執着・・・矜持・・・

なにそれ?私には紙一重に見えるけど、世界は違うって言うのが面白く無い。

 

強者の矜持は弱者を守る。

同様に、強者の矜持は弱者を搾取する。 

 

自己拘束の矜持は、常に自分の為とは限らない。

誰かの為、誰かを守る為、誰かを支える為。

 

それは家族が、両親が子供に対する矜持だろう。

 

しかし、他人に対して「こうしなさい」っていうことを執着として、

代替えできない強制力と行った時、それは今までの解釈では悪感情としての方向性を持ってしまう。

弱者を搾取する視点でのみの解釈によっているのでは? 

 

執着と矜持は結局他人の物差しなんじゃないだろうか?同じもので、境界を引こうって言うのが私には分からない。 

今までの解釈では、心配や不安は執着で、勇気や努力が志向で矜持のようになっている。 

私にはどちらも執着で、生き方って言う矜持に見える。 

 

「あなたの為・みんなの為」があるのは、他人が居るって言うのを認めた上での矜持では?

執着?それって私の教義なんです。

 

「このコップは私のマグカップ!」
「この味噌汁の味、ちょっと違うんだよなぁ!」
・・・そうやって今日も小さなこだわりを守る私たち。

でも、よく考えたらそれ全部“執着”じゃない?

  🌀執着って悪者なの?

世間はすぐ言う。「執着は手放しましょう」「しがみつくのはよくない」
……いやいやいや、待って?
じゃあ、“好き”って気持ちも、“大事”って思う心も、
みんな「手放せ」ってこと?

それ、悟りどころか虚無だよね。
私、そんなに仏じゃない。

 

  💡私にとっての執着は、もはや教義

 

だってね、
「どうでもいい」ばっかり言ってたら、何も残らない。
“どうしても譲れない”があるから、
私たちは今日もご飯食べて、働いて、恋してる。

そう、執着って生きるための“信仰”みたいなもの。
誰かに「それ、やめたほうがいいよ」って言われても、
 

ごめん、それ私の教義なんで。

 

  ☕執着の出し方にもマナーがある

 

でもね、ここが大事。
「私の教義」を人に押し付け始めたら、それは勧誘です。
布教活動、ほどほどに。

相手が入信してくれたらラッキー。
でも「無理っす」って言われたら、そこで一礼して帰るのがマナー。

 

執着を貫くのは自由。
でも、他人の自由もちゃんと残すのが矜持

 

  🪞執着は、あなたの“らしさ”

 

手放せない想い。
譲れないこだわり。
それがあるから、あなたは“あなた”なんだ。

「執着してるね」と笑われたら、
「そうだよ、これが私の矜持だよ」って笑い返していい。

 

 🌱今日のシンプルフレーズ

 

「執着は、私という宗教の第一条。」

生きる上で執着は必要な想い。

 

問題はその想いの落としどころ探し。

しかし、落としどころがあるような感情を執着とは呼ばない。

こだわりや好き嫌いは誰もが持つ嗜好性。

それを執着と呼ばないのは、未練や後悔って言う人を変えるほどの感情を持つかどうか?

じゃないだろうか?

執着、それは、その人の根幹であり、らしさであり、矜持ではないだろうか? 

 

私には執着が小さな運用の可能なモノには感じられない。 

宗教家が教義を押し付けるように、社会組織がルールを押し付けるように、

他人に対しても同様に求めてしまうのは、執着らしさであり必然であり、

代替え可能な選択肢ではないと思う。

 

だって、それはその人のルールで教義だから。

これからのアメーバブログは、もっと自由に。

amebaブログも、もっと等身大で・・・

シンプルフレーズのそのままを面白おかしく、方向性にゆとりを持たせていこうかな

 

香嵐渓と足助の神域を歩いた日

11月初旬・・・まだまだ色づきが始まったばかりの紅葉狩り

愛知県・・・観光地として有名な香嵐渓 

秋の風物詩を堪能しようと風に乗ってながれていく

 

  赤い橋、緑のトンネル。

 

