バツイチになってから、何年か経つ。
人は「時間が解決する」なんて言うけれど、実際にはそんなに器用に忘れられやしない。

 

少なくとも私は器用じゃない。


日々の暮らしの中でふとした瞬間に、過去の選択や言葉が蘇ってくる。
買い物袋をぶら下げて帰る途中で、元妻と一緒に歩いた道を思い出す。
コンビニのおでんの匂いで、冬の夜に食卓を囲んだ記憶が浮かぶ。


そういう瞬間に、「もし違う選択をしていたら」と走馬灯のように思い返してしまう。

私は、人は後悔を積み重ねる生き物だと思っている。
後悔は、きっと乗り越えられない。少なくとも私はそうだ。


だからこそ、常に抱いたまま生きている。
バツイチという肩書きは、過去の失敗を象徴するラベルのように見えるかもしれない。
けれど実際には、その後悔や失敗を抱えて生きることこそが、私にとっての「生き方の証明」になっている。

  祈りは、行為でしか届かない

 

「神様、お願いします」
そう口にすることがある。
別に私は熱心な宗教家じゃない。

 

ただ、神様って言う存在を信じている。

宗教や信仰のカタチについては正直半信半疑だ。


それでも神様を信じていて、神社に行くことが大好きだ。

お守りは・・・買わない。なんと言うか俗物的で好きじゃない。

でも、御朱印は集めている。記念トロフィーのようなモノだ。部屋に飾って、毎日朝晩手を合わせる。


そのとき私は気づいたんだ。祈りはただの願望じゃない。
祈りとは「行為」なんだと。

 

短冊に「世界平和」と書くこともそうだ。
誰かに見られて笑われるのが怖いから書かない、なんて時代だ。
でも、書かないなら祈ったことにはならない。


声に出さないなら、届くわけがない。
結局のところ、祈りは「証明」なんだ。
自分が何を願っているのかを、外の世界に向けて差し出す行為。
だからこそ、祈りは自己満足でいい。エゴでいい。
「私がやります!」と宣言することこそが、意味と価値を生む。

 

  後悔は、抱きしめて生きる伴侶

 

バツイチになって分かったことがある。
人は後悔を簡単に捨てられない。


「忘れろよ」「切り替えろよ」と言われても、そんな単純な話じゃない。
むしろ後悔は、いつも隣にいて離れない伴侶みたいなものだ。

仕事の失敗も同じだ。
あのとき、あの一言を言わなければよかった。
あの資料をもう一度見直しておけばよかった。


後悔は積み重なる。


けれど、その積み重ねがあるからこそ、次に違う選択をしようとする。
つまり、後悔を抱えているからこそ、私は「新しい自分」に出会える。

後悔は、乗り越える対象ではなく、抱えて生きていく相棒なんだ。
その相棒と一緒に反芻しながら、「今度は違う生き方を」と選び直していく。
それが人間の愚かさであり、同時に強さだと思う。

 

  摩擦も失敗も「収穫」

 

離婚のとき、たくさんの摩擦があった。
価値観の違い、生活リズムのすれ違い、感情のぶつかり合い。

 

ぶつかると、子供が悲しむ。ママを泣かせるなってね。

未だに覚えてる。あの時の言葉。私が悪いんだ。

 

結果論ではあるし、当事者の私からしたら要らない経験だったと思うけど、
どれもが痛みだったけれど、振り返れば「収穫」だったと思える。


摩擦があるから、私は自分の弱さや偏りに気づけた。
摩擦があるから、次にどうしたいかを考えることができた。

 

同じように、祈りが叶わなくても無駄ではない。
叶わなかったことを「失敗」と呼ぶのは、誰かと比べた結果にすぎない。
他人と比べなければ、祈りは祈りのままで意味を持つ。


結果なんてただの相対的評価でしかない。
経験と後悔を通じて人は学び、新しい自分を選び直す。
それは最高の収穫なんだ。って、言いたいだけなんだけどね。

 

  祈りと後悔がつくる「もう一人の自分」

 

私にとって、祈りとは「もう一人の自分」を外に生み出すことだ。


神でも偶像でも、ぬいぐるみでもいい。
自分以外のものに向かって言葉を発するとき、そこに他者性が生まれる。


それは公共的な行為であり、存在の証明になる。

「失敗した」と思うたび、
「後悔ばかりだ」と嘆くたび、
私はその後悔を抱きしめて祈る。
「次はこうしたい」と願う。
その行為そのものが、私を生かしている。

 

生かされている。生きている間だけは、違う選択をしたいと、違う可能性を手に入れたいと

もし、万が一・・・

 

  私・・・ワタシ・・・・

 

バツイチの人生は、決して順風満帆じゃない。
後悔は積み重なり、失敗は消えない。


けれど、だからこそ私は祈る。
祈りは願いではなく、行為だ。
後悔は失敗ではなく、収穫だ。

 

誰かと比べて「失敗」と言われても構わない。
大事なのは、自分が「意味を見出せるかどうか」だ。
祈り、願い、後悔を抱きしめながら生きる。
それが、私が選んだ「生き方の証明」なんだ。

 シンプルフレーズ

「後悔は捨てるものじゃない。祈りと共に抱きしめて、次の自分を証明するためにある。」

 

正直言うとね。ちょっと疲れたんだ。

希望を持って生きていくって言う生き方には・・・

モネじゃないけど、過去の中の希望を抱いて、後悔を抱きしめて生きている間だけ、生きれるのも有りかなってさ