人生は、コイントスのようなモノだと思う。

表か裏か。

やるか、やらないか。
右か、左か。
好きか、嫌いか。
行くか、留まるか。

ONかOFFか。
GOかSTAYか。

何に関しても、いつも二択が現れる。

人生という名の、ちょっと贅沢すぎるコイントス。

 

皆様、こんにちは。シンプル・フレーズです。

今日も世界は相変わらず冷徹で、 そして、どこか滑稽なほど美しく回っていますね。

「お金さえあれば、もっと楽しくて有意義に過ごせるのに」

一度は口にしたことがある、あるいは心の中で呟いたことがあるセリフではないでしょうか?

 

確かに、お金は「選べる選択肢」を暴力的に増やしてくれます。 

ブロンズ会員がプラチナ会員になれば、遊園地で乗れるアトラクションが一気に増えるように。

 

でもね、どれだけお金があろうがなかろうが、 私たちに与えられた時間は「1日24時間」で一律固定。 

「どれを捨てて、どれを選ぶか」という取捨選択の苦悩からは、大富豪だって逃れられません。

 

時間は有限。 だからこそ、私たちはいつも迷う。 

迷って、迷って、最後にはどこかでこう思ってしまうんです。

 

「まぁ、どっちでもいいか」

そう呟いて、私たちはコインを空へ投げる。

 

  コインは、タダで配られたものじゃない

 

私たちはよく、自分で決める代わりにコイントスをします。 

「表が出たら行く、裏が出たらやめる」みたいに。

 

でも、ちょっと立ち止まって考えてみてほしいんです。 

その手元にあるコイン、最初からそこら辺に落ちていたものでしょうか?

 誰かが無料で配ってくれたものでしょうか?

 

違うはずです。

  • 汗を流して働いた。

  • 自分の大切な時間を使った。

  • なけなしの金を払った。

  • 何かを諦め、失敗し、自分の身を少しずつ削った。

そうやって、ボロボロになりながら、ようやく手に入れたコイン。

 労働や投資という対価を支払って、やっと手に入れた「人生の選択権」です。

 

それなのに、私たちはそれを空へ放り投げて、選択権を手放してしまう。

 考えてみれば、これってずいぶん贅沢で、そして皮肉なことをしていますよね。

 

  「どっちでもいい」という、都合のいい逃げ道

 

もちろん、何でも自分の思い通りに決められるほど、人生は単純じゃありません。

生活、仕事、お金、人間関係、それぞれの立場。 

自分の欲望や感情だけで突っ走れない現実があるからこそ、私たちは迷う。

 

そして、こう思う。 「どちらでもいい」と。

 

自分で決めて失敗すれば、それは自分のせい。 

でも、コインに任せて失敗すれば「運が悪かった」と言い訳ができる。

つまり、トスをするという行為は、 選択であると同時に、責任をそっと手放すための防衛本能でもあるわけです。

 

  お金があるということの、本当の意味

 

もし、あなたの手元にジャラジャラと無限のコインがあるなら、それでもいいでしょう。

 

気に入る目が出るまで、何度でも投げればいい。

一度外しても、また投げ直せる。 失敗しても、別の選択肢を買い直せる。 

金持ちが有利なのは、「正解」をダイレクトに買えるからではありません。 

「何度でも失敗して、投げ直せる余裕(コインの数)」を持っているからです。

 

旅に行く、美味しいものを食べる、学ぶ、休む、挑戦する……。 

彼らは選択肢を買い、外したらまた次のコインを投げる。

 

じゃあ、私たちの手元にある、数少ないコインはどうすればいいのか?

