不機嫌な人は面倒だ。
そう言われたら、たしかにその通りだと思う。
でも私は、それを「ただの迷惑」だけで終わらせるのは、少し違う気がしている。

不機嫌っていう救難信号

会社で聞いた「あの人忙しい日と、朝一は機嫌が悪いんですよね」

分かる・・・凄い分かる。その人の感じは私も知っている。

でも、機嫌が悪いって言うのは、否定的すぎる言いまわりじゃないかな?って思ってしまう。

 

朝一ご機嫌な人の方が少ないでしょ?

忙しい日に不機嫌になるのは仕方ないことじゃないか?

 

機嫌の善し悪しが、その人の評価に影響するのは・・・私は好きじゃない。

少なくとも、私だって不機嫌な時くらいある。

 

そう・・・お前と話している時だ!人のことばかり話しやがって・・・・

って、思ってしまう私は、まだまだ社会人になれていないだけなのかな?

 

それとも、人の不満をニコニコ「そうだね~」って聞ける私は社会人?

  不機嫌は、性格の悪さだけでは片づけられない

不機嫌な態度を見ると、私たちはつい思う。
「大人なんだからちゃんとしてよ」
「機嫌くらい自分で取ってよ」
「周りに当たらないでよ」って。

それは正論だと思う。


実際、不機嫌をぶつけられる側からしたら、たまったものじゃない。
面倒だし、空気も悪くなるし、できれば関わりたくない。

でも、それだけで終わらせてしまうと、見えなくなるものがある。

それは、その不機嫌が何から来ているのか?っていうことだ。

 

体調が悪いのかもしれない。
眠れていないのかもしれない。
我慢の限界なのかもしれない。
助けてって言えないまま、ギリギリで立っているのかもしれない。

 

不機嫌は、たしかに綺麗な表現じゃない。
でも、綺麗じゃないからこそ、そこに本音が滲むこともあるんだと思う。

  「ちゃんと言え」が出来ない時だってある

体調が悪いなら言えばいい。
つらいなら相談すればいい。
休みたいなら休みたいと言えばいい。

 

本当に、その通りだと思う。

でも、その“正しい対応”が、いつでも誰にでも出来るなら、世の中はもっと生きやすいはずなんだよね。

 

現実はそうじゃない・・・

 

我慢して頑張ることが美徳みたいに扱われる。
少しくらいの不調は気合いでどうにかしろと言われる。
弱音は甘えに見られる。
空気を乱す人は、大人げないと扱われる・・・

 

そんな世界の中で、
「すみません、今日ちょっとしんどいです」
この一言を言うのが、どれだけ難しいか・・・

 

本当にしんどい時ほど、人は上手く言葉に出来ない。
迷惑をかけたくない。
これくらいで言うなと思われたくない。
我慢すべきだ。
まだ大丈夫なふりをしなきゃ。

そうやって飲み込んだ結果、言葉になれなかった苦しさが、態度に滲む。


それが、不機嫌として見えることもあるんだと思う。

  笑顔は取り繕える。でも、不機嫌は漏れてしまう

人の本心なんて、分からない。
思いや感情なんて、全部は見えない。
誰もがペルソナを抱えて生きているんだから、見えているのは結局、上っ面だけだと思う。

感じの良い対応は出来る。
笑顔も作れる。
丁寧な言葉だって使える。

 

でも、不機嫌って、そういう「整えた表情」から少しこぼれ落ちたものなんじゃないかなと思う。

取り繕えなかった感情。
押さえきれなかった疲れ。
吐き出したいけど吐き出せないモヤモヤ。
叫びたいけど叫べない葛藤。
限界に近い体調不良。
言葉になる前に漏れてしまった、心や身体の悲鳴。

 

そういうものが、にじむ。

だから私は、不機嫌の中に、その人の未熟さだけを見る気にはなれない。


むしろそこに、その人がどれだけ我慢してきたのか、何を抱えてきたのか、何を言えずに飲み込んできたのか、そういうものが滲んで見えることがある。

  不機嫌には、面倒さと意味が同時にある

もちろん、不機嫌を撒き散らしていいとは思わない。
周囲に当たり散らすことまで肯定したいわけじゃない。

 

