今日も相変わらず、世界の理不尽と正面衝突しながら、左斜め上を観察してます。

ここ最近、「人が人をコントロールしたがる理由」についてずっと考えてたんだけどさ。

 

結局、人間って本質的にみんな利己的なんだよね。

自分の都合の良いように物事を運びたいし、自分の思い通りになって欲しいって誰もが願ってる。

 

本当に、人間ってバカだよね(笑)

強者のルールと愛想笑い、そして私の秘密基地

人って、人をコントロールしたがるんだ

自分の思い通りにしたい。
自分の都合の良いように物事を運びたい。

上司が部下に。
親が子に。
先輩が後輩に。
先生が生徒に。

「ルールだから」
「マナーだから」
「常識だから」
「規律だから」

物は言いようだよね。

結局さ、強い方の言うことを聞くしかないのよ。

辛いよね。

もう嫌だって思う時もある。
嫌いだって思う時もある。

だって、私も利己的だもの。

都合の悪い上司もいらない。
都合の悪い親もいらない。
都合の悪い先輩もいらない。

そう思うのは、ある意味で必然なんじゃないかな。

 

  言いたいことが言えるのは、自由じゃない

「言いたいことを言えるって、自由なことだ」

そんなふうに思っていた時期もあった。

 

でも、今はちょっと違うと思っている💦

 

言いたいことが言えるのは、自由というより力関係なんだよね。

だって、上司には言えるけど部下には言えないことがある。

親には言えるけど、子供から同じことを言われたら腹が立つこともある。

先生が生徒に怒ることは許されても、生徒が先生に同じように怒れば問題になる。

同じ言葉でも、誰が誰に言うかで意味が変わる。

 

だから、言いたいことを言えるというのは、ある意味で特権なんだと思う。

 

怒りって、水と同じなんじゃないかな?

高いところから低いところへ流れていく。

強い人が弱い人に怒る。

弱い人は、その怒りをさらに弱いところへ流す。

 

そして、その流れの中で、誰かが誰かをコントロールする。

人間は利己的だから、自分の都合の良いようにしたい。

だから強権を振るう。

でも、人間は利己的だからこそ反発もする。

「俺の都合を押し付けるな」

って思う。

 

これが面白い🤣www

 

  ある日の会社での一コマ

先日、会社でこんなやり取りがあった。

 

「時間です。ちゃんと時間内に終わらせてください。決まった時間があるんで、そのように動いてください」

「終わりません。すみません」

「知りません。時間は決まってます。仕事なんで時間内に終わらせるようにしてください」

「分かりました・・・」

 

(え? その仕事をする時間をください?)……って思った。

いや、こっちも知りませんよ?

終わらなくても知りませんよ?

 

だって、終わらせろと言うなら、その仕事をする時間をくださいよ。

 

時間内に終わらない仕事を、時間内に終わらせろ?

終わらなかったら、こっちの責任?

(アホなんですか?)

 

でも、終わらせるための時間は、こっちでは決められない?

 

これって、結局は力関係なんだよね。

 

上司の「時間内に終わらせろ」は、会社のルールになる。

私の「その仕事をする時間をください」は、ただの言い訳になる。

どっちも自分の都合を言っているだけなのに。

 

  私も利己的だから

私は、上司だけが利己的だと言いたいわけじゃない。

 

人間は利己的なんだ。

上司は上司の都合がある。

会社には会社の都合がある。

部下には部下の都合がある。

 

私にも私の都合がある。

 

だから私は、都合の悪い上司なんていらないと思う。

私の都合の悪い人間にまで、私が合わせ続けなきゃいけない理由なんてないと思う。

 

でも、弱者の私は強者をコントロールできない・・・

 

ここが現実なんだよね。

だから、今まで私は何度も抗おうとして、躓いて、苦しんで、そして排除される側になってきた。

「嫌なものは嫌だ」

「おかしいものはおかしい」

「納得できないものは納得できない」

そうやって真正面からぶつかれば、そりゃ負ける。

 

だって、力が違うんだから・・・(´;ω;`)ウゥゥ

  だから今なら言える

愛想笑いって、最強のツールなんじゃないか?

