NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。茶器「九十九髪茄子」。在原業平と伊勢物語。付喪神と日本人。金華山とキンカ頭。ウサギとミミズク。神話のお話し。織田信長家臣団の呼び名。五郎左 御座候。動物埴輪。付喪神絵巻・百鬼夜行絵巻・鳥獣人物戯画。黄金山神社。

 

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麒麟(46)共に九十九髪のはえるまで


前回コラム「麒麟(45)明暗の城(京への道 2)」では、織田信長の上洛作戦(近江国から京まで)、足利義昭と信長の入京、三好勢の敗走、信長の名物狩り、勝竜寺城の戦い、信長の野心と用心深さ、佐久間象山の言葉などについて書きました。

今回のコラムは、織田信長の「上洛作戦中」中に、松永久秀が信長に献上した、名茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」について、歴史の謎を書きたいと思います。


◇ 都久毛・九十九・付喪

前回コラムで書きましたとおり、松永久秀は、名茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」に、名刀「薬研通吉光(やげんどおし よしみつ)」を添えて、信長に献上しました。

二つとも、室町幕府の絶頂期の三代将軍で、まさに足利将軍の中で最高の絶対的権力者だった、あの足利義満が所有していた名品です。
義満は、京都の金閣寺を造った人物ですね。

今回のコラムでは、その「九十九髪茄子(つくもかみなす)」という不思議な名前のお話しを書きたいと思います。

* * *

都久毛、九十九、付喪…、どれも「つくも」と読みます。
不思議な音読みと、漢字ですね。

実は、いろいろな歴史や意味合いが、ぐちゃぐちゃに混ざり合って、この「九十九髪茄子」という、不思議なお名前ができ上っている気がします。
その不思議な名前を持つ茶器が、久秀から信長に献上されたのは、どういうことなのでしょう…。

歴史ファンの私としては、面白すぎて、書かずにいられない…そんな気持ちです。
信長の上洛作戦の後の状況を書く前に、まずは「つくも」のお話しを書きます。

さまざまな「つくも」の話しを、別々に書いていきますが、最後に「九十九髪茄子」までたどりつくはずです。


◇川べりのツクモ

現代でもそうですが、川の岸辺に、チカラ強くまっすぐ伸びた、緑色の植物を見ることができます。
茎や葉にしっかり分かれているわけでもなく、何か一本の棒のように見えます。
時に風にそよぐ植物ですが、チカラ強さと同時に、しなやかさを感じます。

この植物を「フトイ(太藺)」と呼びます。
「太い藺草(イグサ)」という意味だそうです。
イグサは、畳表(たたみおもて)に使われる植物ですね。

フトイは、カヤツリグサ科フトイ(ホタルイ)属だそうです。
夏に黄色っぽい花を咲かせます。

お寺の立派な庭の池のほとりにも、この植物はよく似合いますね。

* * *

この植物「フトイ」は、「都久毛(つくも)」、「太藺(おおい)」、「唐藺(とうい)」、「丸菅(まるすげ)」などと呼ばれることもあります。
万葉集に出てくる「大藺草(おおいぐさ)」とは、このフトイのことです。

今でも北アルプスなどで見られる高山植物の「ツクモ草」とは別の植物です。

この「都久毛(つくも)」という別の呼び方と漢字は、いったい何を意味しているのでしょう…。

* * *

ちなみに、現在の第99代内閣総理大臣は、菅義偉(すが よしひで)首相ですね。
「九十九」の「99」と、「丸菅(まるすげ)」の「菅」とは…。
それに、今、コラムを書いているテーマの「麒麟がくる」には、14代将軍 足利義栄(あしかが よしひで)が登場しています。
なんとも奇遇…。


◇ミミズク

古代の伝説の中に、「都久豆美命(つくつみのみこと)」という神様がおられます。
「須衛都久(すえつぐ)神社」は、今の「末次さん」たちの祖先ともいわれています。
古代の奈良の平群(へぐり)地方には、平郡氏という大一族がいましたが、ここには平郡都久王(へぐりつくおう)という人物がいました。
すべて高位で高貴な神様であり、人物たちです。

この「都久(ツク)」という言葉は、猛禽類の「フクロウ」に似た「ミミヅク(ミミズク)」を意味する「ツク」からきているという話しがあります。
本来、今のミミズクという動物は「ツク」と呼ばれていたようです。
この「ツク」とは、漢字で「木菟(つく)」と書きます。

「木菟」という漢字からも、「木にいるウサギ」という意味にも考えられます。
たしかに、フクロウやミミヅク(ミミズク)には、ウサギのような耳に見える部分がありますね。
これを「羽角(うかく)」とか「耳羽(じう)」といいます。
この部分が、何に役立っているかは、わかっていないそうです。

耳のような羽を持つ「ツク」という鳥…、「ミミヅク(ミミズク)」となりますね。

* * *

フクロウやミミヅク(ミミズク)は、知性の象徴…、吉兆を運んでくる鳥…、神のお使い…、などという存在として、今でも多くの神社で大切にされていますね。
最近は、「フクロウ・カフェ」でも…。

この「木の上のウサギ」…、因幡国(いなばのくに / 鳥取県東部)の神話「因幡の白うさぎ」のウサギに通じるのかもしれません。
少しだけ、このウサギのお話しを書いてみます。


◇「ウサギ」という存在

ここで、「因幡の白うさぎ」のお話しと、その後の日本国内のことを、ごく簡単に書きます。

以前に、コラム「神話のお話し(前後編)」でも書きましたが、この「因幡の白うさぎ」を含め、多くの神話は、おそらく何かの実際の出来事がモデルとなっていて、それを神話につくりかえ、古代の二大勢力の争いの歴史や、天皇家による国家統一までの経緯を、史実の記録ではないかたちで残したと、個人的には思っています。
神話は、当時の国造り方針、人づくりの指針にも通じ、非常に大切なお話しだと感じています。

* * *

この「因幡の白うさぎ」の中の、ウサギは九州の宇佐族(うさぞく / 後の宇佐神宮の一族 / 菟狹(うさ)族とも書く)で、ワニ(サメ)は和邇族(わにぞく / 外国からの渡来人)だとも考えられます。

神話の中では、ウサギに上手くだまされたワニが、最終的にウサギに反撃し、どこかに消え去ります。
重傷を負ったウサギはある神様に助けられましたね。
この神様が大国主命(オオクニヌシノミコト)で、別名を「だいこくさま」といいます。
「大黒様(大黒天・シバ神)」とは別の神様です。
「大国」と「大黒」は違います。