迷いが多い日は、川の音に決めてもらう。
それだけで、呼吸がひとつ楽になる。

 

雲間から差す光に、山がゆっくり色を変えていく。
巴川のせせらぎ、赤い橋、頬に触れる冷たい風。
今日は、香嵐渓の遊歩道をのんびり散策して、鳥居が凛と美しい足助の社へご挨拶。
焼きたてピザとクラフトIPA、そして炭火の川魚まで。

 

“歩く速度”で味わう半日旅の記録です。

 

  まずは鳥居をくぐる

 

 

足助の社で整える

 

最初に向かったのは、香嵐渓の玄関口にある足助の神社
境内には七五三の幟(のぼり)がはためき、拝殿のしめ縄が清々しい。
手水で指先を冷やし、二礼二拍手一礼
杉の大木が空を縁取るように立ち、背筋がすっと伸びる。
社務所の掲示や木札を眺めているだけでも、この土地が代々守ってきた気配が伝わってくる。

 

祈りは“叶える手段”じゃなく、“整える手順”。
心の姿勢を正すと、景色の解像度が上がる。

 

(※境内には由緒あるお社がいくつも並びます。時間に余裕があれば、一社ずつ「ご挨拶の散歩」を。)

 

 

 

  香嵐渓さんぽ

 まだ少し早い

 

赤い橋と、もみじのアーケード
 

川沿いの道を歩けば、頭上はもみじのトンネル
赤い橋が視界を横切り、山の緑が風で波打つ。
すでに色づき始めの葉、陽に透けて輝く若緑・・・季節のグラデーションが美しい。

  • 撮影ポイント

    • 川面の反射が入る“逆光ショット”(木漏れ日が星みたいに写る)

    • 橋の欄干を前ボケに入れる“赤×緑”のコントラスト

    • 遊歩道の遠近感が出る“ナナメ構図”

歩みをゆるめるほどに、景色は濃くなる。
人が多い時間帯でも、橋を少し離れると静かな場所がちゃんと残っているのが香嵐渓のよさ。

 

  川辺で小腹を満たす・・・焼きたてピザとクラフトビール

 

 

 

 

歩けばお腹が鳴るのが正直者。
屋外のテーブルで焼きたて薄生地ピザ、そしてラベルも可愛いクラフトのHazy IPAを一本。
川音をBGMに頬張るトマトソースは、どうしてこんなに幸せなんだろう。


仕上げは炭火で香ばしい川魚の塩焼き。皮がパリッ、身はしっとり。山の恵み、いただきます。

 

 

旅の正解は“名物の名前”じゃなく、“そこで噛みしめた一口”。

 

  小さな実用メモ(これが効く)

  • 歩きやすい靴:遊歩道は整備されていますが、川沿いは石段も。スニーカー推奨。

  • 混雑対策:特に紅葉ピークは午前がおすすめ。しかし、ライトアップは必見。

  • 寒暖差ケア:日陰はぐっと冷えます。薄手の上着+マフラーがあると安心。

  • 参拝マナー:鳥居の前で一礼、手水で清め、二礼二拍手一礼。撮影は周りへの配慮を。

  • 休憩の合図:人が増えてきたら橋を一本渡って反対岸へ。景色が変わって呼吸も変わる。

  • 軽食と屋台:沢山の屋台、そば・うどん・らーめん・豚汁、お腹の余裕を持って行こう。

  • 夜景も最高:11月はライトアップは21時まで。ゆっくり豚汁飲みながら見たいね!

