「幸せになりたい。」

誰でも一度は口にしたことがある言葉だと思う。

 

「幸せになっていく」という言葉が好き

「幸せを掴む。」
「幸せになりたい。」
「幸せにしてあげたい。」
「幸せにしてもらいたい。」

どれもよく聞く言葉だよね。

 

もちろん、間違っているなんて思わない。
言葉のアヤでもあるし、人それぞれ価値観も違う。

 

でも私は昔から、この言葉たちに少しだけ違和感があった。

だって私は、幸せって後から気付くものだと思っているから。

 

夢中で生きている最中は、それが幸せなのかなんて分からない。

振り返った時に初めて、

「あの時間、幸せだったんだな。」

そう思えるものなんじゃないかな?って・・・

  人の欲望に終わりはない

人は一つ夢を叶えたら、また次の夢を見る。

欲しかった物を手に入れても、今度は別の物が欲しくなる。

隣の芝生は青く見えるし、他人と比べれば足りないものなんていくらでも見つかる。

 

もし幸せが「ここがゴールです」という完成形なら、人はずっと幸せになれない気がするんだ。

 

だから私は、「幸せを掴む」よりも、

「幸せになっていく」

という言葉の方が好きなんだよね。

  幸せに形なんてない

もし幸せに決まった形があるなら、

「これが幸せです。」

って誰にでも言えるはずだ。

 

でも実際は違う。

家族の笑顔が幸せな人もいる。

夢を叶えることが幸せな人もいる。

お金が幸せな人もいる。

社会的地位を求める人もいる。

人の数だけ欲望があって、人の数だけ幸せの形がある。

 

だから私は、「幸せとはこれです」なんて語れない。

 

  幸せだけは他人の評価じゃない

私は以前から、

「好きになっていく。」

「正解にしていく。」

という言葉を大切にしてきた。

 

好きは、時間や経験を積み重ねるから育っていく。

正解は、自分一人では決まらない。

仕事も人間関係も、周りとの関わりの中で初めて「良かったね」「成功だったね」と評価される。

 

だから正解は、自分で正解にしていくものなんだ。

 

でも、幸せだけは違う。

他人が決めるものじゃない。

他人から「幸せそうだね」と言われても、自分が違うと思えば違う。

 

逆に、誰にも理解されなくても、自分が幸せだと思えるなら、それはその人にとって紛れもない幸せなんだ。

幸せだけは、自分の満足であり、自分の価値観であり、自分のエゴで好きに表現していい。

  「幸せにしていく」じゃない

私が「幸せになっていく」という言葉を好きな理由はもう一つある。

 

「幸せにしていく」と言うと、どこか完成形を作ろうとしているように感じる。

レールを敷いて、その通りに歩けば幸せになるような響きがある。

 

でも、

「幸せになっていく」

と言った瞬間、自分が当事者になる。

 

誰かが作った幸せじゃない。

誰かに与えてもらう幸せでもない。

自分の足で歩いて、自分の価値観で、自分自身が少しずつ変わっていく。

その歩みそのものが、幸せへ向かう時間なんだと思う。

 

  幸せだった。そして、幸せになっていく

私は幸せが「何か?」なんて語れない。

 

でも、目指したいとは思っている。

「あの頃、幸せだった。」

そう思える過去がある。

 

「幸せになっていきたい。」

そう願える未来がある。

 

その二つがあるから、人は今日も一歩踏み出せる。

 

私は、その一歩を踏み出すことを「勇気」と呼べたら素敵だと思う。

 

誰かに幸せにしてもらう人生じゃなくていい。

誰かの幸せを羨む人生じゃなくていい。

 

一緒に幸せになっていく。

そんな歩き方ができたなら、それだけでも十分に幸せなんじゃないかなって、私は思う。

こんにちは、シンプル・フレーズです。

人と人の出会いは、合縁奇縁。 良くも悪くも、袖振り合うも他生の縁。

 

そんな言葉があるけれど、 結局のところ、最後にその縁を掴み取るのは いつだって「自分の意思」次第なんですよね。

 

「人間関係と出会いのリアル」について

昔から言われるように、誰と出会うかは自分では決められない。

 

学校の友人も、職場の同僚も、自分で自由に選べるものじゃない。

もっと仲良くなりたいと思っても簡単には距離は縮まらないし、離れたいと思っても簡単には離れられない。

今はリアルだけじゃなく、SNSやコミュニティ、マッチングアプリなど、出会いの場はたくさんある。

 

でも、出会いの入口が増えただけで、本当に繋がれる人はそんなに増えない。

 

人が深く付き合える人数なんて限られているし、覚えられる顔や名前にも限界がある。

だから、出会いを探すのは思っている以上に難しいって思いません?

