何度も何度も思い出す後悔って、
いつの間にか後悔じゃなくて、日常になっているのかもしれない。

日常としての後悔

ふとした瞬間に思い出す。

仕事中。
通勤中。
スマホをいじっている時。
音楽を聴いている時。
寝る前。

何度も何度も、同じシーンが蘇ってきて、辛い気持ちになる。

 

悔しさだったり、贖罪の気持ちだったり、いろいろな感情が繰り返し押し寄せてくる。

 

私だってそうだ・・・

 

  後悔は、上書きされていく

昔は、学生時代の苦い記憶に縛られていた。

いじめられたこと。
殴られたこと。
勉強が出来なかったこと。
友人関係がうまくいかなかったこと。

 

沢山あった。

でも、それがいつの間にか、違う後悔に変わっていた。

 

人生って、結構長いんだ。

私の場合は、子供たちのこと。
付き合った相手のこと。
仕事のこと。

 

学生時代の記憶に縛られていた時から、
今は違うことに縛られているような気がしている。

 

特に何度も思い出すのは、子供たちのことだ。

 

もう、きっと簡単に会うことも出来ない。
謝ることも、埋め合わせることも出来ない。

 

だから、それがいつまでも残り続ける。

でも、それももしかしたら、
新しい後悔で上書きされる時が来るのかもしれない。

 

人生って、思ったよりも長いからね。

 

  後悔は分岐点なのかもしれない

 

何度も思い出す後悔って、
もしかしたら分岐点なのかもしれない。

 

人生が変わったと感じる時。
人生を変えることが出来たかもしれない瞬間。

 

その場所を、何度も思い出しているんじゃないだろうか。

後悔って、やっぱり杭として残っている瞬間なんだ。

それを乗り越えることは出来ない。
開き直って受け入れることも出来ない。
原因を追究して分けていったとしても、解決なんて出来ない。

だから、後悔ってきっと必要な瞬間だったんだ。

その瞬間の繰り返しが、人を作っていくんだろう。

 

何かが解決するわけじゃない。

 

ただ・・・
自分を作っているのは、あの時の私なんだなって思うだけなんだよね。

  後悔が、私を作ってしまった

やり直しも出来ない。
取り返しも出来ない。
なんなら、やり返しも出来ない。

見返すことすら出来ない。

それも、足跡でしかないんだよね。

 

過去を未来のために役立たせる・・・?


そんなことは出来ない。

 

それでも、同じ後悔をすることになった時に、
私はやっぱり私なんだなって思えることしか出来ないだろうね。

 

だって、自分の成長や進化より、
世界の変化の方が早いから。

ついていけないよ。

もうそれは、自分のせいじゃない。

 

  日常にフラッシュバックする後悔は・・・

日常としての後悔。

それは、どんな前向きでポジティブな言葉や論理で固めようとしても解決出来ない。

 

だから、日常で何度も繰り返す瞬間になる。

その瞬間は、もうどうしようもなく、
自分をいじめたくなる気持ちになる。

 

誰が何と言おうと、
どれだけアドバイスされて諭されたとしても、
どうにもならない・・・

 

それが楔であり、杭であり、悔いなんだから。

 

それを抜く方法?
解決する方法?
生かす方法?

あったとしても、乗り越える手段があったとしても、
それは何の解決にもならない。

 

日常にフラッシュバックするあの瞬間は、
ただの後悔を超えて、トラウマに近い状態なんだから。

  どうにもならないものが、私を作っている

他者の介入で救われることなんて無い。

自分で解決出来ることなんて無い。

だって、人生は自分だけのモノなんだから。

 

誰かの何かで人生に影響されているのは間違いない。

影響もされる。
感化もされる。
支配もされる。
支配もするだろう。
影響も与えるだろう。
被害にもあうだろう。

それもこれも、自分だけの人生の物語なんだ。

 

誰かの助言や進言で解決出来るほど、人生はあまくない。


そして、短くもない。

 

だから、その後悔をどうする?
どうやって生きていく?

