中野サンプラザ、TUBE、チューリップ、財津和夫、アン・ルイス、安室奈美恵、小泉今日子、中森明菜、東京都 中野区、徳川綱吉、愛犬、昭和歌謡、中野ブロードウェイ、歌謡曲。

 

にほんブログ村 音楽ブログ 好きな曲・好きなアルバムへ  

*ブログ トップページはこちら

パソコン等で読んでね!

 

 

音路126.太陽がくれた時代(前編)

【ノスタルジック夏メロ.5】
~ありがと SUN SUN サンプラザ!~



今回のコラムは、連載「ノスタルジック夏メロ」の第5回です。

昨年末頃に、時代別の「冬のポピュラー邦楽曲」の連載をしましたところ、各方面の皆さまから、同じように「夏の邦楽曲」を特集してほしいというご希望を多数頂戴しましたので、今回は、冬ソング特集の時のような、70年代、80年代などの時代別ではなく、最近の話題もまじえながら、それぞれの回でテーマを設けて、ご紹介したいと思っております。

特に、懐かしい昭和や平成の時代のヒット曲を中心に、「ノスタルジック夏メロ」と題して連載いたしますので、昭和生まれの中高年世代の方々には、懐かしんで、昭和や平成の夏を思い出していただきたいと思います。

「昭和の夏ソング」を初めて聴く世代の方々も、ひょっとしたら、今現代よりも開放的で、バラエティ豊かな日本サウンドのポピュラーソングを楽しんでみてください!

この連載「ノスタルジック夏メロ」は、今回を含め、あと二回!
連載の最後は、2023年の夏に去っていった、「音楽の聖地」と呼ばれた「中野サンプラザ」のお話を前編・後編で書きたいと思います。

どうぞ、「中野サンプラザ」と、もう少しだけ「夏の終わり」を感じてみて!


◇「建替え期」到来

この10年あまりのあいだに、東京に残っていた昭和の有名な名建築が次々に取り壊され、建て替えられています。

品川駅周辺、渋谷駅周辺、虎ノ門周辺、赤坂周辺、銀座周辺、築地周辺、日本橋周辺、東京駅周辺、東京タワー周辺、新橋駅周辺などなど、建て替えが多すぎて、昭和時代の街の姿はほぼありません。
上野、浅草も、どんどん変わってきています。

新宿も、新宿厚生年金会館、新宿コマ劇場は姿を消し、新宿紀伊国屋ビルも建て替えられ、新宿駅に隣接する小田急百貨店や京王百貨店も近く新しくなります。
そう遠くない頃には、新宿西口の高層ビル群も建て直しになるでしょう。
皇居近くにある、その外観が「東京の正倉院」とも呼ばれた「国立劇場」も2023年(令和5)で閉館し、建て直されます。

とにかく、老朽化や、幾度もの地震の揺れにより、耐震性が落ち、次に来る大震災に備えなければなりません。
とはいえ、独特な外観を持った、昭和の名建築たちが、次々に建て替えられていくのは、一抹の寂しさを覚えます。

若い頃に東京で暮らし、今は地方に戻られた方が、久しぶりに東京に遊びに来てみると、その変貌ぶりに驚かれることでしょう。
もはや、昔の記憶では街を歩けません。

* * *

実は、新宿駅から電車で5分ほどの JR中野駅の周辺は、都内各地の再開発から、ずっと遅れていた地域でした。
中野駅舎は、都内で、駅ビル商業施設を持たない数少ない駅のひとつで、すぐ近くには、古い区役所建物もあります。
「中野サンプラザ」と「中野ブロードウェイ」は、建設されてから50年を超す古い大型施設で、毎年、耐震性において指摘されている建物です。

そんな中野駅周辺でしたが、中野駅近くにあった、かつての「警察大学校」が府中に移転し、その広大な跡地(この敷地は、戦時中の陸軍中野学校)が再開発され、2012年(平成24)に「中野セントラルパーク」となりました。
今は、大きな公園、いくつかの企業の本社、いくつかの大学施設、病院、住居空間に変わりました。
中野駅舎も、商業施設を含む新駅ビルを建設中です。

* * *

そして、いよいよ「中野サンプラザ」が建て替えとなり、2023年(令和5)7月2日をもって閉館となりました。
2023年9月現在、建物自体はまだ残っていますが、近く取り壊されます。

他の地域の方々には、中野区民が、どれほど「中野サンプラザ」に愛着を持っていたか、想像できないかもしれません。
家族がひとり、家からいなくなるような寂しさ…。
今回と次回のコラムは、この夏に去っていった「中野サンプラザ」のお話を書きたいと思います。


