【当たり前を失ってからコミュニケーションの本質を知る】
「当たり前」というのは、あれも出来て、これも出来てと実は奇跡の連続だったんだと気付かされます。コミュニケーションとは、少し逸れますが、私が「喉の渇きを癒す」までのプロセスに立ちはだかる壁。というのを真剣に考えていた、まだなんとか一人でもヒョコヒョコ歩いていた、今から約2年前のエピソードがあります。
+++水を求めてコンビニまでの大冒険+++
1.家を出るのだが、鍵が締めれない。仕方ない鍵は諦めよう。締めたら逆に入れないし。
2.エレベーターのボタンが押せない。誰か来たのでさりげなく一緒に下まで降りよう。
※コンビニ到着。着いたまではよいが、ここから現実の壁がたくさんある・・
3.水の入ったペットボトルの冷蔵庫を開けることが出来ない。
4.ペットボトルを取り出せない。
5.ペットボトルを持てない。
6.レジでお金が払えない。
7.ペットボトルのキャップが開けられない。
8.咽てしまい以前のようにゴクゴク飲めない
→今まで当たり前にしていた事が、出来なくなった時、ただただ無力感しかありませんでした。だから躊躇せずに第三の手(ヘルパー)の手を自分の手として使おう。
※介助に抵抗のあった頃、自分に言い聞かせていました。
ただこの時「喉の渇きを癒す」には何が一番、重要で最短ルートか。私は意思を伝える事をやろうと、少し話しにくくなっていたので、エア文字盤で伝えてました。ただなかなか上手く出来ずに、ちぐはぐで、お互いのせいにしてイライラしてました。なんとか意思は伝わっているのだが、なかなか手元に水がこない。一方的に意思を伝える事、コミュニケーションを図る事。これらが違う事に気づきました。
一番最短の方法。「舌を出してゴクっと飲み込む」ジェスチャー。「喉乾いた?水?」と聞かれて答える。少しオーバーにして「冷たいのがいい?氷いれようか?」まで言葉を引き出せればニヤリです。
例えば、サッカーでどれだけスルーパスが上手い選手でも、仲間が誰一人取る事が出来なければ、ただのパスミスに過ぎず、この逆も然りです。これでは、当然得点には結び付きません。
コミュニケーションは、相手がいてボールを投げ合うのだが、難しいボールを投げる必要はなく、綺麗に真っ直ぐ相手が取りやすい事を考えながら投げれば、ボールの数は増えて、自分の胸元に綺麗に投げ返してくれる。
互いを思いやる気持ち、これだけで言葉はなくても、実はコミュニケーションというものは成立するのかもしれません。
「当たり前」というワードから、コミュニケーションというもの本質を考え始めた頃の事を少し思い出しました。
これが、失うばかりではなく、得る事を知った一番初めかもしれません。
在宅で、ALSまた難病患者が生きていく事は、容易ではない。沢山の医療従事者、専門職、支援者の手が必要となる。病状が進行するにつれ、より現実を目の当たりにするようになった。
私と同じように自分らしく住み慣れた家で過ごせないのなら、病院のベットで残りの人生を過ごす事になるのなら、家族に迷惑かけてまで生きなくてもいい。時期が来れば、そのまま人生を終えてもいいと思ってしまう事は、ごく自然な事ではないでしょうか。
やはり難病患者はケアも専門性が高い。
そのケアを行う人々が明らかに少ない。その為、ケアできる人材を集め、シフトを何とか埋めていく事に集中する。そういった頑張りがなければ生きていく事ができない。
現実問題であるが、私は腑に落ちない。ALSだから何でも周りがしてくれる、、これは違う。ただ話す事も難しく、身体も動かせない。呼吸すら自力で出来なくなっていく。それも短期間で。このような中、そこまでして、「生」にしがみつく人間がどれほどいるだろうか。
難病ALSになってもそこまで苦労しなくても生きれる世の中を創りたい。これはALSに限った話ではなく、あらゆる難病患者、障害・ハンデを持った方々が、「生きる為に、死ぬ気で頑張らなくても」、当然のように在宅で生活し、自分らしく生きれる世の中になればと願う。
難病患者が、在宅で生活する為には、医療従事者をはじめ、支援者の力がなくてはならない。その温かい手を私達に差し伸べて欲しい。
難病患者・障害者が生きやすい社会は、健常者も生きやすい社会のはずである。いつ、どこで自分、また大切な人が当事者になるか分からない。明日は、我が身。当事者になったら、生きることも難しくなる。こんな不安のままでは、安心して生活なんてできないのではないでしょうか。
普通の毎日を普通に過ごす。
ただそれだけなのですから。
私は、告知を受けてから、しばらく塞ぎ込んだ期間があったが、割とすぐに復活した。それは病気の進行があまりなく、手は不自由だなと思う事はあっても、人の助けがなくても自立した生活が送れていたからだと思う。
