「風向きを変えることはできないが、帆の向きを変えることはできる」
そんな言葉がある。
ドイツ語では „Wir können den Wind nicht ändern, aber die Segel anders setzen.“ という形で広く知られているが、古いドイツのことわざと断定できるほど出典が固いわけではなく、19世紀英語圏の類似表現が有力な先行例らしい。

 

けれど、誰が最初に言ったかより、この言葉が今も残る理由の方が大事だと私は思う。

私の経験では、現実を一人で支えるのなんて正直無理なんだ。


愚痴りたいし、逃げたい。


・・・いや、違うね。

愚痴りたくて逃げたいからこそ、もうその時点で、現実を一人で支えられない状況なんだろう。

風は変えられない。でも、帆は一人じゃ張り直せない

私の場合、現実を受け入れるほどメンタルが強くないし

かといって、目的地に進めるほどの力を持っていない。

 

でも、だからこそ思うのは・・・

毎朝、行きたくない、起きたくないって思いながら嫌がる体を引きずっている姿が、一番私らしい・・・

 

風は向かい風

帆は折れてどこかに行った

仲間も友人も・・・新しく作っている最中

船は泥船。背中は火傷で・・・うさぎが笑ってる。

 

それでも止まれないのは、朝が来るから・・・

  帆を変えれば進める。でも、それが簡単なら苦労しない

たしかに、帆の向きを変えればいい・・・


帆の張り方を変えれば、向かい風にだって切り上がることはできる。
凪の時ですら波はある。

 

完全な無風も、完全な平穏も、たぶん人生にはあまりない。

 

でも、凪の時って、実際は流されるしかないんだよね・・・


そして人は、流される方が楽だ。
受け身で、指示待ちで、誰かの判断に乗っかる方が楽だ。

だって、自分で決めたら責任がついてくるから。責任を負いたくない。

失敗したくない。間違えたくない。だから、「このままでいい理由」を探してしまう。

 

それは怠けとか甘えとか、そういう話じゃない。
ただ、人間ってそういうものなんだと思う。
疲れてる時に帆なんか張り直せない。

 

心が擦り切れてる時に、舵を握って進路まで考えろなんて、だいぶ無茶な注文だ。

  日本は流される美学を持っている

このことわざには、進む意思がある。
風がどうであれ、目的地に向かう為に工夫する。

状況に文句を言うだけじゃなく、どう進むかを考える。そういう強い行動の匂いがある。

 

・・・でも日本だと、少し違う気がする。


諸行無常という言葉があるように、変わっていくもの、流れていくもの、どうにもならないものを受け入れる美学がある。


それはそれで、すごく日本らしいし、この国には合っているのかもしれない。

組織で生きること、人間関係で摩擦を減らすこと、空気を読むこと。

 

そういう社会の中では、「抗う」より「受け入れる」方が上手く回る場面も多いからだ。

ただ、受け入れることと、諦めることは違う。
ここを雑に一緒くたにすると、苦しい。

やるだけ無駄。
言っても仕方ない。
どうせ変わらない。
そうやって自分を納得させることはできる。

でも、心の中に愚痴や不満が溜まっていくなら、本当はまだ受け入れられていないんだろう。

  見方は一人では変えられない

難しい話や根性論や正論で殴りたいわけじゃない。
行動しない理由、できない理由、逃げたい理由。そんなものは、いくらでも出てくる。


そして実際、逃げたい時だってある。愚痴りたい時だってある。

 

だから私は思うんだ。
人は、自分だけの価値観じゃ、世界を変えられない。


それどころか、自分の見方すら、そう簡単には変えられない。

自分の中だけで考えていたら、同じところをぐるぐる回るだけだ。


だから必要なのは、誰か・・・自分以外の「何か?」なんだと思う。
 

知らない世界。違う価値観。自分とは違う目線。
他人の目でしか自分を測れないのが人の性質なら、その他人の目を借りて、新しい角度から自分を見直すことだってできるはずだ。

帆だって一人じゃどうにもならん。
風なんて、もっとどうにもならん。
だったらせめて、自分がどこへ向かいたいのか、その為にどんな帆の張り方があるのかを、他人の視点から知るのは悪いことじゃないと思う。

 

  草を花だと言う人を、笑わなくていい

フィンランドには、幸せな人には草も花に見える、そんなニュアンスの言葉があるという。

フィンランド語でのニュアンス

"Iloiselle on ruohokin kukka, synkälle kukka on vain ruohoa." 

(幸せな人には草も花であり、陰鬱な人には花もただの草である)

 

事実かどうかを厳密に問い詰めたいわけじゃない。

私が惹かれたのは、その見方の方だ。
 

受け入れるだけじゃない。
見方次第で、幸せや価値を見出だせるということ。

たしかに、草を花だと言い張るのはナンセンスかもしれない。


でも、その人がそう見えたのなら、それを頭ごなしに否定するほど、世界は親切でもないし、他人の為に言葉を使ってくれる人も多くない。

 

だからこそ、他人から得られる可能性を自分で選ぶことは必要なんだろう。
帆の向きを変える為に、他人の目線を知る。
そして、それを自分の意思で、自分の気持ちで、目的地へ向かう方法として使えたら最高だ。

  目的地を失わないこと。それでも、迷子もまた一興

あとは、自分の目的地を失わないことかな?


