誰かと比べてしまって、苦しくなることがある。
羨ましい、悔しい、ずるい・・・そんな感情が湧くたびに、自分が嫌になることもある。
でも私は、その感情まで無くそうとしなくていいんじゃないかと思う。

劣等感も嫉妬も、なくさなくていい

嫉妬?それって美味しいの?

「はい、それはもう甘美な味で病みつき間違いなしです。」

私だって、嫉妬くらいしますよ。私なんか劣等感の塊ですよ。

 

なんですか?嫉妬を無くす方法?

「いいえ、結構です。私は嫉妬と妬みの大罪を抱えて生きていきますから。」

 

だって、それが無かったら、私は言葉を書くのをやめてしまうだろうからね。

私は自分の痛みと傷と、自分の嫌いな部分を見捨てない。

  他人と比べるからこそ、見えてしまうものがある

人はよく「他人と比較するのをやめよう」と言う。


たしかに、比較ばかりしていたら苦しい。
仕事でも、恋愛でも、友人関係でも、誰かを見て落ち込むことは山ほどある。

「あの人ばかり評価される」
「なんであの人の方が愛されるんだろう」
「自分と同じだと思っていたのに、差がついた」

そんなふうに感じた時、劣等感や嫉妬や屈辱感が一気に出てくる。


しかも、その感情はとても醜く見える。
だからこそ、早く消したい、無くしたい、感じないようになりたいと思ってしまうんだろう。

 

でも、本当にそれは「いらない感情」なんだろうか?
私は、そう簡単には言えない気がしている。

  劣等感や嫉妬は、自分の欲望を教えてくれる

誰かを見て苦しくなる時・・・


その苦しさの中には、必ず自分の本音が隠れている。

本当は認められたかった。
本当は選ばれたかった。
本当は自分の方を見てほしかった。
本当は、自分だって欲しかった。

つまり、劣等感や嫉妬は、ただの邪魔な感情じゃない。


「自分は何を求めていたのか?」を教えてくれる感情でもある。

悔しいと思うのは、それだけ本気だったからだろう。
羨ましいと思うのは、それだけ自分も欲しかったからだろう。
腹が立つのは、それだけ「奪われた」と感じたからだろう。

 

他人を見て、感情が動く。


その時、人はただ他人を見ているんじゃない。
他人を通して、自分の欲望や痛みを見ているんだと思う。

  「無くしたい感情」が溢れているのは、それだけ苦しいから

 

 

世の中には、劣等感を消す方法、嫉妬しない考え方、比較しない生き方・・・そんな本や言葉や動画が溢れている。


それはきっと、多くの人がその感情に苦しんでいるからだ。

人間関係を壊す。
相手を嫌いになる。
自分まで嫌いになる。
疑ってしまう。
責めたくなる。
落ち込む。
ねじ曲がる。

そんな厄介な感情だから、「無くせたら楽なのに」と思うのは自然だと思う。


私だって、そう思うことがある。

 

でも、ここで少し立ち止まりたい。
その感情が苦しいからといって、存在そのものまで否定してしまっていいんだろうか?

 

だって、その感情は、自分がちゃんと何かを感じている証拠でもあるからだ。
何も望んでいなければ、嫉妬もしない。
何も大切じゃなければ、屈辱も感じない。
何も求めていなければ、劣等感に苦しむこともない。

苦しいけれど、それは自分の中に「大切」がある証拠なんだと思う。

  感情を無視し続けると、自分まで見えなくなる

もちろん、嫉妬や劣等感のままに相手を攻撃すれば、人間関係は壊れる。
 

だから感情のままに動けと言いたいわけじゃない。

でも、感情そのものを「悪いもの」「無くすべきもの」として押し込め続けるのも、少し違う気がする。


なぜなら、それを続けていると、自分が何に傷つき、何を欲し、何を大切にしているのかまで見えなくなるからだ。

「こんなことで傷つく自分はダメ」
「嫉妬するなんて情けない」
「比較するなんて未熟だ」

そうやって切り捨てていくと、心は一時的に静かになるかもしれない。


でもその代わりに、自分の輪郭までぼやけていく。

何が欲しいのか?
何が悲しいのか?
何が許せないのか?
何が自分にとって大事なのか?

