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 月は欠けてるほうが美しい

怪談・幽霊・猟奇・呪い・魔界・妖怪・精霊などを書いております。

テロとはいちばんの「猟奇」ではないだろうか ?
思想のある粛清は大量猟奇殺人を生む。
ホロコーストは1000万人をも残虐殺した猟奇である。


「翡翠っ!! 」、石川は走り出した。
車道に横たわる翡翠に駆け寄る。
「だって・・・車って画像でしか見た事ないんだもん。車って痛いよ、お母さん。」
「翡翠、どこが痛い ? 」
「頭。ガーンとぶつけたよ。なんか回りが暗く見える。」
「いつ来るか判んない救急車なんか待ってもダメだ。こうなったらうちの大学のCTね。」、泣きながら石川は翡翠を轢いた運転手を怒鳴りつけて大学へ向かわさせる。
案の定、翡翠の意識が朦朧とし始めた。
「私、お母さんに会いたかっただけなのに・・・」、そう言って彼女は昏睡する。

「脳内に血液が多量に浸潤しています。すぐ開頭手術しても助かるかどうかは・・・」、検査技師は絶望的な事を言った。
石川は爪を噛みながら「実は、私の実験室に生体保存冷凍カプセルがあるの。絶滅危惧種を救うため人類が繁殖可能な技術持つときまでの保存実験に造ったの、これを使うわ。いい ? これは口外は無用よ。」、医学博士である石川は部下である検査技師に強く念を押し絶対命令を告げる。
「翡翠、少し我慢よ。私が死に物狂いで救命法を研究するからね。」、そう言って彼女はカプセルを起動する。

次の朝、石川は澤井刑事を大学の実験室に呼びつけた。
「澤井さん、にわかには信じ難いでしょうけど、この子供は未来から来た「翡翠」っていうの子なの。」、彼女はカプセル内のLEDを点け翡翠を澤井に見せた。
澤井は驚愕したものの、刑事としての洞察力が働く。
「一連の放射線テロと関係が ? 」
「そうよ、この子が言うにはテロは世界中の女性を不妊にしてしまったらしいの。化粧品に入っている放射線元素物質は卵細胞をも犯してしまうのよ。この子は、翡翠は・・・彼女が生まれる時代のために、被爆量の少ない私の卵細胞をもらいに来て交通事故にあってしまった。」
「失礼ですけど、翡翠ちゃんは生きてらっしゃるんですか ? 」、澤井は石川の顔色をうかがいながら尋ねた。
「カプセルの中でゆっくりとね・・・でも、脳内が血だらけだから外に出したらすぐ死ぬわ。澤井さん、テロの事情を知っているあなたにお願いがあるの。私と一緒にこのカプセルを守っていって欲しい。最悪あと80年ほど。この子は・・・翡翠は・・・未来に産まれる私の子供なの。」
澤井は、「わかりました、お互い喫煙は辞めですね。」、と真顔で言う。
「ありがとう、恩に着るわ。」、と微笑みながら翡翠のカプセルの一時解除スイッチを入れる。
「夜中に自分で内視鏡を使って卵細胞を採ったの、これを眠っている翡翠に託すわ。」
石川は試験管に入った細胞と聖母が抱く救世主の「母子像」を翡翠の足元に置いてカプセルを閉めた。
母と子、もし子供が物心ついた頃に母親から「本当の母親は別にいる。」と告げられたら、実の母に想いを巡らせない子供はいないのだろう。
「Madonna」とは広義で聖母をあらわす。
悲しい将来、カプセルやチューブも仲間に入ってしまうのかも知れない。