でも、不機嫌は迷惑だからダメ。
不機嫌は幼稚だからダメ。
不機嫌は社会人失格。


そうやって全部まとめて切り捨てるのは、あまりにも雑だと思う・・・思うんだ・・・

 

だって、不機嫌には意味があるから。

面倒なのは事実。
嫌われることもある。
関わりにくいのも分かる。
でも、それでもなお、不機嫌には「何か」がある。

 

それは、助けての代わりかもしれない。
限界ですのサインかもしれない。
もう無理ですの救難信号かもしれない。

綺麗に言えないからこそ、綺麗じゃない形で出る。

 

それを全部「大人げない」で済ませてしまうのは、少し冷たすぎる気がするんだ・・・

  美学とは別に滲む、その人らしさ

人には、美学があると思う。
どう在りたいか。
何を守りたいか。
どんな自分でいたいか。

でも、不機嫌って、美学とは少し違う。

美学は、自分で選び取った輪郭だ。
一方で不機嫌は、選ぶ前に漏れてしまったものに近い。

 

だからこそ私は、そこに別の意味での「その人らしさ」を感じる。

整えた言葉じゃない。
見せたい自分でもない。
むしろ、隠したかったかもしれない部分。

それでも滲んでしまったものの中に、
その人が生きてきた時間や、抱えてきた苦しさや、我慢してきた歴史が見えることがある。

 

笑顔よりも、
優しい言葉よりも、
感じの良い対応よりも、
そこにしか出ないものがある。

 

不機嫌は美しくはないかもしれない。


でも、綺麗じゃないからこそ、本物っぽい。

私はそこに、ただの欠点では終わらない人間らしさを見る。

 

  不機嫌を、ただの欠点にしたくない

不機嫌は、褒められるものじゃない。
周りを困らせることもある。
面倒だと思われても仕方ない。

 

・・・でも、それだけじゃない。

 

不機嫌は、性格の悪さだけじゃなく、
言葉に出来なかった苦しさや、我慢の限界や、体調不良の救難信号であることもある。

 

笑顔や愛想はいくらでも作れる。
でも、不機嫌には、作りきれなかった本音が滲むことがある。

だから私は、不機嫌をただ否定されるべきものとして扱いたくない。
そこには、美学とは別に漏れた、その人らしさがあるからだ。

不機嫌は、迷惑な態度かもしれない。
でも同時に、言葉になれなかった「助けて」の形かもしれない。

過去を否定したくなる日もある。
今なんて見たくないと思う日もある。
それでも私は、未来にだけすがる生き方より、今日を積み上げる生き方を選びたいと思う。

ねだるな、勝ち取れ。さすれば与えられん

  過去を否定しない。今を雑にしない。

私は、過去を否定しない。
私は、今を否定しない。
そして、未来に都合のいい希望も持たない。

 

なぜかと言えば、未来は「願えば来るもの」じゃないと思っているからです。


今を積み重ねて、積み上げて、その先にようやく見えてくるかもしれないもの。
それが未来であり、可能性であり、勇気なんだと思っています。

過去があるから、今がある。
今があるから、次がある。
この当たり前を飛ばして、未来だけ綺麗に語るのは、私にはどうしても薄っぺらく見えてしまうのです。

 

もちろん、過去を消したい気持ちもわかる。
今から目をそらしたい気持ちもわかる。
未来にだけ希望を置きたくなる気持ちも、よくわかる。

でも、それは本当に全力で生きて、それでもなお苦しくて、それでもなお見えない時に初めて言える言葉なんじゃないかと思うのです。

  私が「努力」や「頑張る」が苦手な理由

私は、努力とか頑張るという言葉があまり好きではありません。

なぜなら、その言葉にはどこか、
「今のお前では足りない」
「限界を超えろ」
「出来ないことを出来るようにしろ」
そんな圧力が混ざっているように感じるからです。

 

でも、本当に好きなことや得意なことって、そんな言葉がなくても続くんですよね。

好きだからやる。
楽しいから続く。
得意だから伸びる。
夢中だから時間を使える。

 

そこに「頑張ってます」なんて看板は、本当はいらないのかもしれません。

 

ただ、その時間は確実に積み上がっていく。
それは苦行じゃなくて、素晴らしい時間の使い方だと私は思っています。

  結果だけ欲しがる人が、どうしても苦手だ

お金が欲しい。
モテたい。
すごいと思われたい。
認められたい。

そんな欲望は、全部まっとうです。


人間らしくて、むしろ自然なことだと思う。

 

