占いはよく分からないんだけど。
北海道来ました。
もう、波乱の連続
これは、厄年ってことですか?
また珍道中の報告ブログ書きます〜
お楽しみに🤭
整える時間
心や生活を整えることで、
落ち着いた流れを感じられる時期。
無理に動くよりも、自分のペースを大切にすることで
安心感が増していきます。
提供元:Ameba占い館SATORI 占いはよく分からないんだけど。
北海道来ました。
もう、波乱の連続
これは、厄年ってことですか?
また珍道中の報告ブログ書きます〜
お楽しみに🤭
心や生活を整えることで、
落ち着いた流れを感じられる時期。
無理に動くよりも、自分のペースを大切にすることで
安心感が増していきます。
提供元:Ameba占い館SATORI 「働きたくない」って言葉、よく聞く。
周りもそうだし、自分もそう思うことがある。
でもそれって、本当に“怠けたいだけ”なんだろうか?
「どうして仕事が嫌いなの?」
そんなこと聞かれると、ちょっと考えてしまう。
でも、答えはたぶん、すごく単純だ・・・私の場合はね・・・
仕事って、そもそも何なんだろう?
今の時代の仕事って、
基本的には“他人から与えられるもの”だ。
・上司からの指示
・会社からの役割
・顧客からの要求
それを達成することで、対価としてお金をもらう。
つまり、他人の期待を満たすことで、生きるための資源を得る行為。
これが、今の「仕事」だと思う。
でも、昔・・・というか、原始的な時代は少し違ったはずだ。
畑を耕す。
狩りをする。
水を汲む。
家族を育てる。
これも全部、仕事だ。
でもその時の対価はシンプルだった。
・食べるもの
・住む場所
・生き延びること
つまり・・・生きるために、そのまま必要なものを得ていた。
今はどうか。
生きるために必要なのは、食べ物じゃない。
お金だ。
そして、そのお金を手に入れる手段が「仕事」になった。
ここで大きな違いが出てくる。
昔は、
・自然
・環境
・見えない何か
に従っていた。
でも今は違う。
相手は「他人」だ。
他人は、目に見える。
比較もできる。
優劣もつく。
損得もある。
だから、
・あいつより下に見られたくない
・理不尽だと感じる
・押し付けられている気がする
そんな感情が生まれる。
本来、生きるための行為は変わっていない。
でも、
「誰に従っているか」
が変わったことで、
強制されている感覚が生まれた。
自然に従う時、人はあまり怒らない。
でも、人に従うとき、人は感情を持つ。
・反抗心
・敵対心
・不満
これが、「働きたくない」に繋がっている気がする。
少し極端な話をすると、
必要なものが全部揃っていて、
何もしなくても生きられる状態だと、人は動かなくなる。
いわゆる“楽園実験”みたいな状態。
手が届く場所に全てがあると、
行為そのものが失われていく。
それを逆から見ると、
・手に入れる必要がある
・行動しないと得られない
からこそ、人は動く。
じゃあ、なぜ仕事が好きな人もいるのか?
そこには一つの違いがあると思う・・・
仕事が好きな人は、
・達成感
・成長
・役割
・人との繋がり
こういうお金以外の価値を見つけている。
だから、
生きる=お金
にならない。
一方で、仕事が嫌な人は、
生きる=お金=仕事
この構造になる。
だから、
・仕事も嫌
・お金のために働くのも嫌
・結果的に、生きるのもしんどい
そんな状態になってしまう。
ここで大事なのは、
どっちが正しいかじゃないと思う。
仕事に価値を見出せる人は、それでいい。
見出せない人も、それでいい。
ただ、「なんで自分は嫌なのか?」
それをちゃんと理解しておくことが大事なんだと思う。
仕事が嫌なんじゃない。
“他人に生かされている感覚”が、しんどいだけだ。
私がどうして仕事が嫌いかって?
朝起きたくないからだよ!決まった時間から時間まで拘束されるとか辛いんだよ。
なら、フレックスにしたら?
私、なまけものだからフレックスだと働かないんだよ(笑)
じゃあどうしたらいいの?