「あなたが私の未来の子供・・・」、石川はこぼれ出すコーヒーにも気をかけず翡翠に見入った。
「はい、お母さんの卵細胞から生まれたんですよ。でも、産まれたのは保育カプセルの中だけど。」、翡翠はオレンジジュースのストローを吸っている。
「翡翠ちゃん、全部説明してくれる !? ゆっくりでいいから !」、石川はスマホのレコーダーのスイッチを入れた。
「全部・・・なんて、わかりません。お母さんだって、その通信機(スマホ)がどんな仕組みでどうやって動いてるのかは解らないでしょ ? それと同じです・・・政府の人が突然来て、お母さんの色んなイメージと私への指令を瞬間記憶させられて、変な機械に乗せられたらもうお母さんが目の前にいたんです。」、翡翠は少し萎縮しながら話した。
翡翠の異変に気が付いた石川は、「ごめん私、学校の恐い先生みたくなってたね。 翡翠ちゃん、何歳になるの ? 」
「4歳です。「04a」の4です。「a」は、なんだか解んない・・・」
石川は驚いた、どう見ても10歳くらいなのだが彼女には聞く由も無い。
「じゃあさ、政府の人の言った指令って何ぁに ? 」、石川は我が子に勤めて優しく尋ねた。
「はい。 昔は赤ちゃんは母親の顔を素顔で認識していたんです。しかし、ひどくメイクが普及したため赤ちゃんは最低2種類の母親の顔を認識しなくては育つことが出来なくなる様になりました。それがやがて潜在意識に深く刻みこまれ、唯一母体という感覚がなくなったのです。つまり、お母さんが言う未来では「母子像」というのが無くなりました。」
「確かに母子像の母親は派手なメイクはしてないわねぇ。」、石川は我慢強く翡翠の次の言葉を待った。
「お母さんが今調べている放射線テロを行った人は特定できませんでした。しかし、母子像を壊してしまうメイクに対する警告か無力化を考えている、きっと世界的に財力のある思想家なんだそうです。私はお母さんから「プレゼント」をもらいに来たのです。」、翡翠はストローのビニールを弄り回している。
「私の卵細胞をあなたが産まれるために未来に持って帰るのね。」、石川は猛烈に喫煙したくなった。
「未来に行くのは簡単なんです。保冷カプセルに入って80年も眠って目を覚ませば、そこが「私」の未来なんです・・・ねぇ、お母さん。お願い聞いてくれる ? 」
「えっ !? 何 ? 」、石川は身構える。
「あのね、私・・・アイスが食べたい。」
「あ、あぁそうね。わかったわ、きっとチョコレーズンがいいわ。」、そう言って石川は席を立った。
「ねぇお母さん、外にいる黒い七面鳥、見てきていい ? 」
「うーん、それはカラスと言うのよ。いいわ、見てきなさい。」、石川はオーダーカウンターに向かう。

その直後、車のブレーキが聞こえ窓際の客が、「あっ ! 子供が轢かれた ! 」、と叫んだ。

「人造皮膚デルモイド」の最大の欠点は同じ顔の人達を作り出してしまう事である。
猿は猿どうしの顔の区別がつくが、人間は猿の顔の区別がつきづらいのに通じる。
つまり、顔面の個性の欠落を神は快しとはしていないのであろう。
化粧品化学の発展は個性のない偽りだけの体裁をつくっているに過ぎない。


「いいえ、私も人間です。でも、人間の母親からは生まれていません。 先生は寒くないですか ? 私はアルミ繊維服を着ているので全然平気なんです。」、女の子は左右の虹彩の色の違う目で石川を見つめた。
「あなた・・・未来人なのね ? 」、そう言う石川に、「先生は科学者なのに矛盾していますね。そういう言い方をすれば、私から先生は過去人ですもの。」、女の子は子供らしくケラケラと笑った。
「んで、どこに行けばいいの ? 」、笑われた石川は少し赤面する。
「マックって近くにあります ? 一度行ってみたくて ! 」、女の子はオッドアイを輝かせていた。
「あらヤダ、宇宙船とかじゃないのね・・・」、捨てゼリフを吐いた石川の左手を女の子は自分の右手で繋いだ。

