ミシェル・フーコー(当人曰く歴史家)

◆ フーコー思想への批判:断絶と離脱は幻想か?
フーコーとは誰か?
ミシェル・フーコー(1926–1984)は、20世紀後半を代表するフランスの思想家です。
彼が問い続けたのは「人間はどうやって“人間”にされてきたのか?」ということでした。
私たちは生まれながらに「個性」や「自分らしさ」を持っていると思いがちです。
けれどフーコーはそれを疑いました。
むしろ人間性とは、社会や制度、規範の網の中で「作られた」ものではないか?
そう問いかけたのです。
パノプティコン:自己監視の装置
フーコーの代表的な概念に「パノプティコン」があります。
これは18世紀の思想家ベンサムが考案した監獄のモデルで、中央の監視塔から囚人の独房がすべて見渡せる仕組みです。
重要なのは、「監視されているかどうかは分からない」点。
しかし囚人は「常に見られているかもしれない」と思い、自分を律するようになる。
フーコーはこれを 近代社会のモデル として読み替えました。
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学校では、先生の視線を気にして子どもが静かに座る。
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職場では、上司や同僚の目を気にして自分を装う。
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SNSでは、「いいね」の数を気にして投稿を調整する。
監視されているから行動するのではなく、「見られている可能性」が人を縛る。
これが 権力の効果 です。
主体は権力の効果である
フーコーのもう一つの重要な指摘は「主体=自分という意識」も権力の効果にすぎないということ。
たとえば――
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医学が「正常」と「異常」を定める。
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心理学が「発達段階」を分類する。
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学校教育が「優秀」と「劣等」を選別する。
こうした知識体系は、人が「自分はこういう人間だ」と信じ込む基盤になります。
つまり、私たちの自己認識すら、権力が生み出した結果なのです。
断絶と自己からの離脱
フーコーは同時に、希望も語りました。
それが「歴史の断絶」と「自己からの離脱」です。
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歴史は連続ではなく、時に大きな断絶によって変化する。
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自己もまた、与えられた役割や規範を離れ、新しい自己を作り出せる。
彼の後期の思想は、まるで「窮屈な規範の中でも、別の生き方を開くことはできる」と言っているようでした。
批判:断絶は本当にあるのか?
しかし、ここで疑問が生まれます。
歴史における断絶は、果たして実際に起きているのでしょうか?
ロシア帝国 → ソ連 → ロシア連邦という変化を見れば、確かに大きな断絶に見えます。
でも本当にそうでしょうか。
強権、排除、淘汰という「支配の構造」はむしろ連続しているのではないか?
結局、断絶のように見えるものは「権力の再編成」であり、実態は 征服の形を変えただけなのではないか。
つまり、フーコーが語った「断絶」という言葉は希望の響きを持つ一方で、現実には「幻想的な言葉」にとどまる危うさがあります。
医療という権力の象徴
フーコーの思想を最も皮肉に象徴するのは、彼自身の死かもしれません。
彼は医療や病院を、正常と異常を切り分け、人を管理する権力の装置として批判してきました。
しかし最期、彼はその「因縁の病院」で病に縛られ、命を閉じました。
生命を維持する力そのものが、権力の手の中にある。
ここには、フーコーが一生かけて暴き続けた現実が、彼の生涯そのものに重なっているように見えます。

批判:自己からの離脱は可能か?
「自己からの離脱」についても同じです。
人は本当に自分の力だけで規範を超えられるのでしょうか?
実際には――
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解放を感じられるのは、外部からの援助や制度の変化があった時。
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「自己を変えた」と思えるのは、外部が枠組みを変えたから。
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つまり、離脱は自己の努力だけではなく、外部の力に依存している。
これは言い換えれば、「人は一人では何もできない」という現実です。
規範や枠を作るのも社会、解放や救済を与えるのも社会。
私たちができるのは、その狭間で身をよじらせることだけかもしれません。
日常的な例え
たとえば、会社にいるとしましょう。
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「働き方改革」が導入され、残業が減った。
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「多様性の推進」で少数派の社員が配慮されるようになった。
これを「自己からの離脱」と呼ぶことはできますか?
違いますよね。
それは外部の制度が変わっただけ。
個人の努力や内面の変化では越えられなかった壁を、外部が揺さぶったから変わったのです。
この視点から見れば、「自己からの離脱」という概念は甘美ですが、現実には外部依存でしか成り立たないのかもしれません。
仏教的視点との比較
もしフーコーが仏教徒だったなら、この「断絶」や「離脱」を別の言葉で表現したかもしれません。
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世界を「無常」と呼び、
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断絶を「悟り」と呼び、
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離脱を「涅槃」と呼んだかもしれない。
ただし仏教におけるこれらの概念は、今生の可能性を断ち切り、現世を受け入れ、手放すことによって成り立ちます。
それは社会の権力からの解放を夢見るものではなく、むしろ「現世そのものを諦める」発想です。
もしそうだとすれば、フーコー的な離脱は「幻想」だったと言えるでしょう。
私たちに残る現実
現代を生きる私たちもまた、規範の網の中で同じ矛盾を抱えています。
社会の権力から完全に解放されることは望めない。
望めるのは、「従属」という不満を抱えながらも生き続ける現在の姿です。
生きるためには――
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不満を言い、
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不平を嘆き、
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そして仮面=ペルソナに依存し続けるしかない。
異端やサイコパス、異常というレッテルを隠しながら、「社会に適応している」という仮面をつける。
それこそが、現代社会における「生き延びる術」なのかもしれません。
それでもフーコーが残したもの
ではフーコーの思想は無意味なのでしょうか?
私はそうは思いません。
確かに「断絶」や「離脱」は幻想に見える。
けれどその幻想があるから、人は今の規範を疑うことができる。
「別の関係性を生きる可能性がある」と想像できること自体が、人を縛る規範にヒビを入れる。
現実に断絶が起きなくても、断絶という言葉が私たちの思考を変える。
それこそがフーコーの思想の力なのだと思います。
フーコーの世界
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フーコーは「人間性は社会に作られる」と考えた。
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パノプティコンや主体形成の議論を通じて、規範と権力の仕組みを暴いた。
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彼は「歴史の断絶」「自己からの離脱」という希望も語った。
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しかし現実には、それは「幻想」や「外部依存」にすぎないのではないか?
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それでも、その幻想を語ったからこそ、人は「今の規範」を疑える。