この「因幡の白うさぎ」のお話しの後、オオクニヌシは、兄たちと争った後、ある国を統一させます。
ここで、確認で書きますが、オオクニヌシはあくまで神様のひとりです。

後に、オオクニヌシは、「国ゆずり」と後世に呼ばれる大決断を行い、国の統治を、天照大神(アマテラスオオカミ)に移譲し、自身は出雲の地で蟄居隠遁(ちっきょいんとん)となります。
あくまでも神様どうしの話し合い決着ではありますが、権力の移譲であったに違いありません。

後で書きますが、オオクニヌシとアマテラスは、もともと同じ一族です。
アマテラスの弟のスサノオの子孫が、オオクニヌシです。
オオクニヌシが出雲で蟄居隠遁に入ったのは、スサノオが、神様一族から出雲に追放されて暮らしていた土地だったからです。
オオクニヌシが蟄居した住まいは、後に出雲大社となります。

「因幡の白うさぎ」のお話しとは、出雲国(島根県)にいたオオクニヌシ兄弟一行が、お隣の因幡国(いなばのくに / 鳥取県東部)まで、お嫁さん探しに行くというお話しで、オオクニヌシという偉大な神様像を多くの人に示すための神話でもあります。

* * *

天皇家の先祖にあたるアマテラスと、同族のオオクニヌシという、英雄のふたりの神様による話し合い決着によって、日本国の基礎がつくられたといっても過言ではないのかもしれません。

そして、ひとつにまとめられた地上にある日本国を受け取りに、天上界から地上に降りてきた神様が、天照大神の孫の「邇邇芸命(ニニギノミコト)」です。
天上界の高天原から、神様が地上に降りてくる「天孫降臨(てんそんこうりん)」した、その神様です。
その案内役がサルタヒコノカミ(猿田毘古神)です。
あのコーヒーは持ってこなかったと思います。

この受け取り時には、武勇に優れた神様たちも、しっかりついてきました。

* * *

ウサギ(宇佐族)に上手くだまされ、しかし後にウサギに反撃したワニ(サメ)とは、渡来人勢力の「和邇族(わにぞく)」のことでしょう。

先ほど、和邇族はどこかに消え去ったと書きましたが、これが後の天皇を中心としたヤマト王権であり、日本中に「和邇(わに)」の地名が残っていきます。
皆さまの住まいのお近くに、「和邇(わに)」の地名はありませんか?
もともと和邇族は海を支配した一族といわれています。
巧みな航海術で、日本各地に勢力を拡大していったと思われます。
伊勢(三重県)もそのひとつですね。

* * *

前述の「宇佐族」は、古くは「菟狹(うさ)族」と書きました。
こちらは、言ってみれば、九州あたりの有力一族と思われます。
出雲あたりの中国地方にも勢力を広げていたとも考えられます。

ずっと後の歴史上に、天皇家から平氏と源氏が生まれてきますが、菟狹族と和邇族も、何か同じような図式をイメージさせます。
両族とも、後の源平と同様に、天皇家と姻戚関係があったとは思います。

* * *

前述の、日本国を受け取りに来た「邇邇芸命(ニニギノミコト)」…妙な漢字と名前ですね。
あくまで想像ですが、その名の音の響きとして、和邇族(わにぞく)と菟狹族(うさぞく)の融合のように聞こえないこともない気がします。
これも想像ですが、この神様は、後の将軍のような存在にも感じます。
アマテラスの指示で、地上界に、武力とともにやって来たのが、ニニギノミコトです。

* * *

さて、天照大神(アマテラスオオカミ)のお父さんが「イザナギノミコト」で、お母さんが「イザナミノミコト」です。
天照大神の弟の「スサノオ」の子孫が、「大国主神(オオクニヌシノカミ)」です。
いってみれば、神話の中の「国ゆずり」とは、同じ一族内の権力移譲とも考えられます。

* * *

ここからは、個人的な想像物語を書きます。

古代に、日本の土着の大勢力と渡来人勢力が、戦闘(ウサギとワニの海戦)を行って、土着の勢力が最初は優勢でしたが、渡来人勢力の反撃で敗北したところを、オオクニヌシ(天皇家の一部勢力)が土着のウサギらを助け、その後、オオクニヌシが兄との争いを勝ち抜き、一定程度の支配国をつくりあげました。

天皇家の上位の一族であったアマテラスは、オオクニヌシに、その国を本来の天皇家に返すように要求し、戦闘を含む紆余曲折の後、オオクニヌシは平和的にアマテラスに、その国の主権を移譲しました。

この紆余曲折の中では、出雲国に日本各地の神様(天皇家や有力豪族)が集まる大会議や、オオクニヌシ一派のタケミナカタを信州の諏訪(すわ)の地に追放するなどの事件が起きます。
ですから、諏訪の神様だけは、出雲での会議には出席できません

アマテラスのもとで、地上界の日本国がまとめられ、土着勢力と渡来人勢力の両方の一族の血が混ざりあい(姻戚関係)、その後の日本の地上の歴史が始まる…、その統制の中心におられるのは、アマテラスの子孫の天皇となります。

つまり「因幡の白うさぎ」のお話しは、そうした歴史神話の序章とも考えられます。
オオクニヌシも、天皇家の一部であり、「国づくり」において偉大な功績を残した神様です。
「因幡の白うさぎ」では、オオクニヌシは、偉大で、寛大な姿として描かれています。

実際に神話の中で、アマテラスは、オオクニヌシと、その長男を、大きく称えていますね。

* * *

そして、ウサギの一族は、ワニの一族とともに、天皇という神様とその国を支える大事な存在になったと考えられます。
今でも、九州の「宇佐神宮」は、日本において、伊勢神宮とともに特別な神社ですね。

ウサギは、神様が信頼する召使い…。
そして木の上にいるウサギの耳を持つ鳥の「ツク」…、それがミミズクです。
ウサギの一族と、ミミズク(ツク)の「ツク」の名を持つ一族は、同族だったとも考えられます。

「ツク」という言葉は、ウサギにつながる、高い位、貴いものを意味しているような気がします。

実は後に、さまざまな人名の中に、鳥の名が入ってくるのですが、その鳥こそが、位(くらい)や、その一族の歴史や関係性を意味しているとも考えられます。

やはり、「都久豆美命(つくつみのみこと)」、「須衛都久(すえつぐ)」、「平郡都久王(へぐりつくおう)」の、この「都久(ツク)」のもとは、この「ツク」であり、ミミズクであるような気がします。

