NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。本圀寺の変って 何か変。三好三人衆を誘い出せ。信長の二条城。松永久秀のクリスマス・プレゼント。織田信長の戦術。朝倉義景と若狭武田氏。二条晴良と摂津晴門。東本願寺と西本願寺。顕如と如春尼。

 


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麒麟(47)見事な時間かせぎ


前回コラム「麒麟(46)共に九十九髪のはえるまで」では、、茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」、在原業平と伊勢物語、付喪神(つくもがみ)、金華山とキンカ頭、神話のお話し、織田信長家臣団の呼び名、付喪神絵巻・百鬼夜行絵巻・鳥獣人物戯画などについて書きました。

今回のコラムは、織田信長の「上洛作戦」が成功し、信長が岐阜に戻っている最中に、京で起きた、たいへんな事件のことを中心に書きたいと思います。
その事件とは「本圀寺(ほんこくじ)の変」です。
当時の寺の漢字表記は「本國寺」です。

本國寺とか、本能寺(ほんのうじ)とか、出てきますが、別々のお寺です。


◇入京までの経緯

ここで、コラム「麒麟(45)明暗の城」で書きました、信長と義昭の入京からの流れを簡単にふりかえります。
さらに、三好勢の反撃に備え、義昭が本國寺と本能寺を行き来する内容を加えます。

* * *

信長は、1568年9月7日に岐阜を出発し、近江国で「観音寺城の戦い」を行い、近江国の武将の六角氏を封じ込め、近江国の桑実寺(くわのみでら)で、義昭が岐阜からやって来るのを待ちます。

9月22日:信長と義昭が、桑実寺で再会します。

9月23日:信長が大津の三井寺(みいでら)に入ります。

9月25日:信長が京の清水寺に入ります。義昭は大津の三井寺に入ります。

9月26日:信長が東寺に入ります。義昭は清水寺に入ります。
同日、織田軍の柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らと、三好勢が、京の周辺で交戦を開始します。

9月27日:浅井長政、朽木元綱の大軍が、摂津方面の三好勢攻撃に向けて、京から進軍を開始します。

9月28日:信長が東福寺に入ります。

9月29日:織田軍の大軍が、三好勢の勝竜寺城(しゅうりゅうじじょう / 京都府長岡京市)を取り囲み、城は陥落します。
「三好三人衆」のひとりである「岩成友通(いわなり ともみち)」はすでに脱出。

9月30日:織田軍は三好勢を追走し、三好勢の芥川山城(あくたがわやまじょう / 大阪府高槻市)を陥落させます。
同日、三好勢が擁立した14代将軍の足利義栄(よしひで)がおそらく死亡。
後に芥川山城には、将軍家幕臣の和田惟政(わだ これまさ)が入城します。

10月2日:織田軍は、三好勢の「越水城(こしみずじょう / 兵庫県西宮市)」を陥落させます。
同日、池田城(大阪府池田市)も激戦の上、陥落させます。
この池田城の戦いで、池田勝正が信長の配下となります。
「三好三人衆」を中心とした三好勢は、大坂湾を渡り、本拠地の「阿波国(あわのくに / 徳島県)」に敗走します。

この頃、三好三人衆とは一線を画していた、かつての三好長慶(みよし ながよし)の家臣の松永久秀も、信長の配下となります。
松永久秀の本拠地は大和国(奈良県)です。

これで、京での、義昭の将軍就任の際の危険性が、非常に少なくなりました。

* * *

10月3日:信長と義昭は芥川山城に戻って、しばらく滞在します。
この10月3日あたりから、信長が京を離れるまでの1ヵ月間くらいに、大勢の人物が、それぞれのお宝を持って、信長のもとにやって来ます。
信長の「名物狩り」の開始です。


〔松永久秀〕

ここで、松永久秀のこの時の状況を少し書きます。

松永久秀は、大和国(奈良県)の支配において、本拠の多聞山城(たもんやまじょう)と並んで、信貴山城(しぎさんじょう)を重要な拠点としていました。
信貴山城は、法隆寺にも距離的に近く、関係性の深い城です。

信長と義昭が上洛する9月以前の、1568年6月に、久秀は、三好三人衆の三好康長に信貴山城を奪われ、10月には、三好三人衆に近い大和国の有力武将の筒井順慶(つつい じゅんけい)と激戦を繰り広げており、苦戦をしいられていました。
その状況の中…。

10月10日:細川藤孝、和田惟政、佐久間信盛ら2万の織田軍が大和国に入り、松永久秀を援護、奈良の三好勢を圧倒します。
この勢いで、松永久秀と久通(ひさみち)の親子は、その後連勝していきます。

つまり、松永久秀は、すでに三好勢の家臣という立場から、別の独立した道を完全に歩みはじめ、三好勢と敵対関係に入り、戦闘を各地で行っていたということです。
三好氏本家の当主の三好義継(みよし よしつぐ)も、三好三人衆や他の三好一族から離れ、松永久秀と手を組んで、他の三好一族と敵対関係に入りました。

話しを信長に戻します。


◇将軍就任から年末

10月14日:信長と義昭は芥川山城を出て、義昭は京の本國寺(ほんこくじ)に、信長は清水寺に入ります。
信長は、京都中心部を相当に厳重な防衛体制で固めます。

10月16日:義昭が細川邸に移り、将軍就任の準備に入ります。

10月22日:義昭が15代将軍に就任します。

10月24日:信長が義昭に帰国することを伝えます。

10月26日:信長が岐阜城へ帰城します。
京には、木下藤吉郎秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、村井貞勝(後の京都所司代)ら、5000の兵を京に残していきましたが、彼らもその後帰国(?)。
明智光秀は、義昭の直属の幕臣として、京に残ります。

10月28日:松永久秀が信長に人質を送ります。(すでに別の者も送っています)。

10月末:義昭が本能寺(ほんのうじ)に移ります。

12月:義昭が本國寺(ほんこくじ)に戻ります。

12月6日:武田信玄が、駿河国に向けて出発。

12月24日:松永久秀が、岐阜の信長のもとを訪れます。

* * *

1568年の年末頃は、織田方に敗北し家臣となった池田勝正や伊丹親興が摂津国(大坂北部・神戸周辺)をおさえ、三好三人衆から離れ松永久秀のもとにいった三好義継や畠山高政が河内国(大坂南部)をおさえ、松永久秀が大和国(奈良)をおさえていたという状況でした。
畠山高政は紀伊国(和歌山)が領地ですが、三好勢に奪われていた河内国の一部を取り戻しました。

* * *

12月末頃に、松永久秀が岐阜に来ているのをいいことに、阿波国(徳島県)に逃れた、あの三好三人衆が畿内に戻ってきて、反撃を始めます。
幕府方の城を奪還していきます。
後で書きますが、この久秀の「留守」が何か不可思議だと感じます。

信長の主力軍と松永久秀がいなくなった畿内に、三好勢は1万ほどの兵力で反撃を開始したというかたちです。
三好勢の狙いは、京の本國寺にいる足利義昭です。


◇三好勢

反撃を開始した三好勢とは、誰なのか…?