 

  自分の「歪み」のフィールドで、コインを握りしめる

 

私たちの時間も、お金も、手持ちのコインも有限です。 何でもかんでもトスしている余裕はありません。

だからこそ、自分に有利な場面でだけ、そのコインを使いたい。

  • 自分が好きなこと。

  • 得意なこと。

  • 経験や、知識や、感覚があること。

他人から見れば「何が楽しいの?」と思われるような、あなただけの執着やこだわり。 

その「歪み」がある場所では、勝率は完全な五分五分(表か裏か)ではありません。

あなたが少しだけ「有利」になれるブルーオーシャンです。

 

それでも、失敗することはあるでしょう。 

好きだからといって、必ず勝てるわけじゃない。

 

けれど、自分が少しでも有利になれる可能性が1%でもある時くらいは、 コインを空に投げず、自分の意思で一歩を踏み出したい。

 

  コインが宙を舞う、その一瞬に

本当は、どっちでもよくなんかない。

コインが空中できらきらと回転しているその一瞬、 私たちは心のどこかで、強く願っているはずです。

「表が出てくれ」 「いや、やっぱり裏がいい」

その瞬間に、胸の奥底からせり上がってくるものこそが、あなたの本音。

 

コイントスとは、答えを運に決めてもらう儀式ではなく、

 「自分が本当に望んでいるもの」を炙り出すための鏡なのかもしれません。

 

せっかく対価を払って手に入れた、大切なコインです。

 

どうせ投げるなら、世界への諦めとして投げるのではなく、自分の本音を知るために。

 

 そして、ここぞという時には、ポケットの中でそっとコインを握りしめ、自分の足で進みたい。

コインは、いつでも手元にあるわけじゃないのだから。

 

……なんてね。

「敷かれたレールの上を走る人生なんてつまらない」

そんな言葉を、よく聞く。

でも、私はいつも思うんだ。

「贅沢病も極まると、そこまで美しい寝言が言えるのか」と・・・。

「自由」という名の、ノーリターンなギャンブル

 

人生のレールがあるだけ、かなり良いことじゃないか?

だって、レールって誰かが敷かないと、そこには無い。

自分が何の対価も払う前から、誰かが進む道を用意してくれている。

進学。

就職。

安定した生活。

それって、上げ膳据え膳みたいなものでしょ?

美味しくいただくのが一番じゃないか。

 

ただ、その「上げ膳据え膳」のプラチナチケットをドブに捨てる前に、一度その快適なシートに深く腰掛けて、全力で走ってみたらいいのに、と思うだけです。

  頼むから、そのおじさんを私にくれ(笑)

会社にも居るんだよ・・・。

「おじさんの紹介で入社しました」

「親が決めたところに来ました」

それで、どこに入ったの?

トヨタの正社員?

 

最高じゃん・・・

 

何が問題なん?

「別に好きじゃないんです」

「自分で決めたわけじゃないし」

「やりたいことがあるんですよ」

おっと?

え?

マジで?

 

変わってくれよ(笑)

 

くれよ、そのおじさん。

紹介してくれる人がいる。

親が進路を考えてくれる。

正社員として入れる場所がある。

将来の保障がある。

それを持っていない側からしたら、喉から手が出るほど欲しい。

 

願っても手に入らない。

最初から用意されてもいない。

レールを敷いてくれるような存在もいない。

 

だから、私からしたら、

人生舐めんな。

って思うんだ。

 

  正社員は、仕事だけしていればいい

もちろん、正社員が楽だなんて言わないよ?

激務かもしれない。

叱責も厳しいだろう。

勉強も多い。

責任もある。

忙しくて、休日は寝るだけかもしれない。

 

でもさ・・・

それだけでいいんだよ?

 

仕事をして、言われたことをして、それで来月の給料がある。

休日は休日として使える。

散財してもいい。

趣味に使ってもいい。

寝てもいい。

何もしなくても、次の給料日まで生活は続く。

 

それは、とても大きなことだ。

 

私みたいに、何の保証も無く、何の担保も無く、何の保護も無い立場だと、仕事の時間だけでは終われない。

休みの日に何をするか?

仕事の前後に何をするか?