日本の古代の言葉は、音読みが先にあり、そこに渡来した漢字があてはめられていったという歴史があります。
あてはめるだけでなく、そこには漢字の持つ意味あいが込められていった気もします。

ミミズクの「ツク(ズク)」に「木菟」の漢字があてられたのも、ウサギという意味や歴史を考慮してのことだったのかもしれません。

* * *

さて日本には、「ふなっしー」という有名な「ゆるキャラ」がいますよね。
梨のお化けではなく、「梨の妖精」です。
この名が中国では、どう書かれるかというと、「船梨精(読み:ふなっしー)」です。
ちょっと、ド肝を抜かれました。
漢字が持つ、すごいパワーを感じました。

* * *

戦国時代のお話しの途中で、古代の神話のお話しを少しだけ書きました。
もう少し詳しく知りたい方は、コラム「神話のお話し」をどうぞご覧ください。
本コラムの最後に、そのページをご紹介します。


◇都久と久毛

ここからは、「つくも」の後ろ半分の「くも」のことを書きます。

「久毛(くも・くもう・くげ)」です。
今でも、地名や姓名に、この文字はたくさん見られますね。

「久」とは、もともと背の曲がった老人の姿をあらわした象形文字だとか、病気で横たわる人の背中にお灸をすえる様子を描いた象形文字だとか、いろいろな説があります。

お灸の「灸(きゅう)」という漢字は、長い時間、病人や老人にむけて、モグサに火をつけた状況そのものです。
霊柩車の「柩(きゅう・ひつぎ)」は、ご遺体をおさめた木箱を意味しますね。
「柩」と「棺」は、両方とも「ひつぎ」の意味ですが、若干、意味合いが異なります。

まさに、漢字は象形文字であり、「ユニバーサル・サイン」のようです。

いずれにしても、「久」という漢字は、亡くなった方、高齢の方、長い時間、曲がった長い状態を表現した漢字のようです。

* * *

「毛」は、もちろん人間などの毛髪などの「毛」や、細く長いもの、細かいこと、わずかなことなど、たくさんの意味や使い方がありますね。
この漢字自体にも、毛がたくさん生えています。

ただ、この「毛」の語源は、「生(き・け)」だといわれています。
「生きる」という意味が大元だったともいわれています。

たしかに、毛は、何かの生き物のように、人間の意思に左右されず、勝手に伸びてきますね。

「久の毛」である「久毛」とは、「何かが永久に生き続けてほしい」という願いが込められた言葉なのかもしれません。

* * *

前述した「都久(つく)」と、この「久毛(くも)」…、結びつけると「都久毛(つくも)」です。
この「都久毛(つくも)」という文字の中には、ミミズクやウサギの陰が見え隠れしているような気もします。

皆さまは、どのように想像されますか…?

偉大で、あまりにも貴いことがらを連想させる「つく(都久)」と、永久に生き続けることを連想させる「くも(久毛)」です。
偉大で貴くて、長く長く、永く生き続ける…、それが「つくも(都久毛)」なのかと想像してしまいます。


◇つくもの精神性

前述の植物の「フトイ」の別名が「都久毛(ツクモ)」だと書きました。
「太い藺草(イグサ)」の「フトイ」では、見たままの名称ですね。

武家や公家の庭にある植物の「フトイ」や、庶民の近くに流れる川に群生する「フトイ」も、何かの願いを込めて、「都久毛(ツクモ)」と、おまじないのように呼びたくなる気持ちもわかる気がします。
まるで、地面からはえた「毛」のようにも見えます。

勝手な想像ですが、「都久毛」は、「都の公家(くげ)」とは、何かつながっていないでしょうか…。
都の公家たちの邸宅の庭には、きっと「都久毛(つくも)」が、願いを込めて、たくさん植えられていたことでしょうね。

その漢字表記の仕方は別として、この「つくも」という言葉には、「偉大・永久・生きる」という、ある種の精神性が込められていたのかもしれません。

まさか平安時代以降、戦国時代あたりに、「つくも」と聞いて、ミミズクやウサギ、都久や久毛の文字を連想する者はいなかったでしょうが、この精神性は理解していたのかもしれません。

あくまで、私の想像での見解でしたが、「都久毛」のお話しはここまでにします。

なかなか「九十九髪茄子(つくもかみなす)」には、たどりつきませんね。


◇九十九

さて、「九十九(つくも)」という漢字の数字は何を意味しているのでしょう。
「99」という数を、なぜ「つくも」と読ませるのでしょう。

以前のコラム「神話のお話し・前編」で、日本の古代のある時期までは、数の最大値が「八(はち)」で、その8という数値は、最大値であり、無限大や永遠を意味していたと書きました。

ですから、8という数に意味はなく、無限大、最大、最高、永遠などの意味として、「八」がさまざまな言葉の中に使われていました。
「八百万(やおよろず)の神」、「八幡さま」、「うそ八百」…みなそうです。
その後、それを越える数値や存在として「九」が登場します。
このお話しは、このくらいに…。

* * *

この「九十九(99)」という数値については、、百(100)から一(1)を引くと、「九十九(99)」となりますね。
漢字表記で、「百」から「一」を引くと、「白(しろ)となります。
まるで、とんちです。

百歳の一年前のお祝いを「白寿(はくじゅ)」と呼ぶのはそのためです。

「九十九髪茄子」の「九十九髪」とは、言葉の直訳としては、99歳の老人の白髪を示しているのです。
この「9」や、9が重なる「99」という数も、前述の「8」と同じで、その数に意味はありません。
この場合も、無限、最長、最高、永遠を意味しています。

ですので、「九十九髪」とは、高齢の方、貴い方の髪の毛(白髪頭)を表現しているものです。
年齢に意味はありません。

* * *

人間の髪の毛は、人間の成長と老化の中で、その色や状態が変わっていきますね。
茶器などの焼き物も、年月を経ると、その見た目や色が変わり、味わいが増していくものもあります。

茶器は、歴史の中で持ち主が変わり、代々の持ち主の思いが、その品物に込められてもいきますね。
茶器の風合いの中に、何かの貴さや、永遠を感じることもあります。

* * *

「つくも」には、前述の「都久毛」の漢字のように、「偉大・永久・生き続ける」という精神性の意味が含まれていましたね。

「九十九髪」の「九十九(99)」を「つくも」と読ませたのは、貴くて長い歴史、生命力、価値や味わい、さまざまな想いなどが、永く生き続けてほしいという意味が込められたためだったのかもしれません。

