楽しいこと探してないですか?

趣味探してないですか?

 

当たり前の日常に飽きてない?うんざりすることの繰り返しになってない?

 

正直ね・・・朝起きたくないって思う時がある。

嫌なコト・・・仕事が楽しいなんて思える時があるなら知りたいです。

でも、行くしかないの。お金が要るから。生きる為に・・・

ただの日常をアトラクションに変える!それが私のやり方!

楽しいことなんて、待っててもやってこない。

人生なんて簡単には変わらない。

 

突然目の前に女神様なんて現れない。

 

だから、私は自分で、自分をプロデュースする!自分で自分を彩る方法を探して実行する!

 

このコーヒーを如何に刺激的に煽情的に優雅にかっこよく・・・飲むのか?

できませーん・・・・

  楽しいことって、本当に降ってくる?

 

「楽しいことが無い」「毎日が同じことの繰り返し」

誰もがそんな気分に沈む夜があります。


でもよく考えてみると、私たちは空から楽しみが降ってくるのを待ちすぎているのかもしれません。

予定があるからこそワクワクできる。
計画があるからこそ、その時間を特別に感じられる。
つまり、楽しいは“作る”もの。

 

例えばさ、旅行の前・・・

宿を探して、ご飯屋さんを探して超大変。

でも、こっちの方が?あっちもいいな?でもな・・・いや、こっちなら・・・いやしかし・・・

これが楽しいから仕方ない

 

楽しいの前が一番楽しい!ってみんな伝わるかな?もしかして私だけ?

計画してる時が一番楽しいのよ

文化祭の出し物の準備している時とかね!

そんな私が、now!進行形で実践しているのが・・・

 

  ただの公園がアトラクションに変わる魔法

 

例えば、週末の夜。
「バーガー買って、ビールを買って、公園で星を見ながら食べるんだ!」と宣言する・・・だけ
たったそれだけなのに、急にロマンチックに聞こえてくるんです。きっと、そう感じてるのは私だけ

 

行く場所は近所の公園。

※家から近いからね。お酒飲むから徒歩圏内だよね。


食べるのはいつものファストフード。

いや、今回はさ、近所にバーガーキングが出来たのよ。

行きたいじゃない?生きたいでしょ?だから、行くしかない!ってなるのよね。


だからこそ「週末のイベント」になる。

 

なぜか?
それは、たった1時間のために全力で用意するから

メニュー見てるだけで幸せ✨

アレコレ妄想してるだけで楽しい。※まだ行ってない・・・。


他の用事を片づけて、時間を確保して、ワクワクを膨らませる。
するとただのハンバーガーが、まるでアトラクションチケットに変わるんです。

 

いいえ違います。私が変えるんです!

 

オチがあるとするなら・・・超行列で行けてない。結局コンビニのハンバーガーになったのは内緒です。

※まだ行けてない。バーキン行けてない。そう、まだ計画中・・・・

 

  神社参拝も立派な冒険になる

 

私にとっての定番は、趣味の神社参拝。
御朱印をいただく——本当にそれだけ。

 

でも「週末は神社に行くんだ!」と何日も前から話す。


友人や同僚に語って盛り上げる。
興味が無い人にとっては「またその話?」かもしれません。
けれど、一緒に付き合ってくれる仲間がいる。
それが何より嬉しいし、ありがたいんです。

 

いやマジでありがとう!みんな神社に興味なさそうなのに、私の話しを聞いてくれてありがとう。

※仕事中、横で勝手に話してるだけ。邪魔してごめん。

 

小さなことを大げさに楽しむ。
それが日常を彩るコツなんだと思います。

 

大げさにして、自分を盛り上げるのが最高のスパイス!

 

だって、当日雨でも・・・多少の雨なら・・・たぶんきっと・・・

強引に行くしかないでしょ?

