夜って特別な気がするんだ。

誰のモノでもない感じがするし

一人だけで居ると自分だけのモノのような感じもする。

とっても素敵な時間を感じられる。

 

夜を着て歩きたいくらいだ・・・

深夜の散歩って、落ち着くね。

 

私は深夜の散歩やジョギングを続けている。

仕事が終わるの深夜。
普通なら、もう寝ている時間だ。

 

でも、その時間に外へ出て歩いていると、少しだけ特別な感じがする。

別に誰かに褒められたわけじゃない。
一番になったわけでもない。
認められたわけでもない。

それでも、普通が寝ている時間に自分は動いている。


それだけで、深夜という時間が勝手に特別を演出してくれる。

自分だけの特別を手に入れたような気がするんだ。

 

誰だって、特別が欲しいんだと思う。
主役になりたい。
一番になりたい。
認められたい。
褒められたい。
肯定されたい。

でも、そんなの簡単じゃない。

 

だから人は、誰かの姿を見て比べてしまう。
自分を高めようとしたり、責めてみたりする。
誰かの言葉に影響されて、誰かの結果に揺れて、誰かの評価を気にしてしまう。

本当に忙しい。

体だけじゃない。
心も頭も、ずっと忙しい。

特に夜は厄介だ。

眠れない夜ほど、思考が溢れてくる。
嫌なことを思い出す。
過去のトラウマや後悔が繰り返す。
部屋は静かなのに、頭の中だけがうるさい。

 

でも、外に出て歩くと少し違う。

歩いていると、場面が流れていく。

たまに車が通る。
たまに人とすれ違う。
コンビニの明かりが見える。
信号で足が止まる。
どこかに人の気配がある。
空を見上げる。
遠くの町の明かりを見る。

そのたびに、考えていたことが一度止まる。

止まって、消える。
また別のことを考える。
でも、それもまた景色や音に触れて、消えていく。

家の中にいると、同じ思考がずっと回り続ける。


でも、外では景色が変わる。
音が変わる。
気配が変わる。

頭の中で同じ曲がリピートされていたのに、歩いているうちに違う音楽へ切り替わるような感じがする。

 

それが素敵なんだ・・・

深夜の散歩は、何かを解決してくれるわけじゃない。
自分を取り戻すとか、奪い返すとか、そんな大げさな話でもない。

 

ただ、忙しくて見えなくなっていた自分が、少し感じられる。

深夜という時間がくれる特別感。
歩くことで思考が泡のように消えていく静けさ。
家の中では得られない、小さな変化。

 

それがあるから、私は思う。

深夜の散歩って、落ち着くね。

 【シンプルフレーズ】

特別を探して疲れた夜は、
深夜を歩けばいい。

何者にもならなくていい。
ただ、少し落ち着けたなら、
それだけで素敵だ。

昔は、本気と書いてマジと読んでいた。

今はきっと、本気と書いてガチって読むんだろう。

 

いつからなんだろうね。
マジって言葉をあまり使わなくなったのは。
いつからなんだろうね。
本気って言葉が少し古く感じるようになったのは。

気が付いたら、誰もが「ガチ」って言うようになっていた。

 

これが、ジェネギャってやつなんだろうね。

 

「全力でガチれ」なんて言うと、全力で本気ってことだから、意味が重複していて自分でも少し笑える。

今、何にガチるのか分からないまま生きている?

今の私は何にガチるんだろうか?

シンプルフレーズにもガチりたい。
この考察にもガチりたい。
休日も満喫したい。
出会いもあったら嬉しい。
これから何かを始めたいとも思う。

 

だから、自分磨きも手抜きできない。
思考の柔軟さも手放せない。
興味や関心事も減らしたくない。


何にでも挑戦したい。
そして、大いに失敗しても良いと思う。

無くしたことがあるって、きっと凄い経験なんだろうと勝手に言い張っている(笑)

 

でも、正直に言えば、時間も予算もない。

やりたいことはある。
欲しいものもある。
でも、全部に手を伸ばせるほど、人生は広くない。


休日はすぐ終わる。
給料には限りがある。
体力も気力も無限じゃない。

 

その上で、何に本気?何にガチになるのか?になるのか?

 

そう考えた時に、少し問いが変わる。

「何にガチるか?」ではなく、
「何のためにガチを求めるのか?」

 

私は何かを頑張りたいのか?
それとも、頑張っている自分を見たいのか?
何かを手に入れたいのか?
それとも、まだ何かを求めている自分を確認したいのか?

 

子供にも会えない。
自分の未来にも期待できない。

 

そんな私が、今さら何を求めるのか?

