NHK大河ドラマ「麒麟がくる」。織田信長の堺・名茶器・今井宗久・朝倉義景・武田信玄・若狭武田家にからむ訴訟の一件。若狭湾の恵みと鯖街道。若狭ひとしお。浜焼き鯖・鯖寿司・いづう。松嶋の茶壺・紹鴎茄子茶入・武野紹鴎・武野宗瓦。京都府 京都市 福井県 小浜市 敦賀市 堺市

 

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麒麟(48)若さの至り


前回コラム「麒麟(47)見事な時間かせぎ」では、本圀寺の変って 何か変、三好三人衆を誘い出せ、信長の二条城、松永久秀のクリスマス・プレゼント、織田信長の戦術、朝倉義景と若狭武田家、二条晴良と摂津晴門、東本願寺と西本願寺などについて書きました。

そのコラムの中で、1568年12月頃の、信長のある一件のことを少しだけ書きました。
その文章を転載します。

「今井宗久(堺の豪商・茶人)が、信長に後に名茶器を献上したと書きましたが、ひょっとしたら、これには何か裏があるのかもしれません。
そうであれば、信長の政治力の巧みさを示す一例かと思います。
はじめから、信長は名茶器が目当てであったわけではない気がします。
この12月のある一件は、後の織田信長と朝倉義景・浅井長政の何度もの戦いに大きく関わる内容だと、個人的には思っています。
そうでなければ、信長自身が、わざわざ関わるような一件ではないと思います」。

今井宗久とは、商業自治都市として大繁栄した「堺」の町の中心人物である大豪商です。
茶人としても有名です。
この頃の多くの豪商は、文化的素養として「茶の湯」をたしなんでいます。
文化的・芸術的嗜好とあわせて、まさに政治利用、ビジネス利用、既得権維持の道具が「茶の湯」でした。

私は個人的に、残された史料のこの案件の文章を、そのまま鵜呑みにすることはできません。
信長は、この一件を、まさに政治利用したような気がします。


◇父の茶器を返せ

この一件とは、やはり堺の豪商で茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう)の息子(実子かどうかはわかりません)の武野宗瓦(たけの そうが)が、今井宗久に「親父の宝の茶器を返せ」と、信長のもとに訴状を提出した件です。

信長が両者の間に入って、何らかの裁定を行ったようです。
裁定というよりも、信長に都合のいい結論にしたように感じます。

先に、信長にとっての最終的な成果を書きます。
信長は、天下三壺のひとつの「松嶋の茶壺(ちゃつぼ)」と、名茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう)の「紹鴎茄子茶入(じょうおう なす ちゃいれ)」を手に入れ、さらに今井宗久を屈服させ、堺という大商業都市を手に入れます。
そして、もうひとつ、ふたつ…。

* * *

この武野宗瓦(たけの そうが)は、信長の上洛作戦中に、有力者たちが信長に貴重な品々を献上する、いわゆる「名物狩り」に従わなかったというのです。
この「名物狩り」は、単なる贈り物行為ではありません。
屈服、服従の証しです。
ようするに、武野宗瓦は、信長に屈しない堺の豪商だというのです。

個人的には、この時点で本当に、彼が献上しないとは考えにくい気がします。

* * *

今井宗久や千利休は、武野紹鴎(たけの じょうおう)の「茶の湯」の弟子たちです。

「名物狩り」に屈しない、師匠の紹鴎の息子の命を、信長から守るために、この二つの茶器を宗久らが強奪し、それを信長に献上し、武野宗瓦の命を許してもらおうとしたというのです。

千利休は、後に、わがまま(?)な宗瓦を、茶道界から追放したともいわれています。
宗久や利休が、そんな宗瓦を、この時点で本当に助けたのでしょうか?
助けてあげたのに、もうどうにもならないとあきらめて、後に追放したのでしょうか?
いずれにしても、大師匠の息子を追放とは…、相当な訳がありそうです。

* * *

よくよく考えてみると、宗久は、自分の所有物のお宝を、信長に献上したのではありません。
まんまと、今はなき師匠の家族のお宝を、献上したかたちにも見えます。
他人のふんどしで、すもうをとるようなものです。

