私はシティーハンターが大好きです。

小学生のころ、学校から帰ってきたらTVで放送されていた。

毎週見ていました。その後にキャッツアイだったかな?

まぁそれはいいとして・・・私は冴羽獠が大好きです。

あの人の生き方?もうね、惚れてます。ぶっちゃけ未だに中二病ですよ。

目指してますからね。冴羽獠になりたいです。

 

シティーハンター大原画展に行きたい!

って、感情のままに語りだしたらアメブロっぽくないので

ちょっと、考察的な自己啓発?的な話しもしましょう。

それこそ、シンプルフレーズの視点で見るっていうか、原画展に行く理由的な?

そんなお話をしましょう(笑)

  「○○たい!」は、自分を知るための言葉だ

やりたい。
見たい。
感じたい。
知りたい。
分かりたい。
体感したい。
行きたい。

私は前から、この「○○たい!」という感情は、とても大切で、魅力的な思いだと思っている。

 

理屈より先に出てくる言葉。

損得を考える前に、心が勝手に向いてしまう方向。

それは、自分の欲望であり、感情であり、自分の好みを知るための、とても分かりやすい言葉なんだと思う。

 

今回、私はシティーハンター原画展に行きたい。

大好きなマンガの原画展。

大好きな主人公。

私が憧れる男像の原点。

見たいに決まっている。

行きたいに決まっている(笑)

 

  好きな場所があるから、嫌な部分を許せる

以前、人の好みや異性の好みについて書いた。

 

人にはそれぞれ、好きな場所・好みがある。

自分が惹かれるところ。

どうしても譲れないところ。

反対に、苦手なところや、どうしても許せないところもある。

 

人と付き合い、その先で結婚という契約をする。

一緒にいる時間が長くなれば、当然、良い面だけではなく悪い面も見えてくる。

 

そのとき、相手を許せるのか?

 

私は、自分が好きになったところや、惹かれた部分があるかどうかで、相手を許せる理由が生まれると思っている。

 

この人のここが好きだ。

この部分に惹かれた。

だから、嫌な部分を見ても、関係を続けようと思える。

許すというのは、何でも我慢することではない。

 

ただ、自分の中に相手を許す理由があるかどうかなんだと思うんだ。

 

好きと言われたから好きになった。

自分を好きになってくれる人が好き。

そういう相手に依存した関係では、嫌な部分を見たときに、許す理由まで相手に依存してしまう。

相手が折れる。

妥協する。

謝罪する。

贖罪する。

そこまでしてくれなければ許せない・・・

自分の側に、許す理由がないからだ。

  自分を許す方が、ずっと難しい

これは、自分自身に対しても同じだと思う。

 

自分の行動や言動を、いつまでも悔いて後悔し続ける。

私自身、それはよく分かっている。

自分を許そう。

自分を好きになろう。

言葉にするのは簡単だけど、実際にはそんなに簡単な話ではない。

 

正直、他人を許すより、自分を許す方がずっと難しいと思っている。

 

好きの反対は無関心だ、なんて言う人もいる。

でも、私の私見では、好きの反対は嫌いに決まっている。

自分の嫌な部分を見れば、自分を嫌いになる。

嫌い続けることに疲れた先で、自暴自棄のように自分への関心を失っていく。

 

だから、自分のことを知らなければ、自分を許すこともできない。

自分の好きなところ。

譲れない価値観。

どうしても曲げたくない美学。

なりたい自分。

そういうものが分からなければ、自分の嫌な部分を見たときに、自分を引き受ける理由がなくなる。

 

自分を知るというのは、長所と短所を並べる自己分析ではない。

嫌いな自分を見たときにも、完全には見捨てないための理由を知ることなんだと思う。

 

  「○○たい!」は、欲望の自己紹介だ

そこで、「○○たい!」という話に戻る。

行きたい。

見たい。

知りたい。

やりたい。

感じたい。

感情をそのまま表現したときに出る、この言葉。

 

それこそが、自分の欲望や感情を知る機会であり、自分の好みや「好き」を知る瞬間なんだと思う。

 

今回のシティーハンター原画展。

私は、最高に、最強に、超行きたい。

私の生き方であり、人生観であり、価値観であり、憧れる男の一人。

 

冴羽獠。

見たいに決まっているwww

 

今、大阪で開催されている。

行ける距離。

何ともまぁ都合よく、時間も日程もターゲット内。

 

行くでしょ?

