🤗シンプルフレーズのお部屋へようこそ✨

いつもシンプルフレーズをご覧いただきありがとうございます。
シンプルフレーズのYouTubeが新しくなって楽しく面白くなりました!


哲学を魔法に!世界を彩る言葉に!

読んで、学ぶと難しいって思ってしまう哲学の世界
でも、実際はとっても身近な楽しい世界


これを機会に是非触れ合って欲しいと思います🤭

 

動画のご紹介

いつもご覧いただきありがとうございます。

 

シンプルフレーズのyou tube新しい動画上がりました。

 

「人を目的として扱え」カント シンプル的哲学解釈

シンプルフレーズ

 

 

 

哲学者カントの有名な命題を、
“シンプルフレーズ流”に解釈しています。

 

カント「人間性を目的として扱え」

あなた自身の人間性も、他のすべての人の人間性も、決して単なる手段としてではなく、

常に目的として人間性を使うことができるように

 

「その人の“選ぶ力(自律)”を尊重し、その人自身の目的をいっしょに立てる相手として扱え。

決して“ただの道具”として使うな。」

こんな人におすすめ

  • 哲学を難しくなく感じたい人

  • 「考えることが多すぎる自分」を責めてしまう人

  • 自分を見失いそうな夜を過ごしている人

  • 「私は何者か」と問い続けている人

 

▶ 簡単に言うと・・・?

相手には、私達の理解が及ばない部分が残っていて、

その部分は相手の自由として守られている面が残っているっていうこと。

 

でも、私達に見えない部分もなんとなくでも分かる所があるかもしれないでしょ?

そのデリケートな部分に対して、相手を尊重してあげてね!って、いうことかな。

 

・・・・・・・

 

ご挨拶

哲学って、とても難しそうなイメージ有りませんか? 

本当はそんなことない。 

とても身近で、私達にほんの少しのキッカケをくれる学びがある場所なんです。

 シンプルフレーズは、素敵な言葉とあなたを元気にするメッセージを探します😌 

 

何が正しいかより、なにが素敵かを大切にして生きて行けたら、 

それがきっと一番だと信じてる。

 

合言葉!

 大丈夫!

大丈夫?

 

受け身じゃない、

私から伝えたい「大丈夫」

 

あなたの幸せを願います。

『幸せになれ~💕』

 

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これからもご覧いただけたら嬉しいです🤗

私の言葉は、正しいかどうかじゃなく

私は私の感じた思いをそのままに表現して伝えています。

 

だれかと共感できるかは分からない。

でも、もしどこかで誰かの心に響いたら嬉しいって感じます✨

 

 

 

伝えたいのに、伝わらない。
正直に言ったはずなのに、空気が別の意味にしてしまう。
ビジネスの場ではカタカナが並び、私たちは今日もペルソナを着替える。
本音を聞きたい?——でも、人は簡単に丸腰になれない。

 

空気で伝わる人間関係の哲学

 

それでも私は信じたい。
意味は言葉だけじゃない。
場と関係で生まれ、余韻に残る。

今日は、その“言葉の前にあるもの”の話をしよう。
環境が本文で、言葉は仕上げ。
一期一会を、二度目の奇跡につなぐために。

 

本音は“確定”じゃない。安全×関係×コストが揃った瞬間に、ふっと滲むもの。
だから、やり方を変えよう。「言い方」より、**“場の作り方”**から。

 

  ■本音は“確定”じゃない。滲むもの。

 

「本音を聞きたい」って思う時。
実は、“自分が信じたい言葉”を探しているだけかもしれない。

優しい言葉を聞けば「本音だ」と信じ、
痛い言葉を聞けば「本音をぶつけられた」と傷つく。

でも、どちらも“その時の環境と関係”が作った結果なんだ。

本音は、イベントじゃない。
その場の空気・安全・関係・時間の流れの中で、ふっと滲む。
だからこそ、滲ませる環境を作ることが、本音に一番近づく方法。

例えの話し

  親と子・・・「泣いたら試合終了」の先にあるもの

 