まずは、三好三人衆…、勝竜寺城から脱出した岩成友通(いわなり ともみち)、三好政康(みよし まさやす)、三好長逸(みよし ながやす)です。
それから、三好一族の三好康長(みよし やすなが)も主要な武将のひとりです。

三好氏本家当主の三好義継〔みよし よしつぐ〕は、他の三好勢から離れ、松永久秀側につきました。
おそらく久秀の陰謀もあると思いますが、三好家による生き残り分離戦略でもあったように感じます。


〔小笠原信定〕

実は、この三好勢に、意外な武将が味方につきます。
信濃国(長野県)の小笠原(おがさわら)一族の一部で、信濃国南部にいた小笠原信定は、武田信玄の信濃国侵攻から逃れ、もともと同じ一族だった三好氏を頼って畿内に来ていました。
彼は、前述の芥川山城で、信長に敗れて逃亡しました。

ようするに、信玄に追われて三好勢に加わり、今度はまた信長に追われた武将です。
最終的には「本國寺の変」で、元は同じ三好勢で織田方に鞍替えした池田勝正や伊丹親興の軍に、討ち取られます。


〔斎藤龍興〕

もうひとり、とんでもない武将が加わります。
信長の「美濃攻め」で、美濃国を追われた、あの斎藤龍興(さいとう たつおき)です。

龍興は、美濃国から伊勢国に逃れ、その後、この畿内の三好勢に加わり、信長と戦い続けようとします。
前述の小笠原信定とは違い、この時も彼は死なず、その後、今度は朝倉勢のもとに行き、信長と戦い続けることになります。
朝倉義景と運命を共にしたのかどうかは、実ははっきりわかっていません。

ようするに、この時の三好勢とは、信玄と信長のどちらかに敗れて、逃亡した者たちの集まりだったということです。
またまた不吉な予感…。


◇京の幕府勢

この時に、京およびその周辺地域にいた幕府側の武将たちは、細川藤孝、三淵藤英、池田勝正、伊丹親興、荒木村重、細川藤賢ら、そして明智光秀です。
勝竜寺城には、ここまで信長の上洛作戦で活躍してきた和田惟政(わだ これまさ)が残っていました。
和田氏も、13代将軍 義輝からの幕臣ですね。

信長が京に残留させた織田軍のことは後で書きます。

ですから、もともとの幕臣勢、摂津国の有力武将勢、越前から離れた明智光秀、加えて若狭武田家の面々です。


〔若狭武田家〕

「若狭武田家」のことは、コラム「麒麟(41)湖を越えて」で書きましたが、義昭が奈良から脱出する時に頼ろうとしたのが、近江国の六角氏、斯波氏のかつての家臣の朝倉氏、そして、武田氏の流れの若狭国(福井県西部)の若狭武田氏です。

六角(佐々木)氏、斯波氏、武田氏は、昔から足利将軍家を守る重要な家臣たちの流れの武家です。
ですが、この三家(六角・朝倉・若狭武田)とも、各家のお家騒動やら、周辺国との関係で、義昭を支えて上洛することなどできません。

越前国(福井県東部)の朝倉氏は斯波氏の家臣でしたが、主君の斯波氏を倒し、隣国の若狭国(福井県西部)の若狭武田家の領地も狙っています。
若狭武田家当主は、朝倉氏のもとで人質となっています。
どうして、朝倉氏が若狭武田家を滅亡させないかは、次回以降のコラムで書きます。

近江国(滋賀県)の六角氏は、ここまでのコラムで書いてきましたとおり、この時点で、信長に手も足も出せません。

上杉謙信も、武田信玄も、朝倉義景も、信長と義昭の上洛作戦に協力するかたちで、動きませんでした。
毛利元就のことは、あらためて書きます。

* * *

この若狭武田家について少しだけ書きます。

室町時代の初め頃に、足利尊氏(たかうじ)が、甲斐国(山梨県)と安芸国(広島県)に派遣した有力源氏勢力が武田氏です。
安芸国(あきのくに / 広島県)のほうが本家です。
その後、広島の「安芸武田家」は、若狭国(わかさのくに / 福井県西部)に移転しました。
詳細は割愛しますが、要は、後に毛利勢となる連中に追われたということです。

若狭武田家は、一時、大きな勢力となりましたが、上洛直前の1568年8月に、隣国の朝倉義景に領国の支配権を奪われてしまいました。
ですが、若狭武田家は、いずれ、信長のチカラで、若狭国に支配権を取り戻します。
実は、朝倉義景の生母は、若狭武田家の娘です。

* * *

またあらためて書きたいと思いますが、信長が若狭武田家を大事に扱おうとしたのは、朝倉氏との敵対関係だけが理由ではないと個人的には感じています。

ともあれ、この若狭武田家の存在とその領国の位置(福井県西部)が、後の織田信長と朝倉義景の戦いに大きな影響を与えることになります。

大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、片岡鶴太郎さんが演じた摂津晴門(せっつ はるかど)が「武藤なにがし…」とフルネームさえ言ってくれなかった武藤友益(むとう ともます)とは、この若狭武田家の重臣です。
次回以降のコラムで、また書きます。


◇なにがし

時代劇ドラマなのに、「なにがし」とは、ちと可哀そう…、草葉の陰で泣いている。
いったい、どんな菓子…。
たしかに、鶴ちゃん(片岡鶴太郎さん)の「誰だそれ?」の気持ちも、わかりますが…。
名前の台詞…飛んじゃった?

個人的には、若狭武田家の存在は、今後の信長と朝倉義景の戦いや、この直後の「本國寺の変」に大きく影響を与えた重要な武家だと思います。
摂津晴門のほうが、「摂津なにがし」と呼ばれてもおかしくないのかも…。

でも、今回の大河ドラマ「麒麟がくる」で、摂津晴門を陰謀の重要な人物に描いたのは斬新な気がします。
さすがに、カッコいい谷原章介さんが演じる三淵藤英にさせるくらいなら、鶴ちゃんにということなのでしょうか。
今回の大河ドラマでは、鶴ちゃんは、鼻の頭を赤色にしていませんね…、ちょっと残念。
でも、あの口調は健在でうれしい。