逃げ場所なんかないんだよ。どこにも行けないし、行くことも出来ないし、そんな度胸・・・は、あるか。
スキルも能力も無いんだよ。だから、選べないんだ。
人に使われるのが嫌だとしても、使う人を選びたいとか・・・ホント夢見すぎ。
そんなに人生ガチャは甘くない。
だからさ、せめて・・・イヤイヤでも働くときは笑っていられるように、夢を見てるんだ。
妄想と幻想の世界で生きる。そして、現実をこなしてる。
だって、逃げ場所なんか他にないからさ・・・。
ワークライフバランスとか、インテグレーションとか。
正直、横文字が増えただけで、何が変わったのか分かりにくい。
でもその中身を見ていくと、実は「生き方そのもの」の話だった。
私は毎朝「日経ポッドキャスト」を聞いている。
その中で語られた【ワークライフインテグレーション】という言葉。
初耳だったの・・・調べたよ。衝撃の事実って言うほどでもないんだけど・・・
仕事を私生活のバランスを考える時代から、
仕事を自分の人生の一部として捉えるっていう話になっていた。
え?大丈夫?
仕事に疲弊している私達に、これ以上酷使されることを望んでいるの?
もうね・・・十分頑張っていると思うんだ。
仕事も人間関係も私生活もなんなら・・・他人の事情にもさ・・・
もっと、仕事を趣味のように捉えろ!みたいに言われても・・・辛いよ。
だって、毎朝起きる度に想うんだ・・・「かえりたい」って。布団の中でだよ。
ワークライフバランスは、シンプルな考え方だと思う。
仕事と生活を分けて、うまく調整しようというもの。
・仕事は仕事
・プライベートはプライベート
だからこそ、
「働きすぎないようにしよう」
「ちゃんと休もう」
という話になる。
でも、ここには前提がある。
仕事は負担で、生活は回復。
だから分ける必要がある。
ワークライフインテグレーションは、逆の発想だ。
仕事と生活を分けない。
むしろ、混ぜてしまう。
・好きな仕事なら生活の一部になる
・途中で休んでもいい
・働きながら生きる
一見すると、自由で理想的に見える。
でも、ここで少し立ち止まりたくなる。
わざわざ新しい言葉を作るってことは、
今までのやり方に不都合があったということだと思う。
ワークライフバランスでは、
・やりがいが生まれにくい
・仕事に意味を見出しにくい
・人が定着しない
そんな問題が出てきた。
だから、こう言い換えた。
「仕事も人生だよね?」
「やりがいも大事だよね?」
確かに間違ってはいない。
でも、ここで私は・・・少し引っかかる。
本来はシンプルなはずなんだ。
お金が欲しいなら働けばいい。
出世したいなら頑張ればいい。
それを望まないなら、やらなければいい。
でも現実は違う。
会社や組織は、
みんなを同じように扱おうとする。
個々の裁量に任せる気がないから、
「バランス」だの「インテグレーション」だのと、枠組みを作る。
そしてこうなる。
・働くのも自己責任
・疲れるのも自己責任
・辞めるのも自己責任
強制していないようで、
逃げ道も見えなくなる。
私的な意見で申し訳ないが・・・強制しないからこそ、たちが悪い。
そう感じてしまうのは、きっと自然なことだと思う。
職場に、いわゆるエリートの新卒がいる。
一流企業に入って、
昇給も昇進も、ある程度約束されているようなレール。
彼は言った。
「やりたいことはいつでもできますから」
たしかに、それも一つの正解だと思う。
でも、私はどうしても思ってしまう・・・
その“いつか”のために、
今しかない時間を全部使ってしまっていいのか?
若さっていう才能。今しか出来ない事柄。必ずあると思うんだ・・・
確かに、学生時代に大いに遊んだことだろう。
インドアからアウトドアまで、思いつく限りをしたんだと思う。
でもさ、私からしたら・・・ヒッチハイクして旅をしてみたり、ワーホリで海外に行ってみたり、推し活に命を懸けてみたりってさ・・・出来るようで出来ない事ってあると思うんだ。
それを投げ捨てても良いんだろうか?って思ってしまうの・・・きっと私が敗者の言い訳をしているだけなのかな?
若さって、戻らない。
時間って、取り返せない。
それを体臭が言う成功のレールと交換して、本当に等価なんだろうか?って・・・
私が間違っているのは、否定できない。
だって、誰もが一流企業に新卒で入社したら成功で最高だろうからさ・・・
結局のところ、これは“交換”の話だと思う。
自分の時間を差し出して、
給料や安定やキャリアを手に入れる。
その対価を、
「納得できる」と思えるなら、それでいい。
「足りない」と思うなら、それは引き受けきれていない。
自分が差し出した『時間』っていう資本に対して、手に入れられる対価。
誰が決めるのか?
会社でも、世間でもなく、
最後に決めるのは自分しかいない。
正直・・・一番怖いのは・・・いつの間にか
仕事がその人の価値として扱われていること。
どこで働いているか。
何をしているか。
どれくらい稼いでいるか。
それが、その人そのものの評価になる。
だから、
・ライフを大切にする言葉が必要になる
・でも結局、仕事中心からは抜けられない
そんな矛盾が生まれる。
じゃあ組織を離れればいいのか?
