、
「それは価値がある」
と認める。

それでもいいと、私は思う。

  自分の中に、自分だけのルパンが居てもいい

 

誰かが救ってくれたら、それはもちろん嬉しい。
でも、誰も来ない夜だってある。
誰にも分かってもらえない朝だってある。
自分の痛みを説明する気力すら無い日もある。

そんな時に必要なのは、立派な正論じゃない。
「頑張れ」でもない。
「大丈夫」でもない。

たぶん必要なのは、
自分の中にある痛みを、お宝だと見つけてくれる何かなんだと思う。

 

それが、自分の中のルパンなんじゃないかなと思う。

自分だけの英雄。
自分だけに分かる怪盗。
世間には見えなくていい。
他人に理解されなくていい。
自分の中で、自分を助けるためだけに居る存在でいい。

自分が価値なしと思っていた後悔を盗んでくれる。
自分が隠していた悲しみを見つけてくれる。
自分が嫌っていた弱さを、お宝だと言って持っていってくれる。

 

そして、そこに少しだけ愛を残していく。

そんなルパンが、自分の中に居てもいい。
私はそう思う。

  成功とは、自分を好きになることなのかもしれない

社会が言う成功は分かりやすい。
お金、地位、肩書き、評価、承認。
でも私は、それだけが成功だとは思えない。

本当の意味で積み上げたいものは、
自己否定を少しずつ減らしていくことなんじゃないだろうか?

 

自分を完璧に好きになるなんて、きっと無理だ。
全部を許すのも難しい。
全部を愛するのも、簡単じゃない。

 

でも、自分の中のどこか一つでも
「これも宝だったのかもしれない」
と思えたなら、人は少しだけ前に進める。

その積み重ねが、
自分を好きになるってことなんじゃないかなと思う。

  その先は、好きにしたらいい

自分を嫌いになることから始まることはある。
でも、その先までずっと自己否定で生きる必要はない。

嫌いな自分を見つめて、
痛みの価値を見つけて、
自分の中にルパンを住まわせて、
少しずつ、自分を敵じゃなくしていく。

 

そこまで来たら、あとはもう、好きにしたらいい。

誰かの正解に合わせなくていい。
綺麗な生き方じゃなくていい。
不格好でも、回り道でも、未完成でもいい。

 

自分にしか分からない美学で、
自分にしか分からない英雄と一緒に、
自分の人生を歩いていけばいい。

私は、そういう生き方を、とても人間らしいと思う。

 シンプルフレーズ

認めてくれる誰かがいないなら、自分の中に、痛みを宝として盗んでくれるルパンを住まわせてもいい。

人間関係が難しいのは、性格の問題だけじゃないと思う。
そもそも日本語そのものが、難しすぎる。
正しさを求められるくせに、その正しさは人によって違うんだから、もう無理ゲーだと思う・・・

正しい日本語って、誰が使えているんだろうね?​​​​​​​

敬語一つとっても、ちゃんと使えている人に出会ったことが無い。

私自身、丁寧に話さないとダメな状況や相手くらい分かる。

でも、話しているつもりでも、相手がどう思っているか?なんて分からない。

会話の中には方言も入るし、個性も出る。相手が何を言っているのか分からない場面なんて多すぎる。

 

職場のミーティングや講義なんてほぼ分からない・・・

KPI?ソリューション?日本語も分からないのに、知っていて当然の雰囲気で話してくる。

その時・・・「???」の顔をしていたら、「ちゃんと話聞いてるか?」ってたしなめられてしまう。

かといって、スマホで調べるわけにもいかず・・・

 

「ごめんなさい」・・・?

「すみません」・・・?

「申し訳ありません」・・・?