◇中野サンプラザ開業

中野サンプラザの、開業当時の正式名称は「全国勤労青少年会館」といいました。
旧労働省所管の特殊法人「雇用促進事業団」が、雇用保険法に基づき、勤労者向けの福祉施設として建設した、当時としては相当に大規模な建物でした。
1973年(昭和48)6月1日に開業しました。
とはいえ、「全国勤労青少年会館」なんて名称では、区民に愛されるはずもなく、「中野サンプラザ」という別称が付きました。

民営の施設ではありませんでしたが、駅前という立地場所の良さと、当時の最先端の音楽ホールを備えていたこともあり、順調な運営が行われていました。
2004年(平成16)には、株式会社「中野サンプラザ」に譲渡され、現在まで営業されてきました。
そのため、雇用推進事業に基づく若者の職業相談業務を行っていた「サンプラザ相談センター」は、2003年(平成15)に閉鎖されました。
十分に、時代の要請に応え、役割を果たしてくれた気がします。

* * *

中野サンプラザは、中野駅前という好立地条件だけで成功できたわけではありません。

実は、1973年(昭和48)の建設当時、その時代の最先端の感覚で作られた、多機能の複合施設で、その建物デザインの斬新さでも群を抜いた存在でした。
東京にある他の多くの施設にない特徴を多く持っていた特別な建物でした。

ざっくりと「中野サンプラザ」の中にあったものをご紹介します。
音楽ホール、結婚式場、ホテル、ボウリング場、プール、テニスコート、レストラン等飲食関連、音楽スタジオ、花屋、研修施設、カルチャーセンターほか…、これだけの機能が、ひとつの施設の中にあったのです。
おまけに、玄関近くでは地方の物産展が行われ、玄関前は盆踊りの会場広場にもなりました。

中野駅のすぐ目の前で、朝焼けから夕方まで、他のビルに隠されることなく、建物前面をお日様が、一日中 照らし続けるのです。
私は、一日中、これほど日があたる他の施設を、東京の中で思い出せません。

この燦燦(さんさん)と注ぐ太陽の光を受けとめるため、正面玄関の大屋根がすべてガラス張りでした。
この総ガラス張りの大屋根も、中野サンプラザの象徴でしたね。
ここを、「サンプラザ」と言わずして、何と呼ぶ!

個人的には、建て替えにより、新しい高層ビルになって、太陽の日差しがどのくらい減るのか心配しています。

下記写真の左が、建物正面で、南を向いています。
右は、北側にある建物後方で、その斜度は、なんと54度!
スキーの初級者はだいたい10度前後、20度を超えたら上級者でないと無理!
54度は、北アルプスの急な尾根斜面に匹敵する斜度ですね。

 

この建物を横から見ると、見事な直角三角形!
実は、その三角形のサンドウィッチの中身は、下記図のような複雑な構造をしています。
複雑な形状を、三角の包装紙で隠していたのです。
今の時代でも、通りいっぺんの真四角なビルよりも、このような複雑な形状や、むしろ空間に余裕を持たせることが、逆に売りになるかもしれません。
いくら高層であっても、巨大であっても、印象に残らない建物は山のようにありますね。

音楽ホールの観客席に座る方々や、玄関ホールや広場にいる方々は、自分のいる地下で、プールで泳いでいる人、ボウリングをしている人がたくさんいるなどとは、想像もしていないと思います。
昭和40年代に、よくこれほどの立体構造を作り上げたものです。
この6年前に完成した施設「中野ブロードウェイ」は、ビルの中に商店街や病院などの施設をつくり、その上に居住空間をつくりましたが、参考にしたのかもしれませんね。
何か、古くて、新しい!
この建物図面を見ているだけで、ワクワクしてきますね。

 

現在の中野サンプラザの高さは92メートル。
数年後に完成する「中野サンプラザシティ」の高さは235メートルだそうです。
約2.5倍の高さになります。
施設の中身も、2倍、3倍で、ぜひお願いします。


◇音楽の聖地

さて、特に、中野サンプラザが、その存在感を示していたのが、最大7000人収容の音楽ホールで、各種イベントにも対応できました。

中野サンプラザは、まさに東京の「音楽の聖地」「音楽の殿堂」のひとつとして長く君臨していくことになります。
多くの若きミュージシャンたちが目標にしてきた音楽ホールでした。

「なんだ、最大7000人かよ」と思われるかもしれませんが、たかが7000、されど7000なのです。
少な過ぎず、多過ぎず、ちょうどいいサイズ!
最初の目標にするには、ちょうどいいサイズ!
プロを目指すミュージシャンたちが、自分たちだけの単体開催で、とりあえず目標にできる集客人数ですね。

* * *

これほどの多機能施設の中にあり、中野駅から絶対に迷うことのない駅前施設です。
音楽ホールとはいっても、開催されるイベントは多種多様。
音楽コンサート、各種発表会、入社式、卒業式、成人式、記念式典、お祭りなど、いったい このホールは何もの!?