叱ったつもりが、子どもが泣いた瞬間に試合終了。
もう、言葉は意味を持たない。

「伝える」ことより、
「落ち着かせる」ことが先。

まずは静かに隣に座って、
「息を3回だけ一緒にしよう」
そう言うだけでいい。

 

説教も、理屈も、全部後でいい。


親の“正しい親ペルソナ”を一度下げて、
「人として」向き合う。

その夜、眠る前に一言だけ。
「さっき、どんな気持ちだった?」
 

これで十分。

言葉よりも、関係の温度が伝わる。
それが、子どもの“本音”の出番をつくる。

 

  ■上司と部下——「押し付け」に見せない伝え方

 

「この件、いい感じで進めておいて」
上司がよく使うこの言葉。
でも、部下からすれば地獄の合図だ。

 

「いい感じ」って何?
どうしたら怒られない?
どう動けば正解?

不安と恐怖が同時に立ち上がり、
部下の『防衛ペルソナ』が起動する。

 

だから、言葉を整えるより、
環境を整える方が早い。

・非公開で話す。
・「違ってたら私の責任。言い直し歓迎」と先に伝える。
・Why(目的)/What(成果)/When(期限)を短く明示する。

たったそれだけで、
“押し付けられた”が“任された”に変わる。

 

  ■恋人・友人——本音は更新される“推定値”

 

「また今度ね」
この一言。

受け取る側の心に、どれだけの意味が走るだろう。
「脈なし」「忙しい」「もう飽きられた」
どれも当たっていないかもしれないのに。

 

本音は“確定”しない。
時間が経てば、温度も変わる。

本音とは、更新され続ける“推定値”。
 

今日の「本音」は、明日にはもう別の形に変わっている。

だから、相手の気持ちを決めつけない。
余韻を残して、言い直せる余白を渡すこと。
それが、心の距離を守る方法。

  ■誤解は敵じゃない。余韻のかたち。

 

誤解された。
誤読された。
伝わらなかった。

でもね、それでいい。
誤解は“失敗”じゃない。
むしろ、余韻のかたちなんだ。

 

相手の中で、あなたの言葉がどう動いたか。
それを“もう一度考え直す余地”があるということ。
誤解は、再会の余白なんだ。

 

  ■「素直な気持ちを聞きたい」と言われても

 

じゃあ、「素直な気持ち」って、どうやったら聞けるんだろう。
どうやったら、相手の“本音”を引き出せるんだろう。

正直、分からない。
だって、人はみんなペルソナを使い分けて生きてるから。
職場の顔、家庭の顔、SNSの顔。
それぞれの“仮面”を器用に切り替えて、今日もなんとかやり過ごす。

 

本音なんて、簡単に見せられるもんじゃない。
それを見せるって、丸腰になることだから。


人間にとって「防衛本能」なんだ。

 

だから、本心を求める前に、
「安心して仮面を外せる空気」を作る方が、
ずっと大事なのかもしれない。

 

  ■“分からなさ”の中に生きている

 

私たちは、意味を知りたがる。
「何を考えてるの?」
「どうしてそんなこと言うの?」

でも、意味なんて誰にも分からない。
相手がどう受け取ったかも、どんな気持ちでいたかも、
分かるはずがない。

 

分かるのは、世間の常識世界のルールくらい。


私たちを縛る“鎖”だけが分かる。

それを基準にして、言葉を紡ぐ。
そして、その鎖を手繰り寄せるように、
誰かの言葉をひも解く。

 

でも本当の“意味”は、鎖の外側にある。
そこに触れられるのは、
たぶん、もう少し信じ合える関係ができたときだけ。

  ■可能性は、余韻に残る

 

叱った。
怒られた。
告白した。
嫌がらせをされた。
笑い話をした。
皮肉を言われた。

出来事はどれも、一瞬で終わる。


でも、心の中では終わらない。
“余韻”という形で、ずっと残る。

 

