私は簡単に幸せを語って来た

誰もが簡単に幸せを語り、不幸を語る

 

幸せって何だろうか?探しに行こうと思う・・・

 

『幸せになりたい』が、なぜここまで私たちを摩耗させるのか

 

・・・その答えは、たぶん「幸(さち)」を「幸福」という工業製品に作り替えてしまった、私たちの歴史の中にある。

 

「幸せになりたい」
この言葉は、願いのはずだった。
救いのはずだった。


なのに、どうしてこんなに私たちを追い詰めるんだろう。

頑張っても、足りない。
叶えても、まだ足りない。
手に入れても、「次」が来る。


そして気づけば、「幸せになりたい」が、いつの間にか「幸せにならなきゃ」に変わってる。

・・・この変換が、摩耗の正体だと思う。

  野生の「幸(さち)」・・・偶然という名の祈り

 

かつて、幸せは「幸(さち)」でした。

日本語の「さち」の語源は、狩猟の獲物を指す「矢口(やさち)」や、海や山の恵みを指す「海の幸・山の幸」にあります。

  • 定義: 自分の意志とは無関係に、外側から「もたらされる」もの。

  • 本質: 運ゲー。あるいは天からの配剤。

英語の "Happiness"(hap=運) も同様です。

古代の人々にとって、幸せとは「努力して手に入れるもの」ではなく、「たまたま自分を通り過ぎなかった幸運」に対する、震えるような感謝や諦めを含んだ言葉でした。そこには、コントロールできない世界への敬意があったのです。

 

これは、努力の成果というより、運ゲーだ。
いや、運ゲーでしかない。

 

だから昔の人の「幸せ」は、今みたいなキラキラした目標じゃなくて、
「たまたま自分を通り過ぎなかった幸運」への、震えるような感謝と諦めだったのかもしれない。

 

コントロールできない世界に対して、
「今日は、運がこちらに寄っただけ」
そういう敬意があった。

 

ここで、ひとつ“勝手に名言”

幸せとは、掴むものじゃない。通り過ぎなかった運の名前だ。

  文明が捏造した「幸福(システム)」・・・生存のノルマ

 

でも、人間は「運」という不確実さに人生を預けるのが怖い。
だから、文明は「幸福のレシピ」を作った。

 

・・・そして、これが地獄の始まり。

「こうすれば幸せになれる」
「これが幸福だ」
「こう生きるべきだ」

本当は“来てしまう”ものだったはずの幸せが、
いつの間にか“達成しなければならない目標”になった。

 

幸福が、願いじゃなく ノルマ になった瞬間、
人は摩耗する。

 

  時代と地域で変わる「幸福のレシピ」

 

幸福は、時代と文化で姿を変える。
つまり幸福は、人間が後から作った「説明書」でもある。

たとえば・・・

古代ギリシャ的幸福

卓越性の発揮。
人間としての機能を完璧に果たすこと。
言い換えるなら・・・

・・・「優秀な道具であれ」

切磋琢磨といえば聞こえはいい。
でも、ここには最初から、階層と優越の匂いが混ざる。
“できる者”の倫理が、“できない者”の生存を押し潰す。

中世ヨーロッパ的幸福

現世は「涙の谷」。
幸福は死後に回され、現世は忍耐と交換される。

幸福は、いまここから消えた。
代わりに残ったのは「耐えることは正しい」という正しさ。

近代以降の西洋的幸福

欲望の充足。
幸福を数値化し、比較可能にした瞬間、幸福は消費財になる。

「あなたの幸福度は何点ですか?」
こんな質問が成立する世界では、幸福はもう心じゃなく 商品 だ。

東洋(仏教的)幸福

幸福を求めること自体が苦。
執着を捨て、静寂へ。

ここには、別の鋭さがある。
「掴もうとするほど苦になる」
それを最初から知っている。

 

  奴隷道徳としての幸福・・・納得という名の檻

 

ここからが、私にとって一番苦い場所。

 

近代社会の幸福は、ときどき
奴隷道徳ストックホルム症候群の変種になる。

 

社会という巨大なシステムの歯車として生きる。
刈り取られることでしか糧が得られない。


それでも生存を強制される。

 

この痛みを麻痺させるために、人は言い換える。

「役に立っている」
「これが私の選んだ道だ」
「この生き方が幸福だ」

言い換えた瞬間、痛みは少し減る。
でも同時に、檻は強化される。

ここで、もう一つ“勝手に名言”