フリーランスなら自由なのか。
正直、それも簡単な話じゃない。
自分でやるということは、
すべてを自分で引き受けるということ。
ライフを守れるかどうかは、
結局また“自分次第”になる。
レールに乗るかどうかじゃない。
大事なのは、
「この時間を差し出してもいい」と思えるかどうか。
その対価に、納得できるかどうか。
それだけだと思う。
自分の時間を、誰に差し出すのか?
それを決めるのは、いつだって自分でいい。
嬉しいことがあると、なぜか不安になることがある。
悪いことが続くと、次はきっと良いことがあるはずだと祈りたくなる。
でも本当は、良いことと悪いことは、いつも綺麗に繋がっているわけじゃない。
欲しかったものが見つかった。
念願だった大好きなバンドのライブチケットが当たった。
旅行の予定もある。
もう、楽しみなことが目白押しだ。
なのに、その喜びの真ん中で、ふと思ってしまう・・・
「このあと、何か悪いことが起こるんじゃないか?」と・・・
逆に、仕事が辛い。
税金の通知が来る。
仕事でミスをした。
そんな苦しいことが続くと、今度は「次はきっと良いことがあるはずだ」と思いたくなる。
人は、良いことと悪いことを、まるで帳尻合わせのように考えてしまう。
幸せが来たから不幸が来る。
不幸が続いたから、次は幸せが来る。
でも、それは本当に繋がっているのだろうか?
たぶん、違う。
ライブチケットが当たったことと、仕事のミスは関係ない。
旅行の予定と、税金の通知も関係ない。
良いことが起きたから悪いことが来るわけでも、悪いことがあったから良いことが補填されるわけでもない。
世界はそんなに親切でもなければ、そんなに律儀でもない。
それでも人が、良いことと悪いことを結びつけたくなるのはなぜだろう・・・
それはきっと、世界が不条理すぎるからだと思う。
意味もなく嬉しいことが来る。
意味もなく苦しいことも来る。
何の前触れもなく、良い日と悪い日が入り混じる。
そんな無秩序を、そのまま受け止めるのは苦しい。
だから人は、そこに理由を作りたくなる。
因果を見つけたくなる。
「これだけ辛かったから、次はきっと良いことがある」
「こんなに良いことがあったのだから、次は何か失うかもしれない」
そうやって、世界にルールがあるように思いたくなる。
けれど、たぶんその因果は、世界の仕組みではなく、心の防衛なんだろう。
納得したい。
安心したい。
せめて説明できる形にしたい。
その気持ちは、とてもよく分かる。
でも、そこに囚われすぎると、今ここにある感情をちゃんと味わえなくなる。
嬉しいのに、不安が混ざる。
悲しいのに、無理やり希望を探してしまう。
苦しいのに、「これには意味があるはずだ」と自分を納得させようとする。
それでは、今の自分の感情が置き去りになる。
悪いことがあったなら、まずはちゃんと苦しめばいい。
大いに泣いて、愚痴って、苦しんで、トコトン落ち込んでいい。
無理に前向きにならなくていい。
すぐに教訓にしなくていい。
「これも経験」なんて、最初から綺麗にまとめなくていい。
痛いものは痛い。
苦しいものは苦しい。
悔しいものは悔しい。
そこを飛ばして、分かったふりをすると、感情は終わらない。
終わらないまま、心のどこかに残り続ける。
そして次に似たことが起きた時、また同じ場所が疼く。
だからこそ、まずはちゃんと落ち込むことが大切なんだと思う。
その上で、何が痛かったのか。
何を見落としていたのか。
何を繰り返したくないのか。
そこに気づけた時、苦しみはただの傷ではなくなる。
次の為に背負うものになる。
傷が経験に変わる。
後悔が気づきに変わる。
苦しんだことを無駄にしないというのは、最初から綺麗に受け入れることじゃない。
ちゃんと苦しみ切ったあとで、自分なりの意味を見つけることなんだと思う。
そして、良いことがあったなら、こちらも遠慮しなくていい。
大いに喜んで、笑って、周囲に話して、自慢していい。
嬉しいなら、嬉しいと言えばいい。
楽しいなら、楽しいと笑えばいい。
「このあと悪いことが来るかもしれない」
「こんなに喜んだらバチが当たりそう」
そんなことを考えて、喜びを小さくしなくていい。
嬉しいことがあった時に、ちゃんと嬉しがれる。
それは、当たり前のようでいて、案外難しい。
不安が先に来る人もいる。
過去の失敗がよぎる人もいる。
良いことの最中なのに、失う怖さを先回りしてしまう人もいる。
