やらないで後悔するより、やって後悔した方が良いって

言う人が居るし、私もそっち側だ。

 

私も、やって後悔した方が良いって思っているし、思っているから・・・

後悔を積み上げているのかもしれない。

今日も失敗

昨日もドンマイ

一昨日もやっちまった・・・

 

また繰り返しなのか?またやってしまったのか?そして・・・またやってしまうのか?

私はいつもそう・・・

 

「やって後悔した方がいい」は、特権だと思う

 

よく聞く言葉がある。
「やって後悔した方がいいよ」って。

 

前向きで、勇気があって、正しそうで、
人生を肯定している言葉にも聞こえる。

でも、私はこの言葉を
そのまま受け取ることができなかった。

 

  本当の後悔や、取り返しのつかない状況を知らない人の言葉

 

「やって後悔した方がいい」って言える人は、
多分、やり直せる世界線に生きている

 

失敗しても、
取り返しがついて、
生活が壊れず、
関係も全部は失わず、
時間もまだ残っている。

それは悪いことじゃない。


でも、それは特権でもある。

やって後悔できるのは、
「やっても致命傷にならない」前提があるからだ。

 

世の中には「やって後悔」できない人がいるから。
そして、私もその境界線を見たことがあるから。

 

  時間は有限で、人生は思ったより短い

 

現実は、もっとシビアだ。

時間は有限。
期限はある。
体力も、気力も、資源も限られている。

  • 今を生きるだけで精一杯

  • お金がない

  • 働けない

  • 今日食べるものが不安

こういう時、
夢も希望も自己実現も、遠のく。

でもそれは、逃げじゃない。

優先順位が「生存」に固定されただけ。

価値がなくなったんじゃない。
「選べる余白」が消えただけ。

 

出来ることは、出来ることだけ。
持てるものは、持てる分だけ。

 

だから人生を彩ろうとしたら、
どうしても行為に頼ることになる。

 

考えて、迷って、悩んでいるだけでは、
世界は何も変わらない。

  選べない・出来ない・やらせてもらえない瞬間は、誰にでも来る

 

選べない状況。
悩めない状況。
選ばされて、強制される状況。

 

そんなもの、珍しくもない。

 

私にも、全部を失ったように見える時期があった

家族がいるのにお金がなくて、住む場所がなくなった時があった。

山の中の古民家を借りて、水を汲みに行って生活したこともある。

物も沢山売った。時計、アクセサリー、家具・・・


何もかも手放した。

その時に捨てたのは物だけじゃない。

  • 見栄

  • 関係

  • 信頼

  • 他人本位

  • “ちゃんとしてる私”という価値観

あの時は、選べなかった。
ただ、生き抜くしかなかった。

 

  それは「優先順位」が生存に固定されただけ

 

出来ない。
選べない。
GOできない。

それは失敗じゃない。
今、生き抜くことが最優先になっただけ

価値がなくなったわけじゃない。
選択可能な範囲が、狭まっただけ。

でも、残ったものが「大切なもの」だった

結果的に、残ったものがあった。

残ったものが、大切なものだった。

 

自分で選んだわけじゃない。
状況に選ばされた取捨選択だった。

 

それでも、嘘の価値が剥がれて、自分の優先順位が、強制的に可視化された。

私はあれを、「いい機会だった」と言い切れる。

綺麗ごとじゃない。

 

「夢」も「挑戦」も、後回しになる。

でも、それは逃げじゃない。

生き抜いた人間だけが持てる実感だ。

  だから私は思う。GOとは、勇気じゃない

 

よく言われる。
「GOする勇気」「一歩踏み出す覚悟」

でも、私にとってGOは、
そんな立派なものじゃない。

GOとは、今の自分の優先順位を、行為に変換すること。

 

GOは、優先順位の上にあるからGOする。


それだけ。

そしてもう一つ大事なのは、
優先順位は“思っているだけ”では意味がないということ。

行為にしなければ、優先順位はただの妄想になる。


だから私は、GOする。

GOして、行為して、
結果を受け入れる。

それ以外に、私には選択肢がない。

だって私は、
優先順位の上から順にGOしているだけだから。

 

行為しなければ、
優先順位に意味はない。

 

