NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。足利義昭と信長の入京。義昭将軍。三好勢の敗走。信長の名物狩り。勝竜寺城の戦い。松永久秀を助ける。信長の野心と用心深さ。佐久間象山の言葉。九十九髪茄子。


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麒麟(45)明暗の城(京への道 2)


前回コラム「麒麟(44)桑の実 拾た(京への道1)」では、織田信長の上洛作戦(岐阜から近江国まで)、上洛への根回し、六角氏の内部抗争と苦悩、観音寺城の戦い、運命の桑の実、桑実寺と竹生島事件、琵琶湖に浮かぶ安土城などついて書きました。

今回のコラムは、前回に引き続き、織田信長の「上洛作戦(京への道)」を中心に書きたいと思います。


◇ 9月23日・信長 三井寺へ

前回コラム「麒麟(44)桑の実 拾た(京への道1)」で書きましたとおり、信長に遅れて岐阜を出発した足利義昭は、1568年9月22日、近江国の桑実寺(くわのみでら / 滋賀県近江八幡市安土町)に到着し、そこで待っていた織田信長と再会します。

9月23日、信長は、細川藤孝、和田惟政(わだ これまさ)を、先発隊として京に入れます。
さらに先発隊の一部が、京の一部の山科に向かいます。

同日、信長は三井寺(滋賀県大津市)に入ります。
義昭はまだ出発しません。


◇ 9月25日・信長 入京

9月25日、信長は、京の清水寺に入ります。
義昭は大津市の三井寺に入ります。


◇ 9月26日・義昭 入京

9月26日、義昭が京の清水寺に入ります。
信長は、京の東寺へ入ります。

要するに、信長は義昭が入る前日に、同じ場所に滞在し移動したのです。
信長は、義昭の命を、絶対に敵に奪われないように注意したものと思います。

同日、信長は、柴田勝家、蜂屋頼隆、森可成、坂井政尚らを京都の南西周辺に向かわせ、三好勢と交戦を開始させます。
三好勢は、9月初旬より、京の都の南西方面である、今の長岡京市あたりから大坂兵庫方面にかけて、軍勢を配置させていました。

もともと、柴田勝家らの部隊は、六角氏と観音寺城で戦わせる目的の部隊ではなく、この三好勢との戦いを想定し編制した部隊だった気がします。
織田軍の先鋒隊として勇猛さを見せつけるには十分な人選と思われます。


◇ 9月27日・浅井氏と朽木氏 出陣

9月27日、同盟者の浅井長政と、朽木元綱の8000の大軍が、京の吉田山(京都市内北東部)に布陣し、そこから摂津方面の三好勢攻撃に向けて進軍を開始します。
朽木元綱(くつき もとつな)とは、12代将軍 義晴と13代将軍 義輝を、近江国の朽木谷で長く守り支えていた武将です。
朽木谷のお話しは、大河ドラマ「麒麟がくる」でもたくさん登場していましたね。

浅井氏と朽木氏は、京のど真ん中を、悠然と進軍したことでしょう。
ちょっと演出めいていますが、信長は最高の演出家でもあります。


〔トップ武将たちの演出力〕

実は、戦国時代の戦において、こうした演出こそ、まさに勝敗を分けるといってもいいかもしれません。
信長、秀吉、家康…、まさに抜群の演出力で、戦をコントロールしました。

信長の桶狭間での見たこともない姿の連中による突然の怒涛攻撃、長篠設楽ヶ原での武田軍の誘い出しと想像を超えた かく乱攻撃、大坂湾での鉄甲船による大攻撃…。
家康を母と再会させたときの設定、清洲城での誓いの盃、ドクロの盃なども、信長ならではの演出ですね。
最たるものが、あの安土城ですね。
あの時代に、オープンデッキと、ライトアップとは…。

秀吉の備中高松城での川の水の大放水、小田原城での石垣山城の突然の森林伐採、簡易組み立て式の建築部品による短期築城、偽装の火の海、中国大返し、清須会議、光秀と戦った「山崎の戦い」では 想像もできない場所からの猛攻撃…。

