私の趣味は神社巡り・・・

色々行くけど、どこも同じに見える。

でも、どこも違うからとても楽しい!

 

今では、神社の由緒や御祭神や信仰って言うモノより、観光地としての需要が高い。

それが悪いわけじゃない。

神社に人が集まるのは、私はとても嬉しいから

 

ただ、神社側が観光地化を推進して、やたらと多い分社や摂社や末社・・・

そんなに居るのか?って思うほどのおみくじに札にお守り・・・

 

悪いわけじゃない。でも、ただの商売になってしまっているのは・・・

なんとなく寂しい

 

真清田神社/国府宮/津島神社
青空の下、御朱印片手に「今日は自分へのご褒美デー!」🤍

神社の中で休める場所があると本当に嬉しい。

今回逝った場所には、ベンチがあったのは・・・


真清田神社だけだった。多分、私が見つけられなかっただけ・・・

 

どこも、大きな神社だから人も多い、ゆっくりできるか?って言われたら、そんな雰囲気もないくらいの11月。

それでもいいんだ!神様のことが好きなだけだから。神社が好きなだけだから。

その時々の雰囲気があるから、それも好きな理由かもしれないな~

 



  🍁秋晴れとともに神社めぐりスタート!

 

季節が変わると、同じ参道でも足音が違う。
夏の熱気が落ち着いて、空が高くて、風がやさしい。
そんな秋の尾張を、今日は気ままに三社めぐり。
そしてもちろん…御朱印をもらって大満足!✨

 

「ご利益もいいけど、記念に残るトロフィー感がたまらない!」

 

私の場合、どこの神社で何を願うか?とかそういうのは無いのだよ。

願いはいつも同じだし、感謝もいつも同じなんだ。

 

神社って良いよね!って思うのだよ!私はね!

 

  ⛩️一宮・真清田神社

御祭神:天火明命(あめのほあかりのみこと)

 



朝いちばん、参道の空気がまっすぐで気持ちいい。
七五三の子どもたちが可愛くて、自然と笑顔になる。
拝殿前で深呼吸したら、気持ちまでシャキッと整う。

📍アクセス:名鉄一宮 or JR尾張一宮駅からすぐ
🎁御朱印:力強い筆致で「真清田大神」!気持ちまで凛とする一枚。

 

「姿勢を正すって、心の掃除みたいだなぁ」

 



もう境内に神社多過ぎ・・・回るだけで大変💦

いいのよ?ご利益いっぱい的な?今はやりのあれでしょ?オールインワン?

 

  🪶国府宮(尾張大國霊神社)

御祭神:尾張大國霊神(おわりおおくにたまのかみ)
はだか祭りの神社だよ!

 



大きな楼門と赤い提灯がどーん!
空の青と木の影のコントラストが最高。
ここでは「力」と「やさしさ」が共存している感じ。

📍アクセス:名鉄国府宮駅から徒歩すぐ
🎁御朱印:どっしりとした字が印象的。まさに“男前”なデザイン。

 

「祈りって、前向きなリセットボタンかもしれない。」

 



参道が広くて気持ちいいね!お祭りや年始にはきっと屋台が並ぶんだろうな!

でも、今の時期にはベンチがあったら私は嬉しいよ!あの空間で楽しむ秋の空~最高じゃないか?

 

  🌅津島神社

主神:建速須佐之男命

 



夕方の鳥居が赤く光る時間にぴったり到着。
夕日と朱色のコラボがもう絶景!
家族で七五三詣りしている姿にほっこり。

📍アクセス:名鉄津島線・津島駅から徒歩圏
🎁御朱印:美しい墨の流れにうっとり。今日の締めくくりにぴったり。

 

「願いは“叶える”より、“整える”が先。」

 



以前は家族で行ったかな・・・キツネが追いかけてくるって子供たちが騒いでたのが思い出だよ。

そして、以前はスルーしてしまった(知らなかった)池?公園?あそこは最高だね。

近所にあったら毎日行きたいね!

  💡おまけ:秋の神社めぐりTips

  • 歩きやすい靴+小さめバッグで軽やかに

  • 御朱印帳は忘れずに!御朱印帳に描いて貰うのが私の流儀!

  • 神社の参拝は、午前中が理想!しかし、起きれないから仕方ない!

  • 七五三シーズンは笑顔いっぱいの幸せ空気に包まれる♪ついでに露店があるからたまらん!