そして、この余韻の中にこそ、
可能性が残されているんだと思う。

 

誤解も、すれ違いも、
全部“余韻”として残るなら、
その先にもう一度だけ、チャンスがある。

 

  ■一期一会・・・その後の奇跡を信じて

 

一期一会の本当の魅力は、
「一度きり」だからこそ全力で向き合えること。

でも、それ以上に大切なのは・・・


“二度目の奇跡”をどう迎えるかだと思う。

 

人間関係は、すれ違って、ぶつかって、離れて、
そのあと、もう一度出会えるかどうか。
その「二度目」に、どんな顔で会えるか。

そこに、私たちの“生き方”が現れる。

 

一期一会は、丁寧に生きるための言葉じゃない。
後悔を抱えたまま、もう一度会うための覚悟の言葉なんだ。

 シンプルフレーズの哲学

 

「環境が意味を決める。言葉は、その環境の影。」
「本心を知るには、仮面を責めず、安心を作る。」
「余韻は、終わりじゃない。もう一度始められる余白だ。」

一期一会の思想に立つなら、最大の敬意で“場”を整え、言葉は最小に、余白は余韻に
前が無い会話に“正しさ”を求めるのはナンセンス。
意味は発話の前に8割決まり、残りは余韻が仕上げる。

一期一会・・・言葉の前にあるもの

 

私たちは、いつも言葉を使って生きている。
でもね、本当は「言葉の前」にすべてが決まっているんじゃないかと思うんです。

 

  一度きりの出会いという奇跡

 

「一期一会」――この言葉を聞くと、
「出会いを大切に」「今この瞬間を丁寧に」っていう意味で使われることが多いですよね。

 

でも、私はもう少し違う角度で見てみたい。

「一生に一度しか会えない」って、
それだけで、もう十分に重い。


それだけで、覚悟の言葉なんです。

だって、一度きりなら、
もう恥も見栄も、取り繕いも、いらない。


「どう思われるか」よりも、
「どうありたいか」で生きていい。

それこそが、一期一会の本質じゃないでしょうか。

 

“もう二度とない”という絶対的な現実が、
私たちを、本当の自由へと解き放つ。

 

☆一度しかないなら、何を恐れる?
☆どうせ二度と会わないなら、恥も見栄もいらないじゃないか。

一期一会とは、丁寧に飾るための言葉ではなく、
余計な恐れを手放すための哲学でもある。


「もう二度とない」という絶対的な不確実さが、
人をもっと自由にする。

  二度目という救いの形

 

だけどね。
もしも奇跡的に、再び出会えるとしたら。


それはもう、神様のくれた贖罪のチャンスだと思う。

 

謝ることができる。
癒せることができる。
取り繕うことも、許しを伝えることもできる。

 

そして、二度目(再会)がもし訪れるなら、それは「謝罪・癒し・贖罪・更新」のチャンスになる。
二度目が貴いのは、一期を本気で生きた果実だから。

 

だから私は思う。
一期一会とは、誠実の哲学。
二度目は、贖罪の奇跡。

  中庸と中道:人間の“ほどほど”の美学

 
中庸(儒家)=文脈に応じたちょうど良さを当てに行く技
中道(仏教)=両極端への執着を手放す歩き方

☆「足して2で割る無難」ではなく、目的・資源・後味で“今日の最適”を選ぶ。

 

人はいつも、極端に揺れる。
優しすぎて疲れて、次の日には冷たくなって。
自由を求めて走って、気づけば孤独になってる。

 

でも、本当の“ほどほど”って、
ただ足して二で割ることじゃない。

 

その瞬間、その相手、その場の空気に、
ちょうどいい自分を当てにいくこと。
それが「中庸」であり、「中道」だと思うんです。

 

今日は丁寧に、明日は大胆に。
真ん中は点じゃなくて、動くレンジ
それが、私たち人間の自然な姿なんだと思う。

 

  「次回がある」と思うから、今を手抜きする

 