家康の関ヶ原での絶妙な小早川軍の出撃タイミング、大坂城への大砲攻撃と夜間騒音攻撃…。
方広寺の鐘の文字の陰謀も、演出といえば演出。

上杉謙信や武田信玄にも、こうしたド派手な演出作戦が山ほどありますね。

突然の大ハプニング演出は、まさに戦況を一変させ、疲れた自軍の兵の士気を奮い立たせ、敵の心理を猛烈に破壊します。
関ヶ原での石田三成は、自軍の大砲の演出に大失敗したと感じます。

* * *

さて、この上洛作戦での、浅井氏も朽木氏、京でのこの演出に、それはそれは うれしかったことでしょう。
戦闘前とはいえ、まさに凱旋パレードを想像させます。
京の町衆は、街なかで戦闘のない状況に大喜びだったでしょう。
この軍団は、信長の非武装上洛軍とは別の軍団です。

信長という人物は、他者を喜ばせる天才でもありましたね。
とはいえ、恐怖や怒りも、たくさん与えてしまいましたが…。


◇ 9月28日

9月28日、信長は京の東福寺に入ります。
道中における、信長の大寺院巡りも、さすがの政治力を感じます。

前回までのコラムで書きましたとおり、上洛準備の中で、こうした寺院とは調整済みです。
この寺院調整も、相当にたいへんだったと思います。

寺院は寺院で競争がありますから、どこに滞在するかは、それは重要なことですよね。
当時の寺院とは、単なる宗教施設ではありません。
さまざまな利権を持ち、人材集め、金集め、物資の集積、情報発信、役所、裁判所、軍事基地など、相当な機能を持った施設です。
寺が城に発展するケースも、めずらしくありません。


◇ 9月29日・勝竜寺城の戦い

前述しました26日からの、柴田勝家の部隊や浅井長政の部隊による、三好勢への攻撃で、たいはんの小さな城が陥落していきました。

その中、京の南西(京都中心部から約15キロメール)の今の長岡京市にある「勝竜寺城(しゅうりゅうじじょう)」にいた、「三好三人衆」のひとりの「岩成友通(いわなり ともみち)」が強く抵抗を続けていました。

ですが、9月29日、京に入っていた信長は、勝竜寺城に大軍を差し向け、勝竜寺城は陥落し、岩成友通が逃亡します。
9月29日、一応、義昭も、大軍の(かたちばかりの)大将として出陣します。
実は、戦国時代の武将の進軍では、こうしたトップの行為が、非常に重要な意味を持っています。


◇明暗から明智へ

今は、当時の規模をうかがい知ることができないほどの、小規模な勝竜寺城ですが、三好勢がいた頃は、それなりの防御力を備えた城であったように感じます。
冒頭写真が勝竜寺です。

立派な天守もあったといわれていますが、古い縄張り図を見ると、いくつかの弱点も見て取れる気がします。
城の周辺地域の泥湿地も、いい意味で防衛力ですが、弱点にもなりかねません。

この「勝竜寺城(青竜寺城・小竜寺城)」は、後に、細川藤孝の城となり、明智光秀の娘のガラシャが結婚式を行う城で、光秀にとっても生涯最後に滞在した城となりました。

* * *

あくまで個人的な思いですが、光秀が、秀吉の大軍に対して、この山崎の地で戦うのは相当に不利だと感じます。
一見、明智軍のほうが有利そうに見えて、実は逆だと感じます。

秀吉軍のワナだらけのような頭脳的な配置に対して、何か正攻法すぎる明智軍にも見えます。
なぜ勝竜寺城周辺だったのか…。

そして、戦闘中に、明智軍が形勢不利になった時点で、この勝竜寺城に光秀が逃げ込んだのは、これまた誤った判断かと思います。
なぜ京・近江方面にそのまま逃走しなかったのか…?
無理にでもそうしていたら、逃げ切れた気がします。
これも、おそらくは進路を秀吉の作戦で封じられたものでしょうが、形勢不利の脱出方法とルートをしっかり固めておかなかったのかもしれません。

