NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長と今川義元の「桶狭間の戦い」。比叡山延暦寺と本能寺。恵林寺の焼き討ち。快川紹喜。心頭滅却すれば火もまた涼し。仏教と戦国武将。本願寺と一向一揆。本能寺の変。家康と駿府。家康の今川家供養。

 

 

麒麟(29)桶狭間は人間の狭間(11)
「心頭滅却 (しんとうめっきゃく)」


前回コラム「麒麟(28)桶狭間は人間の狭間(10)陰謀網」では、織田軍の大陰謀、複雑な人間関係の今川軍、武田軍崩壊の陰謀、対抗勢力の恐ろしさ、桶狭間の謎の寺などについて書きました。

今回のコラムは、桶狭間の謎の寺のことの続きや、戦国時代の仏教宗派の抗争、武将と仏教の関係性などを中心に書きたいと思います。

私は、テレビであまり時代劇ドラマを見ない方々から、どうして時代劇の中で、戦国武将の隣に相談役のようなかたちで僧侶がいるの…、どうして僧侶が武器を持って武将たちと戦っているの…とよく尋ねられます。
今回のコラムで、そのあたりを少し書いてみたいと思います。


◇仏教と戦国武将

前回コラムの最後部で書きました、桶狭間にあった謎のお寺の続きを書く前に、戦国時代の武将たちの抗争と深いつながりを持つ、多くの仏教宗派どうしの抗争のことを書きます。


〔仏教の変遷〕

日本には飛鳥時代頃に、中国から仏教がもたらされましたね。

人は修行によって、数々の苦しみから脱し、その魂は永遠のものとなる…、かなりざっくりとした書き方で恐縮ですが、これが初期の仏教思想の中心にあった思想の一部分ですが、これが法華経の思想であり、その後に、多くの僧により、その教えがそれぞれに高められ、細かく細分化し、多くの宗派が生まれていきました。

奈良時代から平安時代へという、大きな時代変化の中で、仏教の思想も、やはり中国からもたらされた新しい思想によって変わっていきます。
それまでの国家を守る仏教の思想から、より人間の心に寄り添うような思想へと変化していきます。

平安時代に、二人の僧…最澄と空海が、修行で中国に渡り、高度化した当時の最新の仏教思想である「密教」を日本に持ち帰ります。

最澄は、比叡山に延暦寺を建て「天台宗(法華宗)」の開祖となります。
日本で初めて、天皇より「伝教大師」という最高の称号を賜ります。

空海は、高野山に金剛峯寺を建て「真言宗」の開祖となります。
「弘法大師」という称号を天皇より賜ります。

ここでは天台宗と真言宗の違いについては書きませんが、私は以前のコラムで、二人のそれぞれの私のイメージ像として、最澄は真面目なエリート学者肌の僧で、空海は天才ビジネスエリートの実業家肌の僧というようなイメージを持っています。

二人に共通するのは、奈良時代の仏教界の腐敗と堕落に失望し、高度化した新しい仏教思想を中国に学びに行き、それを日本に持ち帰ってきたことです。
最澄の天台宗は、昔からの法華経の教えを重要視していました。

奈良が昔からの仏教であるなら、天台宗は京都に…、真言宗は高野山に…、この三か所は仏教界の特別な場所となります。

その後、この天台宗と真言宗の二大宗派は、さらに細かく枝分かれし、それぞれの思想のもとに発展していきます。

ただ、時代が源平の時代や戦国時代のような戦乱の世になると、乱れるのは、武家や庶民の人心や社会だけではなく、仏教界もその乱れの流れを受けていきます。
仏教界の一部で、腐敗や堕落、武装化が進んでいきます。

* * *

そんな戦乱の鎌倉時代に生まれてきたのが、天台宗から派生した日蓮宗です。
私は上手く説明することができませんが、僧の日蓮は、天台宗や法華経を基礎としながらも、それとは少し異なる仏教思想を生み出します。
そして、鎌倉時代から、室町時代の戦国時代にかけて、その日蓮宗が大きな勢力となっていきました。

京都には、日蓮宗の妙顕寺(みょうけんじ)という大本山があります。
日本全国に、妙顕寺という名称のお寺はたくさんあります。

おそらく今の仏教界の信徒数では、浄土系(浄土宗・浄土真宗)、真言宗系についで多いのが、日蓮宗系だと思います。

* * *

浄土宗とは、法然を開祖とする浄土信仰で、天台宗から派生したものです。
法然の弟子であった親鸞を開祖とするのが浄土真宗です。

浄土真宗では、後継者や門徒たちによる複雑な後継問題が起き、各地に本願寺ができ、各派に分かれていきます。
室町時代になると、「蓮如(れんにょ)」という高僧が生まれ、そこに門徒が集まり始め、大勢力へと成長していきます。

その後、蓮如によって1483年に、山科本願寺がつくられます。
今、京都市中心部と大津の中間地点に、小さな丘陵に囲まれた山科区という地域がありますが、そこに、まるで大城郭のような巨大なお寺が出現しました。

浄土真宗の本願寺は、その後、信長をはじめ、多くの相手と長く戦い続けることになります。

* * *

浄土真宗は、家康の時代になり、家康に近い「真宗大谷派(東本願寺)」と、「浄土真宗本願寺派(西本願寺)」に分裂します。
この分裂には、「関ヶ原の戦い」も絡んでいますが、基本的には、家康が、強大な浄土真宗勢力の内部抗争を利用し、分裂させ、そのチカラを削ごうとしたものと思われます。
真宗大谷派は、昭和の時代にさらに分裂していきます。

* * *

これらの宗派に関連する、京都のお寺を紹介します。

真言宗:東寺・神護寺・醍醐寺・仁和寺・大覚寺・広隆寺・智積院・泉湧寺など。

天台宗:延暦寺・蓮華王院(三十三間堂)・大原三千院・青蓮院・曼殊院など。
東京の寛永寺も、日光山輪王寺も、信州の善光寺の半分も、天台宗です。
東京の浅草寺は天台宗でしたが、昭和の時代に独立しました。