 

顔で笑って、心で泣く。

「ごめんなさい」

「すみません」

「申し訳ございません」

そうやって荒波をかわしていく。

 

マインドフルネスも、スピも、自己啓発も、何も役になんて立たない。

少なくとも、その瞬間に自分を守ってくれるのは、そんな立派な言葉じゃない。

ただ、その場で笑顔。

ただ、頭を下げる。

ただ、やり過ごす。

 

それでいい。

 

別に納得してなくてもいい。

 

心の中では、

「知らんがな」

でもいい。

 

だって、相手を変えられないんだから。

だったら、自分の出し方を変える。

それも一つの戦い方なんだと思う。

 

  でも、うっぷんは溜まるんよ

ただし、これには当然、代償がある。

顔で笑って、心で泣く。

その場は荒波を交わせる。

でも、怒りは消えない。

悔しさも消えない。

吐き出せない思いもある。

どうしようもない感情も溢れてくる。

 

愛想笑いをしたからって、心の中まで笑顔になるわけじゃない。

 

「すみません」と言ったからって、本当に自分が悪いと思っているわけじゃない。

むしろ、

「なんで私が謝らなきゃいけないんだよ」

って思っているかもしれない。

 

でも、言わない。

言えない。

言ったところで、こっちが損をする。

 

だから笑う。

それで生き残る。

でも、吐き出せないものは、どこかに溜まっていく。

 

だからこそ、私はもう一つの居場所が必要なんだと思う。

  もう一つの居場所

創作でもいい。

SNSでもいい。

配信でもいい。

非日常で、非現実の世界。

普段の自分とは違う場所で、自分を吐き出す。

 

会社では「すみません」と言っている私が、創作では好き勝手言っていい。

会社では愛想笑いをしている私が、SNSでは毒を吐いてもいい。

普段なら飲み込んでしまう感情を、別の場所に出していい。

それは、逃げじゃないと思う。

現代の蘇生術であり、サバイバル戦術なんじゃないかと思う。

一つの場所で全部の自分を生きようとしない。

それでいいんじゃないか。

 

  2面性? 良いじゃないか

 

「二面性がある」

「本当の自分を隠している」

「ペルソナなんて偽物だ」

そんなことを言われるかもしれない。

でもさ。

2面性?

良いじゃないか。

だって、私は利己的だもの。

私の都合の良いペルソナくらい使いますよ。

会社で使う私。

家で使う私。

友達といる時の私。

創作している私。

SNSで好き勝手言っている私。

 

どれが本物で、どれが偽物なんて、そんなことどうでもいい。

全部、私なんだから。

 

強者は、人をコントロールする。

弱者の私は、ペルソナを使いまわして、強者の利己的な人間性と折り合いをつける。

相手を変える力がないなら、自分の出し方を変える。

 

相手に合わせることだってある。

笑うことだってある。

謝ることだってある。

 

でも、それで私の全部が決まるわけじゃない。

吐き出す場所は、別に持っておけばいい。

  強者が強いから正しい世界で

権力と正しさなんて、簡単に区別できない。

強い方が正しい。

勝った方が正しい。

歴史なんて、そういうところがある。

もちろん、本当に正しいかどうかなんて別の話だ。

 

でも、何を正しいこととして通すのか。

何をルールにするのか。

誰の言葉が「常識」になるのか。

そこには、どうしたって力が関わっている。

核を使ったアメリカにも国連がある。

強い国が、世界のルールを作る側にいる。

 

会社だって同じだ。

強い立場の人間の「都合」が、「ルール」や「常識」という名前を与えられることがある。

 

だから私は、もう「正しさ」だけで戦おうとは思わない。

正しいかどうかなんて、力関係の前では簡単にひっくり返るから。

 

だったら私は、私のやり方で生き残る。

愛想笑いでもいい。

「すみません」でもいい。

ペルソナでもいい。

創作でもいい。

SNSでもいい。

配信でもいい。

顔で笑って、心で泣いて、それでも別の場所では思いっきり吐き出す。

 

それでいいんじゃないかな?

だって私は利己的だもの(笑)

私の都合の良いように、自分くらい使い分けますよ。

強者が人をコントロールするなら、弱者の私はペルソナを使う。

それもまた、私が生き残るための戦術なんだから。

今日楽しかった~

明日も良い日になりますように!

って毎日言いたいよね?

 

え?そうでもない?💦

私だけだったらごめんじゃん💦

良いことは続かない?……本当に?