松永久秀が自身の所有物の茶器「九十九髪茄子(つくもかみなす)」を献上したのとは、まったく意味が違います。
どん欲な商人だから、当たり前の行為なのか、卑怯な行為なのか…、その話しはここでは論じません。

個人的な考えですが、宗久が武野家から強奪して献上したことも、宗瓦がその件を自ら訴えたことも、なかったような気がします。

今井宗久が、宗瓦を説得して、名茶器を彼から信長に献上させたのならともかく、強奪して献上しようとするなど、宗久の立場上、このような手段をとることがあるでしょうか…?
それに、豪商とはいえ、いち商人の宗瓦が、そのことで信長に訴状を提出するなど、そうそうできる話しではないとも感じます。
それでは、この案件はいったい何なのか…?

* * *

信長の狙いは、堺の権力をまとめる今井宗久という人物を屈服させ、自治都市「堺」の覇権を握るために、この宗瓦に訴状をつくらせたのかもしれないと、個人的には考えています。
信長は、宗久に、根も葉もない「ぬれぎぬ」を着せたのかもしれません。

相手が武士なら、攻撃に武器を使うのでしょうが、商人であり茶人を相手に、茶器で攻撃を仕掛けたのかもしれません。

家臣ではなく、信長自身が「オレが裁く」と言うとは、前代未聞です。
何か裏がありそうです…。

* * *

信長は、この訴状に対して、今井宗久側を勝たせます。

こんなことを信長は言ったかもしれませんね。
「宗久よ、勝たせてはやる(堺でのビジネス的地位と、茶道界トップの地位を保障してやる)が、そのかわり、わかっているだろうな…」。

信長は、今井宗久の地位や権力を保障し、守ってあげるかわりに、事実上の、商業都市「堺」の覇権、茶道界の実権、さらには茶器の価格(値踏み)までも、手中にしたのかもしれません。
結局、問題の茶器も、信長の手に渡りますが、誰も文句は言えないはずです。
「宗久よ、お前が盗んだものだろ…ワシ(信長)が預かる」。

「名物狩り」の実態とは、ひょっとしたら、こんなことのオンパレードだったのかもしれませんね。
もしそうだったなら、現代の悪党どもにも引けを取らない、相当な手口ですね。

織田家の家臣たちの手前、内々に一部の人間だけで処理していったのかもしれません。
信長のこれまでの数々の陰謀戦術から考えれば、何の不思議もありませんね。


◇野心家は使える

実は、この武野宗瓦(たけの そうが)という人物は、商人であり茶人なのですが、武士になることを目指した野心家だったようです。
この一件で、いったんは衰退しますが、後に石山本願寺と組んで武士になることを目指したりもします。
ですから、信長と秀吉の両方から目をつけられ、追いやられます。

後に、この宗瓦に、徳川家康が目をつけます。
秀吉の死後、徳川家康は、この武野宗瓦を堺に呼び戻し、豊臣秀吉の息子の秀頼の話し相手役に抜擢し、大坂城に潜り込ませます。
さすが天下人になるような人たちは、すごい陰謀戦術を行いますね。

* * *

私は個人的に、この一件で、信長が今井宗久側を勝たせただけではない気がしています。
表向きには負けた側の武野宗瓦にも、何らかの条件で話しをしたのではないだろうかと思っています。
後に、石山本願寺と宗瓦が手を組むのは、想定外だったかもしれません。

なにしろ武野宗瓦は、商人・茶人から、武士になることを目指すほどの野心家です。
信長は、彼の素性と野心を知り、何かに利用しようとしたのかもしれません。

そもそも、武野宗瓦は、豪商という地位も富も持ちながら、どうして武士になることに、こだわったのでしょうか…。


◇武士に戻る

実は、この武野紹鴎(たけの じょうおう)と宗瓦(そうが)の親子の先祖は、あの甲斐国(山梨県)の武田家で、若狭国(福井県西部)の武田家に武士として仕えていたといわれています。