浄土宗:知恩院・金戒光明寺ほか。
東京の増上寺も、信州の善光寺の半分も浄土宗です。

浄土真宗本願寺派:西本願寺ほか。
東京の築地本願寺も、本願寺派です。

真宗大谷派:東本願寺ほか。

ちなみに、奈良の法隆寺は聖徳宗、東大寺は華厳宗。
京都の金閣寺・銀閣寺・天龍寺・建仁寺・南禅寺などは、禅宗の臨済宗。
京都の清水寺や、奈良の興福寺は法相宗です。


〔仏教と戦国武将のつながり〕

戦国時代の武家では、その一族の者が出家し、仏門に入って、後に僧となった者が少なくありません。
そして、その寺を受け継ぐもの、その後、その武家の要職の地位に戻った者もいました。

何より、武将は幼少期に、寺で修行したり、学問を身につけます。
ですから、特定の宗派やお寺と、武家は、非常に密接につながっていました。

知識や教養の高い僧侶が、武家の軍師となって活躍するケースや、もともとその武家の子息が、寺で教養を身につけ、武家に戻ったりしたのです。
ただ、源氏が禅宗の臨済宗を信仰していたこともあり、多くの戦国時代の武家は臨済宗であることが多くあります。

遠く離れた地の、関係のない武家どうしであっても、同じ宗派であれば、つながりやすかったのも事実です。

お寺という存在は、各地域の宗教的なよりどころというだけでなく、さまざまな権利やチカラを持っていることも多いので、その地域を支配する武将たちにとっても、政治的にも、ビジネス的にも、決して無視できる存在ではありませんでした。

* * *

もともと、石垣で重要施設を囲むのは、城よりも寺が先です。
戦国時代よりも古い時代の戦乱の世から、寺は、戦争の軍事拠点でもありました。

時に宗教施設…、時に学校…、時に病院…、時に祭事などの文化施設…、時に商売の拠点…、時に裁判所…、時にお役所…、そして時に軍事基地となるのが、お寺でした。

武将にとって、城と同じくらい、お寺は重要な意味を持っていたのです。

* * *

どの武家がどの宗派で、どの僧のもとで誰が学んだのか…、どの寺を誰が建てたのか…、これをたどると、戦国時代の武将どうしの戦いの構図が見えてきたりします。
同じ僧侶から学んだ者どうしが、その僧侶を通じて、武家どうしの親しい間柄になることもありました。

こうした宗教や教育を通じた組織形成の過程は、現代の、日本でも、国際化した世界の中でも、しっかり存在していますね。

いつの時代も、政治や戦争の背景には、人間のつながりがあったりします。
戦争を防ぐのも、人間のつながりだったりしますね。

* * *

一方、たとえば家康が江戸という日本一の大都市を築くと聞けば、各宗派は、競って、大型寺院を江戸に建てようとします。
信徒の数や、寺の立地場所は、その信仰の普及度合いや、寺の経済力に直結する話しです。

また、あの街では新しいビジネスが大成功したと聞けば、そこにも、すぐに寺を建て、僧侶を向かわせます。
宗派や寺は、ビジネス覇権とも直結している話しです。

俗っぽい話しで恐縮ですが、宗教の分野だけでなく、人間社会には二面性がつきものですね。


〔武家内の宗派閥〕

さて、同じ武将の軍団の中であっても、家臣によって、その宗派が異なりますから、そのつながりによって派閥ができあがったりします。

江戸幕府は、仏教の二大勢力を幕府内で競わせたり、そのことで多くの宗派の武家をまとめたりもしました。
これは、内部のチカラの均衡にも効果的です。

純粋な信仰の庇護だけでは、かえって宗派間の争いを発生させかねません。
宗派間抗争は、派閥抗争を生み、まさに戦争に直結する話しです。

この宗派や派閥という存在を、どのようにコントロールするのか…、天下を狙うような戦国武将は、いつも頭を悩ませていました。
後ほど、各宗派の武装化と、宗派間の抗争のことを書きます。


◇信長と仏教

織田信長は、仏教の弾圧者というイメージが拭(ぬぐ)えませんが、「桶狭間の戦い」直後に、今川軍の大量の戦死者を、かなり丁重に葬ったことを考えると、最初から仏教を敵視していたようにも思えません。
信長は、キリスト教にも寛大でした。

戦国時代は、武士であろうと庶民であろうと、人間の死が身近な時代でもあり、何かのきっかけで、極端に宗教に走る者…、極端に無信心の合理主義に走る者…、のどちらかに分かれていきやすかったのかもしれません。

信長は、おそらく人間性の中に、極端な部分を多く抱えた人間であっただろうと、私は想像していますが、彼の多くの失望体験が、ある段階から、仏教弾圧の方向に向かわせたとも考えられます。
もちろん、政治的な意味での仏教弾圧の意図があったのも事実です。

* * *

戦国時代のある時期までは、城を建てる際に、生きた人間を生き埋めにする儀式を行っていました。
信長が、城の石垣に墓石を多く使用したのは、そうした儀式や石材不足というものとは何か違う、別の宗教観や心理があった気がします。
実は光秀もよく似ているように私は感じています。

信長による比叡山延暦寺の焼き討ちでは、信長の家臣であった秀吉が、命令に背いて、女性や子供をたくさん逃がしますが、信長は見て見ぬふりをします。
もし、光秀が秀吉と同じことをしても、おそらく見て見ぬふりをしたのではとも感じます。
光秀は、秀吉のような行動をとっていないとされています。

宗教攻撃と人命救済という二つの側面は、信長の二面性をあらわしているようにも感じます。

おいおい、信長と仏教の関係性については書いていきます。


◇本能寺

実は、比叡山延暦寺は、自身が信長に焼き討ちされる前に、他の宗派の寺院を焼き討ちしています。

焼き討ちされた寺院のひとつが、京都にある、信長につながりの深い「本能寺(ほんのうじ)」でした。

* * *

この本能寺は、日蓮宗(法華宗)の重要な本山のひとつでした。
本能寺は、1536年に、天台宗の延暦寺によって焼き討ちされてしまいます。

天台宗の延暦寺が、京の都で急激に拡大成長する日蓮宗に打撃を与えるためでした。
打撃という程度のものではありません。
武力で壊滅を狙いました。

当時の延暦寺は、京都の仏教覇権を他宗派には渡さないという意思が非常に強かったとも思われます。

本能寺は、自己防衛のため、寺の周囲に堀を築き、高い塀を築いていましたが、その武力に圧倒されます。

実は、九州の種子島は、日蓮宗がかなり普及していた地域であったため、この島に伝来した「火縄銃」という戦争用の新兵器が、京都の本能寺にどんどん運び込まれ、延暦寺の攻撃に備えていたというわけです。