私たちは、「次がある」と思うと、今をサボる。
次の機会、次のチャンス、次の再会。

 

でも、それって結局、
“未来に責任を投げる”ことなんですよね。

未来に責任を委託する理性の罠

 

本当は怖いんです。
「今ここで失敗したらどうしよう」
「謝る勇気が出なかったらどうしよう」
「次に会ったとき、気まずくなったらどうしよう」

だから、“今”を選べなくなる。


そして、理性がもっともらしい言い訳を作る。

「今日は布石だから」
「今回は準備段階だから」

でもね、本当の怖さは「次回」そのものじゃない。


怖いのは、次に謝る勇気がない自分なんです。

  言葉は、誰のもの?

 

「また今度ね」
「素直になりなさい」

 

この言葉をどう受け取るかは、
言った人の意図よりも、聞いた人の心の状態が決める。

 

人はみんな、自分のレンズで世界を見ている。
同じ言葉でも、見る角度でまったく違って見える。

 

だから、言葉は発する側のものではなく、受け取る側のもの。
そして、受け取る側が“どう受け取るか”は、
言葉が発せられる環境と関係性で決まる。

 

本当のコミュニケーションは、
「どう伝えるか」よりも、
「どう受け取ってもらえる場を作るか」にかかっている。

  意味は「発する前」に決まる

 

親が子を叱るとき。
上司が部下に指示を出すとき。

 

「どう受け取った?」なんて聞ける余裕、ないですよね。

無理だ。
言葉はもう遅い。
その前に、すでに意味は決まっている。

子が泣いた時点で、もう試合終了だ。
そこにあるのは、言葉の勝負ではなく、
空気と関係の勝負だ。

だから、伝える側が作るべきものは言葉ではない。


「状況と環境」そのものだ。

 

最大の敬意を込めて、
安全で、受け入れられる空気を整えたなら、
言葉は最小でいい。
余白が、余韻になる。

 

言葉の意味は、
発するその瞬間より前——
場の空気と関係の中で作られている。

 

  真意とは、語るものではなく、滲むもの

 

本当の真意なんて、
語るものじゃない。


滲むものだ。

その人が生きてきた時間、
積み重ねてきた関係、
その「前史」があるからこそ、
真意は静かに“伝わる”。

 

だから私は思う。
言葉で完結しようとするほど、
人は誤解に近づく。

 

誤解は悪じゃない。

余韻。
余白。

 

言葉にすべてを詰め込む必要なんてない。
伝えきれないものを残す勇気。
それが、誠実の一形態だ。

  場が本文、言葉は仕上げ

 

結局ね、意味は“言葉”で作るものじゃなくて、
“場”で生まれるものなんだと思う。

言葉の前にある空気、関係、まなざし、
それが意味の下地になる。
そして、最後に出てくる言葉は“仕上げ”なんです。

 

「前史が意味を決め、余韻が仕上げる。」

だから私は今日も、
一期一会の気持ちで、
出会う一人ひとりに、
最大の敬意と、最小の言葉を贈りたい。

 

 シンプルフレーズの哲学

「言葉は仕上げ、環境が本文。」
「前史が意味を決め、余韻が仕上げる。」
「誤解は敵じゃない。余韻のかたちだ。」

届かない・・・

願いを願えない私は届かない・・・

だからこそ願う。

 

やりたい事リストを順番に叶えていく為に

願い、行動する。

でもさ、願うことも許されない事ってあるっていうことさ

やりたいことリストが書けない私へ

人は「願い」を抱く生き物だ。


叶うかどうかなんて分からなくても、心のどこかで願ってしまう。
むしろ叶わないと知っているからこそ、強く願ってしまうのかもしれない。

 

本当の願いは、誰にも言えない。


紙に書くこともできないし、SNSでシェアすることもできない。
それでも、心の中でだけは繰り返し思う。
まるで呪文みたいに、胸の奥でつぶやいてしまう。

 