幸福とは、檻の中で折れないための、都合のいい翻訳になることがある。

 

そして私はこう思ってしまう。

考える葦は、刈り取られるしかない。
刈り取られない部分を残そうとしたら、雑草扱いされる。
害獣、害虫、駆除対象。

「意味も価値もない」
「危険」
「邪魔」
「鬱陶しい」
「煩わしい」

人間として扱われない。
ホームレスでも虜囚でもない、動く死体。

 

そんな場所で「幸せになれ」と言われても、
それは希望じゃなく、ただの暴力に聞こえてしまう。

  AIという「究極の道具」という比喩が暴くもの

 

ここで私は、AIを“比喩”として使いたい。

AI・・・究極の道具。
機能を遂行し、命令に最適化し、正解を出し続ける存在。

もし人間が「幸福」を工業製品として作ったのだとしたら、
私たちは、幸福システムの中で 自分自身をAI化 しているのかもしれない。

正しい幸福を選び、
正しい人生を実行し、
正しい笑顔を出し、
正しい達成を積み上げる。

でも、その正しさは、誰のための正しさなんだろう。

そして皮肉なことに、
“幸(さち)”って、そういう計算の外側でしか起きない。

予定調和を壊す衝突。
説明できないズレ。
思い通りにならない出来事。

つまり、野生の幸は、システムの外側にある。

 

  幸福か、幸(さち)か

 

幸福は、強者が作り、弱者が納得するために磨き上げた生存のノルマになりうる。
幸(さち)は、理由もなく訪れ、理由もなく去っていく制御不能なめぐり合わせ。

 

もしこの世界が、「幸せにならなければならない」という強制収容所なのだとしたら、
出口は、幸福を追い求めることじゃなく、
むしろそれを放棄して、ただ不意に訪れる幸に身をさらすことなのかもしれない。

 

・・・たとえそれが、刈り取られるのを待つ死体の最後の一瞬の輝きだったとしても。

ここで、最後に問いを置いて終わりたい。


答えは要らない。分からないままでいい。

 

この文章を読んで、あなたの胸に今、去来しているのは「納得」という名の諦めでしょうか?
それとも、定義すらできない「何か」への乾きでしょうか。

・・・私はまだ、分からない。
分からないまま、今日も「幸せ」を考えてしまう。

皆さま、今日もお疲れ様です。✨ 

「嫌な人とは距離を置けばいい」「自分らしくいればいい」

 そんなキラキラした呪文が、1ミリも通用しない閉鎖空間で、今日も必死に息を吸っていらっしゃる皆さまへ。

 

自分と真逆の人との出会い。 

それは珍しいことでも何でもなく、学校、職場、地域……どこにでも転がっている「事故」のようなものです。

本来なら、道ですれ違うだけの人。 あるいは、たまたま隣のレーンを歩いているだけの人。 

そのはずなのに、なぜ私たちはこれほどまでに消耗し、一喜一憂してしまうのでしょうか。

自分と真逆の人に出会うのは、珍しいことじゃない

自分と真逆の人との出会い。

正直、そんなに珍しいことじゃない。

学校にもいる。
職場にもいる。
地域にも、どこにでもいる。

 

同じジャンルに感じられる人がいるように、真逆の人も、必ずいる。

だから・・・?

本来なら、「だから何?」で終わる話のはずだ。

すれ違っただけの人

その人は、たまたま自分が進んでいる道ですれ違っただけの人。

少しの間、隣を歩く距離まで近づいただけの人。

 

その人からの評価や言葉に
一喜一憂したところで、どうしようもない。

その場を離れたら、もう二度と会わない。

・・・本来は、そういう関係だ。

  🏃‍♂️ 図書館で走るボルトを、無視できますか?

でも、現実は違う。

簡単に離れられない。
簡単に縁を切れない。

 

同じ学校。
同じ職場。
同じ地域。

 

価値観が合わなくても、
距離感がどうしようもなくズレていても、
居場所を変えることは出来ない。

相手も、どこにも行かない。

だからこそ、人間関係は人を消耗させる。

 

「他人の評価なんて気にしなければいい」 そう言うのは簡単です。

でも、「図書館」という静寂を求められる場所で、ボルトが全力疾走していたら?