でも、本当はその瞬間くらい、素直でいい。
ライブチケットが当たったなら、思いきり喜べばいい。
旅行の予定があるなら、今からワクワクすればいい。
笑って、話して、「楽しみだ」と口に出せばいい。
それだけで、生きていることを笑える。
それだけで、毎日は少し素敵になる。
不条理な世界だからこそ、喜べる時に喜ぶことは、とても大切な力だと思う。
善悪なんて、簡単には分からない。
何が正しくて、何が間違っているのかも、状況次第で変わってしまう。
でも少なくとも、良いことと悪いことは、常に繋がっている必要なんかない。
無理に意味を作らなくていい。
無理に因果にしなくていい。
良いことは良いこと。
悪いことは悪いこと。
それぞれをその都度受け止めて、その都度終わらせていく。
泣く時は泣く。
苦しい時は苦しいと言う。
嬉しい時は笑う。
楽しい時は胸を張って楽しむ。
そうやって今の感情を大切にして生きていくことが、自分の人生を生きるということなんだと思う。
過去に引っ張られすぎない為にも、未来を勝手に怖がりすぎない為にも、今の感情をちゃんと生き切る。
それが、自分を置き去りにしない生き方なんじゃないだろうか。
人はきっと、不条理に耐えられない。
だから、良いことと悪いことを繋げて考えたくなる。
でも、本当はそこに必然なんてないのかもしれない。
だからこそ、嬉しいことがあったら心から喜べばいい。
悪いことがあったら、ちゃんと落ち込めばいい。
感情を誤魔化さず、その都度ちゃんと終わらせていく。
それが、過去に縛られずに生きること。
それが、自分の人生を自分で生きるということ。
良いことは、遠慮せず喜んでいい。
悪いことは、無理に美談にしなくていい。
その時その時の自分をちゃんと引き受けて生きていくことが、きっと一番、自分に正直な生き方なんだと思う。
嬉しい時は、ちゃんと笑っていい。
苦しい時は、ちゃんと泣いていい。
それが、自分の人生を生きるということだ。
誰かと比べて、しんどくなることがある。
嫉妬したり、劣等感を抱いたり、なんで自分だけって思ったり。
でも私は、その感情を知ることで逆に見えてくるものがあると思っている。
自分だけで自分を測って、自分のコトを知ることはきっと難しい。
だから、人を見て、他人と自分を比べて【良い悪い】を感じてしまうんだろう。
でも、その他人と関係ないモノを・・・実は誰もが持っているんじゃないかな?
ファッション・食べ物・趣味
誰かと比べたり、誰かの価値に左右されない「何か?」を感じることはあると思うんだ。
それが、その人だけが持つ『こだわり』だと私は思うよ・・・。
嫉妬とか劣等感って、ただの性格の悪さじゃないと思うんだ。
あの人の方が評価されている。
あの人の方が愛されている。
あの人の方が上手くやっている。
そんなふうに見えた時、人はしんどくなる。
でも、そのしんどさって、相手がどうこうだけじゃないんだよね。
他人の目から自分を見ようとした時に、その差に自分が耐えられなくなるから苦しいんだと思う。
要するに、他人の価値観で自分を測ってしまうからだろう。
社会ではこうあるべき。
普通はこう。
一般的にはこう。
常識的にはこう。
そういう言葉って、たいてい多数派の言葉だ。
そしてその多数派の言葉は、資本や権益のある側に都合が良いように出来ていることも多い。
その中で自分を見ると、どうしても苦しくなる。
足りない。
遅れてる。
評価されてない。
支持されてない。
そうやって、自分を自分で傷つけてしまうんだろう。
他人と比較してしまうのは、ある意味では仕方ない。
仕事でも、恋愛でも、友人関係でも、人を見ないで生きるなんて無理だから。
でも、その比較が必要以上に苦しくなる時って、たぶん自分の為の価値基準が抜けている時なんだと思う。
自分は何が好きなのか。
何が嫌なのか。
何を大切にしたいのか。
何に満足できるのか。
どこに納得したいのか。
そこが抜けると、人は他人と自分を比べるしかなくなる。
社会と自分を比べる。
資本の価値と自分を比べる。
世間の普通と自分を比べる。
多数派の支持と自分を比べる。
そりゃ、しんどくなるに決まっている。
だから私は思うんだ。
嫉妬や劣等感とは違う目線を持つキッカケって、自分だけの「こだわり」なんじゃないか?って・・・
こだわりっていうと、面倒くさいとか、ワガママとか、自己満足とか、そういう見られ方もする。
でも私は、その自己満足がすごく大事だと思っている。