  • 愛知の紅葉はまだ先のようだ・・・イチョウもまだまだ青い葉をつけていた。

  💬今日のご褒美フレーズ

 


「御朱印は、心のアルバム!旅行のトロフィー!」
ページをめくるたびに、あの日の空気が蘇る。
一人で行っても、時間の流れの素敵さを感じられる。

 

“神社めぐり=自分の心を整える小旅行”
そんな秋の日に、ありがとう。

自分の才能が何か?

自分が何に向いていて、何が得意なのか?

 

分かりますか?

 

分かっている人がいたら、教えて欲しい・・・

どうして気が付けたの?

なんでそれだと思ったの?

 

私には才能があるのか?どうかも分からないから・・・?

 

いや、それで困ってはいないんだけどね?むしろ気にしてないけどね?

 

自分の才能の見つけ方

 

結論:やってみないと分からない。

ですよね💦

 

さらに言えば、『出来たから、自分に向いている』って思う!

そんな感じじゃないですか?

 

実際そんな感じなんじゃないのかな?

スポーツのプロ選手たちが、才能の塊なのはそうだろう。

でも、みんながみんな、『自分がその競技に向いている!』って言うかは正直分からない。

 

私が好きな野球選手が、自分で『野球苦手だから』って言っていたのはとてもよく覚えてる。

天才だと思っていた人が言った言葉にある意味衝撃だったから。

(謙遜かも知れないし、自虐かも知れない。実際のところはどう思っているかなんて私には分からない。)

 

結局、自分が思っている事と、周囲が思っていることは違うって言うことをすごく感じるエピソードです。

 

 

  才能ってなんだと思う?

 

人何かを見て感じる思い。

「あの人は転載だ!」「あの人には才能がある!」

何をみて、そう感じるのか?

自分にはないものを持っていたり、自分より上手く出来ていたり

 

例えば・・・

スポーツ・・・単純にプロスポーツ選手はそう感じるだろう。

プロ野球しかり、サッカーしかり、体操や格闘技のようなものから、eスポーツまで幅広く何でもあるだろう。

他にも、

漫画家や小説家、イラストレーター、歌手や役者のような芸能人と呼ばれる人たち

 

自分とは違う仕事。子供たちが夢見るような職業の人達を見て、【天才】だって、才能があるって思うんだろう。

 

なんでそう思うのか?

それが知りたい。

有名になれるから?お金を稼げるから?他にもあるんだろう・・・

確かにその通りだと私も思う。

ただ、【お金を稼げる】と、言うことに関してはちょっと違うだろう。

 

確かにお金を稼げているのは間違いないだろうし、成功しているのもその通り。

でも、この人たちはあくまで・・・【専門家】お金持ちのジャンルではないのかもしれない。

 

  ESBIっていう考え方(ちょっと脱線します)

ESBIモデルは、ロバート・キヨサキの著書『金持ち父さんのキャッシュフロー・クワドラント』で紹介された概念です。これは、人々の収入の得方を4つのカテゴリーに分けています。

  1. E – 従業員【労働者】(Employee):

    • 従業員は他人のために働き、給与を得ます。基本的に「時間をお金に変える」形で収入を得ており、安定した収入や雇用の安全性を求める人が多いのが特徴です。
  2. S – 自営業者【専門家】(Self-Employed):

    • 自営業者は、自分の仕事を持ち、フリーランスや小規模ビジネスのオーナー、コンサルタントなどがこれに該当します。自分の時間や労力を使って収入を得るため、自由度は高いですが、収入の安定性や長時間労働のリスクも伴います。
  3. B – ビジネスオーナー【経営者】(Business Owner):

    • ビジネスオーナーは、他の人やシステムが働くビジネスを構築します。自分が直接働かなくても、他者やシステムによって収入が得られる形を目指します。収入を「スケールアップ(拡大)」できるのが特徴で、個人の労働時間に依存せず、収入を増やすことが可能です。
  4. I – 投資家(Investor):

    • 投資家は、株式や不動産、その他の資産から収入を得る人々です。資産に働かせることで、労働せずに収入が得られる「パッシブインカム」を目指します。このクワドラントは、投資の利益だけで生活できる経済的自立を表します。

ESBIモデルの目的は、左側の「E(従業員)」や「S(自営業者)」から、右側の「B(ビジネスオーナー)」や「I(投資家)」に移行し、労働に依存しない収入源を確保することで、経済的自由を目指すことです。キヨサキは、資産を所有し、システムを作り上げることで、時間や労力に縛られずに収入を得ることの重要性を強調しています。

 

 

 

この考え方から言うと、『お金持ち』と言われる人は、

「B(ビジネスオーナー)」や「I(投資家)」

と言われる人たちになる。

 

ある意味で、それも才能で天才なのは間違いない。

でも、実際に才能がある!って思われて、天才!って言われる、思われる人たちとはなぜが違っているのが不思議に感じてしまう。

 

  もし、自分の才能だと思えることがあるんだとしたら?