 

そう考えてしまう。

 

でも、私は思う。

どうにもならん。

 

だって、それがあなたを作っていて、
私を作っているんだから。

苦しむしかないんだよ。

 

だから、人生は苦しいって、誰もが言っているんでしょ?

なんなら、終わりが無いって、こういうことを言うんだろう。

 

  終わらないから、続いている

私の人生は、後悔の連続と、悲しみと苦しみと、失うことと失敗に彩られている。

 

だからこそ思う。

もう手に入らないから、
何も手に入れないっていう選択肢はあっても良い。

手に入れると、失うことが怖い。
新しい後悔に繋がるから。

 

もう手に入れないで、
その都度、自分の感情と欲望に任せた人生設計にしても良いんじゃない?

 

だって、人生は結構長いからさ。

新しい後悔が来てからでも、
長い人生はまだまだ残っているんだよ。

 

だって、まだ終わってないでしょ?

 

コンティニューなんていらない。
リスタートもいらない。

だって、終わらないんだもの。

 シンプルフレーズ

後悔は、乗り越えるものじゃない。
私を作ってしまった日常だ。
どうにもならないまま、私は私として続いている。

 

ホント・・・人生って長いね。

 

それでも、シンプルフレーズは諦めない

「自閉スペクトラム症(ASD)」
「失感情症(アレキシサイミア)」
「共感性の欠如」

 

私の取扱説明書になり得るかもしれない名前が、この世界にはいくつか用意されている。

原因だって、今の世界には懇切丁寧に列挙されている。
脳のどの部位が、どんなメカニズムで機能していないのか。
専門書にもネットの海にも、いくらでも答えらしきものがある。

 

現代社会は実に親切だ。

「分からない」という不気味なものに、ちゃんと名前を与えて、分類し、可視化してくれる。

 

けれど、名前がついて原因が判明したからといって、社会や組織の中に私たちの「居場所」が自動的に与えられるわけではない。

「名前は分かった。
でも、私たちの輪に入れないなら、それ相応の扱いになるのは仕方ないよね」

分類はされても、包摂はされない。
名前があっても、居場所は与えられない。

 

それが、この世界の持つ本当の冷たさだ。

  会話という名の承認欲求の物々交換

最近、本当に会話が難しいと思う。

誰もが簡単に盛り上がっている。
私だって、それなりに会話は出来ていると思う。

 

でも、同じように盛り上がっているか?


そう聞かれたら、そうじゃないとも思う。

少なくとも、私は自分が振った話でないと、なかなかうまく回せない。
相手の話を聞くのが得意じゃない。

 

これが一番たちが悪い。

人は誰もが語りたい。
人は誰もが教えたい。

子供も、人に教わるより教えたいらしい。
教える方が楽しいし、娯楽になり、満たされる。

 

伝説の、

「志村!うしろうしろ!」

あれと同じだと思う。

 

自分が気づいたことを言いたい。
自分が知っていることを渡したい。
自分の感情を受け取ってほしい。

会話は、情報交換だけじゃない。
会話は、承認欲求の物々交換でもある。

人は、自分の中にある感想や想いといった、不確かな、形のない主観を会話に差し出す。


そして相手に同じ色で染まってもらうことで、感情の足場固めをしている。

でも、私にはその感情を受け取るカゴがない。

相手の「語りたい娯楽」の受け皿になれない。
相手が求めている共感の反応を、自然に返すことが出来ない。

 

だから、計算する。
演じる。
顔色を伺う。
合わせる。
擬態する。

それは社会における生存戦略にはなる。

 

でも、それ自体が自分を見失う原因になる。

  無我か、全肯定の孤独か

演じているだけでは満たされない。
でも、本当の自分では誰も寄り付かない。

 

ここが悲しいほどに、詰んでいる。

社会で生き残るためには、無我になる。
相手に合わせて、空気を読んで、求められた反応を返す。

 

でも、それを続ければ、自分がどこにいるのか分からなくなる。

 

かと言って、世間の啓発本が言うように、

「自分らしく生きよう」
「自分のペースで生きよう」

と舵を切れば、待っているのは周囲との断絶だ。

全肯定の孤独。

私は私でいい。
私を否定しない。
無理に合わせない。

それは綺麗な言葉だ。

 

でも、その先に誰もいなかったら?