この崖っぷちの状況…、何かに似ています。
この上洛作戦の後にくる、織田信長の近江国での大逃亡によく似ています。

その時は、明智光秀が信長の窮地を救いましたが、勝竜寺城の光秀を救う武将はいませんでした。
光秀のもとに、光秀の役がいなかったということです。

信長が選択した速攻逃亡作戦を、なぜ光秀は行わなかったのか…。
せめて、光秀と少数家臣だけでも…。

でも、あの秀吉が取り逃がすとは思えませんね。
このお話しは、あらためて書きます。

数々の「明」と「暗」の歴史を持つ、この勝竜寺城です。
この「明暗の城」は、いつか運命の「明智の城」に…。


◇岩成友通の逃亡劇

さて、9月29日の勝竜寺城にいた、三好勢の岩成友通(いわなり ともみち)の話しに戻ります。

さすがに織田軍の5万ほどの軍に囲まれたら、降伏するしかありませんね。
9月29日は、両軍での戦闘はなかったようです。

戦闘がなかった…?

三好勢の岩成友通は、13代将軍義輝殺害の「永禄の変」はもちろん、松永久秀や畠山高政とも戦う、三好勢の中心の重要な武将です。
29日に、友通が勝竜寺城から、どうやって脱出したのか不思議です。
何か、怪しい話しがここにも…。

いえいえ…すでにこの日に、友通は勝竜寺城にいなかったのかも…?
前日の28日には、織田軍と大きな戦闘を行ってはいますが、ひょっとしたら数日前には脱出していたのかもしれません。

城からの脱出に成功し、逃げ切れるかどうかは、すべてタイミングにかかっていますね。
光秀さん…。

* * *

この友通は、後に小説や浮世絵で英雄のように描かれた時代もありましたが、後に織田方に寝返り、その後また織田方から寝返ります。
最後は、戦闘中にお堀に落下し、そこを織田勢に討ち取られたともいわれています。

彼は、外国人宣教師のフロイスに「神の掟の敵」と称されるほどの、反キリストです。

いずれにしても、この信長の上洛時の三好勢の戦闘は、まとまりや作戦が見受けられません。
三好長慶、松永久秀という、戦略的に優れた武将がいない三好勢は、もはやただのチカラ任せの武装集団だったのかもしれません。

信長は、幾通りもの戦術を身につけた武将です。
もはや織田軍に対抗できるような三好軍であったとは思えません。

このような三好勢に、足利将軍を守れるはずがないと思います。


◇ 9月30日・14代将軍の死、芥川山城へ

織田軍は三好勢を追走し、9月30日、三好勢の「芥川山城(あくたがわやまじょう / 大阪府高槻市)」を陥落させます。

この同日に、重要な人物が死にます。
三好勢が擁立した14代将軍の足利義栄(よしひで)が死ぬのです。
こんな、都合のよいタイミングで病死するとは、到底思えません。

確実に、この日に合わせた何かの陰謀暗躍があったと、個人的には思っています。
後で、個人的な推測を書きたいと思います。

* * *

後に芥川山城には、将軍家幕臣で、本コラムで何度も登場した和田惟政(わだ これまさ)が入城します。

この和田惟政がこの城にいてくれたおかげで、この翌年の1569年正月早々、足利義昭や明智光秀は命拾いします。
もしこの時に、義昭と光秀が命を落としていたら、その後の歴史は激変したことでしょう。
このお話しは、次回以降のコラムで書きます。

これだけ下克上の恐ろしさを知っていたはずの和田一族でしたが、後に家臣の高山氏に下克上で追われます。
この時代…、下克上のない城は皆無だったのかもしれませんね。


◇10月2日・三好勢が阿波国に敗走

10月2日、織田軍は、三好勢の「越水城(こしみずじょう / 兵庫県西宮市)」を陥落させ、同日、「池田城(大阪府池田市)」を激戦の末、陥落させます。
三好勢は、大坂湾を渡り、本拠地の「阿波国(あわのくに / 徳島県)」に敗走しました。

この池田城の戦いで、池田勝正が信長の家臣となります。

この池田一族の別の勢力が、後に「荒木村重(あらき むらしげ)」と組んで、信長に謀反を起こします。
光秀より先に行動を起こしたのが、この村重でしたね。
大河ドラマ「麒麟がくる」では、描かれないような気が…。
このお話しもあらためて…。