 

金か。
出会いか。

大いにあるね。

綺麗事じゃない。
金は欲しい。
出会いも欲しい。
楽しい時間も欲しい。
自分を認めてくれる誰かがいたら嬉しい。
自分の言葉を読んでくれる誰かがいたら嬉しい。
何かが始まる予感だって、まだ欲しい。

 

でも、それのために何をするのか?


どこまでやれるのか?
どこまで差し出せるのか?

何を捨てて、何を残すのか?

 

迷っている。
迷っている時ほど、私はちゃんと生きているのかもしれない。

 

完全に終わった人間は、たぶん迷わない。

もうどうでもいいなら、悩まない。
もう欲しくないなら、考えない。
もう何も求めていないなら、「何にガチるか?」なんて出てこない。

 

だから、迷っているということは、まだ何かを求めているということなんだと思う。

 

昔は、本気と書いてマジと読んだ。

今は、本気と書いてガチと読む。

でも私は、今すぐ何にガチるかを決められない。

 

決められないまま、考えている。
迷っている。
欲しがっている。
諦めきれずにいる。

それでいいのかもしれない。

 

迷っている時が、人生を生きている証なんだ。

RADWIMPSの楽曲「命題」にあるように、あえて間違えないことよりも、

迷いながらも自分なりの答えを模索することも好きだな。

 

意味をつけるのは、いつでも自分だ

価値なんて、いつだって相対的だと思う。

誰かが良いと言ったから。
誰かが認めたから。
みんなが欲しがったから。
社会がそれを正しいと決めたから。

そうやって、価値は作られていく。

 

でも、そこには意外と「自分」がいないことが多い。

 

私がどう思ったのか?
私が何を感じたのか?
私にとって、それは本当に大切なのか?

 

そういう自分の感覚よりも、誰かの評価や、世間の空気や、みんなの正解に左右されてしまうことがある。

 

それは仕方ないことだろう・・・

人は一人で生きているわけじゃない。


誰かに認められたいし、間違っていると思われたくないし、できるなら「それでいいよ」と言ってほしい。

だから、自分の感覚だけで価値を決めるのは、思っているより怖い。

  辞書の意味も、誰かが決めたもの

意味も、きっと同じなんだと思う。

例えば、辞書に書いてある言葉の意味。
あれだって、私が決めたわけじゃない。

どこかの誰かが、いつの日か決めた。
長い時間の中で、多くの人が使って、認めて、広がって、今の意味になった。

たったそれだけのことでもある。

 

もちろん、それは大切なことだ。
言葉の意味がみんなバラバラだったら、会話なんて成り立たない。

 

新しい何かに意味を持たせるのは、作り手の特権なんじゃないか?

 

親が子どもに名前を付ける時、その名前に願いや想いを込めるように。
誰かが作品を作る時、そこに自分だけの意味を込めるように。
何気ない日常に、自分だけの意味を見つけるように。

意味は、最初からそこに落ちているものじゃない。
自分で付けていくものでもあるんだと思う。

 

  誰も認めなくても、意味は付けられる

誰も認めてくれないと、価値は決まらないことがある。

誰も知らないものは、広がらない。
誰も評価しないものは、世間的には価値がないように扱われる。


どれだけ自分が大切にしていても、他人から見れば「何それ?」で終わることもある。

それは寂しい・・・

 

でも、意味は誰も認めてくれなくても、自分で意味を付けることはできる。

今までの日々。
今の努力。
これからの苦難。
失敗したこと。
逃げたこと。
悔しかったこと。
誰にも言えなかったこと。

それらに、どんな意味を付けるのか?

 

「無駄だった」と思うのか。
「必要だった」と思うのか。
「まだ終わっていない」と思うのか。
「ここから始まる」と思うのか。

それを決めるのは、最後は自分なんだと思う。

  でも、自分は感情に左右される

意味を付けるのは自分だ。
でも、その自分は感情に左右される。

気分が良い時は、世界が少し明るく見える。
過去の失敗さえ、「まあ、あれも経験だったな」と思えることがある。

でも、気分が沈んでいる時は違う。

世界は敵だらけに見える。
あの努力も無駄だった。
あの我慢も意味がなかった。
あの優しさも報われなかった。
結局、何だったんだよ。

そう思ってしまう時がある。

同じ出来事なのに、心の状態ひとつで意味が変わってしまう。

これは悲しい。
でも、すごく人間らしいことだとも思う。

いつも前向きに意味を付けられるほど、人は強くない。
いつも自分の人生を肯定できるほど、心は安定していない。

 

だからこそ、誰かが決めた価値や意味に縋りたくなる。

 

社会が認めたもの。
みんなが良いと言うもの。
辞書に書いてある意味。
誰かが保証してくれる正解。

 

