「自分には何もない」って言う人に限って、

自分を表現する時に不器用だからとか、上手く出来ないとか、要領が悪いとか、センスが無いとか思ってるでしょ?

 

残念だけど、それがあなたの才能で、センスで、長所で、特技なんよ。 

 

マジで紙一重(笑)

その才能、今はただの石ころかもしれない

 

余計なお荷物にしかならない長所しかない。
役に立たない特技しかない。
本当に使い道のない才能しかない。

そう思っている人って、いるんじゃないかな?

 

いや、むしろそういう人ほど、こう言うのかもしれない。

「自分には才能なんてない」
「長所なんてない」
「何もできない」

 

本当に何も無いのか?
違うんじゃないか?

 

どっちかって言うと、それが才能で長所だから困ってんじゃないの?って話だ。

だって、自分を説明する時に言うでしょ?

不器用だから。
苦手なことが多いから。
上手くできないから。
要領が悪いから。
センスが無いから。
運が悪いから。

残念だけど、それが才能でセンスで長所で特技なんよ・・・

 

マジで紙一重。

 

天才とバカが紙一重なんじゃない。
救い上げる人が居たら、それは才能で長所で特技になる。
救い上げる人が居なかったら、それはただのお荷物になる。

 

ゴッホしかり、エジソンしかり、アインシュタインしかり。 

認められれば偉大な才能で、認められなければただのポンコツか異端者だ。

 

  才能は宝石じゃない。最初は石ころだ

才能って、最初からキラキラした宝石みたいに見えるものじゃない・・・

誰にも気づかれなかったら、その辺の石ころでしかない。

持っていても邪魔。
重い。
使い道がない。
ポケットに入れて歩いていたら、ただ動きづらいだけ(笑)

 

・・・でも、誰かが気付く。
拾い上げる。
磨く。
加工する。
置く場所を変える。

そこで初めて、宝石としての価値を持つ!!!

 

金だって、ダイヤだって、誰が見ても価値あるものに見えるけど、加工されなければ何か分からないこともある。
隕石なんて、興味が無い人からすれば、ただの変な石ころだ。

でも、好きな人からすれば高価な石ころになる。

 

才能もきっと同じなんだろう。

誰かが気付いて、磨いて、加工して、価値のある場所に置いてくれないと、長所にはならない。

 

持っている時点では、ただの石ころ。
お荷物。
邪魔なだけの存在。

だから、才能とか長所なんて言葉に左右されるから疲れるんだ。

  長所短所で自分を知ろうとするから疲れる

才能や長所なんて言葉に左右されるから疲れちゃうんだよ。 

長所短所なんて言葉で自分を知ろうとするから、小さい頃からプロフカードで自分を知ろうとするから疲れるの。

 

人生をカードゲームみたいにしようって、持っているカードで戦おうとするから疲れるんだ。 

 

別に、他のゲームで遊びなよ?

スイッチでもオセロでも良いと思うよ?

 

ただ、ゲームって勝てないと楽しくないよね?

 楽しいって思うのは勝てる時だけ。 

 

格ゲーやスポーツ系が苦手なら、RPGで強者になれたりするじゃない?

 

そしたら誰かが言う訳よ、「あいつはスゴイ」「天才だ」って。

 

それが才能なんだよね。

皆がやっているゲームで戦うから疲れるし面白く無い。 

好きや楽しいは、常に自分が他人との競争に勝てるか、あるいは他人と競わない達成感を得られるからなんだ。

だからこそ、好きや楽しいや大切だけを選ぶと、勝手に才能や長所を見出だしてくれるって話。

 

  変な奴が現れるまでが地獄

ただし、ここからが残酷だ。

その石ころを拾ってくれる変な奴に、簡単に出会えるわけじゃない。

「これ、面白いじゃん」
「それ、才能だよ」
「そのままでいいよ」
「そこに価値があるよ」

そんなことを言ってくれる人に、普通に生きていて出会えると思う?