でも私は、その結果だけを欲しがる人が苦手です。

仕事が終わって、家でゴロゴロして、YouTubeを見て、SNSを見て、アニメを見て、
それで「金が欲しい」「彼女が欲しい」「モテたい」と言っているのを見ると、正直かなりしんどくなる。

 

今の時代は、とにかく結果だけを急ぎすぎるのかもしれません。
すぐに成功。
すぐに逆転。
すぐにチート。
すぐに何者かになれるような言葉ばかりが並んでいる。

でも現実は、そんなに都合よくできていない。

欲しいなら、そのための時間を使うしかない。
積み重ねるしかない。
そこを飛ばして結果だけ欲しがるのは、私にはどうしても気持ちよく見えないのです。

  結果が出なくても、積み上げた時間は消えない

私だって、お金は欲しいです。
モテたい気持ちだってある。
言葉をもっと伝えたいし、もっと良く見られたい気持ちもある。

 

だから本を読む。
人と話す。
観察する。
自分を見つめ直す。
比べて落ち込んで、悲しくなって、苦しくなって、それでもまた考える。

筋トレもする。
運動もする。
身だしなみにも気を使う。
会話も練習する。
時間も労力も使う。

結果は散々かもしれない。
思ったような未来なんて、まだ何ひとつ手に入っていないかもしれない。

 

それでも、その時間は無駄じゃないと思っています。

なぜなら、その時間だけは確かに「自分の人生を生きた時間」だから。

 

結果が出たかどうかより、
自分の時間をどう使ったか。
私はそこに、すごく大きな価値があると思っています。

  ねだるな、勝ち取れ

私の好きな言葉に、
「ねだるな、勝ち取れ。さすれば与えられん」
というエウレカセブンの言葉があります。

 

本当にその通りだと思う。

 

私は、まだ何も手に入れられていません。
恋人もいない。
家もない。
胸を張れるような結果も、たぶんまだ少ない。

 

それでも、まだ見ぬ世界へ進むことはやめたくない。
だから私は、今日を積み上げます。

未来に夢を見すぎるんじゃなくて、
今の時間をちゃんと使う。


欲しいものを叫ぶだけじゃなくて、そのために生きる。

子供みたいに、ただ「欲しい」とねだるだけなら、何も変わらない。
でも、自分の足で勝ち取りに行くなら、その時間はきっと自分を裏切らない。

私は、努力という言葉は嫌いです。
でも、積み上げる生き方は好きです。

今日を積み上げた先にしか、
私の未来はないと思っているから。

嫌われても平気・・・なんて、そんなに簡単に言えたら苦労しない。
人はきっと、好かれたい。認められたい。受け入れられたい。
それは甘えじゃなく、この世界で自分の居場所を失いたくないからなんだと思う。

 

人はなぜ、そんなに「好かれたい」と思うのか

先に結論を書いてしまおう・・・

他者の言葉や評価のどうこうより、私は自分の美学や矜持が大切だと思っている。

例えば、私の美学は「事物に物語を与え、言語化して表現する」っていうことだ。

 

花をただ渡すのではなく、アートとして渡す。
物に意味を与え、行為を作品に変える。
それは傍から見れば自己満足かもしれない。
でも、私にとっては自己満足では終わらない。
それが、自分が生きるための花になる。

image

(この花は私が買った花束だよ~笑)

  好かれることは、ただの人気じゃない

人間関係は、良好な方がいい。
それは綺麗事じゃなく、現実の話だ。

 

好かれている。
好感を持ってもらっている。
それだけで、少し生きやすくなる。

多少の失敗を許してもらえることもある。
少し融通が利くこともある。
困った時に助けてもらえることもある。

営業なら、好感は武器になる。
面接でも、恋愛でも、職場でも、日常でも、「感じがいい」は思っている以上に強い。

 

つまり、好かれることは、ただ気分がいいだけじゃない。
生きるための居場所になるんだと思う。

  人は、他人の中に自分を探してしまう

だから人は、他人の中に自分を見る。

私はどう見られているんだろう?
嫌われていないだろうか?
ちゃんと受け入れられているだろうか?
ここに居てもいいと思われているだろうか?