自分の好きに会いに行くでしょ?

 

行かないなんて、今まで私が書いてきた記事の意味がなくなるレベルですよwww

 

だから、行きます。

ありがとう、北条司様。

もう宿も新幹線も取りました( *´艸`)

  上野には、行けなかった・・・

上野でも開催していただろう?

ありましたね。

行きたかったですよ。

でもね、私の理性が言い訳しましたよ。

予算が。

距離が。

時間が。

都合が。

いろいろ言いました。

 

SNSで流れてくる感想や写真。

 

どれだけ枕を濡らした?

どれだけ爪を噛んだ?

どれだけ足踏みした?

 

ただただ「いいね」を押しました。

悔しかった。

行けなかった自分がつらかった。

現実的な理由だったのかもしれない。

仕方なかったのかもしれない。

 

それでも、行きたかったという感情は消えなかった・・・

 

だから、大阪開催?

行きますよ。

今度は行きます。

行きたい。

見たい。

感じたい。

知りたい。

私の全部を持って行ってきます。

 

これが一番、欲望を発揮しているんだなと痛感しています。

  私が冴羽獠に憧れる理由

シティーハンターって、女性にはどうしても人気がないみたいです。

なんでなんですかね?

 

私の知っている女性も、正直、否定的な人が多いです。

まぁ、仕方ないでしょ。

少年誌の主人公ですから。

女性にだらしない。

下品。

乱雑。

適当。

確かに、女性から支持されにくい部分はあると思う。

 

でも、私が見ているのはそこだけじゃない。

見えないところでの努力。

他人には見せない十字架。

裏切らない覚悟。

賭けるのは、常に自分の全力。

相手を許す度量。

悪く見られることを引き受けながら、それでも守るべきものを守る姿。

 

そこまで見て、初めて判断してほしいと思う。

 

とはいえ、それが難しいことも分かっている。

相手には相手の価値観がある。

冴羽獠を嫌う理由がある人もいる。

 

だから、こう思う。

私には、あなたが嫌う理由も分かる。

それでも、私が好きである理由までは否定させない。

 

私は欠点を知らずに憧れているわけではない。

下品さも、だらしなさも、適当さも知っている。

そのうえで、なお好きなんだ。

その奥にある覚悟や美学を知っているから、私は憧れる。

なりたい。

そういう人になりたい。

目指したい。

そう思うからこそ、私は今でもブレず、曲げず、推している。

  自分の好きを否定しない

これが、自分を知るということなんだと思う。

自分が何に惹かれるのか?

何を格好いいと思うのか?

何を譲れないのか?

何を嫌い、何を受け入れられるのか?

そういう思いを自覚して、自分のために使えるようになる。

それが、自分を知り、相手を知るきっかけになる。

 

許したり。

許されたり。

否定したり。

受け入れたり。

綺麗ごとなんて言っていない。

何でも理解し合えるとも思っていない。

 

私は、自分の好きを否定しない。

だから、他人の好きを簡単には否定しない。

 

相手が私の好きを理解できなくても構わない。

嫌いでも構わない。

 

ただ、私が好きである理由まで否定させるつもりはない。

 

自分を知って、自分を大切にしようと思うからこそできる。

私は、それを美学だと思っている。

 

冴羽獠って、そうじゃない?

自分の思いを隠さず示している。

だからこそ、他人の否定的な目線も、辛辣な言葉も受け止められる。

自分が何者なのかを知っているから、他人の評価だけでは揺らがない。

だから、素敵な人間像になっているんだと私は思う。

……とか何とか言いますけど。

好きなんで、見に行きますよ!