良いことがある時って、なぜか続く。

逆に、悪いことが起きる時も、綺麗に連鎖する。

楽しい時って、何をしても楽しいんだよ。

ゲームをやれば勝てるし、突発的なトラブルも起きない。予定通りにいくし、欲しいモノも手に入る。

何なら、ご飯も美味しい(笑)

「最近、良いことばっかりだな」って思う。

 

でも、そこで人は思うんじゃないかな?

「こんなに良いことが続くわけない」
「そろそろ悪いことが起きるんじゃないか」
「良いことはいつか終わる」

……それ、本当にそうなのかな?

 

それもバイアスかもよ?

 

良いことが続いているんじゃなくて、気持ちが良いから、良いものを拾い続けているだけなんじゃないか。

逆に、嫌なことが一つあると、小さいことまで気になる。

暑い。
人が多い。
道が分からない。
店が見つからない。
歩くのが疲れる。

さっきまでなら「まあ、そんなこともあるか」で済ませていたことまで、嫌なこととして目につく。

だから嫌なことが増えたように感じる。

 

でも、増えたんじゃない。

拾うようになっただけなのかもしれない。

良い時はポジティブな要素を拾う。

悪い時はネガティブな要素を拾う。

ただ、それが続いているだけ。

そう考えると、「良いことが続く」「悪いことが続く」というのも、ちょっと怪しくなってくる。

 

  旅行は、行く前から始まっている

 

私の大阪旅行、楽しかったもんよ!

暑かったし、人多かったし、道分からないし、ご飯屋さんも行きたいところを見つけられなかったり、食べられなかったりした・・・

歩くのも疲れた・・・

 

それでも「楽しかった」って言える。

 

だって、楽しいって思って見ているからさ。

旅行だから楽しいんだよ。

 

でも、よく考えたら旅行って、当日になって突然始まるわけじゃないんだよね。

旅行に行く前から、もう楽しい。

お気に入りの服を選ぶ。

美容院に行く。

ネイルを整える。

どこへ行こうか考える。

何を食べようか考える。

何を見ようか考える。

もう、そこから演出が始まってるんだ。

 

「この旅行、楽しみだな」

って思った時点で、もう自分の中では物語が始まっている。

 

だから「旅行に行く前が一番楽しい」っていうのも、分かる気がする。

まだ何も起きていない。

なのに楽しい。

それは、これから起きる出来事を、もう楽しい物語として見ているからなんだろうね。

 

ラルクも言ってるじゃん。

「お気に入りの服に着替えたら」って。

 

服を着替えただけで現実が変わるわけじゃない。

 

でも、自分の中では何かが始まる。

お気に入りの服を着る。

好きなネイルをする。

美容院に行く。

それだけでもう、「今日は楽しい日だ」という演出が始まっている。

 

  じゃあ、良いことはいつ終わるんだ?

旅行が終わる。

家に帰る。

荷物を片付ける。

いつもの部屋。

いつもの布団。

いつもの生活。

 

そこで、

「旅行、終わったな」

って思う。

 

でも、何で終わったんだろうね?

旅行そのものが消えたわけじゃない。

写真も残っている。

思い出も残っている。

買ったものだって残っている。

「次はどこへ行こうかな」と考えたっていい。

 

それなのに、

家に帰ったら「終わり」にしてしまう。

物語を終わらせてしまっているんだよ。

 

だから、

「良いことは続かない」

と思う。

良いことが勝手に終わったんじゃなくて、自分で物語を閉じているのかもしれない。

  制服に着替えたら、別の物語が始まる

旅行の時には、お気に入りの服を着る。

 

じゃあ、仕事や学校に行く時は?

制服を着る。

 

それだけで、

「ああ、仕事か」

「学校か……」

ってなる。

 

お気に入りの服に着替えて楽しい物語を始めたのと同じように、制服に着替えた瞬間、今度はハードな現実の物語を演出してしまう。

休日が終わる。

明日は仕事。

制服を着る。

電車に乗る。

 

そして、

「また日常が始まる」

ってなる。

 

そりゃ急に辛くなるよ。

物語が切り替わったんだから。

夏休みの終わりが近づくと苦しくなるのも、同じなんじゃないかな。

「あと何日しかない」

「もうすぐ学校が始まる」

「また毎日が始まる」

夏休みが特別で、日常がさらに特別な異常みたいになっている。

だから終わりが怖い。

 

五月病?