音楽目当ての来場者はいるは、結婚式帰りはいるは、ホテル宿泊者はいるは、スポーツしに来た人はいるは、楽器の練習生はいるは…、食事しに来る人はいるは… いったい この施設は何もの!?

ホールで開催されていた音楽イベントの多種多様な内容にも驚かされます。
歌謡曲、演歌、ロック、アニメソング、アイドル、クラシック、古典邦楽、民族音楽、お祭りなどなど。
ひとつのホールで、これだけ多くの種類の音楽イベントを行える会場は少ないと思います。

* * *

実は、この数年、東京都内の中規模クラスの音楽ホールが次々に建替え期に入ってしまい、ミュージシャンたちの東京都心での開催会場不足が問題となっていました。
中野サンプラザは、最後まで、しっかり不足分埋め合わせの役割を果たしてくれたのかもしれません。

当初は、「箱もの行政」の無駄使い公共施設かと思いきや、ここまで働いてくれるとは!
よく助けてくれました… ご苦労様 中野サンプラザ!
ありがと SUN SUN サンプラザ!

 

 


◇中野の二大巨頭、「中野サンプラザ」と「中野ブロードウェイ」

下記映像は、中野サンプラザが建設される前の、1970年(昭和45)の中野駅周辺の映像です。
映像内の中野区役所も、数年内に、すぐ近くに移転新築されます。
映像内の、2022年の空撮映像では、白い三角形のサンドウィッチのような建物「中野サンプラザ」がすぐに認識できます。

 

 

下記映像は、1970年(昭和45)の映像です。

1966年(昭和41)完成の「中野ブロードウェイ」と、「丸井本店」の旧店舗、新井薬師などの映像です。
完成当時の「中野ブロードウェイ」は、今の「六本木ヒルズ」に相当するような、近代的ハイカラな高層建築物で、商業施設と居住施設が合体した画期的な建築物でした。
当時、有名芸能人や文化人が多く暮らした、超最先端ビルでしたね。
もともとは、明治の陸軍大将であった乃木希典の私有地でした。
今も、修復や補強をしながら、当時の建物が使われていますので、当時の階段、エレベーター、エスカレーター、通路の位置や構造がそのまま残っているという、まさに昭和の建築を思い出させる空間になっています。
今はむしろ、そうした昭和レトロ感がいい味を出しているといっていいのだろうと思います。

「中野ブロードウェイ」の完成後、その規模を大きく上回る「中野サンプラザ」などの多くの高層建築物が建設され、今の「中野ブロードウェイ」は、当時のような壮大な建物外観を感じることはなくなりました。
映像内の中野駅南口の「丸井本店」は、今は建て替えられ、メリーゴーランドはありません。

建替えは、後輩の「中野サンプラザ」に先を越されましたが、大御所のブロードウェイのほうは、さらにすごい建替えになるのか…?

 

 


◇中野に犬の広場が復活

上記映像内の2022年(令和4)の空撮映像には、キリン、東映アニメーション、栗田工業などの本社が入る大型のビルが見えます。
早稲田、明治、帝京などの大学校舎も見えます。
ここが、前述の「中野セントラルパーク」と呼ばれる地域です。

中央部には、大きな芝生の公園が整備され、毎日、愛犬をつれた多くの方々が散歩に来ています。
この犬がたくさんいる公園のすぐ横に、ビール会社のキリンの巨大な本社があります。
でも、公園には、首の長いキリンはいません。

* * *

「歴音fun」ですので、ここで歴史を…。

さて、この中野駅周辺の地域には、江戸時代の五代将軍、徳川綱吉の時代に、10万匹の犬が飼育され、「犬囲い(いぬかこい)(御囲い)」と呼ばれた広大な飼育場がありました。
役人が、毎日、大量の高級食材を用意し、犬たちを大切にしていたのです。

江戸時代前期の五代将軍 徳川綱吉は「犬公方(いぬくぼう)」と呼ばれ、「生類憐みの令」が有名ですが、今の中野駅周辺に、広大な犬専用の飼育場「犬囲い」を建設しました。
まさに、城郭を思わせるような土塁や曲輪に似た地形が整備され、今の中野駅周辺の基礎土台も、それが利用されたものです。

実は、当時の江戸には野犬(やけん)が相当にいて、住民が相当に被害にあっていましたので、野犬は恐怖の対象という一面もありました。
野犬は、今の野良犬とは違うもので、今の動物園の猛獣が外を歩いているようなことです。
かつて日本にも生息していた狼(おおかみ)のような犬たちです。
もちろん、おとなしい飼い犬たちもいました。