「さぁ、何食べる ? 」
「ビックマックを二つに割って食べましょう ! 」、女の子は機嫌良く椅子から足をブラブラと揺すっている。
ビックマックを買ってきた石川は両手で縦に割りながら、「あなた、お名前は ? 」、と尋ねる。
「石川翡翠04aです。私の世界には同姓同名が何十人もいるので、04aはシリアルです。」
「未来も石川って名前が多いのねぇ、それで何年先から来たわけ ? 」、石川は「翡翠04a」の前に半分のビックマックとオレンジジュースを置いた。
「87年と216日です。」
「ずいぶん、中途半端なのね。 なんでそうなるのかしら ? 」、石川は思わず笑ってしまった。
「それは今日、地球で生まれた全ての赤ちゃんの、一番の長生きした人の寿命年数だからです。 あ、その人、子宮から生まれた最後の人間なんです。」、それを聞いた石川は絶句する。
「お行儀悪いけど、もう食べてもいいですか ? 」
「あぁ、ごめんなさい。 召し上がれ。」、そう言って石川はローストコーヒーのフタを開ける。
「いただきます ! ありがと、お母さん。」
石川の手からコーヒーカップが滑り落ちる。
白骨身元不明死体の割り出しで最も困難とされているのは、一度も虫歯治療や整形手術をしていない遺体であった。
なぜなら、「カルテ」という人間の持つ一番重要な個人情報が欠けているからである。
人間の究極の姿である「白骨」が持つ情報は少なすぎた。
歯や骨にICチップを入れる時代はすぐ先にあるだろう。


「休憩にしましょ。」、石川は白衣を脱いで喫煙室に向かう。
「先生もタバコ吸うんですね。」、実は澤井も喫煙欲求がMaxに達していた。
「ねぇ、こんな事件抱えてどうすんのよ ? 」、石川は深々と紫煙を吸う。
「はぁ・・・まぁ・・・」、とつぶやいて澤井は石川の顔を見た。
「あれ・・・先生、すっぴんなんですね ? 」
それを聞いた石川はそっぽを向いて、「今ごろ気づいたから教えてあげる。素顔に耐えられるのは今のうちだけ・・・神に護られている若さはすぐに去り、やがて豊齢線が出来て鼻の軟骨が縮み始めるわ。」
「神ですか・・・」、澤井は女性心理の複雑さを知らない。
「だって、悪魔は契約を裏切らないから。」、そう言う石川の言葉に澤井はますます混乱した。

「いろいろすみません。ありがとうございました。」、澤井は歯切れの悪い挨拶をして帰って行った。
教授室に戻った石川は早速、非公開の犯罪生理学研究ネットの掲示板に事の次第を書き込む。
「もし、こんな事例が海外にもあれば今ごろ大騒ぎなわけよねぇ。」、とコーヒーカップを口に押し付けた。
さっそく、FBIと思える書き込みがあった。
「航空チケットを成田に用意しました。ペンシルベニア935でお待ちしてます。」
石川は、「お前が来い、私はもう帰る。」、と日本語で書き込んでパソコンの電源を落とした。

大学の銀杏並木のキャンバスを、コートの襟を立てて歩いている石川の前に小学生くらいの女の子が横切った。
オッドアイ(虹彩異色)のその子は、「暖かい所で私のお話聞いてもらえませんか ? 石川先生。」、と深々と頭を下げた。
石川は科学者の直感で、「あなた、人間じゃないわよね ? 」、と言う。
化粧とは、実は諸刃の剣なのである。
自己の顔貌を極限まで惹きたて異性の性衝動を誘引するが、その実「化粧焼け」と言われる皮膚の黒化現象を引き起こす。
これは、化粧品が皮膚呼吸を少なからず阻害するための酸欠現象である。
ひところ前には「どうらん焼け」とか「おしろい焼け」と呼ばれていた。
メーカーは頑なに隠してはいるのだが・・・