  やって後悔するしかない時もある

 

失敗も、ミスも、後悔も、
たくさん積み上がる。

それでも私は、
GOして、行為して、結果を受け入れる以外に、
選択肢を持たない。

だって、
優先順位の上から順にGOしているだけだから。

 

  出来なかったのは、価値がなかったからじゃない

 

最後に、これだけは言いたい。

出来なかったのは、
価値がなかったからじゃない。

それより上の優先順位が来ただけ。

 

GOしなかったのは、
逃げたからじゃない。

生きることが最優先だっただけ。

 

 シンプルフレーズの思想

 

「GOとは、勇気ではない。
今の私の優先順位を、行為に変換することだ。」

そして、もう一つ。

「やって後悔できるのは特権。
それでも私は、優先順位に従ってGOする。」

自分の人生は、
自分の優先順位で動かしていい。

それが、
シンプルフレーズの生き方。

迷いがあるということは、
まだ自分の選択権が残っているということ。

迷っているということは、余裕があるということ。
余裕があるということは、権利が奪われていないということ。

だから私は、責任の話より先に、こう言いたい。

 

選ぶことを責めるな。
選ぶ権利を守れ。

 

そして、最終的に人生を残すのは
「選んだ理由」じゃなく、「やった痕跡」だ。

全部回収できなくてもいい。
順番を作ればいい。
次回を残せばいい。

迷いは、可能性の別名だ。
まだ人生を、自分の手で触れられる証拠だから。

全部回収できないと知った瞬間、人は何を選ぶのか?

 

 

  全部回収できないって、分かった時点で詰む感覚

 

正直に言う。
人生って、全部回収できない。

行かなかった場所。
選ばなかった道。
食べなかったご飯。
言えなかった一言。

あとから「やっぱりこっちも」なんて出来ない。
この現実に気づいた瞬間、
なんかもう、ズシンと来る。

え、じゃあ私、何選べばいいの?
って。

 

晩ご飯ひとつで迷うのも、
予定を決められないのも、
旅先を決めきれないのも、
実は全部ここに繋がってる気がする。

 

選んだ瞬間、
「もう一方」が消えるのが、怖い。

  迷ってる自分を責める社会、ほんと嫌い

 

でさ、ここからが腹立つところなんだけど。

迷ってるとすぐ言われるじゃん。

「優柔不断だね」
「決断力ないね」
「いつまで悩んでるの?」

うるさい。
ほんと、うるさい。

 

迷ってる=ダメ


この刷り込み、誰が作ったん?

だってさ、
選択肢が無かったら、迷わないよ?

上司の言葉。
親の言葉。
生活の事情。
お金。
立場。

それに逆らって、別の行動を取れるほど、
私はそんなに強くない。

だから分かる。
本当に選択肢が無い時、人は迷えない。

迷うって、余裕が無いと出来ないんだよ。

 

  迷ってるってことは、まだ奪われてないってこと

 

ここで、ひっくり返す。

迷ってるってことは、
迷えるってこと。

 

つまり――
まだ自分の選択権を認識できてるってこと。

今日のご飯何にする? 

ハンバーガー?ラーメン? どっち?

プレゼントを上げようって?

ハンカチ?ネックレス? どっち?

 

迷えるのは、
どっちを選んでも「生きていける」範囲だから。

まぁ、後者はプレゼントを上げられる相手が居るっていう勝者の特権だけどね。私は敗者?ドンマイ俺

 

逆に言えば、
迷える範囲って、自分の出来る範囲。

なのに社会はすぐ言う。

「選んだんだから責任取れ」って。

いやいや、待って。
責任の前にさ、

選ぶ権利、守れてる?