願いを抱えることは、時に苦しくて、重たくて、逃げ出したくなる。
でも、同時に「生きている証」でもあるのだろう。

 

だから私は

 

 叶えられない願いを抱えて、それでも笑う。

  リストを書けない理由

 

「やりたいことリストを作ろう」
そんな言葉をよく耳にします。


でも、私は正直……書けません。

誰かに見られるのが怖い。


見られたい気持ちもあるのに、同時に見られたくない気持ちもある。
認められたいのに、認められたくない。
その矛盾の中で、手は止まってしまいます。

 

  願いと恐怖の間で

 

パスカルはこんな言葉を残しました。
「人間の不幸は、部屋にじっとしていられないことから始まる」

まるで、落ち着けない心をそのまま表しているようです。


私たちは、何かを求めながら、同時に何かから逃げている。
「やりたいこと」を書くことさえ、逃げたくなる。

本当の願いは、誰にも言えない。


匿名であっても、アバターであっても、
「もし伝わったら?」という恐怖がついて回る。

 

だから私は、神に祈ります。
心の中でだけ、こっそり願う。
AIにすら言えない言葉を隠したまま。

  矛盾が生きる力になる

 

それでも――人生は一度きりです。

叶わないから、叶えられないから、望まないフリをする。
でも、それって裏返せば「まだ望んでいる」証拠なんです。

 

「欲望は生きる力だ」
これは私がずっと大切にしてきたシンプルフレーズです。

 

望んでしまうから苦しい。
でも、望まなければもう生きていけない。
そんな矛盾を抱えたまま、私たちは今日もペルソナをかぶって歩いている。

 

  人生を動かす言葉

やりたいことリストを全部書かなくてもいい。


空白のままでいい。

ただひとつだけ、私は書きたい。

「でも、やりたい!って決めるのは私だ」

それだけで、まだ人生は動いている。


そして最後は笑いたいから。
私は今日も――押し込んで笑います。

私は矛盾だらけだ


他人の目を気にするなと言いながら
他人の目で価値を測ってしまう

 

自分の想いで行動しろと叫びながら
評価がなければ、意味を見失う

 

自己啓発は社畜を生み
スピリチュアルは異常を生み
宗教は異端を生む

 

組織に属せば正義は逆転し
悪は義務になり
正義は嘲笑に変わる

 

私は常に敗者
私は常にマイノリティ

 

日本の美学は、矛盾を抱きしめる美学だった

  「ままならんね」で始まる美学

 

私たちは日常で「ままならんね」と口にするかな?

それとも、「不幸だーーーー!!!」って叫んでる?

はたまた「逃げちゃダメだ。逃げちゃダメだ」って言い聞かせてる?

もしかして、「俺のLUKステータスどこだ?」って探してる?

 

ワンチャン?ギリ?ムリゲー?転生して魔法使いにでもなる?


実際現実は、思い通りにならないことだらけ。
仕事も、家庭も、人間関係も、自分の気持ちさえも。

でも、日本の美学は、この「ままならなさ」を切り捨てず、美に変えてしまうところにある。
その表れが、古来から受け継がれてきた言葉たちだ。

 

  「もののあはれ」―滅びに寄り添う感性

 

「花は桜木、人は武士」とは、江戸時代の言葉だ。
桜が散り際にもっとも美しいように、人もまた潔く死ぬ姿に美が宿るという。

 

この感性の源には「もののあはれ」がある。
『源氏物語』以来、日本人は「はかなさ」や「移ろい」に心を震わせてきた。
西洋では「滅びは悲劇」とされがちだが、日本では「滅びは美」であり「終わりは始まり」になる。

 

  「清濁併せ呑む」―矛盾を抱える度量

 

善と悪を分けるのではなく、矛盾ごと飲み干す。
この姿勢は、日本が仏教も神道も儒教もキリスト教すら習合してきた歴史に現れている。

「正しいものだけ」を残すのではなく、「矛盾したまま」受け入れてしまう。
だからこそ、日本の美学はすっきりとは割り切れない。
それは生きづらさでもあり、同時に生きる知恵でもある。

