NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の上洛作戦。上洛への根回し。六角氏の内部抗争と苦悩。観音寺城の戦い。運命の桑の実。桑実寺と竹生島事件。琵琶湖に浮かぶ安土城。箕作城・佐和山城。

 

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麒麟(44)桑の実 拾た(京への道1)


コラム「麒麟(43)一か六か」では、織田信長の北伊勢侵攻、進むも退くも滝川一益、神戸具盛の交渉、織田四天王と方面軍司令官、運命を変えた人事異動、鉄甲船、清須会議の陰謀などついて書きました。

今回のコラムは、前回に引き続き、織田信長の「上洛作戦」を中心に書きたいと思います。


◇上洛ルート

前回コラムまでで、信長が、北伊勢の武力勢力を一定程度制圧し、北伊勢の有力武将の神戸具盛(かんべ とももり)を使い、近江南部の六角氏の重臣の蒲生(がもう)氏と交渉を行い、その蒲生氏を織田方に引き込むことに成功したこと、そして甲賀の和田惟政(わだ これまさ)も味方にし、大半の甲賀勢が織田方に抵抗できないようにしたことなどを書きました。

信長は、北伊勢と甲賀をある程度 コントロール下におき、近江北部の浅井氏と連携し、一定程度安心して、それでも用心しながら、上洛作戦の後半である岐阜から京までの進軍を始めます。

信長という武将は、この頃までは、かなり足場を固めて、十分な陰謀工作や準備をしてから軍事行動を開始する武将ですね。
そして彼は、軍事行動自体も着実に進めるタイプですが、ここぞという勝負の場面では、とてつもなく行動が早く、大胆であるのが特徴です。
上洛作戦では、はたして、どうだったでしょうか。

* * *

さて上洛作戦としては、浅井長政を味方にしたことは非常に大きかったはずです。
もともと「近江侵攻」や「美濃攻め」の準備のための、浅井長政との同盟だったと思いますが、上洛作戦でも重要な意味を持つことになりました。

近江南部の六角氏にとっては、信長だけでなく、近江北部(滋賀県北部)の浅井氏、北伊勢勢力(三重県北部)、西美濃勢力(岐阜県西部)、甲賀勢(滋賀県東部)の一部までも敵にしなくてはならなくなります。

いくら畿内(京・奈良・大坂)の三好勢や、越前国(福井県東部)の朝倉氏に支援を頼んでも、位置的にも、状況的にも、支援を期待できるものではありませんね。

* * *

コラム「麒麟(42)賀の牙城」で、足利義昭ら一行が、1568年7月18日に越前国(福井県)の一乗谷を出発し、道中、小谷城(滋賀県長浜市)で浅井氏の大歓待を受け、7月25日に岐阜に到着したことを書きました。
そして、7月27日に、信長と義昭の会談が、岐阜の立政寺(りゅうしょうじ)で行われました。

信長の計算しつくされた、岐阜までの「義昭移動計画」でしたね。
朝倉氏も浅井氏も、それに協力しました。
六角氏への挑発と圧力、全国各地への周知も、見事に成功します。

* * *

信長は、いよいよ1568年9月7日、京をめざし、義昭よりも先に岐阜を出発します。
義昭よりも先に進軍して、近江南部の六角氏をおさえこんでから、義昭を岐阜から呼び寄せ、合流する予定です。

下記の写真でいえば、岐阜城のある岐阜を出発し、大垣あたりを通り、関ヶ原、長浜の南方を越え、彦根から東近江方面に向かうことになります。
東近江あたりが六角氏の領地です。
その先に大津があり、京があります。

写真中央部の桑名から四日市・鈴鹿あたりが、北伊勢の地域ですが、ここはすでに信長が一定程度 コントロール下におきました。
そして、この北伊勢の有力武将の神戸具盛(かんべ とももり)を、この上洛軍に同行させます。

写真の右上の方に「福井」がありますが、ここに朝倉氏がいます。
浅井長政は、長浜にいます。



義昭とともに上洛するとなると、通常の武将であれば、長浜あたりまで出向き、そこで義昭と会談し、そのまま上洛ということもあるかと思います。
安易にそれをしないのが信長です。
信長は、わざわざ義昭を岐阜に来させます。

これから行う政治的な根回しのためはもちろんですが、この京までの上洛作戦に向けた、ち密な作戦が、出発までの1か月ほどを使って練られていくことになります。

この根回しや交渉は、信長のいない義昭一行であったら、まず不可能なことばかりだったと感じます。
相当に金も使ったでしょう。
このあたりが、朝倉義景にもできないであろう、信長のチカラだと感じます。

義昭も、信長の実力に驚いたのではないでしょうか。
「こうやって強い戦国武将は準備するのか…」。


◇上洛の準備〔上杉・武田への対策〕

信長が尾張国(愛知県)と美濃国(岐阜県南部)を留守にすることは、かなりのリスクを背負うことになります。

三河方面は、ひとまず徳川家康が防衛ラインになってはくれますが、まだまだひ弱な部分が多くあります。
なんといっても、恐怖なのが、越後国(新潟県)の上杉謙信と、甲斐国(山梨県)の武田信玄です。

おそらく、当時の戦国時代で最強クラスの二人です。
北条氏康は、武田信玄が動かなければ、相模国を出て西方に侵攻するのは無理だと思います。

* * *

まず信長が行ったのは、武田信玄を動かさないようにしたことです。

足利義昭が、幕府再興のため、信長とともに上洛するので、武田信玄は徳川家康の三河の領地に侵攻することをひとまずストップしてほしいと、義昭の名で伝え、信玄は了解することになります。
ようするに、義昭と信長の上洛に際し、それを阻む行為を行わないと、信玄に約束させたのです。

同じ名門源氏で、源氏のトップの次期将軍になるであろう義昭から頼まれて、それを断ることは、東国のこの不安定な状況下ではできなかったはずです。

* * *

信玄がそれを了解したことを、今度は、上杉謙信に伝えます。

さらに謙信には、この上洛の間、上杉謙信と武田信玄の間の争いをストップしてほしいと伝えます。
そしてさらに、越後国(新潟県)の上杉謙信と、越中国(富山県)の武将との間で起きている戦闘も、ひとまずストップしてほしいと伝えます。
つまり、越前国(福井県東部)の朝倉氏も含め、北陸一帯から新潟方面を戦闘状態にさせないということです。