 

私は思わない。

変な奴に出会える機会なんて、普通じゃありえない。 

普通になりたい人であふれる社会だからね!変な奴に出会ったらお互い気まずいでしょ(笑)

 

だって、社会なんて余裕が無い人の集まりだからね。

みんな生活がある。
仕事がある。
疲れている。
余裕がない。
他人の石ころを拾い上げて、磨いて、加工してくれるほど暇じゃない。

だから、変な奴が現れるまでが地獄なんだ。

 

才能になるかもしれないものを持っているのに、
誰にも見つけられず、
誰にも磨かれず、
誰にも面白がられず、
ただの邪魔な石ころとして抱えて生きる。

これが地獄じゃなくて何なんだよ。

 

  それでも今は、石ころを世界に置いておける

でも、今の時代にはSNSがある。
配信がある。
動画がある。
言葉が残る。

 

昔なら、地元、学校、職場、家族。
その狭い世界で認められなかったら、ほぼ終わりだったのかもしれない。

 

でも今は違う。

自分の言葉を残せる。
作品を置ける。
動画を出せる。
声を届けられる。

 

どこかで誰かの目に留まる機会は無限大だ。

 

誰かが拾う保証はない。
でも、置かなければ拾われることもない。

 

だからこそ、好きに踏み出すのは有りだと言っている。

私は、こうやってブログに「軌跡」を残してんだよ!

  地獄に再入場しながら、好きに全振りする

ただ、生きるためには、どうしてもバランスが必要になる・・・

苦手でも、嫌いでも、どれだけ辛くても、仕事には行かないといけない。
生活するための資本を得るには、労働しないといけない。


選択肢が無い生活のために、地獄みたいなゲームに参加しないといけない時がある。

 

だから現実は地獄だ・・・

自分を見つけてくれる変な人が現れるまでは、地獄の周回タイムだ・・・

仕事に行く。
煮込まれる。
疲れる。
帰る。
少しだけ好きなことをする。
また仕事に行く。
また煮込まれる。

もう立派な地獄鍋である。

 

でも、私は地獄が最低に嫌いだ。

好きに全振りしたいから、好きに全振り! 

で、ダメなら地獄に再入場を繰り返す。

 

いや、良くはないんだよ?
本当は嫌だ・・・最低だ・・・

 

全部好きがいい。
好きだけで生きたい。
楽しいだけで満たされたい。
大切なものだけ選んでいたい。

 

だから私はポンコツなんです(笑)

 

  才能なんて、あとから勝手に名前がつく

才能が無いんじゃない。
長所が無いんじゃない。

それが才能として扱われる場所に、まだ置かれていないだけかもしれない。

それを拾ってくれる変な奴に、まだ見つかっていないだけかもしれない。

でも、その変な奴を待つ時間は、なかなかの地獄だ。

 

だから私は、才能を活かそうなんて立派なことは考えない。

 

とりあえず、好きな世界に石ころを置いておく。
楽しいと思える場所に投げておく。
大切だと思うものの近くに転がしておく。

誰かが拾ってくれたらラッキー。
拾われなかったら、また地獄に戻る。

今は絶賛、地獄の真っただ中で煮込まれているけどね(笑)

それでも、ただ煮込まれて終わる気はない。

 

その辺の石ころかもしれない才能を、
今日もどこかに置いておく。

誰かが気付くかどうかは知らない。

 シンプルフレーズ

どんだけ息抜いても、生き抜くからリスポーンポイントなんて作れない。 

だって、転生し無いからね!

 

一回きりの現実、息抜きは手頃なトリスで十分。

生きてるからね! 今夜も地獄の周回タイムを、自分の「好き」を抱えて生き抜いてく。

誰かの力になりたい。 困っている人がいたら、そっと手を差し伸べたい。

その気持ち自体は、たぶん、ものすごく尊い。それは否定しない。

けれどね。 それっぽい優しい言葉や、それっぽい正義感、それっぽい寄り添い。

 

 ……そんなものじゃ、目の前の請求書は消えないんだよ。

「誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ」という、冷徹で切実な綺麗事。

誰かのために使えるものを持ちたい。

時間でもいい。
労力でもいい。
資金でもいい。
言葉でもいい。
場所でもいい。

自分の中に余ったものを、誰かに渡せる側でいたい。

 

誰かを助けたい。
誰かの力になりたい。
困っている人に手を差し伸べたい。

その気持ちは、尊いものだと思う。

個人的に誰かを助けようとすることは、とても素敵なコトだと思う。

  でも、それっぽい言葉や、それっぽい振りだけでは、やっぱり誰のコトも助けられない。

私は思う。 

誰かを本当に助けたいなら、まず自分が「持つ側」にならなきゃいけない。

お金でも、時間でも、体力でもいい。 精神的な余裕、知識、信用、あるいは仕組みを作る力。

 

何でもいい。

何かを持っているから、誰かに渡せる。 

自分のなかに「余白」があるから、それを誰かの不足に回せる。

持っていない者が、持っていないものを無理に差し出す。

 

