考えすぎて眠れなかった夜・・・
誰かに相談しても、「そんなの気にしすぎだよ」って軽く笑われて、
余計に自分の中で迷いが深くなる。
頭ではわかってる。
「早く決めなきゃ」「次に進まなきゃ」。
でも、心が追いつかない。
“迷う”って、弱さじゃない。
むしろ、“自分に誠実であろうとしている時間”なんじゃないかって。
最近、よく耳にするのが「ファーストチェス理論」。
名人は5秒で考えた手と、30分悩んだ手が86%同じだという。
それを根拠に「考える時間は無駄」「悩むより動け」と語る人がいる。
でも、私はどうしても思ってしまう。
人間の時間を、そんなに急かしていいのか?
“速さを信仰する社会で、立ち止まることの価値を守る”。
正解のない世界で、私はまだ迷っている
私は、もう何年も迷っている。
悩んで、行動して、また迷う。
そして気づく。正しかったことなんて一度もない。
なぜなら、私の正解と他人の正解が違うから。
家族でも、友人でも、誰かの「正しさ」は、私を否定することがある。
それでも、私は考える。
だって考えることをやめたら、私は“私”でいられなくなるから。
そして今日も、答えのない問いを抱えたまま、生きている。
ファーストチェス理論という「思考省略の呪文」
「ファーストチェス理論」
名人が5秒で考えた手と、30分悩んだ手が86%同じだという話だ。
それをもとに、
「直感で決めろ」「悩むな」「考える時間は無駄だ」
と主張する人が増えた。
だが、それは『名人限定の話』だ。
彼らの5秒には、何年もの積み重ねがある。
見えない膨大な思考の時間が、直感を支えている。
それを一般化して「早く決めよう」と言い出すのは、
まるで、登山家の一歩を“最短ルート”だと勘違いするようなもの。
思考の速さを誇る理論は、結局こう言っている。
「考えることに価値はない」と。
それは、まるで資本の論理そのものだ。
スピードが正義。成果がすべて。
立ち止まることは“損失”であり、悩むことは“非効率”。
でも、本当にそうだろうか?
迷いは非効率ではなく、“誠実”の証
迷いとは、行動を止めるための時間じゃない。
「選ばない自由」を行使する時間だ。
人は迷うと、AかBの選択肢ばかりに目を奪われる。
でも、立ち止まればCもDも見えてくる。
私はその“D”という可能性を模索するために、あえて止まる。
それが思考であり、私の誠実さの証だ。
デカルトは言った。
「私は考える、ゆえに私は存在する。」
いまの社会はこう言い換えているようだ。
「私は速い、ゆえに私は価値がある。」
でも、そんな社会の速さは、人間の“深さ”を削っていく。
迷いを否定する社会は、人間の余白を奪う。
だから私は、あえて遅く、あえて迷う。
後悔が、人をつくる
悩む時は動けない。
GOかSTAYかを決められず、息を詰めて止まってしまう。
でも私は知っている。
行動しなければ、何も変わらないことを。
だから動く。
行動した結果、後悔する。
悲しみも痛みも、ぜんぶ受け入れる。
なぜなら、後悔こそが人を変えるから。
成功は人を飾るけれど、後悔は人を更新する。
孔子はこう言った。
「過ちて改めざる、これを過ちという。」
後悔とは、改める力そのものだ。
速く決めることより、振り返って考えること。
それが、人間の持つ「時間の知性」だと思う。
ハンナ・アーレントは言った。
「思考とは、立ち止まることである。」
スピードファーストな社会において、
立ち止まることは、反逆だ。
急がず、迷い、悩み、そして後悔する。
それこそが、生きるということ。
私は今日も、ゆっくりと進む。
迷いながら、後悔しながら、
後悔しているからこそ『確かに“生きている』。
シンプルフレーズ
「迷いは敗北じゃない。
それは、まだ信じている自分の証。」