  出会いは偶然。でも関係は偶然では育たない

だからと言って、待っているだけでは何も始まらない。

 

出会いは偶然。

 

でも、関係は偶然では育たない。

声を掛ける。

挨拶をする。

言葉を届ける。

人は言葉を使って関係を作る生き物なんだから。

 

ただすれ違うだけ。

「いいね」を押しただけ。

存在を知らせるだけのマーキングみたいな行為では、何も掴めない。

 

偶然は偶然のまま。

 

でも、その偶然のあとに言葉を届けることはできる。

そこから繋がるかどうかは分からない。

だからこそ、人との出会いは面白い。

  運命の出会いより、刺激的な出会いがいい

私は「運命の出会い」という言葉も少し不思議に思う。

もし運命が最初から決まっているなら、出会った人全員が運命の人になる。

 

それじゃあ、少しつまらない。

 

私は出会いって、もっと刺激的なものだと思いたい。

学校で初めて顔を合わせる日の緊張。

職場で自己紹介をする時の緊張。

 

「どんな人だと思われたいかな。」

「どんなキャラでいこうかな。」

 

そんなことを考えながら、一歩目を踏み出すあのドキドキ。

あれこそが、出会いの醍醐味なんじゃないかな?

  人は少しずつ、自分らしくなる

最初、人は少し演じる。

「見られたい自分」がいる。

 

理想で、幻想で、想像の中の自分。

そして、「見せたい自分」もいる。

 

今の自分ができる範囲で切り取った、現実の自分。

どちらも、自分が思い描いた自分自身だ。

 

言ってしまえば妄想(笑)🤣

 

でも、その妄想やエゴが人それぞれ違うから、人間って面白い。

やがて思うようにいかなくなる。

ボロが出る。

見せたい自分を演じ続けられなくなる。

理想にも届かない。

その時、妄想と現実の狭間から、その人だけの「らしさ」が見え隠れする。

 

私は、その「らしさ」に人は惹かれるんじゃないか?と思う。

 

完璧だからじゃない。

取り繕えなくなった、その人だけの現実が見えるからこそ、人は繋がっていく。

  正解を探すんじゃない。正解にしていく。

出会いに正解なんて無い。

 

「こうすれば良い友達ができる。」

「こうすれば運命の人と出会える。」

そんな答えは誰も持っていない。

 

だから、正解を探す必要もない。

 

偶然出会って、言葉を交わして、失敗して、笑って、ボロを出して、それでも関係を続けていく。

その積み重ねが、振り返った時に「あの出会いは正解だったね」と思えるだけなんだろう。

 

出会いに正解はない。

正解にしていくプロセスこそが、自分らしさを表現する。

だから私は今日も歩く。

……いや、歩くというより、絶壁をクライミングしている最中だけどね(笑)

 

落ちないように必死に登りながら、それでも前へ進む。

その先で誰かと笑い合えたなら、それもきっと、合縁奇縁なんだろうね。

いつだったか、誰かと私の趣味の話をした時にさ、

「神社に行って何するの?お参りしたら終わりじゃない?」って言われたことがあるのよね。

 

確かにその通り。お参り自体は一瞬で終わるし、アトラクションがあるわけでもない。

 

でもさ、神社巡りが大好きな私から言わせれば、

「お参りして終わり」なんてもったいなすぎるのよ! 

「何しに行くの?」って聞かれたら、もうこれしか言えないんだよね。

 

「神社を楽しみに行っているんだよ!」って。 

まあ、伝わらないんだけどね(笑)。



「私は神社が好きだから行くんだよ」

でも、私にはその質問がちょっと不思議だった。

「神社に何しに行くの?」

「え?神社を楽しみに行くんだよ?」

これが私の答え。

 

私は神社巡りが好きで、御朱印も集めている。

写真も撮るし、ご神木も眺める。

境内を散策して、彫刻や建物を見て、「この狛犬、他と全然違うな」なんて楽しんでいる。

花手水が綺麗だったら嬉しいし、池や川があれば眺める。

町中の小さな神社も好きだし、誰も居ない村社も好き。

何か一つが目的じゃない。

全部ひっくるめて、「神社を楽しんでいる」。

 



だから、「何するの?」って聞かれても、説明しづらいんだよね。

 

  趣味って、そういうものじゃないかな?