私みたいに迷子が好きで、ヒンメルみたいにダンジョンを全部回りたいタイプには、

目的地より過程を重視してしまう。

寄り道もしたい。全部見たい。無駄も味わいたい。

 

でも、それも一興だと思えるなら、凪の波に身を任せる諸行無常は、ある意味で美徳になるんだろう。
 

ただ流されるだけじゃない。
過程を愛するから、流される時間にも意味を見つけられる。

 

風は変えられない。
でも、帆は変えられる。
ただし、その帆は一人じゃ張り直せないこともある。

 

だからこそ、人は誰かの目を借りる。
誰かの言葉を借りる。
知らない世界を知って、自分の進み方を少しずつ覚えていく。

 

それでいいんだと思う。
一人で全部できなくてもいい。
愚痴っても、逃げたくなってもいい。
それでも、自分の目的地だけ見失わなければ、航海はまだ終わっていない。

 シンプルフレーズ

風は変えられない。
帆は変えられる。
でも、帆を変えるには、自分以外の手や、自分以外の視点が要る。

 

帆の向きは変えられる。
でも、張り直す手が足りない夜もある。
そんな時は、ひとりで沈まないことの方が先だ。

今の時代は、優しさまで説明を求められる。
格好良さまで、正しさと効率で採点される。
だからこそ私は、ルパン三世や冴羽獠や、あぶでかみたいな・・・

“古い男の美学”に、どうしようもなく惚れてしまう。

 

  格好良い男が減ったんじゃない。格好良さの基準が変わっただけだ

昔の男が良かった・・・なんて、雑に懐古したいわけじゃない。
今だって誠実な人も、優しい人も、強い人も、ちゃんと居る。

 

でも、何かが違う。

今は、正しさを説明できる人が強い。
配慮を言語化できる人が賢い。
失敗しない人が有能で、空気を読める人が大人として扱われる。

 

もちろん、それ自体は悪いことじゃない。
むしろ社会の中で生きるなら必要なことだと思う。

ただ、その結果として、言葉にしない美学がどんどん見えなくなった。

語らない優しさ。
説明しない覚悟。
見返りを求めない助け方。
そして、相手の弱さを暴かずに受け取る格好良さ。

 

そういうものが、少しずつ時代遅れみたいに扱われている気がする。

でも私は、そこにこそ惚れるんだ。

  ルパン三世が盗むのは金じゃない。人の心だ

ルパン三世が格好良いのは、ただ漫画の主人公だからじゃない。
頭が切れるからでも、女にモテるからでも、洒落ているからでもない。

 

 

あの男は、人の心を盗む

しかも、ただ奪うんじゃない。
その人が隠していたもの。
見せたくなかったもの。
価値がないと思い込んでいたもの。
後悔や悲しみや苦しさまで見抜いてしまう。

そして、それを雑に扱わない。

「そんなもの、忘れろよ」じゃない。
「気にするなよ」でもない。
「お前が悪い」で片付けもしない。

 

むしろ、
そんなに苦しかったのか。
そんなに大事だったのか。
なら、それはお宝だろ。

とでも言うように、相手の痛みを盗んでいく。

 

これがたまらなく格好良い。

人は、自分の痛みを恥だと思いやすい。
弱さだと思いやすい。
失敗の証拠だと思いやすい。

でも、本当は違うのかもしれない。

後悔しているのは、本気だったからだ。
 

悲しいのは、大切だったからだ。
苦しいのは、ちゃんと生きたからだ。

だったら、その傷はただの傷じゃない。
その人が生きた証拠だ。
ルパンは、そこを盗んでいく。

だから私は思う。
ルパンの美学は、主人公を演じることじゃない。
誰かの中にある、価値なしと捨てられた痛みを、お宝として見つけ出すことなんだと、私は思う。

 

  冴羽獠は、優しさを茶化して隠す

シティーハンター冴羽獠も最高に格好良い。

 

 

でも、あの格好良さは正義のヒーローじゃない。

むしろ逆だと思う。

普段はふざけている。
スケベで、軽くて、だらしなくて、真面目さなんて微塵も見せない。


でも本当に大事な場面では、絶対に手放さない・見捨てない・逃がさないし逃げない。

この“手放さない姿”が格好良い。

 

しかも、助けたことを恩着せがましくしない。
「俺が守った」って顔をしない。
相手の人生に土足で入り込まずに、必要なところだけ背負って去っていく。

あの・・・EDに入っていくシーンはどの回も感動的だ。

 

これって、本当はすごく難しい。

人を助ける時、人は自分の正しさを混ぜやすい。
相手のためと言いながら、自分が良い人でいたい気持ちを乗せやすい。
理解者の顔をしたくなる。
救済者になりたくなる。

 