それに頼れば、自分の揺れに振り回されなくて済むから、

自分の思いより、他人の目線に逃げてしまうことを悪いとは言えないな・・・

 シンプルフレーズ

いい意味をつけるのも、悪い意味をつけるのも、いつでも自分だ。 

だったら、明日世界がどっちを向いていたとしても、その決定権だけは、誰にも渡さずに握りしめていよう。

感情に振り回される、この愛すべき、どうしようもない自分と一緒に。

それでいいんだと思う。

一般的なマインドフルネスって、どうしても「静寂」「瞑想」「座禅」「呼吸」「自分と向き合う」みたいな方向に行きがちなんだけど、そこに私は少し違和感がある。

 

もちろん、それで落ち着ける人はいる。
静かな部屋で自分を見つめ直せる人もいる。
一人で座って、呼吸を整えて、心を鎮められる人もいる。

 

でもさ。

一人で抱えきれない夜もあるんだよ。

眠れない夜こそ、深夜のコンビニをガチれ

一人になった瞬間に、余計なことばかり考えてしまう夜がある。
静かすぎるからこそ、頭の中の雑音が爆音になる夜がある。
目を閉じた瞬間に、過去の後悔や怒りや恐怖が押し寄せてくる夜がある。

 

そんな時に「一人で自分と向き合いましょう」なんて、ちょっと無理がある。

かといって、誰かと話したいわけでもない。
慰めてほしいわけでもない。
説教されたくもない。
正論なんて聞きたくない。
「大丈夫だよ」って軽く言われるのも、正直しんどい。

 

つまり、必要なのは会話じゃないんだ。

 

必要なのは、ただそこに人がいるという気配。
触れてこない他人。
干渉してこない他人。
でも、確かに同じ時間に同じ場所に存在している他人。

この距離感が、たぶん救いになる時があるんだ。

 

静かな場所で自分を見つめるのは確かに出来るかもしれない。

でも、どうしてもネガティブに嫌な事に意識が言ってしまうこともあるんだ。

そういう時に、雑踏っていう・・・遠いところでする他人の営みって心が休まる時がある。

他人が居るけど、居ないような距離感。

 

深夜のコンビニには、それがある。

会社でもない。
家庭でもない。
友人関係でもない。
誰かの期待に応える場所でもない。

ジャージでもいい。
スウェットでもいい。
髪がボサボサでもいい。
ノーメイクでもいい。
何も買わなくてもいい。
買うとしても、プリンでもカップ麺でもエナジードリンクでもいい。

そこでは、ちゃんとした自分を作らなくていい。

これがかなり大きい。

 

スターバックスが「家庭でも職場でもない第三の場所」みたいな居場所を大切にしている、という話がある

けど、コンビニはもっと雑で、もっと生活に近くて、もっとラフなんだよね。

 

スタバに行くには、少しだけ「そこにいる自分」を作る。
でもコンビニは違う。

コンビニには、生活のまま行ける。
弱ったまま行ける。
眠れないまま行ける。
どうしようもないまま行ける。

しかも夜でも開いている。

公園は夜だと怖い。
スーパーは閉まっている。
カフェは気軽だけど、深夜には開いていないことが多い。
誰かの家に行くには重すぎる。
電話をするには相手が必要になる。

 

でも、コンビニはそこにある。

明かりがある。
店員がいる。
客がいる。
棚に商品が並んでいる。
冷蔵庫の音がする。
レジの音がする。
誰かが唐揚げを買っている。
誰かが明日の朝食を選んでいる。
誰かが煙草を買っている。
誰かが無言で帰っていく。

 

それだけでいい。

 

静かなのに、静かじゃない。
一人なのに、孤独じゃない。
誰とも関わっていないのに、人の気配に包まれている。

この矛盾した環境が、眠れない夜にはちょうどいい。

だから、これは逃避じゃない。
これは依存でもない。
これは甘えでもない。

夜に飲み込まれそうな自分を、いったん現実に戻すための儀式だ。

マインドフルネスが「今ここ」に意識を戻すことだとするなら、深夜のコンビニはかなり強いと思う。

 

なぜなら、そこには強制的に「今」があるから。

棚の商品。
白い光。
冷たい床。
自動ドアの音。
知らない人の足音。
レジ袋の音。
外の湿った空気。

頭の中の地獄から、体の感覚に戻してくれる。

 

深夜のコンビニは、悟りの場所じゃない。
癒しの場所でもない。
人生を変えてくれる場所でもない。

でも、孤独で壊れそうな夜に、
ほんの少しだけ呼吸を戻してくれる場所ではある。

​​​​​​​

 シンプルフレーズ流に言うなら

一人で自分を見つめられない夜は、
触れない他人のいる場所へ行けばいい。

孤独だけど、孤立じゃない。
一人だけど、世界からは切り離されていない。

 

それを思い出すために、
眠れない夜こそ、深夜のコンビニをガチるんだ。

マインドフルネスって、世界や社会から離れて隔離されて自分だけの時間に気付いて、

自分の細かな変化や感情や何かに気が付くための瞬間を知るための時間なんだろうね。

今この瞬間を、ちょっと変な自分で楽しむ

マインドフルネスって言うと、
瞑想して、呼吸に集中して、今ここに意識を向ける。

 

そんなイメージがある。

もちろん、それも大切なんだろう・・・?