それは「救済」なんて格好いいものじゃない。 

 

ただの、自己犠牲だ。

「優しさ」ってさ、渡した側が決めることじゃない。

「私は優しくした」

「あなたのためにこれだけやった」 

そう口で言ったところで、受け取った側がそれを優しさだと感じなければ、それはただのエゴだ。

 

助けることも、全く同じ。 

こっちが「助けた」と思っていても、相手が「助かった」と思わなければ、何の意味もない。

 

それどころか、ただの押し付けになり、恩着せになり、相手の尊厳をナイフのように傷つけることだってある。

だから、助けるって行為は、反吐が出るほど難しい。

 

 「助けたい」という尊い気持ちの裏には、いつでも醜いエゴがへばりついているから。

よく、自己犠牲は美談にされる。

親が子のために。

大切な人のために。

自分を擦り切らせて、身を削って。

耳ざわりはいいよ。

綺麗だ。

 

でも、渡された側はどう思う? 

「私のせいで、あの人は苦しんでいる」 「自分が重荷なんだ」 そうやって、

助けられた側が自分を否定して、苦しむことだってある。 自己犠牲を美談にしちゃいけない。

 

あれは呪いだ。

持てない者は、まず自分を守ればいい。 

 

  誰かを助けることを考えるのは、持つ者の役目だ。

ここで、ノブレス・オブリージュ(持てる者の義務)という言葉が出てくる。

 

強者っていうのは、高いところでふんぞり返って、勝ち誇る人間のことじゃない。

 自分の余白を、誰かの不足に回せる人間のことだ。 

 

高いところにいる者が頭を下げるから、その頭に意味がある。 

 

余裕がある者が、その余裕を差し出すから、価値がある。

本当に追い詰められている弱者に「みんなで助け合おう」なんて求めるのは、ただの残酷な負担の押し付けだ。

今日を生きるだけで精一杯の人間には、誰かを思いやる余力なんて残ってない。

 

じゃあ、持つ側になれば、ただお金や食べ物を配ればいいのか?

・・・それも違う。

 

  私は JBJ Soul Kitchen を象徴的に見ている。

私が、ジョン・ボン・ジョヴィの「JBJ Soul Kitchen」という食堂に強く惹かれるのは、そこが単に無料の食事を配る場所じゃないからだ。

あそこは、お金がある人は支払い、支払えない人は働く。

そして全員が、同じテーブルで同じように食事をする。

格安食堂でも、教会の施しでも、哀れみの無料配布でもない。 

 

そこには「働く環境」があり、「食べるための行為」があり、自立へ向かう「道筋」がある。 

何も持たない人でも、ただ施しを待つ行列に並ぶ惨めさを味わわずに、他の人と同じように、ちゃんと「人」として飯を食える。

 

彼らが与えているのは、肉や野菜じゃない。 

「尊厳」であり、「居場所」であり、人として立てる「小さなポリス(社会)」そのものなんだ。

 

助けるとは、ただ施すことじゃない。

優しい言葉をかけるだけなら、上からの慈善だ。 本当に助けるとは、相手が人として立てる場所を作ること。

食事を与えるのではなく、食べられる環境を作る。 

 

お金を渡すのではなく、生き直せる余地を作る。 

相手が尊厳を失わずにいられる場所を、用意する。

 

そこまで泥臭くやって初めて、「助ける」という言葉が、ようやく少しだけ現実味を帯びてくる。

「誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ」

これは、強者になって威張れという意味じゃない。

 

弱者は何もするなという意味でもない。 誰かを助けたいなら、助けられるだけの「余白」を必死に持て、ということ。

持っていないものを差し出せば自己犠牲になり、その自己犠牲を美談にすれば、持たない者からさらに搾取する最悪の思想に変わる。

 

現実は、綺麗事じゃ動かない。

助けるなんて、きっと幻想だ。 それでも私は、誰かが尊厳を失わずに立てる場所を、作れる側の人間でありたい。

 

 シンプルフレーズ

誰かを助けたいなら、まず持つ側であれ。

 

持っていないものを差し出せば、それは救済ではなく自己犠牲になる。

持つ者が差し出すべきなのは、施しではない。

持たない者が、人として立てる場所だ。

「あなたのために」「あなたの為を思って」

この言葉は、とても優しい響きを持っている。

大切な人を思っている。
心配している。
力になりたい。
助けたい。
何かしてあげたい。

そういう気持ちがあるからこそ、人は誰かに言葉をかけるし、手を差し伸べる。

 