でも冴羽獠は、そこが下品じゃない。

相手の涙を見ても、必要以上に暴かない。
相手の傷を見ても、説教に変えない。
相手の人生を奪わずに、相手がまた自分で立てるように残していく。

 

つまり、冴羽獠の美学は、
優しさを見せつけない優しさなんだと思う。

今の時代は、優しいことすら“見える化”される。
配慮も実績になる。
思いやりも評価対象になる。


でも、本当に惚れるのは、そういう優しさじゃない。

黙って引き受ける優しさ。
茶化して隠す優しさ。
笑いながら、本当は一番重いものを背負っている優しさ。

そこに、男が惚れる男が居る。

 

  あぶでか(あぶない刑事)は、組織の中で魂を売らない

あぶでかが格好良いのは、ただ破天荒だからじゃない。
タカとユージが派手に暴れるから面白い、で終わるなら、たぶんここまで惚れない。

 

 

あの二人の格好良さは、
組織の中で働きながら、組織に魂までは売っていないことだと思う。

刑事である以上、ルールはある。
立場もある。
責任もある。
現実もある。

でも、その中でなお、最後に何を守るかを自分で決めている。

 

ここが強い。

 

組織の中で、権力の中に居るからこそ出来ることがある。

だからこそ、その中で出来ることの為に・・・誰かの為に、手を伸ばすってカッコ良くないわけがない!

 

今の社会って、会社でも組織でも、所属しているだけで人格まで吸い取られやすい。
空気を読め。
迷惑をかけるな。
協調性を持て。
正しくあれ。
成果を出せ。
でも責任は自分で取れ。

そんな無茶苦茶なことを平気で言ってくる。

 

その中で、ただ順応するのが賢いのかもしれない。
大人っぽいのかもしれない。
でも、私はそういう“賢さ”だけでは息が詰まる・・・

 

あぶでかの格好良さは、その息苦しさに対する反抗でもある。

組織の中に居る。
でも、全部は明け渡さない。


働く。
でも、魂まで管理させない。


従う。
でも、自分の矜持までは譲らない。

 

これって、今の時代ほど刺さる美学だと思う。

  私が惚れるのは、完璧な男じゃない

私が惚れるのは、完璧な男じゃない。
清潔で、優秀で、理想的で、全て正しく処理できる人間じゃない。

むしろ逆だ・・・

 

欲望がある。
弱さもある。
だらしなさもある。
矛盾もある。
過去もある。
言葉に出来ない後悔もある。

それでも、最後にどう立つか?って言うのを、自分で決めた生き方をしている男に惚れる。

 

これは、私自身がずっと考えてきたこととも繋がっている。

 

人は弱い。
自分のためだけに生きられるほど強くない。
だから何かが必要になる。
誰かの言葉かもしれない。
過去かもしれない。
美学かもしれない。
自分の中に住み着いた、譲れない矜持かもしれない。

 

その『何か?』を持っている人は、折れない。
いや、正確には、折れても立てる。
壊れても、壊れたまま歩ける。

私はそこに惚れる。

  古い男の美学は、後悔を恥にしない

たぶん私は、ここに一番惹かれている。

 

今の社会は、失敗を管理したがる。
弱さを改善したがる。
悲しみを早く処理させたがる。
後悔を“糧にしろ”と急かしたがる。

 

でも、本当に苦しい後悔って、そんな簡単に糧にならない。
悲しみだって、綺麗に乗り越えられない。
苦しさだって、説明して整理したら終わりじゃない。

ルパン三世も、冴羽獠も、あぶでかも、
そういう“処理しきれないもの”を雑に扱わない。

 

後悔を笑わない。
悲しみを軽くしない。
苦しさを説教に変えない。
未熟さを切り捨てない。

 

そして何より、
弱さがあることを、格好悪さだと決めつけない。

ここが好きだ。

人間はきっと、強いから格好良いんじゃない。
弱さを抱えたまま、自分の流儀を捨てないから格好良いんだ。

 

  シンプルフレーズとして惚れる理由

私がずっと考えてきたことの一つに、
「価値がないように見えるものの中に、本当の価値があるんじゃないか?
という感覚がある。

役に立たない後悔。
見せられない悲しみ。
人に言えない苦しさ。
恥ずかしくて隠したい過去。


そういうものは、社会の物差しで見たら、価値がないことにされやすい。

でも私は、そこにこそ、その人の“生きた証拠”があると思っている。

 

だから、ルパン三世が好きなんだろう。
人の痛みを盗むから。


だから、冴羽獠が好きなんだろう。
優しさを押し売りせず、相手の人生を残すから。


だから、あぶでかが好きなんだろう。
組織の中でも、自分の魂を手放さないから。

 

全部繋がっている。

どれも、
人の中にある、見えない価値を見落とさない
っていう美学なんだ。

 

それはたぶん、私が言葉でやりたいことにも近い。
私は誰かを救いたくて書いているわけじゃない。
でも、自分のために書いた言葉の中に、誰かが自分の痛みを見つけることはあるかもしれない。

 