私が大事にしたいのは、
「正解を選ぶこと」じゃない。

迷える余地。


次回に回す余地。

今決めないで、次回に選択の可能性を残そうっていう自由意思。
 

選択の責任じゃなくて、
選択する権利を奪われないこと。

ここ潰されたら、
夢どころか、希望もクソも無くなる。

 

  人生を彩るのは、行為だけ。だから私はGOでいい

 

正直・・・正解だったかどうかなんて、どうでもいい。

だって後からしか分からない。

でも一つだけ確かなことがある。

人生を彩るのは、行為だけ。

行った。
食べた。
選んだ。
動いた。
失敗した。
後悔した。

評価は変わる。
意味も変わる。
でも、やった事実だけは消えない。

私は昔からこう。

 

私にはstayが無い。
常にGO。
やってから考える。


失敗も後悔も積み上げるけど、それでいい。

夢を信じる方法って、
キラキラした気持ちを持つことじゃない。

 

私の人生は、行為によって彩られるから

全部回収できないって分かったなら、
全部取ろうとしなくていい。

 

順番を作ればいい。

私は今回、和歌山。で、魚を食べます。
次は四国で、うどんとかカツオ?食べたいって思ってるよ?

分かんないけどね、佐渡島も行きたいし、静岡から関東も気になるからね(笑)

迷いは弱さじゃない。
まだ選べるっていう余裕であり、権利が残ってる証拠。

だから今日も、
文句言いながら、迷いながら、
それでも私はGOで生きる。

 

 

夢は信じることから始めるんだよ!

 

夢は、叶えることから始まらない。
まずは、信じることから始まるんだ!! って、思ってる。

 

もっと正確に言うなら、
「信じたい」と思ってしまった自分を、ちゃんと自覚することから始まる。

 

夢も希望も願望も、たぶん最初は小さい。
誰にも言えないくらい小さい。
自分の中でも「気のせい」ってことにしたくなるくらい小さい。

でも、その小ささを踏みつぶすのは、たいてい自分だ。
「現実見ろ」って言って。
「今さら無理」って言って。
「そんなこと考えてる場合じゃない」って言って。

 

・・・でもね。
“考えてしまった”時点で、それはもう在る。

 

  夢はゴールじゃなくて、立ち位置だと思う

 

よく言われる。
夢は叶えるためにある。

 

目標を立てて、計画して、努力して、結果を出す。

 

間違ってない。
でも、それだけだと苦しくなる人もいる。

私はどちらかというと、結果より過程を重視するタイプだ。
「叶えるために生きる」より、
「生きる過程で、夢が形になっていく」ほうがしっくりくる。

 

目的と目標の違いがあるとするなら、一般論ではこうなる。
目的・・・夢の実現
目標・・・そのためのステップ

 

でも、私の感覚は違う。

 

私の目的は、夢の実現そのものじゃない。
今を大切にして、大切なものを見つけて、楽しいを求めていくこと。

 

そして目標は、もっと生活に近い。
分を知ること。自分を大切にすること。

つまり夢は、終点じゃない。
「どこへ行くか」よりも、「どこに立って生きるか」を決めるもの。
私はそう思っている。

  生きるって・・・取捨選択の連続だ。逃げ場がないくらい

 

生きるって、ほんとうに取捨選択の連続だ。


毎日が、選択でできてる。

行くか、行かないか。
言うか、黙るか。
耐えるか、離れるか。
買うか、我慢するか。
休むか、無理するか。
好きと言うか、黙って終わらせるか。

 

その一つ一つが、未来を変える。
 

なのに、現実はこうだ。

疲れていると、選べない。
焦っていると、選べない。
お金がないと、選べない。
時間がないと、選べない。
一人だと、選べない。

選べない状態って、心を削る。
「自分が生きてる感覚」が薄くなるから。

だから私は、何よりも先に守りたい。
選択するっていう権利を、手放さない生き方。

 

  自己責任の“ご都合主義”を、私は信用しない


私は、自己責任という言葉が好きじゃない。

もちろん「自分の選択を大事にする」って話なら分かる。
でも現実で使われる自己責任は、だいたいこうなる。

「それ、あなたが選んだんでしょ?」
「嫌なら辞めれば?」
「努力が足りないんじゃない?」
「自己管理できてないだけでは?」

・・・便利すぎる。
言う側が一番ラクになる言葉だ。

 

しかも厄介なのは、
選ばされた事実まで「自分の選択」に書き換えること

 

逃げ道がない状況。
断れない空気。
生活のための妥協。
家族や職場や社会の圧。
体力やメンタルの限界。

そういう“構造”を丸ごと消して、
「はい、あなたの責任ね」で終わらせる。

 