  モデルコース(ゆるっと3〜4時間)

  1. 神社で参拝(10〜20分):鳥居・拝殿・境内社をゆっくり。

  2. 香嵐渓の遊歩道(60〜90分):川上→橋→川下へ“∞(無限)”を描くように回遊。

  3. 川辺ランチ(30〜60分):ピザや屋台の一品、クラフトビール。

  4. 仕上げの一周(30分):光の角度が変わると写真も変わる。帰る前に“もう一枚”。

  • バス下車は「香嵐渓」または「香嵐渓(一の谷)足助」の表示に従えばOK。

  • 紅葉シーズンは名鉄バスセンター発の臨時直行バスが運行される年が多いので、出ていれば最短・楽ちんです。

  • 帰りの最終バス時刻だけは現地で必ず確認しておきましょう。

 

 

 今日の“シンプルフレーズ”

「赤い橋を渡るたび、昨日の悩みは半分だけ小さくなる。」
半分でいい。残りの半分は、また歩きながら薄めていけばいい。

 

  感想編

 

香嵐渓は、派手さより『層』のある景色が魅力でした。
緑、紅、川の音、木の匂い、社の気配。
足助の社で心を整え、川沿いでお腹を満たし、橋を渡って視点を変える。
それだけで、帰り道の自分は、来た時より少しだけ軽い。

—また、季節を一枚ずつめくりに来よう。

 

 

エピクトテスは、現在のトルコ・ヒエラポリス出身の哲学者

「自由とは、思い通りになることではない。思い通りにならないことに乱されないことだ。」

 

彼の哲学は「現実逃避」ではなく、現実受容の訓練です。

怒り、恐れ、悲しみといった感情を否定せず、それらを「理性で観察し、整える」ことを目指します。

 

アブラハム・マズローは、アメリカの心理学者

マズローの欲求5段階説は、人間の欲求は5つの階層に分けられ、下から順に満たされることで次の段階に進むとされています。

人間らしさ・依存・マズロー・エピクトテスをめぐる物語

 

「気づけば、自分の時間なのに他人の時間を生きている
その息苦しさに、名前を付けておきたい。」

 

これは、エピクトテスの思想を私が考察していく理由だ。

 

  ◆人間らしさとは、コントロールの失敗を抱えた存在

 

マズローは、人間の欲求を5つの階段で説明した。


生理的欲求、安全欲求、所属と愛、承認、自己実現。
この構造は、まるで“上に登ることが正解”のように見える。

 

でも、それは社会が作ったラベルにすぎない。


欲求というのは、本来もっと曖昧で、
上下でも優劣でもなく、波のように揺れているものだ。

 

「自分を支配できない」
それこそが、最も人間らしい姿ではないだろうか。


なぜなら、私たちの理性は常に欲望の後ろを歩いている。
食べたい、愛されたい、認められたい・・・


理性はいつも、その結果を後から整えるだけだ。

 

理性の働き

刺激→欲望・欲求 → 感覚 → 感情(快/不快) → 衝動(行動)
ここまでは“自然”。ここから先で理性が介入します。

理性は、行動・衝動に対する理由を付けてくれる。

 

正当化の流れと意味付けの流れだ

正当化⇒すでに起きた衝動・行動を合理化して“自尊の傷”を塞ぐ

意味付け⇒感情・欲望を位置づけ直し、行動へつなぐ“台本”を作る

 

行動することや、発言するっていう人の行為を、自分が理解できて言い訳が出来るように整えてくれるのが理性の働き。

これは正しい行為だ!これには意味がある!っていう、感情や欲求のいびつな部分を整えてくれる。

 

マナーやモラル、規範や規律を守るって言うのも、理性の中で道理的で、合理的で、意味があって必要だって言う

理由があるって、判断しているっていうこと。

  ◆依存とは「自分を外に置くこと」

 

コントロールできない自分を前に、人は不安になる。
だから、他者に依存する。

「神が決めた」
「社会が正しい」
「誰かが私をわかってくれる」

これらはすべて、“自分を外側に置く”行為だ。


出来ないことを自分の外に追いやり、
他人の価値観や社会の規範に委ねて安心しようとする。

 

つまり依存とは、「自分ではどうにもならないことを、
他者の時間に預けてしまう」こと。

 

それは弱さではなく、むしろ自然な防衛反応だ。
けれど、他人の時間を生き始めた瞬間に、
自分の人生は他人の脚本になる。

 

「理性とは、社会があなたに求める“都合の良い自制”である。」

 

例えば・・・

会議のマナー、家庭の常識、学校の規律。
どれも他人にとって心地よいあなたを作る装置だ。


理性はときに、心のスーツ


必要だから着る。でも、24時間は苦しい。
脱げる時間と場所(パジャマの時間)を、意識的に確保したい。

 

的な?