先祖は、「応仁の乱」の戦闘に参加したともいわれていますので、何かの折に、中国地方の武田家のところに甲斐国から援軍としてやって来て、戦に敗れ、そのまま仕方なく下野(げや / 民間庶民に下ること)したのかもしれません。
この「武野」の姓は、「武田家が下野(げや)した」ことを意味しているともいわれています。

* * *

前回までのコラムでも書きましたが、武田家とは、安芸国(広島県)と甲斐国(山梨県)に派遣された、源氏の屈指の武力一族で、その安芸国の武田家が若狭国(福井県西部)に移転したのが若狭武田家です。

武野宗瓦の、ほんの少し前の先祖は、その辺の普通の武将ではありません。
名門の武田家なのです。
この頃、武田信玄の武勇のことは、彼もよく知っていたことでしょう。
状況や生まれが違っていたら、自分も、武田信玄のような存在になれたのかもしれないと、考えたかもしれませんね。

「商売や茶など やっている場合ではない。もう一度、武士に戻る」…、わかるような気もします。

下克上の戦国の世になり、同じような境遇の者たちは、山ほどいたのかもしれませんね。
だいたい秀吉は、何もルーツを持たなくても、武士を目指しましたね。

「オレ(宗瓦)は、商人や茶人から武士になる!」。

武野宗瓦には、決して不可能な道ではなかったと思います。
姓を「武野」から「武田」に戻す日を夢見ていたことでしょう。

ある意味、千利休も同じ野心家タイプだったのかもしれませんね。

* * *

足利義昭が奈良から脱出する際に、まず向かおうとした先が、実は、若狭国(福井県西部)の若狭武田家です。
それが叶わず、お隣の越前国(福井県東部)の朝倉氏へ、それもダメで、美濃国・尾張国の織田信長のもとに向かい、信長とともに上洛作戦を決行したということです。

もう少し若狭武田家のことを書きます。


◇名門の復活と苦悩

信長の時代の少し前、「応仁の乱」の時、細川勝元の東軍の中で、若狭武田家の武田信賢(のぶかた)は、なんと副将です。

「応仁の乱」の話しは複雑すぎるので割愛しますが、ようするに、武田家の本家の安芸武田家は、周囲の西軍勢(後の毛利勢ら)により、安芸国(広島県)から追いやられ衰退しましたが、若狭国(福井県西部)に移っていた一部の武田家が武力で盛り返し、大きな地位を取り戻したということです。
そして、甲斐国(山梨県)の武田氏と同格の地位まで戻ってきます。

若狭湾沿いの地域は、西から丹後国(京都府北部)、若狭国(福井県西部)、越前国(福井県東部)という三つに分かれていましたが、この中の丹後国には「一色(いっしき)氏」という一族がいました。
「応仁の乱」の時は、若狭武田家の敵側の西軍です。

若狭武田家と、丹後国の一色氏は、もともと宿命のライバルです。
死闘の歴史があります。
いつの時代も、国が隣り合うとは、時に、そうしたものです。

一色氏も、名門の源氏一族で、もとは三河国の吉良氏から生まれてきた一族です。
その話しは、複雑ですのでこのくらいで…。

* * *

越前国にいた斯波(しば)氏も、将軍を守る名門源氏でしたが、家臣の朝倉氏に陰謀と武力で乗っ取られましたね。
織田氏も斯波氏の家臣で、朝倉氏の同僚でしたが、たまたま尾張国(愛知県西部)に配属されていたため、朝倉氏に倒されることはありませんでした。
織田氏が越前国に残っていたら、おそらく朝倉氏に滅ぼされていたでしょう。

織田氏は織田氏で、尾張国でチカラをつけて、はい上がり、尾張国内の斯波氏を追い出しました。
織田氏にとっても、ある意味、若狭湾の地は故郷(ふるさと)なのです。

* * *

もともと、 軍事的にも、経済的にも重要で、水産資源の豊富な若狭湾という地域を、ひとつの一族が制圧するには、相当なチカラが必要ですね。
三つに分かれるのも当然です。