ともあれ、若狭国(福井県西部)も、甲斐国(山梨県)も、武田家は、これからたいへんな「茨(いばら)の道」をたどります。


◇天下への道

個人的な意見ですが、この時期の戦国武将の中で、天下を取れる実力を持っていた武将は、上杉謙信、武田信玄、朝倉義景、毛利元就、そして織田信長の五人であったような気がします。
朝倉義景については、歴史ファンの方々の中には異論があるかもしれませんね。
私も少し迷うところではありますが、この時の状況から見ると加えてもいい気がします。
他の4名は異論はないと思います。
この時期は、豊臣秀吉、黒田官兵衛、徳川家康は、まだまだそこまでのレベルに成長していませんでしたね。

* * *

この五人は、今現代にたとえると、将棋界のトップ棋士たちの数名のようなイメージかなと感じます。
年齢も、実績も、戦術も、それぞれ大きく異なるトップの数名です。
藤井さんが信長なら、羽生さんは信玄あたりかな…。

実は、将棋の戦術や作戦は、戦国時代の武将の現実のそれとよく似ています。
武将たちは、将棋を学び、その戦術を現実社会に活かしていきましたね。

コラム「麒麟(27)桶狭間は人間の狭間(9)桶狭間は将棋盤」の中で、信長の将棋の師匠の「初代 大橋宗桂(おおはし そうけい)」のことを書きましたが、彼はその名の通り、無敵の「桂馬」の使い手だったそうです。
信長の強さは、この師匠にもあった気がします。
宗桂は、信長の死後、秀吉、家康と教える相手が変わっていきました。

今の棋士の藤井聡太(ふじい そうた)さんも、同郷で名まで似ていますね。
そしてまさに桂馬の使い手…。
信長は、敵に周到なワナを仕掛けまくり、さあかかってこい…、攻める時は怒涛の攻撃…、これも藤井さんの将棋を見るようです。

* * *

上杉謙信、武田信玄、朝倉義景、毛利元就、織田信長という、実力者五人の関係性については、次回以降のコラムであらためて書きます。

この五人の中で、誰と誰が手を組み、誰と誰が戦うのか…、それこそが、戦国時代末期の天下人競争のクライマックスへの道となっていきますね。
そこには、年齢や病気というハードルもありました。
さまざまかたちで、みな順番に世を去っていきます。

さあ、五人の棋士による、天下人トーナメント…どうなるでしょうか。


◇信長に協力した寺院

さて、「本國寺の変」とか、「本能寺の変」とか、妙に似た名前でややこしいですね。
まさに「妙」です。

この京の本國寺の前身は、鎌倉時代に日蓮(にちれん)が、鎌倉に建てた法華堂が、後に「本國土妙寺」と改名した、そのお寺です。
ですから日蓮宗には、「本妙寺」という名称のお寺も多くあります。
この鎌倉の「本國土妙寺」は、室町時代に、京に移され、室町幕府の庇護のもと大きくなっていきます。

コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」の中で、戦国武将と仏教勢力のことを書きましたが、1530年代頃の京周辺では、それぞれの仏教宗派どうしの大きな戦いが行われていた時期です。
信長が上洛する20~30年ほど前の状況です。

ごく簡単に書きます。


〔一向一揆 vs. 法華一揆〕

1400年代の終わり頃から、浄土真宗の本願寺勢力の「一向一揆」は、日本中の戦国武将たちと戦闘を起こし始めます。
「一揆(いっき)」とは、信徒たちの武力集団や、その武力行為を意味します。
武将の中には、彼らに支援を頼む者もあらわれます。
もはや頼んだ武将でさえも手に負えないほどの、大勢力に膨れ上がることも起きはじめます。

巨大武装化した一向一揆が、1532年、京に迫ってきます。

そこで、法華経の勢力(日蓮宗・天台宗の延暦寺)が協力しあい、対抗して「法華一揆」を組織し、武装強化し、さらにそこに武将の細川晴元が加勢し、一向一揆を撃退します。
京の「山科本願寺」勢力は、大坂に逃れ、「石山本願寺」勢力となります。
比叡山延暦寺や、日蓮宗勢力は、その後も武装化を続けます。

* * *

ごくごく簡単に書きますが、奈良の古式の仏教界の日本に、新しいタイプの仏教「密教」の二大勢力(空海の真言宗〔高野山〕、最澄の天台宗〔比叡山〕)が持ち込まれ、さらに枝分かれしていきます。
天台宗から、日蓮が日蓮宗を、法然が浄土宗を生みます。
浄土宗から、親鸞が浄土真宗を生みます。
この浄土真宗の中心が本願寺で、「一向一揆」という勢力を生みます。

この時代は、仏教宗派勢力も、戦国武将並みの武力を持ち、その兵数たるや、その辺の武将軍団をはるかに上回っていました。

一方、それらの宗派とは別に、武家の多くは、いわゆる「禅宗」…栄西が伝えた臨済宗を信仰していました。
禅宗には、道元が伝えた曹洞宗もあります。こちらは、どちらかというと武家以外の者たちの信仰です。

それぞれの宗派の教えは、みな異なりますし、背景や信者層も異なります。
いつの時代もそうですが、宗派対立が起きます。

その対立の中で、それぞれの宗派勢力は、武装化という方向に走り出します。
きっかけは、地震や飢饉などの災害による貧困、その地域の権力者の圧制への反発など、さまざまです。
ここでは、詳細は割愛しますが、コラム「麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)心頭滅却」で、その状況や、信長と仏教の関わりを、少しだけ書いています。

* * *

日蓮宗には、妙顕寺(みょうけんじ)という有名な大本山が京にあり、全国各地に同名のお寺が造られます。
京には、他に、本國寺や本能寺などの主要な本山のお寺もあります。

後に、特に本能寺は、武装化を進め、まさに軍事要塞化していきます。
その強大な軍事施設に目をつけたのが、信長です。


〔本能寺がほしい〕

もともと信長は日蓮宗の信徒です。
どれほどの信仰心だったかは、よくわかりません。

信長は、戦争の際に、各地の日蓮宗系のお寺を利用したことも少なくありません。

信長は、鉄砲などの新兵器類を必要としていたこともあり、京の本能寺は欲しい軍事施設であったのは確かだと思います。
日蓮宗信徒が多く暮らす種子島から入ってくる鉄砲を、手中にしたいと思っていたことでしょう。
本能寺と、商業都市の堺を手に入れたら、それは鉄砲が入手しやすくなりますね。


〔天台宗 vs. 日蓮宗〕

さて、日蓮宗は、天台宗から生まれてきたと書きました。
天台宗と日蓮宗は、同じ法華経を中心とする宗派ですが、内容は異なります。
天台宗の総本山は、比叡山延暦寺です。
延暦寺は、京で大きな覇権を持っており、浄土真宗の「一向一揆」が京に迫って来た時は、日蓮宗と協力して撃退しました。

