安部公房生誕100年記念『安部ッ句「棒」考』再録
かつてHPに「笑月流公房倶楽部」というサイトを立ち上げていて、今は閉鎖してるんですが、安部公房生誕100年を記念して、その中の『安部ッ句「棒」考』を、ここに再録します。
☟
安部ッ句「棒」考
彼は精神を精神的な表現で捉える無意味性を知っていました。 悲しみを「私は悲しい」と語っても、「あそう」で終わります、 そういう時代であることを知っていました。
現代文学と呼ばれながら、 近代文学の延長で、その現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされ、 彼の無国籍的な生き方と同様に、 ジャンルに入れられない対象を盲目的に、 そういう世界へ入れる批評家の無差別虐殺的な見舞わました。 勿論、そうした日本の戦後からもはや戦後の時代ではないと言われる時代の中でも、 しっかり見据えていた人々もいて、 例えば、自らよりも彼こそがノーベル文学賞に価する人といった大江健三郎のような人もいます。 さらには、それは、日本よりも諸外国に多く、 特に、共産圏での評価は格別的に的を得ていると言います。 彼の考え方が、実は本来、物質的で都市的であることから、 より欧米諸国で受けてもいいはずななんでしょうが、 それよりも体制と自らの生き様のギャップを感じて止まない共産圏の人々に 指示された作品が多いのは確かですね。
では、彼の作品は、そういうコミュニズムへの反発なのかというと、 それもひとつの大きなテーマですが、 欧米や日本の分別のある人々が彼に共感を訴える人々は、 むしろ、そういう分かりやすいコミュニズムなどではなく、 いわゆる自由主義、民主主義でうごめく、物質文明社会、都市的文明社会を謳歌する 先進国といわれるところで、いつのまにか、人間が人間として生きることへの迫害、 いわゆる疎外が病魔の如く進行していることを彼が 精神の疎外を精神で語るのではなく、 その物質文明社会や都市的文明社会で欧化すべき道具である物質や肉体や技術というものを通して、 語りかけてくる点にあるのです。
何度も言いますが、彼は、精神よりも物質や肉体を謳歌する人々に、 自らも含めて、精神的表現では伝達できない、その徒労感を初めから持っていました。 彼は、そこで自らの表現に物質と肉体を手に入れたんですね。 ただ、世に蔓延る文学者や批評家には、 そうした現代人の感覚よりも、自らの生きる糧として 古い文学論や文学とは何ぞやの既製品から脱却できずに、 先にも述べましたが、彼へのレッテルを 現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされたのですよ。
実は、そんな人々よりも、 今、もっと無分別に時代を謳歌しながらも何か違う、 そういう曖昧かつ不条理な存在感覚の中で生きている若者の方が、 彼の作品を読めば、感じるものがメチャ多いと思いますよ。
安部公房は20世紀に生きました。そして、多くの人に読まれました、が、 その解釈は、彼に素晴らしいレッテルを与えた人々の手によって 壇上の上のほうに祭り上げられ、本来読んで欲しい人々の手に届かないところに奉られ、 そのまま形骸化しようとしていると思います。 彼にレッテルを与えた人々の解釈など、よっこいしょと、ほうっておいて、 自由に読んでいただく、それも、文学の「ブ」の字も知らない若者に。 それが今、一番有効なんじゃないでしょうか。
さて、以上のように、精神を語るのに、精神を放棄し、 物質と肉体を手に入れたわけなのだですが、その核となるのが「壁」なんです。 彼が芥川賞を受賞した作品も「壁」という題名の小説ですね。 初期作品のひとつなんですが、作品集なんです。 「壁」は以下のような作品の集合体です。
その一つ一つは、レビューの「壁」をご覧下さいな。
で、それを核にして、彼の作品群は、以下のようなマトリックスで捉えることが出来ます。(図1参照)
横軸は物質的な捉え方、縦軸は人間関係的な捉え方です。 横軸のプラスは、物質を利便性や技術から加工化されたもの。 横軸のマイナスは、物質を細かく細分化したときの共通的な素材感覚、そのこれ以上崩せない単細胞。
縦軸のプラスは、人間関係のコミュニケーションする力、自分と他者との伝達、対話、会話、人間関係のプラス。 縦軸のマイナスは、人間関係の拒否、或いは、他とは違うための線引き、プライバシーの確保、 自分が自分であるための守り。
安部公房の作品をよくご存知の方は、このマトリックスにそれぞれの作品を置いてみてくだされ。 ほうら、あれよあれよと思うまに、配置できてしまうでしょ。 例えば、有名どころでいくと、 横軸の最右翼に「箱男」、横軸の最左翼に「砂の女」、 縦軸の頂点には「他人の顔」、縦軸の地の底には、「友達」・・・、ね。 他の作品は、ご自由に配置を。