 

もし、自分の才能が何なのか?

 

他の人より上手く出来る?

やっていて楽しい?

自分の趣味や好きなコト?

もちろん自分の好きなコトが才能なら言うことは無いだろう。

何が自分の好き!なのか?で、そこから収入が発生すれば良いことかもしれない。

(実際にはそうでもないのが現実だけど・・・)

 

一つの自分の才能の見つけ方

好きが大前提にあるのは必要なことだろう。好きじゃないと、どれだけ上手く出来ても、楽しくない。

楽しくないと笑えないから輝けない。輝いていない人からは何も与えられないし、見いだせないから、活かせない。

活かせないと、人はそれを才能とは認めてくれないかもしれない。

 

だとしたら?

 

もっと単純に考えた方が良いだろう。

何が才能?かって考えた時に、お金を繋げようとするから難しくなるし、分からなくなる。

お金にならないことは、才能じゃないって思われているのが悲しい。

自分の好きなコトが才能でいいじゃないか!

とは、思う。

 

でも、あえて言うなら・・・

時間を忘れられるもの。

大切な時間。自分にとって、重要で何ものにも代えられない特別なモノ。

それが時間。

 

そんな自分の時間を忘れてしまう、気がつくと時間が無くなってしまう・・・

それほど熱中出来て、楽しめて、夢中になれるものが才能って言えるものだろう。

 

お金にならないかもしれない。

将来の自分の為にならないかもしれない。

人生で特別な結果を出さないかもしれない。

 

でも、自分の特別なモノを見失うくらいに楽しめて、熱中できるものが才能以外のなんだって言えるのか?

 

でもね?

 

受動的なのは違うよ?

漫画や小説を読んでいたり・・・SNSや動画を見ていたり・・・

受け取るだけでは違うよ?

 

行動としてアクションとして起こせているモノが、才能です。

 

何でもいい。釣りでも、絵描きでも、登山やサイクリングでも、車いじりでもなんでも・・・

時間を忘れて楽しめるものが才能と言えるだろう。

そして、自分が笑顔で輝いている!

って言える状況の時にしていることが才能って言っていいじゃないかな?

 

 

 

 

 

 

 

「勇気の精度」を測ることは、
実は“希望の理性”を取り戻す行為でもある。

 

感情だけで突き進む勇気は、すぐに壊れる。
理性を失った勇気は、すぐに消える。
けれど、希望をもった勇気は生き延びる。

次の章では、
**「希望=理性の最後の居場所」**というテーマへと続けよう。
絶望の中で理性を保つとはどういうことか。
“それでも生きる”という欲望を、どう守るのか。

 

その天秤の上で、
あなたの勇気が、再び息を吹き返す。

 

 

勇気とは、破滅を天秤に乗せないこと

 

  私達の勇気は消されているのか?

「迷惑をかけるな」という言葉が、
世界を均一にし、人間を安全にした。


だが同時に・・・私たちから、生きる勇気を奪った。

 

勇気とは、迷惑を恐れずに“私”で在ること。
社会の理性が作った檻の中で、
それでも未来を選ぼうとする手の震えにこそ、
“人間らしさ”は残っている。

  私は未来に挑戦したい

 

「迷惑をかけてもいい」

そう言えたらどんなに楽だろう。


「間違えてもいい」

そう信じられたらどんなに強くなれるだろう。


けれど、現実には言い切れない。

なぜなら、人は自分のためだけに生きていけるほど強くない


迷惑も、間違いも、呆れられることも、
すべて後悔へと繋がっていく。

その後悔から変わる可能性は確かに美しい。


けれど同時に、背負う十字架という名の贖罪もまた重い。

勇気とは、それを恐れない力かもしれない。
だが、普通の精神でその天秤に“破滅”を乗せるのは、あまりにも無謀だ。

 