どれが正解なんですか?先に、あなたの正解を教えてくれないと、私はあなたとのコミュニケーションすら出来ません。

  「正しい日本語」を使えと言う人ほど、正解を持っていない

「ちゃんとした日本語を使って」
「社会人なんだから言葉を選んで」
「その言い方は失礼だよ」ってやつ・・・

 

でも、そのたびに思うんだ。
その“ちゃんとした日本語”って、誰基準なんですか?って・・・

 

丁寧に話せば「距離がある」と言われる。
砕けて話せば「礼儀がない」と言われる。
優しく言えば「回りくどい」と言われるし、
はっきり言えば「きつい」と言われる。

いやもう、どっちなんだよ・・・って話だ。

 

正しい日本語って、学校で習う文法だけじゃない。
相手との距離感、場の空気、年齢、立場、雰囲気、タイミング。
そういう見えない条件まで全部込みで判断される。

そんなもの、毎回完璧に使いこなせるわけがない・・・

 

え?出来る?マジで?教えて!って思うわwww

  日本語は、言葉そのものより「空気」を読ませてくる

日本語の難しさって、単語の意味だけじゃないんだよね。

 

同じ「大丈夫です」でも、
本当に大丈夫な時もあれば、
全然大丈夫じゃない時もある。


断ってるのか、遠慮してるのか、気を遣ってるのか、諦めてるのか?
全部、空気で判断しろってなる。

 

冗談なのか?本気なのか?も分かりにくい・・・
しかも、分からなかった時に確認すると、
「え、そんなことも分からないの?」みたいな顔をされる・・・やめてくれ。

いや、分からんものは分からん。

 

言葉で伝えるはずのコミュニケーションなのに、
実際には言葉の外側ばかり読まされる。
それで人間関係が難しくならない方がおかしいと思う。

  正しさが人それぞれなら、会話は最初から不安定だ

もっと厄介なのは、
人によって「正しい言い方」が違うことだと思う。

 

ある人には気遣いに見える言葉が、
別の人には他人行儀に見える。
ある人にはフランクで話しやすい言い方が、
別の人には馴れ馴れしく見える。

つまり、日本語って、
「正しい言葉を使えば伝わる」んじゃなくて、
“相手が気持ちよく受け取る形”に調整できるか?が求められている。

 

でも、そんなの難しいに決まってる。

だって、相手の正しさなんて、相手の中にしかないんだから。

 

こちらは辞書を見て話してるわけじゃない。
その人の機嫌、価値観、過去の経験、プライドまで踏まえて話せと言われているようなものだ。

それはもう、日本語というより
対人戦の高難度ゲームなんだと思う。

  カタカナ語まで増えて、もう意味より雰囲気になってきた

そこに最近は、カタカナ語まで増えてきた。

アジェンダ。
コンセンサス。
エビデンス。
アサイン。
コミット。
リスケ。

便利な言葉なのは分かる。


短く言えるし、仕事では使う場面もある。(全部わかりますか?)

 

でも、なんでもかんでもカタカナにすれば賢く見えると思っている空気は、正直しんどい。

意味が分からないのに、聞き返しづらい🤣

分かったふりをするだけで疲れる。


しかも使ってる本人が、妙に“知ってます感”を出してくると、さらにしんどい・・・💦

 

子どもが難しい言葉を覚えて、嬉しそうに使うなら可愛い。
「ああ、そういう時期あるよね」って思える。

 

でも大人が、意味の輪郭も曖昧なまま、
それっぽい横文字を振り回して得意げにしていたら、
もうこっちは、会話の内容より先に聞いてるフリの体力が削られていく。

  私が悪いんじゃなくて、求められている難易度が高すぎる

私はまず、正しい日本語を使う自信がない!!!
だからコミュニケーションも苦手だし、人間関係も難しい。

 

そう思ってしまう人は・・・私だけじゃないはず!気持ちは、すごくよく分かる。

でも、少しだけ言い換えるなら、
「自分がダメ」なんじゃなくて、
求められているものが多すぎるんだと思う。

 

言葉の意味を理解して、
空気を読んで、
距離感を調整して、
敬語の強さを選んで、
相手が不快にならないように気を配って、
しかも自然に話せと言われる。

 

そんなの、疲れない方が不思議だ。

日本語が難しいんじゃない。
難しい日本語運用を、当たり前みたいに要求される社会がしんどいんだと思う。

  先に、分かりやすく話してほしい

私は、別に特別なことを求めているわけじゃない・・・

 

ただ、
分かりやすく話してほしい。
伝わるように話してほしい。

知らない言葉を当然みたいに投げないでほしい。
空気を読めと言う前に、言葉で説明してほしい。

それだけなんだよね。

 

本当に伝える気がある人は、難しい言葉を使う人じゃない。
難しいことを、相手に伝わる形にしてくれる人だと思う。

 

だから私は思う。
正しい日本語を完璧に使えるかどうかより、
相手に伝わるように話そうとする誠実さの方が、よっぽど大事なんじゃないかって。

 シンプルフレーズ

正しい日本語って、誰が使えているんだろうね?