どれだけ鬱陶しくても、どれだけ理解不能でも、そこに居る以上、無視なんてできません。 

 

風を切る音、足音、その圧倒的な違和感。 

同じ場所に留まらなければならない以上、私たちはその「異物」の存在を五感で受け止めざるを得ないのです。

 

そして、もっと残酷な真実に気づいてしまうこともあります。 

「私自身もまた、誰かにとってのボサボサ頭のアインシュタインではないか?」と。

 

  鏡としての他者、逃げ場のない視線

 

誰かがアインシュタインの容姿を笑っているとき、自分もまた、その場の空気に合わせて一緒に笑ってしまう。 

あるいは、誰かの視線を通してしか、自分の輪郭を確認できない。

 

人は、他人の目に映る自分を見る事しか出来ない。

 

だからこそ、古今東西の先人たちは、一人で完結する「自己完結した価値」を見出せなかったのかもしれません。

私たちは、他人の物差しで測られることを嫌いながらも、その物差しがなければ自分が何者であるかさえ分からなくなってしまう。

なんて皮肉な設計ミスなんでしょうね。

 

  🌏 離れられないから、苦悩は「文化」になる

 

「居場所を変える」ことが簡単にできれば、人間関係の悩みなんてこの世から消えてなくなります。 

でも、変えられない。相手もどこにも行かない。 

だからこそ、私たちは消耗し、すり減り、その摩擦の中で「自分」という歪な形を削り出していく。

「自分と真逆の誰か」と、同じ空間で、違う物差しを突きつけ合いながら、それでも共存し続ける。 

それは、もはや「修行」という名のエンターテインメントなのかもしれません。

  答えの出ない、明るい絶望を

 

結局のところ、他人の物差しを完全に捨てることなんて不可能です。 

私たちは、他人の視線という名の「光」を浴びなければ、自分の影すら見ることができないのですから。

 

「あぁ、今日もボルトが隣で走っているな」 

「私は私で、アインシュタインの寝癖を指摘されているな」

そうやって、互いに全く噛み合わない物差しを持ち寄って、狭い部屋で窮屈に笑い合う。 

その滑稽さと、どうしようもなさを、せめて「面白いドラマ」を観るような、冷めた視線で眺めてみませんか?

 

答えが出ないこと、解決しないこと。 

 

それ自体が、私たちが今日も「社会」という名の、逃げ場のない迷路を生き抜いている証拠なのですから。✨

 

  他人の目に映る自分しか見えない現実

 

結局、私たちは
他人の目に映る自分を見ることしか出来ない
現実を生きているのかもしれない。

 

完全な自己完結なんて、この世界では成立しない。

だから先人たちは、
「自己完結した人間の価値」
見出だせなかったのだろう。

人は、関係の中でしか測られない存在だったから。

 シンプルフレーズ

人間関係が苦しいのは、相手がいるからじゃない。
離れられない場所に、一緒に居続けるからだ。

皆さん、こんにちは。今日も元気に「誠実で真面目で素敵でナイスな男性」を演じている私です。

 

……ええ、あくまで「演じている」のです。 

結果が伴っているかどうかは、私の管轄外ですのであしからず。

 

突然ですが、皆さんに絶望的なお知らせがあります。

コミュニケーションって、実は始まった瞬間に「敗北」が決まっていると思いませんか?

 

こっちは100の善意を込めて「おはよう」と言ったのに、相手の脳内フィルターを通れば「今日のあいつ、なんか計算高くない?」と変換される。 

服装を整え、言葉を選び、理性という名の重厚な鎧を着込んで戦場に向かっても、

相手に届くのは「なんかチャラい」「中身がなさそう」という、身も蓋もない誤解のオンパレード。

 

そう、私たちのコミュニケーションは、OSがバラバラのPCを無理やり繋いだ時の「文字化け」みたいなものなのです。

コミュニケーションの敗北って、要するに「翻訳ミス」なんだと思う

伝えたはずなのに、伝わってない。
良かれと思ったのに、逆に受け取られる。

これ、よくある。

というか、当たり前に起きる。

 

コミュニケーションって、
「送信」じゃなくて
「相手の脳内で翻訳される作業」だから。

 

コミュニケーションの敗北は、当たり前に起こる

自分が意図しない形で相手に伝わった時に・・・

  • 真面目に生きているつもりなのに、そうは見られない。

  • 目立たないようにしているのに、なぜか目立つ。

  • 陽気で楽しい人でいたいのに、評価は「チャラい」。

どれだけ自分で自分を正当化しても、変えられない現実が目の前に残ります。

他人が作り上げた「勝手な自分像」が一人歩きし、一度のミスが致命傷になる。 

どれだけ演じても、取り繕っても、変えられない評価と心証は存在するのです。

 

正直、詰んでると思いませんか?