「都久毛(つくも)」から、「九十九(つくも)」という漢字表記につながったようにも感じます。
この二つの漢字は、「つくも」という共通の思想でつながっているのかもしれませんね。

* * *

そして、この「九十九髪」の「髪(かみ)」には、おそらくは「神」という存在の意味合いが込められているのだろうと、私は思っています。

皆さま…、「つくも神」という神様をご存知でしょうか…。
漢字では「付喪神(つくもがみ)」と書きます。


◇付喪神

「付喪(つくも)」の「喪(も)」とは、「喪中(もちゅう)」とか、「喪服(もふく)」とか、「服喪期間(ふくもきかん)」などの「喪(も)」です。

「喪」の意味は、ある人物が亡くなり、その近親者や縁者、その人物を慕う者たちが、その人物を敬意とともに想い偲び、日常とは違う禁忌(きんき)の状態に一定期間入り、その行為を行うといったことであろうと思います。
この表現が正確かどうかはわかりませんが、いずれにしても、その死者を安らかに送り出す行為であり、その気持ちをあらわす文字だと思います。

知らない家にかかげられた「喪中」という札の文字を見ただけで、何か厳かなものを感じます。

* * *

似た言葉に「忌(き)」がありますが、これは死を、「正」とみるか「否」とみるかによるのかもしれません。
本来の古代の日本は、死や埋葬地を、肯定的な神聖な場所と考えていたこともあり、恐れの対象ではなく、暮らしの場所の中心に置いていました。
歴史が長くなるにつれ、人間社会のさまざまな心情などが加わり、その意味あいは、宗教によってさまざまなとらえ方があるのだろうと感じます。

* * *

先に旅立った者たちは、遺された者たちを、さまざまなものから守ってくれる…、まさに精霊や神となって、現世の近くで生き続けるという思想も、後に歴史の中で生まれてきます。
さらに、「生まれ変わる」という思想も登場してきます。

神話の中に登場してくる「黄泉(よみ)がえり」は、前述の天照大神(アマテラスオオカミ)の時代からの思想です。
この「黄泉がえり」は、「黄泉(よみ)」という死者の国から戻ってくることを意味します。
今は、少し広い意味で「蘇(よみがえ)る」という漢字を使いますが、「復活」や「輪廻」という思想が背景にありますね。

* * *

日本人の中には、土地であろうと、建物であろうと、道具であろうと、すべてのものの中に神が宿っている…、精霊や魂がその中に生きている…、と考える人が多いですね。
だからこそ、それらのものを大切に扱います。

戦国時代の武家が、その武家を構成する個人の命よりも、その家の血の継続を大切にしようと考えるのもわかる気がします。

* * *

日本人の、万物に神や精霊が宿るという思想は、古代からあったわけではなく、おそらく平安時代頃に生まれて、どんどん成長していった気がします。
個人的な見解です。
人間や動物を神格化するだけでなく、刀や鎧兜などの武具はもちろん、日用品にまでその思想は及びます。

そして室町時代や江戸時代にいたっては、庶民がそれを楽しむ娯楽文化のようにも変容し、発展していったように感じます。
釜戸の神様、ほうきの神様、傘の神様、茶碗の神様…、現代ならエンタの神様。
神様ではなく、妖怪などの無邪気な怪物にも変化していきます。
一応、付喪神の定義としては、器物や道具は長い年月が経つと、まずは妖怪になるようですね。

* * *

実は現代人でも、 野球選手であれば、グラウンド、バット、グローブには、それぞれ神聖な神や魂が宿っている…、自身はそれに守られ、それによって活躍できる…。
投手が、マウンドの地面に手をついて何かを祈るシーンも、時折見かけます。
「感謝します。私にチカラを…」などとクチにしているのかもしれませんね。

マラソン選手が、ゴール後に、走って来たコースに向かって振り返り、頭を下げる様子もよく見かけます。
どのような思いが込められているのでしょう…。

家庭の主婦は、台所に神聖な精霊がいてくれるとは感じないかもしれませんが、これがプロの料理人であれば、自身の調理場に、そう感じてもまったく不思議はありませんね。
理髪店の主人なら、自身の「はさみ」への思い入れは、ひとしおでしょう。

こうした物への畏敬(いけい)の精神こそが、自身の行動の源になっている…、そんなことでしょうか。

* * *

竈(かまど)三柱神、針供養、人形供養、眼鏡供養、魚供養、はさみ供養、茶道具供養、鏡供養、馬頭観音…、みな根底では、付喪神とつながっているのかもしれませんね。
日本人は、本当にいろいろなものに感謝し、供養しますね。

私は、現代の日本人にも備わっている、この精神性は、「付喪神」と無縁ではないと感じています。

* * *

そして、「喪」という、大切で神聖、精霊や魂を感じさせる漢字を、この「つくも」という言葉の中の「も」に、あえて、あてたのだろうと、個人的には感じています。

「喪が付いた神様」、「神様が喪をお付けになった」、「そこに付いた喪の神様」…。

それぞれの器物や道具におられる「つくも」の神様…、それが「付喪神(つくもがみ)」なのかもしれません。

* * *

ですから、漢字のない「つく」と「くも」が先にあり、「都久毛」が生まれ、「九十九」が生まれ、その後に「付喪」が生まれてきたという気がします。
これからも、別の漢字の「つくも」が生まれてきても不思議はありませんね。

* * *

今の現代でも、さまざまなアーティストたちが、「付喪神」を題材として、さまざまな絵や造形物を製作しています。
いってみれば、日本人の「ゆるキャラ」好きも、こうした古い時代背景の延長上にあるとも考えられます。

日本人特有の、万物に神が宿るという思想…、栄枯盛衰に思いをめぐらし朽ちていく様子の中に「もののあわれ」を感じる精神…、古いものに愛着をおぼえ、それに感謝し大切にする気持ち…、などは平安時代頃から現代に続く、日本人ならではの思想であろうとも感じます。
もちろん外国にもありますが、日本のそれは何かが違う気がします。

* * *

旅先で、その風景に「やって来たよ」とあいさつしたり、頭を下げる日本人の方々も少なくありません。
富士山が見えたとたん、手を合わせ、何かを祈る人も少なくありません。
神社の境内の出入りに、鳥居をくぐらないと気がすまない人も少なくありません。
自動車の新車には、神社のステッカーを貼らないと気がすまない人も少なくありません。
それが日本人ですね。