本能寺は、延暦寺の被害者だったということです。

ここで、どうして仏教の寺院が武装化し、戦いを始めたのかを、少し書いていきます。


◇仏教寺院の武装化

実は、仏教勢力が武装化し、強大化していく大元は、足利将軍家の弱体化と、有力武将の細川家内のゴタゴタ、畿内の武将どうしの覇権争いが、発端であったとも思われます。

ここでは書きませんが、もうひとつ、浄土真宗勢力のように、同一宗派内の争いの中で、自然災害による飢饉や、各地の武士による圧制がきっかけとなって、集団武装化が始まるというケースも、もちろんありました。

* * *

足利将軍のチカラが弱体化し、家臣の武将の細川晴元が実権を握っていた室町時代の後期に、当時の有力武将の畠山義堯(はたけやま よしたか)の家臣であった木沢長政が、下克上で主君の畠山氏を引きずり降ろそうと画策し始めると、畠山氏は、有力武将の三好一族に援軍を頼みます。

一方、木沢氏は細川晴元に援軍を頼みますが、畠山と三好の連合軍に武力でどんどん追いやられてしまいます。
細川氏の一族内でも、抗争劇が繰り広げられていました。

細川晴元は、そこで、急成長する仏教勢力の浄土真宗の山科本願寺に援軍を頼むのです。
彼らは「一向一揆(この場合の一揆は団体勢力の意味)」と呼ばれ、かなりの武力と信徒数を持っていました。

これは、敵である三好氏が信仰する法華宗(天台宗・日蓮宗など)に対抗するため、ライバルの浄土真宗のチカラを利用したものです。
細川氏は源氏の名門の血筋で、もちろん禅宗の臨済宗の武家です。
いってみれば、禅宗はすでに、多くの武家としてがっちりと武力を保持していたということです。

山科本願寺は、「武将たちと戦ってはいけない」という、代々からの掟を破ってしまいます。
ここに集まった一向一揆衆は、なんと3万といわれています。
「桶狭間の戦い」の今川軍2万よりも、はるかに大きい兵力です。
信仰のすごさを、後に、細川晴元も恐れ始めますが、もはや戦国武将の軍団並みか、それ以上の勢力です。

大勢力に膨らんだ、木沢・細川・一向一揆の連合軍は、畠山・三好連合軍を蹴散らします。

そして、この一向一揆の集団は、ますます信徒が集まり、10万レベルまで大きくなっていき、もはや暴走を止められなくなります。
この集団は、奈良の興福寺などの寺院を襲撃し、いよいよ京都に向かってやって来ます。

京都の延暦寺を中心とした法華宗(天台宗・日蓮宗)は、「法華一揆」となって団結し、京都の東山の清水寺周辺で、仏教宗派どうしの大きな戦闘となります。
この戦いの規模は、もはや「桶狭間の戦い」に匹敵するか、それ以上の大きさです。

その戦闘では、天台宗の延暦寺と日蓮宗による法華宗側が勝利し、今度は、その「法華一揆」が、浄土真宗の山科本願寺攻撃を準備します。
ここに加勢するのが、近江国の六角定頼らの戦国武将たちです。

かつて一向一揆と手を組んだ細川晴元は、本願寺ともめ、今度は敵となり、一向一揆と晴元は大坂の地で戦いを始めます。

浄土真宗の山科本願寺・一向一揆連合軍は、法華一揆・六角連合軍に敗れ、壊滅し、信徒たちは、大坂に逃げ、後に石山本願寺の大勢力になっていきます。
浄土真宗の本願寺・一向一揆連合軍と、細川・六角・法華一揆連合軍は、和睦したり、戦ったりを繰り返していきました。
この一連の出来事は、1532年に起きました。


◇延暦寺による、本能寺の焼き討ち

ここからまた、やっかいな展開が始まります。

法華宗としてまとまっていた、延暦寺の天台宗と、妙顕寺の日蓮宗がもめ始めるのです。
きっかけは、宗教論争のあるイベントです。
もともと上位と見られていた天台宗が、日蓮宗に、そのイベントで仏教理論で論破されてしまいます。

よせばいいのに、禅宗の臨済宗の足利将軍家(室町幕府)は、日蓮宗にかた入れし、競争心を激化させるのです。
怒った延暦寺は、京都市中の日蓮宗の寺々に、上納金を要求、これを拒否した日蓮宗に武力攻撃を仕掛けようとします。

延暦寺は、東寺や興福寺など他の宗派勢力や、越前の朝倉氏などに援軍を頼みますが、彼らは中立の立場をとり、その抗争劇から距離を置きます。
この延暦寺に加勢するのが、またまた戦国武将の六角定頼です。
六角氏が、さまざまな仏教勢力を利用して、自身の勢力拡大を図ろうとしていたのは明らかです。

延暦寺・六角連合軍の6万の軍勢は、京都市中の日蓮宗の寺々を焼き払い、日蓮宗信徒を京都から追放します。
日蓮宗信徒は、各地に逃げていきます。
その焼き払われた寺のひとつが、本能寺です。

この時の京の都の火災は、応仁の乱を上回る規模です。
これが1536年の出来事でした。

* * *

その後1547年、前述の六角氏の仲介で、両宗派は和解し、日蓮宗のお寺のいくつかが京都に再建されます。
その寺のひとつが、「本能寺」です。

京都で焼き払われ、追い出されてから、たかだか10年しか経っていません。
遺恨が残っていないはずはありませんね。

本能寺の有力檀家がいた、大坂の隣の堺に避難していた本能寺は、「日承上人(にちじょうしょうにん)」という僧とともに、京都に戻ってくるのです。
そして、この日承上人こそ、信長に日蓮宗を手ほどきする僧侶です。
「桶狭間の戦い」の13年前の出来事です。

信長は13歳(満年齢)くらいで、帰蝶と結婚する頃です。
そこからさらに13年後、信長は1560年の「桶狭間の戦い」の後、怒涛の「天下布武」の時代に突入していくのです。