行きたい。

見たい。

感じたい。

知りたい。

最高に、最強に、超行きたいですから(笑)

言っている事と、やっていることが違う人

身近にいませんか?

 

「子供に勉強しろ」って、言うだけの親

きっと、一緒に勉強をしたりはしないんだろう

 

多様性を受け入れろって言う社会

それって、否定派を受け入れる気あるのか?

 

政治やマスコミなんて、例を挙げるまでもない。

 

むしろ、上司の顔色を伺う上司の方が、矛盾してなくて清々しいくらいだ(笑)

  「自己矛盾」の3大特徴

1.自ら気づくことは極めて難しい(しかし、他人のことは一瞬で見抜ける)

2.気づいてしまうと、他人の無自覚さが「滑稽」でたまらなくなる

3.他人から指摘されると、凄まじい勢いで「自己弁護」の防衛システムが作動する

この構造、実に美しく、そして絶望的なまでに私たちの日常に組み込まれています。

言うのは簡単、やるのは地獄。だから自分くらいは甘やかそう。

 

他人にだけ厳しい人って心当たりあるでしょ?

やたら指摘して来たり、粗を探してたり・・・

余計なお世話なアドバイスが好きだったり、善意の押し売りの訪問販売してくれたり

 

一緒に居ると疲れちゃうけど、そういう人ほど会話の内容に事欠かないから

周囲に人が居たりするんよね。

 

  言うのは簡単。やるのは難しい。

他人にアドバイスをするのは簡単です。

「もっと早く寝た方がいいよ。」

「勉強しなさい。」

「感情的になるな。」

「ちゃんと計画を立てなさい。」

どれも正論です。

 

でも、いざ自分が当事者になった瞬間、その正論は一気に難易度が跳ね上がります。

仕事、人間関係、お金、体調、時間…。

 

言うだけなら見えなかった現実が、一斉に襲い掛かってくる。

だから、言うこととやることが違うなんて、人間なら当たり前なんです。

夏休みの宿題が、その証拠

毎年、夏休みの初日に完璧な計画を立てるあの感覚。 

「今日はここまで」「来週にはこれを終わらせる」

と意気込んで完成した立派な予定表は、どうしてあんなに脆いんでしょうか(笑)。

 

自分に対してですら、言った通りに生きられない。 

予定通りに進まない。

 

『予定通りにいかないのが人生だ。』

なんてカッコいいことを言うくらいだから、本人だって矛盾していることは分かっているんでしょう。

 

それでも懲りずにまた予定を立ててしまう。それが人間という愛おしくも滑稽な生き物です。

これが私です。

 

  他人には厳しく、自分には甘い。

 

自己矛盾は、自分では気づきにくい。

他人のことはよく見える。

だから、「言ってることと違うじゃん。」

と、他人に思うことなんて山ほどあると思う。

 

逆に、自分のことを指摘されたらイラッとする。

即座に「いや、この場合は事情が違って……」

「事情があるから。」

そんな言い訳も始まる。

 

でも、それでいいじゃないですか。

人は、自分を見る時と他人を見る時で、バイアスが違うんです。

同じ基準で見られるほど、人間は器用じゃありません。

 

  甘やかしてくれる人なんて、ほとんど居ない。

家事をしなければ責められる。

遅刻をすれば叱責される。

仕事でミスをすれば責任を負わされる。

 

社会は甘くないのが現実だ。

 

「いいよ、大丈夫。」

「今回は許してあげる。」

 

そんな優しい言葉をかけてくれる他人なんて、そうそう居ません。

居たとしても、下心があるんだから(笑)

 

だからこそ思うんです。

自分くらいは、自分を甘やかしてもいいじゃないか?