私にはサザエさん症候群との違いが分からない(笑)

 

いや、細かい意味は違うんだろうけどさ。

どっちも「特別な時間が終わって、日常というハードな物語に戻る」ってところでは、似ているんじゃないの?

 

  でも、現実は現実だ

ここは間違えちゃいけない!

工場は暑い。

日差しは強い。

仕事は楽しくない。

……そんなの当たり前だ(笑)

 

人間関係が重い。

家族が苦しい。

友人が怖い。

自分が嫌い。

そんなの、今に始まったことじゃない。

 

自分の捉え方を変えたら、工場の温度が下がるわけじゃない。

嫌な人が急に良い人になるわけでもない。

苦しい家族が、好きな家族になるわけでもない。

自分の捉え方で、現実そのものが変わるわけじゃない。

 

だから、

「ポジティブに考えよう」

なんて話じゃないんだよ。

 

むしろ、

良いことも悪いことも、そのままある。

それでいいんだと思う。

 

  「悪いことが続いている」のではなく、限界まで我慢しただけかもしれない

ずっと人間関係が重かった。

ずっと家族が苦しかった。

ずっと仕事が楽しくなかった。

それでも我慢してきた。

我慢して、我慢して、我慢して。

 

ある日、

「もう無理」

となる。

 

その時に、

「最近、悪いことばっかりだ」

って思う。

 

でも、本当に最近になって急に全部が悪くなったのかな?

 

違うのかもしれない。

ずっとそこにあった。

ただ、今が限界だった。

もう無理ってなるまで我慢したのかもしれない。

 

だから、「悪いことが続いている」という話と、「今の自分が限界かもしれない」という話は、別なんだよ。

ここを一緒にしちゃいけない。

  波乱万丈にしなくていい

嫌なことがあった。

だから、

「人生は波乱万丈だ」

「私の人生はハードだ」

「悪いことばっかりだ」

なんて言う必要はない。

 

逆に、良いことが続いたからって、

「こんなに良いことが続くはずがない」

「この後が怖い」

「どうせ終わる」

なんて言う必要もない。

 

だって、それが日常だから。

楽しい日もある。

嫌な日もある。

何もない日もある。

めちゃくちゃ嬉しい日もある。

もう無理って日もある。

それが普通。

工場は暑い。

大阪は楽しい。

人間関係は面倒くさい。

ご飯は美味しい。

自分が嫌になる日もある。

好きな服を着て気分が上がる日もある。

全部、同じ日常の中にある。

 

  続いているのは「良いこと」でも「悪いこと」でもない

だから私は思うんだ。

良いことも悪いことも、続いているんじゃない。

 

日常が続いているんだよ。

その日常の中に、一コマ一コマ、いろんなことが起きている。

 

その中で、

何を拾うか。

何を見逃すか。

何を主役にするか。

何を背景にするか。

どこからどこまでを一つの物語にするか。

どこで終わらせるか。

それを自分がやっている。

 

気持ちが良い時は、ポジティブな要素を拾い続ける。

だから、

「良いことが続いている」

と感じる。

 

嫌なことがある時は、ネガティブな要素を拾い続ける。

だから、

「悪いことが続いている」

と感じる。

 

でも、本当はその間にも、どうでもいいことだって、普通のことだって、良いことも悪いことも、全部ごちゃ混ぜになって存在している。

ただ、自分が何を拾って、何を繋げているかなんだよ。

  「普通」って、そういうことなんじゃないか?

悪いことしかないなんて言う必要はない。

良いことが続いているから、後が怖いなんて言う必要もない。

波乱万丈でハードな人生だなんて、わざわざ物語を大きくする必要もない。

 

だって、

それがあなたと私の普通なんだから。

良いこともある。

悪いこともある。

楽しいこともある。

辛いこともある。

それをいちいち、

「良いことが続いている!」

「悪いことが続いている!」

って、大きな物語にしなくてもいい。

 

今日、楽しかった。

今日は嫌だった。

それでいい。

 

大阪は楽しかった。

暑かったけど(笑)

工場は楽しくなかった。

暑かったから(笑)

それでいいんだよ。

 

良いことが続くんじゃない。

悪いことが続くんでもない。

日常が続いている。

その日常の中で、何を演出して、何を拾って、何を取捨選択するのか。

その積み重ねで、

「良いことが続いている」

ようにも、

「悪いことが続いている」

ようにも見えてくる。

だから、良いことが終わるんじゃない。

悪いことが始まるんでもない。

 

ただ今日があって、

明日があって、

その中に、楽しいことも嫌なことも転がっている。

それだけなんだと思う。

 

……まあ、工場は暑いけどね(笑)

行ってきました!