 

そうやって、自分の安心や安定を、他人の視線の中に置いてしまう。

 

アリストテレスは、人間を共同体の中で生きる存在として捉えたと言われている。


人は一人で完結する存在ではなく、他者や社会との関わりの中で生きる存在だということだ。

この考え方から見れば、好かれたいと思うのは当然なのかもしれない。
見栄でも、甘えでもなく、社会の中で生きるための自然な欲求だ。

 

それは、無人島で1人で生きていたら必要ない欲求だから・・・
誰もいないなら、自己を説明する必要がない。
承認も不要、比較も不要、役割も不要。

 

生きることと、自己を認識することは一致しないっていうことなんだと、私は感じている。

  好かれたいのは、他人のためじゃない

ここが少し厄介だと思う。

人は「他人のため」に好かれたいわけじゃない。


結局は、自分のためなんだと思う。

好かれることで安心できる。
認められることで落ち着ける。
受け入れられることで、自分の存在に意味を感じられる。

つまり、他人に好かれたいのは、
他人を喜ばせたいからというより、
自分くが生きやすなるためなんだ。

そしてその先で、もっと深い問いが出てくる。

 

他人に好かれたいのか?
それとも、他人に好かれている自分を好きになりたいのか?

たぶん、この二つはかなり近い。

  他人の評価を、自分の価値の条件にしてしまう苦しさ

他人に認められている自分なら、好きになれる。
好感を持たれている自分なら、許せる。


そうやって、自分を肯定する条件の中に、他人の評価が入り込んでくる。

 

でも、他人の評価は自分では決められない。
どれだけ頑張っても嫌う人はいる。
どれだけ配慮しても誤解される時はある。

そこに自分の価値を全部預けたら、苦しい。
ずっと他人の反応に振り回されることになる。

 

サルトルの有名な言葉に、
「Hell is other people.(地獄とは他人のことだ)」
がある。『出口なし』の一節として広く知られている。

この言葉は、ただ「他人が面倒」という意味じゃないと思う。
他人のまなざしの中で、自分が決めつけられ、縛られ、逃げられなくなる苦しさ。
その息苦しさを言っているように感じる。

 

『好かれたい。』
でも、好かれることを自分の価値の条件にしすぎると、他人が地獄になる。

  じゃあ、自分だけで自分を好きになる方法はあるのか

自分だけで、自分を許して、好きになる方法はあるのか?

 

たぶん、完全な意味では難しい。
人は最初から他人のいる世界で生きているからだ。


言葉も、価値観も、役割も、何もかも他者を通して受け取っている。

でも、だからといって、他人の評価だけで自分を決めるしかないわけでもない。

必要なのは、
他人に好かれることを、自分の価値の絶対条件にしないこと
なんだと思う。

好かれたら嬉しい。
認められたら助かる。
それは事実だし、大切なことでもある。

 

でも、それがなければ自分には何もない・・・となった瞬間に、人は苦しくなる。

  自分を支えるのは、最後は他人の評価じゃない

じゃあ何が必要なのか?

 

それは、他人の評価とは別に、
自分が何を良しとするか?
を持つことなんだと思う。

自分の自分の為だけの、美学や矜持
 

人に優しくすることでもいい。
作品を作ることでもいい。
自分なりに譲れないものを持つことでもいい。

 

好かれることは、世界の中で居場所を作ってくれる。
でも、自分の美学は、居場所が揺れた時に自分を立たせてくれる。

 

だから大事なのは、
「私は好かれている」と思い込むことじゃない。
そんなものは距離感を間違えれば、ただの面倒な人にもなる。

 

そうじゃなくて、
私は私なりに今日を生きた
私は私なりに譲れないものを持っている

そう思えることなんだと思う。

  好かれたいのは自然だ。でも、それだけでは足りない

 

人は他人に好かれたい。
それは弱さじゃない。
この世界で生きる以上、自然なことだと思う。

でも、本当に欲しいのは、
ただ好かれることじゃない。

 

たぶん、
好かれている自分を通して、自分を許せる感覚
なんだと思う。

 

だからこそ必要になるのは、
好かれる努力だけじゃなく、好かれなくても全部は失わない自分の美学や矜持なのかもしれない。

 

好かれることは、生きやすさになる。
でも、自分を支える最後の一本は、他人の評価じゃなく、自分の美学であってほしい。

 シンプルフレーズ

好かれることは、居場所をくれる。
でも、自分を立たせるのは、最後は自分の中にある譲れないものなんだと思う。

助かる方法なんて、知らない。
自分を許す方法なんて、もっと知らない。
それでも私は、潰されない為に、言葉を書く。

言語化することで事実はartになる

 

私の人生は、壮大な未完成のアートだ。 

出口のない暗闇を、言葉という絵具で塗りつぶしていく。 

その先に自由があるのかは知らないが、少なくとも私は、私の絶望を誰にも渡さない。

  助からない時、人は何をするのか?