すべて、天下安寧・幕府再興のため、最強の両者に、今回の義昭と信長の上洛作戦に協力してほしいと、次期将軍になるであろう義昭から連絡させたのです。

関東管領(かんとうかんれい / 鎌倉公方・足利将軍に代わり、悪党たちを武力で制圧する役職)を担う上杉謙信が断れるはずはありません。

両者は立場上、反対することは、まずありません。
これが7月末までに、信長と義昭が行った行為です。

とはいえ、そうそう簡単な交渉ではなかったはずです。
かなりの数の人物たちが間に入ったと思います。


◇上洛の準備〔甲賀への対策〕

これまでのコラムで、六角氏を武力で支えてきた近江国の甲賀衆のことを書きました。
六角氏の危機の時は、いつも甲賀がその脱出先となっていましたね。

足利将軍家の有力な幕臣の和田惟政(わだ これまさ)も、甲賀五十三家の中の有力武家です。
ここまで、信長のさまざな要望に、惟政は応えてきましたね。

8月初旬、和田惟政は甲賀に戻り、一部の有力甲賀衆に、これから上洛の進軍があるので協力するように甲賀衆に話しをします。
すべて足利義昭の名で交渉するものです。

もちろん、すべての甲賀衆が、すぐに賛同できるものではありません。
ここまでのコラムで、信長が、家康や伊賀衆を使って、武力で甲賀衆に圧力をかけた可能性があると書きました。
信長の硬軟両方での説得工作です。

味方になるかどうかは別として、少なくとも、上洛軍に弓矢を仕掛けることはできなくなります。

信長は同時に、伊賀の服部氏に、上洛軍に協力し参加してほしいと伝えます。

つまり、信長は、義昭とともに上洛するにあたり、抵抗する者たちを武力で蹴散らしながら進軍しようとはしなかったということです。
おそらくその交渉は、戦闘をするのと同じくらいの苦労があったように感じます。

越前国の朝倉義景がしようとしなかった、あるいはできなかったことを、信長が成し遂げたともいえますね。


◇上洛の準備〔六角氏との交渉〕

この8月初旬に、信長は相当に重要な行動をとっています。

信長は、近江国(滋賀県北部)の「小谷(おだに)城」にいる浅井長政のもとを自ら訪れ、そこで最終的な同盟の儀式を行います。
その後、その足で、「佐和山城(さわやまじょう / 滋賀県彦根市)」に向かいます。

佐和山城とは、もともと六角氏の居城でしたが、浅井氏が奪い取った城です。
後に石田三成の居城となったのはよく知られていますね。
ちなみに、後に、この佐和山城、観音寺城、小谷城、大津城の廃材を使って、彦根城が造られます。

* * *

信長は佐和山城に到着後、和田惟政らを、観音寺城の六角義賢(ろっかく よしかた)に送り、説得交渉を行います。

人質を差し出し上洛に協力すること、さらにもし上洛が無事に行われた際は、六角氏を重要な幕府の要職につけることを提示します。
ですが、六角義賢は、これを拒否します。

ここまで比較的順調に、各地域の有力者と交渉をまとめてきた信長でしたが、ここで、少しつまづきます。

外国人宣教師のフロイスが残した史料には、この拒否について、六角義賢が信長への恐怖心から思わず拒否したもので、後で彼は後悔していたと書かれています。
この史料内容の真偽はわかりません。
信長は、六角氏と7日間ほど説得交渉を続けましたが、断念し、岐阜に戻ることになります。

六角氏にとっては、じっくり考えた一世一代の決断だったのかどうか…。
後で、このことは、あらためて書きます。


◇上洛の準備〔六角家臣・松永・寺院への対策〕

次に信長が行ったのは、上洛した際に、京の大寺院勢力に味方になってもらうための工作です。
京の本圀寺(ほんこくじ)はもちろん、京のその他の大寺院、そして奈良の興福寺とも話しをつけます。
これが8月中旬です。

実は、これと同じ時期に、六角氏は、三好氏と秘密裏に談合を重ねています。

あくまで想像ですが、信長も、同じ時期に六角氏の重要家臣たちと、「寝返り交渉」を行っていたと思われます。
六角氏と三好氏の談合情報など、信長に筒抜けだったにちがいないと思います。

信長は、この時期に、松永久秀とも交渉を続けています。
この時に、織田家臣の佐久間信盛や、大和国の武将の柳生宗厳(やぎゅう むねよし / 後の石舟斎)が交渉役となったといわれています。

この頃、松永久秀は大和国(奈良県)で、三好三人衆や筒井順慶(つつい じゅんけい)らに敗北してしまいます。
そして三好勢は9月初旬には、京の西南の長岡京市あたりに多くの兵を集め始めます。


◇上洛の準備〔朝倉・近江国への対策〕

8月下旬になって、信長は、越前国(福井県)の朝倉義景のもとに、武田信玄と上杉謙信が前述の内容に了解したことを伝えます。
これで、朝倉義景は、信長の上洛作戦に手を出さないことを最終的に決定したものと思います。

そして信長は、近江国内の多くの有力寺院たちに、さまざまな縛りをかけ、上洛に抵抗しないことを約束させます。


◇上洛の準備〔大軍団を編制〕

9月7日の岐阜出発に向けての、こうした政治的な根回しと同時並行で、上洛軍の準備を進めていたはずです。
推定で、最終的に6万人ともいわれる上洛軍が編制されます。

* * *

信長の人使いの上手さかと思いますが、大小さまざまな一族から代表するようなかたちで、有力な武士たちを、この上洛軍に参加させます。

次期将軍をともなっての大軍団の幕府軍に参加できるのは、まさに武家にとって名誉以外の何ものでもありませんね。
たとえ足軽でも、将軍様との同行です。
生涯で、京に行ったのは、これ一度だけという武士も相当にいたでしょうね。
もし私が、その時代に岐阜で生きていたとしても、荷物持ちでもいいので参加したいと思うかもしれません。
でも戦闘はいやですが…。

徳川家康は、尾張三河の防衛、今川氏の残党に備える意味では、三河国(愛知県東部)に置いていくのが得策でしょう。
上洛軍への参加は、家康の代理として、松平信一(のぶかず)という武将がつとめます。

ですが、この武将は、結構な戦闘能力を持っており、信長には松平勢の中で心配な存在ではあったと思います。
信長は、この信一は目を離せないと、上洛軍に参加させた気もします。
事実、この後の六角氏とのちょっとした戦闘で、信長は、彼を真っ先に敵に突っ込ませます。
ですが、悠々と楽勝して戻ってきます。

信長は、一応 褒めて恩賞も与えますが、内心、別の考えもあったと思います。
「後の徳川攻撃の際に、家康と信一に相討ちさせることができるかも…。」
こんな風に考えるのが、トップの戦国武将たちですね。