ここで、室町幕府が、強大になりすぎた法華経勢力を分断させる戦略に出ます。
天台宗と日蓮宗を敵対関係にさせ、軍事衝突させます。

天台宗の延暦寺の武装勢力は、京にある日蓮宗の多くの寺を焼き討ちし、その者たちを京から追い出します。
その後、幕府が仲介し、日蓮宗は京に戻ってきます。
とはいえ、両者の戦いの火が消えたわけではありません。

* * *

そして、日蓮宗にとって、最大の味方の信長が京にやって来るのです。
本國寺だろうと、本能寺だろうと、どんどん使ってくれ…ですね。

それ以外の各宗派も、この頃の信長に敵対することなどできません。
信長支援に回り始めます。

信長の上洛作戦時に、重要な役割を果たした京のお寺は、日蓮宗の本國寺と本能寺…、足利将軍家の大切な禅宗である臨済宗の東福寺…、真言宗(高野山)の京の拠点の東寺…、奈良の興福寺と並ぶ古式の法相宗の清水寺などです。
浄土宗の知恩院も信長に味方します。


◇信長といずれ戦う寺院

信長にとって、問題は、日蓮宗の宿敵の比叡山延暦寺となります。
それに、大坂に逃れた、あの浄土真宗の本願寺の大勢力「一向一揆」です。
そして、ある意味、武田信玄をはじめとする源氏勢力の武家の心の支えである「禅宗」も目ざわりな存在です。


〔本願寺と仲間たち〕

前述のとおり、浄土真宗の本願寺は、すでに京から大坂に逃れています。

実は、本願寺勢力が畿内で勢力を拡大できたのは、三好氏との深い結びつきがあったためです。
本願寺の「一向一揆」が、京の山科から、三好氏の拠点である大坂の石山に逃れたのはそのためです。

戦国武将どうしの敵対関係と、仏教宗派どうしの敵対関係は、結びついています。

* * *

ちなみに、大河ドラマ「麒麟がくる」でも、いずれ信長と死闘を繰り返す、大坂の石山本願寺の「顕如(けんにょ)」が登場してくるのかもしれませんが、顕如の奥さんが如春尼(にょしゅんに)で、この女性の姉が、武田信玄の継室(後妻)の「三条の方」です。

如春尼は、近江国の六角義賢の猶子(ゆうし)となってから、顕如のもとに嫁いでいきました。

ですから、顕如にとって、武田信玄は義理の兄、六角義賢は義理の父となります。
そして顕如と如春尼の間の息子である教如(きょうにょ)は、朝倉義景の娘と結婚します。

つまり、本願寺を真ん中に、武田信玄、朝倉義景、六角義賢、三好三人衆がつながっているということです。
信長の対抗勢力がまとまる環境がそこにあったということです。

中国地方で「一向一揆」が武力行動をほとんど起こしていないのは、毛利元就が、本願寺側に割とあたたかい対応をとっていたことが大きかったようです。
上杉謙信、朝倉義景は、一向一揆に手を焼きます。
武田信玄は、一向一揆を味方にし、軍事作戦に彼らを使いまくります。

何と、後に、信長と本願寺の戦いの和睦仲介をするのが、この時にいったん失脚した公家の近衛前久(このえ さきひさ)です。
野心家のあの前久です。
これが「本能寺の変」の2年前です。

ここに登場した面々の名前…信玄、義景、義賢、三好三人衆、前久、そして顕如…、信長からしたら絶対に結びついてほしくないですね。

それにしても、本願寺は、ものすごいチカラがありましたね。
本願寺の顕如(けんにょ)は、日本各地に有力な武力集団をかかえる戦国武将のように見えてきます。


〔東西の本願寺〕

ちなみに、徳川家康は、日本最大勢力の浄土系の宗派と、禅宗を味方にし、大切に庇護し、基本的には多くの宗派間抗争を上手くコントロールします。
江戸幕府内にも、一定の宗派バランスをつくります。
そうしないと、全国にいる各宗派の武将など管理統率できませんね。

ただ、あまりにも巨大なチカラを保持する浄土真宗「一向一揆」の大本山の本願寺だけは、本願寺内の内部抗争を利用し、東と西に完全に分断させました。
家康が分けたということではなく、ひとつの本願寺にしなかったというのが、より正確なのかもしれません。
少なくとも、本願寺側から見たら、そうだったのかもしれません。

実は、この如春尼こそ、顕如の死後に、本願寺の内部抗争の元を作った人物です。
前述の教如は長男で、秀吉は彼を顕如の跡継ぎにしようとしますが、如春尼が三男の准如(じゅんにょ)を後継者にするよう掛け合い、この准如が後継者に決定されます。

長男の教如は、かつて父の顕如から勘当されていましたが、許され戻ってきた人物です。
母の如春尼によって、後継者の座を追われた教如ですが、ここには、石田三成と千利休の抗争が背景にあり、石田三成の陰謀で准如が後継者になったともいわれています。
三成の数多くの陰謀のひとつですね。
彼なら白々しく言うでしょう。
「すべては、豊臣家の御ため…」。
たしかにそうでしょうが、本当は自分のためでしょう。

追われた教如は、三成の暗殺計画からも逃れ、今度は家康に近づき、「関ヶ原の戦い」で家康の東軍側につきます。
一方、准如は、石田三成の西軍側につきます。
家康が勝利し、天下を取った後も、家康は、教如派と准如派の二つの派閥に分かれた本願寺を、あえてひとつにまとめることをせずに、東本願寺を教如に、西本願寺を准如におさめさせます。この寺院名は後の通称です。

家康も言うでしょう。
「すべては、本願寺のため…、浄土真宗のため…」。
本当は、徳川家と江戸幕府のためでしょう。

家康自身は、キリスト教にも寛大でしたね。

宗教が絡むと、その戦いは相当に激しく長くなり、苦労することを、信長と秀吉の姿を見ていて、家康は実感したのだろうと思います。
武将たちにとって、仏教宗派勢力は、悩みの種でしたね。


〔その他の敵対寺院〕

比叡山延暦寺は、この時の信長の上洛作戦には、特に協力しません。
そのことは、あらためて書きます。

先ほど、武田信玄や朝倉義景が、日蓮宗の本願寺とつながっていたことを書きましたが、この二人は、天台宗の比叡山延暦寺とも、着々と、関係性を築いていきました。

基本的に、日蓮宗と天台宗は宿敵どうしですので、つながることはできませんが、天下を狙うような戦国武将は、仏教勢力を味方につけたり、協力してもらうことは、絶対に不可欠なことだったと感じます。

* * *

信長は、後に、天台宗の比叡山、真言宗の高野山、浄土真宗の本願寺、臨済宗の恵林寺などと、激しい戦いになります。
個人的には、仏教勢力の敵が多過ぎる気がします。
もう少し、信長が柔軟な対応をとっていたら…。
信長が、せめて天台宗の比叡山を味方にできていたら、その後の状況は相当に違ったでしょうね。
武田信玄と朝倉義景は、それを阻止したということですね。