今は、若狭湾は、福井県と京都府の二体制ですね。
今だって、どちらの県も、若狭湾の領地を絶対に減らしたくはないはずです。

今、石川県の金沢から北陸新幹線の延伸工事中ですね。
てっきり、福井県敦賀市から琵琶湖西岸を通り、滋賀県大津市あたりに向かうと思いきや、福井県小浜市に向かい、そこから南下して京都市に向かうようです。
近江国(滋賀県)は、山城国と丹波国(京都府中南部)に敗れたのか…。

近江国だけでなく、かつての一色氏の丹後国(京都北部)も悔しいでしょうね。
小浜に先を越された…。
もし丹後国に新幹線が向かったら、それは山陰への足がかり…。

今の京都府の武将であれば、絶対に次も、京都府内の舞鶴市と丹後国を通過させ、山陰に新幹線を向かわせたいでしょう。
ハブ駅はあくまで京都駅です。
大阪府・兵庫県連合軍と京都府の戦いになる…?

どこの県もそうですが、かつてJRや国鉄の在来線が通り、大きく栄えた地域が、新幹線の通過がなくなったせいで衰退していった例は山ほどあります。
新幹線が県内のどこを通るかは大問題です。
まるで戦国時代の勢力争いのようですね。

* * *

さてはともあれ、地位や権力を取り戻した若狭武田家でしたが、隣国の朝倉義景に1568年8月、侵攻されました。
まさに、信長と義昭が上洛作戦を行っている最中を狙います。

朝倉義景からしたら、朝倉氏内部の抗争劇もありましたが、義昭を連れて上洛することよりも、まずは自身たちによる若狭国の奪取が先です。
「上洛なんて、いつでもいい…」。

実は、朝倉義景の生母「高徳院」は、若狭武田家の娘です。
昔から、朝倉氏の敵国への侵攻とは、敵国に姻戚関係をつくり入り込み、少しづつ家臣を調略し、ある段階で一気に飲み込むということが多くありました。

ところが今回は、朝倉義景は、若狭武田家を滅亡させません。
通常の武将の侵攻であれば、敵の主家は滅亡させます。

義景は、若狭武田家の当主の武田元明(たけだ もとあき)を、騒動の中で連れ去り、越前国の一乗谷で軟禁状態に置きます。
ようするに、人質です。
とはいえ、生母の親族でもありますから、厚待遇です。

* * *

武田元明の父が、武田義統(よしずみ)で、祖父は武田元光です。
朝倉義景の正室の高徳院は、この武田元光か、その父の元信の、どちらかの娘といわれています。
武田元明は子供の頃に、高徳院と顔をあわせていたことでしょう。
元明は、敵国ではあっても、自身の親族が最重要の地位にいる国にいたのです。


◇気になる信玄

私の個人的な考えですが、朝倉義景が、若狭武田家を滅亡させなかった最大の理由は、生母の存在ではなく、甲斐国(山梨県)の武田信玄にあると思っています。
この時代のまさに最強クラスの武将が信玄です。
信長でさえ、恐怖を抱く武将です。

もし、信玄の甲斐国が、この若狭湾の地域の近くにあったなら、すぐに若狭武田家の救出に来たことでしょう。
甲斐国(山梨県)から、この若狭国に来るには、敵の上杉、織田、徳川の地を通って来なければなりません。
それに関東では、上杉、北条、今川と戦闘中です。
信玄が、遠い甲斐国から若狭国に駆けつけてくることなど不可能です。

とはいえ、信玄は、いずれ近畿の地域にやって来ることが、十分に予想できます。
朝倉氏から見れば、武田信玄と組めば、美濃国・尾張国の信長を挟み撃ちにできます。

もし、名門の若狭武田家を滅亡させてしまったら、武田信玄の怒りを買うのは目に見えています。
信長と同様に、信玄への恐怖を、朝倉義景も感じていたのではないかと思います。

* * *

信玄は、この時に、義景に手紙を送ります。
「若狭武田家の武田元明を保護し面倒みてくれて、ありがたい。よろしく頼む…」。

よくよく考えると、それはそれは恐ろしい意味を含んだ内容です。
武田信玄の威圧感は、ものすごいものがありますね。

信長からすれば、「若狭武田家を味方にし、義景のこの弱みを突くぞ」…でしょうか。
それに、もし信長が、この若狭武田家を保護することになれば、武田信玄に恩を売ることにもつながるかもしれませんね。