正しさは人それぞれ。
距離感も人それぞれ。
心地いい言い方も人それぞれ。

 

そんな不安定なものを、毎回完璧に合わせろなんて、難しくて当然だと思う。

 

だから、うまく話せない自分を責めすぎなくていい。
人間関係が難しいのは、あなたのせいだけじゃない。
最初から日本語というゲームの難易度が高すぎるだけかもしれない。

先に、日本語で分かりやすく話してほしい。
それって、わがままじゃなくて、
コミュニケーションの最低限の優しさなんだと思う。

(笑)コミュニケーションってカタカナだねwww

コミュニケーションって、互いの理解を深めるプロセス​​​​​​​らしいよ!

やりたいことがあるのに、動けない。
好きな人がいるのに、告白できない。
それは、意志が弱いからじゃない。

人は、強い方を選ぶんじゃない。“近い方”に負ける。

人は、強い方を選んでいるわけじゃない。
ただ、近い方に引っ張られているだけだ。

だからこそ・・・その“距離”を超えるために必要なのは、
欲望でも、合理でもなく・・・「生きるための指針」なんじゃないだろうか?

  花を見ることすら、理由が必要になった

桜が咲いている。
それだけで十分なはずなのに、今は違う・・・

 

「行く意味はあるのか?」
「時間の無駄じゃないか?」
「人が多いし面倒だな」

そんな言葉が先に出てくる。

 

ただ花を見るだけの行為にすら、メリットや理由を求めるようになっている。

 

それなのに、理由もなくスマホを見て時間を浪費する。

それなのに、コンビニで晩御飯を買って楽を選択する。

それなのに、ゲームに課金して楽しんでいて、意味があるって自分に言い聞かせる。

 

別に、否定はしない。状況や事情もあるだろう・・・

いかない理由が無いのに、行く理由が無いからって、

花を愛でる事すら出来ない時代に私は価値を見出だせない・・・。

  リスクは“近いほど強くなる”

行動できない理由は、メリットが無いからじゃない。

リスクが、鮮明すぎるからだ。

  • 時間が無くなる
  • 疲れる
  • 面倒くさい
  • 人混みがしんどい

どれも小さなことなのに、
「今、すぐ感じる不快さ」として、強くのしかかってくる。

 

人は、未来の可能性より、
目の前の負担の方を重く感じる。

・・・だから動けない。

欲望は、未来の可能性にしか見えない

一方で、やりたい気持ちや願いはどうか。

  • うまくいったら嬉しい
  • 成功したら楽しい
  • 叶ったら幸せ

これは全部、未来の話。

しかも「そうなるかもしれない」という、
可能性でしかない。

だから、どこかぼんやりしている。

告白の例えで見ると分かりやすい

好きな人がいるとする。

●欲望

  • 付き合えたら嬉しい
  • 一緒にいられたら幸せ

でもこれは、未来の可能性でしかない。

●恐怖

  • 振られる
  • 気まずくなる
  • 関係が壊れる

これは今すぐ起きる現実として、
はっきり想像できる。

だから動けない

欲望は「遠い未来」
恐怖は「目の前の現実」

 

近い恐怖が、遠い欲望に勝つ。

  欲望や意思だけでは、恐怖に勝てない

もちろん、欲はある。

「見たい」
「感じたい」
「綺麗だと思いたい」

でも、その欲望はどこか遠い。

 

意志だって曲がらない。

「出世したい」

「目指しているものがあるから、頑張りたい」

「一度決めたんだから、投げ出したくない」

 

一方で・・・
面倒や不安は“今ここ”にある。

 

「ここにある」不安や心配や怖さや逃げたいっていう感情は何より鮮明に見えてしまう。・・・だから負ける。

欲望や意思が弱いわけじゃない。
ただ、恐怖っていう・・・自分へのデメリットの方が近いだけ。

それでも踏み出す人がいる理由

 

それでも、動く人がいる。

なぜか?

