執着・・・矜持・・・

なにそれ?私には紙一重に見えるけど、世界は違うって言うのが面白く無い。

 

強者の矜持は弱者を守る。

同様に、強者の矜持は弱者を搾取する。 

 

自己拘束の矜持は、常に自分の為とは限らない。

誰かの為、誰かを守る為、誰かを支える為。

 

それは家族が、両親が子供に対する矜持だろう。

 

しかし、他人に対して「こうしなさい」っていうことを執着として、

代替えできない強制力と行った時、それは今までの解釈では悪感情としての方向性を持ってしまう。

弱者を搾取する視点でのみの解釈によっているのでは? 

 

執着と矜持は結局他人の物差しなんじゃないだろうか?同じもので、境界を引こうって言うのが私には分からない。 

今までの解釈では、心配や不安は執着で、勇気や努力が志向で矜持のようになっている。 

私にはどちらも執着で、生き方って言う矜持に見える。 

 

「あなたの為・みんなの為」があるのは、他人が居るって言うのを認めた上での矜持では?

執着?それって私の教義なんです。

 

「このコップは私のマグカップ!」
「この味噌汁の味、ちょっと違うんだよなぁ!」
・・・そうやって今日も小さなこだわりを守る私たち。

でも、よく考えたらそれ全部“執着”じゃない?

  🌀執着って悪者なの?

世間はすぐ言う。「執着は手放しましょう」「しがみつくのはよくない」
……いやいやいや、待って?
じゃあ、“好き”って気持ちも、“大事”って思う心も、
みんな「手放せ」ってこと?

それ、悟りどころか虚無だよね。
私、そんなに仏じゃない。

 

  💡私にとっての執着は、もはや教義

 

だってね、
「どうでもいい」ばっかり言ってたら、何も残らない。
“どうしても譲れない”があるから、
私たちは今日もご飯食べて、働いて、恋してる。

そう、執着って生きるための“信仰”みたいなもの。
誰かに「それ、やめたほうがいいよ」って言われても、
 

ごめん、それ私の教義なんで。

 

  ☕執着の出し方にもマナーがある

 

でもね、ここが大事。
「私の教義」を人に押し付け始めたら、それは勧誘です。
布教活動、ほどほどに。

相手が入信してくれたらラッキー。
でも「無理っす」って言われたら、そこで一礼して帰るのがマナー。

 

執着を貫くのは自由。
でも、他人の自由もちゃんと残すのが矜持

 

  🪞執着は、あなたの“らしさ”

 

手放せない想い。
譲れないこだわり。
それがあるから、あなたは“あなた”なんだ。

「執着してるね」と笑われたら、
「そうだよ、これが私の矜持だよ」って笑い返していい。

 

 🌱今日のシンプルフレーズ

 

「執着は、私という宗教の第一条。」

生きる上で執着は必要な想い。

 

問題はその想いの落としどころ探し。

しかし、落としどころがあるような感情を執着とは呼ばない。

こだわりや好き嫌いは誰もが持つ嗜好性。

それを執着と呼ばないのは、未練や後悔って言う人を変えるほどの感情を持つかどうか?

じゃないだろうか?

執着、それは、その人の根幹であり、らしさであり、矜持ではないだろうか? 

 

私には執着が小さな運用の可能なモノには感じられない。 

宗教家が教義を押し付けるように、社会組織がルールを押し付けるように、

他人に対しても同様に求めてしまうのは、執着らしさであり必然であり、

代替え可能な選択肢ではないと思う。

 

だって、それはその人のルールで教義だから。