 

結局、仕事以外の何かで未来の可能性を積み上げないといけない。

 

ブログを書く。

ニュースや情勢を調べる。

投資を学ぶ。

失敗する。

本を読む。

人との繋がりを作るために、色々な場所へ顔を出す。

声をかける。

話をする。

愛想を振りまく。

それでも、何も上手くいかない。

 

ハイリスクのノーリターンなんて日常だ。

だから、自由という言葉にも少し笑ってしまう。

自由?

好き勝手?

違う。

自由という名の自己投資にしか、時間を使えないだけなんだ。

 

  それでも、休日の価値を決めたのは私だ

ただ、ここで正社員を妬んで終わる話ではない。

私は、休日を自己投資に使うことへ、自分なりの意味と価値を見いだした。

 

何も考えず、その日暮らしを選ぶことだってできる。

 

今日が楽しければいい。

未来なんて知らない。

それも一つの生き方だ。

 

休日を散財に使うのか。

趣味に丸投げするのか。

自分を満たすために使うのか。

未来のために自己投資するのか?

 

どれが正しいなんて話じゃない。

有意義に物差しを作らせるな。

私はそう思う。

 

コンサートに7900円を払って、自分に酔えたなら、それは最高に有意義だ。

花束を贈って、意味を乗せられたなら、それも最高に有意義だ。

結果じゃない。

行為じゃない。

可能性じゃない。

満足して、良かったと思えたなら、それでいい。

 

意味と価値は、言い訳をする理性が決める。

存分に自分を満たして、自分に浸れる言い訳を作ればいい。

それが、自分の時間を自分のものにするってことだと思う。

 

  才能とは、呪いのような個性でもある

私は「レールがあること」も「レールが無いこと」も一種の才能だと思っています。

ただ、みんな「才能」という言葉を綺麗に解釈しすぎなんですよ。

 

 頭が良いとか、絵が上手いとか、そんな輝かしいものだけが才能じゃない。

  • 嫌われる才能

  • 逃げ出す才能

  • 波乱に巻き込まれる才能

  • 苦労を背負い込む才能

良くも悪くも、その人が持って生まれてしまった、剥がせない個性。 

他人がその都合のいい一面だけを切り取って「才能」と呼んでいるに過ぎない。

 

だから、レールがないことも、私のこの波乱に満ちた日々も、持って生まれた個性(才能)なんです。 

公平じゃないし、妬ましいけれど、これが私の手札。

 

私は持っていないから、持っている人を羨む。

変わってくれよって、本気で思う。

でも、私の波乱が才能で、個性で、センスじゃないなら、きっと私は価値の無い存在になる。

だから、私は私の波乱を、私の才能として使いたい。

 

もし、この泥臭い波乱を「私の才能、私のセンス」とでも言い訳して抱きしめなければ、私はただの価値のない存在になってしまう。だから、私は私の呪いを、才能として使い倒すしかないんです。

 

  レールの上でも、荒野の上でも、「美学」は作れる

ただ、正社員を妬んで「世界は不条理だ」と寝そべるつもりはありません。

そんなトーナメントみたいな生き方は退屈です。

 

人生は誰かと競う戦いではないし、答え合わせもありません。 

 

他人のレールをいくら呪って壊したところで、自分の足元に新しい道が湧き出てくるわけじゃない。

結局、自分の立たされた場所から、何かを投げ込むしかないんです。

レールの上だろうが、何もない草原だろうが、泥沼だろうが。 

 

「与えられた枠組みの中で、どうやって走るか」の意味と価値は、いつだって自分の理性が決められます。

 

たとえば、コンサートにチケット代を払って、最高に自分を酔わせられたなら、その時間は有意義。 

 

別に贈らなくても誰も困らない花束を、あえて誰かに贈って自己満足に浸れたなら、それも最高の価値。

結果なんてどうでもいい。 存分に自分を満たして、自分に浸れる「言い訳」を自分で作ること。

 