その静寂は、やがて自己否定と自責へと反転していく。

「やっぱり私が悪いのか」
「やっぱり私はおかしいのか」

そうやって戻ってくる。

恋人が欲しい。
誰かと繋がりたい。
居場所が欲しい。

そう思った時、入り口で求められるのは、自分を殺して演出した虚像だ。

 

でも、本当に理解してほしいのは、その奥にある「共感できない実像」だ。

 

実像を明かせば、相手にとって期待外れになる。
同族を求めても、お互いに共感の回路がない以上、破綻するかもしれない。

悲しいほどに、詰んでいる。

 

バランタインのグラスを傾けながら、私は一度、静かに投了の準備をしかけた・・・

  それでも、シンプルフレーズは諦めない

しかしだ。

シンプルフレーズは諦めない。

 

大丈夫って言いたい。
手を差し伸べるためにいるのが、シンプルフレーズなんだ。

 

ここで投了を宣言するためだけに、私は言葉を紡いでいるわけじゃない。

だとしたら?

 

全部じゃなくていいんじゃないか。

全部を理解してもらおうとするから詰む。
全部を隠して演じるから苦しくなる。
全部をさらけ出すから誰も寄り付かなくなる。

 

だったら、部分的な打開は可能じゃないだろうか?

趣味の一部分だけ。
好みの一部分だけ。
嫌いや苦手の一部分だけ。
大切にしたい何かの一部分だけ。

全部じゃなく、一部分だけを公開する。


一部分だけを公表する。
一部分だけに理解を求める。

これは、ギリセーフだと思うんだ。

最初から全部を認めてもらいたいとか、全部を理解してもらいたいとか、全部分かってほしいとか。


それはどんな人だって無理なんだ。

 

だから、切り捨てるんじゃなく、切り分ける。

一部分だけにフォーカスする。

そこだけを、共感でも共有でも理解でも押し付けでもいいから、求めていく。

 

全部を押し付けるから重い。
でも、一部分なら、それは表現になる。

 

  私の場合は、シンプルフレーズだ

言葉で手を差し伸べること。
大丈夫って言いたいこと。
誰かの逃げ場になりたいこと。

 

そしてもう一つ。

「冴羽獠」を目指す生き方の姿勢。

 

普段はお調子者でいい。
ふざけていてもいい。
軽く見られてもいい。
まともじゃないと思われてもいい。

 

でも、本当に誰かが詰みそうな時。
本当に逃げ場をなくした時。
本当に手を伸ばす相手がいない時。

その最後の場面で、ちゃんと手を取れる人でいたい。

 

冴羽獠のかっこよさは、完璧な正義じゃない。
綺麗な聖人君子でもない。

ふざけて、壊れていて、どうしようもない部分を抱えながら、
それでも最後には人を見捨てないところにある。

私が目指しているのは、そういう姿勢だ。

全部の私を理解してもらわなくてもいい。
全部の私を受け入れてもらわなくてもいい。

この一部分だけは、誰にも譲らないし、世界に突き立てていく。

  居場所は、全部じゃなくていい

居場所って、全部の自分を受け入れてくれる場所だと思っていた。

でも、もしかしたら違うのかもしれない。

 

居場所は、全部の自分が許される場所じゃない。
一部分の自分を、ちゃんと置ける場所なのかもしれない。

名前を知るだけでは、世界は一ミリも優しくならない。

 

だから私は、全部の私ではなく、一部分の私を世界に突き立てる。

言葉として。
美学として。
シンプルフレーズとして。

居場所は与えられない。
なら、静かに刻み込むしかない。

 

全部を分かってくれなくていい。
でも、この一部分だけは見てくれ。
ここに、私はいる。

「それ、タイパ悪くない?」 「コスパ考えたら、こっちの方が得だよ」

最近、右を向いても左を向いても「効率」って言葉ばかり。

みんな、効率という名の魔法の呪文に、ちょっと惑わされすぎなんじゃないかな?