「日承上人」という名は、名跡ですので、「第何代 日承上人」という呼び方をします。
「本能寺の変」の時に、本能寺は織田軍の軍事基地となっており、寺の関係者は、寺にいなかったともいわれています。


◇仏教宗派の武力

浄土真宗の本願寺と一向一揆の暴走が、ひとまず延暦寺との戦いで、延暦寺側の勝利で終息し、一向一揆は各地に散っていき、大坂に移った本願寺勢力が石山本願寺となり、日蓮宗の信長とその後何度も戦うことになります。
前述しました「蓮如(れんにょ)」の4代後の「顕如(けんにょ)」という高僧が、信長と戦いました。

もはや、宗派勢力の武力は、武家勢力の武力に匹敵するほどの大きさにまで成長しています。

日蓮宗の信長にとっては、天台宗の延暦寺も敵対勢力です。
天台宗と日蓮宗をもめさせた大元は、臨済宗の武家勢力です。

信長が、敵視する仏教勢力が、これで見えてきましたね。

* * *

もはや、こうした仏教宗派の信徒の集団は、大勢集まると、数万から数十万にも達します。
中規模の武将軍団をはるかにしのぎますね。
本能寺のように、兵器を調達できるルートを持つ寺さえでてきます。
彼らが、城のような施設をつくり、武器をそろえ、訓練を行ったら、戦国武将たちから見たら、脅威そのものですね。

この時代頃の仏教宗派どうしの抗争劇は、大河ドラマなどの各種時代劇ドラマでは、あまりドラマ化されませんが、仏教宗派の一部が、戦国武将をしのぐほどの勢力にまで武装化、強大化していった歴史がしっかりありました。

もちろん宗派の中には、そうした武装化と無縁に、別の手段で対抗・成長していった宗派もいました。
山科本願寺の大昔の住職たちの言葉「武将たちと戦ってはいけない」…、この言葉は重いということなのかもしれません。


◇武将は、宗派間抗争を利用

さて、先ほど、日蓮宗の本能寺の「日承上人(にちじょうしょうにん)」という高僧が、後に、信長に日蓮宗(法華宗)の教えを教授したと書きました。

新しい学問や思想に好奇心いっぱい、何事においても研究熱心で、おまけに合理主義者でもあった信長は、天台宗よりも、新しい日蓮宗に傾注していったのかもしれません。

「桶狭間の戦い」の前に、信長はすでに、強力な鉄砲隊を保有していることから、すでに本能寺とそれなりの関係性を持っていたようにも感じます。

信長が本能寺とつながるきっかけは、鉄砲だったかもしれませんが、そのうちに日蓮宗の教えに傾注していったのか、それとも、前述の六角氏のように、本能寺とその武器、そして仏教宗派の対立関係を、上手く利用しようとしたのかは、よくわかりません。
個人的には、後者であろうと感じます。

信長からしたら、「元をたどれば同じ法華宗の仲間である日蓮宗の本能寺を、こともあろうに勢力争いのために、延暦寺が焼き討ちした」という事実は、信長が延暦寺を攻撃する理由にはなります。
「仏教を笠に着た、なんとも横暴な振る舞い」として位置付けるのも容易(たやす)い気もします。

とはいえ、天台宗と日蓮宗らが、浄土真宗を焼き討ちしたのも事実…、天台宗が日蓮宗を焼き討ちしたのも事実、浄土真宗が他宗派を攻撃したのも事実です。
日蓮宗の信長が、天台宗の延暦寺を焼き討ちしても、それは、やり返しただけという言い訳もできそうな気はします。

このような、武将どうしや、仏教宗派どうし、宗派と武将という戦乱の中で、防御機能を備え、鉄砲が種子島から大量に入ってくる本能寺を、信長が手に入れたのは事実です。
信長にとって、本能寺は、軍事基地であるのと同時に、京都に行った際の「常宿(じょうやど)」、京都をおさえるための拠点となります。

もはや、本能寺を寺と認識するのは違うのかもしれません。
まさに信長の城です。
さて、あの時は、城の備えはどうだったのでしょう…。

* * *

ずっと後に、臨済宗の武田信玄は、天台宗の延暦寺を擁護し、「自分が天台宗を守る」という主旨の手紙(信長への挑戦状)を信長に送りますが、これも、宗派どうしの抗争劇を使って、信長を孤立させ、各武将を連携させる「信長包囲網」を構築させる作戦の一環です。

天下を狙うような有力な戦国武将たちは、各宗派や寺を、戦闘要員や武器、金の調達先として…、軍事基地として…、戦争のきっかけや理由づけとして…、上手く利用したのは間違いありません。

逆に、宗派側も、武将と手を組み、あるいは武将を利用して、勢力拡大を狙っていたのは間違いありません。


◇信長と光秀

信長は、後に、比叡山延暦寺の総攻撃のトップの司令官に、明智光秀を抜擢します。

実は、光秀は、当時の史料をみると、宗教界のさまざまな分野から、あまり良い印象を持たれていないように感じます。
信長は、彼の知識や統率力、家柄や関係性だけでなく、人間性や思想も考慮して、彼をその司令官の座にすえたようにも感じます。

「比叡山焼き討ち」後には、延暦寺の監視を目的に、光秀に、比叡山のすぐ東側の琵琶湖畔に坂本城を築かせ、その城を彼に任せます。

* * *

光秀も、信長に近い、宗教への思想を持っていた可能性もあります。

信仰心と、武将の戦闘行動を、はっきりと区別できる人間でないと、なかなか仏教寺院攻撃というのはできないかもしれませんね。
それとも、光秀は、耐えに耐えて、気持ちをおさえて、延暦寺攻撃を行ったのでしょうか…?

