大切なモノを大切にしたいと思ったら。どうしますか?

 

心配して、いっぱい言葉をかける?

絶対安全な場所に囲って、護る?

それとも、自分の一番近くに置いて、いつも一緒に居る?

 

出来ない時ってあるくない?

大切なモノを大切にしたいと思う

 

 

大切なモノを大切にする方法

護る為に、無くさなないために、

傷つけて、壊したり、失ったり、大切だと思えなくならない為に

 

試行錯誤を繰り替えす。

 

そして、一つの方法として、シンプルフレーが伝える大切にする方法。。

それは、

 

大切なモノとの時間を共有すること。

一緒の時間が長ければ長いほうが、きっと大切にすることが叶うだろう。

 

●旅先で財布を無くさないようにするために、肌身離さず持つように。

●出先で子供が迷子にならないように

●自分が知らないトコロで、傷つかないように

●なにかあっても、すぐに助けられるように

 

同じ時間を共有して、モノだろうと人だろうと、自分の手や目が届くところにある事が

一番安心できる

 

  逆に、大切にされたいって思っている人も

 

同じ時間を共有したいと感じているんじゃないだろうか?

大切な人との時間を共有することが、大切にする方法なら、大切にされる方法も同じく時間を共有すること。

たとえすれ違いの時間が多くても、事情や都合があるから別々の時間があったとしても、

共有する時間を大切にすることが、モノじゃない人を大切にする方法。

 

大切にされたいと思うなら、その願う相手との時間を大切にするしかないだろう。

どんな時間を共有するのか?

どうやって共有するのか?その時に何をするのか?何を言うのか?

その答えは無いのかもしれない。

 

でも、出来るんなら見つめてあげるのが良いんじゃないかな?

目の届くところ・・・手の届くところ・・・

それが、安心できる一つの方法だからね。

 

  一方通行で大切に出来ないってよくある事

 

大切だと思えるモノ

それが人の時は、簡単には時間の共有も出来ない。

 

相手が受け入れてくれないと・・・・・・・・

ただのストーカー(切ない)

 

自分がどれだけ大切にしたいからって、同じ時間を共有しようとしても、

相手が居やがっていたら、

相手にとっては、辛く楽しくない時間。

 

自分が楽しい時間が、相手にとっても楽しい時間とは限らない。

(実際そうなんよ)

 

大切にしたいからって、声を掛けたり、目をかけたりしても

「縛られている」って言われたらそれで終わり。

(子育てあるあるだけど、そうじゃない時もいっぱいよ)

 

どれだけ『大切だから』って言っても、伝わらない。相手が望んでいないから。

 

もう、その時は方法を変えるしかない。

時間の共有が出来ない時にも、大切にしたいって気持ちは変わらないから。

 

 

目が届かなくても、手が届かなくても、出来ることはある

 

同じ時間を共有して、

目が届いて、声が届いて、手が届く

その距離感で、一緒に居られるなら、それが一番素敵だし、大切に出来ている実感が出来る。

 

でも、実際にはそうもいかないことが多すぎる。

 

自分がどれだけ望んでいても叶わない時なんて多すぎて、どうにもならない。

 

それでも何とかしたいって、一緒に居たいって思うのはエゴなのかな?

良いか悪いかは別にして、その気持ちだけは素敵だと思う。

 

じゃあ、どうするのか?

 

信じてあげるしかないよね。

そして、出来る時に出来ることをするしかない。

 

同じ時間を共有できるのが少ないなら、共有出来る時をより充実できるように

心にも、記憶にも残る方法を探すだろう

 

目も手も声も届かないトコロなら・・・

信じて待つしかないのかもしれない。

あとは、なにかあった時には、全力で手をかけてあげればいいじゃないか。

 

常に把握することは困難かも知れないけれど、出来る限りをしてあげることが

気をかけてあげるってことなんじゃないかな?