上洛軍の総勢は6万人ともいわれていますから、相当な規模です。
ちょっと数を盛っている気もしますが、道中増えていくのが常です。

* * *

室町時代後期の幕府軍の戦いといったら、何か思いつき…、行き当たりばったりのような淡白な戦いが多かった気がします。
義昭は、この信長の周到な準備と、政治的交渉、軍団編制の見事さに、驚がくしたかもしれませんね。

強い武将とは、武家のトップとは、こうしたものか…。
まだまだ、僧から武士になりきれていない義昭だったかもしれませんね。

この時期であれば、これだけの準備は、織田信長、上杉謙信、武田信玄あたりにしかできないことだったかもしれませんね。
見事な信長の準備だったと感じます。


◇岐阜から京へ

信長が、1568年9月7日に、義昭よりも先に岐阜を出発し、京に入り、しばらく滞在するあたりまでのことを、これから時系列に書いていきます。
この見事な日程スケジュールには驚きます。
やはり、天下に号令するような人物は、行き当たりばったりのスケジュールはたてませんね。

この日にちは、史料によって若干の違いがあるかもしれませんが、全体の流れは、それほど違いはないと思います。


◇9月7日・岐阜出発

信長が、岐阜を出発。
義昭は岐阜で待機。


◇9月8日・彦根

関ヶ原を越え、彦根に到着。
ここで二日間の滞在。
この二日間で休息し、次の準備を行ったと思います。

実は、この滞在は、旅の宿泊ではありません。
次に来る戦闘の準備と、情報収集、そしておそらく何らかの交渉の期間です。

「桶狭間の戦い」の今川義元とは、こういう姿勢がまったく違いますね。
信長は、自身で確証を得なければ、次の段階には進まない武将だと思います。


◇観音寺城の六角氏を攻略

彦根から先にある、今の東近江市あたりには、六角氏の本拠で名城名高い「観音寺城(かんのんじじょう / 滋賀県近江八幡市)」や、その本城を支える「箕作城(みつくりじょう)」や「和田山城」などの支城がたくさん点在しています。

先ほど、「上洛の準備」のところで、信長が和田惟政を使って六角氏に説得交渉を行って、失敗したことを書きました。
それが8月初旬から中旬にかけてのことでした。

9月になり、六角義賢(よしかた / 承禎〔じょうてい〕)と義治の親子は、本拠地の観音寺城に立てこもり、箕作城など多くの支城に軍を配し、織田軍を迎え討つことになります。

* * *

織田軍の柴田勝家と森可成(もり よしなり)が、六角親子がいる観音寺城を包囲します。
西美濃三人衆のひとり、稲葉良通(いなば よしみち)が、和田山城へ向かいます。
信長、滝川一益、丹羽長秀、木下藤吉郎(後の秀吉)、前述の松平信一らが箕作城(みつくりじょう)に向かいます。

この配置…、かなり怪しいですね。
何か陰謀暗躍の臭いがいっぱいです。

* * *

前回コラムで、北伊勢の武将の神戸具盛(かんべ とももり)が、六角氏の重臣の蒲生(がもう)氏を、見事に織田方に寝返らせたと書きました。
最上位の六角重臣の寝返りは、戦局を決定づけるような話です。

他にも、六角氏側からは、もともと六角の宿敵の布施氏や、同じ佐々木系の子孫の青地氏など、多くの武家が織田方に寝返ります。

個人的な想像ですが、信長は、前回の和田氏を使っての交渉失敗に続き、今回は、神戸氏や蒲生氏を使って、別の提案内容で、六角親子に何らかの交渉を持ち込んだのではと感じます。

より六角氏のプライドに配慮した提案内容に、切り替えたのかもしれません。

六角親子が、信長に対して、下手な降伏を安易に受け入れたら、六角内部からこの親子は抹殺される可能性もあり、その後の両軍の大激突も考えられます。
個人的な意見ですが、信長は、本格的な激戦をせずに、この親子をこの場所から排除させる方法を考えたのではとも感じます。

* * *

ここからも、あくまで私の推測です。

信長は、六角親子が無事に観音寺城を脱出できるように、蒲生氏に、六角軍のそれぞれの城の武将の配置を依頼したということはないでしょうか。
六角親子がこもる観音寺城には、降伏容認派を残し、それに反対する派閥連中は他の支城に回させるとか…。
もちろん、信長は六角親子の命はとりません。
蒲生氏自身は、一応、信長に抵抗したかたちに見せておいて、最後は織田軍が保護する…。

戦国時代には、よくある陰謀暗躍パターンです。
だからこそ、六角氏の宿敵の浅井氏の主力軍は参加させなかった気もします。

この交渉がまとまったかどうかは、わかりませんが、結果的に、六角親子は観音寺城で戦闘を行わずに脱出し、甲賀に向かうことになります。
この内容なら、六角氏は、信長に服従したわけではありません。
戦闘で負けたわけでもありません。
名誉ある脱出劇です。
この後、もう少し経過を詳しく書きます。



◇観音寺城と安土城

上記写真は、今の近江八幡市、東近江市の航空写真に、当時の琵琶湖周辺の湖を書き加えたものです。
この湖は、信長の安土城が造られた頃のものですが、信長の上洛時もほぼ同様だと思います。
後の安土城は、六角氏の観音寺城のすぐ近くですね。

後に造られる信長の安土城の周辺には、大きな湖が張り出していました。
安土山は、小中之湖(伊庭内〔いばない〕湖と弁天内湖)に突き出した岬のような地形でした。
琵琶湖からの敵の攻撃から幾重にも防御があり、いざとなれば安土城から琵琶湖に脱出、かつての名山城の観音寺城に脱出することも可能です。

昭和29年の航空写真を見ると、すでに弁天内湖はなく、伊庭内湖も縮小していますが、西之湖はもちろん、大中之湖も残っています。
かつて信長は、かがり火で、安土城や安土山全体をライトアップし、湖上の船から、それを眺めたようですが、今やその光景を見ることは不可能です。

昭和の戦後すぐに、観光意識などを論じることは無理だったと思いますが、もし安土城天守閣が再建され、湖上からそのライトアップの光景が眺められたら、姫路城の風景に並ぶ、日本の代表的な城郭風景になっていたことでしょうね。
どのくらい滋賀県にお金が落ちたことでしょうね。
琵琶湖東岸は、歴史ある名城址の宝庫です。

さて、六角氏の本拠の観音寺城は、箕作(みつくり)城と和田山城に守られ、背後を琵琶湖に守られた本格的な山城でした。
上記写真の矢印のすぐ先に、支城の両城がありました。