どうせ甘やかせる場面なんて限られている。

だったら、その限られた場所くらい、自分の味方をしてやればいい。

 

他人が許してくれない時代だからこそ、せめて自分だけは最高の理解者でいたい。

「あーあ、また今日もやっちゃったな」と笑い飛ばして、適当に生きていきましょう。

  自己矛盾? 大いに結構!

言うこととやることが違う?

予定通りにいかない?

他人には厳しいくせに、自分には甘い?

はい、その通りです(笑)

 

でも、それが人間なんです。それが私です!

 

だったら胸を張って言ってやりますよ(笑)

「自己矛盾? 大いに結構!」

「私は他人に厳しくて、自分に甘い!」

「ごめんね(笑)」

 

完璧じゃなくてもいい。

自己矛盾だらけでもいい。

他人が許してくれない時代だからこそ、自分だけは、自分を笑って許してあげよう。

だって、それくらいの甘さがなければ、人間なんてやってられないんだから。

「自分の人生なんだから、自分が主人公でいたい」

 

そう思うのは、きっと普通のことですよね。

自分で選んで、自分で進んで、自分で何とかする。

 

でも……

その「主人公」という役を背負いすぎると、 人生は途端に苦しくなってしまいます。

だって、主人公だからって 何でも出来るわけじゃないからです。

  主人公は万能じゃない

 

主人公だって、誰かの助けがなければ物語は進みません。 

波乱に巻き込まれることもあるし、間違えることもある。 

何も出来ずに立ち尽くすことだってあります。

 

それでも主人公なのは、 全部を解決出来るからじゃない。

「物語の中を進んでいくから」主人公なのです。

全部を思い通りに動かせる存在は、主人公ではありません。 

それは「作者」であり「クリエイター」です。

 

人生の出来事を自分で作り、登場人物を動かし、伏線を回収して、好きな結末を用意する……。

そんな権限、私たちは持っていません。

なのに、自分の人生では、 まるで自分が作者であるかのように考えてしまう。

  • 自分で何とかしなければならない。

  • 自分で解決しなければならない。

  • 最後まで自分が責任を取らなければならない。

そんなこと、出来るわけがないのです。

  脇役でも、物語は進められる

自分を「脇役(モブ)」だと思えば、少しは楽になれるんじゃないか?

 

脇役なら、困った時に誰かへ駆け寄っていい。

問題を投げてもいい。 

分からないことを、分かる人に渡していい。

トラブルを、自分より詳しい人に任せたっていいのです。

脇役だからって、物語の外にいるわけじゃない。 

ちゃんと一緒に進んでいます。 

 

ただ、全部の場面で自分が先頭に立たなくてもいいだけ。

  • 法律の問題なら、弁護士に主人公を渡せばいい。

  • 身体の問題なら、医師に渡せばいい。

  • 仕事の判断なら、上司や会社に渡せばいい。

その場面を一番うまく動かせる人に、主人公を任せればいい。 

 

その都度、主人公を渡したって困りはしないのです。

 

  「責任」をなくすんじゃない

もちろん、最後に結果を受け取るのは自分です。 

ツケも残る。 

失敗すれば、自分だけではなく周囲の人間にシワ寄せがいくこともある。

 

それが一番つらい。 だから動けなくなる。

だから苦しい。逃げたくなる。

 

でも、「責任を取ること」と「全部を一人で処理すること」は同じじゃない。

 

判断する責任、解決する責任、費用を払う責任…… 責任には、いくつも種類があります。 

その全部を、自分一人で持つ必要はありません。

取れる責任は、取れる人にしか取れない。

 

 実は、どんな責任でも、取りきれない時は案外なんとかなるものです。

実際、僕は一度人生のシステムを限界まで使い倒して、本当の意味で物語の強制終了(リセットボタン)を押しました。

 

そう、自己破産の経験があるのです。

免責の後には「ブラックリスト」というリアルな現実が待っていますが、生活には何ひとつ困りません。

デビットカードと現金があればいい。

高額な買い物をしなければ、そもそもローンなんて必要ない。

家や車だって、賃貸とリースで何の問題もなく生きていけます。

 