だって、嫉妬や劣等感って、他人に認められたいとか、他人の中で勝ちたいとか、他人の価値観に引っ張られて生まれるものだろう。
でも、こだわりは違う。
こだわりは、自分がこれがいいと思うから選ぶ。
他人がどう思うかじゃない。
流行っているかでもない。
人気があるかでもない。
売れているかでもない。
自分に合うか。
自分が気に入るか。
自分が納得するか。
それだけだ。
極端に言えば、自分以外で測りたいのか?自分で測りたいのか?、その違いなだけなんだと思う。
例えば、私は靴に少しこだわりがある。
日本で一強と言ったら、やっぱりナイキなんだろう。
でも私は、そこにあまり魅力を感じない。
もちろん人気があるのも分かるし、多数派が選ぶ理由も分かる。
でも、自分にとって欲しいかどうかは別の話しなんだよね。
私のこだわりは、紐無しだ。
紐が嫌いなんだ。
汚れる。
伸びる。
ほどける。
脱ぎ履きしにくい。
それが嫌だって思っている。
だから、多くの人が紐有りのスニーカーを履いていても、そこに対して何も感じない。
羨ましいとも思わないし、人気だから欲しいとも思わない。
むしろ、トレンドでも、多数派でも、そこに自分の魅力はない。
前はガビックを気に入って履いていた。
でも、ガビックがスニーカーを作らなくなった。
あれは悲しかったね。
その後はスケッチャーズを履いていたけど、ちょっとスポーツ感が強くて好みとは違った。
そこで出会ったのが、ロイヤルエラスティクス。
これが良い。最高だねって思えた。
コスパは良くない。
選択肢も少ない。
マイノリティ向けだから、出会いにくい。
ハードモードなのは間違いない。
でも、それでも、自分のこだわりで見つけたものには満足がある。
これって、他人に勝ったとか、流行に乗れたとか、そういう満足じゃない。
自分が自分に納得できた満足なんだと思う。
ただ、ここはちゃんと言いたいんだけど、こだわりが正しいわけじゃない。
こだわりは時に人を振り回す。
理解されないこともある。
面倒だと思われることもある。
そして、だいたいコスパは悪い。
需要と供給だから、高くもなる。
選べる数も減る。
だから、損得で見極めることが必要な場面もあると思う。
いつでもどこでも、こだわりを貫けるわけじゃない。
現実には、選べないことの方が多い。
妥協しなきゃいけない時だって山ほどある。
それは分かっている。
理想だけじゃ生きられないのも知っている。
でも、だからと言って、こだわりや美学を全部捨てる必要はないとも思うんだ。
人生って、選べないことの方が多い・・・
仕事でも、人間関係でも、お金のことでも、どうにもならないことはたくさんある。
でも、たまに選べる瞬間がある。
決められる時がある。
選択権が自分に残っている時がある。
その時に、「こだわり」を選べたなら、きっと満足は残ると思う。
得か損かだけじゃない。
効率がいいか悪いかだけでもない。
他人に褒められるかどうかでもない。
自分で選んだ。
自分の為に選んだ。
そこに、自分の納得がある。
私はそれって、すごく大事なことだと思う。
ファッションでもいい。
生き方でもいい。
他人にかける言葉でもいい。
一人の時間の過ごし方でもいい。
誰かに見せるためじゃなくていい。
比較するためじゃなくていい。
それが、自分の為の「こだわり」で、そこにあるのが「美学」なんだろう。
嫉妬や劣等感を完全に消すことなんて、たぶん無理だと思う・・・
人は他人を見るし、差を感じるし、社会の中で生きている以上、比較からは逃げられない。
でも、そのたびに他人の価値観だけで自分を削らなくてもいいとは思う。
他人にどう見られるか。
世間がどう思うか。
普通かどうか。
支持されるかどうか。
そういう外側の物差しだけで生きていたら、自分の人生なのに、自分の為の価値がどこにもなくなってしまう。
だから私は、こだわりを持っていて良いと思う。
美学を持っていて良いと思う。
それは他人に勝つためじゃない。
正しさを証明するためでもない。
ただ、自分を自分で測る為だ。
自分の満足を、自分で見つける為だ。
嫉妬や劣等感を知ったからこそ、他人の価値観で生きる苦しさも分かる。

だからこそ私は、自分だけの「こだわり」や「美学」を持っていたい。
だって、それは誰かに見せるためのものじゃない。
誰かと比べるためのものでもない。
ただ、自分が自分に納得して生きる為のものなんだから。