光秀の思想の中で、仏教とは、どのようなものだったのか、わからないことも実は多いです。
そんなお話しは、おいおい…。


◇家康の今川家供養

さて、桶狭間の古戦場跡には、今、長福寺(ちょうふくじ)というお寺があります。
ここは浄土宗のお寺です。

そうです。
浄土宗とは徳川家に保護された宗派です。
家康は熱心な浄土宗の信者でした。
東京にある徳川将軍家の菩提寺である増上寺が、浄土宗のお寺だということは前述しました。
一方、もうひとつの徳川将軍家の菩提寺である東京の寛永寺は、天台宗(延暦寺)です。
日光山輪王寺も天台宗です。

家康は、もともと宗教全体に敵視政策をとりません。
キリスト教にも、寛大でした。

* * *

家康という人物は、政治においても、戦争においても、ひとまず広く取り込んでおいて、不要なものを、ひとつずつ取り除いていくというやり方が好きな人物だったと感じます。

戦国武将の中には、まずは相手を威圧するというタイプも少なくはありませんが、家康は、威圧感と安心感を、時と場合によって、相手によって使い分けます。
秀吉の人心掌握の手法とも、また違う印象がありますね。

* * *

さて、この桶狭間の長福寺は、桶狭間で討たれた今川軍を丁重に供養するお寺として知られています。

実は、赤穂事件でよく知られる東京の泉岳寺(せんがくじ)というお寺は、元は江戸城本丸の近くの、今の警視庁あたりにあり、家康が、養父であった今川義元の菩提を弔う目的で建てたお寺だといわれています。
この寺の開山時の僧は、今川義元の孫といわれています。
泉岳寺は、後に、東京の高輪(たかなわ)近くに移転します。
泉岳寺は、禅宗の曹洞宗(そうとうしゅう)のお寺です。

家康が、若い時の桶狭間での、養父の義元への裏切り行為に、よほど思いを残していたのかどうかはわかりませんが、家康は、江戸でも、桶狭間でも、丁重に今川義元の菩提を供養しています。

もちろん、こうした行為は、個人の思いというだけでなく、江戸幕府として、政治的に、そして歴史的に、大きな意味を持っている行為です。

「桶狭間の戦い」が起きた当時、世間からみたら、どんな理由があったにせよ、元康(家康)は、桶狭間で養父の今川義元を助けたように感じることはできません。
その後、信長と家康は、軍事的にも強い連合体制をとります。
家康にとっては、養父の仇の信長とです。

義元の大々的な供養と、残った今川家を江戸幕府内で厚遇したことは、まさに江戸幕府の政治的な行動とみるほうが正しいような気がします。


◇戦国武将の栄光と憐れが眠る駿府

ともあれ、今川が残した駿府(静岡市)は、今川氏の土台の上に、徳川家康が築いた、徳川家の重要な場所となります。
家康にとっては、人質ではありましたが、幼少期から青年期までを過ごした、なつかしくもあり、自身の原点ともいえる場所です。

家康自身の最期の場所も、この駿府でしたね。
日本人は、最後は故郷で過ごしたいと感じる人が多いですが、戦国武将たちも例外ではありませんでしたね。

最後の徳川将軍の徳川慶喜は、最後の数年だけは、生まれ故郷の東京で過ごし、亡くなりますが、江戸幕府が消滅する「大政奉還」後に、この駿府(静岡市)の地にやって来て、20年ほどを、趣味の写真撮影や、弓術の鍛錬に励み、穏やかに過ごします。
三河が水野氏の土地になっていたということもありますが、徳川家の故郷の三河ではなく、この駿府です。

駿府という地は、今川氏と徳川氏の特別な場所ということはもちろんですが、北条氏や武田氏にも、非常に関連深い場所です。

大きな富士山と、大きな大平洋に抱かれた、南国のような暖かな日差しが差し込む地ですので、つい戦乱の時代のことを忘れてしまいますが、歴史ファンには、何か、戦国武将たちの栄光と憐れを思い起こさせる駿府という場所です。

家康の、今川義元を丁重に供養し、駿府の土地を大事に守っていきたいという気持ちを、何か想像させますね。

* * *

戦国武将たちは、人殺しという残忍な一面を持っており、政治的に仏教宗派を利用しましたが、その身体の中に、「すべからく供養する」という精神を、しっかり持っていた武将も多かった気がします。

「桶狭間の戦い」直後の、信長による今川兵士たちの供養も、実は、武将らしい行動ではなかったかとも感じます。

ただ、信長の人間性は、このあたりから変化していくように感じます。
「桶狭間」での出来事が、信長の中の何かを大きく変化させたようにも感じます。


◇桶狭間の謎の寺

さて、実は、「桶狭間の戦い」の時に、この桶狭間の地にあったお寺は、今の浄土宗の「長福寺」という寺ではないという説があります。
長福寺は、この戦いの後に、供養のために建てられたともいわれています。

では、この戦いの時にあったお寺とは…?

実は、信長につながりの深い、京都の本能寺と同じ、日蓮宗のお寺があったという説があります。
他にも、美濃国の天台宗の慈恩寺の末寺があったという説もあります。

いずれにしても、荒廃した寺を徳川家が再興すれば、その寺は皆、浄土宗の寺となります。

今川氏は、禅宗である臨済宗の武家です。
今川義元の軍師だった雪斎(せっさい)は、臨済宗の僧侶でした。

後で書きますが、甲斐国の武田家も、実は、臨済宗の武家です。
もともと源氏系の武家は、禅宗の臨済宗が多いのです。

* * *

もし、桶狭間にあった寺が、説のとおりの日蓮宗や天台宗の寺であったなら、義元は、ここで昼食をとって歓待を受けたでしょうか…?

ひょっとしたら、この「桶狭間の戦い」の時に、この桶狭間のお寺は、信長に深いつながりのある本能寺と同じ日蓮宗の寺であることを隠し、臨済宗の寺である偽装をしたということはないでしょうか…。
あるいは、すでに使っていない廃寺に見せかけた、偽装の寺だったということはないでしょうか…。

要は、この寺で義元に昼食をとらせて、歓待し、その間に、義元本陣を設営させればいいのです。

もし、これを仕組んだのであれば、それは、この桶狭間の地を知り尽くした、今川軍の武将である瀬名氏俊(せな うじとし)ではなかっただろうかと感じています。

瀬名氏俊は、義元がこの寺で昼食をとっている最中に、着々と義元本陣を設営し、桶狭間での義元の位置や、各武将の配置、人数、武器の種類や量などの情報を、信長側に送っていたのかもしれません。

* * *

織田軍の蜂須賀小六(はちすか ころく)は、この寺での義元の昼食の食事や酒の、調達や運び込みを手配した可能性もあります。

おそらく蜂須賀小六は、義元が使用する乗り物の、本物の「輿(こし)」の情報を、前日の祐福寺あたりで入手し、やはり織田軍の簗田政綱(やなだ まさつな)に伝えていたのだろうと思います。