大丈夫。逃げ切れます。 

 

専門家に任せることは責任放棄ではなく、物語を止めないための行動なのです。

 

  ハッピーエンドを作るのは、いつも他人

私は、他人のハッピーエンドをたくさん見てきた。 

 

結婚した、夢を叶えた、新しい人生を始めた……。

それを見て、「良かったね」「幸せになったね」と語る。

でも、本当はそこで人生が終わったわけじゃない。 その後も、日常は続いていく。

ハッピーエンドとは、その人の人生が完全に幸福になった地点ではない。 

 

「私がそこで見るのをやめて、語るのをやめただけ」なの・・・。

 

私が見つけたハッピーエンドは、いつも他人の物語でした。

 

自分の物語は、自分が生き続ける限り終わらない。 

幸福な瞬間が来ても、次の日がある。

工場の次のシフトがある。

だから、自分の人生にはハッピーエンドが無いように感じる。 でも、違うのかもしれない。

物語全体は終わらなくても、「場面」なら終わらせられる。

 

  一つの場面を、誰かに終わらせてもらう

自分の人生そのものを、他人に任せることは出来ない。

 

でも、一つの場面なら任せられます。

一つの問題なら渡せる。 

一つの結末なら、誰かに作ってもらえる。

弁護士が問題を処理してくれる。 

医師が治療への道を示してくれる。 

詳しい人が方法を教えてくれる。

 

その人の役目が終われば、また自分の物語が始まる。 

 

それでいいんじゃないかな?

 

人生とは、自分一人で最初から最後まで主人公を演じ切ることじゃない。 

 

その都度、主人公を渡しながら進んでいくことなのかもしれない。

 

自分で何とか出来ない時は、脇役になればいい。 

活躍しなくてもいい。答えを出せなくてもいい。

ハッピーエンドを作るのは、いつも他人だ。 

 

でも、そのハッピーエンドを見届けて、次の場面へ進むのは自分なんだ。

 シンプルフレーズ

ハッピーエンドを作るのは、いつも他人だ。
私が見つけたハッピーエンドも、いつも他人の物語だった。
幸せになったから終わったんじゃない。
私がそこで見るのをやめて、語るのをやめただけなんだ。

 

だから、自分の物語にも、その都度、主人公を渡せばいい。
誰かに一つの場面を終わらせてもらえばいい。
物語そのものは終わらなくても、場面なら終わらせられる。

 

楽しいに逃げても良いじゃないか。

ひとは弱い。

……なんて言うのは、100%私の主観だ。

人は脆い。

それも、私の主観だ。

なぜなら、私自身が弱くて脆くて、迷いやすくて流れやすくて、意思がはっきりしていなくて、優柔不断で、臆病で、後ろ向きだからだ・・・

物語の終わりは、私が決める

私は、旅行が好きだ。

いつも出掛けることを考えている。

次はどこへ行こうか。
どこに泊まろうか。
何を見ようか。

でも、いざ決めようとすると、途端に決められなくなる。

予算。
立地。
交通の便。
時間。
行きたい場所との距離。

あちらを立てれば、こちらが立たず。

迷って、悩んで、先送りにして、最後にはいつもギリギリになる。

 

そして、もうどうしようもなくなってから、勢いで決める。

 

いつものことだ・・・( ´∀` )

学生の頃、夏休みの宿題は最終日に本気を出すタイプだった。

大概、間に合いません。

普段の宿題すらまともに出来ない人間が、夏休みの宿題だけ計画的に出来るわけがない。

嫌なこと。
苦手なこと。
面倒なこと。

全部、後回しにする。

逃げ回って、先送りにして、棚上げにして、見ないようにして、誤魔化して。

最後には追い立てられて、逃げ切れなくなる。

 

なんとも辛い。

まるで税金みたいだ。

逃げても、逃げても、逃げられない。

 

はい、嫌いですけど何か?