◇若狭武田家の復活のため…

若狭武田家の一族や家臣たちは、当主を人質に奪われ、相当な動揺の中にあります。

後に家臣の一部の「若狭衆」である逸見昌経・栗屋勝久・熊谷直澄・松宮玄蕃らは、信長の調略で織田軍に入っていきます。
いずれ元明自身も織田方に入ります。

この頃は、信長派の者たち…、朝倉派の者たち…、両派が入り乱れた状態の若狭武田勢でした。
信長からしたら、この状況は、「しめしめ…」。

* * *

後に、この若狭武田家と、武田元明の正室の実家の京極家、そして、この若狭衆の面々が、明智光秀に味方して、秀吉と戦うことになります。

ちなみに、武田元明の正室は、近江国の京極家の、あの京極竜子です。
後に豊臣家の女性ナンバー3にまで駆け上がった人物です。

秀吉が光秀に勝利したことで、窮地に立たされた若狭武田家と京極家を、秀吉を「とりこ」にさせた美貌の京極竜子が救うというストーリーです。
さすがの竜子も、あの淀君のしたたかさには、かないませんでした。

* * *

「本圀寺の変」の時に、京の本圀寺で義昭を必死に守ったのも、若狭武田家の武士たちでしたが、それは将軍を守るというよりも、自身の若狭武田家を存続させ守りたいという一心からだったのかもしれません。

信長は、この若狭武田家を利用して、朝倉攻撃の計画をたてることを考えたのだろうと思います。

前述の武野宗瓦は、堺の商人で茶人ではありますが、少し前の先祖は、甲斐武田家にも、若狭武田家にもつながっています。

「宗瓦をワシ(信長)のもとに呼べ! 奴なら、若狭国のこと、鯖街道(さばかいどう)のこと、若狭武田家の裏の事情や人間のことを知っているだろう。甲斐国につながりは残っていないのか…」。

あの信長が、武野宗瓦を放っておくとは思えません…。


◇茶器なんてどうでもいい…

信長は、この上洛作戦を成功させた後に、越前国(福井県東部)の朝倉義景を攻撃する意思を持っていたのは間違いありません。
それには、朝倉義景によって若狭国を略奪された状況にある、若狭武田家を利用する腹積もりであったのだろうと思います。

この茶器を巡る騒動により、信長がチャンスを与えた武野宗瓦を使って、若狭武田家を、信長により近い味方に引き込む材料のひとつにすることができるような気もしますね。
もちろん、茶器の一件だけでは不足でしょうが、堺と信長と若狭武田家を結びつけることが可能になるかもしれません。

* * *

堺は日本有数の商業都市です。
「蛇の道はへび」とよく言いますが、「商売の道は、やはり商売人に」ということでしょうか、信長は京から若狭国に続く、いわゆる「鯖街道(さばかいどう」の街道ルートをものにしたかったように感じます。

個人的な見解ですが、信長が若狭武田家をあえて味方に引き込もうとしたのは、朝倉氏と若狭武田家の分断という狙いもあるでしょうが、甲斐国(山梨県)の武田信玄への対応策として、さらに朝倉攻撃のための進軍ルートとして、この鯖街道を確保したかったのではと思います。

* * *

信長は、強大な武田信玄とは、戦いたくはなかったはずです。
前述しましたが、朝倉義景も、武田信玄への恐怖という点では、信長と同じだったと思います。

信長にとっては、若狭武田家が今は非力であっても、もし甲斐武田家と手を結んで、織田家に敵意を向けてきたら、まさに挟み撃ちになります。
ここに、もし朝倉氏が加わったら、畿内周辺の武将たちの動向は一変するかもしれません。
近江国の六角氏は、チカラで黙らせてあるだけの状況です。

もし、足利将軍家を古くから支えてきた源氏勢力が、武田家を中心にひとつに結集し、向かってきたら、信長はひとたまりもありません。
それを防ぐには、まずは若狭国にせよ甲斐国にせよ、武田家が信長の味方になってもらうか、静観していてもらって、まずはその中核の場所にいる朝倉氏を消滅させる…、そうでないと心配で眠れませんね。