◇9月12日・箕作城攻撃(観音寺城の戦い)

9月12日、織田軍はまず、箕作城を攻撃します。
なんと夕方の4時からです。
こんな時刻に始めるとは、あまりにも不自然です。
夜の闇がかかることを前提とした開始時刻です。
それも、この攻撃軍の中には、信長自身がいるのです。

あっという間に箕作城は陥落し、なんとその夜に、その城に織田軍が滞在するのです。
それも大将の信長もいっしょに…、ちょっと信じられません。
よほどの安心感でもないと、そんなことはしないでしょう。

それに、箕作城攻撃には、織田の信頼できる兵しか連れていきません。
信頼の薄い新参組の武将たちは、他の支城に回しました。

* * *

おそらく、この夜に、観音寺城の六角親子らは、観音寺城を脱出し、甲賀の青木一族の石部城に向かったと思われます。
青木家は、甲賀五十三家のひとつです。
和田惟政の和田家もそのひとつです。
五十三家は五十三家どうしで、ライバル競争があったはずです。

おそらく甲賀衆でも、和田惟政の説得で織田方に回った者、説得に応じず六角方に残った者がいたはずです。
後で書きます六角氏重臣の三雲氏も、青木氏と同様に六角方だったと思われます。

* * *

あくまで推測ですが、信長は、観音寺城を取り囲んだ柴田勝家や森可成には、脱出する六角勢には手を出させず、むしろ浅井勢が彼らを密かに襲撃するのを止めさせたような気がします。
こういう戦術は、今現代の世界各国の戦争でもありますね。

信長は、六角親子の脱出計画も脱出先も、百も承知だったと思います。
というより、これこそが信長の提案内容だったかもしれません。
わざわざ彼らに、夜の時間を与えたものとも考えられます。
上記写真を見てもわかるとおり、どうぞ甲賀へ逃亡してくださいのようにも見えてきます。
六角氏の向かう先は、昔から甲賀しかありません。

前述した、神戸氏、蒲生氏を使った説得交渉が、ある程度実行されたのかもしれません。
よくわかりません。

当時の戦国武将の戦術として、あえてこういう段階では始末せずに、まずは逃亡させ、後に一網打尽に葬り去るという戦術もなくはありません。
信長は、この段階で、六角氏をどうするつもりだったのでしょうか…。


◇9月13日・観音寺城へ

翌日の9月13日に、信長の本軍が、観音寺城に向かうと、そこは「もぬけの殻」でした。
当然ですね。

「六角親子は、戦いもせずに逃げたぞ…。勝どきをあげよ」。

結果的に、六角親子は、甲賀に逃げ込んだのですが、そこも信長のほぼコントロール下です。
この地にいる限り、ここから六角親子が京に攻め上るのは、ほぼ不可能ですね。

信長にとって、六角氏は、敵でもありますが、「桶狭間の戦い」では恩のある武家です。
信長は、六角氏を滅亡させず、信長配下にくだることを期待していたのかもしれません。
あるいは、もう少し、敵を集結させてから一網打尽にしようとしたとも考えられます。

ともあれ信長は、六角親子を、目の届く範囲に追い込み、身動きできない状態にしたように感じます。
六角氏の名誉も、一定程度 守られましたね。

織田氏と六角氏による、交渉の上での折衷案かもしれませんが、体裁を保った、なかなかのアイデアのように感じます。
さすがに、転んでもただでは起きない、戦いなれた両武家です。


◇蒲生氏の説得

ひょっとしたら、両氏の間にたった蒲生氏のチカラあっての結果だったのかもしれません。
ちょっと蒲生氏の台詞の想像劇です。

「六角殿、上洛軍に抵抗せずに、近江国を通してあげてくだされ。
周囲をご覧ください。
上杉も、武田も、朝倉も、了解したと聞きおよびます。
三好も助けには参りません。
ここで抵抗したら、即、六角軍は総攻撃を受けます。
おそらくは大敗し、六角家は滅亡するかもしれません。

信長が申すには、もし観音寺城を明け渡し、六角親子がどこかに逃げ込んでも、織田軍は追っては参りません。
ここは、六角家の生き残りの道を選択されたほうが、よろしいかと…。

これは、決して信長に屈したとは、周囲に判断されません。
名誉ある退却劇です。
信長は、甲賀への道と、夜の時間を、あけてくれると申しています。
今、決断しないと、名誉ある佐々木(六角)の血は、ここで終わります。
信長は、そこまで配慮してくれています。
敗北滅亡を選ぶよりは、信長を信じてみてはいかがでしょう…」。


◇信長の説得方法変更

さて先ほど、8月に和田惟政を介して信長と六角氏が交渉し、決裂したことを書きました。
この時の信長は、人質要求という「ムチ」と、幕府の重要役職という「飴」で、高圧的に交渉を進めたのだと思います。

信長は、六角氏の恐怖心に気づき、それを和らげるかたち、自尊心を壊さないかたち、体裁を保ったかたちで、この近江国で、黙って上洛軍の通過を眺めていてくれるように提案したような気がします。
とはいえ、上洛軍には実際に、攻撃できないかたちにもします。

「桶狭間の戦い」と「美濃攻め」を通じて、とにかく信長の賢さと危険性を熟知していたのが、六角氏だったと思います。
もはや、これ以上時間を引き延ばすことは、危険性が頂点に達するとも感じます。
六角氏が、「生き残り」のほうを選択することは、信長もわかっていたはずですね。

こんな調整は、義昭の取り巻き一派だけでは、到底できない芸当ですね。
こんなことができるのであれば、13代将軍義輝が討たれることはなかったでしょう。

* * *

個人的には、さらにもう一度、三度目の秘密裏の交渉をどこかで行ったのではないだろうかとも思っています。
まさに「強い念押し」と「恩情」かと思います。
その時には、ひょっとしたら足利義昭も関わったような気がします。
信長の情は通じなくても、義昭なら通じそうですね。

それが「桑実寺(くわのみでら)」だったかもしれません。
そのお話しは、後で書きます。

* * *

想像はつきませんが、この頃の信長は、「敵はすべて根絶やしにせよ」と命令するようなトップではありません。
むしろ、生かして人材を自分のもとで活かしたいと考える武将であったと、私は感じます。
後に、この恩情は、仇となりますが…。

かつて、平家も、源氏も、恩情で生き延びさせた敵の者たちが、後に立ち上がり、復讐を実現させましたね。
武将たちにとって、敵への恩情とは、相当に難しい判断であり、作戦ですね。

いずれにしても、個人的には、この時の織田氏と六角氏の「観音寺城の戦い」の一部は、何かの「出来レース」か、信長の戦術だったような気がします。
琵琶湖の水のような深い戦術であり、謎の多い部分にも感じます。


◇六角氏の迷い?