澤井は、「まさに、我々の仕事ではなさそうですね。」、と慣れない白衣の裾を触っている。
「原研も政府も、この事は承知なんでしょうねぇ、澤井さん。 あなた無断で皮膚片を持ち出したでしょ ? 」、石川は微笑みながら澤井を睨んだ。
「先生にご迷惑は決してお掛けしません。ただ、自分が扱った事案として納得のいく結論が欲しかったんです。」、澤井も俯いたものの刑事としての姿は崩さなかった。
「わかったわ。せっかくだから澤井刑事の顔を立ててあげる。」、そう言って石川は皮膚片をスペクトル解析器にかけた。
「化粧品、とくにルージュやファンデーションなどには、成分表に「その他」と書かれている添加物に金属が使われてるの。堂々とナノプラチナ配合なんてうたってるメーカーもあるわ。」
「さすが犯罪生理学のトップですね。」、澤井はいらぬお世辞を言う。
「この、「その他」がメーカーの隠し味になっていて、これが分析出来れば製造元が特定できる分けなのよ。」、澤井と石川は分析結果を待った。
「出たわ。・・・これ、ケナルスよ。あ、成分じゃなくて特許名。確かケナルス塗ってたミイラ女性がいたわね。」、石川は白衣からタブレットを取り出し検索し始めた。
「一昨年のニューイングランドとコネチガットね。二人とも死後半年程度の自然死体として発見されてる。」
「いったい、どこのデーターなんですか ? 」、澤井の職業魂がうずく。
「FBIに決まってるじゃないの、こんな暇な事するのは。でも、彼らのデーターは無駄になってない、顔面は厚化粧だった為、腐敗が少なく乾燥が先だったとされてるわ。放射線測定はしてないみたいだけど。」
「連続殺人ですね。」、澤井は固唾を呑んだ。
「違う。これは前代未聞の「テロ」よ。」


                          この作品はフィクションです。
昔、スミスという植物学者の書いた図鑑にあるカメレオンは、擬態の真っ最中であったため多くの人がカメレオンは迷彩色だと信じ続けた。
そして人間の女性といえば、寝てる時間だけが素顔なんてのは、もはや化粧顔が本人の紛れも無い「顔」なのであろう。


石川は取り乱していた。
たまたま急いでいたため、線量計バッチを着けたままの白衣で来た事が彼女と澤井刑事の命を救ったのである。
「先生、僕には何だかサッパリ分かりませんが ? 」、澤井は石川の慌て方にむしろ驚愕していた。
「私たちが浴びたのは、人間が一年間で浴びていい放射線を30分で超えたものなのよ。バッチを調べてみないと判らないけど、ざっと見積もって1年4ヶ月分くらいかしら ? 」、石川は自身を落ち着けるため澤井には解らないであろう詰まらない冗談を言った。
「はぁ・・・」、と言った澤井に、「あなた、お子さんは居るの ? 」、と石川が聞いた。
「いません。俺、独身なんです。」
「じゃあ、ウチの大学病院で生殖細胞検査を受けなさい。最悪の場合、子種ないかも。」、と言いながらも石川は自分の卵細胞に想いを巡らした。
絶句している澤井に、「これは私の仕事じゃないわね。でも面倒でも経過報告は教えてちょうだい。」、石川はそう言って、「独りで帰る」と澤井に告げた。

3日過ぎた日の午後、澤井は再び石川のもとを訪れた。
「先生、ご遺体は原研(原子力研究開発機構)に送られました。」、澤井はなぜか落ち着きがなかった。
「そう、澤井さんの落ち着きがないのは子種の検査を受けたからではなさそうね。」、石川はちょっと嫌味を言う。
「すみません。先生に診てもらいたい検体がありまして・・・」、澤井は持っているキャリーボックスに目をやる。
「なるほどね、あの女性の顔の皮膚片が入ってるのね。」、石川はロッカーからガイガーミュラー計数管と白衣を取り出し、「検査は放射線遮断ケースのある実験棟でやるから。」と言って澤井に白衣を渡した。

「思ったとおりだわ。」、石川はロボットアームが掴んでいる皮膚片を位相差顕微鏡のモニターに映し出した。
「何が分かったんですか ? 」、澤井にはサッパリ分からない。
「これは明らかに殺人よ。女性がメイクしていた化粧品に放射線元素が含まれてるから。」、石川は深くため息をついた。


手塚虫治氏の「地球を呑む」に「人造皮膚デルモイド」なる究極のメイク術が出てくる。
これは、憧れのモデルやスターに容易く成れ、または実在の他人になる事も出来た。


「ほらね、頭蓋骨からの顔面復元は3Dソフトがあれば簡単なのよ。だけど問題は被害者が女性の場合、生前どんなメイクをしていたかによってまったく顔貌が違ってくる事なの。」
犯罪生理学の石川教授はプロジェクターにレーザーポイントを当てながら犯罪学の講義を続けた。
「はい、この女性のガイコツ、眼口は標準よりかなり小さいです。しかし復顔してぇ・・・こうやってメイクすると・・・ほれ、こんなに大きく見えるの。これじゃあ素顔は家族以外は判別できないわね。」
学生はまさに豹変とも呼べる化粧術に拍手喝采する。
「じゃあ、今日はここまで。レポートは期限厳守、忘れないでね ! 」、石川教授が教壇を降りると、「すみません、埼玉県警一課の澤井といいます。少しお聞きしたい事がありまして。」、背広を着た男性が警察手帳を片手に近寄ってきた。
「あら、今回はアポ無しね ? 」、石川教授は犯罪生理学の一人者で警察からの苦肉の依頼も多かった。