* * *

堺の豪商の今井宗久(いまい そうきゅう)が、天下三壺のひとつの「松嶋の茶壺(ちゃつぼ)」と、名茶人の武野紹鴎(たけの じょうおう)の「紹鴎茄子茶入(じょうおう なす ちゃいれ)」を、信長に献上したとされる行為は、宗久の茶の師匠である武野紹鴎の息子の「武野宗瓦」の命を助けるため…、そんな話しは戦国時代でなくとも、信用できるものではありません。

「そういうことにしておけ…」。

この茶器をめぐる一件の真実は、よくわかりません。
個人的には、信長の何かの策略が秘められているのかもしれないと感じています。


◇若狭ゆえ

さて、皆さんは、若狭湾と聞いて何を思い起こされますでしょうか?

越前ガニ、鯖(さば)、アマダイ…。
まさに若狭湾の高級な恵みですね。

私は、地図を見るたびに、若狭湾の凹形の地形が不思議でなりません。
あれだけ、ギザギザに切り込まれた、大規模なリアス式海岸もそうそうありませんね。
相当な波のチカラです。
若狭湾の沖の海の深さも尋常ではありませんね。

でも、この湾と海があるからこそ、カニも、サバも、アマダイも獲れます。
今も昔も漁業による経済効果は絶大ですね。

* * *

この不思議な湾の形状は、軍事的にも、相当の効果です。
明治時代に、日本海軍は、若狭湾の中にある、さらに奥まった、もうひとつの若狭湾のような舞鶴の地に、艦隊の大軍事基地をつくります。
ロシアからの攻撃に備えたもので、日本海での海戦では、日本艦隊のほとんどがこの若狭から出航していきます。
今現代でも、若狭湾の軍事的な重要性は変わっていませんね。
こんな場所に、原発が多いのも気にはなりますが…。

* * *

個人的に私が、若狭湾と聞いて思い出す武将は、この若狭武田家と朝倉義景です。
今回の大河ドラマ「麒麟がくる」では、朝倉義景の顔に、あまりにも長い、そして妙な形のクチひげがついていますね。
ちょっと笑ってしまいそうなヒゲです。

私はこの顔を見るたびに、若狭湾のアマダイの顔を思い出します。
冒頭写真が、そのアマダイです。
「精悍(せいかん)な顔立ち」とは到底言えません。
どう見ても「マヌケ顔」の魚です。

俳優のユースケさんの顔は、まったく逆ですが、このヒゲづらの義景は役づくりですね。
それにしても長いヒゲ…、信長の陰謀か?

* * *

この若狭湾のアマダイは、「若狭グジ」と呼んだほうが、想像しやすいかもしれませんね。
あの高級魚のアマダイが、若狭では「グジ」と呼ばれます。
身がグジグジしているとか、グジグジと声を出して鳴くとか、由来はよくわかりません。

グジ顔の朝倉義景…、若狭の名将ですね。
武田元明…、グジグジ鳴くな!
「サバ女」じゃなくて、才女(さいじょ)の竜子を見習え…。


◇若狭の一汐

若狭といえば、魚の「鯖(サバ)」も超有名ですね。
私は、小浜市(おばまし)の「浜焼きサバ」という串に刺さったサバ料理を食べたことはありませんが、その美味しさの噂をよく耳にします。

そのかわり、私が京都にいた頃は、若狭湾のサバでつくった「鯖寿司」をよく食べました。
個人の感想ですが、京の鯖寿司は、日本一の鯖寿司だと思います。
京の鯖寿司は、大人になってから初めて食べましたが、ちょっとグジグジ泣きそうになりました。

京の超有名店「いづう」さんの鯖寿司も絶品で、よく食べました。
「いづう」さんの店の創業は1781年ですから、徳川10代将軍 家治の時代です。
8代将軍の吉宗が死んで30年後くらいです。
結局イメージしにくいですが、240年ほど前のことです。
初代は魚屋さんで、「いづみや卯兵衛」さんがご主人だそうです。
京都の老舗は、歴史があり過ぎて…ひとしお!