野犬に立ち向かう人もいれば、野犬に食い殺される人を見ているだけの人もいたようです。
平和な時代の、なまくら刀の侍たちが、刀を腰にさしてはいても、野犬に立ち向かえたとは到底思えません。
だいたい、ほとんどの貧乏侍たちは、刀を質入れしています。
江戸幕府が、剣道の竹製の竹刀(しない)をあみ出し、多くの剣術道場を再建し、侍たちを鍛え直し始めるのは、もう少し後の時代です。
街を徘徊する犬を捕獲し、集めることは江戸の街の治安維持という側面もあったのだろうとは思います。

* * *

今も東京に残る、江戸時代からの学問関連の歴史的遺構は、たいてい五代将軍 綱吉につながります。
彼の、「生類憐みの令」の根本の思想は、江戸の街の治安とともに、倫理観・慈しみ・誠実さ・助け合い精神を失いかけてきた江戸庶民や侍たちの心を、動物愛護の観点から復活させるためのものでもありました。
それが、いつしか悪徳役人や政治家、商人らの手で、上手に利用され、利権が絡む悪法となっていきました。
犬だけの法令が、いつしか、魚、鳥、虫にまで広げられ、政争の材料になってしまいます。

その頃の江戸幕府内は、今でいう山梨県勢力と群馬県勢力(綱吉は群馬県勢力)の壮絶な戦いの時代で、順繰りに政権を奪取しています。
若干武力でおとる水戸の茨城県勢力は、要領よく勝ち組につくという姿勢でした。
歴史の教科書に出てくる、すご腕の悪徳の側近や学者が、次々に登場してきた時代ですね。

その争いの隙をついて、見事な陰謀で江戸に進出してきたのが、愛知県勢力を陰謀で抑え込み、江戸城の大奥をも陰謀で制圧した、和歌山県勢力です。
江戸に、和歌山や奈良から、ごっそりと大勢力がやって来ます。
江戸の街に張り巡らされていった暗躍諜報網は、たいてい、この時代に関西から来た暗躍部隊です。
今の東京にも、和歌山ゆかりの地名や場所がたくさん残っていますね。
お見事! 暴れん坊将軍!

家康時代からの配下の三河勢力は、だれが来ようと、幕府内の裏勢力として盤石の地盤です。
トップがだれになろうと、三河勢のチカラは盤石!

犬公方の綱吉は、陰謀の中、江戸城大奥の一室「宇治の間」で秘密裏に、奥さんもろとも消されたという噂…。

その頃の江戸城内の大奥は、犬の種類の「チン(狆)」が大流行!
とはいえ、大奥トップが、犬といえば犬、猫といえば猫、金魚といえば金魚ではありました。
テレビの時代劇ドラマでも、チンをかかえた大奥のお局(つぼね)さまたちが、ごっそり…。

実は、当時の「鎖国」政策は、「なんちゃって鎖国」で、完全な鎖国ではありません。
いつの時代も、どこの国でも、抜け道や裏ルートがあったりもします。
江戸時代でも、相当なものが外国から入ってきています。
外国犬も相当に入ってきており、当時はすでに「犬の図鑑」さえありました。
「チン」という名称は、実は、かなり広く犬種を意味していたという説もあります。
とりあえず、見たことない犬は「チン」と呼んだのかもしれません。
珍犬なのは、間違いありませんね。
このあたりで、チン!

* * *

中野区は、観光・街おこしという意味で、あまり「犬」という歴史的キーワードに着目していませんが、いつか「音楽の聖地」「サブカルチャーの聖地」というだけでなく、「犬の聖地」にもなってほしいと、個人的には思っています。
有名な渋谷駅前もいいけど、やっぱり中野もね!

「中野サンプラザ」や「中野ブロードウェイ」は、当時の最先端のビジネス感覚で作られた建築物でしたが、再び、崇高な理念をかかげ、自由な発想で、新しい時代をリードする地域になっていってほしいものです。

個人的に、犬好き、歴史好きの私は、白い三角形の「中野サンプラザ」の姿が、しゃがんだ白い巨大な犬の姿のように感じていました。

今、中野区役所の前にある、「犬囲い」ゆかりの小さなモニュメントは、いったいどこに行ってしまうのか… 心配だワン!
新しい「中野サンプラザシティ」になっても、どこかに つないでおいてくださいワン!