  「ありのまま」という名の絶壁

 

じゃあ、「ありのままの自分を見てほしい」と願えば救われるのか?

 

 ……いや、それはあまりにハードルが高すぎます。

もし理性を捨てて、感情と欲望のままに自分を表現したら、もう言い訳すら成立しません。 

 

否定と最低のレッテルを貼られて、助かる道はなくなるでしょう。

私たちが「理性」を保っているのは、それが規範やモラルとの「落としどころ」を作ってくれているから。 

「もう誰とも喋りたくない」 「引きこもって自分の世界だけで完結したい」

そう思うのも当然です。未来のネガティブを予見して自粛する。

 

これ、現代人の生存戦略としては正解ですから。

でも、私たちは悲しいかな、単独交配できない生き物。 

 

一人では生きていけないし、一人では「自分」を定義することすらできません。

そこで登場するのが、悪魔の仕組み「間欠的報酬」です。

 

パチンコと同じですよ。

99回ハズレ(誤解・不和・沈黙)を引かされても、たった1回「あ、今、伝わったかも!」という奇跡のLUCK(当たり)を引いてしまうと、脳からドーパミンがドバドバ出てしまう。

そのたった1回の「美しい誤解」のために、私たちは「敗北」が約束されたスロット台(他者)の前に座り続け、今日もせっせとコイン(言葉と感情)を注ぎ込んでしまうのです。 

 

なんて業の深い、滑稽な生き物なんでしょう。

 

  闇鍋に「スパイス」を投入せよ!

勝利条件がない。正解もない。 そんな「詰んだ」状態から、どうすればいいのか? 

 

ここで、私の提案です。 

スピリチュアルも、自己啓発も、全部「スパイス」として闇鍋にぶち込んでしまえばいい。

 

真面目に真正面からぶつかって、否定と最低のレッテルを貼られて終わる……そんなの、あまりにコスパが悪すぎますよね。


「人生という名の闇鍋に、スピリチュアルと自己啓発のスパイスをぶち込む」

これ、最強です。

 

スピリチュアルのスパイス: 

「話が噛み合わないのは、私の波動が高すぎるからだ。次元が違うんだから仕方ない」と、責任を宇宙のせいにして自分を切り離す。

 

自己啓発のスパイス: 

「この誤解すらも、自分を成長させるためのWin-Winな試練だ」と、冷徹にゲームとして攻略する。

 

信じる必要なんてありません。

ただの「味付け」です。 ドロドロの闇鍋(現実)を、少しでも美味しく、あるいはマシな味にするためのチートコード。 

それらを駆使して、「自分だけの物差し」を作り上げるんです。

 

「相手がどう思うか」を勝利条件にするから苦しい。 

そうではなく、「今日はこの鎧(ナイスガイのコスプレ)を着こなした自分、マジで100点!」と、自己満足で完結させてしまえばいい。

 

  シンプルフレーズなら、こうする

コミュニケーションに勝ち負けを作らない。

自分の舞台を押し付ける、

と言うと語弊があるけれど・・・

自分が与えたい認識を、自己完結で、自己満で、撒き散らす。

それでいいと思っている。

 

例えば

真面目な印象を作りたいなら、ONとOFFを分ける。

その場その場で変える。
服装、髪型、化粧、持ち物。

 

中身なんて、簡単には変わらない。

だったら、鎧を変えることに全振りする

それは、十分にアリな選択だと思っている。

  私ね?誇り高き「ポンコツ・ナイスガイ」として生きる

 

さて、冒頭の話に戻りましょう。 

私は今、全身全霊で「誠実で真面目で素敵でナイスな男性」を演じています。

 

でも、現実の出力結果は、なぜか「ポンコツ」です。

 

一生懸命歩こうとして、自分の鎧の重さに耐えきれず、派手に足をもつれさせて転んでいる。 

人からは「あいつ、何やってんだ(笑)」という目で見られている。

 

……最高じゃないですか。

 

どれだけ取り繕っても、にじみ出てしまう「人間感」。 

理性でガチガチに固めたルールと、そこからはみ出してしまう欲望の残骸。 

その「ズレ」こそが、コミュニケーションという不毛な戦場に咲いた、一輪の毒花です。

 

「本当の自分を見てほしい」なんてハードルの高いことは言いません。 

ただ、自分が選んだ「最高の鎧(ナイスガイ)」を着て、今日も元気に空回りする。 

 