ゲームでも、料理でも、音楽でも、お酒でも、推し活でも、聖地巡礼でも同じ。

 

外から見れば「何が楽しいの?」って思われることでも、本人は夢中になっている。

 

人には分からない楽しみを見つけて、自分だけの価値を乗せていく。

それが趣味なんだと思う。

 

共有できる誰かと出会えたら、それはとても幸運なこと。

でも、出会えなくたって構わない。

 

自分が楽しくて満足しているなら、それで十分だから。

 

そして、趣味って人との出会いにも少し似ている。

 

出会いは偶然。

でも、好きになるのは偶然じゃない。

 

時間を重ねて、一緒に笑って、いろんな思い出が積み重なって、「好き」が育っていく。

 

趣味も同じ。

偶然出会った神社が好きになったり、ゲームが好きになったり、お酒が好きになったり。

 

その出会いを、自分だけの大切な時間にしていくのは、自分の感情であり、自分の意思なんだ。



  だから私は、今日も神社を味わい尽くす!

私は神社が好き。

神話や神様の話は昔から好きだった。でも、宗教や信仰とは違う。

教えや教義が好きなわけじゃない。

ただ、神社が好き。

 

それだけ。

理由を並べることはできる。

でも、一番しっくりくる理由は、やっぱりこれなんだ。

「私は神社が好きだから行くんだよ。」

 

好きって、案外それだけで十分なんじゃないかな?

 

私は、普通に参拝して、境内をのんびり散策する。


礼儀作法?そんなの知りません!(笑)

 2礼2拍手1礼がスタンダードなんだろうけど、神社によって違ったりするじゃない?

イチイチそこまで把握できないよって思うわけ。神様だって作法が違ったくらいで怒らないでしょ?

ってスタンスで、気楽に楽しんでる。

 

境内に入れば、そこはもう見どころしか無いのよ!

職人さんの遊び心が詰まった、いろんなポーズの狛犬を探したり。

 

 圧倒的な生命力のご神木を堪能したり。 

「映え狙ってるな〜(笑)」って花手水を眺めたり。 

お守りやおみくじは買わずに「見てるだけ〜」をしたり。

観光地!ってところじゃなくて、町の中の誰も来ないような小さな村社にふらっと行って、

横の公園から聞こえる子供の声をBGMに「地域の雰囲気」を感じるのも最高に楽しい。

 

丸太橋があれば嬉しいし、鳥居の朱色が綺麗ならそれだけでハッピーじゃん?

 

  次の「好き」を積み重ねに

観光として消費するんじゃなくて、ただそこにある空間を五感で楽しむ。 

これが私の「極上の散策」なの。

 

ちなみに、私が次に行きたいのは、遠州森町の「遠江国一宮 小國神社」!

あそこ、本当にいいとこなんよ!

 

また新しい偶然と、最高のトロフィー(直書き御朱印)を求めて、大好きな空間をのんびり歩いてきます。

誰になんと言われようと、「好きだから行く」。

 

 これ以上の理由なんて、本当にいらないんだよね!


 シンプルフレーズ

好きに理由はいらないって誰もが言う。

それでも、好きになる前には必ず出会いがある。

出会いはきっと偶然だろうし、必然の時もあるかもしれない。

そこから、相手を、モノを、何かを、好きになっていくのは

触れ合う中での積み重ねと、発見の連続の時間が作り出してくれる感情だ。

 

好みは大切にして欲しい。

それは、自分が積み上げて来た大切な時間の集大成だろうから。

先日の会社での議題。

「浮気しない男は居ないのか!?」

 

職場のあちこちで白熱する議論を眺めながら、私の結論は最初から決まっていた。

「私的には、居ないね。」

……いやいや、ちょっと待ってくれ。(笑)

 

最後まで読んでから石を投げて欲しい。

私は浮気を擁護したいわけじゃない。

 

むしろ逆だ。

「浮気しない関係って素敵だよね。」

って話をしたい。

 

「浮気しない人」は居るのか?

私は、この問題?質問?自体が少し違うと思っている。

「浮気しない男は居るか?」

じゃなくて、

「浮気できる状況を作らない人は居るか?」

こっちの方が本質なんじゃないかな。

 

人ってさ、状況や環境に流される生き物なんだよ。

そこに男も女も関係ない。

欲望だってある。

本能だってある。

魅力的な人を魅力的だと思うことまで否定はできない。

 

だから私は、

「絶対に浮気しません。」

という自己申告だけで安心できるほど、人間を信用していない。

 

だって、人は利己的だもの。

メリットに弱い。

環境に流される。

都合の良い言い訳なんて、いくらでも作れる。

  「私はしない」は、誰の努力?