今の中野区役所前のモニュメント。

 

2019年に、モニュメントを紹介したコラムも書きました。

 

* * *

もう少しだけ、中野の歴史を…。

江戸時代の中野の中心は、今の青梅街道沿いの地域で、青梅街道は多摩方面からの農産物などを江戸中心部に送る重要なルートでした。

今のJR(当時の国鉄)中央線は、明治時代に、主要街道から離れた、直線ルートを確保できる、ほぼ何もない原野を通すことになったため、今の東京の主要街道とは離れた地域を通っています。
主要街道には、後に路面電車「都電」が走行することになりますが、地域の繁栄の中心は、国鉄の駅に近い場所に移っていきました。

江戸時代の江戸の神田川の各地には水車が作られ、そば粉などが作られ、その粉や製麺された「そば(蕎麦)」が、江戸の中心部に運ばれていました。
「江戸のそば」は、日本全国から江戸に集まってきた土木建築労働者のビタミン不足の病「脚気(かっけ)」の予防や、食事時間の短縮に一役買ったともいわれています。
あの巨大な家電量販店名でもある、中野と新宿の境にある「淀橋」こそが、その物流の境目でした。

中野のかつての「そば(粉)文化」が、ひょっとして今の中野の「ラーメン文化」につながっている…?不明?

前述の、整備された中野の広大な「犬囲い」の敷地は、果樹園の「桃園」となっていましたが、江戸中心部への農産物・米・みそなどの物流の集積地・貯蔵地に変わり、水車による製粉加工技術は、幕末頃から火薬製造技術に応用され、中野には、軍事倉庫、軍人の教育施設が作られ、戦時中は軍部の諜報活動部門の中心地になっていきます。
戦後は、警察の教育訓練機関がその敷地に入りました。
「中野は、軍と警察」というイメージを持っている高齢世代も多くいますね。

実は、私の身内の先祖も、明治時代に、軍人として馬でその軍事施設に通っていました。
中野には、そうした軍人を先祖に持つ方が少なくありません。

中野の、JR(旧国鉄)の線路の近くに、広大でしっかりとした敷地が残っていたのは、そのためです。
東京スカイツリーの立地候補地でもありましたが、実現はしませんでした。

「中野は、サブカルチャーと音楽」…昔とは大きく変わりましたが、時代にあわせて変わっていけない地域は残っていけませんね。


◇アイドルの中野

実は私は、今でも、週に一度は「中野サンプラザ」の外観を見ています。
かつては、近くに暮らし、中野サンプラザは散歩コースの一角でした。

コンサート開催時刻の前には、中野サンプラザの前に、毎日のように、日ごとに異なるタイプの音楽ファンがものすごい数で集まっていました。
日によって、集まっている群衆の見え方がまるで違うのです。
若い女性ばかり、若い男性ばかり、高齢者ばかり、アニメ好きの方ばかり…。

中野サンプラザ前の広場の階段には、開場待ちの多くの人たちが座っていたりすることがあり、私は、散歩の途中に、そんな人たちに声をかけたことが何度かあります。
本コラムの冒頭写真の階段がそれです。

* * *

若い男性たちが集まっている時などは、いかにも地方からやって来たであろう学生がひとりでたたずんでいることが多くありました。
「この子は、都会から来たのではないな」ということは、すぐにわかります。

そんな時、「何かアイドルのコンサートでもあるの?いったい誰?」とか尋ねると、うれしそうな顔で、女性アイドル集団の中のひとりの名前を教えてくれます。
本人は、お国なまりを一生懸命に消して標準語をしゃべっているつもりなのですが、そんなことは、すぐに わかります。
着ているその服…、地元の田舎で買っただろ!

実は、私は、教えてくれた そのアイドルのことを まったく知らないのですが、「あ~、あの一番かわいい子ね」とか返すと、満面の笑顔が返ってきて、お願いしてもいないのに、写真を見せてこようとします。

おそらくは、マイナーなアイドルなので、いっしょに来てくれる友人がいなかったのでしょう。
ひとりで階段で座っているだけで、誰ともしゃべらずに、田舎に帰るよりは、少しは思い出になってくれればいいと思って声をかけました。
私も田舎出身なのに、いつしか都会人ぶるようになってしまい、反省しきり!

中野駅前から中野サンプラザあたりが、時折、アイドル色に染まる日がありました。

非日常のような、まるでアイドルランド!

たしかに、中野駅周辺には、秋葉原とも違う、女性アイドルたちが生まれ、育まれ、大切にされる土壌がある気がしますね。

アイドルを目指すなら…、アイドルになるのなら…、アイドルになったら… 中野へ!

めざせ トップアイドル!


一方、広場で待つ 演歌ファンのおば様グループの にぎやかなことといったら…。
いったい、この中高年世代の女性軍団の大騒ぎは何だ?
中野サンプラザ前の広場が、高級化粧品の香りでいっぱいの 井戸端会議場に!


こうした多様な音楽ファンたちの姿が、中野サンプラザ前の広場では当たり前のようにありました。
地元住民として見ていて、何か微笑ましい、うれしくなるような光景でしたね。
中野サンプラザ前の広場は、ちょっとしたワンダーランド!