大河ドラマ「麒麟がくる」の中で、明智光秀が言っていましたね。
「つまるところ、金では…」。
この台詞…ちょっとショック。

戦国武将たちは、仏教宗派の持つ軍事力と、その門徒の数の多さを欲しいと思ったのでしょうが、安易に宗派抗争に入り込むと、たいへんなことになります。
「これ以上、政治や軍が、宗教や思想に入り込むと、ヤバいよ…、ヤバいよ…。包囲網に発展するぞ!。でも味方にはつけたい」ですね。
現代もまったく同じです。


◇義昭が危険を察知

さて、足利義昭が将軍に就任し、本國寺から細川邸へ、そして本能寺に移ったのは、何かの思いがあった可能性もあります。

ただ、1568年12月頃の、三好勢の阿波国(徳島県)から畿内への帰還と反撃を見て、まだまだ武力でひ弱さを持つ本能寺ではヤバい…と感じたのでしょう。
より防御力が高く、広い本國寺に戻っていきます。
とはいえ、城とは雲泥の差です。

* * *

この翌年の1569年1月に、三好勢が京に攻め込んできますから、間一髪で間に合いました。
そのまま本能寺に残っていたら、相当にヤバかったと思います。
その時に、明智光秀は、将軍の警護役のひとりでした。

もし、この時に、足利義昭も、明智光秀も討たれて亡くなっていたら、その後の歴史は激変していましたね。

でも、本当に三好勢は、信長の主力軍が留守とはいえ、京に攻め込むなどという無謀な決断をするのでしょうか…?
何か変…。


◇岐阜で着々と準備

先ほど、信長が10月末頃に、岐阜に戻ったことを書きました。
1568年11月から12月までの状況を、もう少し書きます。

* * *

実際に、三好三人衆は、松永久秀が信長のいる岐阜に行っている間に、畿内に反撃のため戻って来ます。
久秀の留守を狙ったかたちです。

再び時系列に書きます。

10月26日:信長が岐阜城へ帰城します。
京には、木下藤吉郎秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、村井貞勝(後の京都所司代)ら、5000の兵を京に残してきました。
明智光秀は、義昭の直属の幕臣として、京に残ります。

10月28日:松永久秀が信長に人質を送ります。

10月末:義昭が本能寺(ほんのうじ)に移ります。
前述のとおり、12月末頃には、本國寺に戻ります。

11月に入ると、松永久秀は、三好勢の中からの家臣の寝返り工作を本格化させたと思われます。

11月、信長は、徳川家康とさまざまなやり取りを行います。
おそらくは、12月になってから動き出す武田信玄の動向や、今川氏の残党勢力についての相談が多くあったと思います。

11月、義昭は、関白の近衛前久(このえ さきひさ)を薩摩国(鹿児島県)に追放します。
義昭は、兄の13代将軍義輝の死に、この前久と松永久秀が首謀者だと考えていたと思われます。
個人的には、おそらくその通りだと思います。


〔二条晴良〕

この近衛前久に替わり、関白に返り咲き、公家の頂点に立ったのが、二条晴良(にじょう はるよし・はれよし)です。
晴良は、かつて関白を辞めさせられていましたが、この前年の1567年に、信長と義昭のチカラで関白に返り咲いています。
晴良は、藤氏長者(公家の藤原氏一族のトップ)にもなります。
晴良の関白のもとで、義昭は将軍になったということです。
彼は、この後、もうひとつ大仕事をし、その役割を終え、信長にとっては用済みとなります。

* * *

この時点で、信長と義昭は、この二条晴良に、さほどチカラを与えていない気がします。
翌年の1568年12月16日になって、やっと、二条晴良に正式な関白再任宣下が行われたようです。

もともと、義昭は、古くからの公家たちを信用しているとは思えません。

政務を取り仕切る、他の誰かがいる気がしますね。
誰かが、政務を握っていたのかもしれません。
摂津晴門(せっつ はるかど)が、どの程度の役割を果たしていたかは、私はよくわかりません。

だいたい、二条晴良も摂津晴門も、まあその名に似合わない「晴れ男」たちです…。

個人的な想像ですが、信長は公家どうしの抗争を利用しながら、公家のチカラをコント―ル下に置こうとしたのかもしれません。

* * *

一方、京では、「正親町(おおぎまち)天皇」が、義昭にさまざまな指示を出しますが、義昭はなかなか応えようとしません。
ですが、義昭自身のお願いは、朝廷に通そうとした印象を受けます。
弟(義昭)も、兄(義輝)の失敗の轍を踏むのか…。

天皇が信頼を置く信長は、遠い岐阜にいましたね。


◇信長は、年初あたりに…

この11月に、信長は、岐阜から、さまざまな武家や寺からのお願い事に、多くの処断や支援を行っています。
ただ、そこには信長からの多額の金銭要求もあったものと思います。
「守ってやるから、金を出せ」。

松永久秀や、和田惟政は、その軍事力もあり、信長に代わって、多くの政治的な行動を畿内で行っています。

* * *

先ほど、信長は、木下藤吉郎秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、村井貞勝(後の京都所司代)ら、5000の兵を京に残してきたと書きましたが、この11月にはまだ京に駐留しています。
実は、この織田軍は、翌年の2月頃に、信長が京に戻ってくる計画を知っているのです。
信長は、最初から、ある段階で京に確実に戻る予定だったということです。


◇今後の戦闘の準備

12月に入っても、信長と家康は、信玄対策をかなり詰めていたようです。
また、信長は、さまざまな政治的な処断を多くこなしていきます。

その中に、商業都市の堺を牛耳る豪商で、茶人の今井宗久(いまい そうきゅう)に関する、ある一件があります。

コラム「麒麟(45)明暗の城」で、信長の「名物狩り」のことを書きました。
そこで、今井宗久が後に名茶器を献上したと書きましたが、ひょっとしたら、これには何か裏があるのかもしれません。
そうであれば、信長の政治力の巧みさを示す一例かと思います。
はじめから、信長は名茶器が目当てであったわけではない気がします。

この12月のある一件は、後の織田信長と朝倉義景・浅井長政の何度もの戦いに大きく関わる内容だと、個人的には思っています。
そうでなければ、信長自身が、わざわざ関わるような一件ではないと思います。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、明智光秀が主人公ですので、光秀が特に関わらない部分は、ほぼ描かれることはありません。
ですから、この11月から12月の信長の行動は、ドラマ内で一切触れられていません。

1568年の9月から10月にかけての信長の上洛作戦の成功直後の、この11月と12月は、信長が、次の大きな二つの戦闘に向けて、着々と準備やワナを仕掛けていた時期だと、個人的には思っています。

信長は、1560年の「桶狭間の戦い」の前も、ものすごい入念でち密、まさかのような陰謀と準備を張りめぐらせましたが、今回も、そこまでのレベルでなくとも、敵側にワナを仕掛けていったと思います。

* * *

光秀は、義昭に近い幕臣でしたので、この時の信長の作戦については承知していないと思います。

これは、次の三好勢との戦いと、さらにその後の朝倉勢との戦いの準備と考えられます。
それにしても、信長の秘密裏の地道な準備には驚かされます。

ただ、「桶狭間の戦い」の時とは、何かが違っています。
この、今井宗久の一件のお話しは、次回のコラムで書きたいと思います。


◇三好勢を誘い出せ?