◇10月3日・芥川山城に帰還

これでいったん、三好勢が畿内からいなくなり、信長と義昭は10月3日に、前述の「芥川山城」に戻って、しばらく滞在します。
当時のこの周辺地域では、この芥川山城が、もっとも防衛力が高い城でした。

この10月3日あたりから、信長が京都を離れるまでの1ヵ月間くらいに、大勢の人物が、それぞれのお宝を持って、信長のもとにやって来ます。
信長の怒涛の「名物狩り」が始まります。


◇名物狩り

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、相当なお宝が登場していましたね。
源義経が着用した鎧甲(よろいかぶと)が、しっかり映っていましたね。

* * *

松永久秀は、名茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」に、名刀「薬研通吉光(やげんどおし よしみつ)」を添えて、信長に献上しました。
「二つとも、あの足利義満殿が所有されていた名品でございます。天下人にこそふさわしい逸品でございます。わが家には、まだまだ名品が山ほどございます」と久秀が言ったかどうか…。
いずれにしても、武士からの贈り物の最高級品ですね。

この「九十九髪茄子(つくもかみなす)」のお話しは、次回コラムであらためて書きたいと思っています。

あくまで個人的な思いですが、久秀がどうして「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を選択したのかと、昔から不思議に思っています。
見栄えのする高級品であれば、他にもたくさん所有していたはずですが、この地味な茶器をどうして選んだのか…?
いち歴史ファンとしては、まさに想像が膨らむ、この「九十九髪茄子(つくもかみなす)」です。
おそらくは、久秀の何かの思いや思考、ひょっとしたら軽妙なメッセージや洒落(しゃれ)も込められていた気もしないではありません。
次回に、この「九十九の髪(神)様」のことを書きます。

* * *

堺の豪商の今井宗久(いまい そうきゅう)は、天下三壺のひとつの「松嶋の茶壺(ちゃつぼ)」と、名茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう)の「紹鴎茄子茶入(じょうおう なす ちゃいれ)」を、少し後に献上させられました。
こちらも、文化人からの贈り物としては最高級品です。
ですが、茶壷で満足するはずのない信長です。
後に信長は、商業自治都市の「堺」に、超多額の戦費を出させます。

今も昔も、歴史的なお宝は、どこかに隠れて眠っていて、ここぞという時に出てきますね。
新しい天下人が登場すると、名品たちも登場してくるのです。
あるところには、ある…。


◇14代将軍 足利義栄の死

大河ドラマ「麒麟がくる」では、松永久秀の処遇についても、ドラマの中で織田家臣と幕臣たちが大もめでしたね。
13代将軍の義輝(義昭の兄)の殺害計画を作ったのは、松永久秀以外に考えられないと、以前のコラムでも書きました。

信長という「人材集め屋・人材使い屋」が、この久秀を殺すはずがないと思います。
これほどの陰謀を企て、実行できる人間を、信長が欲しがらないはずはないと思います。

茶器の「九十九髪茄子(つくもかみなす)」がいくらの値段で売れようが売れまいが、信長には関係ないはずです。
信長から、1000貫(がん)の値段で買えと言われたら、相手は買うか、死ぬかの選択ですね。
実際に、この御茄子は、値段があってないような品物で、時代を経て暴騰していきました。

* * *

先ほど、9月30日に、14代将軍足利義栄が謎の病死をしたと書きました。
ここまでの間に、義栄は謎の病気が悪化していったようですが、まるで松永久秀の主君だった三好長慶(みよし ながよし)にもそっくりです。
私は、義栄の死は、何かの陰謀での暗殺だと思っています。

信長が、信長自身への何の実績も持参せずに、その者を家臣にしたり、信長が味方になってあげたりするとは思えません。
織田軍の軍団組織運営にも影響します。

信長自身や家臣が、仮にも足利将軍を手にかけるには体裁が悪すぎます。
信長が、松永久秀の支援に大軍団を送り、彼に大和国(奈良県)の支配権と彼自信の身柄を保障してあげるかわりに、この14代将軍の命をとってこいと伝えても不思議はない気がします。
久秀にとっては、三好勢の中に暗殺者を潜り込ませることなど、かんたんなことですね。