 

  「判官びいき」―敗者にこそ正義を見出す

 

世界史は勝者を讃える。
だが日本史は、敗者を讃える。

源義経は兄に討たれたからこそ英雄になり、
新選組は幕府と共に散ったからこそ「忠義の象徴」になった。
信長は本能寺で滅んだからこそ「革新者の美学」を完成させた。

勝つことが美しいのではなく、滅びが美しい。
ここに「判官びいき」という独特の感性が宿っている。

 

  「盛者必衰」と「一期一会」

 

『平家物語』の有名な冒頭にある「盛者必衰の理(ことわり)」。
どんな栄華も必ず滅びる、という真理。
無常観そのものだが、そこに「だから今を大事にせよ」という祈りが込められている。

 

「一期一会」もまた同じだ。
人生は一度きりの出会いでできている。
たとえ短くても、その瞬間が意味を持つ。
それは「二度と来ない」という無常を受け止めるからこそ生まれる美学だ。

 

  「わび・さび」―不完全さを愛する

 

西洋の美が「完成」に向かうのに対し、日本の美は「欠け」に価値を見出す。
ひび割れた茶碗、色褪せた木材、朽ちかけた庭石。
それらは「失敗」や「欠陥」ではなく、むしろ「時間の証」として尊ばれる。

松尾芭蕉は「不易流行」という言葉を残した。
変わらないものと変わるもの、その矛盾を同時に抱きしめるのが芸術である、と。
ここにも「清濁併せ呑む」日本の美学が表れている。

 

  日常に戻って考える

 

私たちの毎日は、結局のところ「矛盾だらけ」だ。

「自分らしく生きろ」と言われても、正直怖い。


だって、自分らしくした瞬間に白い目で見られることもあるから。
「そんなこと言うなんて変わってるね」と笑われて、心がずしんと沈む。


自分らしくしたら孤独になるかもしれない――そう思えば、結局は他人に合わせてしまう。

でも、「他人に合わせろ」と言われたら言われたで、苦しくて仕方ない。
飲み会で本当は帰りたいのに「付き合いだから」と笑って座っているときの、あの自分の小さな裏切り。
「嫌われたくない」という気持ちに従ったのに、心の中では「なんでこんなことしてるんだろう」って呟いている。


これも矛盾だ。

 

仕事もそうだ。
「結果がすべて」と言われると、過程も努力も何も意味がなくなった気がする。
じゃあ「思いやりがすべて」と家庭で言われると、「お金を稼ぐことは価値がないの?」って心がざわつく。


どっちにしても、自分は足りない。どっちにしても、責められる。
本当に、ままならん。

 

学校のテストだってそうだった。
100点を取れば「すごい」と言われる。
でも90点なら「あとちょっと頑張れ」になる。
10点分の違いで、人の評価はガラリと変わる。
そのときに思ったんだ。「私は点数なの?」って。
「私」じゃなく「結果」で測られることに、ずっとざらつきを覚えてきた。

 

私たちは、清いものだけでは生きられない。
でも濁ったものを受け入れたら、今度は「不純だ」と責められる。
人を助ければ「偽善」と言われ、助けなければ「冷たい」と言われる。
恋愛だって、仕事だって、友情だって。
どんな選択をしても「正しさ」なんて保証されない。
だから私たちはいつも揺れて、迷って、矛盾の中で生きている。

 

でも――。
日本の美学はこう語りかけてくる。

「その矛盾を、抱えたままでいい」
「答えを出せなくても、美しく生きられる」

つまり、ままならなさを抱え込むこと自体が、人間の美しさなんだ。

  ラストに ― 詩

 

そして——ままならんのよ
日本の美学って

清も濁も、勝も敗も
飲み干してしまうから

正義も悪も、美学に変わり
矛盾が矛盾のまま残る

だからこそ、美しい
だからこそ、苦しい
ままならんのよ
——日本の美学って