その時に、その人が
「こんな後悔でも、こんな悲しみでも、こんな苦しさでも、価値があったのかもしれない」
と思えたなら、私はそれをとても美しいことだと思う。

 

  惚れるとは、そこに生き方を見ることだ

結局、惚れるって顔でも強さでもない。
そこに、生き方を見るから惚れるんだと思う。

 

ルパン三世の生き方。
冴羽獠の生き方。
あぶでかの生き方。

 

ふざけていてもいい。
軽口を叩いていてもいい。
だらしなくてもいい。
不器用でも、危なっかしくても、時代遅れでもいい。

 

でも、最後に
「何を盗むのか」
「誰を守るのか」
「どこまで魂を売らないのか」
そこを自分で決めている男は、やっぱり格好良い。

 

今は、何でも説明を求められる時代だ。
どうしてそうするのか。
何のためか。
誰のためか。
合理的か。
社会的に正しいか。

でも、本当に惚れる生き方って、全部は説明できない。

ただ、見ていたら分かる。
ああ、この人は自分の美学で立っているんだなって。
その姿に、人は惚れるんだと思う。

 

  だから私は、古い男の美学に惚れてしまう

古いから好きなんじゃない。
男だから好きなんでもない。
そこに、
欲望も弱さも矛盾も抱えたまま、それでも最後に自分の流儀で立つ人間の美しさ
があるから好きなんだ。

 

綺麗事じゃない。
正論だけでもない。
清潔な理想像でもない。

後悔も、悲しみも、苦しさも、欲望も、矛盾も全部抱えたまま、
それでも人の心を雑に扱わない。
それでも見えない価値を見落とさない。
それでも自分の魂を安売りしない。

そんな生き方に、私は惚れる。

そしてたぶん、私自身もまた、そういう言葉を書いていたいんだと思う。

 シンプルフレーズ

男が惚れる男とは、強い男じゃない。
人の痛みを見抜き、自分の矜持を手放さず、弱さごと引き受けて立てる男だ。

 

まさに、嫌われる勇気なんだと思う。
でもそれは、ただ他人を突っぱねる強さじゃない。
理解されなくても、自分の美学を手放さず、相手の痛みを雑に扱わない勇気だ。

後悔を忘れた人が大人になるんじゃない。
悲しみを抱えたまま、それを腐らせずに自分の味へ変えていける人が、大人になっていく。
人は、過去を熟成させ、出会いでカクテルになる。

後悔は、捨てるものじゃない。熟成させて、自分の味になる

私はよく、お酒が好きです。

今はウイスキーにハマってます(笑)

その味の豊富さ、同じ材料なのになんでこんなに味が違うんだと感嘆の日々です。

 

お酒について特別詳しいわけじゃないし、誰かに語れるほどでもない。

ただ・・・

お酒のことを考える時に、人間と似ているな~と思うことがある。

ウイスキーっていうのは、蒸留したての頃は味がすごく荒い。
刺激が強くて、若くて、尖っていて、まだ落ち着かない。
けれど、樽の中で長い時間を過ごし、空気に触れ、木の香りを吸い込み、少しずつ変化していく。


そうして、丸みが出て、深みが出て、香りが重なっていく。

 

人間も同じなのかもしれないって、思うんだ。

若い頃の悲しみや後悔は、ただ痛いだけだ。
失敗は恥ずかしいし、傷ついた記憶は思い出したくもない。
出来ることなら忘れたいし、無かったことにしたい。
でも、本当に大人になっていく人って、そこを雑に捨てない気がする。

悲しみを悲しみのまま終わらせない。
後悔を後悔のまま放置しない。
自分の中で何度も見返して、何度も意味を与え直していく。

 

そうやって、過去は少しずつ「傷」から「深み」に変わっていく。

大人になるって、何も感じなくなることじゃない。
むしろ、消えないものを消えないまま持ち続けられることなんじゃないかと思う。

  保存の仕方で、過去は毒にも薬にもなる

ただ、ここで大事なのは・・・

時間さえ経てば勝手に熟成するわけじゃないということだ。

 

お酒もそうだ。
保存の仕方が悪ければ、せっかくのものも駄目になる。
本来なら深みになるはずの時間が、ただ劣化に変わることもある。

 

人の過去もきっと同じじゃないかな?

 

後悔をずっと抱えているからといって、それだけで成熟するわけじゃない。
悲しみを忘れずにいるからといって、それだけで優しくなれるわけでもない。
抱え方を間違えれば、それは熟成ではなく腐敗になる。
意味を更新しないまま閉じ込めてしまえば、痛みはただの執着になる。

 

だからこそ、過去を大切にするって、ただ手放さないことじゃない。
ちゃんと向き合い続けることなんだと思う。

 

あの時、どうして苦しかったのか。
なぜ忘れられないのか。
あの出来事は、自分に何を残したのか。
何を奪い、何を教えたのか。

そうやって、自分の中で何度も問い直していく。
昨日と同じ悲しみのまま抱えるんじゃなくて、今日の自分の言葉で抱え直す。


それが出来た時、過去は「まだ痛い記憶」ではなく、「今の自分を作った材料」に変わっていくのだと思う。

  熟成しただけでは、まだ名前にならない

でも、ここからがもっと面白い・・・

 