 

  ◆エピクトテスが見た自由?「奴隷であっても、思考の自由は奪われない」

 

エピクトテスは奴隷だった。
それでも彼はこう語った。

 

「奴隷であっても、思考の自由は奪われない。
だが、思考の自由を語るには、まず“束縛されている”という自覚が必要だ。」

 

自由を語るためには、まず支配の存在を認めることから始まる。
社会、制度、他者、そして自分自身。
それらに縛られている現実を否定せず、
その中でどう呼吸するかを考える。


それが、エピクトテスの言う「理性の使い方」なのだろう。

 

  ◆支配からの脱出とは、「自分を観察しすぎないこと」

 

私たちは、自分で自分をコントロールしようとしすぎて、
「自分を観察する自分」が肥大化してしまう。


反省、分析、自己改善・・・それらは大切だが、
行き過ぎれば、息苦しい自己監視になる。

 

“自分を自由にするために、自分を縛ってしまう”

 

これほど皮肉なことはない。

 

食事、睡眠、発言、感情、すべてを採点。
それ、ダイエットの毎日体重計の罠と同じ。
数字は目安。でも人生は揺れる

 

だからこそ、私は思う。
自分を完全に支配しようとするのを、やめていい。


少し緩く、曖昧に、
自分が一番楽にいられるスタイルを選ぶのも、
立派な哲学的選択だ。

  ◆他人の物差しで測られない価値へ

 

社会の物差しは、いつも他人の都合でできている。
「努力が足りない」「もっと上を目指せ」「我慢は美徳」
それらの言葉に疲れたとき、
私は“支配からの脱出”を試みている。

 

人生は、強者が書いた台本で進むことが多い。
だけど、演出(間・焦点・人称・小道具・終端)は私の手に残っている。
観客の感想は世界のもの。
でも、舞台での
呼吸と間合い
は、私のものだ。

 

エピクトテスの時代

「奴隷であっても、思考の自由は奪われない。
だが、思考の自由を語るには、まず“束縛されている”という自覚が必要だ。」

 

他人の時間を生きない。
他人の物差しで測られない。
自分を観察しすぎて縛らない。
目指すのは支配からの脱出・・・といっても、派手な革命じゃない。
鍵を自分でも持っているコインロッカーに、ちゃんと預け直すこと。


そして、“一番楽に続くスタイル”を選ぶこと。

 シンプルフレーズ

自由とは、支配の中で呼吸する技術。
理性とは、他人の都合を選び直すための道具。
今日の私は、私のいちばん楽なやり方で生きる。

エピクトテス(Epictetus, 紀元50年頃–135年頃)

エピクトテスは現在のトルコ・ヒエラポリス出身で、ローマの奴隷として生きた哲学者
彼の主人はネロ皇帝の側近エパフロディトス。

後に解放され自由の身となった後も、質素に生きながら、ストア哲学を説く教えを広めました。

 

私たちは、誰の脚本を生きているのか

 

  エピクトテスの小さな自由

「判断の領域」という小さな城

 

昔、奴隷の身でありながら哲学者となったエピクトテスは言った。
「私たちを苦しめるのは、出来事そのものではなく、それに対する“判断”だ」と。

 

嵐が起きても、それを“恐怖”と呼ぶか“自然”と呼ぶかで、心の天気は変わる。
この思想は、世界を変える力がなくても、自分の内側には自由があるという“心の独立宣言”だった。

だが・・・この言葉は、どこまで現実で通じるのだろう?

 

ストア派・エピクトテス。

外側(天気・他人・運命)は動かせない。

だが同意・価値づけ・判断だけは奪わせない。
鎖に繋がれたままでも、門番の質問はできる・・・?