 

それが分からなくなった時、人は「楽」になるより先に、「空っぽ」に近づいてしまうことがある。

 

だから私は、無くす前に見つめたいと思う。
この感情は、何を教えているんだろう?
自分は何を失うのが怖かったんだろう?
本当は何を求めていたんだろう?

そうやって、自分の心を読み解いていきたい。

  他人を見ることは、自分を見つけることでもある

他人を見ると、苦しい。
比べてしまう。
負けた気がする。
惨めになる。
怒りや憎しみに触れてしまうこともある。

 

でも、それだけじゃない。

 

他人を見るからこそ、自分が見える。
自分が何を欲し、どこで傷つき、何を大切にしているのかが分かる。


つまり比較は、自分を壊すだけのものじゃなく、自分を知る入口にもなる。

良いことばかりじゃない。
むしろ、たいていは苦しい。
でも、人はその苦しさの中でしか拾えない本音もある。

だから私は、劣等感や嫉妬を「醜いからダメ」で終わらせたくない。


そこにあるのは、ただの醜さじゃない。
自分を見つけようとしている心の動きでもあると思うからだ。

  なくすより先に、意味を拾いたい

劣等感も、嫉妬も、屈辱感も、決して気持ちのいいものじゃない。
私だって、出来れば感じたくない。


でも、その感情があるからこそ見える自分がいる。

他人を見て苦しくなるのは、他人を見ているだけじゃない。


その奥で、自分を見ているからだ。
自分の欲望を見ている。
自分の傷を見ている。
自分の大切を見ている。

そうだとしたら、それを無理やり無くそうとすることは、自分を守ることでもあるけれど、同時に自分を見失うことにも繋がりかねない。

 

だから、なくすより先に意味を拾いたい。
この痛みは、何を教えているのか。
この悔しさは、何を望んでいた証拠なのか。
この嫉妬は、どんな自分を見失いたくなかったから生まれたのか。

 

そんなふうに、自分の感情を雑に捨てずに見つめられたら、少しだけ自分に誠実になれる気がする。

劣等感も嫉妬も、なくさなくていい。


それは、他人を通して自分を見ている証拠だから。
その痛みの中にしか、見つからない自分も、きっといるのだと思う。

後悔って、何か悪いことをしてしまった後にだけ生まれるものだと思っていませんか。
でも本当は、まだ何も起きていない時点でも、人はすでに苦しくなっていることがあります。
今日はそんな、事実よりも先に心を傷つける「後悔の本質」を考えてみたいと思います。

可能性だけで人を苦しめる感情の正体

恥の多い人生だった・・・とは、誰の言葉だったか?

私の場合は、恥も多いが、後悔も多いし、失敗も実害も多い・・・

本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる、泣けてくる。

  後悔は、結果が出た後にだけ生まれるわけじゃない

後悔と聞くと、多くの人はこう考えると思います。

失敗した。
嫌われた。
傷つけた。
怒られた。
否定された。

そういう“悪い結果”が出た後に、
「ああ、やらなければよかった」
と感じる。


それが後悔だ、と。

 

もちろん、それも後悔です。
でも私は、それだけじゃないと思うんです。

後悔って、本当はもっと早く始まっている。

何かを言ったあと、相手の表情が少し曇った気がした時。
返事が遅かった時。
空気が微妙に変わった気がした時・・・
その時点で、もう心の中では始まっているんですよね。

「まずかったかもしれない」
「言わなければよかったかもしれない」
「もっと違う言い方があったかもしれない」

まだ何も確定していない。
本当に悪かったのかも分からない・・・


それでも人は、その“かもしれない”だけで後悔してしまう。

つまり後悔は、結果の感情というより、
可能性に反応する感情でもあるんです。

  後悔は「事実」だけでなく「予感」でも生まれる

後悔の厄介なところ・・・

 

もし後悔が、悪い結果が出た時だけ生まれるものなら、まだ分かりやすい。
事実を確認して、謝って、修正して、反省して、次に活かすこともできるからです。

でも現実の後悔は、そんなに単純じゃない。

 

後悔は、事実だけじゃなく、
予感
思い込み
想像
認知の歪み

こういうものだけでも生まれてしまう。

「相手は怒っているかもしれない」
「嫌な気持ちにさせたかもしれない」
「自分はまた間違えたかもしれない」

この“かもしれない”が積み重なると、まだ起きてもいない否定を、先に自分で引き受けてしまうんですよね。

 