相手の土俵に上がって、派手に転んで、ハズレの景品を持ち帰る。

そんな「マシな敗北」を積み重ねること。

それが、詰んでいる現代を軽やかに生き抜く、私なりの「答え」です。

皆さんも、今日一日、盛大に誤解されてみませんか? 大丈夫、その闇鍋、味付け次第では意外とイケますよ。

 シンプルフレーズ 

コミュニケーションは「伝わるか」じゃない。「どう演じきったか」の自己満足である。

私はこれからも、ナイスガイを演じ続け、そして派手に空回りするポンコツであり続けるでしょう。

にじみ出る人間感。それは本質かもしれないし、本当の姿かもしれない。 

 

でも、その「思い通りにいかない姿」すらも闇鍋の具材にして、笑って食べてしまおうと思っています。

コミュニケーションに正解なんてない。

だからこそ、自分だけの味付けで、このカオスな日々を楽しんでいこうじゃありませんか。

それでは、また次回の記事でお会いしましょう!

 

皆様、今日も「自分の物差し」で生きていらっしゃいますか?

それとも、
誰かが落としていった使い古しの物差しで、
今日も自分をペチペチ叩いていらっしゃいますか?✨

 

私たちは、ふとした瞬間に
自分にレッテルを貼ってしまいます。

「ダメな自分だから、動けない」

「ダメな自分」という幻想を脱ぎ捨てて、深呼吸するための処方箋

 

  踏み出したいのに、足が止まる理由

 

新しい場所。
新しい分野。
新しい人間関係。

踏み出したい気持ちは、
確かにどこかにあるのに、
なぜか足が止まってしまう。

 

そんな経験、
きっと少なくないはずです。

 

  未知の世界は、いつだって「嫌いな授業」に似ている

 

興味のない分野。
関心のない世界。

それはたいてい、
未知で、怖くて、
どこか嫌悪の対象になります。

 

人は、
嫌いなものをあえて選ばないし、
苦手なことに無理して挑みません。

 

関心がなければ、
そもそも見向きもしない。

それは、生存本能として
とても自然なことです。

 

  日常のワンシーン:歴史の話

 

例えば、歴史。

武将の名前。
城。
刀剣。

 

好きな人にとっては、話も盛り上がるし、実際に城へ行きたくなるほど
面白い世界です。

 

でも、興味も関心もなければ?

それはただの
「嫌いだった社会の授業」
引き戻されるだけ。

 

同じ対象なのに、心の窓が開いているかどうかで、
見え方はまったく変わってしまいます。

  「ダメな自分」という呪いのレッテル

 

ここに、もし
自分で
**「ダメな自分」**というレッテルを
貼っていたら、どうなるでしょう。

「自分には分からないだろう」
「見いだせないだろう」
「出来ないだろう」
「きっと、良くない結果になる」

まだ何も始めていないのに、
未来だけは、ネガティブに確定させてしまう。

 

その結果、行為には繋がらない。

ダメだと思った瞬間、
新しい風を受け入れる
準備が終わってしまうのです。

 

怖いのは失敗ではなく、苦手なのは挑戦でもない。

 

「どうせダメな自分」という前提で
世界を見てしまう、その曇ったフィルターこそが、
私たちの足を止めています。

 

  その「ダメ」の基準、誰の私物ですか?

 

ここで、
一つだけ考えてみたいことがあります。

その
「ダメ」の基準って、
一体、誰のものなのでしょう?

誰かと比べて、そう感じただけ。
誰かに比べられて、評価された記憶。
「出来ているはず」という前提が
自分には適用されなかっただけ。

それって……
誰かの物差しでしかないんじゃないでしょうか。

 

  🐕 コリーとチワワを比べる無意味さ

 

私とあなたが違うように、
コリーとチワワを比べて
「どっちがダメか」を決めるのは、
そもそも無理があります。

ボルトとアインシュタインが100m走を競う・・・?

ホーキング博士に、腕相撲を挑む・・・?

 

それは勝負ですらありません。
ただの・・・配置ミスです。

適材適所での総評になっていない。
それだけの話なのかもしれません。

 

それなのに私たちは、
その相対的評価を真に受けて、
ネガティブな未来を予見して、
行為を止めてしまう。

 

正直に言って、その仕組みが私はよく分かりません。

あまりにも、自分に対して残酷すぎるから。

 

  今日から少しだけ、呼吸を楽にするために

 

ダメな自分かどうかは、
能力の問題じゃない。

配置の問題かもしれません。

ダメな自分を認識したから、
動けなくなったんじゃない。

誰かの物差しを、
自分の声だと信じてしまったから、
立ち止まっただけ。

そう考えると、
少しだけ
呼吸がしやすくなりませんか?

