機嫌が不安定な時なんてよくある。

このブログを書いている私の今の気分は言葉にならない・・・

もうね・・・

分からん。良くも悪くも私らしいって感じ・・・

 

少なくとも良くは無い。

だからって、悪いとは言えない。

些細なコトよ

 

こんなもんよ・・・普通ではないし、いつも通りではないし、

言葉にならない時ってあるでしょ?

そんな感じ

機嫌を取る?って、そんなに簡単じゃない。

今の感情を表現できないし・・・

どこにどうやって吐き出したらいいのかも分からない。

ここに書いたらいいんだろうけど・・・

 

それすらも出来ないのが、今の私。

 

機嫌は悪いわけじゃないけど・・・それでもモヤモヤは消えない。

これが私の私らしさなんだろうな。苦しいさ・・・

 

  裁判を中断させるために・・・今日は、正しい選択をしない

 

自分の機嫌は、自分で取る。

そう言われるたびに思う。


それ、ハードル高すぎない?って。

 

気持ちや感情なんて、体調に左右される。
天気にも左右される。
忙しければ嫌になるし、暇でも憂鬱になる。
時間に追われたらイライラもするし、投げ出したくもなる。

気分は常に乱高下。


もちろん、テンションが上がる日もある。
嬉しい、楽しい、美味しいでいっぱいの日もある。

 

でも、その“波”がある前提で、
「自分の機嫌は自分で取ろう」って言われても。

・・・いや、分かるんだよ。
分かるけど、できない日もある。
それが現実。

 

  ご褒美で機嫌を取る?それって、どこへ辿り着くんだろう

 

よく言うじゃない。
「ご褒美があれば頑張れる」とか。
ニンジンをぶら下げるみたいに。

でも私は、そこにひっかかる。

機嫌を取るためにご褒美をあげる。


その対価は?


必死に苦しんで手に入れたお金から支払われる。

お金を稼ぐために人生を使い、
人生を使ったお金をご褒美に使う。

 

一見、普通の行為に見える。


ご褒美のために働いて生きていく。
まっとうにも聞こえる。

でも、どこに辿り着くんだろう。

短いスパンの繰り返し。
「今に集中して今を乗り越える」
「今を生きる」
「毎日を平穏に生きるために、今日を良くする」

確かに、その通り。

 

だけど、その“正しさ”が、
世界や社会や組織が、効率よく人材を歯車にして回すための思想に見えてしまう時がある。

未来を見させず、将来に期待させず、
大人しく黙って今日の仕事をさせるための思想。

 

気分の乱高下を無視して、
効率的に動く家畜を作る方法に見える。

・・・そう見えてしまう自分がいる。

  不機嫌は無視していい感情じゃない

 

不機嫌って、邪魔者扱いされがちだけど、
私はそう思えない。

 

不機嫌は、限界のサイン。
「これ以上は無理」っていう身体と心の警報。

ご機嫌は、感情の高ぶり。
嬉しいとか、楽しいとか、安心とか、回復とか。


欲望が満たされる方向に向いた時の熱。

感情は欲望の表れで、
欲望は生きる方向性で、
生きる方向性は欲望を満たすこと。

 

だから人は、
欲望を満たすために対価として時間と労力と資本を捧げる。

生きるために食べ、
寝るために寝床を求め、
働くために服・・・ペルソナを着る。

・・・そういうサイクル。

 

だから「機嫌」って、軽い話じゃない。
生存の話に直結している。

 

  機嫌を取ったら、人は機械になる・・・気がする

 

でも、ここでまた詰まる。

機嫌を取るって、
“感情を操作する”ってことにもなる。

機嫌を取ったら、人は機械になる。


私は、そんな気がしてしまう。

 

不機嫌を無視して、
笑顔で、愛想で、効率よく動く。

それって、
「自分の感情を天秤に乗せて、安心や安定と交換している」みたいじゃないかって。

 

そしたら、未来の可能性は手に入るのか。
平々凡々になれるのか。

でも世界は不条理だ。
手に入らないっていうデメリットは常にある。
代償に見合った対価があるとは限らない。
天秤は常に傾いている。

だったら、機嫌を取る意味って何なんだろう。

 

  じゃあ、機嫌を取らずに気分のままに生きたら?