効率って言葉に惑わされている

タイパ。
コスパ。
効率。

 

最近は、何でもその言葉で測ろうとする。

 

短い時間で成果を出せた方がいい。
少ないお金で多く得られた方がいい。
無駄を減らして、最短距離で進んだ方がいい。

 

それは分かる。

仕事、筋トレ、投資、勉強。
結果を求められる世界では、効率の良さは大事だと思う。

 

時間は有限だし、体力も有限だし、お金も有限だ。
 

だから、無駄を減らしたい気持ちは分かる。

でも、私は思うんだ。

効率って言葉に、少し惑わされているんじゃないか?

  無駄だと思う時間は、自分のための時間

無駄に見える時間がある。

花を愛でる時間。
ぼーっと考える時間。
本を読んで立ち止まる時間。
答えのない問いを考える時間。
遠回りして帰る時間。
何にもならないような時間。

 

それを誰かは「非効率」だと言うかもしれない。

 

でも、その時間は本当に無駄なんだろうか?

 

私は違うと思う。

無駄だと思う時間は、自分のための時間なんだ。

そこに見返りを求めるから、苦しくなる。

これだけ時間を使ったんだから、何か得られないといけない。
これだけ頑張ったんだから、結果が出ないといけない。
これだけ悩んだんだから、答えが出ないといけない。

 

そうやって、すぐに回収しようとするから、
本来は自分のためだった時間まで、ハードな時間になっていく。

  楽したいのは分かる

もちろん、楽したい。

私だってそうだ。

 

できるなら簡単に結果が欲しい。
できるなら早く答えが欲しい。
できるなら遠回りなんてしたくない。
できるなら泥なんて踏みたくない。

 

でも、人生ってそんなに親切じゃない・・・

 

楽な道ばかり選んでいたら、
見える景色も、開く扉も限られていく。

 

知らない扉を開いてくれるのは、
案外、泥臭くて地獄みたいな時間だったりする。

しんどい。
面倒くさい。
報われない。
意味が分からない。
何の役に立つのか分からない。

 

そんな時間の中で、
人は自分の中にある別の何かを見つけることがある。

 

だから、効率だけで人生を切り分けるのは面白く無いんじゃないか?

 

効率が悪いから無価値なんじゃない。
すぐに結果が出ないから失敗なんじゃない。
数字にならないから意味がないんじゃない。

  社会が決めたゴールの先へ

世界には、成功という標識がある。

お金。
肩書き。
安定。
評価。
結婚。
家。
出世。
フォロワー。
分かりやすい成果。

 

それを目指すこと自体は悪くない。

むしろ、多くの人がそこに向かって生きている。


それを否定するつもりはない。

 

でも、人生はその標識に従って終わりじゃない。

社会が決めた答え。
誰かが用意したゴール。
世間が正解っぽく置いている道。

その先に進むのが人生なんだと思う。

 

だって、ゴールに着いたからといって、
人生がそこで終わるわけじゃない。

お金を手に入れても続く。
仕事を覚えても続く。
成功しても続く。
失敗しても続く。
誰かに認められても、認められなくても続く。

 

だからこそ、人生は面倒くさい。

  空欄を埋めるのは誰かの正解じゃない

人生は、解答用紙みたいなものかもしれない。

 