それは強さじゃない。
ただの美徳の押し付けだ。

私はそこを、ばっさり切り捨てたい。

 

  私が守りたいのは「責任」じゃない。「権利」だ

 

誤解される前に言うけど、
私は「責任なんて知らない」と開き直りたいわけじゃない。

私が大切にしたいのは、責任じゃなくて権利。

 

選択の責任を持つ生き方ではなく、
選択する権利を奪われない生き方

 

責任なんて、あとからいくらでも背負わされる。
仕事でも、人間関係でも、家庭でも。
「想定外でした」は許されない。
「事情があって」は切り捨てられる。
「結果を出せ」で終わる。

でも、選択する権利は違う。
奪われたら戻らない。
気づいた時には、もう“選べない人”になっている。

 

だから私は、まずここを守る。
選ぶ権利。
選び直す権利。
迷う権利。
立ち止まる権利。
逃げる権利。

そのための指針が、大切なものと優先順位だと思う。

  選べなくなる理由は、意志が弱いからじゃない

 

人が選べなくなる時って、根性がないからじゃない。
意志が弱いからでもない。

単純に、自分の中の「優先順位」が見えなくなってるだけ。

 

疲れ切ってると、
何が大切か分からなくなる。

不安が強いと、
何が欲しいか分からなくなる。

周りの声が大きいと、
自分の声が消える。

だから必要なのは、これだと思う。

「どうしたい?」
「なにがしたい?」
「どうなりたい?」
「何が、どれが、いつ、そしてなぜ?」

この問いを“持っている”こと。


そして、薄くてもいいから“答えを知っている”こと。

知らないから、流される。
分からないから、選ばされる。

  「言い訳」も「逃げ道」も、あっていい。自分だけで背負えることなんてたかが知れてる

 

ここも、私は譲りたくない。

自分だけで背負えることなんて、たかが知れてる。

結果は、必ず誰かを巻き込む。
家族も、職場も、友達も、社会も。
そして自分もまた、誰かの選択の“結果”を背負って生きている。

なら、こう言っていいはずだ。

言い訳くらいあっていい。
逃げ道くらいあっていい。
誰かのせいにしたっていい。

それは無責任じゃない。
耐荷重を理解している人の現実感だ。

「全部自分で背負え」なんて思想のほうが、よほど暴力的だと思う。

 

  結果を気にしすぎると、人は一歩も動けなくなる

 

誰かが不幸になったら?
誰かに迷惑をかけたら?
誰かの負担になったら?

 

そんなことを考え始めたら、もう動けない。
何も選べない。
何もしないことが“最善”になる。

 

でも、それって本当に生きてるって言える?

 

私は思う。
それって、お互い様だ。

自分だって、誰かの選択の結果で不利益を抱えて生きてきた。
この世界で「誰も傷つかない選択」なんて、ほとんど存在しない。

だから私は、結果よりも先に、
選ぶ権利を守りたい。

 

  仏教的な“耐えろ”が強すぎる世界は、生きにくい

 

因果。
業。
我慢。
調和。
徳。
慎ましさ。

美しい。


でも、強すぎると人は窒息する。

「迷惑をかけるな」
「欲しがるな」
「耐えろ」
「諦めろ」
「丸く収めろ」

その結果、何が起きるか。
欲望は汚れ扱いされ、
夢は贅沢扱いされ、
希望は未熟扱いされる。

 

・・・生きにくいに決まってる。

本当に私の苦手な考え方と価値観の世界だ・・・。

  夢は信じることから始めるんだよ・・・もっと、自分の為に生きよ?

 

夢は信じることから始める。
希望も願望も、自覚して信じることから始める。

 

そのうえで、私はこう選ぶ。

選択の責任を綺麗に背負う生き方じゃない。
自己責任の美談を抱えて沈む生き方じゃない。

選択する権利を奪われないための生き方。

 

そのために、
自分の大切を知る。
自分の優先順位を知る。
「どうしたい?」を持ち続ける。

 

結果は怖い。
後悔も悲しみも辛さも、なくならない。
でも私は、そこに怯えて止まるより、
自分の選んだことにフォーカスして生きて逝きたい。

だから最後に、これだけ。

もっと、自分の為に生きよ?