教授室に通された澤井は持ってきたノートパソコンを開いた。
「この身元不明女性は10日前に自宅で変死体で発見されたのですが、死後2週間なんですが前頭面部(顔面)だけが腐敗が進んでないんです。司法解剖では防腐剤などの薬物は検出されてません。」、澤井は解剖案件書のページを見せた。
「つまり、澤井刑事さんは私に彼女を診てくれとでも ? 」、石川は秘書が持ってきてくれた紅茶を澤井にすすめた。
「ズバリ、そうなんです。これから来れませんか ? でないと明日、彼女はただの変死体として荼毘されてしまうんです。おかしいですよね、こんなご遺体は。」、澤井は熱弁する。
「白衣を脱いでる時間は無いわね、コートもってきて。」、石川は秘書に命じた。

ご遺体の安置されている大学病院まで40分くらいかかったが、石川は車中ずっと消去法で変死の原因を探っていた。
「身元不明という事は捜索願リストにもなかった訳ね・・・」、石川はご遺体を検死しながら独り言を言う。
そのとき突然、「ピーーーーーーーっ !! 」というアラーム音が鳴った。
「澤井さん、安置室をすぐ出て ! このご遺体、放射能を帯びてるわ !! 」、そう言って安置室を出た石川の胸に付けてある放射線警報プレートは鳴り続けた。





何をもって才能と言うのだろう。
人間の脳にもし一滴のH2Oが余分に混入したとしたら。
狂人になるか天才になるかは誰も知れない。

「いやっ、何 !? もうっ ! 水が耳に入っちゃったじゃないの ! 」、恵子はシャンプーを流してくれてる孝司に毒づいた。
「ごめん、急にシャワーが強くなっちゃって・・・きっと、隣の部屋がシャワーを止めたんだよ。」
小さなホテルなどでは水圧の関係で、隣室が水栓を締めると水の出が一瞬強くなるのはよくある事だ。

帰りの車の中で、「孝司、綿棒持ってない ?」、恵子は水が入った左耳を抉りながら言った。
彼女の左耳は、あの水の入った時の嫌な感覚に襲われている。
「あぁ・・今ないや。家に帰ってからでも大丈夫だよ。」
二人はしばらく車を走らせ、やがて恵子のアパート付近の交差点に差し掛かかる。
ずっと車の振動が耳の不快感を加速させていた。
「ちょっ、ちょっと車止めて・・・」、恵子は強い不快感に耐えられなくなった。
「そこ曲がれば直ぐだよ。」、孝司はウィンカーを点ける。
「止めて!! って言ってるでしょっお !!!! 」、恵子は張り裂けた。
孝司は交差点すぐ手前で急ブレーキを踏む。
シートから軽くバウンドした恵子が目を開けると、フロントガラスのすぐ前に腰が直角近くに曲がった老婆が杖を付きながら、ゆっくりと横断歩道を横切っていた。
「あ、あぶなかった・・・恵子が言わなければ、婆さん轢いてた・・・」、孝司は青ざめている。

「送ってくれて、ありがと。少し寄ってく ? 」、恵子は車のドアを開けながら言う。
「いや、明日は早番だから・・・」、孝司はハンドルをさすってる。
「そう。・・・あのね、よく考えたら近所にあんな腰の曲がったお婆さん居ないの。変でしょ ? 」
「孫の所にでも遊びに来てるんじゃないの ? 俺、そろそろ寝なくちゃ。」、そう言って孝司は帰って行った。