出来るだけ病気の事を考えずに、目を背けてきた。病気の事ばかり考えても仕方ないし、立ち直る時には、それでよかったのかもしれない。ただその後も病気の事を細かく考えず、逃げてきた。先にも述べた立ち直る時同様、悲観的になり続けるなら、楽観的の方がよいが、私は少し違っていた。楽観的を装って、実はものすごく不安で、この後自分はどうなってしまうのだろうとそればかりが頭をよぎり、ほとんど上の空だったかもしれない。
今当時を思い出しても、正直記憶があまりないのだ。
少しずつ進行を感じながらも、現実に目を背け、将来に脅えながらなんとか日々を送っていた。
その時は私には、未来を想像する事も、描く事も出来なかった。
現実に目を向けるキッカケは、同病の方々との交流から始まっていった。これは、傷を舐め合う為に集まっているのではなく、生き方を背中で教えてくれているものだった。先にもピアサポートについて述べたが、これは悩みを相談し、受け止めるといったようなものだけではない。
自分自身も苦しみ悩んできて、先人から教わってきた生き方を、自身を教科書とし、「生きる道標」を照らしてくれ、繋いでくれているように感じた。
また今は当たり前のように「選択」をどうするか悩んでいるが、これらは、先人たちが血のにじむような努力で掴み取ってくれた賜物であり、悩める喜びを感じなければならないほどだ。
先人たちが、繋いできてくれたものを絶やさず、次に繋がなくてはならない。
療養環境が向上しても、ALS自体の過酷さは変わらない。一人で考えすぎて殻から出れなくなる。死にたくなるような時もある。
どうか沢山の方と繋がって欲しい。
やはり一人で太刀打ち出来る様な病ではない。
ただ束になって掛かれば、勝てないにしても、負けないで、引き分けには持ち込めるかもしれない。
その繋がりすら持てずに、一人で全て背負い込んで、選択肢すらない事は、どうしても避けたいと思う。
沢山の繋がりは可能性を生み出してくれる。
情報は得るだけ得て、自身で取捨すればよいだけである。
たとえ治らない難病であっても繋がる事で、救われる命はあると思う。
どうか沢山の方と繋がって欲しい。
我々は、ALSという名前で繋がった家族なのだから。
ALSという病は、「選択」の連続である。
告知を受けた時から、頭の片隅には常に選択がよぎるようになる。そして少しずつ実際に選択する、せざるを得ない時が来る。少し見方を変えれば選択できるという事でもある。
これは先人たちが、血をにじむ思いで勝ち取ってきてくれた生きる権利である。だからと言って療養体制が保証されても、個人の病における身体的制限、精神的苦痛は実は、何も変わっていない。
その中で生きていくのが、私は、必ずしも当然だと思わない。
結論を先に述べると、自身の生死の判断は、あくまで「自己決定」であり、どちらが良い、悪いというものはないと思う。自己決定のとおり、どのように生ききるかだと思う。
ただ告知を受けた瞬間は、どん底の状態であるが、そこからどのように這い上がるかがとても重要だと思う。この期間をどのように過ごすかで自己決定の内容も異なってくる。この期間、自分一人で這い上がるのが、しんどい時もある。家族・友人・支援者などサポート体制の中から、這い上がれればよいが、卑屈になり、「どうせ分からないだろう、分かってもらえないだろう」と思って、自分の殻に閉じ籠ってしまう。
そんな時は、同病の患者から色々なものを得て、感じて欲しい。
私は、当事者(患者)と、当事者以外(家族・支援者など)に分けられた互いは、どんなに思いがあったとしても境遇が違うので、決して心の底から交じり合う事はないのだと思う。
それは当たり前の事だ。置かれた状況が違えば、悩みも当然にして違うであろう。
両者は、分かろうとする気持ち、思いやりを持ち、理解し合う事が出来れば、それだけで十分なのだと思う。
そのような中、実際に選択が迫ってくる。胃瘻造設、気管切開、人工呼吸器装着・・細かい選択をあげればきりがないが、延命と称される項目は、これらであろう。これらは、ALS患者には避けては通れないものである。
選択前の患者は、常に揺れている。選択(自己決定)内容を決めていても、右にも左にも転んでしまう。
その心情は、私自身も例外ではない。大きい選択、自分自身も初めての事で分からない、どの選択が正解なのかも、ましてや当事者以外は、
「選択に当たっては、当事者本人で決めて欲しい。決めた内容によっては、ちゃんとサポートする。」
こんな言葉を掛けるケースが、ほとんどではないかと思う。いくら自己決定だからといってもこれだけでは、当事者は、一人で悩む事になる。
そのような中でも自分らしく生ききる為に、きちんと選択をし、前に進む方は良いのだが、自分一人で背負い込んでしまい、四六時中この事を考えてしまうなら、先にも記述したが、どうか同病の患者に会い、甘え、叱咤激励を受け、「選択」という肩の重荷を、半分託して欲しい。
半分重荷を託した同病患者が背負いきれないのでは!?