再び、1568年12月から時系列に書いていきます。

12月:義昭が、本能寺から本國寺(ほんこくじ)に移ります。

12月初旬:松永久秀が、大和国(奈良県)の有力豪族の越智氏と戦い苦戦します。
こんな相手に…、何か妙です。
それに、周囲の大勢が、この苦戦情報を知り過ぎです。

12月24日:松永久秀が、岐阜の信長のもとを訪れます。

12月28日:松永久秀の命で、池田丹後守メシアン(キリシタン大名)や寺町氏らが守っていた家原城(大阪府堺市)が、三好三人衆に攻め落とされます。
攻撃したのは、「三好三人衆」である、三好長逸、岩成友通、三好政長の軍勢です。
何か妙な感じがします。

* * *

信長のことですから、畿内一帯に情報網を張りめぐらせてあったでしょう。
三好勢の動きを、逐一(ちくいち)つかんでいないはずはないと思います。

信長は、いろいろなパターンの展開を予想して、さまざまなプランを立てていたのではないでしょうか。
個人的には、信長は、この時期に、三好勢を畿内に誘い出したのかもしれないと思っています。

おそらく、信長は、三好勢の動きを察知して、12月に松永久秀を岐阜に呼び寄せておいたのかもしれません。

12月初旬ごろから、松永勢が三好勢にあえて弱みを見せ、摂津国(大坂南部)の幕府方の城をあえて手薄にしたのかもしれません。
「三好三人衆の皆さん、久秀は奈良にいないので、どうぞ阿波国から畿内に戻り、反撃を始めてください」…と言わんばかりに感じます。

戦国時代の武将たちの作戦として、こうしたことは山ほどあります。
ひょっとしたら、信長の予想よりも早く、三好三人衆がすぐに動き出したのかもしれません。
もし、この作戦であれば、久秀もそれを把握していたと考えられます。

三好三人衆は、しっかり作戦をたてたのでしょうか…?

* * *

あるいは、こうも考えられます。

松永久秀という武将は、いつ何時、信長を裏切るかわかりません。
久秀が加わらない三好勢だけなら、それほどの勢力ではないと信長は考えたかもしれません。

信長のことですから、京周辺にいる幕府側の兵力と、反撃してくるであろう三好勢の兵力比較をしないはずはありません。
三好勢だけが相手なら、京の幕府勢だけで互角の戦いができると考えたかもしれません。

何より恐ろしいのは、三好三人衆に松永久秀が加わり、そこに越前の朝倉勢が加勢することです。
近江国で動きを封じておいた六角氏も、そこに加わる可能性も十分にあります。

まずは、久秀を岐阜に呼び寄せておいて、三好三人衆に蜂起させ、三好勢単独軍を叩くという作戦だったのかもしれません。

信長は、宿敵の斎藤龍興が三好三人衆勢に加わっていることも、百も承知だったはずです。
この際、龍興の息の根を止めることも考えたかもしれません。

* * *

もし京で、義昭が三好勢に討たれたら、その時は、京に戻って三好勢と全面戦争すればいい…。
松永久秀は手元にあります。
もし義昭が討たれたら、その時は、その時…、手間が省けます。
義昭が討死しても、信長の京での権勢に、影響はさほどでないとも感じます。
天皇は、もはや将軍よりも信長寄りです。

* * *

どちらにせよ、久秀を自身の手元に置いておいたら、三好三人衆は、自分たちだけで蜂起反撃に出るはず…と信長は予想していたのかもしれませんね。
この雪の時期に、朝倉勢が、大雪の積もる越前国(福井県)から、無理して畿内にやって来るとは思えません。

「まずは、三好勢に手を出させてみるか…。
事の状況を見て、オレは少人数で京に一番で入る。」
こんな作戦も考えられます。

信長という武将の作戦は、いつも、局面に応じて対応を変えることができる戦術でしたね。


◇先制攻撃

戦国時代に限らず、戦時での奇襲や先制攻撃には、実は相手の術中にはまり、攻撃させられてしまうということがあります。
相手は、それを、じっと待っています。
相手は挑発もしてきませんので、騙されるほうは、自身の意思や作戦だけで先制攻撃したと思っているのです。

信長は、あえて敵に弱みを見せ、久秀を岐阜に呼び寄せ、三好勢に「留守」という絶好の機会を与えたとも考えられます。
信長のこれまでの戦法から考えると、いつものことのようにも感じますね。

ここまでは、あくまで個人的な想像ですが、信長が、義昭の将軍就任後すぐに、京を手薄にして離れた理由は、さまざまに考えられます。
大河ドラマ「麒麟がくる」の第28回「新しき幕府」でも、義昭は泣きそうな表情で、信長に叫んでいましたね。
「岐阜になど、戻ってくれるな…」。


◇本國寺の変

ここからは、再び、時系列に書きます。

1568年12月24日:松永久秀が大量のクリスマスプレゼントを持って、岐阜城の信長のもとにやって来ます。
「織田殿…、西洋のクリスマスをご存じか…」とかなんとか…。

12月28日:松永久秀の命令で、池田丹後守メシアン(キリシタン大名)や寺町氏らが守っていた家原城(大阪府堺市)が、三好三人衆に攻め落とされます。

* * *

年明けの1569年1月4日:三好勢は京の東福寺周辺に陣をはります。
1万の兵力という説もありますが、よくはわかりません。

三好勢が、京の市中にある幕府側の各地の軍事拠点を放火したため、義昭ら幕府勢力は、本國寺に立てこもります。
前述したとおり、幕臣たちや若狭武田家の武士たちが本國寺で守りを固め、「籠城戦(ろうじょうせん)」を決断しました。
この中に、幕臣の明智光秀がいました。
2千程度の兵力といわれています。
結構、不利な状況ですね。

* * *

1月5日:三好勢は本國寺に攻撃をかけますが、幕府側が強力に防戦し、持ちこたえます。

これには、どうも、他の寺の日蓮宗僧侶による陰謀工作が行われたようです。
僧侶らは、幕府側の味方が助けに到着するまでの時間稼ぎのため、三好勢に本國寺の消滅につながるような攻撃をやめるように説得し、三好勢はなんと攻撃を中断します。
なんという三好勢の攻撃プランの甘さ…。

ひょっとしたら、僧侶たちは、何か別の、もっと強力なニセ情報を三好勢に与えたのかもしれません。
攻撃の中断とは、よほどの内容に感じます。

* * *

1月6日:細川藤孝、池田勝正、伊丹親興、荒木村重、細川藤賢、そしてあの和田惟政が、京に到着し、三好勢に各方面から猛攻撃をかけます。
前述しました三好勢の小笠原信定が討死にします。
三好三人衆は、あっけなく撤退します。

この同日中に、この事変の知らせが信長に届きます。
1月4日に伝令が出発したとしても、この大雪の中、早い…早すぎる。
もしかして、のろしの伝達か…?