「それは事実か、解釈か?」
ここで見つかった自由は、**“内側に残る最小の主権”**だった。

  現実:理想は呼吸の上に立つ

 

私の見方はこうだ・・・

「それは理想論だ。生きることに“安全”と“安定”がない人間には、自由はない」と。

 

たしかに、職を失い、家族を失い、社会に追われるとき、
“判断の自由”なんて、何の役にも立たない。


ネグレクトは愛ではないし、リストラは解放ではない。

 

現実とは、生きることを脅かされない環境の上でしか“哲学”は機能しない。
だから、自由とは“思想”ではなく、“生存の余白”なのだ。

理想論への異議

「解釈の自由」は安全と安定があってこそ。
リストラ、絶縁、迫害、暴力・・・REDゾーンでは思想は折れる。
ネグレクトは愛ではない、リストラは解放ではない。言い換え不可の領域がある。

  • RED(直撃):退避・保護・証拠化。思想より生存

  • GRAY(圧迫):被害の限定・出口確保・条件交渉。運用の言葉だけ。

  • SAFE(日常):ここでやっと解釈の調整が効く。

「解釈はSAFEの特権。GRAYは条件、REDは退避。」

  被害者性というもうひとつの脚本

 

次に問いを進めよう・・・

 

人はなぜ“不幸”を引き受けたがるのか?
なぜ“被害者”であろうとするのか?

それは、社会がそういう役を与えるからだ。


弱く見える人には、優しさが集まる。
傷ついた姿には、共感が集まる。


「不幸だから助けて」が、最も安全で注目を集める方法になってしまった。

けれど、それは同時に・・・


「他人を動かす力」としての被害者性でもある。
沈黙して俯いていれば、“誰かがなんとかしてくれる”。
その“なんとかしてくれる”構造こそ、支配と被支配の舞台装置だ。


「弱さは演じられる。けれど、演じることは罪ではない。
ただ、演じ方の責任は、あなたの台詞になる。」

 

資本・被害者性・強者/弱者の力学

現実の舞台では、資本が規範を上書きし、
“被害者性”は注目・免責・支援という資源に接続されるときだけ正当化される。
全員が影響を与え合う加害/被害の同時性を抱え、沈黙すら“無言の要求”になりうる。
ここでの倫理は、「無害か」ではなく、損害を最小化し再生産を止める設計へ。

  • 体験は無罪(事実は尊重)

  • 表現は選択(言い方・範囲・終端)

  • 影響は責任(広げすぎない・条件付きの支援)

 

  自由とは「判断」ではなく「演出」

 

ここで、エピクトテスの思想が再び立ち上がる。
けれど、あなたはそれを新しく書き換えた。

 

「人間の自由は“判断の領域”ではなく、“物語の紡ぎ方”である。」

 

脚本(物語)は、いつだって強者が作る。
会社も、家族も、国家も、制度も。
私たちは、与えられた役を演じるしかない。

けれど、演じ方だけは、選べる。
どんな間を置き、どこに焦点を当て、どんな声で語るか。
それが、“演出の自由”だ。

観客(社会)がどう感想を言うかは、もうコントロールできない。
でも、舞台に立つときの呼吸と間合いは、自分のものだ。


「脚本は他人のもの。演出は私のもの。批評は世界のもの。」

 

「判断」から「物語の紡ぎ方」へ

自由とは点の判断ではなく、時間に沿って編む“物語の紡ぎ方”だ、と。

  • 脚本(プロット・配役)は強者が握りがち。

  • だが演出(間・焦点・人称・小道具・終端)は、私に残る・・・残ると願いたい・・・。

  • 批評(感想)は観客=第三者が決める。

  物語を編む自由へ

 

脚本は多くの場合、強者の手にある。
でも、演出が残れば次の脚本に手が届く。


演出とは、被害者性を“旗”にせず“帆”に替えること。
被害を無限に拡散せず、条件と終端で関係を守ること。
そしてSAFEに戻れた時、はじめて物語の意味を編み直す。


けれど、その演じ方が、美しくても不器用でも、
それが“私の物語”になる。

人は、完全な自由を持てない。
でも、余白の中で自由を練習できる。
それが人間の希望だ。

 

 