六角氏は、「桶狭間の戦い」の時に、信長が戦力や知恵を相当に支援してもらった相手で、当初は信長と同じ上洛軍の味方でしたが、ある時、敵にまわります。

コラム「麒麟(42)賀の牙城」でも書きましたが、六角氏は、織田信長に、浅井氏と六角氏の間の婚約を破棄させられ、将軍のお世話と上洛作戦を奪われ、この近江国内で目の前で挑発され、六角氏と甲賀衆の分断工作までされ、自尊心の強い名門武家の六角氏にとっては、信長に加担することは、たいへんな屈辱だったかもしれません。

これらの出来事は、すべて信長の近江国侵攻に絡む陰謀であるのは間違いありません。
六角氏側からみたら、まさに自分たちを滅亡させるために行われている、信長の数々の挑発ととらえるでしょう。

ただ、信長にとっては、六角氏はかつての自身への支援者でもありますので、交渉次第では、六角氏は何とかなる相手だと見ていたのかもしれません。
そこは陰謀者どうし、折り合えるところもあるかもしれません。
ただ、信長の手法は、上手い誘いや条件だけでなく、恐ろしいほどの挑発と脅しの両方で、まさに「飴(アメ)とムチ」で向かってくるのです。
信長は、六角氏の内部抗争の状況も利用し、六角氏への精神的なプレッシャーも相当なものです。

前述した外国人宣教師フロイスが残したように、六角氏には、信長への相当な恐怖心があった可能性もあります。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」では、堺の豪商の今井宗久が、上洛する時は信長に武具をつけさせるなと、明智光秀に伝えていましたね。
そのためには、信長は、通過する近江国と、背後となる伊勢周辺、京の周辺地域を、武力で制圧しておかなければ、安心して上洛などできません。
それが実現してこその非武装上洛です。

信長の性格や思考から考えると、相手と同盟を組もうが、連携しようが、その勢力が武力を持っている以上、完全に信用はしないはずです。
自身の背後で武力を使用できる状態は、絶対に許さないはずです。
まして、思惑で行動する陰謀上手の六角氏を、気安く放っておくとも思えません。

一応、武具を着用せずに上洛する時に、背後に武器を持った勢力がいるなど、信長には考えられないと思います。
六角氏に、京の信長を攻撃できない状況をつくるしかありませんね。
究極的な選択は、六角氏を滅亡させることです。

信長の戦術の中には、敵をすり寄せさせない戦術もよくあります。
上手く交渉で誘っておきながら、どんなに相手が譲歩してきても、今度は敵のままにして突き放し、その敵が弱みを見せた瞬間、その敵を叩きつぶすのです。
彼が魔王と称される所以がそこにもあります。

* * *

「桶狭間の戦い」では、今川義元の無残な最期を、多くの六角の兵たちも見ていたはずです。
信長の問答無用の戦い方のすごさを、まさに肌で知る六角氏だったとも思います。

「信長は、本当に六角氏を滅亡させることはないのだろうか…」。
「名門佐々木氏の血をひく六角氏が、本当に織田氏の家臣に成り下がっていいのだろうか…」。

信長への恐怖心とあいまって、もはや、冷静な判断すら難しくなってしまいそうです。
実は、後に織田軍の家臣の中にも、信長への恐怖心で、無茶な謀反を起こしたり、逆上してしまう家臣も出てきます。
六角氏は、家臣ではなくても、もはや信長に対して、そのような感情を持っていたのかもしれませんね。

* * *

フロイスの言葉は非常に短いので、六角氏の詳しい心理状況はわかりません。
「恐怖心で、提案を拒否する」…史料としては、何か不思議な言い回しです。
その後の「その拒否を後悔した」の部分は、真偽はわかりません。
「後悔した」が何を意味しているのかも、断定は難しいですね。

フロイスの立場から、信長の陰謀や暗躍を、そうそう書き残していいとも思えません。

この六角親子の観音寺城からの脱出のタイミングと、織田軍の配備は、なんとも奇妙な気がしますが、双方の合意の上での陰謀であれば、何の不思議もない気がします。


◇六角氏の内部抗争

前回までのコラムで、「織田・浅井の上洛軍(足利義昭側) vs. 三好・六角の上洛阻止勢(足利義栄側)」という構図だと書きました。
先ほど、「上洛への準備」の中でも、三好氏と六角氏は、8月頃に何やら談合を重ねていたと書きました。

一応、全体像はそうなりますが、実際に、この時点で、三好勢と六角勢が連携して軍事行動を行えるかというと、かなり難しいと感じます。

* * *

信長の同盟者の浅井長政のチカラで、六角氏は近江国からそうそう出られませんし、だいいち六角氏内部では、信長との戦闘どころではなかった可能性もあります。
六角一族、家臣団の中で、内部抗争だらけだったのです。
完全収束していたとは思えません。

信長の陰謀工作が、それに拍車をかけ、もはや信長と戦う状況など、どこにもなかったというのが現状だったとも感じます。

* * *

次期将軍とともにある織田の上洛軍に、単独軍で攻撃を仕掛けるリスクを負うなど、まともな武将のすることではないとも思います。
もし戦うのであれば、よほどの長期戦略を持って、相手を全滅させなければ、今度は室町幕府側全体を敵にしてしまいます。
こんな壮大な作戦を作れる状況や人材が、六角氏内部にあったとも思えません。

まともな六角氏の戦力だったとしたら、この上洛軍と戦った場合、少なくとも数日にわたって激戦が起きたはずです。
「まともな六角軍」であったならです。

* * *

1560年、六角義賢は、浅井長政に予想外の敗戦を喫し、六角一族や家臣たちからの信頼が急速に落ちていました。
敗戦と失政を続ける義賢に、息子の義治の勢力が反旗を翻し、当主が義治に交代します。

六角氏には「六角の両藤」と呼ばれた、二人のトップ重臣がいました。
義賢に近い進藤氏と後藤氏です。
進藤氏はすでに亡くなっており、義治は1563年に、大切な重臣の後藤氏親子を暗殺してしまいます。

政治的にも軍事的にも、中心的な役割の後藤氏を失い、家臣たちは義治を見限り、次々に浅井氏に寝返っていきました。
混乱した六角氏を、やはり重臣の蒲生(がもう)氏と三雲氏らが、なんとか収め、六角家を一応安定させました。
信長が、上洛をする1568年の前年までの話しです。

