世界はコントロールできることばかりを褒める。
だけど私たちが毎日つかんでいるのは、ほとんど“どうにもならないもの”だ。
その中で舵を離さない方法を、いちど言葉にしておきたい。
不幸を引き受ける・・・者?
最近、うまくいかないことが続いていませんか。
「私だけ?」って思うたび、胸の奥がきゅっと痛む。
でもね——不幸は誰かに引き受けてもらうものじゃなくて、まず“見て”あげる・・・。
世界は“コントロール不能”を悪と呼ぶ
世界の意志は、自然すら管理しようとする。
科学は観測し、再現し、原因を突き止め、対処と管理へ向かう。
「観測できない」は不安、「制御できない」は悪。
宇宙を覗き、カオスを計算し、ダークマターを推測し、
無知を悪と認定して、秩序の檻へ連行する。
でも、私の現実は私だけの世界で完結している。
不幸は現象の名前ではなく、私の側の事実だ。
水を熱いと言えないように、空気を触れないように、太陽を冷たいと言えないように、
意味を自由に付ける権利すら、社会は私から奪う。
「コントロールできることに集中を」と言われても、
理性も思考も感情も、私の手をすり抜ける。
砂時計の砂を見ているしかない。落ちは止まらない。
無力と無知を痛感しながら、私はただ「不幸だ」とつぶやく。
“理性は操舵輪、欲望は風”のはずが
欲望を理解することは、支配ではなく、方向づけだ。
風を止めず、帆を張る。
感情という風に対して、理性は操舵輪。
そう言い聞かせても、風は気まぐれ・・・
トレンドも値動きも天候も、蝶の一振で乱れる。
私の感情すらカオス理論の渦の一つ。
理性は高らかな船長ではなく、遅れて記録する航海日誌に似ている。
それでも私は葦のように、しなる。
流れに身をひるがえして、状況に合わせて伸びていく(ナタリティ)。
中身が空虚でも折れにくく、同種で群れれば強い。
良く使えば簾(すだれ)になり役に立つ
奴隷の本質
そしてどれだけ意味を替えても、私は「葦のまま」。
ススキのように揺れ、超人を夢見ても、本質は変わらない。
強いのではなく、折れずに揺れているだけ。
不幸を“誰が”引き受けてきたのか?
「不幸を引き受ける?誰が?何のために?どうやって?」
古来、その役は決まっていた。
不幸の象徴は、悪。
邪悪で、怪異で、鬼で、物の怪。
人が理解できない痛みは、いつも“悪”に委託されてきた。
幸福は神に依存し、不幸は悪魔に依存する。
観測できないものを押し付けて、正当化して、説明したふりをする。
現代は悪魔を失い、その代わりに自己責任を神位に据えた。
「メンヘラ?」 それは、ただの愛のかたちだ。
愛されたいのに、愛を試すように壊してしまう。
ままならない世界を“ままならせよ”と命じる規範が、
「壊れた」というレッテルで価値と意味を奪う。
見ないことでしか生き延びられない私たちを、弱いと呼ぶ。
逃げ切れたら幸せ、見つけたら不幸。
判定はいつも他者の温度計。
不幸は誰にも引き受けられない。だから、名付ける
不幸を“引き受けてくれる者”はいない。
神でも、仏でも、哲学でも。
理性は救済の手ではなく、見届ける眼 だ・・・
砂は止まらず、流れは止まらない。時間は勝手に進む。
世界も視点も思うように変えられない。
それでも私には、名を付ける自由が残っている。
悲しい、と言えること。
苦しい、と言えること。
悔しい、と言えること。
それは、痛みを意味に変える儀式ではない。
痛みが「ここに在る」ことを証明する灯
名付けるとは、敗北ではなく、誠実だ。
コントロールの物語から降りて、
「風に吹かれながら舵を放さない」という、ささやかな反抗だ。
私は葦であり続ける。
折れないのではなく、折れながら揺れる。
幸福を命じられず、不幸を押し付けられず、
ただ、「今」を見て、名付ける。
それが、私の自由だと感じてる・・・
シンプルフレーズ
不幸は、誰にも引き受けられない。
それでも私は、名付ける。
風は止めない。舵は離さない。
見て、呼ぶ・・・
それが私の自由だ。