 

時間を共有することが出来ないなら、

大切なモノへの気持ちを常に向けてあげておくこと、気にかけてあげていることが、

大切にする方法なんだろう。

 

気持ちは自由で、心は自由なんだから、

時間の限り、相手を思ってあげることが、大切にする方法の一番必要なコト

思いがあるから

行動になって

行動があるから

結果がある。

大切にしたい想いがあるから、大切に出来るんだから

その想いを向けてあげることが、きっと一番重要なのかもしれないね。

 

出来ないと失っちゃうから

毎日つまらない。
仕事ばっかり。
面白いことがない。

そう思う日って、ある。
というか、むしろそれが「普通」なのかもしれない。

 

でも、そんな時ほど私は思ってしまう。

人生って、結局“自分の行動”でしか変わらない。
行動しないことも含めて、ぜんぶ「選択」なんだって。

 

  「選べない」と「選ばない」の間に、人生がある

 

私たちはよく言う。

「選べない」
「自由がない」
「仕方がない」

うん、分かる。
自由が無い時期って、本当にある。

 

お金がない。
時間がない。
家族がいる。
子どもがいる。
責任がある。
体力も気力も削れている。

「動けない」が現実として存在するのは、事実だと思う。

 

でも同時に、私はこうも感じている。

選択肢が少ないだけで、“選べない”わけじゃないんじゃないか?

選べないんじゃなくて、
本当は「選びたくない」だけの時もある。

告白するのか、しないのか。
出会いの場に行くのか、待つのか。
変えたいと思いながら、今日も何もしないのか。

「選べない」は、
ときどき「怖い」の言い換えになる。

 

  未来を変えるのは、大きな決断じゃない

 

人生を変えるっていうと、
転職とか、引っ越しとか、離婚とか、独立とか、
大きな決断を想像しがちだけど。

本当はそんな“派手な話”じゃない。

 

未来を変えるのは、スマホの更新ボタンみたいな

小さい行為の繰り返しなんだと思う。

 

しかも前提がある。

失敗する前提。

 

一回で大当たりなんて、引けない。
初手で正解に辿り着くほど、人生は甘くない。

なのに、なぜか人生になると
「最初から当てたい」と思ってしまう。

 

  行動しない人ほど、一発逆転を信じたくなる

 

ちょっと意地悪な言い方になるけど、
行動しない人ほど、ギャンブルをする。

 

それは、「回さないと当たらない」ことを
本当は知っているからだと思う。

当たるまで回す。
当たるまで買う。
情報を集めて、確率を上げて、またベットする。

 

それを人生でもやればいいのに、人生ではなぜか、回す前に止まる。

そして言う。

「面白いことないっすか?」
「何かいい話ない?」
「誰か誘ってくれない?」

いや・・・誘ってるのに来ないじゃん、ってなる。

 

面白さは、配達されない。
自分が“参加”しないと、始まらない。

  「やった後悔」は、血肉になる・・・でも記録が辛い

 

よく言うよね。

やらなかった後悔より、やった後悔。

 

私もそう思う。
でも、正直に言う。やった後悔はしんどい。

 

記憶が消えないのも辛いけど、
今は「記録」まで消えない。

履歴、データ、過去の投稿、失敗の痕跡。
世界に刻まれる。

 

ぶっちゃけ、事故情報は何年も消えない・・・まだ私はブラックのままだ。

 

だから、人は動けなくなる。

「動いたら傷つく」
「動いたら敵が増える」
「動いたら失う」

その怖さは、甘えじゃない。
現実だ。

そりゃそうだ・・・どれだけ何が出来て、何を持っていて、何を目指していようが・・・

ブラックは何も出来ない。社会的信用が無い。認められていないっていう証拠を突き付けられているんだ。

まるで、社会悪・・・新しい職場で聞かれたさ・・・「何でこの年で?」って・・・ブラックだからさ・・・

他に行く場所が無いんよ。ごめんじゃん。

 