さまざまな史料に、「輿、輿…」と、あまりにも強調されて書かれているのは、何か陰謀の匂いがします。
たしかに「輿」は、義元を象徴するものであるのは間違いありませんが、大将の位置を示すものは他にもあります。
ただ他のものでは、偽装されやすく、遠くからの視認がむずかしいのは確かです。
「たったひとつの、間違いのない輿」を、目標物に設定するのは、確かにいい判断だと感じます。
やはり、信長の特別攻撃隊が目標にするものとして、この「輿」は重要な役割を果たしたような気がしてなりません。

本物の「輿」以外の、偽装の「輿」などは、織田が侵入させておいたスパイが、すべて破却しておけばいい話しです。

* * *

信長は、さまざまな情報を、中島砦か善照寺砦で、待っていたのかもしれません。

信長が、桶狭間の特定の場所に行ってみたら、そこに義元がいなかったでは、信長の少数精鋭部隊による急襲作戦は、まず上手くいかないはずです。
信長が、多くの兵をつれてチカラ攻めをしていたら、義元に近づけなかったはずです。

義元の居場所、時刻、目印、そして本人確認作業である首実験の場所と人員…、何か完璧な段取りを感じます。

瀬名氏俊と、このお寺が、信長側につけば、この作戦が成功する可能性が格段に高くなるはずだと感じます。
なんなら、この寺に、信長の特殊部隊が、寺の関係者として潜んでいても不思議はありません。

義元は、スパイや裏切り者たちに囲まれる中で、昼食をとり、歓待を受けていたのかもしれませんね。


◇敵の陣地を崩壊させる

戦国時代の「城攻め」では、敵の城に内通者やスパイがいるのが、ほぼ当たり前です。

他にも、石垣を壊す…、地下トンネルを掘る…、水や食料のルートを遮断する…、堀を埋める…、城を水没させる…、川の決壊…、内部から放火…、城内にニセ情報をばらまく…、夜間の騒音攻撃…、遠くからの大砲攻撃…、など、あらゆる手段を使います。
「城攻めマニュアル」が、当時にあったなら、まず基本中の基本です。

テレビのお城探訪番組のように、大手門から、天守への道を進みながら敵の城を攻めていく武将など、戦国時代には、まずいません。
城の弱点を狙ったり、陰謀を張り巡らせて、攻めていくのです。
桶狭間での信長の攻撃も、同じだったと思います。

桶狭間の戦いは、一見、野戦(野原や草原などでの戦い)のようでいて、城攻めの要素も多くあるような気がしています。

瀬名氏俊と、この謎の寺が、信長側につけば、義元を討つのは容易(たやす)い…、そんな気がしてなりません。
織田信長による巧妙な陰謀が、彼の勝利の背景にあった気がしてなりません。


◇「本能寺の変」へのカウントダウン

さて、今回のコラムの最後は、信長が行った、天台宗の比叡山焼き討ち攻撃や、浄土真宗の本願寺攻撃のほかに、もうひとつ行った、象徴的な宗派攻撃のことを書きたいと思います。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、かなり後半部の回で描かれるのだろうと思いますが、他の戦国武将たちとはかなり異なる、信長の仏教思想のことを少し書きたいと思います。

それは、信長による、前述しました今川氏や武田氏が信仰していた「禅宗」の「臨済宗(りんざいしゅう)」への攻撃です。

信長が信仰していた日蓮宗と、天台宗がもめ始める、そのきっかけを作った禅宗の臨済宗です。
前述しました、延暦寺による、京都市内の日蓮宗の寺々への武力攻撃のきっかけを作ったのは、臨済宗の足利将軍家だと思われます。
将軍家だけかと言われると、そこはよくわかりません。
将軍家が、近い宗派間のライバル関係を利用し、法華宗(天台宗・日蓮宗)全体の勢力のチカラを削ごうとした可能性が高いと思います。

後に、法華宗勢力たちからみたら、禅宗たちに、してやられたと感じたでしょうか…。

* * *

信長は、武田氏を武力で滅亡させた直後に、その信仰の支えである、禅宗の臨済宗の大寺院である「恵林寺(えりんじ)」を焼き討ち攻撃します。
恵林寺は、甲斐国の武田氏の菩提寺です。

信長の仏教攻撃は、1570年から74年にかけての、石山本願寺や伊勢長島の浄土真宗(一向一揆)への攻撃、1571年の天台宗の比叡山延暦寺の焼き討ちに続いて、この禅宗の臨済宗の恵林寺へと突き進みます。

1582年3月に、信長は、武田勝頼を「天目山の戦い」で敗り、武田家は滅亡します。
1582年4月に、武田家の菩提寺である、臨済宗の恵林寺を、信長が攻撃します。
その後、1582年6月に、まさかの「本能寺の変」が起きるのです。
まさに、1582年3月から、「本能寺の変」へのカウントダウンが始まったかのようです。

この超スピード展開…、現代のマスコミでも追いついていけるでしょうか。
現代なら、マスコミはこぞって、信長の宗派攻撃は、やり過ぎだとかき立てるかもしれませんね。

どこかで、誰かが、何かを止めておけば、ここまでのスピード展開はなかったのかもしれません。
誰かが…、大勢が…、止めたいと感じても不思議はない気はします。

この後も、歴史は、ものすごい速さで展開していきます。

* * *

私は個人的に、「本能寺の変」への最終段階への突入は、この禅宗の臨済宗の恵林寺への攻撃が引き金を引いた気がしています。

日本全国の有力な戦国武将の大半は源氏の末裔で、禅宗の信徒たちです。
毛利氏も、上杉氏も、みな禅宗の信奉者です。
情報網の達人の秀吉が、「恵林寺焼き討ち」後の禅宗の武家たちの行動を把握していなかったはずはないと思います。

信長の禅宗攻撃は、もはや浄土真宗や天台宗への攻撃とは、意味合いが違っていたはずです。

もともと源氏という武家には、由々しき事態であったと感じます。
平氏の末裔だと語る信長が、源氏勢力に弓を引いたと感じても不思議はありません。

元をたどれば土岐源氏の明智光秀が、あれほど、恵林寺攻撃を止めたのに、信長は一線を越えてしまいました。
光秀の心の中に、源氏の代表として、「水色桔梗」の炎が点火しても不思議はないとも感じます。