シティーハンター大原画展!!!!

控えめに言って最高を軽く超えてるかな?



いやぁ……良かった。何十年経っても、やっぱり好きだwww

 

一枚一枚の原画が、もう凄い😭

本当に良かった。

一枚一枚の作画のクオリティの高さに、まず感動する。

「これを週刊連載していたのか……」

と、信じられない気持ちになる。

 

作画の凄さと繊細さ。
ストーリーの面白さ。
何度も読んだはずなのに、同じ展開なのに飽きないクオリティ。

やっぱりシティーハンターって、凄い作品だなぁ。

 



  「こんな話もあったな~」が次々と蘇る

私は何度も何度も読んでいる。

アニメだって、昔は学校から帰ってくる時間に放映されていて、日常の流れの中に普通にシティーハンターがあった。

 

アニメを見て、その後しばらくして原作の漫画を買って、全部読んで。

泣いて、笑って、ドキドキして。

 

・・・それから20年以上。

いや、もう30年以上になるのか?

 

私もいつの間にか、物語になるくらいの時間を過ごしてしまった・・・

 

それなのに、原画を見ていると、

「こんな話もあったな~」

「こんなキャラも居たな~」

って、次々と思い出が再生されていく。

 

大好きな話のヒロインが飾られていれば、その話が丸ごと頭の中で再生される。

香と獠のデートの話なんて、今見てもキュンキュンする(笑)

 

もう、どの話も最高なんだよ(笑)

 



  知っているのに、また息を呑む

しかも、初期の頃の劇画調の作画から、だんだん見やすく、親しみやすい作画に変わっていくのを追っていくのも楽しい。

「この頃はこうだったんだなぁ」

なんて思いながら原稿を見る。

 

海坊主との決闘シーンなんて、展開を知っているどころか、何度も読んでいるのに、原稿を前にすると、かたずを飲んで読んでしまう。

血まみれの獠に痺れる(笑)。



 

そして海原編。

もう、あれは全部が感情豊か過ぎる。

ドキドキしながら原稿を見ているのか、漫画を読んでいるのか分からなくなるくらい、鮮明に展開が流れていく。

 

最後のキスシーンなんて、等身大のパネルでもう……

泣ける。

そして、

惚れる。

(笑)

 

  ヒロインが、みんな最高なんですよ(笑)

ヒロインの女性たちも凄い。

一人一人にちゃんと物語がある。

しかも、どの女性も魅力的で綺麗で、まぁなんとも男受けする女性たちですよ(笑)。

 

表紙絵のイラストや描きおろしの特別画なんて、どれもこれも宝。

 



香が可愛い(笑)。

綺麗(笑)。

蝶よ花よで最高です!

 

そして喫茶キャッツアイの等身大パネル。

足……長すぎ(笑)。

靴……でかすぎ(笑)。

海坊主……でかすぎ(笑)。

 

いや、これさ……

1人で見に来る所じゃなかったよ……。

だってパネルと一緒に写真撮れないもん(笑)。

自撮り棒必須です、泣😱

 

シティーハンターって、同じような展開なのに飽きないんですよね。

依頼が来る。

美女が出てくる。

獠がデレる。

香が怒る。

事件に巻き込まれる。

獠がふざけているように見える。

でも、いざという時には圧倒的にカッコいい。

この型を何度も繰り返しているのに、毎回面白い。

 

それは、ヒロイン一人一人に物語があるから。

キャラクター一人一人にも物語があるから。

 

だから同じ展開でも、中身が違う。

一枚の原画を見ただけで、そのキャラクターの物語まで一緒に再生される。

 

それだけのものを、北条先生は私たちの中に残してくれたんだと思う。

 

まぁ……

主要キャラの過去の辻褄が合わないのは、シティーハンターあるあるだけどね(笑)。

「あれ? 前と設定違わない?」

ってなる。

 

でも、

そういう設定だから(笑)。

それでいいんだよ。

その時その時の物語が面白ければ、それでいい。

  30年以上経って、見えるものが変わった

でも、今回一番感じたのは、やっぱり「懐かしい」だったのかもしれない。

 



最後の展示の動画なんて、感動というよりもう感無量。

「あぁ~、そうそうこれこれ・・・あったなぁ~」

って。

もう泣きそう。

っていうか、泣ける。

 

昔、学校から帰ってきてアニメを見ていた。

その時の私は、何を思って見ていたんだろう?