でも、私は思うんだ。

本来のマインドフルネスって、もっと日常の中にあるんじゃないか?

 

もっと言えば、
ちょっと狂気との境目にあるくらいが、ちょうどいいんじゃないかと思っている

  レトルトカレーに話しかける夜

たとえば、レトルトカレー・・・

普通に食べたら、ただの飯だ。

皿に出して、動画を見ながら食べて、
気付いたらなくなっている。

 

腹は満たされる。
でも、何とも味気ない。

 

そこで、あえて言ってみる。

「ふふふw今日は貴様を食べてやる」

うん。
誰かに見られたら終わりだ。

 

「大丈夫?」って言われる。
異常者か、寂しい人か、疲れている人に見えるかもしれない。

 

でも、最高じゃないか(笑)🤪

 

その瞬間、ただのレトルトカレーが、
今日の相手になる。

食事が作業じゃなくなる。
部屋が舞台になる。
自分が、演出する側になる。

見られたら終わりかもしれないけれど、自分だけの一人だけの孤独な夜なんだ。

自由に演出しようじゃないか(笑)

 

  今を大切にするって、綺麗なことだけじゃない

「今この瞬間を大切にする」って、
なんだか綺麗な言葉に聞こえる。

 

でも、実際はもっと変でいい。

一人でグラスに目を落とす。
ビールの泡だけを掬ってみる。
ウイスキーに塩を一つまみ入れてみる。
買ってきた氷をグラスに入れて、音を聞いてみる。

 

特別な準備なんていらない。
特別な肴もいらない。
音楽だって、いつものでいい。

 

ただ、普段通りの中に、
普段通りじゃない目線を入れる。

 

それだけで、日常は少し変わると思うんだ。

ほんの少しの変化で、それは普段の日常から、異常に変わって、日常以上に変わっていく。

  享受するだけでは、まだ足りない

動画を見る。
音楽を聞く。
酒を飲む。
飯を食べる。

それも楽しい。


それも必要だと思う。

 

でも、それだけだと、ずっと受け手なんだよね。

見る側。
聞く側。
言われる側。
使われる側。
流される側。

社会では、だいたいそうだ。

 

だからこそ、自分の部屋くらい、
自分の夜くらい、
自分の一杯くらい、
自分で演出していいと思うんだ。

 

娯楽を享受するだけじゃなく、
娯楽を自分で作る。

それが、シンプルフレーズ式のマインドフルネスだ。

  旅行が特別なのは、自分で演出しているから

旅行が特別に感じるのも、
きっと同じことなんだと思う。

 

行き先が特別だからだけじゃない。

自分で調べて、
計画して、
準備して、
今日はここを楽しむって決めている。

 

だから、非日常になる。

だったら、普通の夜だって同じだ。

眠れない夜。
疲れた夜。
一人の夜。
いつもの部屋。
いつもの酒。
いつもの飯。

それでも、少しだけ演出すればいい。

 

今日は、この一杯を見る。
今日は、このカレーを相手にする。
今日は、この夜をただの消費で終わらせない。

 

そう決めた瞬間に、
日常はちょっとだけ非日常になる。

  変な自分で、今を楽しめばいい

バカと天才は紙一重と言う。

 

なら、日常を楽しむために、
少しバカになったっていいじゃないか?

 

レトルトカレーに話しかける。
グラスをじっと見る。
買った氷をありがたがる。
一人飲みをガチる。

 

誰かに見せるためじゃない。
誰かに褒められるためでもない。

自分が、自分の今を楽しむためだ。

 

マインドフルネスって、
世間に見せられる綺麗な自分になることじゃないと思う。

 

誰にも見せられない変な自分で、
この一瞬を面白がること。

 

それこそが、今を大切にするってことなんじゃないか?

 シンプルフレーズ

一人飲みをガチれ。
レトルトカレーを敵にしろ。
眠れない夜を舞台にしろ。

 

日常を非日常に変えるのは、
高級な何かじゃない。

 

自分の世界を、自分で作り上げて、
切り取って、楽しむことなんだ。