でも、その空欄を埋めるのは、
誰かの正解じゃない。

親の正解でもない。
会社の正解でもない。
社会の正解でもない。
成功者の正解でもない。
自己啓発本の正解でもない。

 

だって、採点する人は、
記入する時にはそこに居ないからね。

 

その時、空欄の前にいるのは自分だけだ。

何を書けば正解なのか分からない。
これでいいのか分からない。
間違っているかもしれない。
誰かに笑われるかもしれない。

 

それでも、書くしかない。

その空欄が、自分の人生なんだから。

 

(byラッドウィンプス:正解)

  正解を決めるのは、あなたの人生

タイパもコスパも効率も、
使いどころを間違えなければ便利な言葉だと思う。

 

でも、それを人生そのものに当てはめると、
きっと息苦しくなる。

 

人生は、最短で終わらせるものじゃない。
人生は、少ない労力で最大成果を出すゲームじゃない。
人生は、誰かの正解を早くなぞる競争じゃない。

 

泥臭くていい。
遠回りでいい。
効率が悪くてもいい。
誰にも評価されない時間があってもいい。

 

その時間が、自分のための時間なら。
その時間が、知らない扉を開いてくれるなら。
その時間が、自分の人生の空欄を埋める筆跡になるなら。

それはもう、無駄じゃない。

 シンプルフレーズ

効率に惑わされなくていい。
無駄に見える時間も、自分のための時間だ。
空欄を埋めるのは、誰かの正解じゃない。
正解を決めるのは、あなたの人生なんだから。

独り言がスゴイ人が会社に居る。

斯くいう私も独り言が多い方なわけで、独り言って意味があるものと、ちょっと気を付けた方がいい物があるらしい。

でも、そんなモノ初心者の、専門家でもない私に分かるわけもない。

 

ただ、独り言ってさ・・・

思考が終らず、抜け出せないからしているような気がするんだ。

いつでも起こるフラッシュバック

眠れない夜に繰り返される葛藤と後悔

只々懺悔を捧げるだけの瞬間

抜け出せないんだ。少なくとも私はね・・・・

 

自分で語るのをやめて、誰かの本気の語りを聞くことは、逃げ道になるんじゃないかな?

 

グルグル回る思考には、落語を聞けばいい

独り言が悪いとは思わない。

むしろ、独り言で救われる瞬間はある。

 

外国語の勉強なんて、独り言の塊だ。
声に出す。
何度も繰り返す。
自分の声を聞いて、また覚える。

 

仕事中だってそうだ。

「次はこれをやる」
「ここを確認する」
「一回落ち着け」

そうやって言葉にすることで、頭の中が少し整うことはある。

 

だから、独り言そのものが問題なんじゃない。

 

問題は、同じ場所をグルグル回る思考だ。

眠れない夜みたいな思考。

「あれは何だったんだ」
「なんであんなことを言われたんだ」
「自分が悪かったのか」
「いや、でも違う」
「でも、でも、でも」

答えが欲しいのに、答えに辿り着かない。
終わらせたいのに、終われない。
考えているようで、ただ同じ場所を何度も歩いているだけ。

 

それはもう、思考じゃない。

迷路だ。

 

そして人は、その迷路を正攻法で抜けられるほど強くない・・・。

「気にしないようにしよう」
「ポジティブに考えよう」
「紙に書き出して整理しよう」
「誰かに相談しよう」

分かってる。


そんなことは分かってる。

 

でも、それで救われるなら、最初からこんなに苦しくなっていない。

正しい方法で救われる人は、それでいい。


でも、正攻法で救われない人間もいる。

 

そこで私は思う。

落語を聞けばいいんじゃないか・・・?