それこそが、自分の時間を自分のものにするという、最も手堅くてクールな【美学】です。

 

  与えられた才能を、価値の無いものにするな

生まれる場所も、親も、最初に立たされるステージも選べません。 

選択肢なんて、最初からほとんど用意されていないのが現実です。

 

レールがあるなら、捨てる前に走ってみてほしい。

レールが無いなら、投げ出す前に賭けてほしい。

 

だって、それしか選択肢が無いんだから。

持っているものは選べない。

持っていないものも選べない。

でも、持っているものをどう使うか。

持っていない場所で何を作るか。

その時間にどんな意味を与えるか。

そこには、自分の美学を入れられる。

 

レールの上でも、どう走るかは自由だ。

レールが無くても、進むか佇むかは決められる。

人生を舐めるな!!

 

レールがあるなら、捨てる前に限界まで加速して走ってみればいい。 

レールがないなら、投げ出す前に、その不毛な荒野に命を賭けてみればいい。

それが、与えられた才能を、自分の人生に変えるってことなんだと思う。

 

人生を舐めずに、淡々と、だけど最高に明るく、自分の持っている「呪いのような才能」を使い切ってやりましょう。

先日、Feverが企画する「キャンドルライトコンサート」へと足を運んだ。

なんとも大人な雰囲気なのに、心をくすぐるセンスがあって、鮮やかな曲と佇まいと空気に満たされていた。

 

そこに居るだけで、

「いい所に来たな」

っていう自負と自己満に満たされる。

そんな空間だった。

 

自分が自分に酔うために用意されたような場所。

 



久石譲とジブリの音色が教えてくれた、キャンドルの下の上質な1時間

無数のキャンドルが揺らめく闇の中に、突如として浮かび上がる弦楽四重奏のストイックな佇まい。

なんとも大人な雰囲気でありながら、こちらの心をくすぐるセンスに溢れた、鮮やかな曲と空間。

 

正直に言えば、単に「演出が凄かった」「豪華だった」という言葉だけでは、

あの場所の本当の価値は伝わらない。

 

そこに身を置いているだけで、「今、自分は極めて上質な場所に来ている」という静かな自負と自己満足にじわじわと満たされていく。

 

そう、ここは音楽を消費するだけの場所ではない。

「自分が自分に酔うため」に、完璧にお膳立てされた空間なのだ。

 

  音楽を聴く場所ではなく、音楽を「空間ごと」感じる場所

美術館で額縁に収まった作品を見て感嘆するのとは違う。

かと言って、ライブやフェスで大衆の圧倒的な熱量に巻き込まれるのとも違う。

 

耳で音楽だけを楽しむのではなく、揺らめく光、重厚な空気、演者の佇まい、そのすべてが一体となった世界を五感で感じる、じつに斬新なエンターテインメントだった。

 

あのキャンドルの海の中に、自分さえも一つの演出の一部として溶け込んでいくような感覚。

他者と熱狂を共有するのではなく、研ぎ澄まされた空間の美意識と、自分の感性が一対一で静かに響き合っていた。

 

  久石譲とジブリがもたらす「不在の歌」

今回のプログラムは「久石譲の世界」。

誰もが一度は耳にしたことのある、ジブリの名曲たちだ。

 

弦楽器が奏でる旋律は、どこか懐かしく、同時に瑞々しいほど新しい。

歌い手がいない引き算の編成だからこそ、歌詞がないはずなのに、私たちの脳裏には言葉にならない感情や愛着が「歌」として聞こえてくるから面白い(笑)

 

『人生のメリーゴーランド』(ハウルの動く城)

映画の視聴回数が多いわけでも、一番好きな作品というわけでもない。

それなのに、重厚なワルツが響いた瞬間、闇の向こうに案山子のカブがピョンピョンと跳ねて踊る姿が鮮明に見えよ私にはね(笑)好きだから感動したのではない。

音楽の力によって、強制的にあの世界へと引きずり込まれたのだ。

 