◇付喪神絵巻・百鬼夜行絵巻

道具でも、動物たちでも、すべてを擬人化、妖怪化、神格化させる行為は、昔から絵でもたくさん残されています。

「付喪神」たちを描いた有名な絵巻物に、室町時代の「付喪神絵巻」や、京都大徳寺の「百鬼夜行絵巻」があります。

* * *

前述した付喪神の思想により、器(食器や茶器)や古い道具(ほうき、はたきなどの日用品)は、長い年月を経ると、精霊を宿して妖怪となるため、人々は「お清め」の感覚で、毎年 立春の前にそれらをきちんと処分したようです。
中には無造作に、路地に捨てられたそうです。

無下(むげ)に捨てられた器の精霊たちは腹を立て、妖怪となり、人間のもとに戻ってくるのです。
彼らは、仏教のチカラで、最終的には成仏し、神様となっていくというのが「付喪神絵巻」のお話しです。

今の現代人が、ビニールやプラスチックのゴミを、海に投棄し、それが妖怪になって、人間に復讐してくるのは、これと同じ現象かもしれません。

人間に、多くの戒めや導きを与えてくれる…、付喪神の絵巻物ですね。
これで人間社会の中に、物を大切にする精神が培われ、羽目をはずすような行動や、道を誤るような生き方をしなくなるのでしたら、器や古道具たちは、まさに神様ですね。

道具を見ることで、使わせることで、その人の過ちを考えさせるとは、崇高な神様たちですね。

* * *

「百鬼夜行絵巻」は、動物の妖怪たちを含めた付喪神たちのパレードの絵です。
さしずめ、妖怪図鑑のようなもので、その中に、道具が変化した妖怪たちも描かれています。


◇鳥獣人物戯画

似た雰囲気の絵で、ウサギやカエルなどの動物を擬人化した絵を集めた「鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)」があります。

こちらは、実在する小動物や、麒麟などの架空の動物の姿を、まるで人間のような行動をする姿で描いたものです。
ですから、付喪神の絵とは、描く方向性が少し違います。

この「鳥獣人物戯画」は、おそらく平安時代から鎌倉時代頃に各所で描かれたものを、集めた画集です。
いずれも、こっけいで、楽しく、身につまされる内容の絵もあります。

* * *

これらの戯画は、付喪神の絵とほぼ同じころに成長していった絵の文化かと思います。
娯楽文化といった側面もありますが、確かな精神性も感じます。

人が人の道を踏み外さない…、知らず知らずに正道を身につけさせてくれる…、作者もわからない絵です。

皆さまも、一度、「付喪神絵巻」や「百鬼夜行絵巻」、「鳥獣人物戯画」というキーワードで、ネット検索していただけましたら、たくさんの道具の妖怪や神様の絵、擬人化した動物たちの絵をご覧いただけると思います。

妖怪とはいっても、愉快な絵が多いので、子供たちもきっと好きになってくれるはずです。


◇伊勢物語

さて、まだ茶器の「九十九髪茄子」までたどりつけていません。

「都久毛」、「九十九」、「付喪」、植物の「フトイ(ツクモ)」のことを、ここまで書いてきました。

ここからは、平安時代につくられた「伊勢物語(いせものがたり)」のことを書きます。

これは、和歌を含む、短編小説の集まりのような書物です。
「昔、男ありけり」という冒頭文章で始まる、実名のない男性主人公が巻き起こす恋愛遍歴のお話しです。

今でいえば、有名お金持ち家のボンによるスキャンダル事件のてん末といったところかも…。
少しガサツな表現でした…。
純愛を含む恋愛短編物語に訂正します。

* * *

主人公の実名は書かれていませんが、モデルは、在原業平(ありわらのなりひら)といわれています。
誰でも知ってる「プレイボーイのあいつ」といったところです。
悪気はないのだろうけれど、ちょっとチャラい…。

天皇の孫、貴族のボン、和歌大好き、遊興大好きの男性が巻き起こす、男女のかけひきのお話しです。
この本は、まだまだ研究調査中の内容です。
とはいえ、平安時代に、すでにここまでのレベルの恋愛物語が書かれていたことには驚きます。

私自身は、よく知る分野ではないので、あまり詳しくありませんが、あしからず…。

* * *

問題は、この伊勢物語の中に「つくも」という言葉が登場してくることです。

伊勢物語の「第63段」の文章を、かなりざっくりと、かいつまんで書きます。
ちょっとだけ私流に意訳しますので、あしからず…。


◇百歳に一歳たらぬ…

恋愛経験豊富な、少し年増のある中年女性が、自身の古びた家で、自分の息子たち三人を呼び、しみじみとグチを語り始めます。
「どこかに、優しくて、情が深い、そんな いい男はいないものかな~」。

上の二人の息子は、そんな男はいないよと、そっけなく返答。

一番下の息子が、「そのうち、いい男があらわれるよ」と彼女に言います。
そう返答しながらも、その息子は、母親が在原業平のことを忘れられないことを知っています。
そして彼は、もう一度、母親をその業平に会わせてあげたいと思うのです。

その息子は、業平が狩りに出かけたことを知り、彼に会いに行きます。
母親の心情を業平に話すと、業平は、彼女を不憫(ふびん)に感じ、一度だけ、彼女の家にやって来て、時を過ごします。
ですが、その一度きりで、業平は、この家に来なくなります。

彼女は、こっそりと業平の家に行き、物陰に潜んで、業平の様子を伺います。
業平は、彼女がやって来て、隠れてこちらを覗いていることに気がついてはいますが、気がつかぬふりをして、ある和歌を詠みます。

「百歳に一歳たらぬ つくも髪、われを恋ふらし おもかげに見ゆ」。

〔私の意訳〕
年老いた、白髪まじりの彼女が、長い間、私への想いをつのらせている。けなげな彼女の姿が目に見えるようだ。

さすがに、プレイボーイの和歌ですね。
彼女が、その和歌を詠むのを聞いていることは、業平は百も承知です。
自然にそうした優しさを演出できるのが、在原業平という男です。

そんな業平の和歌の台詞を隠れて聞いていた彼女は、業平が馬に乗って外出する支度を始めたのを見て、とげの突き出た垣根でケガをしながらも、大慌てで自分の家に戻っていきます。
ほんのちょっとのコミカルさを加えるあたりが、この恋愛小説の絶妙な面白さですね。