こんな状況で、織田軍(上洛軍)とまともに戦えるでしょうか…?
それに信長には、浅井長政までついています。

信長は、この新権力者の蒲生氏を、北伊勢の神戸氏を使って、味方に引き込むのです。
前回コラムで書いたとおり、六角氏を影で武力で支えていた甲賀勢は、すでに大半が織田方と内応済みです。

前述の六角重臣の三雲氏は、和田惟正の和田氏と同様に甲賀五十三家のひとつで、三雲氏は、蒲生氏や和田氏とは別の道を選び、後に織田軍と戦い敗れます。
今回、六角氏が甲賀に落ち延びる際に支えたのが、この甲賀の三雲氏です。
ですから、三雲氏は、蒲生氏とは正反対の立場だったと思われます。

* * *

信長の上洛作戦時に、観音寺城にいた六角義賢と義治の親子は、織田軍との本格戦闘を回避したのは、紛れもない事実です。
六角親子は、自身の判断で、甲賀に逃亡したのかもしれません。
あるいは、信長との何かの交渉の結果、信長が、ひとまず甲賀に六角親子を追いやったということなのかもしれません。

想像してもキリがありませんが、六角氏にとって、この戦いは本気モードではなかったと感じます。
この観音寺城で、もし六角氏が本気で織田軍と戦っていたら、ここで滅亡した可能性がかなりあったと思います。

この段階ですでに、六角氏を含めた将来の信長対抗作戦計画が、秘密裏に進められていた可能性もないわけではありません。
そのために、六角氏は、重要本拠地の観音寺城を放棄してでも、ひとまず退却した可能性もないとはいえません。
個人的には、この段階で、その可能性はないような気がします。

* * *

後に、六角義賢のもうひとりの息子で、義治の弟の義定が、武田信玄の家臣の穴山梅雪と密会することになり、六角氏が信長の対抗勢力の一員になるのは確かです。
ですから、やはり六角親子は、信長を信用することはできないと感じていたかもしれません。

もし信長が、この近江国の地、特に安土の地を、六角氏に「べた褒め」でもしていたら、それは褒めているのではなく、奪いに来るものと考えたかもしれませんね。
実際に信長は後に、この地に安土城を造ります。

六角親子は、ずっと後にクチにしたでしょうか。
「やはり、そうだったか…」。

織田氏と六角氏は、ある段階から交わることなく、ずっと平行線であったといえますね。


◇上洛の後こそが…

個人的な想像ですが、信長はこの段階で、仮に六角氏の説得に失敗し、自身の味方にならなくても、武力を行使できないかたちに追い込んでおく…、こういう戦術だったとも感じます。

これも戦国武将の戦術のひとつですね。
この方法は、武力衝突も起きにくくなります。
特に急いで勝敗をつける必要もありません。
まして、六角氏滅亡となると、多くの時間と、自軍の犠牲も発生します。

今回は、上洛と幕府再興、三好勢の排除が主目的で、付随して織田勢の畿内での勢力拡大、利権獲得、朝廷や公家・大寺院との関係づくりなどが目的だったと思います。
織田氏の領地が増えるような軍事行動ではありません。
ただ、いずれ来る、強敵たちとの大戦争に向けての準備期間でもあり、戦力を減らすことなどは許されませんね。

信長にとって、この上洛作戦は、実は、「天下布武」への最初の一歩でしかありません。
二歩目、三歩目が、相当にたいへんなのです。
「上洛が成功したら万々歳」ではまったくないのです。

「麒麟がくる」の中でも、信長と光秀は、上洛した後がたいへんだと語っていましたね。


◇生き延びていれば…

この六角義賢はかつて、自身の娘を、能登半島の畠山義綱の正室にさせています。
能登半島は能登半島で、畠山氏は下克上で家臣たちに追い出されました。
六角氏は上杉謙信と組んで、畠山氏を支援し、能登奪還を画策しましたが、上手くはいきませんでした。
六角氏は、北陸地域の勢力や上杉謙信と、さまざまな機会で連携したりする、陰謀交渉上手といえますね。

* * *

もし、六角氏のチカラで、朝倉氏などの北陸勢、上杉謙信、南紀の畠山氏、畿内の三好勢が連携したら、信長はひとたまわりもありません。
あるいは、越前国の朝倉氏、甲斐国の武田氏と連携しても同じです。
この動きが始まったら、近江北部の浅井氏は孤立です。
そうなったら、さあどうする…長政。

信長は、こうした可能性を、どこまで把握していたのでしょうか。
もちろん予測はしていたでしょう。

後世の私たちは、歴史で知ることにはなりますが、当の信長本人が情報収集するには、かなり たいへんだったかもしれません。
信長の「人生の不覚」の第一弾の種をここに残してしまったのかもしれません。

* * *

信長は、観音寺城から甲賀に敗走した六角親子を、何が何でも追いかけて、滅亡させておけば、後の危機的状況も訪れなかったのかもしれませんね。

信長に、何かの「情」が、まだ残されており、それが危機を呼び寄せた…、後に信長はそう感じたのかもしれませんね。
情や、余計な欲にほだされて、敵の逆襲の芽を残してはいけない…。
信長は、いつか確信したのかもしれません。

* * *

六角氏だけでなく、戦国武将は無茶な戦いを回避し生き延びていれば、挽回の機会が、思わぬ瞬間にやってきたりしますね。
先祖代々からの名城よりも、自身が生き残ることのほうが大切…。

六角義賢の息子の義治は、後に豊臣秀頼(秀吉の後継者)の弓道師範になります。
秀頼や淀君に、城や名誉ではなく、生き残りの大切さを伝えなかったのでしょうか…。

とはいえ、戦場を経験していない豊臣秀頼に、それを理解するのは無理だったかもしれません。
淀君は、経験済みのはずなのに…。


◇敵にまわるか、味方になるか、家臣になるか

六角義賢が、信長の配下にくだるチャンスは幾度かあったと感じます。

ですが、この「観音寺城の戦い」の時点では、近くの朝倉義景がしっかりチカラを持っており、その決断はしにくいですね。
それに、前述の壮大な陰謀計画の調整中で、これが成功すれば、信長を倒せると考えていたのでしょうか。

松永久秀もそうでしたが、近江や大和などの武将たちは、完全に信長の配下になるかどうかを決めず、微妙な立ち位置のまま、時として信長に味方するという行動をとる武将が、結構 多いように感じます。