もう、後悔とか懺悔とかじゃない。磔にされてるようなもんよ。

ハードモード?っていうより、マゾモード。

 

周囲からは冷たい視線・・・笑ってごまかすのは私の理性。

共感も同情も何もいらない。私が笑うから一緒に笑ってくれ

 

  それでも「行為」は、勝者の理論じゃない

 

ここで私は、勝者の自己啓発が嫌いになる。

「行動しろ」
「自分次第」
「努力は裏切らない」

・・・いや、裏切るよ。普通に。

 

キリストは磔だし、
ブッダは餓死しかけたし、
ナポレオンは投獄されてる。

柳井会長だって、成功したのがユニクロだっただけって言ってる。

私は離婚で破産でブラックで独身でちょっと変わってるマイノリティ・・・

 

それもこれも、行為した結果の現状だ。

 

いきなり成功する人なんて、いない。

 

だから私は思う。

行為は「勝つため」じゃない。


生きる意味と価値を見つけるための探索なんだ。

 

冒険だよ?とレジャーハントだよ?

ハイリスクだよ?リターンは生き残れたらlucky。

もうムリゲー・・・

ゲームならダークソウルかエルデンリング?周回必須の・・・いや、途中で飽きるっていうか、諦めますわ

  「思いやり」も「おもてなし」も、結局は自分の物差し

後悔って失敗や、他人に迷惑を掛けたっていうことでしょ?っていう現実。

だからこそ、後悔したくないし、負債は背負いたくないし、ミスはしたくない。

上手く生きて生きたいんだ。

 

それは、他人の関係する事でも同じことなんだよ。

他人との関係で、共感したり、共有したり・・・

誰かの為に行動したい!とか、誰かの為に・何かの為にっていう行動ってするでしょ?

 

でも、それは自分の為なのか?他人の為なのか?っていうところ・・・

「おもいやり」は、誰かの為の行動?

「おもてなし」は、自分の為に誰かにする行動?

さらにややこしいのが、ここ。

 

自分を大切にするって、何?っていう矛盾。

自分の気持ちに正直にって言ったら、
ただの自己中になりそうで怖い。

 

でも、考えた。

 

人は結局、自分の物差しでしか他人を見られない。

「助けてほしそう」も、
「共感してほしそう」も、
見ている側の価値観。

 

その物差しを
「思いやり」って言葉で相手に押し付けてるだけかもしれない。

そして面白いことに、

  • 行為したい時は「おもてなし」を使う

  • 行為したくない時は「思いやり」を使う

理性って、いつも後出しでうまい言い訳を作る。

自分を正当化して、他人に押し付けて、分かり易くそれっぽく、なんとなく「やったたぜ!」感を出す。

 

結局、
欲望で動いて、理性が意味をつけるだけなのかもしれない。

 

  だから私は、「選択した事実」を持っていたい

 

人生はどうせ後悔する。何かをしようがしまいが、行為だろうが、行動だろうが、発言だろうが、見て見ぬふりだろうが、しらを切ろうが、言い訳しようが・・・なんなら、夜に寝ても後悔、寝なくても後悔。人って面白い。

 

しなくても後悔。
しても後悔。
なんでもかんでも、選んだこと自体を後悔してる。

 

生きた結果って、常に「別の可能性」に惹かれるから。

選ばなかった可能性に、出来なかった可能性に惹かれるの。

無いものねだりは、人の本質。無いから欲しいって思うから、欲しいから後悔するのは必然で人らしさなんだよ。

 

だから私は、こう思う。

後悔を消すために生きるんじゃなくて、
「選んだ」という事実を持つために生きたい。

自分の人生は、自分の選択の結果でしかない。

する?しない?
やる?やらない?