 

実際さ、ホントに冒険になるから困る。

迷子が日常で、バス間違えるは、乗り過ごすは・・・旅の基本は迷子とはよく言ったものだね。

行ったことあるのに、着かないとか・・・・世界線変わったのかな?

  日常にこそ、ワンダフルが隠れている

 

毎日の晩酌も同じ。
誘って、断られて、また誘って。
その一連のやり取りが、もう生活のスパイスになっている。

 

猫の吾輩も言っていました。
**「人は無駄な会話に時間を使って満足する」**と。

 

たしか・・そんなことを言っていたような気がする。多分ね。

 

そう、楽しいは作れる。

誰かに与えられるものじゃない。
自分で予定して、自分で語って、自分で盛り上げる。
そうすれば、ただの日常がアドベンチャーに変わるんです。

 

仕事に行くだけでアドベンチャーだけどね・・・。

今日はどんなトラブルが起こるのやら・・・何時に帰れるのか?

今日の隣の人との会話は何だろう?曲は何をかけようかな?プレイリスト作らないと

 

 今日のシンプルフレーズ

 

「楽しいは、出来事じゃなく“自分の演出”から生まれる。」

 

💡 最後に・・・
あなたも、ただの散歩や近所のカフェでも構いません。
少し大げさに計画してみるだけで、日常はアトラクションに変わります。
明日の小さな予定を、ぜひ“ワンダフル”に変えてみてくださいね。

 

🤗シンプルフレーズのお部屋へようこそ✨

いつもシンプルフレーズをご覧いただきありがとうございます。
シンプルフレーズのYouTubeが新しくなって楽しく面白くなりました!


哲学を魔法に!世界を彩る言葉に!

読んで、学ぶと難しいって思ってしまう哲学の世界
でも、実際はとっても身近な楽しい世界


これを機会に是非触れ合って欲しいと思います🤭

 

動画のご紹介

いつもご覧いただきありがとうございます。

 

シンプルフレーズのyou tube新しい動画上がりました。

 

『「我想うゆえに我あり」デカルト分かり易い哲学入門!』

シンプルフレーズ

 

 

哲学者デカルトの有名な命題を、
“シンプルフレーズ流”に解釈しています。

 

「考えること=存在すること」
この当たり前のような言葉の裏には、
“疑うことの肯定”という強烈なメッセージが隠れています。

生きていく中で、
自分を疑い、世界を疑い、信じられなくなる瞬間がある。
でも、その“疑い”こそがあなたを「存在させている」証なんです。

誰かに否定されても、信じられなくても、
あなたが“考えている”限り、
あなたは確かに「ここにいる」。

 

こんな人におすすめ

  • 哲学を難しくなく感じたい人

  • 「考えることが多すぎる自分」を責めてしまう人

  • 自分を見失いそうな夜を過ごしている人

  • 「私は何者か」と問い続けている人

 

▶ 一歩踏み出してみませんか?

「我想う、ゆえに我あり」

デカルトの言葉を、今の時代に生きる私たちはどう受け取る?

疑いは悪じゃない。迷いもまた、生きている証。

 

・・・・・・・

 

ご挨拶

哲学って、とても難しそうなイメージ有りませんか? 

本当はそんなことない。 

とても身近で、私達にほんの少しのキッカケをくれる学びがある場所なんです。

 シンプルフレーズは、素敵な言葉とあなたを元気にするメッセージを探します😌 

 

何が正しいかより、なにが素敵かを大切にして生きて行けたら、 

それがきっと一番だと信じてる。

 

合言葉!

 大丈夫!

大丈夫?