 

きっと破綻する。

社会での生きにくさと不安定さで脱落してしまう。
不安が積み上がって、生活が崩れる。

 

だからこその取捨選択なんだろうな、とは思う。

 

何を優先するのか。
何のために今を使うのか。

出世や出会い、未来の可能性を求めるなら、
機嫌は常にいい方がいい。

自分のために自分の時間を使いたいなら、
感情のままに表現したらいい。

 

・・・分かる。
分かるんだよ。

 

でも私は、どちらも選びたくない。

選ばないんじゃない。
選べない。

迷いとか悩みとも違う。

「行きたくない」って答えがあるのに、
時間が進むっていう状況。

 

その“不可逆性”が、辛い。

 

  今日だけは、裁判を中断させる

 

だから、私は思う。

今の私に必要なのは、上手に生きることじゃない。

正しい選択をすることでもない。

 

“裁判”を中断させることだ。

 

今日の私は、
今日の私を裁きすぎている。

「どっちが正しい?」
「どっちを選ぶべき?」
「このままでいいの?」
「未来はどうするの?」

その問いが、ずっと頭の中で開廷している。

でも、今日はそれを止めたい。

 

今日は設計じゃない。
保全。

機嫌を“上げる”じゃなくて、底抜けしないように、下限を守る。

 

ご機嫌にならなくていい。
前向きにならなくていい。
ただ、壊れないように。

 

  ・・・私もまだ分からない

正直、答えはまだ分からない。

機嫌を取ると機械になる気がして怖い。
でも、機嫌のままに生きると破綻するのも分かる。

 

だから私は、今日だけは裁判を中断する。
正しい答えを出すのは、今じゃない。

 

時間は進む。
戻れない。
それが辛い。

でも、今日の私は、
今日の私を裁かない。

 

・・・私もまだ分からない。


だけど、分からないままでもいい日があっていいと思う。

何となく、むなしい・・・

今日も心のどこかに足りなさを感じている・・・

 

あの日、あの時のコトを思うと心が・・・

 

そんな経験誰にでもある。

 

心の穴 なんて都合の良い言葉があるくらいには、誰もが通る道。

それは、自分が知った時に感じる。

失ったと・・・大切なモノを手放したと感じる時に感じる想い。

 

「何か足りない」と感じる、その正体

理由は分からないけど、
なんとなくモヤモヤする日がある。

心に穴が空いているような感覚。
大切なものを、どこかに置いてきた気がする感覚。

 

でも、
「何を失ったの?」と聞かれると、
うまく答えられない。

そんな経験、ありませんか?

 

  喪失感は、特別な出来事だけじゃない

 

人は、大きなものを失ったときだけ
喪失感を感じるわけじゃない。

家族や恋人、友人。
仕事や役割。
時間、休日、健康。

極端な話、
仕事を休んでしまっただけでも、
「何かを失った」ように感じることがある。

 

それはきっと、
今まで当たり前だったものが、突然なくなったから。

 

状況が変わったから、
感情が反射的に生まれただけ。

 

そう考えると、
心の穴や喪失感は、
とても受動的なものなのかもしれない。

  じゃあ、もっと早く気づけなかったのか?

 

ここで、どうしても浮かぶ問いがある。

 

もし、
失ってから気づくんじゃなくて、
もっと早く大切だと分かっていたら。

 

手放さずに済んだ可能性は、
本当にゼロだったんだろうか。

 

でも、たぶん――
それが人の弱さなんだと思う。

 

失って、結果が出て、初めて分かる。

最初から必死に守れたらいいのに、
手放してからしか気づけない。

 

愚かだし、性悪だし、本当に不器用だ。

 

だから後悔は、積み上がる。
「次は繰り返さない」って思っても、
また別の形で、同じことをする。

 

  そこに、社会の「染み」が重なる

 

さらに厄介なのは、
その人間的な弱さの上に、
社会の価値観が重なってくること。

不条理を受け入れろ。


環境に流されろ。
我慢しろ。
波風を立てるな。

そうやって生きているうちに、
人は少しずつ、
自分の権利を手放すことに慣れていく。

 

そして、ある日こう言う。

「自分の気持ちが分からない」

願いも、欲望も、
うまく言葉にできない。


他人の目線ばかり気にしてしまう。

それは怠けじゃない。
そうなるように、生き方を学習してきただけ。

  心の穴の正体

 

だから私は思う。

心の穴は、
「埋めるべき欠損」じゃない。

 

それは、
人の弱さが刻まれた痕跡であり、
後悔という経験のドッグタグだ。

 

ドッグタグは、
身分や個人を識別するためのラベル。

 

心の穴も同じ。
「ここまで生きてきた」という証明で、
「これを背負って生きてきた」という識別標識。

諦めるものじゃない。
消すものでもない。

 

私はそれを、背負うというより、
踏みしめる感覚に近いと思っている。

 

  穴は、足場になる

 