欲望が強いからじゃない。

メリットがあるからでもない。

  美学があるからだ

恐怖の先に踏み出せるのは、
きっと「美学」だと私は思うんだ。

 

損か得かじゃない。
意味があるかないかでもない。

「こう在りたい」
「こう生きたい」

その基準だけで、選んでいる。

 

美学って難しくとらえる必要は無いと思うんだ。

言葉の意味とか、誰が言ったかより・・・「自分がどう感じるか?」で【美学】っていう感覚を捉えて欲しい。

憧れる人が居たとしたら

「その人のようになりたいとか」

「あの人ならこうしただろうから」

そういうのでも良いと思うし、自分の気持ちをどれだけ反映できるか?

っていう、見方で良いと思うんだ。

 

ルパン三世のテーマにもあるよね?「男には~自分の~美学が~ある」ってさ・・・

誰かに伝わる必要なんかない、自分だけの世界観の話しなんだ。

 

「こうありたい」「こういう生き方がしたい」っていう思いで良いんだ。

  上を見る理由は、自分で決める

花を見ることに、意味なんていらない。

 

それでも見に行くのは、
そこに“自分の在り方”があるからだ。

 

足元ばかり見て、
過去ばかり見て、
苦しい、辛い、悲しいと繰り返すこともできる。

 

でも、上を見るという行為は、
それとは違う選択になる。

 シンプルフレーズ

メリットが無いと動けない時代で、
それでも動く理由があるとしたら。

それはきっと、欲望でも、合理でもなく——

「美学」なんだと思う。

 

「人は、意味で動くんじゃない。美学で踏み出す。」

 

 

 

 

人生の重要な選択・・・なんて言葉を聞くと、
なんだか立派で、重たくて、ちゃんと考えなきゃいけないものみたいに聞こえる。

 

進学、就職、結婚、離婚、転職、独立。


世間はそういう場面を「人生の分かれ道」と呼びたがる。

でも、生きにくさを感じながら生きている人間からすると、
そんな“人生の重要な選択”って、いつでもあるし、同時に、いつもない。

 

だって実際は、
そんな大それた決断をして生きているというより、
状況と環境に流されながら、なんとか今日を終わらせているだけの日の方が多いからだ。

人生の重要な選択なんて、いつでもあるし、いつもない

そして正直、その方が楽だ。

何も考えない。
責任を背負わない。
自分で決めたことにしない。
上手くいかなければ、環境のせい、相手のせい、社会のせいにできる。

 

それの何が悪いんだろう?

 

責任から逃げるのは、そんなに罪深いことだろうか。
この世界で、好き好んで責任なんて重荷を抱えたがる人が、いったいどれだけいるんだろう。

 

今日はそんな、
「選べないこと」もまた人間らしさなんじゃないかという話を書いてみたい。

 

  人生の重要な選択なんて、あるようでない

 

人生には大事な選択がある・・・
たしかに、それはそうなんだと思う。

 

でも同時に、
本当に自分で選んでいる瞬間なんて、そんなに多くない気もしている。

 

気付いたらそこに居て、
気付いたら流れに乗っていて、
気付いたら決まっていて、
気付いたら「これで良かったのかな」と考えている。

 

そんなものじゃないだろうか?

 

自分で選んだつもりでも、
その“自分”自体が、環境や状況や人間関係や空気に作られている。

 

だったら、
人生の重要な選択なんて、
本当は「私が選んだ」の前に、
「そうせざるを得なかった」の積み重ねなのかもしれない。

 

そう考えると少し楽になる。

だって、選べなかった自分を責め続ける必要がなくなるから。

 

  流されて生きる方が、正直ずっと楽だ

 

何も考えずに流される。
これは怠惰でも、甘えでもなくて、ある意味ではとても合理的だと思う。

 

自分で決めるということは、
自分で責任を引き受けるということだ。

 

しかも厄介なのは、
責任を引き受けたからといって、別に救われるわけじゃないことだ。

頑張って決めても失敗する。
勇気を出して選んでも後悔する。
真面目に考えても報われない。

 

だったら、最初から流されていた方が楽だ。
責任を曖昧にできるから。
言い訳ができるから。
他人を批判して笑って、自分を諦めたふりができるから。

 

でも、人間はそこまで綺麗に諦めきれない。

自分を手放そうとしているのに、
誰かより優位に立ちたいと思ってしまう。
どうでもいいふりをしているのに、
見てほしい、分かってほしいと思ってしまう。

諦めたいのに、諦めきれない。
手放したいのに、拾いに行ってしまう。

この矛盾があるから、生きるのは面倒なんだと思う。

  選べないんじゃない、選びたくない時がある

 