それ自体は、本当に素敵なことだと思う。

でも、難しい。

 

誰かのためにと思って掛けた言葉が、相手にとっては望んでいない救済になることがある。

誰かのためにと思ってした行為が、相手をただ縛るだけになることがある。

「あなたのために言っている」

この言葉は、最高の免罪符になる。

 

言っている側は善意のつもりだ。
悪気なんてない。
むしろ、本気で相手を大切に思っている。

 

でも、受け取る側がそれを望んでいなければ、その優しさは重い。

心配という言葉で、不安を煽ることもある。
気遣いという顔をして、相手の選択を奪うこともある。

 

「良かれと思って言っている」という正論の前に、相手は逃げ道を失い、罪悪感という鎖に絡め取られてしまう。

誰かを深く大切にしようともがいたことがある人ほど、この優しさと押し付けの境界線の難しさに、

胸を痛めた経験があるのではないでしょうか?

 

だから、優しさは難しい。

誰かを大切にすることと、自分のために何かをすることは、切り離せないと思う。

 

私はそこを悪いことだとは思わない。

誰かのためにと言いながら、そこには自分のためもある。

 

喜んでほしい。
必要とされたい。
安心したい。
自分の言葉が届いてほしい。
自分がその人にとって、少しでも意味のある存在でありたい。

 

それでいいと思う。

自分のためで大いに結構。

むしろ、自分のためにした言葉や行為が、結果として誰かのためになるなら、それはとても素敵なことだと思う。

 

ただ、その自分のためが、相手を縛ることもある。

それは知っておいた方がいい。

「あなたのために」と言いながら、実は自分の安心のためだったり、自分が納得したいだけだったり、自分の不安を消したいだけだったりすることがある。

 

それが人間なんだと言ったらそれまでだし、むしろ人間ってそういうモノだと思うんだ。

完璧な利他なんて、たぶん人間には難しいから。

 

だからこそ私は、「誰かのために」という言葉を簡単に使うより、言葉を贈る人でいたいと思う。

それも、心配を語る言葉や、不安を煽る言葉じゃなくて、褒め言葉として。

 

  私の場合・・・

たとえば、会話の最中に、 「お?その言葉素敵だね。心動かされたよ」 と、

自分の感動をそのまま伝えること。

 

あるいは、ネイルを新しくした人が居て、 「そのネイル素敵だね」 と、

ただ気づいたことだけを伝えること。

 

それは、相手を評価しているわけじゃない。

正しいとか、優れているとか、立派だとか、そういう採点をしたいわけじゃない。

ただ、その言葉に心が動いた。
良いと思った。
魅力的だと感じた。

だから、それをそのまま渡す。

 

それも別に、センスを評価したいわけじゃない。
似合っている理由を説明したいわけでもない。
その人の努力を分析したいわけでもない。

ただ、気付いた。
良いと思った。
魅力的だと感じた。

だから、言葉にして渡す。

褒め言葉って、それくらいでいいんじゃないかと思う。

  「素敵」という言葉を好んで使います。

テストの点数を評価したいわけじゃない。
仕事の成績を採点したいわけじゃない。
その人の人生に、勝手な意味を乗せたいわけじゃない。

その人の姿を見て、心が少し動いた。

その感動を、言葉というラッピングで包んで渡す。

 

それが褒め言葉でいいと思う。

プレゼントを選ぶ時、人は相手のことを考える。

何が似合うだろう?
どんな色なら喜ぶだろう?
今のあの人に渡すなら、何がいいだろう?

あちこち歩いて、悩んで、選んで、ラッピングしてもらう。

 

その時間には、選ぶ人の「らしさ」が出る。

言葉も同じだと思う。

どこを見るのか。
何を褒めるのか。
どんな言葉を選ぶのか。
どう包んで渡すのか。

そこに、その人らしさが出る。

 

だからこそ、褒め言葉は難しい。

でも、その難しさが素敵なんだと思う。

 

相手を動かすための言葉じゃない。
相手を変えるための言葉じゃない。
相手に感謝させるための言葉でもない。

ただ、自分が見つけた魅力を、言葉で包んで渡す。

 

それだけでいい。

そこに深い思想なんて要らない。

他意も要らない。
境界線も要らない。
理由も意味も乗せすぎなくていい。

 

むしろ、乗せすぎたらプレゼントじゃなくなる。

「こう受け取ってほしい」
「こう感じてほしい」
「こう変わってほしい」

そんなものを乗せた瞬間、褒め言葉は押し付けになる。

贈り物ではなく、要求になる。

 