熟成したウイスキーは、それだけでも十分に魅力がある。

○年物はとりあえず・・・美味しいけど高い・・・(´;ω;`)ウゥゥ


ただ、それだけではまだ「原酒」でしかないとも言える。
もちろん、それ自体で完成している。
けれど、そこに何かを加えることで、全く別の表情が立ち上がる。

 

ベルモットを加えれば、マティーニになる。
ビターズや甘みが加われば、マンハッタンになる。

※レシピはお店によって違います‥‥


ベースは同じでも、そこに何を足すかで名前が変わる。
香りが変わる。
余韻が変わる。
印象が変わる。

それって、人間の個性にすごく似ていると思う。

 

私たちは、ただ過去だけで出来ているわけじゃない。
過去がベースにはなる。
後悔や悲しみや喜びや成功や失敗・・・それらが土台になって、自分という原酒が作られる。

 

でも、人が「その人らしく」なっていくのは、たぶんそこから先だ。

誰と出会ったか。
どんな言葉に触れたか。
どんな本を読んだか。
何を信じて、何を嫌って、何を諦めて、何を手放さなかったか。

そういうものが少しずつ混ざっていくことで、人はただの過去ではなく、個性を持った自分になっていく。

  個性とは、何を足したかより何を残したか

ただし、何かを足せば足すほど良いわけじゃない。
カクテルだって、何でも混ぜれば美味しくなるわけじゃない。
入れすぎれば壊れる。
相性が悪ければ濁る。
せっかくのベースの香りを殺してしまうこともある。

 

人間関係も、知識も、経験も同じだと思う。

たくさん出会えば豊かになる・・・とは限らない。
たくさん学べば深くなる・・・とも限らない。
むしろ、取り入れすぎることで、自分の輪郭がぼやけることもある。


誰かの価値観ばかりが増えて、自分の味が分からなくなることだってある。

だから個性って、足したものの多さじゃない。
何を取り入れて、何を自分の中に残すかという取捨選択の結果なんだと思う。

 

全部を飲み込む必要はない。
全部を信じる必要もない。
全部と仲良くする必要もない。

自分に合うものもあれば、合わないものもある。
心を広げてくれる出会いもあれば、心を濁らせる出会いもある。


その中で、自分のベースを壊さないもの。
むしろ、自分の香りを引き立ててくれるもの。
そういうものを選びながら、人は少しずつ「自分の名前」を持っていくのだと思う。

  大人になるとは、自分の味を知ること

大人になるって、何でも分かるようになることじゃない。
何も傷つかなくなることでもない。
上手に生きられるようになることでもない。

 

たぶん、大人になるって、
自分の中にどんな味があるのかを知ることなんだと思う。

 

自分は、何に苦くなるのか。
何に甘くなるのか。
何を許せなくて、何をどうしても捨てられないのか。
どんな悲しみが今も残っていて、どんな出会いが自分を変えたのか。

 

それを分かった上で、無理に別の誰かになろうとしないこと。
流行りの味に合わせて、自分を薄めすぎないこと。
でも同時に、頑なに原酒のままでいようとしないこと。

ちゃんと熟成し、ちゃんと出会い、ちゃんと選ぶ。
そうやって少しずつ、自分というカクテルになっていく。

 

きっと、人は最初から完成していない。
だからこそ面白い。
過去だけでも足りないし、出会いだけでも足りない。
熟成だけでも駄目だし、刺激だけでも駄目だ。
その両方があって初めて、人は自分だけの味になっていく。

​​​​​​​

  だから、過去も出会いも無駄じゃない

昔の後悔を思い出して、苦しくなる日もある。
あの出会いが無ければ良かったと思うこともある。
逆に、あの一言に救われたと思う夜もある。

 

きっと、全部が材料なんだろう・・・

 

良いことだけじゃなくて、悪かったことも。
嬉しかったことだけじゃなくて、取り返しのつかない失敗も。


それらが全部、今の自分の香りを作っている。

だから、過去を恨みすぎなくていい。
出会いを怖がりすぎなくていい。


もちろん、雑に人を受け入れろという話じゃない。
ただ、自分の中でちゃんと選び取っていけばいい。

過去を熟成させること。


出会いを選び、自分の中に必要なものだけを取り入れること。
その繰り返しの先に、ようやく「自分らしい味」が立ち上がる。

 

お酒が奥深いのは、ただ長く置くからじゃない。
何をベースにし、何を足し、どう仕上げるかで、まるで別の名前になるからだ。


人間もきっと同じじゃないかな?