何が大切なのか。
何が重要なのか。
何を優先すべきなのか。

そんなこと、本当は考えた方がいい。


きっと、世間的にはそうなんだろう。

 

でも、考えたくない時がある。

なぜか・・・?
考えれば考えるほど、
自分が何を捨てて、何を選ぶのかを突きつけられるからだ。

 

選ぶということは、
選ばなかった方を捨てるということでもある。

 

人は、これが案外できない。

「あっちだったらどうなっていたんだろう」
「別の道なら、もっとマシだったかもしれない」
「本当は違う選択があったんじゃないか」

そうやって、選ばなかった可能性をいつまでも眺めてしまう。

だから選択は重たい。
だから選択は面倒だ。
だから時には、考えない方が楽になる。

 

それは逃げだろうか?

 

私は、逃げでいいと思っている。
逃げることが悪いんじゃない。
逃げることでしか守れない自分だって、ちゃんと居るからだ。

 

  後悔とは、過去を受け入れられない自分の言い訳だ

 

結局、何を選んだって後悔する。

選んでも後悔する。
選ばなくても後悔する。
ちゃんと考えても後悔する。
勢いで決めても後悔する。

なぜなら人は、結果だけを見てしまうからだ。

 

過程を見ろと言われても、
実際は結果で判断される世界に生きている。


そしてその価値観を、私たち自身もどこかで信じてしまっている。

だから、後悔したくないと思う。
間違いたくないと思う。
失敗だったと認めたくないと思う。

でも、それでも後悔は無くならない。

私は最近、後悔って、
単なる失敗の証拠じゃない気がしている。

 

後悔って、
過去と向き合って受け入れるための、受け入れられないという言い訳なんじゃないかと思う。

あの時こうすればよかった。
あっちを選べばよかった。
なんで私はああしたんだろう。

そうやって過去を責め続けるのは、
過去を本当に受け入れたわけじゃないからだ。

 

でも逆に言えば、
後悔しているということは、
まだその過去が自分の中で終わっていないということでもある。

 

つまり後悔は、醜さでも弱さでもなく、
まだ自分が自分を処理しきれていない証拠なのかもしれない。

  どれだけ磨いても、後悔はたぶん消えない

 

人間性を理解したら後悔しなくなるのか。
感情を理解したら選択は上手くなるのか。
自分を磨いて、学んで、考えて、成熟したら、後悔は減るのか。

・・・たぶん、少しは減る。
でも、無くなりはしない・・・・・・・・・・・・

 

なぜなら人は、
後悔しないために成長するのではなく、
後悔に意味を与えるために成長しているような気もするからだ。

賢くなっても後悔する。
優しくなっても後悔する。
覚悟を持っても後悔する。

 

それでも人は、
「これで良かった」と言える理由を探し続ける。

 

結局、私たちは、
正しい選択を求めているようでいて、
本当は自分を納得させるための言い訳を探しているだけなのかもしれない。

 

そしてそれは、そんなに悪いことじゃないと思う。

人は利己的だ。
性悪説も持っているし、性善説も持っている。
善悪なんて、その時の自分に都合よく解釈する。

 

だからこそ・・・
都合の良い言い訳と解釈が必要になる。

それが無いと、人は自分を引き受けきれないからだ。

 

  だったら「若さ」という才能で割り切ってもいい

 

だったら、もういいんじゃないかと思う・・・

何を選んだって後悔する。
選ばなくても後悔する。
そんなに物分かり良くもなれない。
悟ったような顔もできない。
いい子ちゃんにもなれない。

だったらせめて、
自分に対して「若さっていう才能」を使ってもいいんじゃないかと思う。

「若さっていう才能」これは某漫画の言葉だ。

 

ただ、私の言う若さとは、年齢のことじゃない。

 

やり直しができると思えること。
一人で責任を背負わなくていいこと。
後悔や過去に縛られず、勢いで動けること。
無知のまま飛び込めること。

 

そういうもの全部ひっくるめて、
私は若さって呼びたい。

若さって、未熟さじゃない。
若さって、やり直しが効くと思い込める才能だ。

それは、とても大きい。

 