心の穴は、
足りないから苦しい。

でも同時に、
そこは自分の人生の土台でもある。

後悔も、喪失も、弱さも、
全部まとめて踏みしめて、
その上に立つ。

無理に前向きにならなくていい。
「学びに変えよう」と言わなくていい。

ただ、
ここが自分の立っている場所だと認める。

それだけでいい。

 シンプルフレーズ

心の穴は、埋める場所じゃない。埋めるなんてきっと出来ない。

生きてきた証として、踏みしめる足場だ。

 

そう思えたとき、少しだけ、
自分の人生を引き受けられる気がする。

 

あなたの穴も、きっと、あなたにしか立てない場所だから・・・

朝の挨拶はできる。
雑談もできる。
でも「昼休み、どこで食べる?」ってなった瞬間に、ちょっと悩む。

 

輪に入るのがイヤなわけじゃない。


ただ、無理に混ざると疲れる日もある。
逆に一人でいると「大丈夫?」って心配されたりもする。

主婦だと、ママ友とかご近所とか。
会えば話すし、笑うし、感じよくできる。


でも、深くなるほど「うっかり何か言ったらどうしよう」とか、
距離の取り方に気を使ってしまうこともある。

 

休日もそう。
一人でカフェに行きたい日もある。
でも、ふと「これを誰かと共有できたらもっと楽しいのにな」って思ったりもする。

……この“ちょっとした揺れ”って、
たぶん、誰にでもある。

  一人は、平気なんかじゃない

 

「一人で平気そうだよね」
そう言われることがある。

でも、平気なわけがない。

 

一人って、
共感を得られない寂しさであり、
感情を打ち明けられない寂しさであり、
助けが欲しい時に頼れない不安であり、
弱音を吐ける安心感がない時間だ。

 

一緒に楽しみたい、盛り上がりたい、感動を分かち合いたい。


そんな瞬間に、向けどころがない寂しさもある。

そして何より、夜に訪れる言葉にならない感情。
不安や後悔を紛らわせられず、負の感情が内側に向く時間。

これが、私が感じる「寂しさの辛さ」だと思う。

人はそれを全部抱え込んで生きていけるほど強くない。


少なくとも私は、そんなに強くない。

だから、吐き出す場所を探してしまう。
SNSでも、文章でも、言葉でも。


「弱いだけなのかも」って思いながら、
それでも、どこかで救いを探してしまう。

  寂しさの正体は「共有できない感情」

 

寂しいのは、単に「一人」だからじゃない。

たぶん、
感情を共有できないことが辛いんだと思う。

 

嬉しかったのに言えない。
頑張ったのに言えない。
しんどいのに、笑ってしまう。

 

誰かがいれば全部解決するわけじゃないけど、
「今の気持ち」を置ける場所があるだけで、
人って少し楽になる。

 

だから「一人は平気?」と聞かれたら、答えはNO。
平気なわけがない。

 

  それでも誰かを傷つける方が怖い

 

それでも私は、こう思ってしまう。

誰かを傷つけるくらいなら、そのリスクは避けたい。

 

誰かを悲しませて、傷つけて、
取り返しがつかない状況になって、
謝罪も贖罪もできないまま、
後悔だけが残ってしまうくらいなら。

 

それなら、
一人の方がまだましだと思ってしまう。

 

ここ、誤解されたくない。

「自分が壊れる方を選んだ」んじゃない。


私は、ただ——
誰も壊れない選択をしたいだけだ。

 

  一人を選んだのではなく、距離を選んだ

 

私は「一人が好き」な人間ではない。

他者に依存することで得られる共感や救いを、
自己の中で完結する方法を探している。

 

自己理解。
否定や後悔を、学びや経験に変える。


それは、私なりの“生き方の整え方”だと思っている。

私は常に取捨選択に重きを置いている。
優先順位なんだ。

 

他人との繋がりで得られるメリットより、
傷つけないメリットを選ぶ。

そして、自分だけでは乗り越えられない葛藤や寂しさの中から、
自由という可能性を見出していく。

だから私は、「一人」を選んだんじゃない。


距離を選んだ。

近すぎない距離。
深く入りすぎない距離。
でも、ゼロじゃない距離。

 

  一期一会で十分だと思っている

 

特別な関係にならない。
深い関係にもならない。

でも、仲の良い人がいないわけじゃない。

 

ただ、深くならない。
そしてそれは「なれない」ではなく、望んでいない

 

適度でいい。


その時その時に、ちゃんと誠実でいられたらいい。

一期一会。
それ以上でも、それ以下でもない。

「長く続けること」が正解じゃないなら、
「その場でちゃんとすること」も正解でいいと思う。

 