 

受け身じゃない、

私から伝えたい「大丈夫」

 

あなたの幸せを願います。

『幸せになれ~💕』

 

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これからもご覧いただけたら嬉しいです🤗

私の言葉は、正しいかどうかじゃなく

私は私の感じた思いをそのままに表現して伝えています。

 

だれかと共感できるかは分からない。

でも、もしどこかで誰かの心に響いたら嬉しいって感じます✨

 

 

誰だって「あの時、ああ言わなければ」「あの時、しなければ」と眠れない夜を抱えたことがあるはず・・・
後悔は未来を閉ざす錘のようでいて、同時に「もっと良くなりたかった」という願いの痕跡でもある。
その矛盾の中で、私たちは「人らしく生きている」と言えるのかもしれません。

 

人は後悔を積み重ねていきていく。

それは、他者評価に依存して、他人の言葉に振り回されて生きていくって言うこと・・・

 

でも、誰かを傷つけた、誰かを悲しませたって言う事実は

何を言っても消えないし、正当化できない、悲しい事実。

 

もうどうすることも出来ないから・・・

せめて、忘れないように抱えて生きていくしかないって感じてる。

後悔は「他者の視点」から生まれる

 

  後悔の正体は“評価される私”

 

「やらかした…」と胸がざわつく瞬間。
それは事実そのものが痛いのではなく、“誰かの目”を想像してしまうからだ。
謝る相手が目の前にいなくても、心の中には常に“審査員席”がある。

 

ロックは人の心を「白紙」と言った。
けれど実際には、家族・学校・社会が次々と規範の色を塗り重ねていくパレットを渡される。


「こうすべき」「こうあってほしい」という刷り込みが、白紙の心を評価する定規になる。

だから後悔は、出来事そのものではなく、規範に沿って色をつけられた“私の行為”なのだ。

 

  相対的価値観が決める「善」と「悪」

 

例えば野球をしていて、ボールが飛んでガラスを割ってしまったとする。
ある人は「危ない」と叱る。別の人は「すごい!」と褒める。
事実は同じ「ガラスが割れた」なのに、評価は正反対。

 

ニーチェは言った。
「事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけだ。」

つまり、善悪も正誤も、出来事に内在するのではなく、受け止める側の規範と価値観によって変わる


先生が褒めれば成功体験。先生が怒れば失敗のレッテル。
同じ事実が、評価する人のパレットで全く違う色に塗り替えられてしまう。

 

  後悔は杭か、それとも筆か

 

後悔は「やらなかったこと」ではなく「やってしまったこと」に残りやすい。
なぜなら、結果が出た時に初めて「ダメだった」と分かるからだ。

 

私は必要だと思った。
当たり前のことだと思った。
けれど他者からすれば非常識だった。
その差が、後悔として突き刺さる。

 

でも考えてみれば——同じ行為でも、賞賛されれば「才能の証」、叱責されれば「問題行為」。
つまり後悔は、事実ではなく評価が固定した解釈の残骸にすぎない。

 

  絶対がないなら、私たちができることは二つ。

 

① 規範の見取り図を描く(誰のパレットか?)

  • これは家の規範か、職場の規範か、世間の空気か、か?

  • それは誰にとっての安全誰のための効率か?
    後悔の出所を分離するだけで、“私が全面的に悪い”から解放される。

② 物語の態度を選ぶ(書き換えの技法)

  • 事実:何が起きたか(ガラスが割れた)

  • 影響:誰にどんな影響が出たか(片づけ・費用・驚き)

  • 意図:悪意はあったか(無いなら明言)

  • 対処:修復(弁償・謝罪・再発防止)

  • 意味:ここから何を学び、何を変えるか(“未来の規範”を自分で一筆足す

ここまでやると、後悔はではなくに変わる。
「後悔なんて後からどう語るかで意味を私が自由につける」が、倫理の骨を持った実践になる。

  行動する後悔を積み重ねて

 

それでも私は思う。
行動しない後悔より、行動した後悔を積み重ねたい。

人は後悔を抱いて生きる生き物だ。
だからこそ、当たり障りない「普通」で歯車のように回るより、
やらかし、謝り、「ごめんなさい」と言いながら次の選択肢に進んでいきたい。

今日も後悔するだろう。
明日も違うことで謝るだろう。


それでも行動を止めない。

 