 シンプルフレーズ
「事実は舞台、自由は演出。
物語は支配されても、
どう生きたかは、私が書ける。」

  考察|“理想”を現実に据えるための道具立て

 

理想を折らずに現実へ落とすため、順番と道具を決めた。

Freedom Stack(自由の積み上げ順)

  1. Oxygen:安全(避難先・緊急資金・通報先)

  2. Bandwidth:余白(睡眠・食事・静かな時間)

  3. Leverage:てこ(記録・証人・契約・援軍)

  4. Story:物語(ここでやっと解釈が効く)

演出の5点セット

  • (反射より一泊)

  • 焦点(同情より要件)

  • 人称(I→Weの順)

  • 小道具(口論より文書)

  • 終端(今日はここまで。次は○日)

その場で使える三行台本

  1. 私はこう感じ/こう困る。

  2. だから今はこれをお願いしたい(誰に・どこで・いつまで)。

  3. 今日はここまで。次は○日に見直す。

本物でいたい。そう思うほど、自分が偽物に見えてくる。
でも、偽物って、本当に悪いものだろうか。
偽物は、なりたい自分を諦めていない証。
本物になりたいと願う限り、
その“偽物の努力”は、生きることと同じ意味を持つ。
完成していないことを、恥じる必要なんてない。
未完成こそ、私たちがまだ“変われる”という証明だから。

嘘と未完成の哲学

 

  第1章|名前がないものは、意味を持たない

 

A「“ある”のに見つからないものって、ある?」
B「“ない”のに気になって仕方ないものなら、ある。」
A「探してるのに見つからないのは?」
B「見つける気がないから探し続けられるんだよ。見つけちゃったら、もう探せない。」
A「じゃあ、“見つけやすい”って?」
B「探さなくても目に入ること。探す行為が成立しない便利な偶然。」
A「なるほど、探すって“見つけない”ための習慣かもね。」
B「名前がないうちは、存在できない。名づけて初めて、ここに“ある”になる。」

 

考察と引用(哲学)

 

「名づけることは、存在を確定させることだ。」——ハイデガー
「意味とは、使用である。」——ウィトゲンシュタイン

 

名前は、ただのラベルではなく「認識の起点」だ。
言葉を与えることが、“ある”という事実を世界に浮上させる。
それは発見ではなく生成
「見つからないもの」は、まだ語られていないだけなのかもしれない。

 

解説

 

見つからないのは、“ない”からじゃなく、まだ見ようとしていないから
探すことに意味があると思っているうちは、見つけることを怖がっている。
見つけやすいものは、探さなくても見つかる。
 

つまり、“探している時間”こそ、あなたがまだ「名前をつけられない場所」にいる証拠なんだ。

 

 シンプルフレーズ

「見えないは“不在”じゃない。まだ“意味が見えない”だけ。」

 

  第2章|助かるのは、自分が助かろうとした瞬間

A「人って、助け合う生き物なんでしょ?」
B「うん。たいてい“助かりたい”ほうが主語だけどね。」
A「じゃあ、助けるって何?」
B「だいたい、“助かる環境を整える”って意味。
  たとえば、転ばないように段差を削るとか、
  泣いてる人に“泣いていい場所”を作るとか。」
A「じゃあ、泣き止ませようとするのは?」
B「支援を装った干渉だね。善意という名の手出し。」
A「助けられる人って、どんな人?」
B「“助かろうとしてる人”。
  泳げるように手を動かしてる人にしか、浮き輪は届かない。」
A「じゃあ、溺れてる人は?」
B「……気づかれない優しさで、波を少しだけ静めてやる。
  でも、浮かぶのは本人の意思だけ。」
A「つまり、“助ける”って、手を伸ばすことじゃない?」
B「うん。見えない誰かが、あなたの足元を固めてくれてることを知ること。
  それがほんとの“救い”だよ。」

 

考察と引用

「人は自らの反応しか選べない。」——エピクテトス
「人間の行為は複数性の中でのみ現れる。」——ハンナ・アーレント
「善とは、他者が立ち上がる空間をつくることだ。」——レヴィナス的再解釈

 