  逃げることは、そんなに悪いことなのか?

逃げることは、否定されがちだ。

現実から逃げるな。
責任から逃げるな。
向き合え。
乗り越えろ。
頑張れ。

世の中は、立ち向かう人間が大好きだ。

逃げる人間は弱い。
逃げる人間は卑怯だ。
逃げる人間は無責任だ。

まぁ、そうなんだろう。

 

私もそう思う。

 

私は弱いし、ずるいし、脆いし、卑怯だ。

嫉妬も強い。
劣等感もある。
自己否定もある。

なのに、自己肯定感だけは無意味に高かったりする。

中身のない矜持や美学に染まって、格好良くありたいと思っている。

なんとも面倒くさい人間だ。

 

でも、それでいて思うんだ。

 

だって、逃げ切ることの魅力だって、あるんじゃないか?ないか?

逃げて、逃げて、逃げ回って。

大抵の場合は逃げ切れずに捕まる。

絡まって、泥沼になる。

それでもいいじゃないか?ダメなのか?

 

逃げる主人公がいたっていい。

泥沼の中で藻掻く主人公がいたっていいでしょ?

 

  客席から見ているだけなら楽しい

ルパンが言っていた。『ルパン三世 PART5』の台詞

「俺って人生の視聴者は俺だけだ。だったら俺が続きを見たくなるような物語じゃないと意味がないだろ?」

それを期待して見ている人がいる間は、その人は主人公なんだ。

誰も見なくなったら、その物語が終わるだけなんだ、と。

でもさ。

客席で見ているだけなら楽しいさ。

絶体絶命。
大ピンチ。
泥沼。
どん底。

そこからどうやって逆転するんだろう?

 

そう思いながら、安全な席で見ていられるなら楽しい。

 

でも、主人公側で蟻地獄の中を藻掻くのは苦しい。

次の一手なんて見えない。

逃げ道もない。

逆転出来る保証もない。

それでも、足掻くしかない。

主人公って辛いよね。

 

だって、これは私の物語だか・・・

 

途中で客席に降りることは出来ない。

画面を閉じることも出来ない。

自分の物語を、自分が見ている。

神様じゃない。

他人じゃない。

家族でも、身内でも、大切な人でもない。

自分が見ている。

情けないな。
格好悪いな。
また逃げているな。

そう思いながら、それでも自分が見ている・・・

  私は、この上なく人間している・・・気がする

平々凡々な主人公も素敵だ。

天才も、無敵も、チートも魅力的だ。

 

でも、私はそうじゃない・・・悲しかな

弱い。

面倒くさがり。

嫉妬する。

妬む。

自分を否定する。

なのに、根拠もなく自分を肯定する。

 

どうでもいいところで矜持を持ち出す。

美学を語る。

そのくせ、嫌なことからは逃げたい。

まったく、一貫性がない・・・我ながら呆れてしまうレベルだ(笑)

 

でも、だからこそ思う。

私は、この上なく人間していると思うんだ。

綺麗でもない。
立派でもない。
強くもない。

善人でも、悪人でもない。

 

ただ、欲望と理性と嫉妬と劣等感と自己肯定と自己否定が、同じ身体の中でぐちゃぐちゃになっている。

それが私だ・・・滑稽なくらいに私だ。笑えるくらいに私だ。

 

  終わらせ方を学んでいる真っ最中です。

私は今、自分の物語の終わらせ方を学んでいる最中なんだと思う。

何もかも抱えたまま、立派に完結させる方法ではない。

無理しない。
頑張らない。
出来ることは、出来ることだけ。

持てるのは、持てる分だけ。

何でも背負わない。

何でも救わない。

何でも証明しない。

選ぶのは、いつも自分。

それは、自由で格好いい話ではない。

 

選択肢が少なくても。

どちらも嫌でも。

選ばないことすら許されなくても。

最後に手を伸ばしたのが自分であることだけは、誰にも渡したくない。

 