言ってみれば、浅井長政も、明智光秀も、そうだったのかもしれません。
戦国武将たちは、勝ち馬に乗るのも大切でしょうが、生き残ることこそ最重要だったとも感じますね。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」でも、信長は、明智光秀に、「ワシの家臣になるのかどうか、今決めよ」と尋ねていましたね。
光秀は、即刻 断ります。
これは、信長が、光秀を以後、ぞんざいに扱うことを意味しているものではありませんが、信長の家臣たちへの思考を感じる部分ですね。
家臣になるタイミングというのも、武将の人生を大きく左右しました。

信長という武将は、実は、このタイミングによって、その家臣の信頼度をはかるトップでもありました。
大河ドラマの中では、光秀による信長自身への評価が、まだ低いと信長は感じたかもしれませんね。

信長は、意外と、周囲からの評価や視線を気にする性格だった可能性もあります。
目立つ装束、目立つ城、目立つ行動…、そこまでしなくても…。

* * *

後に光秀は、織田家臣団で、最大級の待遇を受ける家臣になりますが、この時点で断ったのは得策だったとも感じます。
畿内や近江国、北陸、越後の上杉、甲斐の武田の動向を知るにつけ、将軍家の家臣でいるほうが、一番安全のような気はします。

ただ、信長の心には、光秀に一抹の不安感を与えたかもしれませんね。
信長にとって、いずれ最大級の期待と恐れになるのは、光秀ではなく秀吉のほうでした。

やはり信長には、長生きできたとしても、絶対的な信頼者がつくられることはなかったかもしれませんね…。

* * *

さて、ずっと後、信長の突然の死後、六角親子は秀吉につき、親子はしっかり生き続け、前述したとおり、義治は豊臣秀頼の弓道師範にもなります。
六角氏の六角の宗家は、その後断絶しますが、江戸時代以降、分家が加賀国で生き続けていきます。

信長と秀吉の時代は、まだよかったのでしょうが、家康という違うタイプの武将には、もう少し別の対応もあったのかもしれませんね。
戦国時代の後にやってくる「太平の世」を見通すのは、戦いに慣れた者たちにとって、至難の業でしたね。
軍人と政治家は、やはり別の者たちです。

* * *

この「観音寺城の戦い」の時に、六角氏の家臣だった蒲生賢秀(がもう かたひで)は、戦い後に、信長の家臣となります。

この時に、蒲生氏を説得したのが、北伊勢の武将の神戸具盛(かんべ とももり)でしたね。
そのために信長が同行させたのは間違いないでしょう。

神戸氏は、自身の北伊勢で織田方についた体験をもとに説得したかもしれません。
前回コラムで、蒲生氏が、神戸氏の義理の父親であることは書きました。
ひょっとしたら蒲生氏は、神戸氏とともに、織田方として早くから、六角氏とのパイプ役・説得役を果たしていたのかもしれません。

信長は、蒲生氏は落としましたが、六角親子は落とせなかったのかもしれません。

表向きには、最後まで信長に抵抗した勇気ある六角の武将の蒲生氏となりましたが、実は信長の信頼を大きく勝ち取ったのかもしれません。
信長は、この六角勢の中で、この蒲生氏に目をつけたのは間違いないと感じます。
蒲生氏も、ある段階で、六角親子に見切りをつけたのだと感じます。

蒲生賢秀の息子のひとりが、あの蒲生氏郷(がもう うじさと)です。
さすが、名武家として生き残る家は、したたかさも伝授されていきますね。

六角氏と蒲生氏を比較することは少し無理もありますが、この時の選択の違いが、後世の一族に大きな影響を与えましたね。


◇9月14日

六角氏が甲賀に逃亡し、信長と義昭の上洛行軍の、近江国での危険性はかなり減りました。

信長は、9月14日、岐阜に残っている足利義昭のもとに、西美濃の武将の不破光治(ふわ みつはる)を迎えに行かせます。
なんと手回しのいい日程でしょう。
不破氏は、この上洛作戦の中で、随所で大事な仕事をしていますね。

ここで織田軍は、義昭がやって来るのを、しばらく待つことになります。
この間、京周辺の情報収集と分析、周辺各地の武将を寝返らせる交渉を行っていたのは間違いないと思います。


◇9月22日・桑実寺

義昭は、安心して近江国に来れることを確認し、信長の後を追うように進軍し、9月21日に米原、そして9月22日に、「桑実寺(くわのみでら / 滋賀県近江八幡市安土町)」にやって来ます。

信長と義昭は、ここで再会します。

この桑実寺は、12代将軍の足利義晴(義昭の父)が、京都から脱出し、仮幕府を置いた由緒ある古刹です。
この桑実寺は、六角氏の支配地にあるお寺です。
このお寺は、上記写真でもわかるとおり、観音寺城のすぐ近くです。

観音寺城からも近く、甲賀からは、その日に往復できる距離です。
22日に、信長本軍がどのような行動をとったのかは、よくわかりません。

ですが、義昭が、かつての支援者家臣の六角氏の代理人と会うことは可能だったとも感じます。
ここで、義昭、信長、六角氏の間で、何らかの交渉が行われたかもしれません。

* * *

大河ドラマ「麒麟がくる」で、秀吉が京に先に入り、信長の強さを強調した噂(うわさ)を流布するシーンが描かれていましたね。
おそらく、この噂の流布は、この時期のお話しだと思います。

京の庶民は、京での三好勢と織田勢の激しい戦闘を予想し、街から一気に脱出を始めます。
信長は、京の手前の近江国内で、それほど必要もない「街の焼き払い」を行っています。
庶民の脱出効果、京の治安効果、信長の宣伝効果は、信長の狙いどおりだったはずです。

戦国時代は、敵国内でその国の大将の汚点や悪口、やってくる相手国の強さの噂を流布させる作戦が、当たり前に行われていたようです。
街なかを使う戦闘になった場合、庶民の存在は相当に邪魔になります。
人が多くいると、敵の暗躍も可能にさせてしまいます。

庶民にとっては、信長に、むしろ命の安全を配慮してもらったと考えたかもしれません。
「信長が、ひとまず安全な場所に退避していろと言っているよ…、今度来る、新顔の信長って、なかなかいい奴じゃない」。


◇桑の実の花言葉

先ほど、ひょっとしたら、信長は三度目の六角氏との交渉を、桑実寺で行ったのではと書きました。

あくまで個人的な想像ですが、上洛作戦の途中、近江国の桑実寺(くわのみでら)で、信長が義昭と再会した後、六角氏の代理人を含めた三者で、何らかの交渉が行われたのではないかと感じています。