義栄は、すでに身体がかなり弱っていたとも思われます。
誰かが、その日に、とどめをさしたようにも感じます。

* * *

信長は、自身が欲しい人材に「来てくれ」とは言いません。
相手に来させるようにしむける典型的な武将です。

信長は、久秀にこんなことを言ったかもしれません。
「久秀殿の所業はすべて承知している。
足利将軍をすでにひとり葬っているのだから、もうひとりもできるだろ…。
それを表ざたにもしないし、今回の三好勢討伐でも、三好一族と松永一族は切り離して考える。
大和国もくれてやろう。
あげたいというのなら、茶器と名刀はもらっておく。
お前の命は、義栄と引き換えだ…」。

「桶狭間の戦い」や「美濃攻め」の時の交渉と、きっと同じだったと感じます。

三悪武将「三梟雄(さんきょうゆう)」のひとりの松永久秀でしたが、信長は確実に、その上をいきましたね。
あくまで私の想像です。


◇松永久秀を助ける

さて、「九十九髪茄子(つくもかみなす)」に関連したお話しです。

信長が「桶狭間の戦い」で、最大級の功労者の家臣の簗田政綱(やなだ まさつな)に与えた褒美が、お城ひとつと、お金が600貫(がん)だといわていますから、「麒麟がくる」での「九十九髪茄子の1000貫」は、それよりも高額です。
名刀「吉光」との合計金額かもしれません。
久秀本人が、「オレを1000貫の持参金付きで自身を売る」というのなら、そうなのかもしれません。

松永久秀が、それとは別に、信長に人質を差し出したのは、後の10月28日です。

* * *

信長は松永久秀の大和国(奈良県)を安堵し、「切り取り次第(久秀による奈良の武力制圧を認める)」としました。
「三好三人衆」から離れ、松永久秀のもとに走った三好氏の主家の三好義継も、信長に服従し安堵されます。

とはいえ、大和国は松永久秀だけでは三好勢を圧倒できません。
信長は10月10日に、細川藤孝、和田惟政、佐久間信盛ら2万の大軍を大和国に送り、奈良の三好勢を圧倒します。

これまでのコラムの「上洛の準備」の話しの中で、9月頃に、松永久秀が三好勢相手に苦戦し続けていたことは書きました。

強い戦国武将の戦術のひとつですが、相手が本当に苦境になり、おぼれ死にしそうになるまで、「助け船」を出さないという手法があります。
「死にそうです。どうか助けてください」と久秀が言ってくるまで、傍観し続けるのです。
それまでは、「がんばれ」、「待ってろ、すぐに行く」とか言い続けます。
松永久秀を必要ないと思えば、彼が死んでから、「助け船(制圧の船)」を送り出します。
今も昔も「助け船」とは、そんなものです。

「九十九髪茄子」は、松永久秀の命を救い、信長に大和国を運んできました。
すごい茄子神様でしたね。

でも、久秀さん…、これで信長が「守り髪(神)」になってくれたと思うのは、まだまだ甘かったですね。

* * *

この年の12月、久秀は、岐阜の信長のもとを訪れます。
これまた、山ほどの名品やお宝を持参しました。
「おっさんず・名物攻撃」ですね。

とはいえ、この信長…、「名物攻撃」などで落とせるような甘い武将では決してありませんでしたね。

この久秀の岐阜行きも、信長の何かの考えがあったと思っています。
まだまだ信長は、久秀を信用していたとは思えません。

この久秀が岐阜に来ているのをいいことに、阿波国(徳島県)に逃れた、あの三好三人衆が畿内に逆襲を始めます。
またまた不穏な空気が、京周辺に…。

本当に、久秀は三好勢の動きを知らなかったのか…?