まだ知らない未来に踏み出す力を、勇気と呼ぶらしい。

なら、私はまだ少しだけ勇気を持っているのかもしれない。

怖くないから進むわけじゃない。

自信があるからでもない。

弱くて、脆くて、逃げたくて。

それでも次の一歩を、自分で選ぶ。

それだけだ。

  諦念も余白も大嫌いだ

諦念なんて嫌いだ。

(諦念(ていねん)は、物事の道理や世の仕組みを深く悟った上で、執着を捨てて心穏やかにあきらめることを指します。)

余白なんて言葉も嫌いだ。

 

何もないことを、綺麗な言葉に言い換えたくない。

諦めたわけじゃない。

ただ、全部は持てないだけだ。

 

終わったわけじゃない。

ただ、今は動けないだけだ。

私はまだ仮面を付けられる。

笑っているように見える顔。

まだ大丈夫そうに見える顔。

次の場面まで立っていられる顔。

それで、今は十分だ。

仮面は嘘かもしれない。

誤魔化しかもしれない。

でも、それを付けることで今日を通過出来るなら、それでいい。

本当の自分を晒すことだけが誠実ではない。

壊れないために仮面を使うことだって、生きるための技術だ。

 

  物語の終わりは、私が決める

失敗したから終わり?

見放されたから終わり?

何も残らなかったから終わり?

もう遅いから終わり?

 

そんなふうに、他人や社会に勝手に結末を決められたくない。

泥沼でもいい。

逃げ回っていてもいい。

仮面のままでもいい。

次の展開が見えなくてもいい。

物語の終わりは、私が決める。

だから、まだ私の物語は終わらない。

突然ですが、こんな名言を耳にしたことはありませんか?

 

「人間は、判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」

フランスの劇作家、アルマン・サラクルーの言葉です。

 

これ、初めて聞いたとき思わず笑ってしまいました。

痛快すぎて、ハイボールを吹き出しそうになるくらいに。

人はなぜ、何度でも未来を信じてしまうのか?

人はなぜ、何度でも未来を信じてしまうのか?

 

「人間は、判断力の欠如によって結婚し、忍耐力の欠如によって離婚し、記憶力の欠如によって再婚する」

いや、痛快すぎる(笑)

確かにと思う。

 

結婚して、離婚して、もう懲りたと言いながら、また誰かを好きになって、また結婚する。

世界中で、何度も、何度も繰り返されている。

人間って、本当に愚かだなあと笑いたくなる。

 

でも、それでも人は、あえてそのいばらの道を進みたいと思ってしまう。

そこが、さらに痛快なんだ。

  結婚はゴールではなく、始まりなのに

人は、結婚をゴールだと誤解する。

 

付き合うまで。
告白するまで。
プロポーズするまで。
結婚式を挙げるまで。

そこまでは、まるで一つの物語だ。

 

困難があり、すれ違いがあり、最後に二人が結ばれる。

そして、めでたし、めでたし。

 

でも、現実はそこから始まる。

生活費はどうするのか?
家事は誰がやるのか?
疲れている時に、どちらが我慢するのか?
価値観が違った時に、どこまで譲れるのか?

 

結婚は、ハッピーエンドではない。

始まりでしかない。

ハッピーエンドなんて、終わりのある物語が、たまたまHAPPYな場面で終わっただけなんだ。

その後を想像したことがあるだろうか?

 

シンデレラなんて、絶対に価値観が合わないだろう(笑)

舞踏会で少し踊っただけの王子と結婚する。

育った環境も、金銭感覚も、生活習慣も違う。

恋愛としては美しい。

でも、生活としてはかなり怪しい・・・って、思いませんか?

 

リトルマーメイドのアリエルもさ、凄い波乱とハードルを乗り越えるわけじゃない?

待て待て、人間になったとしてもだよ?