だから私は、「素敵」という言葉を好んで使う。

「すごい」でもなく、
「偉い」でもなく、
「正しい」でもなく、
「成長したね」でもなく、

 

「素敵」

この言葉が好きだ。

一番魅力的だと感じている。


私の心が動いた。
今のあなたが、私の目にはとても良く映った。

 

そんな感情を、軽やかに渡せる気がするから。

「あなたのために」と言って、相手を縛るくらいなら、

「あなたのそういうところ、素敵だね」

と、そっと言葉を渡せる人でいたい。

 

誰かのために、なんて大げさじゃなくていい。

自分がそう感じたから。
自分の心が動いたから。
自分が渡したいと思ったから。

その自分のための言葉が、相手にとって少しでも温かい贈り物になるなら、それで十分だと思う。

 シンプルフレーズ

褒め言葉は、誰かに渡したい最高のプレゼント

 

相手を評価するためのものじゃない。
心が動いた瞬間を、言葉でラッピングして渡すだけでいい。

「素敵だね」は、採点じゃない。
私の心が動いたよ、という小さな私からのプレゼントなんだ。

格差って、ただお金があるかないかだけの話じゃない。

資本がある。
知識がある。
学歴がある。
腕力がある。
見た目がある。
肩書きがある。
人脈がある。
経験がある。
才能がある。
魅力がある。

そういう「持っているもの」がある人間は、立てる舞台がある。

 

お金を持っている人は、お金の舞台に立てる。
勉強ができる人は、学歴や資格の舞台に立てる。
力がある人は、力の舞台に立てる。
人を惹きつける人は、人気や魅力の舞台に立てる。

 

でも、持たない者は、その舞台に立つ前から弾かれる。

戦う以前に、参加権がない。
語る以前に、聞いてもらえない。
努力する以前に、土俵に上がれない。

 

これが、格差のきつさなんだと思う。

そこで持たない側が、何かを語る。

「お金だけがすべてじゃない」
「学歴だけが人間の価値じゃない」
「強さだけが正義じゃない」
「勝ち負けだけで人生は決まらない」

それは、たぶん本当だと思う。

でも、持っている側の舞台では、その言葉は簡単に言い訳にされる。

勝てないから、勝負を否定しているだけ。
持てないから、持たない価値を語っているだけ。
届かないから、別の正しさに逃げているだけ。

そう見られてしまう。

持たない者の言葉は、弱者の叫びとしては切実でも、
持っている側から見れば、負け犬の遠吠えにされてしまうことがある。

 

ここが悲しい。

持たない者にも、居場所はあるかもしれない。

同じように持たない人。
同じ痛みを知っている人。
同じ屈辱を味わった人。
同じように舞台に立てなかった人。

 

その中では、言葉が通じる。


悔しさも通じる。
「分かるよ」と言ってもらえる。

でも、その居場所はとても狭い。

そこでは救われるかもしれない。


でも、同じ舞台に立てるわけではない。

居場所は守ってくれる。
でも、舞台には上げてくれない。

 

だから、持たないことを美化しすぎてはいけないと思う。

持たないことは、まず不利だ。
痛みであり、壁であり、選択肢の少なさだ。

お金がなければ、選べるものが減る。
知識がなければ、判断できない。
力がなければ、守れない。
肩書きがなければ、信用されにくい。
魅力がなければ、選ばれにくい。

それが現実なんだ・・・

 

だからこそ、持たない者に必要なのは、
持たないまま慰め合う居場所だけではない。

足りないものを補うこと。
同じ舞台に立てる形に、自分を作り替えること。

資本が足りないなら、補う方法を探す。
知識が足りないなら、学ぶ。
力が足りないなら、鍛える。
資格が必要なら、取る。
発信力が足りないなら、SNSを使う。
表現力が足りないなら、AIを使う。
才能が足りないなら、試行錯誤の量で補う。

持たないことを言い訳にするには、時代は少し進みすぎた。

もちろん、簡単ではない。
格差は消えない。
壁はある。
持っている側が有利なのは変わらない。

 

それでも、同じ舞台に立つための道具は増えた。

持たないことを美化するより、足りないものを補う。
居場所で慰め合うだけではなく、舞台に立つ方法を探す。

世界は、持たない者に優しくできていない。

 

だからこそ、持たない者は、
持たないまま終わらないために、
使えるものを使って、同じ舞台に立つしかないんだと思う。

 シンプルフレーズ

AIを使って同じ舞台に立つ。

それを「本当に自分の力と言えるのか?」と疑う人もいるかもしれない。

 

でも、私は少し不思議に思う。

ご飯を食べる時に、箸を使う。
スプーンを使う。
フォークを使う。

それを見て、
「それは本当に自分で食べたと言えるのか?」
なんて聞くだろうか?