キルケゴール

は、不安について「不安は自由のめまいである」と語りました。

 

人は、何かが確定した時だけ苦しむわけじゃない。
何かが起こりうる、その可能性に触れた時にも苦しむ。
後悔もきっと、それに近いんだと思います。

本当に悪かったのかは分からない。

 

でも、悪かった未来を想像できてしまう・・・
だから、その可能性だけで、心が先に傷ついてしまうんです。

  善悪は、自分だけでは測れない

さらに苦しいのはここです。

私たちは、自分の行為が本当に良かったのか悪かったのかを、自分ひとりで完全には決められません。

自分では、良かれと思って言った。
でも相手は傷ついたかもしれない。
自分では、正直に話しただけ。


でも相手には冷たく聞こえたかもしれない。
自分では、ちゃんと向き合ったつもり。


でも相手には重かったかもしれない。

つまり、善悪や是非って、結局は他人の価値観や受け取り方の中でしか見えない部分があるんです。

 

ここが本当にしんどい。

だって、自分で完全には測れないものを、自分の心はずっと裁こうとするから。

「悪かったのかな」
「間違っていたのかな」
「自分がダメだったのかな」

そうやって、他人の目線を想像して、自分で自分を否定し始める。

 

後悔が苦しいのは、単に反省するからじゃない
自分で自分を裁く方向に向かいやすいからなんですよね。

  後悔は、反省ではなく「自己否定」に変わりやすい

本来、後悔は悪いものばかりではありません。
振り返って、次に活かす。
言い方を変える。
関わり方を見直す。
それができるなら、後悔は学びにもなる。

 

でも実際は、そんなに綺麗に進まないことの方が多い。

 

なぜなら、後悔は反省で止まらず、すぐに自己否定へ変わりやすいからです。

「今回は失敗した」ではなく、
「私はやっぱりダメなんだ」になる。

「この言い方はまずかった」ではなく、
「自分は人と関わらない方がいい」になる。

「もっと別の方法があったかもしれない」ではなく、
「自分の感じ方も考え方もズレているのかもしれない」になる。

こうなると、後悔は行為の見直しではなく、存在の否定に近づいていく。

 

ニーチェ

は、「怪物と闘う者は、自らも怪物とならぬよう気をつけねばならない」
と書きました。

少し大げさに聞こえるかもしれないけれど、後悔にも似たところがあると思うんです。
悪かったかもしれない自分を見つめ続けるうちに、いつのまにか“出来事”ではなく“自分そのもの”を敵にしてしまう。
それが、後悔の怖さなんじゃないかなと思います。

  だから後悔には、救いが見えにくい

後悔の苦しさは、事実だけで生まれない。
可能性や思い込みだけでも生まれる。
善悪の基準も、自分だけでは決められない。


その結果、自分で自分を否定しやすくなる。

これでは、救いが見えにくいのも当然です。

 

だって、本当に悪かったかどうかも分からない。
本当に相手がどう思ったのかも分からない。
なのに、こちらの心だけが先に傷ついていく。

しかも、その救いすら、相手の反応に左右されることがある。

「気にしてないよ」と言われたら、少し救われる。
「大丈夫だよ」と言われたら、少し楽になる。


でも逆に、何も言われなかったら苦しい。
曖昧なままだと、ずっと引きずる。

そうなると救いは、自分の中だけでは完結しない。
どうしても他者の言葉や反応に依存してしまう。

 

だから後悔は、ただの反省じゃない。
他者のまなざしを心の中に住まわせる感情でもあるんですよね。

  それでも、後悔の中身が全部「事実」とは限らない

ただ、ここでひとつ大事にしたいことがあります。

後悔が苦しいのは本当。
救いが見えにくいのも本当。
でも、だからといって、後悔の中身が全部“事実”とは限らない。

ここは忘れたくないんです。

後悔の中には、実際に反省すべきこともある。


でも同時に、予感だけのものもある。
思い込みだけのものもある。
自分が勝手に最悪の可能性を膨らませているだけのものもある。

 

全部を一緒くたにして、
「やっぱり自分が悪い」
にしてしまうと、心が持たない。

だから本当は、後悔した時に少しだけ分けて考えた方がいい。

 

これは事実なのか。
それとも可能性なのか。
相手が本当にそう思ったのか。
それとも自分がそう思い込んでいるのか?