もはや、悩んでいる暇はなし…。
オレがやらねば、誰がやる…。
「時(土岐)は今…」へと突っ走った可能性もありますね。

お笑い芸人グループ「ダチョウ倶楽部」のネタに、メンバーが「オレがやる」と順番に手をあげて、ある人物が最後に手をあげた瞬間に、周囲の者がその手を下ろし、その人物に「どうぞ」とやるお笑いネタがあります。
意外と、恵林寺焼き討ち後の状況に似ていなくもないと、私は密かに感じています。
このお笑い芸人グループのその人物は、「熱湯風呂」に突き落とされるネタも持っていますね。

* * *

とにかく戦国武将にとって、仏教宗派のことに深入りすることは、危険極まりないのです。

家康も、江戸幕府を開いてから、各宗派間抗争や、宗派内部のもめごとに、時に強く、時になだめすかし、時に分裂させ、苦労の連続です。
どうしたら宗派は、武家の下で、コントロールできるのであろうか…、ある意味、解決法のない課題ですね。

現代の日本では、政治と宗教は切り離されていますが、ぐちゃぐちゃになり始めたら、収拾できないところまで突き進む可能性を十分にはらんでいます。
「本能寺の変」は、当時の戦国武将たちに、強烈なメッセージを残したのは確かですね。

徳川家康のような手法が、無難なやり方なのかもしれません。
「本能寺の変」のお話しは、また、おいおい…。


◇恵林寺を甘く見た?

信長に攻撃された、禅宗の臨済宗の恵林寺(えりんじ)のことを少し書きます。

もともと、新しもの好きで、古い伝統や慣習などを嫌う信長でしたが、それは仏教思想にも及んでいたと思います。
延暦寺や本願寺への攻撃の場合は、まだ遺恨が感じられますが、臨済宗の恵林寺攻撃の場合は、少し意図が違う気がします。

平氏の末裔を語る信長が、源氏の象徴の禅宗の臨済宗を叩きつぶす意味あいが強かったと、私は感じています。
武田家の菩提寺を叩きつぶすことや、逃げ込んだ六角氏をかくまったことなどは、表向きの理由だと感じます。

ようするに、古い源氏の武士の象徴と、古い禅宗の思想を、叩きつぶすことが目的であったようにも感じます。
いってみれば、古くからの武士の社会構造をリセットさせようとした可能性も感じます。
武士の社会構造を一度破壊し、その後、信長の元に作り直そうと考えたかもしれません。

天台宗の比叡山延暦寺、浄土真宗の本願寺に続いて、次は、禅宗と古い武家構造の壊滅を狙って、まずは恵林寺を攻撃したのかもしれません。
ひょっとしたら、恵林寺に続いて、狙っていた禅宗の大本山の寺が他にもあったかもしれません。

* * *

信長は、いつか、すべての仏教宗派を叩きつぶし、神道も天皇も蹴散らした可能性も考えられます。
そろそろ危険なサインですね。
天罰の影がちらつき始めたのかもしれません。

恵林寺の焼き討ち攻撃のニヵ月後に、あの「本能寺の変」が起きます。
それも恵林寺とつながりの深い明智光秀によって行われます。

* * *

恵林寺は、鎌倉時代に、あの夢窓疎石(むそう そせき)が開山した寺です。
多くの有名な、「禅」の枯山水の石庭の作者として知られている疎石ですが、禅宗を、天台宗や真言宗とも融合させる思想は、多くの仏教界や武将の中でも尊敬を集めた人物です。
源氏の名門家系の武田家が、恵林寺を大切に庇護するのは当然ですね。

臨済宗の高僧であった「快川紹喜(かいせん じょうき)」という人物は、京都の妙心寺、美濃国の崇福寺を経て、この恵林寺に信玄によって招かれます。

この快川紹喜は、美濃国の土岐氏に生まれたという説もあります。
土岐氏とは、土岐源氏のことです。
明智光秀が、土岐源氏の子孫であることは、これまでのコラムでも書いてきました。

源氏勢力にとって、非常に大切な恵林寺と快川紹喜だったのです。

* * *

前述のとおり、信長にとって、恵林寺への攻撃は、禅宗への攻撃を意味しているのは間違いないと思います。
ただ、信長は、それがかつての源氏勢力を、どれほど刺激することかを、どのくらい意識していたのでしょうか。

浄土真宗の本願寺も、天台宗の延暦寺も、信長に屈服しました。
禅宗も自分に屈服するだろう…、こんなことを考えたのかもしれません。

戦国武将たちの信仰など、それほど気にすることでもなく、戦国武将たちはみな、合理的に利己的に物事を判断するだろうと思っていたのでしょうか。
ものごとを、どのように解釈するのか…、これが生死を分けた可能性もあります。

* * *

戦国武将が、仏教思想の影や、「天罰」という言葉を連想させながら、死んでいくというのは、信長以外の武将では、私は知りません。
通常は、寿命(老衰死)、戦死、病死、暗殺、事故死、災害死、自刃などです。
「麒麟」とは言いませんが、信長の死は、何か、摩訶不思議なものを感じてしまいます。

* * *

さて、この恵林寺の焼き討ちでは、有名な言葉が残されています。
「心頭滅却すれば、火もまた涼し」。
若干、もともとの表現とは異なります・

この恵林寺の焼き討ちで亡くなった、前述の高僧の「快川紹喜(かいせん じょうき)」が、ある時に発した言葉とされていますが、確実に判明しているともいえないようです。
ただ、彼の、この時の心境や思想が盛り込まれた内容であるのは間違いないであろうとは思います。


◇心頭滅却

この言葉は、正確には、「安禅不必須山水 滅却心頭火自涼(安禅必ずしも山水をもちいず、心頭を滅却すれば火も自ら涼し)」です。

この言葉は、中国の唐時代の詩人の杜荀鶴(とうじゅんかく)の詩の中にある文章から引用されたもので、恵林寺の炎の中で死んでいくたくさんの僧侶たちの心境とあいまって、ある戦国時代の者たちの思想を、よくあらわしていると感じます。

後世の人間が、恵林寺の悲劇と、快川紹喜のことが、永遠に語り継がれることを願って、恵林寺の焼き討ちに合わせた言葉を探してきたと考えられないこともありません。
実際に、快川紹喜が、この話しを、幾度となく話していたということも考えられます。