その全部を、私は自分の裁量で決めている。


そして、決めたあとに、理性が整った顔でこう言う。

時間が無い。
お金が無い。
余裕が無い。

でも、それは「出来ない理由」じゃない。


本当はただ、やらないを選ぶ理由を、あとから理性が用意しているだけだ。

 

私たちは、何もしていないようで、ちゃんと選んでいる。
逃げているようで、ちゃんと守っている。
止まっているようで、現状維持という行為をしている。

だからこそ、ここが一番大事になる。

あなたも私も、何かをやらないっていうのは、それより優先する「何か」があるだけなんだ。

 

その「何か」は、世間の正しさでも、他人の期待でもなく、
自分の中の優先順位だ。

それを知ることが、「自分を大切にする」っていうことなんだと思う。

やるか。
やらないか。
どっちでもいい。

ただ、どっちに転んでも、「私は選んだ」と言えるように。
自分の人生を、自分の選択として引き受ける。

それが私の、最初の矜持だ。

 シンプルフレーズ

 

自分の人生は、自分の選択の結果でしかない。

する?しない?・やる?やらない?すべての選択は自分の裁量で決められる。

あとから、出来ない理由ややらない理由や原因を理性が用意しているだけだ。

時間が無い?

お金が無い?

余裕が無い?

それは、出来ないんじゃなく、やらないを選ぶ理由であって、出来ない理由じゃない。

 

あなたも私も、何かをやらないっていうのは、それより優先する「何か」があるだけなんだ。

それを知ることが、自分の大切を知るっていうことだ。

「1人の自由は、孤独の代替じゃない。
誰も傷つけずに生きるための、最適解だ。」

 

1人で居たいわけじゃない。ただ、誰も傷つかない選択をしているだけ

 

  一人は、平気なんかじゃない

 

「一人で平気そうだよね」
そう言われることがある。

でも、平気なわけがない。
一人って、そんなに軽いものじゃない。

 

共感を得られない寂しさ。
感情を打ち明けられない寂しさ。
助けが欲しい時に頼れない寂しさ。
弱音を吐ける安心感がない寂しさ。

 

一緒に楽しみたい、盛り上がりたい、感動を分かち合いたい。
そんな瞬間に、向けどころがない寂しさ。

 

そして何より、夜に訪れる、言葉にならない感情。
不安や後悔が紛れず、負の感情がずっと内側に向く時間。

それが、私が感じる「寂しさの辛さ」だ。

 

人は、それを全部抱え込んで生きていけるほど強くない。
少なくとも私は、強くない。

 

だから、吐き出す場所を探してしまう。
SNSでも、文章でも、言葉でもいい。


「弱いだけなのかもしれない」と思いながら、
それでも、どこかで救いを探してしまう。

  寂しさの正体は「共有できない感情」

 

寂しいのは、単に「一人」だからじゃない。

 

本当は、
感情を共有できないことが辛いんだと思う。

 

悲しい時に悲しいと言えない。
嬉しい時に嬉しいと言えない。
頑張った時に、頑張ったと言えない。

感情は、出せないまま溜まっていく。
溜まった感情は、夜に出てくる。
言葉にならない形で、静かに押し寄せてくる。

 

だから「一人は平気?」と聞かれたら、答えはNOだ。
平気なわけがない。

 

  それでも誰かを傷つける方が怖い

 

それでも私は、こう思ってしまう。

誰かを傷つけるくらいなら、自分が傷ついた方が楽。

 

これは、私だけじゃないはずだ・・・


誰かを悲しませて、傷つけて、
取り返しがつかない状況になって、
二度と会えなくなって、
謝罪も贖罪もできないまま、
いつまでも後悔し続けるくらいなら。

それなら、一人の方がまだまし。

ただそれだけのこと。

ここで誤解されたくないのは、
「自分が壊れる方を選んだ」わけじゃないということ。

 

私は、
誰も壊れない選択をしただけだ。

  一人を選んだのではなく、距離を選んだ

 