 

それをすぐに完璧に見分けるのは無理でも、
少なくとも、後悔したから即有罪ではない。
そこだけは、大事にしてもいいと思うんです。

  後悔の本質は、「まだ確定していない痛み」を先に引き受けること

ここまで考えてみて、私はこう思います。

後悔の本質って、
悪かった事実を悔やむことだけじゃない。

むしろ、
悪かったかもしれない可能性を、事実より先に心が引き受けてしまうこと
なんじゃないかと思うんです。

まだ何も確定していない。
まだ善悪も是非も決まっていない。


でも人は、相手の目線を想像して、未来の否定を先に感じてしまう。

だから苦しい。
だから消耗する。
だから、人と関わることが怖くなる。

でも見方を変えると、それは人がちゃんと他人を気にしている証でもある。
相手なんてどうでもいいと思っていたら、ここまで苦しまないからです。

後悔は厄介です。
でも、どこか人間らしい感情でもある。
私はそう思います。

 

  後悔をゼロにはできなくても、自分を即否定しないことはできる

後悔しない人には、なかなかなれません。
人と関わる以上、後悔はたぶん何度も生まれる。
言い過ぎたかもしれない。
足りなかったかもしれない。
間違えたかもしれない。
それは、きっとこれからも続く。

 

でも、後悔をゼロにできなくても、

後悔した瞬間に自分を全否定しないことはできるかもしれない。

「悪かったのかな」と思うことと、
「自分はダメだ」は違う。

「もっと良い方法があったかもしれない」と思うことと、
「人と関わらない方がいい」は違う。

この違いを少しだけでも持てると、後悔は少しずつ、自己否定ではなく理解の方に近づいていく気がします。

 

フランクル

は、「刺激と反応のあいだには空間がある」
という趣旨の言葉を残しています。

後悔した瞬間、そのまま自分を処刑するんじゃなくて、ほんの少し立ち止まる。
その小さな余白が、自分を守る場所になるのかもしれません。

 シンプルフレーズ

後悔は、悪いことをした後にだけ生まれる感情じゃない。
悪かったかもしれない、という可能性だけでも生まれる。


しかも善悪や是非は、自分だけでは測れない。
だから人は、裁かれる前から自分を裁いてしまう。

それが、後悔の本質なのかもしれません。

そしてたぶん、だからこそ苦しい。
でも同時に、それだけ他人との関わりを大事にしている証でもある。

後悔が深い人ほど、きっと雑に生きていない。
ちゃんと相手を見ようとして、ちゃんと自分を見ようとして、だからこそ苦しくなる。

その苦しさを、すぐに「気にし過ぎ」で片づけたくないなと私は思います。

後悔は、弱さだけじゃない。
人が人と生きる中で生まれてしまう、とても不器用で、でも真剣な感情なんだと思うから。

触れるって、いつからこんなに遠いものになったんだろう。
気づけば私たちは、触れる前に「知っている」で判断するようになっていた。
それは安心だけど、どこかで何かを置き去りにしている気もする。

人は頭で理解しているようで、実は身体で感じたことに引っ張られて生きているのかもしれない。

暖かいものに触れると・・・安心する

柔らかいソファーだと・・・眠れる(笑)

重さがある方が・・・高級感があるような気がする

 

全部気のせいかもしれないけれど、何となく感じる時もある。

 

触ることで得られる感覚や感情はとっても魅力的なのかもしれない。

  ■ 触れることでしか分からないものがある

子どもは、何でも手を伸ばして触れようとする。
赤ちゃんは、何でも口に入れて確かめようとする。

危ないとか、汚れるとか、そんなことはまだ知らないから。

 

でも、それは“何も考えていない”わけじゃなくて、
「確かめることの価値」が、リスクより大きいだけなんだと思う。

 

触れてみることでしか分からないことがある。
温度、重さ、質感、そして安心感。

頭で理解する前に、身体が感じる現実。
それは、とても確かなものだったはずなのに・・・

  ■ 大人になると、触れなくなる理由

大人になると、私たちは触れなくなる。

 

それは、成長したから。
知識を持ったから。
そして、リスクを知ってしまったから。

  • 汚れるかもしれない
  • 傷つくかもしれない
  • 関係が壊れるかもしれない

それは経験だけじゃなく、
誰かの言葉や、どこかで見た情報も含まれている。

 