なぜなら私は「他者性」と「公共性」を知っているからだ。
誰かにぶつかり、評価され、否定されるからこそ、私は私の世界を広げられる。

 

絶対なんて存在しない。
後悔なんて結局、「どう語るか」で意味は変わる。

 

離婚や破産すら、私にとっては「シンプルフレーズ」という存在を生んだ種になったのだから。

って、言いたいだけです。「ごめんなさい」

 今日のシンプルフレーズ

 

「後悔は、評価の副産物だ。
絶対はない。だからこそ、後悔をどう語るかが、私を決める。」

 

あなたもきっと、「あの時こうしなければ」と胸に残っていることがあるでしょう。
でも、その後悔はあなたの価値を否定するものではなく、むしろあなたの色を描くための一筆です。
どうか今日も、その筆を止めずにいてください。

 

自己満の自分勝手な償いと補填をしていくことも、私が語る後悔の一つなだけだよ。

結局、相手が見える訳じゃないしね。会えないから。

 

他人の視線に奪われる私たち 〜モデルとして生きる時代の処方箋〜

 

私たちはいつから、こんなにも他人の視線を気にして生きるようになったのだろう。
評価を気にして、機嫌を取って、相手の顔色を伺って。
「個性」や「自己表現」という言葉に踊らされながら、実際に表現すると白い目で見られる。
普通が何なのかも分からないのに、「みんなが普通だから」という理由で普通にしなければならない。
その同調圧力と、無言の「空気読め」という空気感。


——これを「生きにくい」と呼ばずに、何と呼べばいいのだろう。

 

結局のところ、私たちのトラブルの多くは人間関係かお金に集約される。
才能や夢で悩む人は少なく、むしろ「どう人に合わせるか」「どうお金に繋げるか」が日常の不安になる。


悲しいけれど、それが「生きにくさ」の正体なのかもしれない。

  見られすぎる現実

生きにくさの正体=「モデル化」される自分

 

現代は、あらゆる目に監視されている。
監視カメラや防犯カメラは当たり前。
誰もがスマホを持ち、SNSに繋がり、車にはドラレコがつき、目の前のパソコンにすらカメラがある。
「見られる」のは特別な人ではなく、私たち一人ひとりだ。


誰もが“モデル”になってしまった時代。

 

他人の視線や評価を気にして右往左往するのは、もう「必然の結果」だろう。
生きにくさの根底にあるのは、この「常に見られる」という現実。
だから私たちは気が休まらず、一人になりたいと願い、マインドフルネスに惹かれる。

 

けれど——皮肉なことに、そのマインドフルネスの前後ですらスマホを手にして、SNSやゲームやニュースに浸ってしまう。


「休むこと」すら他人と比べて消費されてしまう。
本来は心を癒やすはずのマインドフルネスも、一瞬の幻想に過ぎないのかもしれない。

 

だからこそ、私たちは「普通とは何か?」という曖昧で正体のない圧力に縛られている。

 

  監獄実験が示すもの

 

ここで思い出すのが、あの「スタンフォード監獄実験」だ。
囚人役と看守役に分かれただけで、人格や行動が変化してしまった有名な心理実験。

現代に置き換えれば、

  • カメラを向ける側=看守

  • カメラを向けられる側=囚人

SNSに投稿すれば私たちは囚人として「モデル化」される。
誰かの投稿を見て評価する時は看守の目を持つ。
私たちは「監獄」の中で、囚人にも守衛にもなりながら日常を過ごしている。

そして、この役割の往復が「生きにくさ」を加速させているのだろう。

 