◇10月14日・本圀寺へ

さて、10月14日、信長と義昭は芥川山城を出て、義昭は京の「本圀寺(ほんこくじ)」に、信長は清水寺に入ります。
信長は、京都中心部を相当に厳重な防衛体制で固めます。
おそらく、敵の小軍勢程度の規模では侵入できなかったと思われます。
ひょっとしたら、洛外との往来を閉鎖したかもしれません。


◇10月22日・義昭 将軍就任

10月22日、義昭が15代将軍に就任します。
室町幕府の再興の瞬間です。


◇10月24日・信長 帰国

10月24日、信長が義昭に帰国を伝えます。
義昭は、最大級の賛辞と感謝状を信長に贈ります。
そこまで言うか…、ちょっと気持ち悪い。

でも、2日後にもう帰国…。


◇10月26日・信長 岐阜帰還

10月26日、信長が岐阜城へ帰城します。

京には、木下藤吉郎秀吉、佐久間信盛、丹羽長秀、村井貞勝(後の京都所司代)ら、5000の兵を京に残していきました。
ですから5万程度の兵は、それぞれの国に帰国したということです。

明智光秀は、義昭の直属の幕臣として、京に残りました。

* * *

先ほど、松永久秀から人質を差し出させたのが10月28日と書きました。
自治都市の堺から、超多額の戦費を出させたのもこの頃です。
ようするに、商人にとっては出費は人質も同然です。
相手に合わせて、質入れさせるものを変えるのも、信長流ですね。
質流れは、差し出した者たちの死を意味するのかもしれませんね。


◇この一か月間に

足利義昭は、兄の義輝の襲撃に関わったとして、関白の近衛前久(このえ さきひさ)を追放します。
「麒麟がくる」でも、彼の窮状が描かれていましたね。

近衛前久はその後、丹波の赤井直正、石山本願寺の顕如(けんにょ)とつながることになります。
1575年になって、彼は信長のチカラで復権しますが…。
彼の野望の炎は、ずっと燃え上がったままでした。



東播磨(ひがしはりま / 兵庫県東部)の別所氏、丹後国の一色氏、丹波国の波多野氏が、信長に服従します。
そりゃあ、三好勢をあっという間に敗走させ、新将軍を誕生させた信長に反抗するなど、その武家の滅亡を意味しますね。

* * *

信長は、9月初旬に岐阜を出発し、10月末に岐阜に戻ります。
このたった二ヵ月間で、これだけの成果を上げるとは、あまりにも見事な「上洛作戦」だと感じます。
この見事なスケジュールにも驚かされます。
最初から細かな日程が作ってあったかのようです。

家臣や、味方の武家を一気に増やし、堺の豪商も味方につけ大金を出させ、おまけに名物狩り…。
この1568年の信長の求心力は、すさまじいものを感じます。

* * *

さらに、忙しいこの時期に、彼はさまざまな独自の法令を発令しますから、そうした法令の担当者も同行させたのかもしれません。
軍事行動をとりながら、同時に新支配域に統治機能をすぐに作っていったのかもしれません。

関所を撤廃する等、経済的な自由度もどんどん広げていきます。
そのかわり、有力な自治都市の堺は直轄する街とします。

さまざまな場面で、圧倒的なチカラを発揮する信長に、当時の「正親町天皇(おおぎまちてんのう)」も、信長にさまざまなアプローチをし、信長はそれにも応えていきます。
当時の天皇家は財政的にも困窮しており、さまざまな権力者から支援を受けますが、天皇は、信長に高く満足しています。

信長の言葉「襲撃された13代将軍足利義輝は、朝廷とまったく上手くつきあえていない…」を実証する行為ですね。
信長が、朝廷と深くつながろうとしたのには、理由がありました。


◇信長の野心

この上洛作戦は、明智光秀が直接関わる場面が少ないので、大河ドラマ「麒麟がくる」では、さらりと流されてしまいましたが、織田信長という人間の、ち密さや行動力、知力を知る上では、とても面白い「上洛作戦」です。
さほど激しい戦闘をしないで、知力で、京周辺の支配権を手中にしたとも感じます。

「天下」という思想は、戦国時代の中で、その範囲域がどんどん広がっていきます。
当初は、京の都のある畿内周辺域あたりから鎌倉までの東海地域、九州の北部あたりを制圧すれば、「ほぼ天下をとった」とも言えましたが、そのうちに関東も、北陸も、中国地方も、九州も、四国も、東北も…、しっかり支配下に置かないと「天下」をとったとは言えなくなっていきます。