義昭は、代理人を通じて、かつての将軍家支援者で家臣の六角氏に、何らかのメッセージを伝えたかもしれません。

「上杉謙信も、武田信玄も、朝倉義景も、この上洛作戦中は動かない…、六角よ、お前も絶対に動くな…、松永も動かない。
これまでの六角の支援を、ワシは絶対に忘れてはいない。
これからも頼りにしておるぞ…」。

信長の言葉では恩情が伝わらなくても、この義昭からだったら、しっかり六角氏に伝わり、それに従うような気がします。

* * *

信長にとっては、六角氏を味方に引き込むことができなかったとしても、上洛作戦の妨げにならなければ、それでも十分だったかもしれません。
とはいえ、さすが陰謀暗躍の六角一族です…、信長に服従せずに、しぶとく生き延びていれば道が開けてきますね。

六角氏は、桑実寺で、黒色の「桑の実」を拾ったのかも…。

* * *

この近江国の桑実寺ですが、この地域は、中国から桑の実が伝わり、日本の養蚕が開始された地という説もあるようです。

「桑の実」には、面白い「花言葉」があります。
桑の実は、白色から赤色、そして黒色へと熟していきますね。
白色と黒色で、その花言葉の意味が違うのです。

白色の実は、「知恵」。
黒色の実は、「私はあなたを助けません。私はあなたよりも生き延びます」です。

それとは別に「共に死にます」というものもあります。
これは「ロミオとジュリエット」につながる西洋の内容ですが、この桑の実の赤色が血をイメージさせるようです。


◇信長の竹生島事件

ずっと後に、実際に、この桑実寺では、血生臭い事件の話しが残っています。
安土城にいた信長が、この桑実寺にからみ、安土城の侍女や桑実寺の僧侶を多数 処刑したというのです。

残された史料では、信長が安土城を離れ、あえて早い時刻に帰還し、その実態を明らかにし、彼らを処刑したというのです。
悪魔のような信長の「綱紀粛正(こうきしゅくせい)」という見解も、後世の世の中にはあります。

歴史ファン、戦国ファンとして、私は個人的に、あえてまったく別の見解を書きます。

史料にあえて書き残してあるのは、先般のフロイスの六角評と同じで、何かを明確に書かずに、重要な意味あいをそこに残してあると考えます。

* * *

戦国時代の武将たちのこうした行為は、めずらしいとも思えません。

通常の綱紀粛正であれば、城外にこの話しが伝わるのは、武家の恥ともいえます。
史料にしっかり書き残すことは、あまりないと思います。

史料にあえて書き残してあるのは、この内容を、信長は、当時あえて、内外に広く喧伝(けんでん)したのかもしれません。

城主がこうした行動をとる時は、たいがいは城内にいる敵側スパイのあぶり出し、あるいは彼らを死んだことにして、自分たちの二重スパイに仕立てるような時です。
そして、このあぶり出し処刑を、敵側に伝えるためだったりします。

スパイを送り込んできた敵側にあえて、処刑した内容の情報を流したのかもしれません。
信長の行動は、小規模とはいえ、ちょっとした軍事作戦です。
安土城内と桑実寺に潜入していたスパイたちは、まんまと信長にあぶり出されたのかしれません。

* * *

「桶狭間の戦い」の時に、信長の清洲城の城内外には、多くの今川のスパイがいました。
信長は、逆にそのスパイにある情報を流し、その情報を今川義元に伝えさせましたね。
これも、今川義元の油断や判断ミスにつながったのは間違いないと思います。

信長は、敵側に、安土城内と桑実寺にいたスパイを処刑したことを知らしめたか、あるいは本当は処刑せずに、逆に敵に侵入させたのかもしれません。
戦国時代は、そんなことの繰り返しですね。

* * *

実は、この事件は1581年4月10日の出来事です。
「本能寺の変」は、翌年1582年6月21日です。

信長は、安土城周辺に何かの陰謀や暗躍がうごめいていることを察知していたのかもしれません。
それで、あえてこうした行動をとって、世の中に、この事件を伝えたのかもしれませんね。

* * *

「本能寺の変」の首謀者は、信長親子や織田軍に関する情報を、一年以上前から相当に収集していたのかもしれません。

京の本能寺は、実はまさに弾薬庫・火薬庫そのものです。
通常は大量の鉄砲や火薬、爆薬を所有しています。
「本能寺の変」の時は、そうした火薬類が、ほとんど出払っていた日です。
当然、光秀もそのことは知っていたはずです。

本能寺の周辺屋敷のつながり等の情報や、情報伝達網、京におけるスパイ活動の実態などを、首謀者は集めていたことでしょう。
もちろん、信長親子の行動スケジュールとあわせて、本能寺の兵力の最新状況が、首謀者には必要だったはずです。

寺が陰謀暗躍の拠点に使われることなど、日本史では当たり前のことですね。
男性スパイの変装の半分以上は、僧や修験者などです。
女性スパイの場合は、たいがい侍女や遊女、物売りなどです。

* * *

この「竹生島事件」の真相は、よくわかっていません。
この行為が綱紀粛正のためでしたら、信長は、情け容赦ない無茶苦茶な暴君です。
でも、彼は能無しのアホな暴君ではありませんでしたね。

安土城内の汚点が、史料にあえて書き残されていることを考えると、何か知られていない裏事情や、いきさつがあるような気がします。
ひょっとしたら、「本能寺の変」につながる、重大な内容だったのかもしれませんね。


◇桑の実、拾(ひろ)た

さて、今回の上洛作戦の時に、信長はこの桑実寺で、義昭と再会しましたが、「桑の実」を拾ったでしょうか。
その実は何色だったでしょうか…。

信長は、六角氏に向かって「私はあなたを助けません。私はあなたよりも生き延びます」と言ったのかどうか…。
実際には、「あなたよりも生き延びます」には、なりませんでしたね。

前述の竹生島事件は1581年ですので、「本能寺の変」の前年です。
まさか、この事件の時に、信長は、帰蝶と共に「桑の実、拾(ひろ)た…」。
あなたと共に死にます…。

桑の実、クワバラ、クワバラ…。

安土城のすぐ近くにあった、桑の実のお寺でした。
安土城復元天主「信長の館」に観光で行かれた際は、すぐ近くのこの桑実寺にも、ぜひ…。

そして、どうぞ 拾て…。

* * *

いずれにしても、1568年9月22日、この近江国の桑実寺で、信長と義昭は再会しました。
京の目前です。

いよいよ京に向けて、二人は、また別々に分かれて出発します。
「それでは、次は京で…」。

この続きは、次回コラムで書きます。

* * *

コラム「麒麟(45)明暗の城(京への道2)」につづく。

 

2020.11.6 天乃みそ汁
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