変わりたいと願う。
新しい自分になりたいっていつも思う。
転生ものが流行って、特殊能力が人気で、チートなんて言葉が飛び交って
誰も彼もが、新しい自分になることを夢見てる。
私だけなのかな?
もっと違った人生を歩いてみたいって感じるのは・・・
学びより、後悔のほうが私を変える
「学ぶ前の自分と、学んだ後の自分は別人だ」
哲学書にはよくそんな言葉が並んでいます。
でも、現代を生きる私たちにとっての「学び」って、
正直そこまで人を変える力を持っているでしょうか?
だって、学びの多くは「マニュアル化」されているんです。
「8時間黙って働くスキル」を習得するのも学び。
「上司の顔色を読むリテラシー」を磨くのも学び。
「同調圧力に逆らわないノウハウ」も立派な学び。
…いや、それって人を高めてるんじゃなくて、
歯車の歯の形を微調整してるだけじゃない?
習慣が人を作る?
アリストテレスは言いました。
「人は習慣によって徳を身につける」
でも現代の習慣は、徳なんて作らない。
作ってるのは「過労死リスク」と「スマホ依存度」じゃないですか?
毎朝ぎゅうぎゅうの電車に揺られて会社に着き、
帰宅したら冷蔵庫の中身を見て絶望。
「あぁ、また納豆か…」っていう習慣で人格は形成されるのか?
…そう考えると、ちょっと笑えてしまう。
認識は習慣の奴隷
ヒュームは「因果とは習慣に過ぎない」と言いました。
雨の日に走ったら転んだ。だから次も転ぶだろう。
財布を車の屋根に置いて発進したら落とした。だから次も落とすだろう。
これが私たちの「因果の認識」です。
でも現代の因果はもっとシンプルです。
「働けば給料が入る。給料がなければ生活できない」
だから私たちは習慣的に働き続ける。
…いや、これ、認識というより“洗脳”に近いのでは?
感情と欲望と理性
ヒュームは「理性は感情の奴隷だ」と言いました。
確かに。
理性はいつも、感情と欲望に振り回されています。
お腹が空いたから「理性的に」コンビニに行く。
眠いから「理性的に」アラームを30分後にずらす。
給料日前なのに「理性的に」スイーツを買う。
…このどこに理性の独立があるんでしょうか。
理性って、結局は感情に「正当な理由」をつけるための便利屋なんですよね。
でも、この感情には不思議な力があります。
後悔するたびに、人はほんの少し違う自分になれる。
習慣に縛られなくても、後悔の習慣が私を未来に押し出してくれるのです。
資本と共同体
そしてその欲望や感情をコントロールしているのが資本。
火が人類を自然から区別したなら、貨幣は人類を人類に従わせた。
資本=第二の火。
「責任とはお金で解決すること」なんて、もはや常識になってしまった。
結婚も仕事も、愛や夢も、結局は資本の秩序の中で裁かれる。
「責任取ってよ!」と言われて頭に浮かぶのは、愛の言葉じゃなくて慰謝料の金額。
ちょっと悲しいけど、これが現実です。
それでも後悔だけは自由
じゃあ、人はどうやって変わるのか?
私の答えはこうです。
人を変えるのは「後悔」だ、と。
言わなければよかった一言。
見て見ぬふりをした瞬間。
子供を抱きしめられなかった夜。
財布を車に置いたまま走り去った朝。
雨の日に派手に転んで周囲の人にクスクス笑われた瞬間。
そういう「胸をひりつかせる瞬間」だけが、
私たちを別人に変えるきっかけになるんじゃないだろうか?
後悔という学び
習慣が人を作る?
確かにそうかもしれない。でも、変わりたいと願う人がいたとしたら・・・
習慣を変えるなんて簡単なことじゃない。
自己啓発やスピの世界で変われて、自己実現が出来るようになる人なんてほとんどいない。
人は、後悔を積み重ねる生き物だ
後悔を・・・何度も思い返す過去の出来事があるからこそ
次回に別の選択と行動が出来るようになる。
職場で定期的に開かれる「ミーティングという名の反省会」誰もが何度も経験する出来事。
何も進展しない、同じことの繰り返し・・・「気を付けます」「注意します」習慣は変わらない。
「胸をひりつかせる瞬間」を反芻できていないからだ。
本当の意味での後悔って言う悔しさと懺悔をしていないから、傷を負っていないから人は変わらない。
「胸をひりつかせる瞬間」を大切に刻んで、抱いて生きていく・・・
それこそが、人を変える一番の契機です。
習慣がなくても、後悔は残る。
そして、その後悔が次の一歩を変える。
シンプルフレーズ
「学びが人を変えるのではない。
後悔が人を変えるのだ。
それも、笑い話になるくらいの後悔が一番効く。」
何度でも泣けるなら上々だろう