地元の街の人々が、こうした光景を見れることは、私は意外と重要だと思います。
ディズニーランドでさえ、多くの他の家族の楽しそうな光景を見ているからこそ、自身もウキウキしてきますね。
新しく建設される施設にも、こうした光景がほしいものです。
にぎやかさの見えないところに、人は来ません。

* * *

中野駅は、新宿まで電車で5分ですし、がんばれば歩ける距離でもあります。
自転車なら楽勝!
多くの若いタレントさんやモデルさんが暮らし、音楽やお笑いのライブハウスも多く、世界各国の多くの外国人が暮らしています。
聞いたことのない外国語のおしゃべりを、よく耳にしますね。
音楽や映像の会社も多いので、そうした職業人も多く暮らしています。
大学生も多いので、相対的に物価が安いという一面もあります。

「サブカルチャーの街」として世界的にも知られていますので、秋葉原の後に、中野を目指してやって来る、世界各国からの外国人観光客も多くいます。
「中野ブロードウェイ」と「サンロード商店街」は、午後に、セーラー服の女子学生の大群が通りますので、外国人観光客は本ものの「セーラームーン」の大群に驚いていますね。

「まんだらけ」の本店は「中野ブロードウェイ」の中にあり、今や、ブロードウェイは、「まんだらけ」だらけ!

中野区は、住民の高齢化率が高く、積極的に高齢者就労を支援していますが、「中野ブロードウェイ」と「サンロード商店街」の午前中は、高齢者軍団でいっぱい。
お昼過ぎには、す~っと どこかに消えていく…。

午後のセーラー服軍団の大群の後は、夕方から、「サンロード」の東側の広大な「飲み屋街」にサラリーマンや若者たちが集まってきます。
その「飲み屋街」には、古き良き昭和の時代の風情を残す店も多くあります。
昭和の「飲み屋街」は、こんな光景でした。
先般の、野球のWBCの時に、ダルビッシュ選手が他の選手を引き連れてやって来たのも、この「飲み屋街」。

そのすぐ近くには、日本中から洋菓子職人を目指す若者たちが集まってくる大きな学校もあります。

「中野サンプラザ」の建替えは、中野駅周辺だけでなく、中野区全体にも大きな影響を与えるのは間違いないと思います。
これからも、サンサンお日様の恩恵が、この地域にもたらされますように!

* * *

ここで、音楽を…。
あの俳優お二人の間に生まれた娘さんの歌唱バージョンです。
発表当時の2013年(平成25)に、高い評価を受けましたね。

これは中野ではなく 青山でのお話ですが、私は、ある喫茶店の席で振り向いたら、後ろの席に、素足の靴の、白い上下の いでたちの そのお父様が…。
思わず言っちゃった…「トレンディ!(今 流行りの…)」。
さすが、さわやかに 笑ってくれました。

原曲は、もちろんTUBE(チューブ)の1986年(昭和61)の大ヒット曲!
Sumire(すみれ)
♪シーズン・イン・ザ・サン

 

作曲者の織田哲郎(英語バージョン)
♪シーズン・イン・ザ・サン

 

avex trax
♪シーズン・イン・ザ・サン

 

原曲のTUBE(チューブ)の映像は、コラムの最後に。


◇中野サンプラザを、散歩らざ!

私は音楽家ではありませんが、仕事で音楽映像作品をたくさん作ってきたこともあり、中野サンプラザには、コンサートの一般来場者でも、仕事でも、何度か伺いました。

さすがに、昭和40年代に造られた施設で、数十年が経過していることもあり、今現代では、少し使いずらいという面があったのは否めませんでした。
ホールの音響環境を気にする音楽関係者もいましたが、この少し面倒くさい昭和感に、なんともいえない親近感を感じていました。
音楽によるミュージシャンと観客との融和は、決して音質だけではありませんね。
最新技術や音質だけでは計れないのが、音楽の世界ですね。

中野サンプラザは、意外と、「この会場だから…」と見に来た方が少なくありませんでした。
この場所に新しく建設される音楽ホールも、多くの音楽ファンに、音楽会場として親しみを感じさせてくれるものになることを期待しています。

* * *

中野サンプラザといえば、赤い客席、赤い大階段、玄関のガラス張りの大天井…

 

私は、閉館直前の2023年(令和5)6月末頃に写真撮影をしてきました。
すでに閉店した店舗、片付け中の店舗などの光景です。

私は、下記写真の左上の音楽スタジオで、業務用のミュージシャン撮影をしたこともありました。
この音楽スタジオは、一般の方の利用はもちろん、音楽教室としても利用されていました。
プロミュージシャンがコンサートをする同じ施設の中に、アマチュアが練習できる場所があるのは、何とも うれしいことですね。
いつかは、階上の音楽ホールで!