いずれにしても、恵林寺と快川紹喜が、多くの武将たちからたいへんに尊敬される存在であったことは間違いないと思います。

* * *

このコラムでは、この文章を、直訳も意訳もしません。

この言葉の解釈は、現代人が100人いれば、100人が違うはずです。
どれが正確な解釈とも言えないように思います。
それぞれの人の解釈があっていいように感じます。

悟りの境地を開いた意味だとも…、何かの恨み節を込めたものだとも…、時代のはかなさをうたったものだとも…、いろいろな解釈ができそうです。

この解釈の広さこそが、多くの人々の心に届く理由だとも感じます。
同一人物であっても、年齢や、暮らす環境、立場によって、この言葉の感じ方は異なるのだろうと思います。

場面場面で、生きた言葉として、私たちの心に響いてくればよいのだと感じます。

* * *

信長は、この言葉を快川紹喜が発したと後に聞いても、敗者の単なる、負け惜しみ、恨み節程度にしか、解釈しなかったかもしれません。
ですが、これを聞いた日本中の禅宗の戦国武将たちは、どのように解釈するでしょうか…。

まさに快川紹喜の、最大の無念さがにじみ出た言葉と解釈する武将もいたでしょう。
中には、快川紹喜の遺言として、「禅宗信徒としての、信長への攻撃命令」と解釈した武将もいたかもしれません。

そして、この言葉を利用して、反信長として源氏勢の結集を狙った勢力もあったかもしれません。

* * *

私は個人的に、この時に、秀吉は、中国地方で、何かの時間稼ぎをして、日本全体の武将たちの様子を観察し、敵の毛利氏と和解にこぎつけたと感じています。
表向きには、「備中高松城の水攻め」です。

秀吉は、日本の中に、何か別の動きがあることを察知していたのではないかと感じます。
秀吉が、その当事者の中にあったかは、はっきりとはわかりません。
毛利氏と秀吉が、急いで戦いを中断させたのは、紛れもない事実です。

上杉氏など、一部の武将が、「本能寺の変」を事前に把握していたのは間違いないと思います。

日本全体で、たったひとりの武将を除いて、かつての源氏勢力の武家を中心に、大きな陰謀が進んでいたのかどうか…?

前回コラムで書きましたが、家康は、これに乗じて、かつての武田軍の穴山梅雪の金と命、そして武田家が残した軍事力を狙った可能性も考えられます。
あまりにも大きな陰謀が進んでいたのなら、日本全体でそれを隠してしまっても、不思議はありません。

ちょっと、私の想像が膨らみ過ぎたかもしれませんね…。
また、おいおい書いていきます。

* * *

いずれにしても、、この「心頭滅却すれば、火もまた涼し」という言葉は、現代人の心にも、何か引っかかるものがあります。
何かを強く示しているような言葉ではありませんが、さまざまな心境や世界観を語ってくれている気がします。

特に、苦難の時、困惑の時に、この言葉は心に響いてきます。

信長は、快川紹喜が恵林寺の炎の中で命を落としてから、二ヵ月後に、本能寺の炎の中で、この言葉を思い出したでしょうか…。
本当に「是非もなし」の心境だったのかどうかは、今となっては、本人しかわかりませんね。

いろいろな物事は、解釈によって、その後がかなり変わっていく…、歴史は証明している気がします。

* * *

ここで、興味深い、すばらしいブログをご紹介いたします。
写真家の「バッハ・林・志保」様のアメブロに、「心頭滅却」のことを書いたブログがあります。

私たち現代人の生活にあわせて、この言葉を解釈し、この言葉を自身の人生に活かしていく…、快川紹喜もきっと喜んでくれていると感じます。
どうぞ、読んでみてください。

バッハ・林・志保様のブログ記事


◇到達点

これを読んでいただいている方々…、あなたにとって「心頭滅却」とは何ですか…?
これまでに「火もおのずから涼し」という瞬間はありましたか…?

つらいはずのことなのに、何かつらく感じない…。
とてつもなく怖いことなのに、何か恐れがなくなっていく…。

日本人は、時に最大限の苦しみや悲しみの中であっても、相手に、ほほ笑みを見せることがあります。
苦しみに耐えきれないほどの中にいるはずなのに、表情の中に、ほほ笑みを無理やりに作ろうと努力する精神を持っていたりします。
相手が自身と同じような、最大の苦難の時であったなら、自分のことよりも、相手を笑顔で励ましたりすることも忘れません。

自然災害ですべてを失ってしまった被災者が、テレビ画面の中で、涙を流しながらも、笑みを必死に作り、「失っちゃった…」と笑みを浮かべながら言葉を発する時、私は、この「心頭滅却」の言葉を思い出す時があります。
きっと彼らに、仏様は何かを与えてくれるはず…、そう思わずにはいられません。

日本人の民族性は、多くの巨大自然災害の被災の積み重ねの上に形成されているという話しを、どこかで聞いたことがあります。

何かを滅却し、それを乗り越える…。
滅却しなければ、乗り越えることはできない…。

この「心頭滅却すれば火もまた涼し」には、日本人が感じる、何かの到達点が表現されているようにも感じます。
現代人も、心でもなく、頭でもない、身体のどこかで、この言葉の何かを感じとっているような気がしますね。

* * *

次回のコラムは、いよいよ「桶狭間の戦い」の、ある到達点のことを書きたいと思います。

桶狭間にいた信長と、恵林寺にいた信長…、まるで別人だったのか、すでに同じ人間だったのか…、これも人によって、解釈が異なるのでしょうね。

大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が再開された後は、「天下布武」の野望にひた走る信長の姿が見られると思いますが、ドラマの中では、彼の宗教観がどのように描かれていくのでしょうか。

* * *

戦国時代は、武将どうしの武力の戦いはもちろん、宗派の戦い、思想の戦いでもあったと感じます。
「桶狭間の戦い」においても、信長と義元の思想は明らかに大きく違います。
思想は、戦い方まで変えてしまうのかもしれませんね。

戦いの中から、さまざまな思想の成長が起きていたようにも感じます。

* * *

コラム「麒麟(30)桶狭間は人間の狭間(12) オレについてこい」につづく。

 

2020.8.4 天乃みそ汁

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