私は「一人が好き」な人間ではない。

他者に依存することで得られる共感や救いを、
自己の中で完結する方法を探している。

 

それは自己理解であり、
否定や後悔を学びや経験に変えていくという選択。

 

私は常に、取捨選択に重きを置いている。

優先順位の問題だ。

 

他人との繋がりで得られるメリットより、
傷つけないメリットを選ぶ。

自分だけでは乗り越えられない葛藤や寂しさの中に、
自由という可能性を見出していく。

だから私は、「一人」を選んだんじゃない。


距離を選んだ。

 

深く近づきすぎない距離。
傷つけないための距離。
壊さないための距離。

それが、私の生き方の設計だ。

 

  一期一会で十分だと思っている

 

特別な関係にならない。
深い関係にもならない。

仲の良い人がいないわけじゃない。


でも、深くはならない。
そしてそれは「なれない」ではなく、望んでいない

適度な友人でいい。
その時その時に、全力で十分だ。

長くダラダラ続く関係が必要だとは、私は思わない。

 

一期一会。
 

それ以上でも、それ以下でもない。

その瞬間の誠実さと、
その瞬間の温度で、十分だと思っている。

  マイノリティとして生きる選択は、意味がある

 

ここまで書いてしまうと、
社会的には「失敗」なのかもしれない。

繋がりと関係と、他者性と社会性と公共性があって、
初めて人は共同体に属せるのだとしたら。

私は、その多数派の設計から外れている。
マイノリティとして属せていない。

でも私は思う。

 

マイノリティとして生きる選択にも、意味がある。

 

誰かを傷つけない。
自分も傷つけない。
悲しませない。
その一点にピントを合わせて生きる。

それは言い訳でも自己都合でもない。
「自分が望んだ未来の願いの叶え方」だ。

 

自分の人生を自分のために生きて、
その結果、どこかで誰かと繋がるなら、それは素敵。

でも、繋がるために生きるんじゃない。
自分のために生きることが、最初の優先順位にあるだけ。

理解してもらう必要はない。
けれど、私が生きるには十分な意味と価値がある行為だと思う。

 

  1人の自由は、孤独と同義じゃない

 

寂しい夜があるのは当たり前。
苦しい時間があることも知っている。

 

それでも、
自分のために自分に使える時間があること

それは私にとって、最高のご褒美だ。

 シンプルフレーズ

私は一人を選んだんじゃない。1人だから得られる自分の為の時間を享受する。

同じ時間に起きて、
同じ道を通って、
同じ仕事をして、
同じように一日が終わる。

飽き性ってダメですか?刺激がない日常に耐えられないだけなんです

 

特別なトラブルがあるわけでもない。
嫌な人がいるわけでもない。
むしろ「恵まれている」とさえ言われる。

なのに、ふとした瞬間に思う。

「……つまらない」

 

この言葉を口にすると、だいたいこう返ってくる。

「贅沢だよ」
「慣れただけでしょ」
「安定してるじゃん」

そう言われるたびに、
自分が飽き性で、落ち着きがなくて、ダメな人間みたいな気がしてくる。

でも本当にそうなんだろうか。

  飽きるって、我慢が足りないこと?

 

「飽き性だよね」
そう言われたこと、ありませんか??

 

続かないね。
我慢できないね。
落ち着きないね。

 

言われるたびに、ちょっとだけ胸の奥がザラつく。

でも正直に言うと、私はずっと思っていました。

 

これって、本当に悪いことなのかな?