  モデルとして生きる発想

では、どうすればいいのか?
「見られたくない」「囚人でいたくない」と否定しても、この社会では逃げ場がない。


だからこそ、私はこう考える。

「どうせモデルとして生きるしかないなら、いっそ自分を商品だと認めてしまえばいい。」

商品は、大切に扱われる。
そして商品にはプロデューサーが必要だ。
私たち一人ひとりが「モデル」と「プロデューサー」という二つの役割を自分の中に持てばいい。

  • モデルとしての自分=大切にされる存在

  • プロデューサーとしての自分=磨き、方向性を決める存在

こうして二重の目線を持てれば、自己否定ばかりの時間を減らせる。
「私はダメだ」と思ったときに、別の自分が「どう育てるか」と冷静に分析できる。
他人の比較に振り回されるだけでなく、自分を最優先で扱うことができる。

 

自己評価=プロデュースの素材、という捉え方ができるなら、むしろ本来的価値を守る行為になる。

 

  自分の中で完結するという救い

 

「どうせモデルにされるなら、自分で“商品”としてマネージしよう」

大事なのは、自己の中で完結させることだ。
外の評価だけを基準にすれば、囚人のように萎縮し、守衛のように他人を裁き続ける。


でも、自分の中で「モデルとプロデューサー」を共存させられれば、
生きにくい現実の中でも自分を守りながら生きることができるはずだ。

他人に決められた価値ではなく、
自分の本来的価値を信じるための小さな仕組み。
それが「自分を商品として扱う」という逆説的な方法だと思う。

 

  • 他人に見られて傷つくより、自分自身をプロデューサー視点で扱う。

  • 商品=大切に扱うもの。

  • マネージャー視点=比較や分析を冷静に行える立場。

  • この二重視点が、自己否定だけに陥らず、「育てる自己評価」へと変えてくれる。

  あなたへ

 

今日も「生きにくい」と感じているなら、それは弱さではない。
時代に押し流されず、必死に自分を保っている証拠だ。
私も同じように揺れながら生きている。

囚人でも、守衛でもなくていい。
モデルでも、観客でもなくていい。
「自分を大切に扱うプロデューサー」として、自分を守りながら生きる。

それが、この時代を少しでも軽やかに生き抜くための可能性になるのかもしれない。

  • 自分の中に “悲観して否定する自分” “プロデュースして磨こうとする自分” を共存させる。

  • これは「一人対話」のような哲学的営みでもあり、精神的セルフケアの実践でもある。

  • 否定だけに偏らず、肯定と挑戦の視点を持つ。

  • 生きにくさの解消というより、「生きる」を取り戻す方法。

 

 シンプルフレーズ

 

「私たちは、誰もが無意識にモデルになった時代を生きている。ならば、自分で自分をマネージしよう。商品として大切に扱い、プロデューサーの視点で自分を磨く。その二つの自分が共存するとき、他人の目ではなく、自分の目で生きられる。」

 

パノプティコン

◆ 哲学者?歴史家フーコーによる再解釈

フーコーは『監獄の誕生』で、このモデルを単なる監獄設計の話としてではなく、 「近代社会そのものの構造」 として解釈しました。

  • 規律訓練社会
    学校、病院、工場、軍隊など、近代社会のあらゆる施設は「パノプティコン化」している。
    → 常に点呼され、出欠をとられ、健康診断され、監査され、効率を測られる。

  • 見えない監視の力
    重要なのは「実際に監視されているか」ではなく「監視されているかもしれない」という心理的効果。
    → 権力は目に見える暴力ではなく、見えない視線として内面化され、人を従わせる。

  • 主体の自己規律化
    監視の目を内面化した人間は、自らを「正しく」振る舞わせるようになる。
    → 例えば「勤務態度を監視されている」と思うと、誰も見ていなくてもちゃんと働こうとする。
    これが「近代的主体の誕生」とフーコーは考えた。

  1. いつから私たちは「監視されている」と思うようになったのか

 

たとえば学校での「連絡帳の確認」や、職場での「上司の目線」。
私たちは子どもの頃から「誰かに見られている」という感覚を植え付けられてきました。

 

かつての社会では、連座制隣保班のように「一人の失敗が全体の責任になる」仕組みが存在していました。
お隣同士で「監視し合う」のが日常。外から押し付けられるだけではなく、自分たちで自分たちを縛る仕組みが働いていたのです。

 

それは形を変えて現代にも残っています。SNSの「いいね」の数、職場での評価、家庭内での暗黙の期待。
「見られているかもしれない」という感覚は、もはや監視カメラではなく、自分の心の中に住み着いた視線として作用しています。

 

  2. 「他人の目」が実は「自分が作った像」だった

 

ここで一つ、思い当たる経験はありませんか?