『君をのせて』(天空の城ラピュタ) 

一番好きなジブリ映画からの選曲。

切なくも壮大なメロディに胸が震える。と、同時に、ふとロマンのある妄想が頭をよぎった。

「もし、パズーが早朝に吹くトランペットの曲(ハトと少年)を、この贅沢な弦楽アレンジで聴くことができたら……」

なんて(笑)

そんな贅沢な「if」を夢想したくなるほど、あの空間は優しかったね。

 

『となりのトトロ』 

これに関しては、もう降参するしかない(笑)思い出が多すぎるのだ。

これまでの人生で一体何度観てきただろうか。

チェロやバイオリンの音が響くたび、闇の向こうを猫バスがどれだけのスピードで疾走していったか、もう数え切れないwww

音楽を聴いて映像を思い出すんじゃない💦

すでに音楽の中に、私たちの記憶の映像が住み着いているからたまらないwww

 

他にも、千と千尋やもののけ姫やナウシカ、どれも素敵な演奏だった!

 

  「1時間、7,900円」という投資の正体

チケット代は7,900円。決して安くない。1時間という時間に対してこの数字だけを見れば、

高いと感じる人の方が多いかもしれない。

 

しかし、私にとっては間違いなく価格以上の満足感だったよ!

私が買ったのは、単なる1時間の演奏じゃない!

日常の手垢がついた現実から完全に隔離され、少し特別な場所にいるという実感、そしてその時間を過ごしている自分へのホスピタリティ。

それらすべてをパッケージした価格が7,900円なんだ!

 

一人でストイックにこの美意識を咀嚼する良さもあるし、

次は誰かと一緒に来て、この贅沢な空気の振動を共有したいとも思えたね。開いていないけどwww

 

それくらいに満たされた時間だった!

最高です👏

 

  贈り物と、受け手が作り出す「価値のロマン」

きっと、あの空間にいた人それぞれに、全く違う感想と時間の流れがあったはずだ。

 

それは、誰かにプレゼントを贈る時の心理に似ていると思う。

 

自分の好みを贈るのか?相手の好みを贈るのか?

残る物か、消える物か?

そこには贈る側の価値観や性格が色濃く反映される。

 

私は、花を贈ることが好きだ。

花は一番スタンダードに見えて、実は一番選びにくい。

かさばるし、実用的な使い道もないし、いつかは枯れてしまう。

 

それでも私は花を選ぶ。役に立つから、必要だから渡すのではない。

そこに「意味」と「価値」を見出だす。

 

それこそが男のロマンだと思うからだ。

 

価値とは、あらかじめ決まっている物ではない。

受け取る側がそこに何を見出すかによって、初めて作り出される尊さなのだ。

 

このキャンドルライトコンサートも全く同じだ。

純粋に自己満足に浸るのか?

誰かへのプレゼントにするのか?

あるいは単なる「映え」の演出として消費するのか?

 

すべては自分次第。

 

同じ場所に居ても同じ時間にはならないし、同じ曲を聴いても同じ景色は見えない。

だからこそ、私は私なりの受け止め方で、この時間を最高に贅沢なものへと仕立て上げたんだ。

 

  緩やかなのに、あっという間

時間の価値は相対的だ。 あの空間では、とても緩やかな時間が流れていた。

静かで、何者にも急かされることなく、一つひとつの音の粒子に深く浸ることができた。

 

それなのに、終わる時は一瞬だと感じたね。

「もう少し、あと少しだけ」と感じるほどに名残惜しい。

 

緩やかだったのに、短かった。満たされたのに、もっと欲しかった。

それは決して物足りなかったからではない。

あまりにも満たされていたからこそ、その世界の終わりを拒みたかったのだ。

 