たぶん、そんなに深く考えていなかったんだと思う。

ただ日常の中にシティーハンターって言うアニメがあった。

面白い。

カッコいい。

それだけだったのかもしれない。

 

その後、原作を買って、何度も読んで。

 

・・・そして今。

私はあの頃の自分より、ずっと歳を重ねている。

 

北条先生がシティーハンターを描いていた頃の年齢に、今の私が近づいていることにも気づく。

そう思って原画を見ると、また違った感慨がある。

「こんな凄いものを、あの頃の北条先生はこのくらいの年齢で描いていたのか」

って。

 

昔は「面白い」「カッコいい」で見ていたものが、今はそれ以上のものとして見えてくる。

それは作品が変わったからじゃない。

私の中に時間が積み上がったからなんだろうな。

 



  私が「最高の男」を学んだシーン

昔は、獠がカッコいい。

今も、獠がカッコいい(笑)。

でも、今だからこそ分かるカッコよさもある。

 

私がシティーハンターで一番好きな話の一つが、西九条沙良編。

 

最後にサラがおじさんの心を読む時に、獠の手に触れて、そこで勇気を貰って前を見ることができる。

細かいセリフまではもう思い出せない。

 

手元に漫画がないことも、今はちょっと残念。

それでも、あの時の獠の姿と、心を開いて前を向くことができたサラの姿は、いつまでも鮮明に残っている。

 

私にとって、あのシーンは「最高の男」を学んだシーンなんだと思う。

 

勇気ってさ、

安心を貰った時に湧いてくるんだと思う。

 

勇気ってさ、

「大丈夫、何とかなる」って思った時に奮い立つんだと思う。

 

勇気ってさ、

信じられる何かがある時に、行使できるんだと思う。

 

そういうものを、私はあの頃の獠から教えてもらったのかもしれない。

だから、今でも憧れの大人の男性として残っている。

 

  時間が積み上がったからこそ、好きが深くなる

そして何より、今回改めて思った。

好きなモノを、改めて好きって思えるのは最高のことだ。

長い時間を過ごしてきた。

良かった時間もあった。

悪かった時間もあった。

後悔する時間もあった。

「あの時間は何だったんだろう」と思うことだってある。

 

だからって、今までの全部を「良かった」と言い換える必要なんてない。

 

でも、そんな時間を積み上げてきたからこそ、昔好きだったものを今もう一度見て、

「やっぱり、俺これ好きだわ」

って思える。

昔は「面白い」「カッコいい」だけだったものが、今の自分にはもっといろんなものとして見える。

 

そう思うと……

今までの時間も、悪いことだけじゃなかったのかもしれないな・・・

昔好きだったものを、今も好きでいられる。

しかも、昔よりもっと好きになれる。

それって、最高じゃないか?

 



まだまだ好きなままで居られそうです。

大好きです、シティーハンター。

北条先生。

40周年、本当におめでとうございます。

そして、

最高の作品をありがとうございます。

これからも、まだまだ好きでいます(笑)。

過酷な労働。

終わらない試練。

報酬を得ても、税金や社会保険や生活費で消えていく。

働いて。

稼いで。

支払って。

また働く。

お金という資産を手に入れても、形として残すことすら難しい制度の中で、私たちは生きている。

頑張った。

耐えた。

ようやく手に入れた。

そう思った頃には、また何かに持っていかれる。

そして、また最初からだ。

そう考えると、不条理を、私たちは日常の中で何度も実感している。

 

何も持たない私たちが、それでも岩を押し上げる理由。

 

カミュの『シジフォスの神話』を思い出す。 

神々の怒りを買い、巨大な岩を山頂へと押し上げ続ける刑罰を与えられた男の話だ。

山頂に達した瞬間、岩は重力に従って奈落へと転がり落ちる。

そして男は、また黙々と岩を押し上げるために坂を下りていく。

過酷な労働、終わらない試練、どれだけ報酬を得ても結局はシステムに搾取される現実。

 