そして彼女は、哀れ泣き崩れるふりをして、粗末な寝床で横になります。
ちょっとした現代のコミカルドラマを見るようですね。

業平は、彼女の家に馬でやって来て、彼女が隠れて業平の家を覗いていたのと、同じ行為をします。

そして彼女が和歌を詠みます。

「さむしろに衣かたしき今宵もや、恋しき人に逢はでのみ寝む」。

〔私の意訳〕
狭いむしろの床に、衣(着物)を敷いて、今夜もまた、恋しい人に逢うこともできず、一人で寝るだけなのね…」。

息子たちに、「どこかに、いい男はいないか~」と叫んでいた中年女性の姿は、すでにありません。
哀れ、恋愛に見放された、か弱い女性の姿に変わっていました。

その和歌を聞いて、業平は、その家の玄関をたたいたというお話しです。

* * *

この手の話しの連発ですから、当時の上流階級の女性たちが、喜んでこの本を読むのは当然ですね。

細かい心情やコミカルさなどの表現も、現代のテレビドラマに決して負けていません。
男女の恋のかけひきだけでなく、女心も、男心も、素直にしっかり描かれている気がします。

* * *

「伊勢物語」の作者はわかっていません。
男性か女性かもわかっていません。
まさかの業平自身説までありますね。
でも、この文章表現や内容を考えるに、作者は男性ではない気がします。

「源氏物語」の女性作者の紫式部に言わせたら、「伊勢物語は古い」そうですが、現代人から見たら両者とも相当に昔の「つくも書物」ですね。
もし伊勢物語が男性作家なら、紫式部は、「古い」ではなく、「男性」と残したかもしれませんね。

大河ドラマ「麒麟がくる」では、信長は「源氏物語」を理解できない男だと描かれていましたね。
個人的には、信長という人物は、繊細な心の機微(きび)に長けた人物だったと感じています。

越後国の上杉謙信は、恋愛小説と酒に、はまりすぎ…。


◇つくも髪

さて、お話しの内容はともかく、問題は、この「つくも髪」です。
「百歳に一歳たらぬ つくも髪」。

99という数字に意味はありません。
要するに、「百」の漢字が「白」に変わるような、「白髪(しらが)」混じりの頭髪になるほどの長い年月にわたり、業平が女性を放っておいたということです。
この女性は、どのくらいの年月、待っていたのでしょうか…。

「私…、もうツクモよ(怒)。恋、恋、来い…!」

* * *

「百歳に一歳たらぬ つくも髪、われを恋ふらし おもかげに見ゆ」。

〔私の意訳〕
年老いた、白髪まじりの彼女が、長い間、私への想いをつのらせている。けなげな彼女の姿が目に見えるようだ。

* * *

長い年月…、哀れ…、変わらぬ想い…、老い…、複雑に揺れ動く、さまざまな「女心」と、「不憫」と感じる勝手な「男心」が、この和歌の中に込められている気がします。

自身の家を訪れたのに、声もかけずに隠れて覗くだけの女性に配慮する業平の行動を、彼女も理解しています。
これは、「優しさ」なのか…、男のえごか…。
これが在原業平という男です。

彼女の家に行き、同じ行為を行う業平に、彼女は業平と同じように、返答の和歌を詠むという行為で返します。

彼女の行為は、業平の上をいったと考えるべきなのでしょうか…。
最終的に、彼女の思いは成し遂げられます。
手のひらの上に乗ったのは、どちらだったのでしょうね…。

* * *

伊勢物語の中の「つくも髪」の「つくも」に、特定の漢字はありませんが、少なくとも「九十九(つくも)」の意味は含まれています。
この「つくも」には、長い年月…、もののあわれ…、想いの強さ…、優しさ…、さみしさ…、老い…など、多くの要素が内包されている気がします。


◇茶器の贈答

実は、戦国時代での、武将間の品物の贈答において、茶器とは特別な品物です。

誰がどの茶器を所有していたかで、その武将の地位はもちろん、関係性もわかってきます。
歴史を考えるときに、各武将の茶器の所有状況は、何かのヒントになったりもします。

* * *

織田信長は、義父の斎藤道三ゆずりかもしれませんが、「茶の湯」が趣味のひとつでした。
ひょっとしたら、強権的で知将といわれた武将ほど、「茶の湯」が好きだったかもしれません。

松永久秀は、そのことを知っていたはずです。
「九十九髪茄子」のことを、信長がよく知っているはずだと思ったでしょう。

もちろん、久秀が、この茶器名をつけたわけではありません。
足利義満から代々の足利将軍などが所有してきた名茶器なのです。
これまでの錚々(そうそう)たる所有者の顔ぶれだけでも、この茶器の価値を各段に押し上げますね。

* * *

「九十九髪茄子」の茶器に、「九十九髪」の名称が含まれていますが、おそらく、この伊勢物語の繊細で文学的な思想や表現を、あえて盛り込ませ、価値をさらに高めさせたような気がします。

もちろん茶器は「焼き物」ですから、長い年月により、色合いや風合いが変化していき、味わいが深くなっていくでしょう。
白髪というのは、その人物の歴史も感じさせます。
茶器名に、「白髪」ではなく「九十九髪」としたあたりが、非常に芸術的・文学的な香りをにじませます。
それに、「付喪神」にも通じます。

この茶器名には、「九十九髪」の「九十九」も、「付喪神」も、「都久毛」も内包されていたと感じます。

いってみれば、精霊や魂を、茶器に注入したようなことかもしれません。
仏像などにも、同様のことを行いますよね。

まさに神様が宿る茶器であり、最高の地位の者だけがその所有を許される…、これ以上の茶器はないともいえますね。
外見的な茶器の質とは別の次元のお話しです。

* * *

久秀は、金のチカラで、この茶器を手に入れたのかもしれません。
あるいは、勝手知ったる幕府の倉庫から、隠して持ち出したのかもしれません。

久秀は、一世一代のピンチであり、チャンスに、この「神様の茶器」を信長への贈り物として使ったということかもしれません。
「私は、武芸や陰謀だけの武将ではありませんよ」…松永久秀の言葉が聞こえてきそうです。

信長が、いかに、この「九十九髪茄子」を大切にしていたかは、後で書きます。


◇神と成す

「茄子」の名称部分は、この茶器のサイズや色合い、形状を、おしゃれに表現したのかもしれません。
畿内のこの地域では、泉州の「水なす」をはじめ、立派な茄子がたくさん収穫されます。

ひょっとしたら、本来は「茄子」ではなく、「九十九髪に成す・付喪神に成す」なのかもしれません。

さまざな思いや歴史を込めた、小さな茶器を、久秀は信長に献上しました。

* * *

信長は、足利義満が所有していたことや、伊勢物語のことを、当然知っていたでしょう。

お茶席で、この「九十九髪茄子」の茶入れから、茶をさじで取り出し、茶をたてたことでしょう。

きっとお茶席では、伊勢物語の男女の話しや、歴史、神様の話しで、ゆったりと盛り上がったことでしょう。
「足利義満がね…、在原業平がね…、付喪の神様がね…」。
「織田殿も、隅におけませんな~いろいろと…」とかなんとか…。

個人的に、信長が食いつくところは、価値や値段が高いかどうかよりも、こういうところだと感じます。

この「九十九髪茄子」は、信長の大のお気に入りのひとつとなります。
「オレも神に成ろう…!」


◇九十九髪茄子はどこへ…

この「九十九髪茄子」は、あの本能寺の茶会(前日?)でも使われたといわれています。
「本能寺の変」の大火災で焼失した本能寺でしたが、どうして今現代に、この茶器が残っているのか…?