* * *

1月10日に、信長は、松永久秀を連れて、数名ほどで京にやって来ます。
相当な大雪が降り積もる中、本当に岐阜からやって来たのかと言いたいほどの日数です。

信長は、三好勢を撃退した幕臣たちに、こんなことを言ったかもしれません。

「よくやった。しかし本國寺では、守りが手薄じゃ。
京の真ん中に城を造るぞ。
本國寺を解体して、早急に完成させろ」。

本國寺は、信長が寺の解体をしないように、松永久秀に進言を頼みます。
信長が、聞き入れるはずはありません。
久秀だって、強く言えるはずもありませんね。

「信長様にそんなこと言ったら、高いクリスマス・プレゼントが台なしだ…」。


◇見事な籠城戦

それにしても、この本國寺での立てこもりは、まさに「籠城戦(ろうじょうせん)」の見本ですね。
歴史上では、籠城戦で勝利することは、そうそうありません。

本國寺の古図を見ると、一部で敵の侵入まで許しているのに、よくこの寺で持ちこたえられたものだと感じます。
戦闘と交渉…、見事な籠城戦での勝利がここにありましたね。
幕臣たちの能力の高さを感じます。
その中には、光秀もいましたね…。

この籠城戦では、あの若狭武田家の武士たちが、相当に活躍したようです。

とはいえ、義昭は、1月5日の夜は、気が狂いそうなほど怖かったでしょうね。
おそらく、本國寺の全員、眠っていないでしょう。

「味方は、まだか…。待っていれば、来てくれるのか…」。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、義昭と光秀が、妙に暗い地下室に隠れて、話しをしていましたね。

* * *

戦国時代は、「時間かせぎ」を成功させられる武将たちが勝利する…、これは紛れもない事実だと感じます。
戦国時代の武将たちの戦い方を見る時に、この「時間かせぎ」に注目すると、その作戦が見えてくることがあります。
勝敗を左右するのは…タイミング。
今現代の国内外の政情を見ても、そうかもしれませんね。


◇何か変

さて、この戦いの流れ…、あくまで個人的な印象ですが、何か変です。
日本史の中には、たくさんの「〇〇の変」がありますが、たいがい、みな何か内容が変です。

史料の表文だけを読んで、たいがい、「そうですか」と納得できません。

結果的に、この茶番のような戦闘劇は何だったのでしょう。
やけに、奇襲したほうの三好勢の兵が死んでいます。
何か変…。

巧妙な返り討ち…か?

* * *

信長は、岐阜に帰還する際に、秀吉や信盛などの5000の兵を京に残していきました。
実は、この兵たちが、この直前頃に尾張美濃に帰還したというのですが、本当でしょうか…?
この兵が、本國寺にすぐにやって来れば、三好勢など軽く一蹴できるはず…。

信長と久秀が、わずか数騎あまりで、岐阜から、不穏な京に入ることなどあるのでしょうか…?
もし三好勢と鉢合せしたら…。

この時期の大雪で、兵の中には凍死した者もいます。
こんな時期に岐阜方面に向けて5000の大軍を動かすでしょうか…?

たしかに京の近くに織田の5000の精鋭部隊がいたら、三好勢が京に入るはずはありません。
三好勢を京に引き込むには、この織田の5000の兵は京にいるわけにはいきません。
近江国や大和国のどこかに、この大軍を、いざという時のために隠しておくことは可能であろうと感じます。

それなら不穏な京に、信長が数騎の家臣だけで入るのもわかります。
幕臣たちや摂津国勢、松永勢、和田惟政だけでは、あまりにも信長の身が不安です。

この「本國寺の変」の戦闘を、幕臣や摂津国勢たちだけで行わせたい理由が、信長にあったのかもしれませんね。
何か、わかっていないか、隠された信長の作戦があったような気がしてなりません。

さらに、信長には、三好勢に京で事を起こさせたい理由が他にあったのかもしれません。


◇信長の戦術

信長がどこまで、この展開を予想し、あるいはコントロールしたかはわかりません。

この「本國寺の変」の勝者は、その後の結果を見ても、信長だったのは確かです。
「桶狭間の戦い」を見ても、信長は、「時間かせぎ」、「時間づくり」の天才でしたね。

実は、信長の戦術とは、敵をも陰謀や作戦で動かすことができる…、そこに強さがありましたね。

* * *

武田勝頼が信長に敗北した「長篠の戦い」でも、有能な武田軍の武将たちは、信長のワナがあることがわかっていて、さらに大将の勝頼がその選択しかしない、いや、それしか選択できないことまで、信長が読み込んで戦術を立てていることに驚愕したであろうと思います。
それに気がつくにの何時間もかかり、犠牲も山のように出してしまいます。

信長の作戦は、たいがい本人と一部の人間しか知りません。
近臣の家臣でさえ理解できないのに、敵側がそれを読むのは、たいへんなことだと感じます。

この戦国時代に、信長の作戦を、先に見破れる敵の大将は、そうそういなかったと思います。

* * *

今回はすべて、信長の思惑どおりの展開だったとしても不思議はない気もします。

信長の上洛作戦と、その後の「本國寺の変」、そしてまさに自身の城である二条城…、これは、ひとセットのプランだったのかもしれませんね。
おまけに、義昭は信長に、もう足を向けて寝ることなどできませんね。
ここまでは、完璧な信長のプランだった気がします。


◇信長の二条城

この後、信長は、正々堂々、京の街のど真ん中に、将軍を守ることを理由にして、巨大な軍事拠点「二条城」を造ることができましたね。

本國寺を解体し、その建築部材などを、すべて二条城の築城にあてます。
日蓮宗がクチごたえなどできるはずはありませんね。
「本能寺をより強化するから、それがあればいいじゃないか…」。

1569年4月14日には、完成した二条城に義昭が入ります。
これは今の京都の徳川の「二条城」とは別の城です。

コラム「麒麟(36)朽ちない将軍」で、13代将軍義輝が、京の御所に隣接する場所に「二条御所」という防衛用の城を造った話しを書きました。
義輝は、この二条御所の完成直前のスキを狙われましたね。
信長は、この「二条御所」をより強化拡大させたかたちで築城したのです。
今回の建物は、まさに戦国の城を思わせる、堅固な城塞でした。