 

別に、高尚な趣味の話をしたいわけじゃない。
古典芸能をありがたがれと言いたいわけでもない。

 

ただ、落語には「終わり」がある。

これが大きい。

 

自分の頭の中の独り言は、終わらない。
不安も怒りも後悔も、勝手に続編を作り出す。

 

でも、落語は違う。

語り出しがあり、人物が出てきて、話が転がって、最後に下げがある。

ちゃんと終わる。

 

この「終わる」が、ものすごくありがたい。

グルグル回る思考には、オチがない。


だから苦しい。

落語には、オチがある。
だから、ひとまず終われる。

自分で無理に笑い話をしなくていい。
自分で自分を励まさなくていい。
自分で明るい言葉をひねり出さなくていい。

 

そんなことをしたら、余計に怖い。

引きつった顔で、
「大丈夫、大丈夫」
なんて一人で唱えるくらいなら、私は落語を聞く。

プロの語りに、頭の中を明け渡す。

熊さんが喋る。
八っつぁんが勘違いする。
ご隠居が呆れる。
誰かが怒って、誰かが間違えて、誰かが笑われる。

 

そこには、確かに人がいる。

 

でも、自分の中で勝手に暴れ出す不安な誰かじゃない。


プロが演じる、ちゃんと安全な誰かだ。

この違いは大きい。

自分の頭の中で作られた第三者は、こちらを追い詰めることがある。
でも、落語の中の第三者は、最後には話の中へ帰っていく。

出てきて、喋って、騒いで、最後に消える。

それがいい。

 

ちゃんと帰ってくれる他人。
ちゃんと終わってくれる物語。

それだけで、救われる夜がある。

もちろん、落語で人生が解決するわけじゃない。

 

そんな綺麗事を言うつもりはない。

 

落語を聞いたから、明日から急に元気になるわけでもない。
不安が消えるわけでもない。
職場の面倒な人間が消えるわけでもない。
過去の後悔がなかったことになるわけでもない。

 

でも、グルグル回る思考を一回止めることはできるかもしれない。

いや、止めるというより、別の流れに乗せる。

自分の言葉で溺れている時に、他人の語りへ逃げる。

 

それくらいのワンチャンがあってもいい。

私は、正攻法で救われない人間の逃げ道を探している。

ちゃんと考えろ。
向き合え。
整理しろ。
解決しろ。

うるさい。

考えたから苦しいんだ。
向き合ったから眠れないんだ。
整理できないから、同じ場所を回っているんだ。

 

だったら、一回、自分で語るのをやめればいい。

語らず、聞く。

落語を聞く。

プロの語りに、脳内の主導権を渡す。
自分の中の終わらない独り言を、終わる物語で上書きする。

それは逃げかもしれない。

 

でも、逃げでいい。

 

少なくとも、同じ場所をグルグル回って、自分を削り続けるよりはいい。

独り言は、出口があるなら道具になる。
出口がないなら、ただの迷路になる。

そして迷路に入った時、人は自力で出口を見つけられるほど強くない。

だから、落語を聞く。

語りに逃げる。
物語に逃げる。
下げのある世界に逃げる。

だって、現実にはオチがない日が多すぎるから。

 

せめて耳から入る物語くらい、ちゃんと終わってくれたっていい。

 

自分の思考が終われない夜に、
他人の語りが終わってくれる。

それだけで、ほんの少し救われる人がいる。

私は、そのワンチャンを信じたい。

ってさ、「タイガー&ドラゴン」ってドラマを見て思ったわけですよ。

最高に生かしている演者さんたちが、最高にとがって演技を見せてくれている。

正直、涙ナミダ・・・

久しぶりに泣いて笑って楽しかった。

だから、そう思ったんだ。

 

 

 シンプルフレーズ

自分の思考が終われない夜に、
他人の語りが終わってくれる。
それだけで救われる人がいる。

 

正攻法では救われない夜がある。
そんな時、自分で語らなくていい。
誰かの本気の語りを聞けばいい。

泣いて、笑って、楽しかった。
それだけで、グルグル回っていた思考が、少しだけ物語の外へ出られた気がした。

誰かに怒られたわけじゃない。
誰かに強く否定されたわけでもない。


でも、

「大人なんだから」
「社会人なんだから」
「普通はこうするでしょ」
「ちゃんとしてないとダメでしょ」

そういう空気だけが先にある。

 