慎重さや賢さや正しさより、
ずっと乱暴で、ずっと危うくて、でも、ずっと前に進める力がある。

 

  特性でも病気でもなく、ただの才能の無駄遣いでいい

 

今の時代は、何でも名前をつけたがる。

特性。
MBTI。
障害。
病気。
性格。
気質。

もちろん、それが必要な人もいる。
その言葉に救われる人もいる。
だから否定したいわけじゃない。

 

でも、何でもかんでも

「これはこういう特性です」
「こういう傾向ですね」
「こういう診断に当てはまりますね」
と説明されると、少し息苦しくなる時がある。

 

そんな綺麗な話じゃないだろう、と思う。

 

だってこっちは、
そんなに立派に整理されて生きていない。

ただ迷って、
ただ逃げて、
ただ怠けて、
ただ見てほしくて、
ただ分かってほしくて、
ただ後悔しているだけかもしれない。

 

だったらもう・・・特性でも病気でも障害でもなく、

ただの才能の無駄遣い

くらいの言い方の方が、案外ちょうどいいのかもしれない。

 

才能なんだから仕方ない。
上手く使えないのも、また才能。
雑に使って後悔するのも、たぶん才能。

そう思えたら、少しだけ笑える。
少しだけ、自分を責めずに済む。

  後悔するのが人間なら、言い訳もまた生きる力なんだと思う

 

人生の重要な選択なんて、
いつでもあるし、いつもない。

私たちは、自分で選んで生きているようで、
実際は状況と環境に流されながら、
その場その場でなんとかやっているだけなのかもしれない。

 

それでも、選ばなかった可能性を捨てきれず、
見てほしい、分かってほしい、負けたくないと思ってしまう。


だから苦しい。
だから後悔する。

でも、その後悔すら、
自分を受け入れられない自分の言い訳だとしたら。

言い訳って、そんなに悪いものだろうか・・・?

 

私はむしろ、
言い訳があるから人は生き延びられるんじゃないかと思う。

 

綺麗に納得できないから、言い訳する。
受け入れきれないから、後悔する。
割り切れないから、可能性を捨てきれない。

 

それが人間なんだと思う。

だったらせめて、
自分に向ける言い訳くらいは、少し優しくていい。

 

若さっていう才能。
無知の特権。
才能の無駄遣い。

そうやって少し笑いながら、
自分を責め切らずに生きる方が、
この世界では案外、大事なのかもしれない。

何を選んだって後悔する。
それでも選ぶなら、自分を責めすぎないための言葉を持っていたい。

そして私は今、少しだけ思う。

才能なんだから、仕方ない。
そう割り切れることもまた、
生きるための才能なのかもしれない。

 

 

 

プレゼントなんて、今の時代いくらでも選べる。

 

便利なものもある。
高価なものもある。
実用的で、長く使えて、失敗しにくいものだって山ほどある。

 

それなのに、どうして人は今でも花を選ぶのだろう?

花は、食べられない。
使い続けることも出来ない。
やがて枯れていく。
残るものですらない。

なのに、花はずっと贈り物であり続けている。

 

それはきっと、
花が「モノ」ではなく、
時間そのものを贈るものだからなんじゃないだろうか?

 

 

 

 

  花は、気持ちを言葉より静かに伝える

 

想いを伝えるのは難しい。

好きです。
ありがとう。
ごめんなさい。
頑張ってね。
大丈夫だよ。

どの言葉も、言おうと思えば言える。


でも、言葉にした瞬間に軽くなったり、重くなりすぎたり、
思っていた形と少し違って届いてしまうこともある。

 

言葉は便利だ。
だけど、便利だからこそ、届き方が雑になることもある。

 

その点、花は少し違う。

色がある。
形がある。
香りがある。
季節がある。
そして、そこに花言葉まで重なる。

赤と白では空気が違う。
一輪と花束でも意味が違う。
同じ「贈る」でも、花はその選び方そのものが気持ちになる。

 

つまり花は、
言葉になりきれなかった感情の翻訳なんだと思う。

うまく言えないから、花を選ぶ。
重くしたくないから、花に託す。
言葉では足りないから、花を添える。

 

人は昔から、
そうやって花に気持ちを預けてきたんだろう。

 

  残らないからこそ、美しいものがある

 

物は残る。

残るからこそ安心できるし、
残るからこそ価値も分かりやすい。

 