後悔や悲しみを熟成させて。
出会いという刺激を受け取って。


それでも消えなかったものを、自分の味として残していく。

そうやって私たちは、ただ歳を取るんじゃなく、
少しずつ、自分という一杯になっていくのだと思う。

「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えない人を見ると、つい礼儀の問題だと思ってしまう。
でも、本当に足りないのは言葉そのものじゃなく、その言葉の重さを受け止める感覚なのかもしれない。
今回、職場での出来事を通して、私は少しだけ「責任」と「コミュニケーション」の繋がりを見た気がした。

社会の責任はとれない時に現れる。

『責任』っていう言葉の意味を渡しも正確に表現できるわけじゃない。

なんとなく・・・感覚?的な、社会通念的なそんな雰囲気で感じているだけだ。

 

コミュニケーション?会話?私だって四苦八苦している。

上手く出来た例がない。ただただ、失敗と自責の念との戦いの日々だ・・・

だから、責任やコミュニケーションについて、誰かに説けるほど知っているわけじゃない。

 

だからこそ、今回感じたことは、私にとって大きな価値になるだろう。

 

  「言えないこと」は、ただの苦手では終わらない

職場に、どうしても「ありがとう」や「ごめんなさい」が言えない子がいる。

きっと、会話が苦手なんだと思う。
コミュニケーションが得意じゃないんだと思う。


それは別に、珍しいことじゃない。

誰にだって得手不得手はある。

社会に出れば、対人関係の不器用さなんて、わりと普通にぶつかる壁だ。

 

だから、言えないからダメだ、と単純に切り捨てる気にはなれなかった。

でも同時に、言わなくて良いのかと言われたら、それもまた違う気がしていた。
ここが難しい・・・


苦手だから仕方ない、で済ませてしまうには、社会って少しだけ他人と関わりすぎる場所だからだ。

「ありがとう」「ごめんなさい」も、ただの飾りじゃない。


ただ口に出して終わる儀式でもない。

あれはきっと、相手との間に何が起きたのかを認識した時に初めて出てくる言葉なんだと思う。

  飲み会で起きた、自由と配慮の衝突

先日、職場で飲み会があった。
上司もいる、慰安も兼ねた親交会みたいなものだ。

 

そこで、まぁまぁ困ったことになった。

 

コースメニューなのに勝手に追加注文をしたり、他の人の飲み物を持って行ってしまったり、帰り際に大量の飲み物を注文して場をざわつかせたり・・・正直、かなり困った・・・・・・・

 

自由に動く彼と、周囲への配慮を気にする私。

(いつの間にか、彼のこもり役にされてしまったのは私の行為の結果なんですがね。)
なかなかどうして、そこでぶつかった。

その時、私はかなり強く言った。
まぁ、簡単に言えば怒った。
でも、その場では全く伝わっていない感じだった。

 

こっちは困っている。
でも相手には、その「困っている」が届いていない。


このズレが、すごくしんどい。

しかも問題は、その場のノリとか空気の問題だけじゃなかった。


飲み放題が終わって、解散しようとしているところに、勝手に追加で大量注文。

しかも15杯のレモンサワー。

いや、アホなのかと。

モバイルオーダーで勝手に注文するのは構わないけど、状況を見てやってくれ・・・


失礼だけど、その時は本気でそう思った。

もちろん、金額の問題だけじゃない。
会計するのは幹事や上司だし、店とのやりとりもあるし、その場を収める空気も必要になる。
自由にやった本人だけでは終わらない。
周囲が、その自由の後始末をさせられる。

 

そこに・・・私が怒ったのならカッコいいのかな?

正直、勝手が過ぎる。その前に散々話をしたのに、いろいろ言ったのに・・・

何一つ聞いていなかった事実に腹が立った・・・・

 

  冷たい空気が教えることもある

週が明けて、彼は普通に出勤してきた。

(さすがの度胸ですよ。私がさんざん言ったのに、どこ吹く風・・・)


でも、待っていたのは周囲の冷たい対応だった。

まぁ、仕方ない。
みんなそれぞれ思うところはある。
散々間に入った私に、慰労の言葉をくれる人までいた。なんとも、流石シンプルフレーズだと笑ったけれど(笑)

 

ただ、彼にとって本当に響いたのは、私が怒ったことよりも、その後の職場の空気だったんだろうと思う。

冷たい視線。
いつもより少ない言葉。
距離を置かれている感じ。

 

そこでやっと、何かが引っかかったんだろう・・・


彼は私に、「なんでこうなったのか」と聞いてきた。

私は説明した。
なんで私が怒ったのかを。
何が問題だったのかを。
追加料金の話だけじゃない。誰が困るのか。誰に迷惑がかかるのか。何を背負わせたのか。そこを話した。

 

すると彼は、「じゃあ今からお金払います」と言った。

いや、そこじゃない。
そういうことじゃない。

もちろん、お金の話がゼロではない。
でも本質は、後から清算できるかどうかじゃない。


先輩も上司もいて、幹事が会計して、その場を収めて、空気を整えて、誰かが間に入って消耗している。
問題は、もうとっくに「金額」だけではなくなっている。

そこまで話して、彼はようやく少し理解したようだった。
そして私に、「ごめんなさい」と言った。

 

でも、私は言ったよ・・・。
謝る相手は私じゃない。
上司と幹事だ。
そこなんだよ、と・・・。

 

この時に見えたのは、謝れないことそのものより、誰に何をしたのかが見えていないということだった。

 