  マイノリティとして生きる選択は、意味がある

 

社会的には、こういう生き方は「失敗」に見えるのかもしれない。

繋がり、関係、他者性、社会性、公共性。
そういうものがあって初めて、共同体に属せるのだとしたら。

 

私はその設計から外れている。
マイノリティかもしれない。

 

でも私は思う。

マイノリティとして生きる選択にも、ちゃんと意味がある。

 

誰も傷つかない。
傷つけない。
悲しまない。
そこにピントを合わせて生きる。

 

それは言い訳でも自己都合でもない。
「自分が望んだ未来の願いの叶え方」だと思っている。

 

自分の人生を自分のために生きて、
その結果、どこかで誰かと繋がるなら、それは素敵。

 

でも、繋がるために生きるんじゃなく、
自分のために生きることが最初の優先順位に来ているだけ。

理解してもらう必要はない。


でも、私はこれを「意味と価値がある行為」だと思っている。

  1人の自由は、孤独と同義じゃない

 

寂しい夜があるのは当たり前。
苦しい時間があることも知っている。

 

でもそれ以上に——
自分のために、自分に使える時間がある。

 

休日の過ごし方も、
食事の内容も、
お金の使い方も、
時間の使い方も。

誰かがいるときに得られる選択肢と、
一人だから得られる選択肢は、きっと違う。

 

私が選んだのは、
「一人だからできる選択肢」を
ちゃんと自分の優先順位の上に置くこと。

 

それを“強がり”じゃなく、
“合理的な選択”にしていく。

そうやって、今日も生きている。

そして最後に、これだけは言いたい。

一人でいることは、寂しい。


でも同時に、
自分に使える時間が増えるのは、私にとって最高のご褒美だ。

 シンプルフレーズ

孤独と自由は同義じゃない。

自分の為の生き方と他人が歩む道が交わる時もある。

その時々に、選んで、取捨選択するのが生きるっていうことだ。

生きるって、幸せになることだと思っていた

 

朝、目覚ましで起きる。
仕事に行く準備をして、電車に乗る。
給料日まであと何日かを数えて、
今日も「ちゃんと生きる」ことを目標にする。

多くの人が、そんな日常を生きている。

「何のために生きてるの?」
そう聞かれたら、
うまく言葉にできなくても、
たぶん心のどこかでこう思っている。

幸せになるため。

私も、そうだ。

  欲望って、たぶん幸せのこと

 

いい仕事をしたい。
ちゃんと稼ぎたい。
安心できる人間関係が欲しい。
誰かに必要とされたい。

どれも、欲望だ。
そして同時に、幸せの形でもある。

幸せの形は人それぞれ。


だから、欲望の形も人それぞれ。

ここまでは、普通の話。

 

  でも、現実はいつも思い通りにならない

 

仕事で頑張っても、評価されないことがある。
お金の不安は、真面目に働いていても消えない。
大切にしていた人と、すれ違って終わることもある。

「ちゃんとやってるのに」
「悪いことしてないのに」

そう思う瞬間は、誰にでもある。

ここで、多くの人は気づいてしまう。

幸せは、単独では存在しない。

 

  幸せは、誰かの幸せとぶつかる

 

私が昇進すれば、
誰かは昇進できない。

私が選ばれれば、
誰かは選ばれない。

私が安心を手に入れれば、
誰かの我慢の上に成り立つこともある。

そうやって、
幸せは、どこかで衝突する。

壊れた幸せを、
人は「不幸」と呼ぶ。

  人生は、最初から重たい

 

「不幸を天秤に乗せたら?」
そんな問いを立てる必要はない。

もう、乗っている。

  • 理不尽な経験

  • どうにもならなかった過去

  • 後悔

  • 折れた気持ち

人生は、
最初から軽くなんてない。

だから人は、
幸せを目指す。

 

  生き延びたという事実

 

「生き延びられたんだから、良かったじゃない」

そう言われることもある。

でも、生き延びたということは、
無傷だったという意味じゃない。

生き延びたということは、

  • 何かを諦めた

  • 何かを失った

  • 何かを引き受けた

ということだ。

不幸が残った証拠であり、
後悔が残った証拠であり、
この世界の不条理を、
自分の人生として背負った証拠。

 

  それでも、もう一度天秤に乗せたい

 

じゃあ、どうするのか。

不幸を消す?
なかったことにする?
それはできない。

それでも私は、思う。

もう一回、賭けたい。

失敗するかもしれない。
また壊れるかもしれない。

それでも、
人生を、もう一度
幸せの側に乗せてみたい。

 

  私にとっての幸せ

 