あなたの大切を、あなたが決めていい。
あなたの世界は、あなたの見方で作っていい。
奪われないで。
選ばされないで。

 

 

 

 

これは、私の物語だ。

他の誰でもない、たった一人の物語だ。

旅は道連れ・・・誰かと会うこともあればすれ違うこともあり、ぶつかることも、迷うこともある。

 

私の物語は、私が紡ぐ・・・

でも、自分だけでは手に入らない成功や勝利や魅力的で誰もが望むような・・・

そんな物語に憧れるのも否定できない。

 

自分だけでは、どうにもならない物語が私は欲しいって願うこともある~

 

私は、銀河英雄伝説が大好きだよ。

王道少年漫画はどうしても、敵側に感情移入しちゃう・・・

そんな物語にも憧れるんだ。

一度きりの人生だから、人は物語を求めるのか?

 

人生は一度きりだ。
やり直しも、別ルートも、確認作業もできない。

 

もし人生が何度も試せるものなら、
失敗はデータで、後悔はただの検証不足で終わる。


でも現実はそうじゃない。

選ばなかった道は消え、
取り戻せない時間だけが積み重なっていく。

 

だから人は、
「意味」を欲しがるのかもしれない

 

  人はなぜ物語を必要とするのか

 

物語と聞くと、
成功や成長、劇的な出来事を思い浮かべる人も多い。

 

主人公が困難を乗り越え、
最後には勝ち、報われる。
そんな分かりやすい結末。

 

現実では手に入らない成功や勝利を、物語の中で疑似体験する。
それは確かに、物語の大きな役割の一つだと思う。

 

人生は未完のまま続き、
努力が報われる保証もなく、
納得できないまま終わることの方が多い。

 

だからこそ、
せめて物語の中では完結したい。
せめて主人公には勝ってほしい。

この感情自体、とても人間的だ。

  物語に逃げたくなるのは、弱さじゃなく「呼吸」かもしれない

 

たとえば、こんな瞬間がある。

仕事帰り、何もする気が起きない。
SNSを見ると、みんなが前に進んでいるように見える。
自分だけが取り残されている気がして、胸がざわつく。

 

そんな夜、私たちは何をするだろう?

ドラマを再生する。
漫画を開く。
小説を読む。
ゲームを起動する。
推しの配信を流す。
旅動画や神社巡りの映像を延々と眺める。

 

現実から逃げている――と言えばそうかもしれない。
でも、もう少し正確に言うなら、こうだと思う。

 

現実の“息苦しさ”から、一度だけ呼吸を取り戻している。

物語は、酸素だ。
窒息しそうな現実に、空気の穴を開ける。

 

  仮想・妄想・空想を求める心理

現実って、基本的にシュールだ。

頑張ったのに報われない。
丁寧に生きたのに雑に扱われる。
正しくいたのに、正しくない人のほうが得をする。

しかも、オチがない。
回収されない。
説明もつかない。

 

だから人は、物語の中に「回収」を求める。

伏線が回収されること。
涙の意味が分かること。
努力が報われること。
悪役が裁かれること。
主人公が最後に勝つこと。

それは、単なる娯楽じゃない。

現実に存在しない秩序を、仮想空間で補給している。

 

妄想や空想も同じだ。

「もしあのとき、違う道を選んでいたら」
「もし誰かに理解されていたら」
「もし私が主人公の世界なら」

こういう“もし”は、現実では叶わない。
でも“もし”を一度も抱けなくなったら、人は壊れる。

 

だから人は、物語を作る。
物語に逃げる。
物語に酔う。

それは現実否定じゃなく、
現実を続けるための精神的な避難なんだと思う。

  でも、本当に物語に必要なものは何だろう

 

ただ、ここで一度立ち止まって考えてみた。

物語に出来るような出来事って、
本当に必要なんだろうか。

特別な成功も、
誰かに誇れる実績も、
ドラマチックな事件も。

本当は、何一つ必要ないんじゃないかと思う。

だって私たちは、日常でも物語に逃げたくなる。

 

コンビニで買ったコーヒーがなぜか今日は美味しく感じるとか。
電車の窓に映る自分の顔がやけに疲れて見えるとか。

 

そんな小さな感覚にも、「意味」を与えたくなる。

 

良いことか悪いことかも、
正しかったか間違ったかも、
実はどうでもいい。

 

周囲で何が起きたかよりも、
世界がどう動いたかよりも、

自分がどうしたかったか。
自分が何を選んだか。

それだけで、十分に物語になる。

  物語は、他人の人生を借りるためのもの?