結果として、何かを自分の形として残すことすら許されない制度の中で、私たちは生きている。

生きることがこの「不条理の繰り返し」なのだとしたら、人生は悲しすぎるとしか言えない。

 

  「心の持ちようで幸せになれる」という最悪の欺瞞

よく耳にする綺麗事がある。 

「置かれた場所で咲きなさい」とか「心の持ちようで世界は変わる」とか。

自己啓発やマインドフルネスやスピリチュアルの世界だ。

 

寝言は寝て言え、本末転倒だ、と私の狭量は吐き捨てたくなる。

試練として、刑罰として与えられたこの過酷な現実から、無理やり「幸せ」を見つけ出そうとする行為。

それ、精神医学でいう「ストックホルム症候群」と何が違うのだろうか?

 

押しても落ちる。

また押す。

成果は残らない。

意味も価値も保証されない。

それでも、押すしかない・・・

 

その中で幸福を探している時点で、私たちはすでに精神を明け渡し、試練を与えた側に寄り添って「降伏」しているのだ。

そんな風に達観して「シジフォスは幸福だったと想像せねばならない」なんて言えるのは・・・

 

安全な観客席から見ている批評家か、岩を落とす神々の側(支配者層)だけ。

 

本来なら、

なぜ岩を押さなければならないのか。

なぜ神々は罰を与える権利を持っているのか。

なぜ押し続けることを受け入れなければならないのか。

そこを疑わなければならないはずだ。

押し上げ続けている当人は、虚しさの中でただ藻掻くしかない。

幸せなんか見つかるわけがない。

 

見付けたら、それはもう罰でも試練でもなくなってしまう。

 

もちろん、日々の生活をサバイブするために「小さな目標」を設定することは否定しない。 

昨日より少しだけ高く持ち上げたという事実、諦めない自分への賞賛、心が折れないという反抗。

 

その「達成の愉悦」をもって不条理に抗うメンタルは、現代を生きるために絶対に必要だ。

 

けれど、その小さな達成が、最終的な目的にたどり着けるかと言えば、

結局は虚しく転がり落ちる岩の前で「無駄なあがき」になってしまう。

 

それが現実だ・・・

 

  美学や矜持という「何も無い者の、最後の砦」

 

誰も助けてくれない孤独の中で、何かに縋りたいと思うのが人の心というもの。

そんな時、精神を明け渡さないための「美学」や「矜持」を守りたいと思う。

 

けれど、私がそうやって目に見えない美学や矜持を大切にしようとしてしまうのは、

なんてことはない、ただ「モノ」が無いだけの話なの・・・。

 

友人がいないわけじゃないと言いたいけれど

家族を思いたいと言いたいけれど会えなかったり

思い出の品と言いたいけれど持っていなかったり

 

ないから、縋るものが他にないから、内なる美学に縋っているだけ。

 

本来なら、精神論なんかじゃなく、もっと現実の物質の方が、より大切にできるに決まっている。

  • 思い出のアクセサリー

  • 記念の写真

  • 家族や人との繋がり

  • SNSのフォロワーだっていい

そういう目に見えるモノを必死に守って、

大切にしようという行為の方が、よっぽど一生懸命に、命を懸けられる。

  私じゃない「あなた」なら、持っているものがあるんじゃないか?

だからこそ、私は思う。

私じゃない誰かなら、その手の中に「持っているもの」があるんじゃないか?

 

守りたい大切な人や、手放したくない思い出の品が、きっとあるはずだ。

自分自身は何も持たず、ただ矜持だけを胸に岩を押し上げている。

けれど、もしあなたが「守りたい大切なモノ」を持っているなら・・・

 

そのモノを大切にするためだけになら、このクソみたいな試練や罰の溢れる世界の中でも、泥水をすすりながら生きていっていい。

それだけが、この不条理な世界で現実を生きるための、唯一の、そして正当な選択理由になる。

 

完璧な幸福なんて探さなくていい。 

ただ、その手にある大切なモノから、目を離さないように。

最初に言ってしまう。
人間関係がしんどいのは、相手が悪いからだけじゃない。
自分が「何を好きで、何を許せるのか」を知らないまま、人と関わっているからだ。

あなたが「誰でもいい」と言うとき、誰かを地獄に突き落としている。

 

「好きになった人が好き」 

「タイプなんて特にない、その人を好きになればそれが好み」

一見すると、執着のない、海のように広い心を持った言葉に聞こえますよね。

でも、ハッキリ言わせてほしい・・・

 