だって私たちの世界では、
他人に見放されることが=無価値であることと同義だから。
価値を他人が決める社会では、破滅とは孤立であり、孤立は死に等しい。

 

  💭勇気の本質「より良くなる可能性」に賭けること

 

だから私は思う。
勇気とは、「どうなってもいいや」じゃない。
「もっと良くなりたい」という希望を、手放さないこと。

天秤に乗せるべきは、

  • 一方に:まだ見ぬ未来と可能性

  • もう一方に:自分の時間と想いのエネルギー

そこに「破滅」や「犠牲」や「リスク」を加えた瞬間、
その天秤はもう勝てない。

勇気とは、“壊れる覚悟”ではなく、
より良く生きるために選ぶ理性的な賭けだ。

 

  ✍️詩:勇気の精度

 

「迷惑をかけてもいい」なんて、
そう簡単には言えない。

 

「間違えてもいい」と笑えるほど、
世界は甘くない。

 

人は、自分のためだけに生きてはいけない。
誰かの顔色を読み、空気を測り、
後悔という罰を背負いながら歩く。

 

十字架を背負う勇気は、美しい。
けれど、誰もが聖人ではない。

 

だから私は、破滅を天秤に乗せない。
諦めも、祈りも、言い訳も——置かない。

 

代わりに乗せるのは、
「まだ見ぬ未来」と「変わるかもしれない私」。

 

勇気とは、
絶望の天秤を傾けるための、
最後の“可能性”という重りだ。

 

  💬シンプルフレーズの哲学

 

勇気とは、壊れる覚悟ではなく、
まだ見ぬ可能性にエネルギーを投じる意志である。

 

無謀は破滅を量り、勇気は未来を量る。
その違いは、“希望を乗せるかどうか”に尽きる。

夢を語れば「痛い」
挑戦すれば「無謀」
リスクを取れば「迷惑」
やらなければ「安定」
やったら「自己責任」

完璧だね。
この社会は、誰も救わないために設計されている。

  

💭はじめに:勇気は「恐れを消すこと」じゃない

 

勇気って、怖くなくなることだと思っていませんか?
でも、本当の勇気は恐れを抱えたまま前へ進むこと

夜が静かに降りてくるたび、
私は心のポケットから、小さな天秤を取り出します。


片方の皿には「今までの私」、
もう片方には「まだ知らない未来」。

その天秤こそ、私の勇気の形です。

勇気の天秤

~勇気と無謀の価値は~

 

夜が肩に降りるたび、
私はポケットから小さな天秤を取り出す。
左の皿には、今日までの私・・・


手の温度、使い古した時間、
名前で呼ばれる信用、まだ崩れていない身体。

右の皿には、まだない未来・・・


未完成の地図、仮の約束、
失敗しても回収できる学習、
それから、ささやかな希望の欠片。

恐れは消えない。


だから私は、恐れを同乗させる。
後部座席にベルトを締めさせ、
「黙っていて」とは言わずに、
曲がり角のたび、その震え方を観察する。

 

ここで問う。
 

右の皿に「どうなってもいいや」を置くな、
「諦め」を砂袋のように乗せるな、
それらは可能性ではなく捨て身だ。


破滅を計量に混ぜた瞬間、
天秤は判断をやめ、祈りになる。

私は撤退線をチョークで引く。


資金の上限、睡眠の下限、
壊してはいけない関係の名前。
線を引くことは臆病ではない、
可逆性の輪郭を与えることだ。

 

失うものを列挙し、
それでも残るものを数える。
失敗から戻る回路、
手放しても戻る呼吸、
学びとして沈殿する微量の金属光沢。

 

恐れが囁く・・・
「やめておけ、ここは深い。」


私はうなずく・・・
「知ってるよ、だからロープを結ぶ。」


声を消さないこと、
それが共存の最初の礼儀。

無謀の声は甘い。
「どうにでもなれ」
「全部壊れたって構わない」
そのとき天秤は、皿ではなく
投身台に変わる。


重さを量る道具は、身を投げる台ではない。

私は小さく賭ける。


一手ずつ、温度を確かめる。
当たり外れの記録を残し、
外れの中から残骸の役立つ形を拾う。
選ばなかった道の静かな意味を
日付とともにノートへ仕舞う。

恐れが増す夜には、
歩幅を狭め、灯りを増やし、
戻り方の地図を折りたたんで胸に入れる。


それでも進むのは、
私が私を更新したいからだ。


勇気とは、恐れを乗せたままの前進
ハンドルを握る手が震えても、
進行方向を選び続けること。

 