そして、その空気を自分で吸い込んでしまう。
誰にも言われていないのに、自分で自分に言い始める。

 

ちゃんとしなきゃ。
ミスしちゃダメだ。
空気を読まなきゃ。
子供っぽい自分を隠さなきゃ。

 

でも、そんなものずっと出来るわけがない。

人はミスをする。
勘違いもする。
ケアレスミスもする。
明後日の方向の返事をすることもある。
空気が読めない日もある。
子供っぽいところなんて、いくつになっても残る。

 

それを全部なくして「ちゃんとした大人」になろうとする方が、たぶん無理なんだと思う。

 

しかも厄介なのは、誰かがちゃんと指摘してくれる関係なら、まだ救いがあるってこと。

「お前それ違うわ」
「また変なこと言ってる」
「まあ、そういうとこあるよね」

そう言ってくれる人がいれば、それは責められているだけじゃない。


その人の中で、自分の失敗やズレが“キャラ”として置かれている。
笑いにしてくれる。
フォローしてくれる。
関係の中で回収してくれる。

 

でも、そういう人がいない場所では、自分で全部処理しないといけない。

ミスした自分。
ズレた自分。
ちゃんと出来なかった自分。
空気を読めなかった自分。

それを誰も笑ってくれない。
誰も拾ってくれない。
だから、自分で自分を責めるしかなくなる。

 

そこで生まれるのが、
「ちゃんとしなきゃ」という孤独なストレスなんだと思う。

 

他人に怒られるストレスじゃない。


自分が自分に圧をかけるストレス。

そして、その圧に対して、もう一人の自分が反発する。

「いや、仕方ないじゃん」
「そんな完璧に出来ないじゃん」
「こっちはこっちなりにやってるんだよ」
「ちゃんとなんて無理なんだよ」

この押し合いが終わらない。

 

自分で自分を責めて、
自分で自分に言い訳して、
自分で自分に反発する。

誰にもぶつけられない。
誰にも笑いにしてもらえない。

だから、発散できないストレスになる。

 

でも、ここで言いたいのは・・・
もう、ちゃんと出来ない自分を認めてもいいんじゃないか?
 

ちゃんとしようとするのは自由。
大人として振る舞おうとするのも自由。
社会人として最低限やるべきことはある。

 

でも、

ちゃんとしないと存在してはいけない
ちゃんと出来ない人間は認められない
子供っぽさを残している自分はダメだ

そこまで行くと、それはもう呪いだ。

 

ちゃんとしてないよって笑ってくれる人がいるなら、それは最高だ。
ちゃんと出来ない部分ごと、関係の中に置いてくれる人だから。

 

でも、ちゃんとしないとダメだとしか見てくれない人。
ズレやミスや子供っぽさを、ただ未熟としてしか見ない人。
そういう人とは、少し距離を取ってもいい。

 

だって、ちゃんとなんて出来ないんだもの。

 

漫画も好きだ。
遊びも好きだ。
くだらないことで笑いたい。
大人っぽく正しく振る舞うより、楽しく空気を作る方が合っている。
ケアレスミスも勘違いも、完全には直らない。


空気に飲み込まれて黙るくらいなら、自分で空気を作る方がまだ生きている感じがする。

だから、こう言ってしまっていいと思う。

 

ちゃんとした大人になれなくてもいい。
ちゃんとしてない自分を笑ってくれる人のそばにいればいい。
ちゃんとしろとしか言わない人からは、離れてしまえばいい。

 

ちゃんとすることより、
ちゃんとしてない自分を殺さないことの方が、きっと大事だ。

 シンプルフレーズ

ちゃんと出来ない自分を責めるより、
ちゃんとしてない自分を笑ってくれる人のそばにいればいい。