えっ? なんですって? ああ、変形物語。安部公房は日本のカフカなどと、よく言われましたね。 ただ、気をつけなければいけないのは、カフカはグレゴール・ザムザがある朝、目を覚ましたら 虫になっていた、なんですけど、それは、極めて、存在論的な作品であり、 哲学者が好む、実存主義の根本となる、いかに他者と関わるか、 その力をザムザくんはマイナスとしてしか表現されてない、これは、実存主義者の格好の餌食になる作品であったわけです。
ところが、安部氏の作品、初期の「デンドロカカリヤ」から始まる変形物語は、 実は、先ほどの縦軸横軸に対して縦横無尽にその視点を切り開くための出発点でもある「壁」であり、 彼の処女小説「終わりし道の標に」の道標でなんですよ。 以下の図のとおりですので、よろしく。(図2参照)
あはは、なんか訳がわからなくなってきましたか。
変形は、一方では願望であり、一方では、被害でありますね。 というのも、飛べないのに飛びたい、これは願望です。 でも、人間でありたいのにロボットにさせられる、これは被害ですね。
ところで、願望は自分の意志ですね、でも、被害は、意志に関わらず、変貌させられる。 あるいは、他人の意志、あるいは大きな社会や都市生活が、自分は変わりたくないのに、 自分を変えようとする、自分を変えてしまった。 で、結果、変わったことには、変わりがない。 ほら、変わったことには変わりがない、ですって。 じゃあ、その主人公以外の、変わらない人には、変わりがある場合がある。 もっと分からなくなってきましたか?
先ほどから、「壁」という核を中心に、横軸におけるプラスとマイナス、 縦軸におけるプラスとマイナス、全く逆方向にベクトルがありましたね。 では、以下のような図はいかがでしょうか。
まず、縦軸をさかいに、二つに折ってみましょう。(図3参照)
あらら、「砂」と「箱」は同じベクトルになりました。 では次に、横軸をさかいに、二つに折りましょうか。(図4参照)
「伝達」と「隔絶」が同じベクトルになりました。 えっ? 折っては三次元違反だ? あ、そうかもしれませんね。 でも、実は、誰が呼んだか知りませんが、「安部システム」という考え方の真相は ここにあるんです。
彼は、車のギヤチェンジを例えて、 「ギヤはいつもニュートラルだけど、アクセルは全開」という論理があります。 これ、演劇役者が意味の運搬に成り下がらないためのもので、 これを難しく語ったりして訳がわからないものにされていましたが、 ようは、ニュートラルの状態でアクセルを全開、つまり思いっきり踏み込んでいる、 エンジンはフル回転、で、もし、ギヤをバックに入れれば・・・、そう思いっきりマイナスに走る。 では、前へ進む方向に入れれば、プラスに走る。
彼にとって重要なのは、プラスに走るかマイナスに走るかではなく、 絶えずニュートラルにあってアクセルを踏みつづけることなのです。 なぜなら、例えば、ニュートラルに人間がいるとします。 ギヤをプラスに入れれば、天使になる。 でも、ギヤをマイナスに入れれば、悪魔になる。
日本で世界的に著名な監督であられる黒澤明をご存知でしょうか。 彼は、監督しての名言に「悪魔のように繊細に、天使のように大胆に」という言葉があります。 安部公房と黒澤明が実際に接点とか交友があったなんて、まったく知りませんが、 ここに、作家としての共通点は見出せますね。 黒澤明は作品の中に注ぎ込むパワー、それを二つのベクトルで語ったわけですが、 その表現の中に「悪魔」と「天使」という人間以上をおきながら 「悪魔」に対しては「繊細に」という形容を与え、「天使」には「大胆に」という形容を与えています。 私たちは、「繊細」という言葉に気遣いを感じ、「大胆」という言葉に人を傷つけかねない怖れを抱きます。 その二律背反をさらに両面で持ちながら、二つの人間を超えるものを併せ持つ、 これはもう、前提に「人間」があり、悪魔と天使が両極端にありながら、人間を軸に二つ折りにして、 同じベクトルの方向にしてしまう、凄いパワーがある、そう思うのです。猛獣の心に計算機の手を、とでも申しましょうか。
もっと簡単な一つの行為で説明しましょう。 女性には失礼かもしれませんが、化粧をするという行為があります。 美しく、ということとともに、より自分らしく、そういう思いが働いていると思うんですね。 さて、では、その化粧を、例えば、厚さ数ミリで造形を施してみましょう。 すると、それは、仮面にもなるのです。これは「他人の顔」? しかし、自己の復帰であるのかも?