誰かを“助ける”とは、実は条件を整える行為にすぎない。
助かるとは、自分の内部の決意の問題であり、他者はその舞台を整えるだけ。
“救う”という言葉の裏には、支配の誘惑が潜んでいる。
だから、真の支えとは「触れない優しさ」「距離を保つ思いやり」なのだ。

 

解説

人は、他人を直接“救う”ことはできない。
でも、助かりやすい環境を作ることはできる。

それは、
・赤信号で止まること。
・夜のうちに道を掃いておくこと。
・返信せずに見守ること。

どれも「見えない優しさ」でできている。


誰かの“当たり前の平和”を支えているのは、そんな名もなき気遣い。
助かるのは本人だけど、その背景には必ず“誰かの準備”がある。

 

 

 シンプルフレーズ

「人を助けるなんて出来ないよ。私に出来るのは私にできる事だけ」

 

  第3章|愛は見えないから、在る

 

A「愛って、説明できる?」
B「できたら、それもう“愛”じゃないね。論文にできる感情は、だいたい卒業してる。」
A「じゃあ、“愛してる”って言葉は嘘?」
B「嘘じゃないけど、後から貼ったラベル。開封時には無記名だよ。」
A「伝わらないのに言う意味、ある?」
B「伝わらないから言うんでしょ。届かないから投げるんだよ、“愛してる”って。」
A「でも見えないものは、疑いたくなるじゃん。」
B「見えないから信じられるんだよ。見える愛なんて、だいたい広告だ。」
A「じゃあ、愛はどこにある?」
B「“ない”のに、名前だけ残る。まるで幽霊。だけど、いないと困る存在。」
A「怖いね。」
B「愛はいつも“いない”のに、“いた”という記憶で人を動かす。」
A「それって、幻覚?」
B「ううん。“思い出に住む真実”ってやつだよ。」

 

考察と引用

「心には理性の知らない理屈がある。」——パスカル
「愛とは、他者の善を願う運動である。」——アリストテレス
「われわれは、愛するものの中に自分の欠けた部分を見いだす。」——プラトン『饗宴』
 

愛は、在るようで在らず、ないようであるという、最も人間的な矛盾を抱えている。
パスカルが言うように、愛は理性を超える“非合理の美学”。
それは見えないからこそ壊れず、名づけられたからこそ形を持つ。
愛とは、感情ではなく、名が残る記憶の仕組みなのかもしれない。

 

解説

愛は、見せることじゃなく、気づかれないように与えること
「ありがとう」と言われたい優しさは、“善意のビジネス”だ。
けれど、見えないところで静かに灯す思いやりは、
見返りを求めない“無署名の贈り物”。

つまり——愛は「在る」と証明できないのに、
「なかった」とは言い切れない“余熱”のような存在。
時間が経っても残る“温度”だけが、愛の証拠になる。

 

 シンプルフレーズ

「愛は分からない。誰かが教えてくれたら、それが愛だったんだって、後から知ったことに名前を付けただけ。」

 

  第4章|嘘はうつるのか、それとも選ばれるのか

 

A「ねぇ、“嘘”ってさ、ウイルスだと思う?」
B「違うね。むしろワクチン。真実という病気に効く副作用。」
A「でも嘘は人を傷つける。」
B「真実も人を壊す。なら、どっちも刃物でしょ。」
A「じゃあ、どっちを信じればいいの?」
B「信じるかどうかは選べない。“信じたい側”が勝つの。」
A「騙したほうが悪い?」
B「いや、騙されたほうが優しい。だって、相手の願いに合わせてくれたんだから。」
A「……優しい嘘って、ほんとに優しいの?」
B「優しすぎる嘘ほど、あとで本当になる。」
A「それ、怖くない?」
B「怖いよ。でも、嘘を信じた人が笑ってるなら、それはもう“現実”じゃない?」
A「嘘はいつかバレる?」
B「ううん。“必要がなくなったとき”に、自然に消える。」
A「それ、まるで恋みたいだね。」
B「恋は嘘の中でだけ、正直になるものだよ。」

 