世の中はよく言う。
「大丈夫」
「時間が解決する」
「前を向こう」
「自分を許してあげて」

たしかに、それで救われる人も居るんだと思う。


でも、どうしてもそうは思えない時がある。

 

許せないものは、許せない。
受け入れられない事実は、何度でも胸を刺してくる。
助かったとは、とても言えない。
現実に潰されて、息をするだけで精一杯な時だってある。

そんな時にまで、綺麗な言葉で丸められると、余計に苦しくなる。

だって、本当は助かっていないんだから。
本当は、何も終わっていないんだから。

だから私は思う。
人が本当に必要としているのは、立派な正論じゃない。
「それでも持ちこたえる為の方法」なんじゃないかって。

  許せなくても、言葉には出来る

私は、自分を許せない。
助かっているとも思えない。

 

でも、それでも出来ることがある。

それが、言語化することだ。

 

受け入れられない事実。
潰されそうになった出来事。
忘れたいのに忘れられない感情。
それらを、言葉にして置いていく。

感想にする。
経験にする。
表現にする。
作品にする。
歴史にする。
そして、少しずつ過去にしていく。

 

事実そのものは消えない。
起きたことは、無かったことにはならない。


でも、ただ潰されるだけだった出来事を、作品として置き直すことは出来る。

それは、救いと呼ぶのか。
許しと呼ぶのか。
正直、私は知らない。

でも少なくとも、沈黙したまま飲み込まれて終わるよりは、ずっと良い。
言葉にした瞬間、それは「ただ苦しかったこと」から、「私が表現したもの」に変わるからだ。

  ゴッホも、花束も、ただの物じゃなかった

私は、ゴッホを見た時にもそう感じた。
花束を見た時にも、そう感じた。

ただ綺麗だとか、ただ凄いとか、そういう話じゃない。

そこには、
「見た」
「感じた」
「受け取った」
という、私自身の事実があった。

 

それを言葉にすることで、景色は感想になる。
感想は経験になる。
経験は、自分の歴史になる。

 

つまり、言語化するというのは、単なる説明じゃない。
存在した事実を、自分のものとして引き受け直す行為なんだと思う。

見ただけでは、流れていく。
感じただけでは、消えていく。
でも、言葉にすると残る。

 

残るからこそ、そこに「在った」と言える。
残るからこそ、「私は確かにここで何かを受け取った」と証明できる。

  ブログは、ただの日記じゃない

だから私にとって、ブログはただの日記じゃない。

誰かに伝える為でもある。
自分を整理する為でもある。


そして何より、存在の証明の為でもある。

 

私はここに居た。
こう感じた。
こう苦しんだ。
こう考えた。
こうして、まだ言葉を持っている。

それを文字にして、外へ出す。
誰かの目に触れる場所へ置く。
そうすると、ただの個人的な痛みだったものが、公共の場所に立ち上がる。

 

もちろん、理解されるとは限らない。
共感されるとも限らない。
価値を返してもらえる保証なんて、どこにもない。

 

それでも、ひとつだけ確かなことがある。

言葉にされたものは、無かったことにはされにくい。

これが、とても大きい。

社会は、黙っているものを簡単に消す。
言えなかった痛みを、存在しないものとして扱う。
記録されない苦しみは、最初から無かったかのように流していく。

でも、書けば残る。
残れば、そこに在ったことを押し返せる。

  言語化とは、本来的価値を押し付けること

ここが、私の中ではとても大きい。

言語化することで、強制的に
人間の本来的価値
を押し付けることが出来るようになる。

 

これは、承認をお願いすることとは違う。
「分かって下さい」と頭を下げることでもない。
「共感して」と媚びることでもない。

 