1月10日に、京に信長が入ってから、わずか三カ月ほどで完成です。
このスピード感は、すご過ぎます。


◇信長のここまでの軌跡

ちょっと信長の軌跡を、1556年以降、少し振り返ってみます。
上杉謙信と武田信玄のことも、関連して非常に重要ですので、少しだけ加えます。

1556年8月、稲生の戦い。信長は、敵側の織田信行(信勝)、柴田勝家、林秀貞を赦免。
1558年11月、信長が、弟の信行を暗殺。
1559年、信長が別の織田一族の岩倉城を陥落。織田一族と尾張国を平定。

1560年5月、「桶狭間の戦い」で、今川義元を討つ。
1560年6月、西美濃侵攻。斎藤義龍に敗戦。

1561年、西三河攻略。家康を絶対的に服従させます。
1561年から1568年までの約7年間、美濃国の斎藤龍興と断続的に戦闘。斎藤側の軍師「竹中半兵衛」に相当に苦戦させられます。

1562年1月、家康と清洲同盟。
1563年、小牧山城を拠点に。

1564年、上杉謙信と親交。姻戚関係を持ちかけますが成功せず。「濃越同盟」成立は1572年のこと。謙信は武田信玄と「第五次川中島の戦い」の最中。武田信玄の飛騨国(岐阜県北部)への侵攻を謙信が阻止。
この時、謙信が阻止してくれなかったら、信長の運命は…。

1565年、信長は姪を養子(後の龍勝院)とし、武田信玄の息子の勝頼に嫁がせます。信長の長男の信忠には、信玄の娘の松姫(後の信松尼)が嫁ぎます。この同盟関係は、後の1571年「比叡山焼き討ち」で破綻します。

1567年、信長の妹の「お市」が浅井長政に嫁ぎます。
1567年7月、浅井長政と同盟。
1567年8月、「稲葉山城の戦い」で勝利(斎藤龍興は敗走)。美濃国奪取。西美濃三人衆を配下に。竹中半兵衛は秀吉配下に。岐阜城を拠点に。
1567年、駿河国の今川氏が、甲斐の武田氏に経済封鎖(塩留)開始。信玄は武力で駿河国の海の奪取計画をたて始めます。

1568年2月、信長は、北伊勢に本格侵攻し攻略。神戸氏を配下に。
1568年9月、義昭と上洛開始。
1568年9月、「観音寺城の戦い」で六角親子を封じ込め。
1568年9~10月、勝竜寺城・芥川山城・池田城を陥落(三好勢が阿波国に敗走)。
1568年12月、武田信玄が駿河国に向け出発。

1569年1月、本國寺の変。

信長は、ここまでに、美濃国、西三河、北伊勢を制圧し、義昭との上洛を成功させました。
とはいえ、上杉謙信と武田信玄には、相当な気の配りようです。

* * *

信長は、上洛後、これからの朝倉氏との戦いに備え、義昭とともに、とにかく謙信と信玄の調整に全力を注ぐことになります。
信長に限らず、この時代の戦国武将のほぼすべてが、この二人の動向に左右されるといってもいいのかもしれません。

あの謙信でさえ倒せない…信玄。
あの信玄でさえ倒せない…謙信。
この二人の戦い方と強さは、ちょっと尋常ではありません…。

とにかく、この二人とは今は戦いたくない…それが信長の本心だったと思います。
そうなれば、まずは、古くからの宿敵の朝倉氏打倒ですよね。
その前に伊勢国の制圧。

* * *

朝倉義景にとっては、武田信玄が味方になってくれたら、信長など一蹴できるのにといったところ…。
毛利元就は、東国の強大な二人(謙信・信玄)とは少し距離が遠いので、信長に猛アプローチをかけ始めます。

そろそろ、この五人に絞られたか…?

今現代の政治家の動向の、おそらく数倍は早い速度で、戦国武将たちは動いていた感じがしますね。
それは、そうでよね。
まさに一族郎党、家臣、領民の命がかかっていますから…。

信玄からしたら、「今川のやつら…経済封鎖だと。自慢の味噌で、ほうとう作れないじゃないか!。相手の挑発だろうが何だろうが、駿河の海を奪いにいく…」。


◇信長の城

信長の話しに戻します。

「本國寺の変」…、個人的には、やはり「変」なことが多過ぎます。

どこまでが信長の作戦なのか…、誘導陰謀なのか…、どこからが敵の行動なのか…、よくわかりません。
信長の戦法とは、若い頃から、こうしたものです。

結局、最終的に信長の叫びとは、
「京と将軍と朝廷は、オレのものだ!」。

* * *

前述のとおり、京のど真ん中に、信長の城「二条城」を築城するために、本國寺は解体され、その部材や調度品などがすべて築城に使用されます。
この城は、信長自身のための城であって、義昭のための城であると信長が思っていたはずがありません。

だいたい、戦国武将が他人のために、善意で城など造りませんね。


◇「本國」から「本圀」へ

解体された本國寺は、後に徳川家康が再興してくれました。

「ここは、ひとつ水戸の徳川光圀さん支援してあげてよ…。
本國寺の本来の「國」の文字を、光圀の「圀」の文字に変えるからさ~」。

「本國寺」は「本圀寺」と漢字表記が変わりました。

* * *

明智光秀は、この「本國寺の変」の頃は、すでに40歳台のはずです。
光秀ほどの頭脳をもってすれば、信長の戦略の全体像を理解したかもしれませんね。

信長から見て、この「本國寺の変」で、唯一、想定が狂ったとしたら、「また斎藤龍興を取り逃がしたか…」でしょうか。
義昭の命について、信長がどのように考えていたかは、わかりません。

これから信長が迎え撃つ敵は、三好勢のような、甘い武将たちではありません。

相当に注意しないと、たいへんなことになります。
くれぐれも、「策士(さくし)、策におぼれる」ということのないように…信長さん。

* * *

次回コラムは、前回の「九十九髪茄子(つくもかみなす)」に続き、前述しました今井宗久の名茶器のお話しを…。
この茶器は、甲斐国(山梨県)の武田信玄ではなく、若狭国(福井県西部)の若狭武田家に関係した茶器です

信長の次の狙いは朝倉氏…、さあ若狭武田家をどう使う?

「甲斐の信玄さんは、くれぐれも静観しててね。あなたは駿河の海が欲しいんでしょ…」。

「なんだと…、堺に、若狭武田家の関係者がいるのか…」。
「武野(たけの)なにがし…」。
「ワシ(信長)のところに宗久をすぐに連れて来い! 早急にだ!」。

* * *


コラム「麒麟(48)若さの至り」につづく。

 

2020.11.22 天乃みそ汁

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