もちろん、

「私は浮気しない。」

そう思っている人もいるだろう。

 

それは全然否定しない。

でも、それだけで関係が続くと思ってしまうのは、少し違うと思うんだ。

 

だって、それって結局、

相手の意思と価値観に全部丸投げしているだけだから。

「私はしないから、あなたもしないでね。」

「あなたなら大丈夫。」

それって信頼なんだろうか?

 

私は少し違うと思う。

 

むしろ、

依存なんじゃないかな?

 

相手が誘惑に勝つこと。

相手が良心を持ち続けること。

相手が自分を思い出し続けてくれること。

全部、相手任せ。

 

それを私は、

「浮気しない人を探している」

というより、

「浮気しないことを相手に依存している」

ように見えてしまう。

  私が好きなのは「浮気しない関係」

だから私は、

「浮気しない男」

より、

「浮気しない関係」

の方が好きなんだ。

 

恋愛も結婚も、一人で作るものじゃない。

共同体なんだ。

だから、

理解も、

譲歩も、

協力も、

努力も、

全部、お互いに必要なんだと思う。

 

相手だけに要求して、

自分は何もしない。

それじゃ共同体じゃない。

 

依存だ。

 

パートナーなのか?

宿主なのか?

 

好きに呼んだらいいさ。(笑)

  努力って、もっと具体的でいい

努力って言うと、

「愛情を伝えましょう。」

「コミュニケーションを大切に。」

そんな綺麗な言葉ばかり並ぶ。

 

私は、もっと具体的な話が好きだ。

 

例えば・・・

同じアクセサリーを身につける。

スマホの暗証番号を共有する。

予定を共有する。

相手の予定があるなら送迎をしにいく。

一緒に旅行のための貯金をする。

次はどこへ行こうかって話をする。

一緒の目標を持つ。

私は、こういう努力の方が好きだ。

 

一緒に時間を共有する。

一緒に未来を作る。

 

相手が独り身のような感覚になる時間を減らしていく。

「帰ったらあの人がいる。」

「今度の休みは旅行だ。」

「一緒に貯金してるんだ。」

そんな思い出や予定が、人を繋ぎ止めるんじゃないかな?

 

  努力と管理は違う!勘違いしないでね?

ここを勘違いして欲しくない。

 

私は、

位置情報を強制しろ。

メッセージを見ろ。

SNSを制限しろ。

なんて話をしているんじゃない。

 

それは一方的な要求になりやすい。

私は、それを管理と呼ぶ。

 

でも、

双方が理解して、

双方が譲歩して、

双方が納得して、

「共有しよう。」

となるなら話は別だ。

 

私は、

一方的な要求を管理と言い、相互理解を努力って言うんだ。

行動そのものじゃない。

大切なのは、

お互いが納得しているかどうか?

そこなんだと思う。

  相手に求めるなら、自分も差し出す

「浮気しないでね。」

もちろん!!!、そう思う。

私だって思う。

 

でも、

相手に求めるなら、

自分も出来るだけの開示と提示をしないと始まらない。

 

『私はしません。』

……自己申告だけなら、何とでも言える。

ペルソナなんて使い放題だ。

 

だったら、

お互いに見せられるものは見せる。

お互いに共有できるものは共有する。

お互いに譲歩できるものは譲歩する。

 

その積み重ねが、

信用になり、

信頼になり、

「この人と一緒に居たい。」

に変わっていくんじゃないかな。

 

  恋は盲目。でも、共同体は現実だ

恋は盲目。

だから、

「好きだから大丈夫。」

って思いたくなる。

 

でも、共同生活は現実なんだ。

 

人は利己的だ。

欲望もある。

誘惑もある。

環境にも流される。

だからこそ、

私は、

「浮気しない人」を探すより、「浮気しない関係」を育てたい。

その方が、よっぽど現実的だと思うから。

お互いを理解する。

お互いに譲歩する。

お互いに協力する。

お互いに努力する。

そして、一緒に時間を共有していく。

 

私は、それが一番素敵なパートナーシップなんじゃないかと思う。

 

だから今日の議題、

「浮気しない男は居ないのか?」

私の答えは最後まで変わらない。

「私的には、居ないね。」

でも、それは人間を諦めているからじゃない。

むしろ逆だ。

人は弱い。

人は利己的だ。

人は環境に流される。

だからこそ、

お互いが「浮気しない関係」を一緒に作っていく。

その努力を惜しまない二人なら、私は何より素敵だと思うんだ。

 

8月おとめ座の総合運

おとなしく過ごすのが得策

予定通りに物事が運ばない月です。
できるだけおとなしくしているほうが得策で
す。じっと様子をうかがっているうち、
運気が上昇する兆しが見えてくるでしょう。

提供元:Ameba占い館SATORI