信長の影響範囲は、この段階で、まだまだ京とその周辺域のみです。
この段階では、上洛したとはいえ、「天下をとった」とは到底言えない状況です。
とにかくこの時点では、朝倉義景、上杉謙信、武田信玄という武将たちが存在しているわけですから、まだまだ天下人候補としか言えませんね。

それに、世の中の見方は、将軍の下で、将軍を支える信長という存在です。
信長が「天下布武」などと叫んだところで、武士のトップは足利将軍なのです。

* * *

信長は上洛時に、義昭将軍から「副将軍」に就任するように要請されましたが、断ります。
そこに、信長の別の野心があるのが、よくわかりますね。

前述しましたが、信長が、朝廷との深いつながりをつくろうとしたのも、そうした野心が関係していたと感じます。
義昭も、それに気がついたはずですね。

その後の信長の、「天皇を越える日本の頂点」になるという思想は、この時点では、まだ感じられません。

まずは、将軍が存在していたのでは、信長は武士のトップではありません。
この段階で、足利将軍の存在を、信長はどのようにしようと考えていたのでしょう…。
先ほどの壮大な野望は、その次の話しです。
まだその時ではありません。

信長という人間の野心には、長生きしたとしても、終着駅がなかったかもしれませんね。

* * *

この後、明智光秀はというと、京でたいへんな事件に巻き込まれます。
そのことは次回以降のコラムで書きます。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、すでに先に進んでしまっていますので、本コラムも急いで追いかけなければ…。


◇信長の用心深さ

信長のち密な計画と、着実な行動…、信長のこうした姿勢には、何かへの「恐れ」が常にあり、それに備えたものであったのは確かであろうと感じます。

上洛後、義昭の将軍就任を見届け、信長はあっという間に岐阜に戻ってきましたが、個人的には、大きな理由があると思っています。

尾張や美濃から動員した多くの武士を、京にいつまでも滞在させておくわけにもいかないのは当然です。
金もかかります。

個人的な推測ですが、私は、それよりも、朝倉氏と、甲斐国(山梨県)の武田氏の動向が相当に気になっていたように感じます。
それに雪をむかえる季節になります。

京と岐阜の間には、今でも豪雪地帯の関ヶ原があります。
「朝倉と武田と雪」…、これが岐阜へのスピード帰還の要因ではないかと感じています。

ずっと後になって、その予感は敵中しますが、そのことは次回以降に書きます。
どの武将でも、のん気に京都観光などしていられないのが、戦国時代でしたね。

* * *

さて、信長の上洛作戦の大成功によって、信長の中から、前述の何かの「恐れ」が減っていったのかもしれません。
それにともなって、彼の持ち味の「ち密さ」や「用心深さ」が減っていった気もします。
ある意味、「油断」を生んでしまったかもしれません。

後の信長のさまざまな軍事計画には、「性急さ」が見て取れる気がします。
「感情」や「迷い」も影響してきます。
武田信玄への「恐れ」は小さくなることはなかったでしょうが、朝倉氏にはどうだったでしょうか…?

信長は、大軍団の維持管理の難しさにも直面します。
そうなると、成果が出にくくなりますね。
そこに「焦り」や「怒り」も生まれ始めます。

信長は、上洛の後、戦闘や作戦の甘さを見せる場面も出てきます。
そしていずれ、信長は、明智光秀という存在の大きさに、あらためて気づかされることになります。

信長のすごさは、自身の失敗を振り返り、自身の甘さを修正できることにあります。
良い修正なのか、悪い修正なのかは、おいおい書いていきます。


◇過ちの貴さ

ちょっとだけ、そんな信長の姿勢に関連したお話しを書きます。

つい先頃の11月のある日、「酉(とり)の市」の際に、近くの神社に詣でました。
その神社の片すみに、東京都神社庁がつくった一枚の短冊(リーフレット)が置いてありました。