ただ、ここに置くんだ。
私の感じた事実を。
私の受けた痛みを。
私の見た景色を。
私の存在を。

すると世界は、少なくともそれを
「無かった」
とは言えなくなる。

 

これが、言葉の強さだと思う。

価値があるかどうかを、誰かに決めてもらうんじゃない。
評価されるかどうかを、他人に委ねるんじゃない。

在ることそのものを、消せない形で残す。

それだけで、もう十分に強い。

だって本来、存在は、在るだけで価値がある。
なのに社会は、それを平気で見えなくする。
だからこそ私は、言葉で押し返す。

ここに居たと。
ここに在ると。
ここに、確かに人間が居たと。

  助からなくても、作品は残る

私は今でも、自分を許せない。
助かったとも思っていない。

 

でも、それでいいのかもしれない・・・

無理に綺麗な救済へ持っていかなくてもいい。
簡単に「乗り越えた」にしなくてもいい。


許せないままでも、苦しいままでも、言葉にすることは出来る。

助からないなら、作品にする。
許せないなら、表現にする。
潰された事実を、歴史にする。

そうやって私は、今日も書いている。

 

それは、誰かの為かもしれない。
自分の為かもしれない。
整理の為かもしれない。
存在証明の為かもしれない。

 

きっと、その全部なんだと思う。

でも、ひとつだけ言える。

救いがなくても、言葉は残る。
許しがなくても、作品は在る。
そして在るものは、世界に価値を押し返す。

それだけは、信じている。

 シンプルフレーズ

助からないなら、作品にする。
言葉は、存在を消させない為の最後の証明だ。

春になると、桜を見に行く。
別に誰かに言われたわけでもないのに、なぜか足が向く。
それはきっと、「上を向く理由」を探しているからだと思う。

 



星空のように花が咲いている

 

  桜は、存在を示すために咲いている

桜は、これでもかっていうくらいに咲き誇っていた。

花は、咲くことで存在を示す。
そして、散ることでバトンを渡す。

次の誰かが、次の何かが、力を溜めていく。

誰に見られるでもない場所の花も、ちゃんと輝いている。


それが当たり前のように、ただ咲いている。

咲く場所も、咲き方も関係ない。
それでも確かに、「ここにある」と言い切っている。

 

その姿は、あまりにも美しい。

 



花を見ると思うんです。私もこうありたいって・・・

誰かに見られなくても、認められなくても、只々自己満の為だけに咲き誇りたい。

勝手に咲いて、勝手に散っていく・・・

それが、どこかで誰かにバトンを渡すキッカケになれたら嬉しいって思う。

本当に、ただの自己満ですけどね(笑)

  時間は、平等に流れている

春がまた来たんだと、桜は教えてくれる。

でも同時に・・・

春が来てしまったんだとも感じる。

 

時間は、誰の元にも同じように流れている。

「春が来たからなんだ?」
そう思う気持ちも、痛いほど分かる。

止まない雨が無いとしても、今の豪雨を耐えられないこともある。

雨が止んだ後に地が固まると言われても、
何もかも流されて、跡形もないことだってある。

綺麗事だけでは、生きられない。

  それでも、桜は咲く

それでも、桜は変わらず咲く。

何も言わず、何も問わず、
ただそこに、満開で在る。

だから私は、心が躍る。

 

  上を向く理由をくれるもの

 

花を見上げることって、意外と少ない。

 

でも桜は違う。

星空みたいに、空に咲いている。
昼も夜も、満点の輝きがそこにある。

 

これを見ないでいたら、
きっと私は、足元ばかり見ていたと思う。

 

過去ばかり見て、
苦しい、辛い、悲しいって言い続けていたと思う。

 

だからこそ——

上を、空を見上げる理由をくれる桜が好きだ。



星空が好きだ。
月が好きだ。

太陽は暑いし、眩しいから苦手だけど・・・

 

 シンプルフレーズ

「人は、理由があれば上を向ける。」

 

上を見る理由があるって、良いことだと思うでしょ?

 

・・・からの?

一人で花見に行くなら、桜祭りの会場は辛い・・・・

家族連れ・花見の宴会客・カップル・・・一人でニヤニヤスマホで写真を撮っているのは・・・

何とも痛い気がするのは私だけ?

気にし過ぎだよね。(笑)