こう説明すれば、安部システムのニュートラルを起点にして、二つ折りすることがお分かりいただけるでしょう。 二つ折りが難しいと思うのは、思考が二次元的であり、この世界は三次元である、ということかもしれません。 さらには、思考が三次元的であれば、三次元は解釈できるが、それでも四次元的な思考を持ち出すSF作家は、 三次元で捉えられないことを捉えようとする欲求があり、そのSFを単なるサイエンスフィクションという範疇でなく、 解明の手立てにする人々も多くいる、そして、図らずしも安部公房自身がその手立てをよく使った、 SF作家的立場にあったというのも、頷けることだと思います。
さてさて、そろそろ締めに入りたいと思います。 この文章のタイトルである『安部ッ句「棒」考』は、安部公房の作品のタイトルやメインとなる語句が極めて 「棒」的である、と言いたかったわけですが、もう、これでお分かりいただけたでしょうね。 えっ、わかんない? 彼の小説「棒」や戯曲「棒になった男」、これは、彼の「壁」と同様、 ニュートラルのコアであり、出発点だったのです。(図5参照)
おやおや、そこのあなた、「じゃあ、これもありかな」と思って、斜めに折ってられる方。いけないことではありません。 むしろ、安部氏の作品の紐解きの近道かもしれませんよ。
☝
以上、2003年9月
☟
安部ッ句「棒」考
彼は精神を精神的な表現で捉える無意味性を知っていました。 悲しみを「私は悲しい」と語っても、「あそう」で終わります、 そういう時代であることを知っていました。
現代文学と呼ばれながら、 近代文学の延長で、その現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされ、 彼の無国籍的な生き方と同様に、 ジャンルに入れられない対象を盲目的に、 そういう世界へ入れる批評家の無差別虐殺的な見舞わました。 勿論、そうした日本の戦後からもはや戦後の時代ではないと言われる時代の中でも、 しっかり見据えていた人々もいて、 例えば、自らよりも彼こそがノーベル文学賞に価する人といった大江健三郎のような人もいます。 さらには、それは、日本よりも諸外国に多く、 特に、共産圏での評価は格別的に的を得ていると言います。 彼の考え方が、実は本来、物質的で都市的であることから、 より欧米諸国で受けてもいいはずななんでしょうが、 それよりも体制と自らの生き様のギャップを感じて止まない共産圏の人々に 指示された作品が多いのは確かですね。
では、彼の作品は、そういうコミュニズムへの反発なのかというと、 それもひとつの大きなテーマですが、 欧米や日本の分別のある人々が彼に共感を訴える人々は、 むしろ、そういう分かりやすいコミュニズムなどではなく、 いわゆる自由主義、民主主義でうごめく、物質文明社会、都市的文明社会を謳歌する 先進国といわれるところで、いつのまにか、人間が人間として生きることへの迫害、 いわゆる疎外が病魔の如く進行していることを彼が 精神の疎外を精神で語るのではなく、 その物質文明社会や都市的文明社会で欧化すべき道具である物質や肉体や技術というものを通して、 語りかけてくる点にあるのです。
何度も言いますが、彼は、精神よりも物質や肉体を謳歌する人々に、 自らも含めて、精神的表現では伝達できない、その徒労感を初めから持っていました。 彼は、そこで自らの表現に物質と肉体を手に入れたんですね。 ただ、世に蔓延る文学者や批評家には、 そうした現代人の感覚よりも、自らの生きる糧として 古い文学論や文学とは何ぞやの既製品から脱却できずに、 先にも述べましたが、彼へのレッテルを 現代文学をひとつのアヴァンギャルドとか、 シュールレアリスムとか、特別な、否、無範疇的な捉え方をされたのですよ。