 

確かに、人は物語を通して
自分には出来ない成功や勝利を体験してきた。

ヒーローに自分を重ね、
ハッピーエンドに酔う。

でも、ずっと他人の物語を借り続けないと、
満足できない人生って、
少し寂しい気もする。

 

たとえば、「推しの人生」だけで生き延びることはできる。


でもそれは、ずっと他人の呼吸を借りている状態にも似ている。

もちろん借りてもいい。
借りたっていい。
物語に救われる夜は、絶対にある。

でも私は思う。

 

他人の勝利を借りなくても、
誰かの評価を借りなくても、

自分だけの物語で、
自分だけが納得できる人生は成立する。

  一度きりの人生を、物語にしたい

 

人生が一度きりだから、人は物語を求める。

 

でもそれは、派手な物語を欲しがっているわけじゃない。

 

成功しなくてもいい。
勝たなくてもいい。
完璧じゃなくてもいい。

 

ただ、

「これは私が選んだ人生だ」
そう言える形にしたいだけなんだ。

 

物語が必要なのは、人生を飾るためじゃない。
生きた時間を、自分のものとして引き受けるため。

 

一度きりの人生だからこそ、
自分の選択だけで、
自分だけの物語を紡いでいきたい。

それだけで、
もう十分なんだと思う。

今年の締めくくり

今年もありがとうございました😌

楽しい時間も過酷な時間も、寂しい時間もHAPPYな時間も波乱の一年ではありました。

 

それもこれも、全部とりあえず横に置いておいて・・・

 

和歌山旅行、行ってきました!

 

もうね、最初に言っておきます。

写真が多いです。
だって、言葉いらなかったから。

神社巡りに絶景に、美味しいもの。
気づいたら、ただ「居る」時間を満喫してました。

 

⇑神倉神社

 

⇑那智の滝×飛龍神社

 

  神社が多すぎて、ありがたみが追いつかない

 

淡島神社、紀州東照宮、日前神宮、国懸神宮、神倉神社に他にもいろいろ~
そして熊野三山から花窟神社まで。

どこも共通してたのは、

  • 無理に感動させてこない

  • 説明しすぎない

  • でも、ちゃんと「在る」

鳥居をくぐって、階段を登って、振り返った景色。
「あ、ここ好きだな」って思える瞬間が、何度もありました。

お願い事をするというより、
呼吸を合わせに行く感じ

和歌山の自然、圧が強い(良い意味で)

⇑紀州東照宮

 

⇑淡島神社

 


👆熊野本宮大社


👆産田社


👆熊野速玉大社


👆花窟神社

海は広くて、空は高くて、雲は自由。
山と森は、相変わらず人の都合なんて気にしてない。

門の向こうに広がる景色を見たとき、
「境界の向こうにも、ちゃんと世界は続いてるんだな」って思った。

ここでは、
頑張らなくても、説明しなくても、
ただ居るだけで成立する感じがありました。

 

  そして食。唐揚げ×みかんって何?

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和歌山、攻めてる。

唐揚げにみかん。
最初は「え?」って思ったけど、ちゃんと美味しい。

 

刺身はもう反則。
鮮度が違う。
海が近いって、正義。

土地のものを、土地の感覚で食べる。
これも旅の醍醐味ですね。

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  旅のまとめ(というか本音)

 

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⇑花巌神社

 

今回の旅で、何度も思ったこと。

「ここに居たい」って感覚、
人よりも自然がくれること、あるよなぁ。

言葉はいらない。
評価もいらない。
理由もなくていい。

ただ、空があって、海があって、森があって、
そこに自分が居る。

 

それだけで、
「今日も大丈夫」って思える時間でした。

また来よう。
次も、きっと言葉はいらない。