時間の価値は、長さではない。その時間の中で自分が何を感じ、何を見て、何を持ち帰ったのか。

そして、その時間の中にいる自分をどれだけ愛せたか。

キャンドルライトコンサートは、美しい音楽を聴く時間だった。

 



しかしそれ以上に、「自分が自分に酔うための、最高に愛おしい時間」だったのだ。

自分で自分の時間を演出する。

誰かの企画で演出で、ただの興行だったとしても・・・

その時間から何を受け取るのか?って言うのは、やっぱり自分次第なんだと思う。

素敵な時間をくれた企画に感謝です。

「粋」って、素敵な響きだと思う。

清々しくて、軽やかで、格好いい。


それなのに、「いきってる」って言うと急に調子に乗っている感じになる。

同じ音なのに、向いている方向がまるで違う。

 

「粋」は、見せつけない。

「いきがる」は、見せつけたい。

たぶん私は、ずっと「いきがって」いたんだと思う。

粋に憧れた時点で、私は野暮だった

「粋(いき)」っていう言葉について、ちょっと深く考えてみまてね。 

 

江戸っ子の「傘傾げ(狭い路地で傘を傾け合う気遣い)」とか、

「宵越しの銭は持たない」みたいな、あの執着のない、サラッとした格好よさのことです。

 

「粋って格好いいよなぁ」なんて思いながら、ふと、自分の胸の内を覗き込んでみたんです。

そしたらね。 出てくる、出てくる・・・

 

「他人からどう見られているか」を気にする自意識。 

リアルな日常では、周りに合わせてちょっとポンコツな自分を演じてみたり。 

ネットの世界では、ちょっと冷徹で格好いい視点を持った自分を演出してみたり。

 

……いやいや、俺。 めちゃくちゃ「いきがってる」じゃん(笑)。

 

  見せつけたい自分

「いきる(調子に乗る、格好つける)」と「粋(いき)」。 音はそっくりなのに、中身は真逆。

 

「粋になりたい!」と意識して、自分の立ち居振る舞いを整えたり、

他人のマナーを評価し始めた瞬間、そこには強烈な『執着』が生まれます。

 

「あいつは分かってない」なんて他人に言った瞬間、それこそが一番の「野暮」になっちゃう。

つまり、「粋を求める人」は、だいたい自動的に野暮になるっていう、恐ろしいパラドックスがあるんです。

 

何かを残したい。
誰かに認められたい。
格好よく見られたい。
自分には意味があるんだと証明したい。

そんな気持ちで、ネットの世界で言葉を並べて、シンプルフレーズなんて名乗って、少しでも格好をつけようとしている。

 

適当で、おっちょこちょいで、ミスの多い人間を演じているようで、実際にもその通りで。


そして、その自分にまた言い訳をしている。

ああ、これは粋じゃないなと痛感したね。

 

粋に生きたいと言いながら、粋を目指した時点で、私はもう最低に野暮だった(笑)

  粋は、他人を裁かない

本当に野暮な人は、自分が野暮であることに気づかない・・・?

 

大正時代の哲学者・九鬼周造は、その著書『「いき」の構造』の中で、粋の条件の一つに「諦め(あきらめ)」を挙げました。 これは絶望するという意味じゃなくて、思い通りにならない現実や、自分の不完全さを「まあ、しょうがないよね」と、大人の余裕で手放すことです。

 

「格好つけたい自分」や「他人の目が気になる自分」を否定するんじゃなく、

「人間だもの、そりゃあ評価されたいよね(笑)」と、諦めを含んだ明るさで受け入れる。

それこそが、ガチガチのルールに縛られている人よりも、よっぽど風通しが良い。

 

傘傾げっていう所作もそうだ。

雨の日、狭い路地ですれ違うとき、ひょいと傘を外側に傾ける。


水滴が相手にかからないようにする。

それは素敵だ。


でも、それを「マナー」にした瞬間、少し息苦しくなる。

「あの人は傘傾げをしなかった」
「あの人は分かっていない」
「あの人は粋じゃない」

そんなふうに他人を裁き出したら、それこそ野暮だ。

 