私は知っている。
破滅に触れることは、容易い。
だが、易しいものは往々にして正確ではない。


計測をやめた自由は、
自由の名を借りた放棄だ。

 

だから今日も、
私は天秤を水平に保とうとする・・・
完全ではなく、努力で。
正確ではなく、誠実で。
恐れに席を与え、
希望に根拠を与え、
失敗に居場所を与える。

 

そして、祈りではなく条件で退く。
祈りではなく手順で進む。


その手順の一つひとつが、
私にとっての勇気の文法だ。

最後にもう一度、右の皿を確かめる。
そこに置くのは、
破滅ではない。


戻れる道と、学べる痛み、
それでも欲しい、という小さな願い。
 

それを、私は“勇気”と呼ぶ

  ⚖️勇気の天秤とは?

 

左の皿には、これまで築いてきたもの。
時間、信頼、身体、心の余裕。

右の皿には、これから得たいもの。
新しい挑戦、未完成の夢、
そして「失敗しても学べる自分」。

 

でも・・・
その右の皿に、**「どうなってもいいや」**とか
**「もう諦めた」**を乗せてしまったら、
それはもう「勇気」ではなく「無謀」になります。

 

  🔥勇気と無謀の違い

 

無謀とは、恐れを無視した行為
恐れを感じないのではなく、
「聞こえないふり」をして走り出すこと。

 

勇気とは、恐れを連れていく計画。
無謀とは、恐れを口封じする祈り。

 

勇気は、怖さと一緒に生きること。
無謀は、怖さを封じて壊れること。

 

  🪞恐れとの共存こそ「生きる力」

 

恐れは、弱さの証じゃありません。
むしろ、現実を認識するセンサーです。
だから私は、恐れを車の後部座席に座らせて
「ちゃんと見ていてね」と話しかけるんです。

 

恐れが囁きます。

「やめておけ、ここは深いよ。」

 

私はうなずきます。

「うん、だからロープを結ぶ。」

 

怖さを“消さない”こと。
それが、共存の礼儀なんです。

 

 💬シンプルフレーズの哲学

勇気とは、まだ知らない世界・未来へ挑戦する思い
無謀は、恐れを黙らせる祈り。

 

どうして、こんなに言葉って難しいんだろう。
一生懸命に話しても、ちゃんと伝わらない。
「そんなつもりじゃなかったのに」って後で後悔する。

 

それでもまた、言葉を選んで話してしまう。
だって、伝えたいんだもん。

でも、いまいち誰にも伝わらない。
自分の中でははっきりしているのに、
言葉にした途端に、どこか違って聞こえてしまう。

言葉が“意味と価値”を持つ理由

「言葉の意味って、ちゃんと使えてるんだろうか?」
そんな小さな疑問が、ふと頭をよぎる時がある。

 

言葉に意味を持たせるのは受け取る側。
発する側には、どうすることもできない。

 

だけど、
それでも人は、想いがあるから言葉を発する
理由があって、気持ちがあって、
どうしても「伝えたい」という欲があるから。

届くのか、届かないのか。
その境界は見えないけれど・・・
それでも私は、言葉を発したいと思う。

 

  言葉の意味って、正しく使えているんだろうか?

 

「ありがとう」「ごめんね」「大丈夫」
毎日のように使う言葉なのに、
ふと、「これって本当に“正しく”伝わってるのかな?」って思う。

 

言葉に意味を持たせるのは、実は受け取る側
だから、同じ言葉でも、相手によって響き方が全く違う。
発する側には、どうすることもできない。

 

でも・・・だからこそ、
私たちは想いを込めて言葉を発しているんじゃないだろうか。

言葉を選ぶ時には、理由がある。
「伝えたい」「届いてほしい」「分かってほしい」
その裏には、いつも小さな願いが隠れている。

でも、その願いがちゃんと届いているかどうかなんて、
確かめようがない。

 

届くのか?
届かないのか?
それでも、意味はちゃんとあるのかな?