触る前に、結果を“知っているつもり”になる。
だから、触れない選択が増えていく。

 

  ■ 「知っている」と「触れる」は違う

今の時代は、情報がたくさんある。
調べれば、だいたいのことは分かる。

 

でも・・・

「知っていること」と「触れたこと」は、まったく違う。

 

花を見て「綺麗」と思うことと、
花に触れて、その柔らかさや香りを感じることは、別の体験。

 

人も同じで、
「こういう人だ」と知ることと、
実際に関わって感じることは、やっぱり違う。

それでも私たちは、触れる前に「知っている」を選びやすくなっている。

 

  ■ 触れないことで守られるもの

もちろん、触れないことは悪いことじゃない。

 

安全を守れるし、
無駄なトラブルも避けられる。

 

人との距離も、適切に保てる。

でもその代わりに、

  • 深く関わること
  • 実際に感じること
  • 自分で確かめること

そういうものを、少しずつ手放しているのかもしれない。

 

  ■ 軽くなってしまった世界

触れないまま、知識だけが増えていくと、

  • 分かっている気になる
  • 理解している気になる
  • 関わっている気になる

でも実際は、

何にも触れていない。
何にも関わっていない。

だからこそ、どこかで感じてしまう。

 

・・・軽い。

 

存在が軽い。
関係が軽い。
感情が軽い。

それが、あの「軽さ」なのかもしれない。

 

  ■ それでも、触れてみるという選択

触れることには、リスクもある。


でも、触れないことにも、失うものがある。

だから無理に触れる必要はないけれど、

ほんの少しだけでもいい。

  • 花に触れてみる
  • 空気を感じてみる
  • 誰かの言葉の奥に触れてみる

その小さな「触れる」が、
思っている以上に、自分の世界を変えてくれることがある。

  シンプルフレーズ

触れない安心の中で生きるより、
少しだけ触れて、少しだけ自分だけの人生を選びたい。

前回、藤の花を見に行った話を書いた。
見とれてしまう時間は、それだけで十分に幸せだと思った。
でも、あの日の私は、ただ花を見ていたわけじゃなかったのかもしれない。

花は見るものじゃなく、触れて受け取るものなのかもしれない

前回、藤の花を見に行った話を書いた。
空を覆う藤の花に見とれて、香りに癒されて、風に揺れる花房をただ眺めていた。


でも、あとから思ったんだ。あの時間、私はただ「見ていた」わけじゃなかったんじゃないか?って・・・

 

今日、触覚や身体性について少し学んでいて、妙に腑に落ちたことがあった。
人は、ただ頭で考えて世界を理解しているわけじゃないらしい。
触れること。近づくこと。距離を変えること。


それだけで、受け取る印象も、心の動きも、少しずつ変わっていくんだって。

それを知った時、藤の花の下で感じていたことが、少し言葉になった気がした。

  近づくことで、初めて手に入るものがある

花って、遠くから見ても綺麗だ。
景色として見ても十分に美しいし、写真に撮っても華やかだし、「春だなあ」と感じるにはそれだけでも十分かもしれない。

 

でも、近づくと違う。
香りが届く。
風の冷たさが変わる。
花房の長さや揺れ方が見える。
蜂の羽音が耳に入ってくる。
花を避けるように歩く、その距離感まで含めて、自分の中に入ってくる。

 

そうなると、もう「見ている」だけじゃないんだよね。
その場に、自分がちゃんと入っている。
景色の外から眺めるんじゃなくて、景色の中に自分が混ざっている。

たぶん、あの感覚がすごく大きかったんだと思う。

 

私は前回、
風を触り、香りを見て、色彩に踊らされる
と書いた。

 

少し変な表現かもしれない。
でも、今なら分かる気がする。
それは比喩というより、あの時の感覚に近かったんだろうなって・・・

  遠くで愛でる美しさと、近くで受け取る豊かさ

藤の花を見ていて、桜の時にも感じたことを思い出した。


花を見て、笑って、話して、写真を撮っている人たちの中に、海外の方がとても多く見えたこと。

もちろん、日本の人もちゃんと花を楽しんでいる。
楽しんでいないわけじゃない。


でも、どこか少し遠くから見ている感じがしたんだ。

日本の人は、花を遠巻きに愛でる。
少し引いて見る。
空気を乱さず、距離を取りながら楽しむ。


それはきっと、遠慮でもあるし、美学でもあるんだと思う。

一方で、海外の方たちは、もっとまっすぐ花の近くに行く。
笑って、見上げて、話して、写真を撮って、その場をそのまま楽しんでいるように見えた。

 