* * *

実は、大昔から若狭湾の魚(サバ、アマダイ、カレイ、キンメダイほか)は、京に運ばれ、絶品料理に生まれ変わってきました。
魚の鮮度保持と、おいしさを引き立てるため、若狭の地で塩をちょっとだけすり込むのだそうです。

この塩が、若狭から荷車で京に運ばれる一日二日の間に、魚の味をさらに上質に引き上げたそうです。
この上質の塩加減を「若狭の一汐(ひとしお)」と呼ぶそうです

マーケティング的にも、なんと素晴らしいネーミングでしょう。
さすが、品の良い、京のセンスですね。

* * *

もちろん、若狭湾には、日本海側の各地の湊(港)から来る船で、他の多くの産物が集まり、若狭と京を結ぶ陸路の街道は、まさに大物流ルートです。

越後国(新潟県)の上杉氏が裕福な大武将になれたのも、越後国の海産物や上等な布製品を大量に若狭を通じて京に運んで、売りまくったからです。
京という大消費地は、大坂湾ルートと、この若狭湾ルートの二つの大物流ルートで支えられていました。
この二大ルートと、陸路の奈良ルートと近江国ルートをおさえたら、京の支配は万全ですね。

この若狭湾と京を結ぶルートこそが、「鯖街道(さばかいどう)」と呼ばれる、琵琶湖の西側地域の街道ルートです。
この街道はいくつもの、補完的なルートを持っており、どこかのルートが遮断されても何とかなります。

この鯖街道を、軍人であり、実業家である信長が放っておくはずがありませんね。
京から見て、この鯖街道の行きつく場所にいたのが、若狭武田家ということです。


◇鯖街道を手に入れろ

「とにかく、ワシ(信長)は、若狭武田家を味方にし、鯖街道を手に入れる!。邪魔な越前国の朝倉をたたきつぶすぞ!」。
「その先に、能登(石川県)があり、越中(富山県)があり、越後(新潟県)の上杉謙信がいる」。
「甲斐国の武田家は、若狭武田家のチカラで何とかならないものか…」。

信長は、後に、琵琶湖の西側にある鯖街道を突き進み、若狭湾に向かい、そこから朝倉攻撃を行います。
その後の信長の窮地でも、この鯖街道の幾本もの複雑なルートが、信長に味方します。
信長さん…サバやアマダイに助けられた…。
たしかに、信長さんの顔も魚系…?

そのお話しは、またあらためて書きます。

* * *

その前に、次回コラムでは、信長が、築城中の二条城で行った「大イベント」のことを書きます。
建築現場も、信長にかかったら、政治の場であり、大イベント会場ですね。

この演出力が信長です。
実直すぎる光秀も、少しは見習ってほしいものです。

そして、この1568年の翌年の1569年頃から、信長の人物像が変化していきます。
大河ドラマ「麒麟がくる」でも、信長の雰囲気が変わってきましたね。
光秀も、理想主義者から、現実的な志向に変わってきました。

次回コラムでは、信長の変化についても書く予定です。


◇若さゆえ

さて、冒頭で書きました、堺の豪商で茶人の武野宗瓦(たけの そうが)は、父の武野紹鴎(たけの じょうおう)がかなり高齢になってからの子供のようです。
その若さゆえに、野心も行動も大胆だったのかもしれません。
父の古くからの弟子で、年齢的にも大先輩の今井宗久や千利休らに、反発心を燃やしていたのかもしれません。
名門武家の武田氏の血をひく者という自負もあったでしょう。

そこには、「若気(わかげ)の至り」ではない、「若さの至り」という「至上の若狭武田家」への思いがあったのかもしれませんね。
武野は、若狭に至るのか…。

♪ワカサゆえ~、苦しみ~
♪ワカサゆえ~、悩~み~

この曲…、ちょっと塩漬けされ過ぎか…。

* * *

 

(追伸)
アボカドさんが、アメブロに、この曲を載せてくれました。

感謝いたします。

 

コラム「麒麟(49)水に浮く石、沈む遺志」につづく。

 

2020.11.26 天乃みそ汁

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