この九十九髪茄子は、松永久秀から信長へ、その後、秀吉、秀頼に渡ります。

「大坂の陣」後、大坂城の焼け跡から探し出され(本当…?)、それを探し出した藤重藤元という漆塗り職人により、修復されたようです。
家康は、修復品などいらないよとばかり(?)、この品を藤重藤元に与えます。

明治期には、三菱財閥の創設者である岩崎弥太郎の弟の岩崎弥之助の所有となったそうです。
それほどの名品なら、なぜ兄の弥太郎ではないのか…?
確証のないお宝は、権力者には、お宝ではないのかもしれませんね。

現在は、東京の静嘉堂文庫美術館に保管されているそうです。

その真贋(しんがん)はわかりません。
もし本物が失われていたとしても、この数々の歴史エピソードや由来だけでも、十分に楽しめますね。


◇御座候(ござそうろう)

最後に、信長のあるエピソードを書きます。

信長が酒宴で酔っ払って、自身のお気に入りを、余興で並び立てて、詠った歌が残っています。

「不動行光(ふどうゆきみつ)、九十九髪(つくもがみ)、人には五郎左(ごろうざ)、御座候(ござそうろう)」。

「不動行光(ふどうゆきみつ)」とは名刀のことです。
「九十九髪(つくもがみ)」とは、もちろん名茶器「九十九髪茄子」のことです。
「五郎左(ごろうざ)」とは、家臣の丹羽長秀のことです。

* * *

これまでのコラムでも、丹羽長秀の処世術の上手さは書きました。
丹羽氏は、織田氏と同じで、斯波氏のかつての家臣であり、織田氏とは同僚の武家でした。
戦国乱世の状況を見て、ある時、丹羽氏は織田氏の家臣を選択します。

これは、酒宴の余興での、信長の丹羽氏へのリップサービスだったかもしれません。
あるいは、「五郎左(ごろうざ)」と「御座候(ござそうろう)」をかけた、信長流のだじゃれだったかもしれません。

ひとりだけ名をあげるのに、丹羽長秀ということは、到底 考えられません。
それに、いくら信長でも、錚々(そうそう)たる家臣団の中で、ひとりだけ家臣名をあげるとも思えません。
これは、余興のじゃれ事のはずです。

私の直感では、「五郎左(ごろうざ)」にかけて、「御座候(ござそうろう)」を信長はオチに言いたかったのだと思います。
ひょっとしたら、信長が言った直後、「五郎左、御座候(ごろうざ ござそうろう)」の手拍子と大合唱が起きたかもしれませんね。
楽しそうな酒宴です。


◇信長がつけた「あだ名」と「呼び名」

信長という人物は、そういう面白いことが大好きな人物だったのは間違いないと思います。

信長は、家臣の「あだ名」付けの名人でもありましたね。
家臣たちの古い「呼び名」も、いつまでも使い続けました。


〔キンカ頭〕

ちなみに明智光秀のあだ名の「キンカ頭」は、その頭の見た目が、柑橘類の金柑(きんかん)に似ていることと、光秀…「光る禿(はげ)」あるいは「光」の文字の下半分と「秀」の上半分を足して「禿(はげ)」になることから連想されたものだともいわれていますね。
実際に、どの程度の毛髪量だったかはわかりませんが、たしかに肖像画のオデコは広めです。

この金柑説も一理あるとは思いますが、個人的には、美濃国の金華山(きんかざん)にもかかっているような気がします。

* * *

金華山は、古くは稲葉山(因幡山)という名称です。
今のあの岐阜城のある山です。
その因幡山の名のとおり、因幡国(鳥取県東部)の豪族が移り住んだ地ともいわれています。

奈良時代に、伊勢物語の在原業平の兄の在原行平(ありわらのゆきひら)が、陸奥国(宮城県)から持ち帰った金花石を、因幡山に奉じ、神社がつくられたという説もあります。
ですから、宮城県石巻市にも金華山という山がありますね。

その宮城県石巻市の金華山は、内陸から離れた小島で、「黄金山(こがねやま)神社」があり、たくさんの鹿がいます。
東日本大震災ではたいへんな被害にあいました。
鹿たちは生き延びてくれたようです。

それにしても、その小島から、海を挟んだ「牡鹿(おしか)半島」に歩いて渡れるほどに、海の水がひくとは驚かされます。
早く全面復旧されることを祈ります。
被害写真は下記で見ることができます。

黄金山神社サイトの被害状況記事


いずれにしても、信長の居城の岐阜城のある金華山は、黄金や石にまつわる山なのです。
光秀の「キンカ頭」というあだ名に、あえて「頭」とついているのは、その見た目もさることながら、その頭の中身もさしているのかもしれません。
ようするに、「古くて固い考え方、頑固で曲げない考え方」を意味しているのかもしれません。
個人的には、金柑よりは黄金石のほうが、少しはマシ…、いや周囲はガンコ者に手を焼く…?

* * *

信長の家臣たち…、ゴローザ、ゴンロク、キンカ頭、猿、ハゲネズミ、犬、松、らん丸、オオヌルヤマ、ヤスケ(外国人家臣)…。
他の武家からしたら、誰なんだその名の者たちは…?