私にとって幸せとは、
楽になることじゃない。
軽くなることでもない。

この重さを、
意味として回収できること。

  • 後悔を、経験にする

  • 不幸を、物語にする

  • 壊れた痕跡を、層として残す

そして、

「それでも、やってみたい」

そう思える自分でいられること。

  生きるとは

 

生きるとは、
幸せになることじゃない。

幸せが壊れたあとでも、
それをもう一度、
天秤に乗せようとすること。

完全な幸福なんて、信じていない。
誰も傷つかない幸せも、信じていない。

それでも、
もう一度やってみようと思える。

それだけで、
今日はちゃんと生きている。

 

 シンプルフレーズ

生きるとは、壊れた幸せを、
もう一度信じてみること。

 

泣いている人を見た時、
困っている人を見た時、
胸の奥がザワつく瞬間ってある。

「声をかけた方がいいのかな」
「でも余計なことになるかな」
「迷惑って言われたらどうしよう」
「拒絶されたら、私の方が壊れる」

そんな葛藤を抱えたまま、結局なにもできずに通り過ぎて、
家に帰ってから、じわじわ自己嫌悪になる日もある。

 

優しさって、きれいなもののはずなのに。
なんでこんなに扱いづらいんだろう。

  優しさは、他人のためじゃなく「自分の欲望」から始まる

 

私は思う。
優しさって、結局、自己満なんだ。

誰かを助けたい。
笑わせたい。
この世界で“冷たい人間”になりたくない。
目の前の痛みを見ていられない。

 

それって全部、「自分がそうしたい」っていう欲望だ。

 

相手が何を求めているかなんて、分からない。
分からないまま動けば、「それじゃない」「そうじゃない」「迷惑」って拒絶されることもある。

そして、その拒絶が一番刺さる。
善意が悪に変換される瞬間が、いちばん壊れる。

だから私は最近、こう思うようになった。

優しさの使い方は、欲望のままでいい。
ただし、結果は保証されない。

 

  理性の仕事は「破綻しない型」じゃない

 

世の中ではよく言う。
「優しさは設計しよう」
「制度に繋ごう」
「ルールを決めよう」

確かに、それが正しい場面もある。
でも、私の中で理性がやってる仕事は、それじゃない。

理性の仕事は、もっと泥臭い。

 

自分が壊れないために、自分が自分にする言い訳を作ること。
「自分は満足した」「これでよかった」って、自分で笑うために、落としどころを作ること。

 

優しさを使った後、
あるいは使えなかった後、

「それでも、私はこうしたかった」
「今日はこれが限界だった」
「ここまでやれたなら十分だ」
「誰も救えなくても、私は私を見捨てなかった」

そうやって辻褄を合わせて、
自分が次の日も生きられるようにする。

 

理性って、正しさを作るんじゃない。
生き延びるための“後付けの意味”を作る。

 

  優しさの最適化はAIでいい

 

「どうやったら誤解されないか」
「どうしたら炎上しないか」
「どういう言葉が適切か」
「誰に繋げば安全か」

そういう“制度としての型”は、AIが得意だと思う。
合理的に、確率的に、リスクを下げる方法を提示できる。

 

でも人間は、そんなにきれいに運用できない。

だって、優しさは欲望だから。
理屈じゃなく、衝動だから。

衝動で動いて、
失敗して、
拒絶されて、
それでもまた優しくしたくなって。

 

その繰り返しが人間で、
その傷の回収をするのが理性なんだと思う。

 

  「誰のため?」に決着をつけないまま、それでも手放したくない

 

優しさは誰のためにあるのか。
自分のための優しさは、相手に伝わるのか。

たぶん、基本うまくいかない。
伝わらないことの方が多い。
むしろ悪になることだってある。

 

それでも私は、手放したくない。

 

拒絶される可能性も、
負担になる可能性も、
負債になる可能性も、
全部ひっくるめて、手放したくない。

だってそれを手放したら、
私は「駆け引き」と「自己防衛」だけで生きることになる。

自分のために生きたいのに、
誰かとの駆け引きで生きたくない。

私の優しさが、たまたま運よく誰かのためになったら素敵。
それで十分。

ヒーローになりたい人は目指せばいい。
助けたい人は助ければいい。

私はただ、
壊れながらでも、
優しさを持っていたいだけだ。

  結局、人生は足掻くしかない

 

落としどころなんて、最初から用意されていない。

欲望で動いて、
理性で言い訳して、
「これでよかった」って自分に言って、
また次の日を生きる。

 

苦みと苦しみと悲しみと、ダンスしながら。

それが、私の生き方なんだと思う。