どちらが良い悪いじゃない。
ただ、そこには楽しみ方の違いがあるんだろうなと思った。

 

でも、今日、触覚や身体性の話を知ってから思ったんだ・・・


もしかしたら、近づくことには、ただテンションが高いとか積極的とか、そういうことだけじゃない意味があるのかもしれないって。

近づくことで、受け取れるものが増える。
触れられる距離に行くことで、思考の前に感覚が開く。


そう考えると、花の近くで笑っていた人たちは、ただ花を見ていたんじゃなくて、花を身体ごと受け取っていたのかもしれない。

  触れた瞬間、思考はもう変わっている

私は、頭で考えることが好きだ。(たいして良くもない頭だけどね・・・)
言葉にすることも好きだ。(日本語が苦手だけどね。そのほかの言語なんて分からないけど。)


でも本当は、言葉になる前に変わってしまうことの方が多いのかもしれない。

花の香りを感じた時。
少し肌寒い夕方の風に触れた時。
蜂の羽音が、妙に心地よく混ざって聞こえた時。
その時点で、もう私は最初の私じゃないんだろう。

「綺麗だな」と思った時には、もう遅いのかもしれない。


その前に、身体が先に受け取ってしまっている。
その前に、感覚が先に動いてしまっている。

 

だから、触れるって大事なんだろうな~と思う。
 

実際に手で触ることだけじゃない。
近づくこと。
香りが届く距離まで行くこと。
風を受けること。
その場に、自分を置いてみること。

 

それだけで、見え方が変わる


いや、見え方だけじゃなくて、感じ方そのものが変わる。

思考は、案外あとからついてくるだけなのかもしれないね。

  季節は、遠くから眺めるだけではもったいない

花は、見ているだけでも綺麗だ。
でも、近づくともっと豊かになる。
 

香りがあり、温度があり、音があり、距離があり、その全部が混ざって、ようやくその季節が身体の中に入ってくる。

 

忙しいと、つい遠くから見て終わってしまう・・・
写真だけ撮って満足してしまう・・・
スマホを見て、露店を見て、人混みを見て、肝心の花はなんとなく見た気になる。

 

でも、本当は少し立ち止まって、近づいてみるだけで、全然違うんだろうなと思う。
香りを感じるだけでも、世界は少し変わる。
風の温度に気づくだけでも、季節は急に自分のものになる。

 

前回、藤の花を見ながら、ただただ見とれてしまった。
 

今なら分かる。
あれは、ただ綺麗だったからじゃない。


私が、ちゃんとその場に触れていたからなんだと思う。

だからこれからは、もう少し近づいてみたい。


遠くから愛でる美しさも大切にしながら、近くで受け取る豊かさも、ちゃんと味わっていきたい。

花も、季節も、きっとそのほうがもっと優しい。

image

 シンプルフレーズ

近づいて初めて分かる美しさがある。触れた瞬間、心はもう少しだけ優しく変わっている。

言葉にする前に、見とれてしまう時間がある。
考える前に、ただ香りに連れていかれてしまう季節がある。
春の藤は、まさにそんな花だった。



藤の花に見とれる私は、たぶん少し滑稽で、とても幸せだ

言葉にする前に、見とれてしまう時間がある。
考える前に、ただ香りに連れていかれてしまう季節がある。


春の藤は、まさにそんな花だった。

 

本当に綺麗だった。
空を覆う藤。
ただ咲いているというより、空そのものに紫が垂れてきたみたいで、見上げるだけで少し黙ってしまう。

藤棚の下を歩くときは、花を見ながら歩くのに、花を避けながらも歩く。


それがまた面白い。
ただ遠くから眺めるだけじゃなくて、自分が花の中に入っていく感じがするからだと思う。

 

