「選択」 | うーのブログ

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ALSという病は、「選択」の連続である。

 

告知を受けた時から、頭の片隅には常に選択がよぎるようになる。そして少しずつ実際に選択する、せざるを得ない時が来る。少し見方を変えれば選択できるという事でもある。

これは先人たちが、血をにじむ思いで勝ち取ってきてくれた生きる権利である。だからと言って療養体制が保証されても、個人の病における身体的制限、精神的苦痛は実は、何も変わっていない。

その中で生きていくのが、私は、必ずしも当然だと思わない。

 

結論を先に述べると、自身の生死の判断は、あくまで「自己決定」であり、どちらが良い、悪いというものはないと思う。自己決定のとおり、どのように生ききるかだと思う。

ただ告知を受けた瞬間は、どん底の状態であるが、そこからどのように這い上がるかがとても重要だと思う。この期間をどのように過ごすかで自己決定の内容も異なってくる。この期間、自分一人で這い上がるのが、しんどい時もある。家族・友人・支援者などサポート体制の中から、這い上がれればよいが、卑屈になり、「どうせ分からないだろう、分かってもらえないだろう」と思って、自分の殻に閉じ籠ってしまう。

そんな時は、同病の患者から色々なものを得て、感じて欲しい。

 

私は、当事者(患者)と、当事者以外(家族・支援者など)に分けられた互いは、どんなに思いがあったとしても境遇が違うので、決して心の底から交じり合う事はないのだと思う。

それは当たり前の事だ。置かれた状況が違えば、悩みも当然にして違うであろう。

両者は、分かろうとする気持ち、思いやりを持ち、理解し合う事が出来れば、それだけで十分なのだと思う。

 

そのような中、実際に選択が迫ってくる。胃瘻造設、気管切開、人工呼吸器装着・・細かい選択をあげればきりがないが、延命と称される項目は、これらであろう。これらは、ALS患者には避けては通れないものである。

 

選択前の患者は、常に揺れている。選択(自己決定)内容を決めていても、右にも左にも転んでしまう。

その心情は、私自身も例外ではない。大きい選択、自分自身も初めての事で分からない、どの選択が正解なのかも、ましてや当事者以外は、

「選択に当たっては、当事者本人で決めて欲しい。決めた内容によっては、ちゃんとサポートする。」

こんな言葉を掛けるケースが、ほとんどではないかと思う。いくら自己決定だからといってもこれだけでは、当事者は、一人で悩む事になる。

そのような中でも自分らしく生ききる為に、きちんと選択をし、前に進む方は良いのだが、自分一人で背負い込んでしまい、四六時中この事を考えてしまうなら、先にも記述したが、どうか同病の患者に会い、甘え、叱咤激励を受け、「選択」という肩の重荷を、半分託して欲しい。

半分重荷を託した同病患者が背負いきれないのでは!?

大丈夫!!

その方は、半分別の方に重荷を託してるので、片側は空いてるのです。

 

ALSに限らず、治療方法の確立されていない難病においては、程度は違えど、患者が患者を救う「ピアサポート」は必須なのだと思う。

 

こうして重要な選択も乗り越えれるし、乗り越えたいと思う。