〔自身の子にも…〕

信長は、自身の子供たちの幼名も、変な名前のオンパレードです。
長男の信忠には「奇妙(きみょう)丸 / その顔立ちから)」、次男の信雄(のぶかつ)には「茶筅(ちゃせん / 信長の『茶の湯』」好きから)」、三男の信孝には「三七(さんしち / 3月7日生まれ(?)という説も)」です。

実は、信孝の誕生日は旧暦の4月4日と残っているようですが、本当は次男の信雄より20日ほど早く生まれたといわれています。
信長は、信孝の幼名の中に、誕生日の秘密を残した可能性もあります。

* * *

長男の信忠の生母は、実ははっきりわかっていません。
大河ドラマ「麒麟がくる」では帰蝶が、彼を育てていましたね。
生駒吉乃(いこま きつの)は、ドラマに登場させていませんでした。

次男の信雄の生母は、側室の生駒吉乃(いこま きつの)です。
一応、三男の信孝の生母は、北伊勢の豪族の娘とされています。
この生母の身分や、出身の実家により、順番が逆にされたといわれています。

次男(本来は三男)の信雄には、「三介(さんすけ)」という別名があります。
詳しくは書きませんが、この「介」は「上野介」や「上総介」と同じで、高い身分を意味します。
信孝にはつけられそうにない「介」の文字です。
それに対して、三男とされた信孝には「三七」がつけられたともいわれています。

後に、この信雄と信孝は激しく争うことになりますが、生まれながらにこの兄弟はそうした宿命でしたね。
秀吉は、この兄弟不仲の状況につけこんで、長男の息子の「三法師(後の織田秀信)」を連れてくるという作戦を「清須会議」でたてましたね。

コラム「麒麟シリーズ」のどこかのコラムでも書きましたが、長男の信忠と、武田信玄の娘の松姫(後の信松尼)の間の子が、三法師だという説があります。
ちなみに、信長の幼名は「吉法師(きっぽうし)」で、通称「三郎(さぶろう)」です。
あわせて「三法師」。
名前は、その漢字とともにつながっており、しっかりと意味を持っていましたね。

なんと、三法師は、織田信長と武田信玄の血をついでいるのかも…。
いや~、強くなりそう…。

* * *

さて、信長の「名前づけ」のお話しに戻ります。
だいたい、トップ自身が自分を「魔王」と呼ぶのですからね…。
自身には、ちょっと立派で、まともじゃない…(?)。

信長は、政治や戦闘、城づくりのことを考える中で、名づけや、あだ名づくり、だじゃれに、結構 時間を使っていたのかもしれませんね。

「御座候(ござそうろう)」とは、ひょっとしたら、信長の渾身のギャグだったのかもしれませんね。

安土城内で、普段から、皆で言いあっていたのかも…。
「五郎左、御座候(ごろうざ ござそうろう)」。
安土城内…、結構楽しそう!

五郎左(丹羽長秀)の人物像からして、怒ることはなかったと感じます。
「よさんかい…」、「かんべんしてよ…御座候」とか言い返しそうですね。

権六(ごんろく / 柴田勝家)や、キンカ頭(光秀)だったら、怒ったかも…。
猿でありハゲネズミの秀吉は、そう呼ばれたら、「人気者になった」と飛び跳ねて大喜びしそうです。

こうした名前の面白さが、織田家にはありましたね。

* * *

何(名)にはともあれ、信長は、かなり「九十九髪茄子」を気に入っていたのでしょう。
相当に大切にしていた可能性があります。

信長は、家臣たちに、ご褒美として名茶器をたくさん贈ります。
この茶器の種類で、その家臣の価値や地位が表現されていたのです。

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、これから、たくさんの名茶器が登場してくるかもしれませんね。

この「九十九髪茄子」は、信長が終生、所有していたことからも、よほどのお気に入りだったのかもしれません。
あくまで個人的な考えでは、この「九十九髪茄子」は、信長とともに本能寺から旅立ったと感じています。

信長が最後に、「九十九髪茄子」の「付喪神」の罰を受けたのかどうかは、わかりません。
「信長は、付喪神様に連れていかれた」と面白く語られる現代の方も多くおられますね。
まんざら、ウソに感じられない、面白いお話しです。


◇二人でお茶を

お宝の値打ちとは、その品物の質だけで決まるものでもありませんね。
九十九髪茄子の場合は、その華々しい所有者名と、歴史エピソードに、値打ちの半分はありそうです。

ひょっとしたら、最大の功労者は在原業平と、その彼女だったのかもしれません。
この二人は、その茶器「九十九髪茄子」を、実際に目にしたわけではありませんが…。

今頃、二人で、どこかで茶をすすっているのかも…。
「この茶器名って、私の髪のことなのよ…」。


◇共に九十九髪のはえるまで

さて、今回は、上洛作戦を無事に終え、岐阜に戻った信長のもとに、翌年の早々、たいへんな報告が舞い込んだ内容について書くつもりでしたが、すでに長文になっていますので、次回に回したいと思います。

今、これを読みながら、何か誰かの視線を感じる方…、付喪神たちが、あなたを見ているのかもしれませんよ。

伴侶や、親しい方々に、「共に九十九髪のはえるまで」とか、たまには言ってみましょうか…。
くれぐれも「お前 百まで、わしゃ九十九(くじゅく)まで」とは言わないで…。
付喪神たちは、しっかり聞いていますよ。


◇動物埴輪

もひとつ最後に、今回の内容に関連して、面白い「古代の埴輪(はにわ)」をご紹介します。
私は、実は、大の埴輪ファンでもあります。

アメーバブログ「むくむくさん」の投稿記事に、「動物と人 古代」という、かわいらしいブログ内容がありました。
どうぞ一度ご覧ください。
「動物と人 古代」


この記事にあった福島県立博物館のサイトは下記です。
企画展「あにまるず ANIMAL × Zoo ―どうぶつの考古学―」。
福島県立博物館

* * *

犬や猫はもちろん、人は古代の昔から、動物たちに愛情を抱き、彼らを身近に置き、その姿を絵や彫像などで残してきました。

埴輪の犬たち…、素朴なかたちではあっても、まるで生きているような「力感(りきかん)」があります。
ムササビ埴輪をつくった古代人の想いも伝わってきそうですね。
「私も飛びたい…」。

精細に描かれているかどうかは関係ありません。
描く目的、作る目的なども関係ありません。
そこに、動物たちへの、愛情があり、畏敬があり、想いがありますね。

その埴輪たちには、まさに何かが宿っているように感じます。

これは、動物たちだけでなく、日常の道具でも同じですね。
あの人が使っていた茶碗、はし、ペン、履き物…。

付喪神さまは、誰の近くにも、きっと いるのでしょうね。

さてと…、お前 百まで、わしゃ「つくも」まで…。

* * *

途中で書きました、神話に関するコラムはこちらです。

「神話のお話し・前編 / 日本のはじまり」


「神話のお話し・後編 / 因幡の白うさぎ」

 

* * * 

 

コラム「麒麟(47)見事な時間かせぎ」につづく

 

 

2020.11.17 天乃みそ汁

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