 

たとえ誰にも届かなかったとしても、
その言葉には・・・発した時点で、確かに意味がある。

 

  想いには、人を動かす力がある。

 

言葉って、ただの音じゃない。
その裏には、必ず想いがある。

 

誰かを励ましたいとき。
誰かを守りたいとき。
自分を立て直したいとき。


その全部に、想いの力が働いている。

想いには、人を動かす力がある。
言葉を動かし、行動を生み出し、
時に、人生すら変えてしまうこともある。

つまり・・・想いは、エネルギーなんです。

 

この“想いのエネルギー”を、
あの天才アインシュタインが数式で証明してくれています。

E=mc²
(エネルギー=質量×光の速さの二乗)

エネルギーがあるものには、質量=重さがある。
そして、動くものには、速度=伝わる速さがある。

 

だから、想いには「重さ」と「速さ」がある。
優しい想いは、静かに時間をかけて届くし、
熱い想いは、一瞬で誰かの心に届く。

 

言葉が重たく感じるとき、
それはあなたの想いが“質量を持っている”証拠。
あなたの中のエネルギーが、
ちゃんと世界を動かしている。

  そのエネルギー(想い)は、言葉になることで“意味”に変わる

 

想いが心の中で燃えているだけなら、それはまだエネルギー。
でも、そのエネルギーが言葉になった瞬間、
世界に形を持つようになる。

 

言葉を発した瞬間に、そこには発した人の意味が生まれる。


たとえば、「ありがとう」と言ったら、
そこには“感謝したい”というあなたの意味が確かにある。

 

でも・・・届かなければ、
それは一人だけの意味で終わってしまう。

 

もし、その言葉が誰かに届いたら?
その時、言葉は「一人の意味」から「二人の意味」になる。


そして、相手がそれをどう受け取るかによって、
その言葉の中に価値が生まれていく。

 

意味は、発した人の想い。
価値は、受け取った人の心の動き。

 

たとえば、あなたが「大丈夫」と言ったとして、
それを“励まし”として受け取る人もいれば、
“気遣い”として感じる人もいる。
同じ言葉なのに、価値が違う

つまり、言葉の意味は発することで生まれ
価値は届いた瞬間に動き出す

 

言葉とは、エネルギーのバトン。
想いという質量を持ち、
言葉という速度を得て、
誰かの心に届くことで、ようやく意味が価値に変わるんだ!

  言葉を発すること、それ自体が“生きる”という行為

 

だからこそ、私は思う。
言葉を発すること自体が、生きるという行為なんだ。

たとえ誰にも届かなかったとしても、
その言葉は、発した瞬間にあなたの中で意味を持つ。


そして、自分自身がそれを聞き、受け取り、
「これは私の言葉だ」と理解できたとき、
その言葉に価値が生まれる。

 

誰かに届いたとき、確かに言葉は他者の中で価値を持つ。
けれど、もし誰にも届かなくても、
あなた自身が受け取ることができる。

 

想いが言葉になり、言葉が意味を生み、
その意味を自分で受け取ることで、
初めて“価値”になる。

 

それは、神前での願いと同じです。
誰かに聞かせるためのものじゃない。
声に出した瞬間に、もうそこには意味がある。
そして、その願いを自分で聞き取ったとき、
心の中に価値が宿る。

願いも、希望も、夢も・・・
言葉にした瞬間に意味が生まれ、
自分が受け取った瞬間に価値へと変わる。

 

だから、届かなくてもいい。
言葉にできたという事実が、もうすでに力なんです。

ただの想いが、言葉を介してエネルギーに変わる。
そして、そのエネルギーが、あなた自身を動かす。

 

言葉にしてさえ言えたなら、
その願いには、もう意味と価値がある。

たとえ誰にも届かなくても・・・
あなた自身が、それを聞いているから。

 

  あとがき・・・

 

正直、言葉ってやっかいだ。
うまく伝わったと思っても、
真意とは裏腹に、
誤解されたり、曲解されたり、
勝手に“別の意味”をつけられたりする。

でも、それも仕方ないのかもしれない。
だって、人の数だけ受け取り方が違うんだから。
言葉は、常に再解釈される運命にある。

 

言葉の伝わり方には段階がある。
言葉の受け取り方は人それぞれで、意味も価値も変わる。

 

だからこそ、きっと・・・
一つの言葉じゃ足りないのかもしれない。
誤解されても、曲解されても、
それでも話し続ける。

 

沢山の言葉が必要になるのは、
たった一つの“想い”を、
ちゃんと伝えたいから。

 🌿今日のシンプルフレーズ

想いは重いんじゃない。
想いは、あなたを動かすエネルギーなんだ。