 

大工が家を建てる時に、のこぎりを使う。
金槌を使う。
電動工具を使う。

それを見て、
「道具を使ったなら、それは大工の仕事ではない」
なんて言うだろうか?

 

そんなはずがない。

むしろ、プロと素人の違いは道具に出る。

道具を知っている。
道具を使いこなせる。
道具の癖を分かっている。
必要な時に、必要な道具を選べる。
そして、使った道具をちゃんと手入れできる。

それがプロなんだと思う。

 

AIも同じだ。

AIを使うことがズルなんじゃない。
AIをどう使うかが、その人の力になる。

何を聞くのか。
何を作らせるのか。
どこを直すのか。
どこを疑うのか。
どこを採用して、どこを捨てるのか。

 

そこに、その人の考え方や腕が出る。

道具を使って何かを成すのが人間だ。

素手だけで戦うことが本物なんじゃない。
必要な道具を選び、使いこなし、同じ舞台に立つこと。

それもまた、人間の力なんだと思う。

悪口は推奨するものではない。

でも、完全に禁止できるものでもない。

 

なぜなら、人は誰でも悪意を持つから。


言われる側も、別の場所では言う側になる。
言う側だけが悪で、言われる側だけが善なんて単純な話ではない。

 

人はそれぞれ違う環境で生きてきて、違う価値観を持っている。


だから、分かり合えない部分が必ずある。
そのズレの中で、苛立ちや否定したい気持ちは自然に生まれる。

 

問題は、悪口そのものを消すことではない。

いつ、どこで、誰に、どのように吐き出すのか?

そこを整えないことが問題なんだ。

 

悪口は、使い方を間違えれば暴力になる。
でも、出口を失えば、悪意はもっと見えにくい形で漏れ出す。

 

だから必要なのは、悪口の禁止ではなく、
悪口を言ってもいい環境と、言ってはいけない場面の線引きだ。

  悪意…例えばどこに吐き出すのが良いんだろうか?

カラオケボックスで叫ぶ

ジムでサンドバッグを叩く

帰り道に一人で吐き出す

信頼できる相手にだけ言う

紙に書いて捨てる

「悪口会議」みたいな場を作る・・・ 飲み会とか女子会的な?

 

確かにどれもこれも悪意っていうか、愚痴や不満の吐き出し方としては有りだろうと思う。

ここで気を付けたいのが・・・

漏れない場所、広がらない相手、煽られない関係 が必要

っていうことだろう。

でも・・・それだと正直発散にならない。

何の解決にもならない。

 

嫌いな相手が居て、苦手な人が居て、どうしても気に入らいないことがあって

我慢できない何かがある。

何の解決にもならないだろう。

吐き出すだけでは、正直収まらないのは事実でしょ?

 

旦那の愚痴や不満。

妻の愚痴や不満。

外でどれだけ吐き出しても、家に帰れば四面楚歌。

息継ぎすらできない環境は変わらない。

 

かといって、相手にそれをそのままぶつけたら炎上は避けられない。

だから生きにくいって言うんだよ。

会社でも同じだと思うし、学生が教室内でそんな状況なら本当に切羽詰まってしまう。

 

だから、誰もがSNSでリアルタイムで愚痴や不満を垂れ流して、誰かの共感と励ましでなんとかかんとか息継ぎできているんだ。

もう、その悪意の向け先を否定する権利なんて誰にも持つことは出来ないと私は思う。

それしか生き残れないなら、選ぶことも必要な選択だ。

 

悪口を言ったらダメ!

見たいな風潮が確かにあるし、SNSに流すのはナンセンスみたいなことを言われるかもしれないけれど

それでも、そこしか息継ぎが出来ないなら

選んでも良いと私は思うよ。

だって、今を生きるってそういうことだから。

 シンプルフレーズ

悪口を否定は出来ない。

そこには生きるための感情があるから。

人と人の関係には常に摩擦が起こる。

その摩擦を否定して関係を続けていくことは出来ない。

 

悪口を言って、悪意を吐き出して、それで今日を乗り越えられるなら、明日を迎えられるなら

それは必要な選択の一つでしかない。