気づけば、私たちは毎日いくつもの顔を持って生きています。
仕事用の顔、家庭用の顔、SNSで見せる顔。
「素直でいたい」「本当の自分でいたい」と思いながらも、
そのままでは傷ついたり、居場所を失ったりするのが現実です。
だからこそ、人は仮面をかぶる。
匿名に隠れる。
アバターの姿を借りて、別の自分を生きる。
それは決して逃げではなく、人が人として生きるための方法なのだと思います。

仮面・匿名・アバターの意味
◆居場所のない苦しさ
「本当の自分でいたい」と願っても、社会はそんな素顔を許してくれません。
上司の言葉に笑顔で頷く。社会人の常識で、普通で当たり前・・・
家で自由にしたいと思っても、近所との繋がりに笑顔で答え・・・
ママとも?パパ同士の繋がり?笑顔で対応。
SNS?Xにインスタに、笑顔のキラキラだけまとめてUPする。
アバターで新しい自分を演じて、笑って歌って楽しんで
どれも私ではあるけれど、どれも“私の一部”でしかない。
居場所がないと感じるとき、人は息が詰まるように苦しくなります。
けれど、この苦しさは私一人だけのものではなく、誰もが抱えている共通の体験ではないでしょうか。
そして、一人になった時にため息。
「今日も頑張った」
「明日も良い日になりますように」
本音なんて忘れたよ。私は演じた私しかいないから・・・。

◆仮面は生きるための装備
仮面・・・それは他人に合わせるための笑顔
仮面・・・合わせる他人に合わせた笑顔
いくつもある。友人用。他人用。会社用。上司用。家族用。
仮面・・・自分を偽るわけじゃない。私を守るんだ。
他人の評価に怯える私は、上手く取り繕って、それなりの笑顔で、嫌われない私で・・・
「仮面をかぶることは嘘ではない」
これは、私がずっと感じていることです。
アリストテレスは「人は繰り返しによってつくられる。優秀さとは行為ではなく習慣である」と言いました。
ならば、毎日の仮面もまた「習慣」であり、私の一部になっている。
本当の顔を出せなくても、それは「偽り」ではなく「生きるための装備」なのです。
◆匿名はやり直すための魔法
現実では、一度言葉にしたことは取り消せません。
過去の失敗も、誤解された一言も、ずっと背負わされる。
しかし匿名なら、昨日の自分を否定し、今日の自分を言い直すことができる。
別の匿名が助けてくれる。別の匿名が否定してくれる。
別の匿名が補足して、別の匿名が盛り上げて、何なら拡散してくれる。
全部、私の匿名かも知れない。全部誰かの匿名かも知れない。
誰も見付けてくれないかもしれないが、誰かが見つけてくれるかもしれない。
そこには“やり直しの余白”があります。
ニーチェは「人間は過去を再解釈する存在である」と語りました。
匿名の力はまさに、この“再解釈”を可能にする仕組みだと思うのです。
◆アバターはもう一人の私
もっと、こうなりたい!
もし、こんな力があれば!これが出来たなら!
夢見る時はいつも自由だ。なりたい自分なんて、向こう側にしかない。
チヤホヤされたい。
愚痴や不満を聞いて欲しいし、相談だってしたい。
なにより、私の・・・私が大好きなモノを見て欲しい。
私が今まで見て来た、私が知っているこれを、他の誰かにも見て欲しいし
一緒に楽しみたい。私の良いトコロも、悪いトコロも、全部まとめて、私じゃない存在が私の代わりに表現してくれる。
そんな居場所があったら、自由に羽ばたけるって思っても良いじゃないか。
仮想空間やアバターの活動は、現実にはない自由を与えてくれます。
ゲームの中で、配信の中で、理想の自分を生きる。
それは妄想や幻想の産物かもしれません。
けれど、現実で折れた翼をもう一度広げてくれるのは、アバターの私なのです。
ボードリヤールは「シミュラークルは現実以上に現実を支配する」と言いました。
アバターが生む「もう一つの私」は、もはや幻想ではなく、現実の生を支える柱です。
◆値札で終わる哲学
現実社会では、すべてに値札が貼られます。
「給与はこれ」「査定はこれ」「あなたの価値はフォロワー数で」
値札が付いた瞬間に、論争も問いもすべて打ち切られる。
けれど、それは「哲学が終わる」ということではありません。
終わるのは「哲学を行使できる場所」のほうです。
哲学は、値札社会では使えない道具にされ、意味を剥ぎ取られる。
だからこそ私たちは、仮面の下で、匿名の影で、アバターの世界で、
別の場所に哲学を活かす必要があるのです。
◆私たちの意味と価値は一つじゃない
ここで私がたどり着いた結論はシンプルです。
誰にも見つけられなくても、認められなくてもいい。
トイレの中でも、お風呂の中でも、妄想や幻想の中でも。
自分の居場所を選んで、意味と価値を生み出すことこそが、生きるということだ。

◆私の言葉でまとめると
アバターも仮面も匿名も、逃げ道なんかじゃない。
全部、生きる場所をつくるための装備だ。
値札で哲学が終わるんじゃない。
哲学を使える場所を失うだけだ。
だから私たちは、自分に合った世界で、自分に合った習慣を選び取り、
そこで自分の意味と価値を見出せばいい。
それは、誰に認められなくても確かに存在する。
そしてそれこそが、私が信じる「生きるということ」なのです。

◆あなたへ
きっと、あなたもそうじゃないですか?
「仮面をかぶる自分」「匿名で吐き出す自分」「アバターで羽ばたく自分」
その全部があなたの一部であり、あなたが生き抜くための力なのです。
だから、どうか責めないでください。
あなたはもう、ちゃんと“生きる場所”をつくっているのだから。