実は、そんな人々よりも、 今、もっと無分別に時代を謳歌しながらも何か違う、 そういう曖昧かつ不条理な存在感覚の中で生きている若者の方が、 彼の作品を読めば、感じるものがメチャ多いと思いますよ。
安部公房は20世紀に生きました。そして、多くの人に読まれました、が、 その解釈は、彼に素晴らしいレッテルを与えた人々の手によって 壇上の上のほうに祭り上げられ、本来読んで欲しい人々の手に届かないところに奉られ、 そのまま形骸化しようとしていると思います。 彼にレッテルを与えた人々の解釈など、よっこいしょと、ほうっておいて、 自由に読んでいただく、それも、文学の「ブ」の字も知らない若者に。 それが今、一番有効なんじゃないでしょうか。
さて、以上のように、精神を語るのに、精神を放棄し、 物質と肉体を手に入れたわけなのだですが、その核となるのが「壁」なんです。 彼が芥川賞を受賞した作品も「壁」という題名の小説ですね。 初期作品のひとつなんですが、作品集なんです。 「壁」は以下のような作品の集合体です。
その一つ一つは、レビューの「壁」をご覧下さいな。
で、それを核にして、彼の作品群は、以下のようなマトリックスで捉えることが出来ます。(図1参照)
横軸は物質的な捉え方、縦軸は人間関係的な捉え方です。 横軸のプラスは、物質を利便性や技術から加工化されたもの。 横軸のマイナスは、物質を細かく細分化したときの共通的な素材感覚、そのこれ以上崩せない単細胞。
縦軸のプラスは、人間関係のコミュニケーションする力、自分と他者との伝達、対話、会話、人間関係のプラス。 縦軸のマイナスは、人間関係の拒否、或いは、他とは違うための線引き、プライバシーの確保、 自分が自分であるための守り。
安部公房の作品をよくご存知の方は、このマトリックスにそれぞれの作品を置いてみてくだされ。 ほうら、あれよあれよと思うまに、配置できてしまうでしょ。 例えば、有名どころでいくと、 横軸の最右翼に「箱男」、横軸の最左翼に「砂の女」、 縦軸の頂点には「他人の顔」、縦軸の地の底には、「友達」・・・、ね。 他の作品は、ご自由に配置を。
えっ? なんですって? ああ、変形物語。安部公房は日本のカフカなどと、よく言われましたね。 ただ、気をつけなければいけないのは、カフカはグレゴール・ザムザがある朝、目を覚ましたら 虫になっていた、なんですけど、それは、極めて、存在論的な作品であり、 哲学者が好む、実存主義の根本となる、いかに他者と関わるか、 その力をザムザくんはマイナスとしてしか表現されてない、これは、実存主義者の格好の餌食になる作品であったわけです。
ところが、安部氏の作品、初期の「デンドロカカリヤ」から始まる変形物語は、 実は、先ほどの縦軸横軸に対して縦横無尽にその視点を切り開くための出発点でもある「壁」であり、 彼の処女小説「終わりし道の標に」の道標でなんですよ。 以下の図のとおりですので、よろしく。(図2参照)
あはは、なんか訳がわからなくなってきましたか。
変形は、一方では願望であり、一方では、被害でありますね。 というのも、飛べないのに飛びたい、これは願望です。 でも、人間でありたいのにロボットにさせられる、これは被害ですね。
ところで、願望は自分の意志ですね、でも、被害は、意志に関わらず、変貌させられる。 あるいは、他人の意志、あるいは大きな社会や都市生活が、自分は変わりたくないのに、 自分を変えようとする、自分を変えてしまった。 で、結果、変わったことには、変わりがない。 ほら、変わったことには変わりがない、ですって。 じゃあ、その主人公以外の、変わらない人には、変わりがある場合がある。 もっと分からなくなってきましたか?