 

答えは、
まだ出さなくていい。

こうして
「なぜだろう?」と
考え続けられる余地があること自体が、

あなたがもう、
「ダメ」なんて枠には収まりきっていない証拠なのですから。

 

もしよろしければ、教えてください。

あなたが今、無意識に自分を測ってしまっている
「誰かの物差し」は、
どんな形をしていますか?

その物差しを、一緒にポイ捨てして、代わりに
自分専用の、適当で心地よい定規をデザインしていきましょう。

皆さん、お疲れ様です!今日も「頑張って」いますか? 

お仕事、家事、育児、SNSの更新……。 

 

私たちは毎日、何かに追い立てられるように「頑張る」を連呼していますよね。

でも、ふと思ったことはありませんか? 

「この『頑張る』って、一体誰のためのパスワードなんだろう?」って。

今日は、私たちの日常に潜む「明るい絶望」について、ちょっとだけディープに解剖してみましょう。☕️

「頑張っている自分」は、誰のために存在しているのか

人は、自分が納得したいから、
「自分を評価する自分」という他人を、心の中で飼っている。

誰かに褒められなくても、
誰にも見られていなくても、
「私はちゃんとやっている」
そう言ってくれる“内なる他人”が必要になる。

 

それがいないと、今の自分を肯定できないからだ。

 

  「不活動」すら正当化できる視点

 

この見方を変えると、
少し不都合なことにも気づいてしまう。

 

「頑張っている」という言葉は、
何かをしている自分だけじゃなく、
何も変えられていない自分まで正当化してしまう。

 

今を生きることに頑張っている。
そう言えば聞こえはいい。

 

でもそれは、
ただ状況に流されている自分を、
自分で許すための言葉にもなる。

 

  状況を打破できないのは、怠けではない

 

正直に言えば、
状況を打破するのは簡単じゃない。

雇用されている以上、
自分の身柄の決定権を、
すべて自己完結で自由にできるわけでもない。

 

仕事があり、
役割があり、
責任があり、
求められている行為がある。

 

家庭でも、地域でも、それは同じだ。

  他者がいることで生まれる「公共性」

 

他者がいるから、依存が生まれる。
他者がいるから、役割が生まれる。

これが、公共性の正体なんだと思う。

 

そしてその公共性を、
都合よく回すために生まれるのが、

「頑張っている自分」

という存在だ。

 

  他者性は、いつも無責任だ

 

ここは、あまり綺麗な話じゃない。

他人は、
自己以外に責任を持たない。

 

でも平気で、
責任を押し付けてくる。

 

それは悪意というより、
自分を守るための反射なんだろう。

だからこそ、他者性は怖い。

 

  「頑張っている自分」という意志表明

 

そう考えると、
「頑張っている」という言葉は、
根性論でも美談でもない。

これはたぶん、

  • 自己への言い訳であり

  • 他者への許容限界であり

  • 公共への存在証明

なんだと思う。

これ以上は持てない。
ここまではやっている。
だから、これ以上は勘弁してくれ。

そんな静かな意志表明。

 

  それでも、私はこの言葉を使う

 

「頑張る」という言葉は、
ときどき欺瞞で、
ときどき逃げで、
ときどき鎧だ。

 

それでも私は、
この言葉を完全には手放せない。

 

なぜなら、

「頑張っている自分」は、
壊れないための最後の境界線だから。

 シンプルフレーズ

最後に、この文章を一行にすると、こうなる。

頑張るとは、
自己への言い訳であり、
他者への限界宣言であり、
公共の中で消えないための存在証明だ。

 

「頑張る」は、自己への言い訳であり、公共への存在証明。 

私たちが中身のないストローだとしても、それはそれで「何でも通せる」っていう強みでもあります。

 

無理に中身を詰める必要なんてありません。 

社会というシステムの中で、適度に「頑張っているフリ」をして、責任のババ抜きを華麗にかわしていく。

「なーんだ、全部作り物の舞台だったんだ!」

そう気づいて笑い飛ばした瞬間、あなたの「頑張る」は、重い鎖から「軽やかなステップ」に変わるはず。

 

今日もスカスカの体で、美味しいコーヒーでもすすりながら、 この不条理な世界をニコニコと泳いでいきましょう。

明日はもっと、いい感じに「仕上がった」自分に会えるかもしれませんね。✨