でも、残るものには比較がついて回る。

値段はどうか。
ブランドはどうか。
役に立つか。
センスがあるか。
長持ちするか。

現代は、何でも比べられる。
便利さも、効率も、価格も、意味さえも。

 

そんな世界の中で、花は少し異質だ。

 

花は、残らない。
咲いて、香って、変化して、やがて終わる。

その終わりが前提にある。
だからこそ、人の心に深く触れるんだと思う。

ずっとあるものより、
今しかないもののほうが、胸に刺さることがある。

 

夕焼けもそうだ。
桜もそうだ。
若さもそうだ。
恋も、季節も、命もそうかもしれない。

 

終わりがあるから、見ようとする。
消えていくから、大切だと思える。

花はまさに、その象徴だ。

「いつか枯れる」と知っているのに、
いや、知っているからこそ、
人はその美しさに立ち止まる。

 

それはきっと、
花を見ているようでいて、
本当は自分たちの生そのものを見ているんだろう。

 

  花は、変化する美しさを持っている

 

花の魅力は、完成された美しさだけじゃない。

つぼみの時間がある。
咲き始めがある。
満開がある。
そして、少しずつ衰えていく時間がある。

ずっと同じ姿ではいない。

 

ここが、とても人間的だと思う。

私たちも同じだ。
ずっと同じままではいられない。
喜びも、悲しみも、若さも、関係も、
全部変わっていく。

でも、変わることは、悪いことじゃない。

 

むしろ変わるからこそ、
その瞬間にしかない美しさが生まれる。

 

花はそれを、黙って見せてくる。

「変わるものは価値がない」んじゃない。
「変わるからこそ価値がある」と、
花は静かに教えてくれる。

だから人は、花に惹かれるのかもしれない。

本能で知っているんだと思う。
永遠じゃないものにこそ、心を動かされることを。
完成よりも、移ろいの中に真実があることを。

 

 

  花を贈ることは、その人の時間を思うこと

 

花を贈るという行為は、
ただ何かを渡すことじゃない。

 

その人に、どんな色が似合うだろう。
どんな香りなら喜ぶだろう。
どんな場面で、どんな気持ちで受け取るだろう。

そうやって考える時間そのものが、もう贈り物なんだと思う。

 

花は実用品じゃない。
だからこそ、実用以外のものが全部出る。

気遣い。
願い。
祈り。
愛情。
遠慮。
照れくささ。
言葉に出来ない優しさ。

 

そういうものが、そのまま花には出る。

 

プレゼントが選び放題の時代だからこそ、
花はむしろ特別なのかもしれない。

合理性ではなく、
感情を選ぶ。

残るものではなく、
消えていく美しさを選ぶ。

便利さではなく、
心に触れる一瞬を選ぶ。

 

それはとても非効率で、
でも、とても人間らしい。

 

  花が選ばれ続ける理由

 

花は、語りすぎない。
でも、ちゃんと伝わる。

花は、残らない。
でも、記憶には残る。

花は、役に立たない。
でも、心を動かす。

 

たぶん人は、
本当に大切なものが必ずしも実用的じゃないことを、
どこかで知っている。

 

だから今でも花を贈るんだろう。

花は、
「あなたのために選びました」


という気持ちを、
とても静かに、でも確かに伝えてくれる。

 

そしてその儚さは、
私たちに問いかけてくる。

残ることだけが価値なのか。
変わらないことだけが美しさなのか。
消えていくものには、本当に意味がないのか。

 

そんな問いに対して、
花は答えない。
ただ咲いて、香って、変化して、そして終わっていく。

 

その姿そのものが、
もう答えなんだと思う。

 

 

 

  シンプルフレーズ

 

花が今でもプレゼントとして選ばれるのは、
花がただの飾りじゃないからだ。

色や形、香りや花言葉。
それだけでも十分に魅力はある。

 

でも本当に人の本能に触れているのは、
儚さと変化なんだと思う。

 

残らない。
変わっていく。
それでも美しい。

その在り方が、
私たちの心の奥にある何かと重なる。

だから人は、
選び放題の時代でも、
あえて花を選ぶ。

残るものではなく、
心に咲いて、記憶に残るものを渡すために。

花は、モノじゃない。
一瞬を贈る祈りなんだと思う。