その「優しさ」の正体は、無責任な「自己欺瞞」であり、相手を逃げ場のない地獄へ閉じ込める暴力です。

 

今日は、実存主義の哲学者サルトルの視点を借りて、なぜ「自分の好みをハッキリ持たない人間」が人間関係を壊し、相手を不幸にするのか。その残酷な真実を解き明かします。

  他者は、最初から「人間性」では見られない

人が人を見る時、最初に入ってくるのは中身じゃない。
顔つき、雰囲気、声、話し方、服装、清潔感、前情報。
そこに先入観や固定観念まで混ざって、「この人はこういう人だ」と勝手に人物像が作られていく。

 

つまり私たちは、相手そのものを見る前に、相手についての“仮説”を見ている。
その時点で、もう完全に公平ではない。

 

好みが合う。なんとなく心地いい。共感できる。
そう感じた相手には、自然と余白を与える。

 

少し言い方がきつくても、「悪気はないのかも?」と思える。
逆に、苦手だと感じた相手には、その余白が消える。
同じ言葉でも、許せなくなる。

  ぶつかるのは当然だ

サルトルは戯曲『出口なし』で「他者は地獄である」というものがあります。

これは「他人が嫌な奴だ」「他人がただ邪魔」だという意味ではない。


人は他者のまなざしの中で、自分を決めつけられ、縛られ、苦しくなることがある・・・

そういう人間関係の逃げ場のなさを突いている。

 

自分のあり方を決める権利を他者に奪われること。

「まなざし」によって自由を奪われ、標本のようにピンで留められること。 

これこそがサルトルの言う「地獄」です。

 

だから、人と人が衝突するのは異常じゃない。
喧嘩も、行き違いも、意見のズレも起こる。
問題は、ぶつかった後にどうするか?だ。

  好みを知らない人ほど、相手に押し付ける

ここで大事になるのが、自分の好みを知っているかどうか?・・・だと思う。


自分はどういう人に惹かれるのか。
何なら許せて、何が本当に無理なのか。


そこが分かっている人は、歩み寄る理由を自分の中に持てる。

「この部分は苦手だけど、この誠実さは好きだ」
「不器用だけど、そこは許せる」
そうやって、相手を認める理由を自分で見つけられる。

でも、「好きになった人が好き」としか言えない人は危うい。


一見すると自然体に見えるけれど、実は自分の基準が曖昧なままなんだ。


すると衝突した時に、

「あなたが変わってくれたら許せる」

「あなたが歩み寄ってくれたら続けられる」

と、関係を保つ理由を相手に押し付けやすくなる。

 

歩み寄るための「理由」や「物差し」を自分の中に持っていないため、解決の責任をすべて相手に丸投げするのです。 

相手からすれば、逃げ場のない「正論」や「感情」という名の地獄に突き落とされたも同然です。

  自分の好みを知ることは、他人を雑に裁かないため

自分の好みを明確に持つことは、わがままになるためじゃない。


自分に合う距離を知るためだ。


近づける人。少し離れた方がいい人。無理に分かり合わなくていい人。
それを見極めるには、まず自分を知らなければならない。

人を許せるかどうかは、相手の正しさだけでは決まらない。


自分が何を好み、何に傷つき、何を大切にしているか・・・そこに大きく左右される。

だからこそ、人間関係で本当に必要なのは、他者理解の前に自己理解なんだと思う・・・


自分の好みを知ることは、相手を支配するためじゃない。
相手を必要以上に否定しないための、最低限の理性なのかもしれない。

 シンプルフレーズ

社会は、私たちを「都合の良い家畜」にしようと必死です。 

「みんなと仲良く」「相手に合わせなさい」「好みなんて言わずに受け入れなさい」

そんな不条理な同調圧力の中で、自分の「好き・嫌い」という感性を殺して生きることは、

サルトルの言う「自己欺瞞(自分に嘘をつくこと)」に他なりません。

 

誰に何を言われようと、「私はこれが好きだ」「私はこれが嫌いだ」という手綱を離さないこと。

 自分の好みを研ぎ澄ますことは、自分勝手になることではありません。 

それは、大切な誰かを自分の勝手な感情で振り回さないための、最低限の「知的なマナー」なのです。

あなたは今日、自分の「好み」という名の自由を、ちゃんと行使していますか?