右上の花屋さんで、プレゼントの花を買いました。
右下は、プールの受付。片付け作業中でした。
左下は、ボウリング場の入口です。

 

下記写真の、上の左右は、楽器や大道具などの搬入口。
ここに、ミュージシャン名が書かれた大型トレーラーなどが横づけしていました。
左下は楽屋口。ミュージシャンの方々…憶えておられますよね。
右下は、中野通り沿いの、妙にメルヘンチックな赤屋根の施設入口。
とにかく、中野サンプラザは、いたるところが三角形!

 

下記写真は、1階玄関フロアーの光景です。
地方物産展なども、ここで行われていましたね。
玄関フロアーのガラス張りの大天井。
とにかく、お日様さんさん! サンプラザ!

 

下記写真は、左上が結婚式場チャペルへの入口。
右上が、チャペル内部。
左下が、ホテルのフロント。
右下が、金ピカのエレベーター。
地方から出てきて、宿泊して、食事して、結婚式に参列して、音楽コンサートを見て、ボウリングして、すぐに中野駅から電車に乗って帰れるという具合…。
通りを渡れば、そこは 中野ブロードウェイ!
東京観光…ここだけでもいいや!

 

下記写真は、左上が1階総合案内。
右上は、1階から地下のボウリング場や駐車場に向かう階段
左下は、中野通り沿いのバス停横にあったボウリングのピン。背景は、今 建設中の中野駅ビル。
右下は、中野サンプラザ上層階から見た、中野駅の建設風景。
いよいよ、中野駅舎にも商業ビルがやって来る!

 

下記写真の左は、1階玄関フロアーに設置された、閉館記念撮影用の看板。
ミュージシャンになってホールで歌う夢が叶わなかった方々…ここで撮影して!
右は、営業最終日である2023年(令和5)7月2日の夜の閉館セレモニーにつめかけた一般の方々。

 

 

◇中野サンプラザのステージをもう一度!

ここで、中野サンプラザの音楽ホールのステージの映像を少しだけ…。

地方で人気者になった、各地のミュージシャンが、東京進出できるかどうか試すために、中野サンプラザは、よく使われました。
中野サンプラザ公演を成功させられるかどうかで、東京進出が試されたのです。

安室奈美恵さんの、東京進出も、このホールから!
東京にいた音楽関係者は、沖縄から来た この女の子に度肝を抜かれましたね。
これは、すごい! いけるぞ!
安室奈美恵(1995・平成7年の公演)
♪トライ・ミー

 

絶頂期の彼女の姿です。
ライブの後は、テレビの歌番組の生放送の現場にすぐに行くのね!
中森明菜(1988・昭和63年の公演)
♪スローモーション

 

2013年(平成25)の、森高千里さんのステージでの観客との記念撮影
こんなことは、武道館や東京ドームではできません。

 

1986年(昭和61)の、アン・ルイスさんのステージ。
大きめのライブハウスのような迫力!
♪六本木心中


2016年(平成28)の、鬼束ちひろさんのステージ。
中野サンプラザは太陽の光だけじゃない!
時折、中野ムーンプラザ!
♪月光

 

映像を見てもわかるように、中野サンプラザには、武道館や東京ドームなどの巨大会場では感じないような、ステージと客席のあいだに、近い距離感があります。
手の届きそうなところに、ミュージシャンがいます。
ライブハウスのようなミュージシャンとの距離感と、壮大なホールの迫力を同時に感じる…この程よいサイズ感が、中野サンプラザでしたね。

東京のコンサートなのに地方公演を感じさせるような感覚…、ミュージシャンたちにも東京の自宅から近い…、こりゃ便利!
ミュージシャンからすれば、聴いてくれているお客さんたちの顔が、客席の隅々まで見えてきそう…。

たたき上げの若いミュージシャンたちは、中野サンプラザを成功させた後に、武道館を、さらに東京ドームを目指しましたね。
中野サンプラザで、もう一度演ってみたいと思う、大御所ミュージシャンが多いのは、よくわかる気がします。

ミュージシャンたちにも、観客たちにも、中野サンプラザでの思い出は、まさに星の輝き…。
忘れないよ…、その星屑のような思い出!

2022年(令和4)の、小泉今日子さんのステージ。
♪スターダスト・メモリー

 

数年後に完成する、新しい「中野サンプラザシティ」の音楽ホールも、今と同じ、収容人数7000人規模と聞いています。
また、新たな星の輝きを、待っています!