粋って、他人を評価するための物差しじゃない。
自分の中にそっと置いておく美意識なんだと思う。

  【古典落語】『芝浜』の奥さんが粋だった理由

落語の「芝浜」を思い出す。

(最近、タイガー&ドラゴン見ましたからね(笑))

奥さんは、夫を救うために嘘をつく。
現代的に見れば、かなり強いお節介かもしれない。

でも、粋なんだよ!!

最高に粋なんだよ!アレが粋なんでしょ!

 

だって、最後に「あんたのためにやったんだよ」と言わないから🤪

「私がいなかったら、あんたはダメだった」
「感謝しなさい」
「私が正しかった」

そんなことを言わない。

 

出てくるのは、「ごめんよ」なんだ。

助けたのに、勝たない。
正しかったのに、誇らない。
愛していたのに、支配しない。

これがかっこいい!!

 

  結局、いきがって生きていこうぜ

私たちはロボットじゃないから、明日から急に「何も執着しない、完璧に粋な人間」になんてなれません・・・。

 

 明日もきっと、誰かの目を気にするし、ちょっと格好つけるし、心の中でいきがる。

だけど、それでいいじゃん?と。

 

「できたら素敵、されなくてもドンマイ」 そんな風に、

自分の格好悪さもひっくるめて「ドンマイ!」と笑い飛ばしながら、

今日も他者評価の海を、バタ足で軽快に泳いでいこうと思います。

 

だって、自分の「いきがり」を笑える心こそが、何より一番、粋なんだから。

 

せめて「あんたのために」と正しさを振りかざすより、
「ごめんよ」と言える人間に憧れていたい。

粋に生きるって、そういうことなのかもしれない。

  感情には、向かいやすい先がある

感情には、それぞれ向かいやすい先があるのかもしれない。

 

たとえば、怒り。

怒りは本来、自分を傷つけた相手や、理不尽な出来事に向かうものだと思う。
でも実際には、怒るべき相手に怒れないことがある。

立場が上の人。
逆らえない相手。
関係を壊せない相手。
言っても変わらないと分かっている相手。

そういう相手には怒れない。

だから怒りは、別の場所へ流れてしまう。
自分より弱い相手。
言い返してこない相手。
身近で、逃げずにそこにいてくれる相手。

その時、表に出ているのは愚痴や不満に見えるかもしれない。
でも本当は、向けどころを失った怒りなのかもしれない。

 

喜びは少し違う。

喜びは、自分と近い温度の人に向かいやすい。
同じくらいの環境。
同じくらいの状況。
同じくらいの目線。

そういう人には、素直に「嬉しい」と言いやすい。

あまりにも上の人に話すと、報告や評価待ちになる。
あまりにも下の人に話すと、自慢のようになってしまう。
だから喜びは、分かち合える相手を探しているのかもしれない。

 

悲しみは、自分の内側に向かいやすい。

悲しい時、人は黙る。
考え込む。
過去を思い出す。
自分を責める。
一人の時間に沈んでいく。

でも不思議なことに、悲しみは内側に向かうのに、周囲にも漏れてしまう。

言葉にしなくても、表情に出る。
態度に出る。
沈黙に出る。
笑顔の弱さに出る。

悲しみは隠しているつもりでも、完全には隠しきれない感情なのかもしれない。

 

楽しさや笑いは、上の人に向ける表現になることがある。

場を和ませるため。
関係を壊さないため。
嫌われないため。
自分をよく見せるため。

本当に楽しいから笑っている時もある。
でも、笑わないとその場にいられないから笑っている時もある。

笑顔は優しさでもある。
気遣いでもある。
そして時には、自分を守るための表現でもある。

  感情を見る時は、表面だけでは分からない。

怒っているから怒り。
笑っているから楽しい。
黙っているから平気。
愚痴を言っているから不満。

そんなふうに簡単には決められない。

 

大切なのは、その感情がどこに向かったのかを見ること。

 

誰に向けたのか?
どう向けたのか?
誰の前でなら出せたのか?
誰の前では出せなかったの?