恵子はアパートに戻り、部屋着に着替える。
勝負服をハンガーに掛けながらポケットをチェックしていると、なぜだか孝司の免許書が出てきた。
「あれっ ? なんでここにあるんだろ ? 電話しなくちゃ・・・寝てるかな ? ・・・でも、これないと仕事出来ないね。」、恵子はコールし続けた。
恵子は普段、右の耳にスマホをあてて電話する。
しかし、さすがに右手が疲れてきた。
スピーカートークにすればいいのだが、寝てる孝司が出たときすぐに話してやりたかった。
反対の手に持ち替えて左耳にスマホを当てると、「水」のせいですこしエコーがかかる。
エコーは次第にコール音を歪ませ、やがて人の声の様に聞こえさせた。
「・・・た・・かし・・・おそ・か・・・たね・・・・・・・。   ・・・ひ・・つ・・・こくてね・・・で・・も・・・あけ・・み・・・。    たか・・し・・・でん・・わ・・なって・・・る・・・よ・・。   め・・・の・・ちさ・・・い・・お・・・・・んな・・だ。」
恵子はその場で迷わず孝司の免許書をシュレッダーした。

電話が繋がらないとよく言うが、コールしている間は実は繋がっているのだ。
水中では空中の4.4倍のスピードで音が伝わる。



正月というと普段は会えない懐魂の友人と会ったりする。
昨日、会ったのは全国を歩くフリーのプロ結婚式司会者の友人。
まさか、元日に結婚式を挙げる人はいないので帰京してきたのであった。

「最近は地味婚どころか結婚式自体をしないカップルが増えてさぁ、去年はサッパリだったよ。」、彼は私が差し出した日本酒を受けながらボヤいた。
「そっかぁ、国道沿いのH安閣も葬儀場になっちまったしな。」、俺は返す手で手酌する。
「ところでさ、お前が悦びそうな事があったんだぜ。」、友人はグイ飲みを干し上げた。
友人の話はこうだった。

長野県のY温泉のホテルから司会の依頼があった。
通常、フリーの司会者は式の前日に入り、式場と打ち合わせを終え一泊する。
その地方の風習では、朝からホテルで式が始まり昼から披露宴、そして終宴後はホテルの温泉に一泊してもらうという豪華なものだった。
彼は打ち合わせが終わり、ひと風呂浴びてマネージャーの奥様と部屋で夕食をしていた。
「あなた、お風呂で・・・変なの見たの。」、奥様は少し首をかしげて話した。
「何んだよ、変なのって ? 」
「うーん、湯気が紫ってのか、どっからか紫の煙が入っていたと言うか・・・とにかく光があたって紫になったというんじゃなく、なんか不透明な紫のモヤモヤよ。」、奥様は好物の野沢菜を平らげていく。
その時はその会話だけで終わったのだが、翌日の式の途中で彼の司会の合間に奥様が、「ほら、あれよ。」、と下座の金襴扉を指差した。
紫色の小さい雲が来客のテーブルの上に浮かんでいた。
雲は式の間中、浮かび続け徐々に薄くなって消えたのだという。
式が終わってホテルの支配人にその事を告げると、「他で言わないで下さい。解るでしょ ? あなたもプロなんだから。」、と言われたそうだ。
「解るでしょ ? ったって解らないよなぁ。」、そう言って友人は酒のおかわりを要求した。



怪談夜桜の恵子嬢がチケットをプレゼントして下さったので、彼女と怪談デートをして参りました。
いやいや、初めて聞いた稲川さん生声にとてつもない迫力を感じました。。
テレビなんかで観るよりずっとずっと怖かったですよ (゚∀゚!!!
ツアー千秋楽というせいか、封印されていた例の社会問題までもを引き起こした伝説の怪談、「生き人形」を90分かけて披露してくださりました。
いやぁ、なんと開演深夜1時で終演朝6時の5時間怪談はスザマしいものです。
12月に下北沢で「冬の怪談」なるものを開催なされるそうなので、ご興味のある方はググってみてね !





今回の「ワカメ/酒」・・・それは内緒です。(上記、「夜桜」参照)



 追記
稲川さんの演題の中で心霊写真をやるのですが、中で興味ある発言をされていました。
「呪いのかかる心霊写真なんか滅多にない、怪談も同じです。」