先ほどから、「壁」という核を中心に、横軸におけるプラスとマイナス、 縦軸におけるプラスとマイナス、全く逆方向にベクトルがありましたね。 では、以下のような図はいかがでしょうか。
まず、縦軸をさかいに、二つに折ってみましょう。(図3参照)
あらら、「砂」と「箱」は同じベクトルになりました。 では次に、横軸をさかいに、二つに折りましょうか。(図4参照)
「伝達」と「隔絶」が同じベクトルになりました。 えっ? 折っては三次元違反だ? あ、そうかもしれませんね。 でも、実は、誰が呼んだか知りませんが、「安部システム」という考え方の真相は ここにあるんです。
彼は、車のギヤチェンジを例えて、 「ギヤはいつもニュートラルだけど、アクセルは全開」という論理があります。 これ、演劇役者が意味の運搬に成り下がらないためのもので、 これを難しく語ったりして訳がわからないものにされていましたが、 ようは、ニュートラルの状態でアクセルを全開、つまり思いっきり踏み込んでいる、 エンジンはフル回転、で、もし、ギヤをバックに入れれば・・・、そう思いっきりマイナスに走る。 では、前へ進む方向に入れれば、プラスに走る。
彼にとって重要なのは、プラスに走るかマイナスに走るかではなく、 絶えずニュートラルにあってアクセルを踏みつづけることなのです。 なぜなら、例えば、ニュートラルに人間がいるとします。 ギヤをプラスに入れれば、天使になる。 でも、ギヤをマイナスに入れれば、悪魔になる。
日本で世界的に著名な監督であられる黒澤明をご存知でしょうか。 彼は、監督しての名言に「悪魔のように繊細に、天使のように大胆に」という言葉があります。 安部公房と黒澤明が実際に接点とか交友があったなんて、まったく知りませんが、 ここに、作家としての共通点は見出せますね。 黒澤明は作品の中に注ぎ込むパワー、それを二つのベクトルで語ったわけですが、 その表現の中に「悪魔」と「天使」という人間以上をおきながら 「悪魔」に対しては「繊細に」という形容を与え、「天使」には「大胆に」という形容を与えています。 私たちは、「繊細」という言葉に気遣いを感じ、「大胆」という言葉に人を傷つけかねない怖れを抱きます。 その二律背反をさらに両面で持ちながら、二つの人間を超えるものを併せ持つ、 これはもう、前提に「人間」があり、悪魔と天使が両極端にありながら、人間を軸に二つ折りにして、 同じベクトルの方向にしてしまう、凄いパワーがある、そう思うのです。猛獣の心に計算機の手を、とでも申しましょうか。
もっと簡単な一つの行為で説明しましょう。 女性には失礼かもしれませんが、化粧をするという行為があります。 美しく、ということとともに、より自分らしく、そういう思いが働いていると思うんですね。 さて、では、その化粧を、例えば、厚さ数ミリで造形を施してみましょう。 すると、それは、仮面にもなるのです。これは「他人の顔」? しかし、自己の復帰であるのかも?
こう説明すれば、安部システムのニュートラルを起点にして、二つ折りすることがお分かりいただけるでしょう。 二つ折りが難しいと思うのは、思考が二次元的であり、この世界は三次元である、ということかもしれません。 さらには、思考が三次元的であれば、三次元は解釈できるが、それでも四次元的な思考を持ち出すSF作家は、 三次元で捉えられないことを捉えようとする欲求があり、そのSFを単なるサイエンスフィクションという範疇でなく、 解明の手立てにする人々も多くいる、そして、図らずしも安部公房自身がその手立てをよく使った、 SF作家的立場にあったというのも、頷けることだと思います。
さてさて、そろそろ締めに入りたいと思います。 この文章のタイトルである『安部ッ句「棒」考』は、安部公房の作品のタイトルやメインとなる語句が極めて 「棒」的である、と言いたかったわけですが、もう、これでお分かりいただけたでしょうね。 えっ、わかんない? 彼の小説「棒」や戯曲「棒になった男」、これは、彼の「壁」と同様、 ニュートラルのコアであり、出発点だったのです。(図5参照)
おやおや、そこのあなた、「じゃあ、これもありかな」と思って、斜めに折ってられる方。いけないことではありません。 むしろ、安部氏の作品の紐解きの近道かもしれませんよ。
☝
以上、2003年9月