そこには、佐久間象山(さくま しょうざん)のある言葉が書かれていました。
佐久間象山とは、江戸時代の幕末に活躍した人物で、その思想は明治維新を生む原動力にもなりましたね。

その言葉とは、
「士は過ちなきを貴しとせず。過ちを改むるを貴しと為す。」というものです。

その短冊には、歴史に興味のない現代人にもわかりやすくするためなのか、意訳が書かれていましたが、歴史ファンの私には少し「ウン?」とも感じました。
とはいえ、象山の言葉は、実にもっともです。
本当は、学校でも、家庭でも、そういう教育であってほしいのですが…、ついつい心配で…。
実は政治も同じ…。
人も政治も、この「改むる」が難しいのです。


◇いよいよ来るか… 信玄

1568年10末頃に岐阜に戻った信長でした。

11月から12月にかけて、信長は、畿内の京、奈良あたりの政治的な処断や法令づくりを次々に行います。
この忙しさ…、お殿様は遊んでいる暇はありませんね。

尾張美濃の隣国である「伊勢国(三重県)」の情勢分析も必要ですね。
三河国の徳川家康と、さまざまな相談も開始します。

* * *

12月、おそらく当時の日本で最強武将の中のひとり、武田信玄がいよいよ動き出しました。
信長と義昭の上洛作戦に手を出さないという約束は終了しました。

信玄が、今川氏の残党、そして徳川氏を倒し、その後、織田氏を倒し上洛をめざすのは予想できます。
信玄も、信長同様、武力のみで突き進む武将ではありません。
敵にどんなワナをしかけてくるか、わかりません。
信長がこれまで戦ってきた、どの武将よりも信玄は強敵のはず…。

もし武田信玄が、越前国の朝倉義景と組んで、信長をはさみ討ちにしてきたら、相当にやっかいです。
信長は、その前に何とか手を打たないといけませんね…。

信玄に残された命の年数は、あと5年…、間に合うか 信玄!
それまで持ちこたえられるか、信長!
上杉謙信も含め、まさに寿命競争勃発!

義昭には、駒ちゃんのあの薬が…。


◇オレ様がついた餅を…

江戸時代の落首(らくしゅ / 街角の立て札に書かれた、匿名による風刺や政治批判などの歌や文章)に次のようなものがありますね。

「織田がつき、羽柴がこねし、天下餅、座して喰らふは、徳の川」。

三英傑を餅つきにたとえた内容です。

武将たちの、戦における攻撃と防御というピリピリと張りつめた緊張感、そして爆発しそうな恐怖感…、個人的には、この三人で、もっとも厳しい状況にあったのは信長であろうと思っています。
とにかく、ものすごい強敵たちがいましたね。

信長がある程度、強敵を倒しておいてくれたおかげで、その後の秀吉も、家康も、信長ほどの恐怖感の量は味合わなかったかもしれません。
もちろん秀吉には、家康という、ものすごい恐怖感はあったでしょう。
家康は、武田信玄に完膚(かんぷ)なきまでに叩きつぶされましたが、ここで死なない運の強さが家康にはありましたね。
逆に信玄は、ここで命の運がつきました。

歴史ファンとしては、これから始まる戦国時代末期の大決戦だらけに興奮しますが、当事者や一族家臣の恐怖感は、はかりしれません。
戦に負けたら、もろとも死ぬのです。

この戦いが、テレビドラマや小説の中だけなら いいのですけれど、戦国時代の彼らには目の前の現実でしたね。

* * *

さて、次回以降のコラムでは、上洛作戦を無事に終え、岐阜に戻った信長のもとに、翌年の早々、たいへんな報告が舞い込んだ内容について、それからの畿内の不穏な状況について書きたいと思います。

ですが、その前に、あの「九十九髪茄子(つくもかみなす)」のことを書きたいと思っています。
個人的に、私は、つくもの神様たちが大好きなのです。

「九十九の髪(神)様」は、どんな試練を信長に与えるのでしょう…。
茶器や道具は、くれぐれも大切に…。

* * *

 

コラム「麒麟(46)共に九十九髪のはえるまで」につづく。

 

2020.11.12 天乃みそ汁
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