  責任を知らないと、返答ができない

今回、私が一番学んだのはここだった。

 

相手に対して「返答」ができること。
反応できること。
対応できること。

それって、責任というものを知っていて初めてできるんじゃないか、ということだ。

返事をする。
謝る。
感謝する。
説明する。
受け止める。

こういうことは全部、ただ言葉を発するだけじゃない。


相手から向けられたものを受け取り、自分の立場で返す行為だ。

 

つまりそこには、必ず「自分の返し方が相手との関係に影響する」という感覚がある。

責任って、きっとそういうことなんだと思う。

 

辞書に載っている意味をそのままなぞれば済む話ではない。
社会通念とか一般論で片づけるには、あまりにも生々しくて、人間関係の中で形を変えるものだと思うからだ。

 

だから、責任とは何か、と綺麗に定義することは私にはできない。
でも、少なくとも今回見えたのは、責任を理解していないとコミュニケーションが噛み合わなくなる、ということだった。

 

「ありがとう」が言えないのも、
「ごめんなさい」がズレるのも、
「誰に返すべきか」が分からないのも、

全部どこかで、責任の向き先が見えていないから起きるのかもしれない。

  責任は、取れない時に初めて見える

責任って、不思議だと思うは、私だけなんだろうか?

普段は見えない。
ちゃんと回っている時は、誰もわざわざ意識しない。


でも、何かがズレた時、自分一人では後始末できなくなった時に、急にはっきり見えてくる。

 

今回の件で言えば、彼は自分の自由な行動の先に、誰が何を背負うのかを見ていなかった。
 

だから好きに動けた。


でも、その結果を自分だけで引き受けられないと分かった時に、ようやく責任の輪郭が出てきたんだと思う。

そう考えると、責任とは「取るもの」というより、自分の行為が誰の負担になるのかを知ることに近いのかもしれない。

 

自由にするのはいい。


でも、その自由が誰かの尻拭いの上に乗っているなら、それはもう一人だけの自由ではなくなる。

社会って、そういう見えない負担の受け渡しで成り立っている。
だからこそ、責任を知ることは、窮屈になることじゃない。
むしろ、相手と繋がるための最低限の土台なんだろう。

 

  自分らしいコミュニケーションは、責任の先にある

今回のことで、私は少し考えが変わった。

 

コミュニケーションが上手い人って、話がうまい人じゃないのかもしれない。
気の利いたことが言える人でも、ノリがいい人でもないのかもしれない。

 

本当に大事なのは、自分の言葉や行為が、相手にどう届くのかを引き受けられることなんだと思う。

 

その引き受ける感覚があって初めて、返答が生まれる。
反応が生まれる。
対応が生まれる。

そして、その土台にあるのが、それぞれの中にある「責任」なんだろう。

責任の形は、人それぞれ違うと思う。


同じ言葉を使っていても、何を重いと感じるのか、どこまでを自分のこととして受け止めるのかは違う。

でも逆に言えば、だからこそ、その人なりの責任を理解した時に、その人らしいコミュニケーションがやっと始まるんじゃないだろうか?

 

無理に器用になる必要はない。
気の利いた人間にならなくてもいい。
ただ、自分の言葉や行為が、相手との間に何を残すのか。
そこに少しでも意識が向いた時、人はようやく誰かとちゃんと向き合えるのかもしれない。

責任とは何か。
そんな大きなことを、私が語れるわけじゃない。

でも今回ひとつだけ分かったのは、
返答できることは、責任を知っていることなのかもしれない
ということだ。

そしてきっと、責任を知ることは、誰かに縛られるためじゃない。
自分らしい言葉で、相手と繋がるために必要なことなんだと思う。

 シンプルフレーズ
言葉は、ただ口にするだけでは届かない。
でも、責任を知った言葉は、少しずつ人との距離を変えていく。
そんな返答ができる自分でいられたら、少し素敵だと思う。

 

人は弱い。
だから集団に入り、守られようとする。
だが守られるためには、自分の属する側が優位であってほしい。
その瞬間、人は“下に置ける何か”を探し始める。
その何かは他人でも、組織でも、属性でも、レッテルでもいい。
大事なのは中身ではない。
自分が安全圏にいると確認できることだ。
だからアンチは、憎しみというより不安の安全弁になる。
そしてその構造に自分で気づけた時だけ、人は別の一歩を選べるのかもしれない。

アンチという最短の優越感

誰かを嫌いたいわけじゃない。
本当はただ、自分が落ちるのが怖いだけなのかもしれない。
アンチとは、他人を傷つける行為である前に、自分を守るための安直な安全弁なのだと思う。

  人は弱いから、集団に入りたくなるのかもしれない

人は、そんなに強くないのだと思います。
少なくとも私は、いつもそう感じています。

 

ひとりで立って、ひとりで自分を信じて、ひとりで自分の価値を守り続けること。
それって、言うほど簡単じゃないですよね。

 

だからこそ人は、どこかに属したくなるのかもしれません。
会社でも、学校でも、友達の輪でも、趣味の界隈でも、推しの世界でもいい。
「ここに居ていいんだ」
そう思える場所があるだけで、少しだけ心が落ち着くことがあります。