◇明日の今頃も…

さて、中野サンプラザが誕生した1973年(昭和48)にデビューしたミュージシャンには、さだまさし(グレープ)、宇崎竜童(ダウンタウン・ブギウギ・バンド)、山口百恵、桜田淳子、浅田美代子、あべ静江、石川さゆり、フィンガー5、キャンディーズなどがいます。
前年の1972年(昭和47)は、郷ひろみ、西城秀樹、高橋真梨子、森昌子、アリスほか多数。

1973年(昭和48)開業の「中野サンプラザ」と同期の世代には、今も活躍している方々が少なくありませんね。
「中野サンプラザ」が生まれた時代とは、昭和歌謡が大きく飛躍し、大発展する時代でした。

そうした方々の中で、1972年(昭和47)に、九州のアマチュアバンドから、全国メジャーデビューしたバンド「チューリップ」がいます。
1973年(昭和48)に、楽曲「心の旅」が大ヒットし、日本全国にその名がとどろき、花の名だけでなく、有名なバンド名として「チューリップ」が定着しました。

1975年(昭和50)のチューリップの楽曲「サボテンの花」は、後の1993年(平成5)に、テレビドラマ「ひとつ屋根の下」の主題歌に使用され、リバイバルヒットしましたね。
ここは、1984年(昭和59)の、中野サンプラザでのライブ音声で…。

チューリップ
♪サボテンの花

 

1979年(昭和54)の、中野サンプラザでのライブ映像。

チューリップ
♪虹とスニーカーの頃

 

* * *

中野サンプラザが誕生した1973年(昭和48)は、日本中で、楽曲「心の旅」の歌詞が世代を超えて受け入れられ、大ヒットしましたね。
今でも、さらに世代を超えて愛されている楽曲です。

若い世代の方々…歌詞の中に登場する「汽車」とは、蒸気機関車のことではありません。
昭和のある時代までは、汽車、列車、電車という言葉を、それぞれの地域によって、それぞれの車両のタイプによって使い分けていましたね。
「夜汽車」という言葉は、寝台夜行列車や、夜の時間帯に走行する夜行電車を意味していましたね。

当時の、この楽曲のメインボーカルは、姫野達也さん。

チューリップ
♪心の旅(1973・昭和48)

 

1973年(昭和48)から47年後、財津和夫さんと姫野達也さんによる、2020年(令和2)の歌唱です。
♪心の旅

 

* * *

明日の今頃は…、自分はいったい…?

中野サンプラザは、50年という長い旅をいったん終了しました。
今は、次の汽車への乗換駅にいるといったところ…。

時代を経ること…、年齢を重ねることは…、そんなに悪くない。
苦節を乗り越え、病気を乗り越え、今も音楽活動を行っている熟年世代のミュージシャンたちの姿は、とても素敵です。

当時、若者だった世代が、今 みんなで一緒に合唱できることは、何かうれしい気持ちになりますね。

明日の今頃も…、歌っていたい!

♪心の旅

 

* * *

さて、チューリップの夏の楽曲を…。
サウンドといい、雰囲気といい、このビートルズ感がたまらない!
作詞家・松本隆さんの職業作詞家としてのデビュー曲。

チューリップ

♪夏色のおもいで(1973・昭和48)

 


◇太陽がくれたシーズン!

「中野サンプラザ」という存在が意味するものは、人それぞれ…。
夢の舞台、目標、仕事場、友人、恋人、恩人、仲間、出会い、デート、思い出…。

中野サンプラザがくれた思い出は、まさに宝もの!
ありがとう!中野サンプラザがくれた時代!
さようなら! 太陽がくれた、白い三角定規… 中野サンプラザ!

1972年(昭和47)の大ヒットテレビドラマ「飛び出せ青春」の主題歌。
青い三角定規
♪太陽がくれた季節

 

* * *

もう少し このままでいてほしかったけれど、サンプラザのシーズン(季節)は、次に進まないとね!
また新しい歴史を、中野を、ミュージシャンたちの夢を、作ってね!
ありがとう! シーズン・イン・ザ・中野サンプラザ!

1986年(昭和61)の、TUBE(チューブ)の大ヒット曲!
♪シーズン・イン・ザ・サン


次回のコラムは、「太陽がくれた時代(ありがとSUN SUN サンプラザ)」の後編です。
中野サンプラザといえば、あの方…「サンプラザ中野くん」を忘れてはいけません!
その方のことや、中野にあった名曲喫茶などのお話も書きます。
「中野サンプラザ」を音楽で送り出そうと思っています。

秋色を感じ始めた 今日この頃… 次回で連載「ノスタルジック夏メロ」は最終回になります。
「さよなら、2023年の夏」で書きます。

* * *

2023.9.12 天乃みそ汁

Copyright © KEROKEROnet.Co.,Ltd, All rights reserved.

 

連載「ノスタルジック夏メロ」

第1回「希望のチャイム」

第2回「ハロー・アゲイン!マイ・サマー」

第3回「想い出のあとさき」

第4回「あなたの翼で!」

 

にほんブログ村 音楽ブログ 好きな曲・好きなアルバムへ