考察と引用

「真理とは、忘れられた比喩の集積である。」——ニーチェ
「嘘をつくことは、真実を演出する一種の技術だ。」——フロイト的解釈より

 

ニーチェは“真理”そのものを「物語」だと切り捨てた。
つまり、嘘とは“物語を守るための設定ファイル”なのかもしれない。
人は世界を完全には受け止められないから、嘘という緩衝材を作る。
本当の嘘とは、欺きではなく「人間が世界と共存するための擬態」だ。

 

解説

嘘は悪ではない。
ただし、“戻せる嘘”であること。
それが人を守る“優しい嘘”の条件。

 

嘘は、真実と同じだけの重さを持つ。
人を騙すためじゃなく、人が壊れないようにするために使う言葉
だからこそ、誰かが笑ってくれるなら、その嘘は一時的な“現実”になる。

 

 シンプルフレーズ

「言葉を否定されたら嘘って言う。受け入れられたら真実ってなる。信じている人が居る間はそれは真実なんだ。」

 

  第5章|偽物は、未来形の本物

 

A「偽物って、やっぱりダメなのかな?」
B「ダメって誰が決めたの?」
A「だって、偽るって悪いことでしょ。嘘をつくし、誤魔化すし。」
B「でも、“本物っぽく見せよう”と努力するって、
  本物よりも“本物を意識してる”ってことじゃない?」
A「……哲学っぽいこと言うなぁ。」
B「だって、本物は完成してる。偽物は、完成してない。
  未完成ってことは、まだ伸びるってことだよ?」
A「でも、偽物は結局、偽物だよ。」
B「それでも、“なろうとしてる”じゃないか。
  本物はもう終わってる。偽物は、まだ始まってる。」
A「……うわ、ズルい。今ちょっと泣きそう。」
B「泣くなよ、偽物の涙は塩分が多いぞ。」
A「なにそれ、味覚の問題?」
B「生きるって、だいたい味覚の問題だよ。」

 

考察 × 哲学

「本物は、完成という名の死を迎え、偽物は、模倣という名の生を続ける。」——ニーチェ風再構成
「存在は“なる”ことであり、“ある”ことではない。」——ハイデガー
「人間とは、未完成であることに価値を見出す唯一の存在である。」——アーレント的視座

 

“偽物”とは、完成を拒む存在だ。
“まだ途中”であることを恥じず、“なりたい”という衝動で立ち上がる。

本物は「認知」「証明」「評価」によって確定される。
だが、それは同時に「動きを止める」ということでもある。


完成されたものは、もはや変化できない。
だから、本物は安定しているが、退屈だ。

対して、偽物は常に揺らいでいる。
否定され、疑われ、笑われながらも、
“なろうとする”という運動を続けている。

その**「なろうとする意思」こそ、最も人間的な光**なのだ。

 

解説

本物は静止している。
偽物は動いている。

「未完成」とは、まだ変われる証であり、
「嘘をつく」とは、まだ“理想を諦めていない”というサインだ。

 

私たちは、時に偽物を見下す。
でも、本物もまた、かつては偽物だった。
模倣からしか始まらないのが、創造の原理。

だから、偽物は恥ではない。
それは、“完成に抗う生き方”であり、
「まだ終わりたくない」という命の姿そのもの。

 

 シンプルフレーズ

「本物はもう本物なんだ。偽物は所詮偽物。でも、だからこそ・・・より良く、さらに善く、もっと欲深く、在るから美しい」

 

  エピローグ

 

名前がないものに、意味を与えるのは人間だ。
助かるのは、自分が助かろうとした瞬間。
愛は見えないけれど、確かに在る。
嘘は罪ではなく、誤差という名の優しさ。
偽物は、未来に向かう勇気。

完成することより、未完成のまま進むこと。
 

迷って悩んで、欺いて欺かれて、否定して逃げ出して、見えなくて見失って、探していたモノすら分からなくなって

本当に人生って、不条理、不合理、不誠実、不具合しかない。

それを知っているから、私は・・・私達は知らないまま、それでも知らないでいたいと思う。