  刺激があると、人はちゃんと楽しい

 

新しい仕事を覚えるとき。
初めての場所に行くとき。
誰かと出会ったばかりのとき。

不安もあるけど、どこかワクワクする。

 

頭が動く。
心が反応する。
世界とちゃんと接触している感じがする。

 

でも、それが・・・

慣れて、当たり前になって、余裕になった瞬間。

 

急に、心が静かになる。

「つまらない」とまでは言わない。
でも、何も感じない。

そのとき、人は言う。

「飽きた」

 

  当たり前になった瞬間、人は飽きる

 

でもそれって、
成長したとか
学び切ったとか
成果を出したとか、
そういう話じゃない。

 

ただ単に、心が揺れなくなったそれだけなんだと思う。

仕事でも、恋愛でも、日常でも。

毎日同じ時間に起きて
同じ道を通って
同じ会話をして
同じ一日を終える。

安定している。
安心もしている。

でも、心がどこにも行っていない。

社会はそれを「正解」と呼ぶ。

普通であること。
当たり前であること。
波風を立てないこと。

確かに、それは必要だ。

 

でも——
刺激が一切ない日常に、耐えられない人もいる。

 

  飽き性な人は、刺激を価値にしている​​​​​​​

 

飽き性って、
わがままなんじゃない。

刺激に反応してしまう感受性を持っているだけなのかもしれない。

 

心が動く瞬間を、
ちゃんと「生きている」と感じてしまうだけ。

だから私は、刺激が欲しい。

 

安心も安定も大事だけど、
それだけで一生を終わらせるほど
器用じゃない。

自分の居場所は、
まだ分からない。

探している途中だし、
正直、疲れることもある。

 

でも・・・この不安定で、未確定で、
出来損ないみたいな人生は、
刺激だけは、たくさんある。

 

だから今日も思う。

さてさて、次は何をしようかな。

それくらいで、生きていてもいいんじゃないだろうか。

 シンプルフレーズ

「飽きるのは、怠けじゃない。
心が動かなくなったことに、正直なだけ。」

落ち着けなくてもいい。
定まらなくてもいい。

刺激を求めて彷徨う人生も、
ちゃんと人生だと思う。

 

「値札を貼られて生きる」っていう世界

私たちは、
結果で評価されていると思っている。

努力したか
積み上げたか
行為に意味があったか

でも現実は、
そこに辿り着く前に値札が貼られる。

 

第一印象。

見た目。
雰囲気。
声のトーン。
距離感。
アクセの数。
髪の長さ。

ほんの数秒。

中身に触れる前に、
人格の仮決定が下される。

「この人は○○な人」

 

それはもう
評価というより仕分け

・信用枠
・警戒枠
・雑に扱っていい枠
・深く関わらない枠

人は思っている以上に、
ラベル処理で生きている。

 

言葉が大事だと言う。
行為が価値を作ると言う。

確かにそうだ。

でもその前に、
入口で弾かれるかどうかがある。

言葉が届く前に
行為が意味になる前に
「はい、あなたはこの棚」

 

恋愛も、仕事も、社会も。

値札はこう書かれる。

・軽そう
・真面目そう
・危なそう
・使えそう
・めんどくさそう

しかも厄介なのは、
この値札が本人不在で貼られること。

 

結果を出しても、
行為を積んでも、
一度貼られた値札は剥がれにくい。

だから人は疲れる。

「ちゃんとやってるのに」
「中身を見てほしいのに」

でも世界は言う。

まず見た目と雰囲気です。

 

じゃあ、どうするか。

世界を恨む?
評価を拒否する?
無価値を肯定する?

それも一つ。

でも私はこう思う。

値札を貼られるなら、
貼られる前提で立つしかない。

 

誤解されることも、
軽く見られることも、
最初から織り込む。

その上で、
行為を積む。
結果を出す。

ひっくり返せる場所では
ひっくり返す。

ひっくり返せない場所では
静かに離れる。

 

価値は、
誰かが決めた値段じゃない。

でも意味は、
自分がやった行為の中に残る。

それだけは、
値札を貼られても
奪われない。

 

 勝手に名言

「値札を貼られても、生き残ってるなら
その人生は安売りじゃない」

 

今日も世界は雑で不条理で優しくない。

それでもどうすることも出来ないんなら、その荒波の上で笑いたいね。