そして、香り。
秋の金木犀と春の藤。
この二つの香りは、本当に癒される。


季節の変化って、目で見るものだと思いがちだけれど、鼻から先に教えられることもあるんだよね。

桜が終わって、菜花が咲いて、そのあとに藤の花が香る。
春は、ちゃんと次の景色を用意してくれている。
「終わった」で終わらずに、次の季節へ手を引いてくれる。
そう思えるだけで、少し救われる気がする。

  小さいのに、全体になると圧倒される

藤の花って、一つひとつを見るととても可愛い。
ラッパみたいな、小さな花。
繊細で、やわらかくて、可憐で、見ていると「可愛いなあ」と素直に思う。

 

でも、その小さな花が集まると、今度は景色になる。
空を覆って、視界を埋めて、ただの「花」ではなく「世界」になる。

 

私は、こういうものに弱い・・・


小さいものが集まって、大きな美しさになるもの。
一つひとつは控えめなのに、全体になると圧倒的な存在感を持つもの。

桜もそうだし、菜花もそうなんだよね。

なにより、夜空もそう思うし、天の川に流れ星なんて最高に幻想的だ。

 

それって、なんだか言葉の営みにも似ている。
単語では小さくても、積み重なれば景色になる。
一瞬では儚くても、連なれば季節そのものになる。

だから藤を見ていると、ただ綺麗なだけじゃなくて、少しだけ胸の奥まで揺らされるんだと思う。


  思考より先に、感覚が季節に連れていく

私はただただ見とれてしまう。
思考や言葉より、風を触り、香りを見て、色彩に踊らされてしまう。

 

なんて少し大げさかもしれない(笑)

 

でも、見とれるってそういうことなんだと思う。
理屈より先に感覚が動いて、言葉になる前に身体のほうが季節に反応してしまう。
「綺麗だ」と思った時には、もう遅い。


その前に、もう春に連れていかれている。

 

そこにクマバチの羽音が混じる。

蜜を集める姿まで、なんだか可愛い。
低く響く羽音が、藤の香りや揺れる花房の中に混じってくると、まるでジャズみたいだと思ってしまう。

そんなふうに感じてしまう私は、なかなかに滑稽だ(笑)


でも、その滑稽さも悪くない。
むしろ、そうやって少し馬鹿みたいに季節に酔える時間があるから、人はちゃんと疲れ切らずに生きていけるのかもしれない。

 

  夕方の藤は、少し冷たくて、だから美しい

一時間くらいしか居なかった・・・
あとから思えば、「お弁当でも買って行けばよかった」と思う。


昼間はキッチンカーや露店もあるみたいだけれど、夕方にはもう何もなかった。

 

でも、何もないから良かった気もする。
賑わいが引いたあとで、少し静かになった藤棚の下を歩く時間。


昼間は暑いくらいなのに、夕方になると少し肌寒い。
あの空気の変化が、春の終わりと初夏の入口をそっと教えてくれる。

そして、その少し冷えた空気の中で見る藤は、昼間とはまた違う。


儚くて、幻想的で、紫が夕焼けによく燃えていた。

花は、明るい時間だけが綺麗なんじゃない。
少し影が差して、少し寒くなって、少し寂しさが混じる時間だからこそ見える美しさもある。


藤の紫は、まさにそういう色だと思う。
華やかなのに静かで、柔らかいのにどこか切ない。

だから私は、昼の藤も好きだけれど、夕方の藤も好きだ。
あの少しだけ人恋しくなるような空気の中で見る藤には、昼間とは違う余韻がある。


  季節に見とれる時間は、きっと贅沢だ

幸せでも陰鬱でも花は花だ。

忙しくしていると、花なんて見なくても生きていける。
香りに気づかなくても、春は過ぎていく。
でも、だからこそ思う。

立ち止まって、見とれてしまう時間。
香りに気づいて、風に触れて、ただ綺麗だと思う時間。


それは、無駄なんかじゃない。

 

むしろ、そういう時間があるからこそ、日々の息苦しさの中でも「私はちゃんと感じている」と思えるんじゃないだろうか?
綺麗なものを綺麗だと思えること。
香るものに癒されること。
可愛いと思って笑ってしまうこと。
それは、とても静かだけれど、確かな生きる力だと思う。

 

藤の花は、ただ咲いているだけなのに、見る人の中にこんなにも余白を作る。
だから私は、また見とれてしまうんだろうなと思う。


 シンプルフレーズ

思考より先に見とれてしまう時間が、きっと私を人らしくしてくれる。