 

誰かとつながっている。
自分はひとりじゃない。
それだけで救われる瞬間って、ちゃんとあると思うんです。

 

でも、少し厄介なのはここからです。
ただ集団に入るだけでは、安心しきれない時があるんですよね。

自分の属している側が強い。
自分の居る場所が正しい。
自分たちのほうが上にいる。
そう感じられた時に、やっと安心できることがある。

 

集団は、ただの居場所じゃなくて、時々、自分を守る鎧にもなってしまうんです。

  安心するために、「下にある何か」を探してしまうことがある

人は、絶対的な安心よりも、相対的な安心にすがってしまうことがあります。

「私は大丈夫」
そう心から思えなくても、
「少なくとも、あれよりはマシ」
そう思えた瞬間に、少しだけほっとしてしまうことがある。

 

きっと、あなただけじゃないと思います。
私も、そういう気持ちがまったく分からないとは言えません。

自分より下に居る誰か。
自分より劣っているように見える何か。
自分が属していない集団。
見下してもいいように思えるレッテル。
叩いてもよさそうな敵。

その対象は、実は何でもよかったりするのかもしれません。


他人でも、組織でも、属性でも、肩書きでも、考え方でも。

大事なのは中身ではなくて、
「自分はそこじゃない」
と確認できることだったりするんですよね。

 

落ちる側じゃない。
一番下じゃない。
排除される側じゃない。
そう思えた時、人は少しだけ安心できてしまう。

だからこそ、この感覚はとても厄介なんだと思います。

  アンチという行為は、優越感というより「安全確認」なのかもしれない

私は、アンチ行為って、ただの悪意だけではない気がしています。

 

もちろん、誰かを傷つけることが良いわけではありません。
でも、その中身を少し丁寧に見ていくと、そこにあるのは強さではなくて、むしろ不安なのかもしれないと思うんです。

 

自分に自信が持てない。
このままで大丈夫なのか不安になる。
負けるのが怖い。
価値がないと思いたくない。
置いていかれたくない。

そんな時、本当は自分と向き合えたらいいのかもしれません。


でも、それは苦しいですよね。
時間もかかるし、自分の弱さも見えてしまう。

 

その点、誰かを下げるのは早いんです。
批判するのも、馬鹿にするのも、レッテルを貼るのも、すごく早い。
そして、効き目も早い。

相手を落とした瞬間だけ、自分が少し上に立てたような気になれるからです。

 

だからアンチって、優越感そのものというより、
「私はまだ大丈夫」って確認するための、安直な安全弁
なのかもしれません。

  私たちは、比べることでしか安心できないように育ってきたのかもしれない

考えてみると、私たちはずっと比べられて生きてきましたよね。

テストの点数。
平均点。
入試の合格ライン。
偏差値。
学歴。
年収。
役職。
フォロワー数。
恋愛ですら、どこかで比べられてしまう。

 

人生って、思っている以上に、順位づけの連続なのかもしれません。

そんな社会の中で生きていたら、
「自分より下がいると安心する」
という感覚を持ってしまうのは、ある意味とても自然なことなのだと思います。

 

だから、その気持ちを持ってしまう自分を、ただ醜いと決めつける必要はないのかもしれません。
そう感じてしまうくらい、私たちはずっと比較の中で生きてきたんです。

 

ただ、自然だからといって、そのままでいいわけでもない。

 

そこが難しいところですよね。

「みんなやってるから」
「普通のことだから」
「仕方ないから」

そうやって、自分の弱さをそのまま誰かへの攻撃に変えてしまうと、やっぱり苦しさはどこかで残ってしまう気がします。

  自分の弱さに気づけた時、少しだけ違う一歩が選べるのかもしれない

少なくとも私は弱いです。
だから、その気持ちが少し分かります。

 

自分より下がいる。
そう思えた時の安心感。
正直、それはとても分かりやすい安全弁なんですよね。

 

比べてしまうこともある。
見下したくなる瞬間もある。
ネガキャンしたくなる気持ちだって、まったく分からないわけじゃない。

でも、たぶん大事なのは、そこを無かったことにしないことなんだと思います。

 

「私はそんなことしない」
じゃなくて、

「私にも、そういう気持ちはある」
と認めてあげること。

 

そこに気づけた時、少しだけ立ち止まれるのかもしれません。
誰かを下げることで安心する以外の道を、選べるのかもしれません。

 

自分の不安を、誰かへの攻撃で処理しないこと。
集団の強さだけに、自分を預けきらないこと。
誰かを下に置いて安心するのではなく、自分の足で立てる場所を少しずつ作っていくこと。

それはきっと、すぐにできることじゃないし、簡単でもないと思います。


でも、そういう一歩のほうが、きっと静かに強い。

アンチという最短の優越感に逃げたくなる日があってもいい。


ただ、その弱さに自分で気づけたなら、そこから先は少し変えていけるのかもしれません。

私は、そういう一歩を選べたら素敵だと思っています。