感情は、心の中だけにあるものじゃない。
相手との関係の中で、形を変えて表に出てくるものなんだと思う。

感情っていう分かりにくいモノを、救い上げるために見つめる先

感情って難しい。

怒り、悲しみ、喜び、楽しさ。
言葉にすれば簡単だけど、実際の心の中はそんなに単純じゃない。

 

自分では「ただの愚痴」だと思っていた言葉が、
本当は向けどころのない怒りだったのかもしれない。

 

笑って頷いて、愛想よく振る舞っていたつもりが、
本当は自分の悲しみや辛さを誤魔化していただけかもしれない。

 

誰かと誰かの不満を並べて話していた時、
本当に欲しかったのは正論や解決じゃなくて、
「分かるよ」という共感だったのかもしれない。

 

感情は、そのままの形では表に出てこないことがある。

怒りが愚痴になる。
悲しみが笑顔になる。
辛さが愛想になる。
寂しさが共感探しになる。

だから、感情を知るには、
「私は何を感じているんだろう」と内側だけを見るよりも、
その感情をどこに向けたのかを見ることが大切なのかもしれない。

 

誰に向けたのか?
どう向けたのか?
誰の前でなら出せたのか?
誰の前では出せなかったのか?

 

子供に言った言葉。
同僚や友人との何気ない話題。
なんとなく敬意を払う相手に見せる笑顔。
一人の時に思い出してしまう過去。

 

そこには、自分でも気づいていない感情の欠片が残っている気がする。

 

でも、それは無理に向き合うものではないと思う。

「向き合え」と言われると、少し苦しい。
正面から見ろ、逃げるな、ちゃんと理解しろ。


そんな圧を感じてしまう。

私が思うのは、向き合うというより、救い上げる感覚だ。

 

沈んでいるものを無理やり掘り返すんじゃない。
水面に浮かんできたものを、そっとすくうように見つめる。

知ろうとしすぎない。
深掘りしすぎない。
すぐに名前をつけようとしない。

 

ただ、見つめる。

「あの言葉は、誰に向けていたんだろう」
「あの笑顔は、本当に自分に向けられていたんだろうか」
「あの沈黙には、何が隠れていたんだろう」
「あの不満は、怒りだったのか、寂しさだったのか」

そうやって見つめることで、
感情っていう分かりにくい内側のものが、
少しだけ形を持ちはじめるのかもしれない。

 

そして、それは自分だけの話じゃない。

相手の感情だって、本当は簡単には分からない。

向けてくれた笑顔が、
私に向けられたものなのか。
周囲に対するアピールなのか。
相手自身を守るためのものなのか。

それを勝手に決めつけることはできない。

 

でも、表面だけを見るのではなく、
その人との関係の中で、その表現を見つめることはできる。

 

感情を理解するって、
きっと正解を当てることじゃない。

 

その表現がどこから来て、
どこに向かっていて、
どんな形で表に出てきたのかを、
決めつけずに見つめることなんだと思う。

感情は不安定で、分かりにくくて、表現しにくい。

 

だからこそ、無理に暴かなくていい。
無理に整理しなくていい。
無理に答えを出さなくていい。

ただ、見つめる。

 

自分が誰に何を向けていたのか?
相手が自分に何を向けていたのか?

 

その先に、
自分の感情を知るキッカケがあるのかもしれない。

そして、相手の感情を決めつけずに見るための、
ほんの少しの優しさもあるのかもしれない。

感情っていう分かりにくいモノを救い上げるために、
私たちは、表現されたその先を見つめる必要があるんだ。