  • 「こんなこと言ったら、嫌われるかもしれない」

  • 「この格好だと笑われるだろう」

  • 「こんな失敗したら信用を失う」

…でも、実際にそう言われたわけではない。


ほとんどの場合、それは 「自分が頭の中で作り上げた他人像」 なのです。

つまり私たちは「他人の評価」に依存しているように見えて、
本当は 自分の猜疑心が作り出した“仮想の他人” に依存している。

 

ここに大きなパラドックスがあります。
「他人に怯えているつもりで、実は自分が自分を縛っている」という構造です。

 

  3. 「疑心暗鬼」の快楽と苦痛

 

不思議なことに、この「猜疑心」は私たちを苦しめるだけではありません。
同時に、ある種の安心や意味をも与えてしまいます。

たとえば、

  • 「あの人は私を嫌っているに違いない」と思うと、そう考えている自分に酔える。

  • 「きっと失敗したら笑われる」と怯えることで、自分の努力に意味を与えられる。

つまり、疑心暗鬼に束縛されながら、そこに価値を見出してしまうのです。
この矛盾は、現代の生きにくさの核心にあるのかもしれません。

  4. 道徳・倫理という「自縛の規範」

 

私たちは「道徳」や「倫理」を、外から与えられた規範だと信じています。
しかし、それらは「自分が作り出した他人像」を通じて、自分自身に強制している規範でもあります。

「良い人と思われたい」
「常識的でなければならない」
「迷惑をかけてはいけない」

これらは確かに社会で生きる上で大事なルールです。


けれども行き過ぎれば、**「自発的服従」**へと変わります。
つまり、外から縛られているのではなく、自分が自分を縛っている

 

  5. 今の生きにくさは、もしかすると…

 

「生きにくさ」という言葉がよく使われます。
職場の人間関係、家庭での役割、SNSでの繋がり…。
どれも「他人が原因」のように見えます。

 

でも、本当にそうでしょうか?

もしかすると、その多くは **「自分の猜疑心が生んだ牢獄」**に私たち自身が閉じ込められているのかもしれません。

もちろん、社会の仕組みや歴史的な制度が背景にあることは否定できません。
けれども、その制度をいま生きているのは、他でもない「自分自身」なのです。

 

  6. 可能性の一つ

 

ここで断定的に「だから猜疑心を手放そう」と結論づけることはできません。
なぜなら、猜疑心は同時に「人間関係を守るためのセンサー」でもあるからです。
全く気にしなくなったら、それはそれで社会から孤立してしまうでしょう。

だからこそ、残る問いはこうです。

  • 「私は、どこまで自分の猜疑心に従う必要があるのか?」

  • 「私は、本当に他人に縛られているのか? それとも、自分で作った“他人像”に縛られているだけなのか?」

その問いを持つことこそが、自己監視の牢獄から一歩外に出るきっかけになるのかもしれません。

 

  ◆ まとめ

「今の生きにくさは、自分が自分を猜疑心で縛っているからじゃないか?」
そう問い直すことで、道徳や倫理という名の「自縛の規範」の正体が見えてきます。

結局のところ、他人の目に怯えているのではなく、
自分が作り上げた“他人のまなざし”に怯えているのだ

その気づきは、簡単に解決を与えてはくれないでしょう。
けれども、その問いを抱え続けることこそが、
「生きにくさ」を少しずつ変えていくための第一歩になるのだと思います。