種族の壁ってまぁね?美談だよ。これ以上は野暮だろう・・・。

 

私的には、パズーとシータは上手く行っていて欲しい。

それこそもう願望のレベルですよ。

 

物語は、幸福だった瞬間で終わる。

その幸福が永遠に続くから終わるのではない。

そこから先を書くと、ハッピーエンドでは終われなくなるから、物語を閉じただけなんだ。

 

  それでも、人はもう一度手を伸ばす

では、人はなぜ、何度も同じ道を進むのだろうか?

本当に記憶力が欠如しているからだろうか?

 

私は、少し違うと思う。

 

人は、忘れたからもう一度進むのではない。

覚えていても、未来の希望に負けるんだ。

 

離婚の苦しさも覚えている。
裏切られた痛みも覚えている。
期待して、失望したことも覚えている。

 

それでも、

今度こそ違うかもしれない。
次は、本物かもしれない。
今より良い未来があるかもしれない。

そう思って、また手を伸ばす。

 

まるで、トレジャーハンターだ。

宝箱の中身が、何度ミミックだったとしても、また次の宝箱を開けてしまう。

今度こそ、本物の宝が入っているかもしれないから。

人は、その欲望に勝てない。

 

  希望は、綺麗なだけのものではない

希望というと、明るくて、前向きで、美しいもののように思える。

 

でも、本当の希望は、もっと健気で、強欲で、どうしようもないものなんだと思う。

詐欺に騙される。
マルチ商法に乗る。
インチキを信じる。
神に縋る。

人は、ただ馬鹿だから騙されるわけではない。

 

自分が欲しかった未来を差し出されるから、信じてしまう。

人生を変えたい。
救われたい。
愛されたい。
認められたい。
今とは違う場所へ行きたい。

その願いに、もっともらしい形を与えられる。

 

だから、人は宝箱を開ける。

詐欺師が欲望を作るのではない。

すでにその人の中にある欲望を見つけて、そこに宝箱を置くんだ。

 

  「絶望から逃げる」と「希望へ走る」の正体

絶望から逃げることと、希望へ向かうことは、違うように見える。

 

この世界で生きていると、 「辛い現実(絶望)から必死に逃げ出している人」と、 

「眩しい理想(希望)に向かって全力で走っている人」に出会います。

 

一見すると、前者は後ろ向きな敗走で、後者は前向きな疾走のように見えるかもしれません。 

でも、その両方の背中を押し、足を動かしている根底のエネルギーは、実はまったく同じものではないでしょうか?

 

留まれば焼き殺される絶望から逃げるとき、人は「ここではないどこか」に、今よりほんの少しだけマシな未来を夢見ています。 

 

そして、目の前の怪しい宝箱に手を伸ばすときも、「これさえあれば」という一発逆転の未来に胸を躍らせています。

 

つまるところ、

「今より良い未来があるかもしれない」

という狂おしいほどの想いこそが、私たち人間を走らせる最大のエンジンなのです。

 

未来を選べるほどに選択肢の多い人なら、希望なのか逃避なのかと問えるのかもしれない。

 

でも、選択肢のない人に、その違いを問うことはできない。

逃げることも、進むことも、どちらも生きようとする動きなんだ。

 

  人間は、希望に魅せられて踊る

人間は、学ばないから繰り返すのではない。

学んでも繰り返す。

痛みを知っていても進む。

何度騙されても、何度裏切られても、何度ミミックに食われても、また宝箱に手をかける。

 

それは、愚かさなのかもしれないけれど、

それでも、その愚かさがあるから、人は絶望の中でも次を想像できる。

 

希望は、人を救うだけではない。

人を騙し、焼き、破滅させることもある。

それでも人は、希望に魅せられる。

今度こそ。
次こそは。
ここではない場所なら。
この人となら。

そうやって、また走り出す。

「今より良い未来があるかもしれない」

それは、健気で、強欲で、どうしようもない人間の生きる力なんだ。

絶望から逃げるのも、希望に向かって走るのも、根底はきっと同じだ。

 

「今より良い未来があるかもしれない」

その想いが、人を走らせるんだ。