大丈夫!!
その方は、半分別の方に重荷を託してるので、片側は空いてるのです。
ALSに限らず、治療方法の確立されていない難病においては、程度は違えど、患者が患者を救う「ピアサポート」は必須なのだと思う。
こうして重要な選択も乗り越えれるし、乗り越えたいと思う。
舌の萎縮が進み、構音障害がかなり強くなってきた。話す言葉の八割ほどは、伝わっていない。もしくは、誤変換されてしまい、全く見当違いの答えが返ってくるようになる。意思が伝わらない事は、自分だけ殻に閉じ籠った状態に陥る。身体が動かないより、意思が伝わらない事は、何十倍も辛い。かなりの私見ではあるが、ALSの苦しさの神髄は、「コミュニケーション」が図れなくなり、孤立、孤独感が強くなり、絶望に結びついてしまう。沢山の身体的我慢、介護体制ができない等、目に見える苦痛もあるが、一番厳しい事はまさしく、以前のコミュ二ケーション方法では、難しくなっていく事じゃないかと思う。そのような中、私は、意思が伝わらない事、コミュニケーションが図れない事、同じような事に感じるが、少し苦しんでいる本質が違う事に気付いたので、コミュニケーション、意思伝達それぞれについて、ローテク・ハイテクの手段を含め、私の考えた思いを少し述べようと思う。
コミュニケーションと意思疎通、意思伝達は少し違うように思う。
意思疎通、意思伝達は、一方的に意思を伝える感じがする。当然これが出来なければ何も始まらないのだが、コミュニケーションは相手が居てお互いにボールを投げ合い成立するものだと思う。よって互いの意思伝達の上に、コミュニケーションが存在するものと考える。
今まで言葉が主な意思伝達の手段であり、自ら発するだけで意思伝達が可能であった。
ただ今は文字盤、口文字を用い、私は文字を発信し、相手に受信してもらい言葉、文章を作り上げている。相手と呼吸を合わせ、伝えたいという思いで、一文字一文字発信する。受信側も間違えずに文字を拾いたいと考え、文字を紡いでいく。この時点で、少なくとも発信、受信双方の間で、コミュニケーションは成立している。もし互いが思いやりを持たずに、自由奔放な発信・受信を行うと、文字を紡ぐどころかやる気も失せて、ちぐはぐになってしまう。まさにこれこそが、究極のコミュニケーションと言い切れる。
ローテクコミュニケーションは、手軽さもあるが、発信・受信双方のコミュニケーションの元、さらに伝える相手が存在し、コミュニケーションの連鎖が起こる。ここに温かみを感じ、今まででは、得る事が出来なかった、達成感や喜びを感じる事が出来るのが、一番の良さかもしれない。 一方ハイテクコミュニケーションは、自発的に意思伝達が可能であったり、自由と便利さ、またテクノロジーの進化により、今までなら諦めていた事が、出来るようになったり、沢山の可能性を生み出してくれる。ただ、こちらも伝えたい相手が居てこそであり、双方のやりとりが円滑に成立し、コミュニケーションが図られたとなるのではないでしょうか。
ローテク、ハイテクを組み合わせ、たくさんの手段を準備し、意思伝達のみならず、コミュニケーションをいつまでも取り続けられるように、コミュニケーション支援などの勉強会等、皆で考える機会を定期的に設ける事は、とても大事な事だと思う。
AI、人工知能ではない。コミュニケーションを図るのは、あくまでも生身の人間同士である。手段は変れど、コミュニケーション能力が高い人は、高い。人間力が高いと言えるのかもしれない。
これらの事のとおり、「コミュニケーション=人間関係」であるならば、どんな状況に陥っても病気、障害などのせいにせず、どうすれば上手く構築できるかをいつまでも模索し続ける必要がある。そもそもの本質は、健常者となんら変わらない。まさに「生きる」為に当たり前の事である。意思伝達の方法だけ変化させていけば、今までと同じようにコミュニケーションを図る事が出来るはずである。